第一話 風の祠堂(しどう)
8月初旬の蒸し暑い夕方、アパートの自室に帰った今井靖時は、新潟県教育委員会から届いた封書をおそるおそる開封した。
“――あなたは、先に実施した標記の第1次試験の結果、第2次試験の受験資格を得ましたので通知します”
その文字列を見て胸をなで下ろした。
今井靖時は十日町市内の小学校で非常勤講師をしている。転職して教員の道に進んだため、30歳にして県の正規採用試験を受験しているのだった。教員採用試験の1次試験は一般教養や教育学の筆記テストや面接試験だが、2次試験には体育やオルガンの弾き歌いなどの実技があり、仕事の合間を縫って試験対策をしていた。
翌日の土曜、靖時は市営プールへ出かけた。
2次試験の体育課目には水泳があるのでその練習である。補教、いわゆる担任教師の代理で水泳授業は担当したことはあるものの、子供たちを指導していてはのんびり泳ぐ暇はない。
炎天下、プールサイドで準備運動する。靖時の姿は中肉中背、適度に引き締まった体型だった。一応は好青年の部類に入る顔立ちをしている。
いつも通り準備体操をし、泳ぎ始める。
のんびりと25メートルをクロールで泳ぐ。
一往復をターンした時、突如、今井は心臓に強烈な痛みを感じた。
普通に足が着く深さなのに、底なしの深淵に引っ張られるような感覚を覚えた。
体を動かすこともできない。
「うぐ、ゴボッ……」
急激に意識が遠のくのを感じた。
* * *
固い所に寝かされている、ということはプールサイドか?……それにしては夏の熱気も無い。薄目を開けてぼんやりと見たのは灰色の天井だった。それとも病院だろうか?病院のベッドが石みたいに硬いはずはない。
意識がはっきりとしてきて、大理石でできた祭壇らしき所に寝ているのに靖時は気づいた。薄暗いが、天井のステンドグラスから光が漏れているので周囲は見える。石造りの部屋で、学校の小教室くらいの大きさだ。
体を起こして祭壇に腰掛ける。白い浴衣のようなものを身につけている。
しかも左前だ。頭には三角布。足には藁草履。どう見ても病院用の貸しパジャマではない。まるでこれでは、葬式の遺体じゃないか。
——遺体だって?
その瞬間、靖時の頭に静止画像や動画が入り混じった光景がフラッシュバックした。
水泳の最中に心臓麻痺を起こし溺死、
というのが自分の最期だったらしい。葬儀会場に喪服をまとった家族や親戚が集まり、薄墨色の袈裟をまとった僧侶がお経を唱えている。ロビーに置いてあった地元新聞には ”教員志望者、プールで死亡”という、ダジャレとしか思えない見出しまで付けられてる。そんな火葬場を自分が上空から眺めてる風景に、どうやら自分が死んだらしいというのは自覚できた。
「僕は、死んだのか……」祭壇に寄りかかって独りごとを言う。
灰色の天井にある奇妙な模様はレリーフで、石灰岩らしき天井や壁には渦巻と風に舞い散る木の葉が石に刻まれ描かれている。青銅製の扉があった。
自分の意志とは違う何かに導かれるように扉の前に立つと、どこからともなく吹いた風と共に扉が開く。
目の前には新緑まぶしい森が広がっていた。
同時に草むらに立つ二人の男に気づいた。
「見よ、夢に見た通り客人が現れたぞ。精霊使いかもしれん」貴族風の中年男性がいう。
「お館様のおっしゃる通り、異界より来た者に間違いございません。風の祠堂は精霊の力によって封印されておりましたゆえ」灰色のローブまとったもう一人の老人が言った。杖をついており、その先端が光っている。「クリスタルも光っております。精霊感応に間違いありません」
「えーと……」これはあの世の住人か何かですか?靖時は困惑した。三途の川とか閻魔様とか、仏教徒らしい死後の世界ならばまだしも、目の前では妙高高原みたいな森で中世っぽい身なりの男二人が訳のわからない会話をしているのだ。
「ようこそ精霊使い殿。我は当領地を治めるカール・フラットヒルと申す者」貴族風の中年男性は恭しく右手を挙げた。
「執事のエールリッヒであります」ローブ姿の老人も一礼する。
「百人隊長、精霊使いを屋敷にご案内しろ」
「こちらへどうぞ」屈強な兵士に言われるまま、靖時は屋根のない簡素な馬車に乗せられた。
案内されたのは、ビザンツ様式風の小城だった。軽石凝灰岩でできた外壁は砦のようにも見受けられた。いわゆる封建主義社会の地方領主なのだろう。
靖時は質素な広間で領主フラットヒルや執事と面談していた。長テーブルには執事エールリッヒも同席していた。
「――ある夏の日に泳いでいたところ溺死してしまい、気がつけばあの石室で目覚めていました」靖時は訥々と語った。
「風の祠堂、我々はそう呼んでおる。異界の地で死して開かずの扉からこの国に現れるとは、ヤストキ殿はまさしく精霊使いだな。のう執事」
執事の老人はうんうん肯いている。
「いかにも。風の祠堂は十界の門に通じております。古の書物にはその者、白き衣を身にまとい開かずの祠堂より現れる、とある。ヤストキ殿は言い伝えにいう精霊使いでございましょうぞ」
病院の霊安室で着せられたであろう死に装束がずいぶんと過大評価されたものだ。
ヤストキは少し周りを見る心の余裕も出てきた。そして、廊下側の出入り口から小さな影——銀色の長い髪やスカートが翻るのが見えた。
数人の女児が大広間をのぞき見ているのである。
「風の祠堂から現れし者は、風の精霊の加護により風を操れると聞く。左手を出して風を起こしてみよ」
ヤストキはひょっとすると何か起きるかもと思い、左手を前に出してみた。
しかし、何も起きなかった。
しばしの沈黙。
「私も若き時に、農賢者の降臨を目の当たりにしました。身なりも同じです。いずれ魔力の覚醒もしましょうぞ」
「執事がそう言うのなら気長にまつとするかの。さて、ヤストキ殿には政の 手助けもしてほしいのだが、生前は何の職務に就いておられた」
”新潟県内の小学校で非常勤講師をしておりました”と言いかけたが、相手に通じないかと思い、
「生前は子供たちの教育を生業としておりました」
「ほう、教育者か。あいにく我が息子は成人し都で出仕しておるし家庭教師は——
その時、若いメイドがお茶を運んできた。チラチラ見ている子供の様子に気づくと女性は廊下に「のぞいちゃダメです、お外で遊んでなさい」
脱兎のごとく退散する女児3人。
「見つかっちゃった」「わー」ドタッ。「ミルティア、カーシア、待って」
廊下から女児たちの声や足音が響く。
「いや待て、家庭教師の出番は無いが名案があるぞ」領主は口髭をなでながら笑顔で言った。
「とりあえず、祠堂の隣にある山荘を与えよう、ごゆるりと過ごされよ。何か必要な物があれば言うがよい」
「さっそくですが……ちょっと肌寒いので着替えがあればありがたいのですが」
面談後、白装束に草履姿の男は更衣室に通された。箪笥の横には野戦用の軽騎兵鎧が飾ってあり、それは骨董品というより普段から使っているように見受けられた。
「メイド長のカンナです。お着替えお持ちしますので、しばらくお待ちください」メイド長が箪笥から普段着らしい服を見繕った。
ヤストキは鎧でも着せられるのかと心配したが思い過ごしだった。ズボンを穿き、チュニックの上に紺色のケープを羽織る。ブーツもちょうどいい。着心地はまあまあ、現地の人に見えそうだ。
「まぁお似合いですわ」メイド長がいう。
着替えを終え領主の前に現れる。
「似合っておる。ところでおぬしのまとっている白装束をゆずってくれぬか?我が家の家宝としたい」
「はぁ、これで宜しければどうぞお納めください」ヤストキは折りたたんだ白装束と草鞋セットを領主に渡した。
領主が物珍しそうに布の材質を確かめていると、次の指示を求めてきた兵士の対応に出て行った。
外からは追いかけっこする女児たちの笑い声が聞こえてくる。服がいささかみすぼらしい。
「あの子たちは……?」窓の外を見ながらヤストキは執事エールリッヒに尋ねた。
「魔物との戦や疫病で親を亡くした孤児を、寛大なお館様はこの屋敷で引き取っておりまする。男児ならば都に送って、騎士見習いや商人見習いに預けるのですが……」
青空の下、屋根の無い荷馬車は田舎道をのんびり走る。
ヤストキは執事のエールリッヒと隣り合わせで座っていた。
道沿いの畑にはジャガイモやトウモロコシらしき苗が広がっている。ヨーロッパにトウモロコシがもたらされたのは15世紀末で、ジャガイモは16世紀末のはず。精霊だの魔力がどうの言う時点でおかしい。——死後に中世へタイムスリップしたのかと思ったらそうではなく、異なる世界に飛ばされたようだ。
荷台の後ろに銀髪の女児が一人乗っていた。足をぶらぶらさせている。
隣に座る老執事に色々尋ねる。
「この国の教育制度……子供たちはどこで読み書きを習ってるんですか」
「貴族が通う学問所は都にありますが。下々の者たちは家で読み書きを習っております。
孤児たちの読み書きは誰かが教えてると思うのですが、メイド長も忙しいので」
要するに、義務教育制度は無いらしい。
「精霊使い殿は変わった問いかけをなさる」
「なにぶん、職業病でして」
山荘にはすぐに着いた。
ヤストキが今朝現れたという風の祠堂、その隣に建てられた木造の小さな家が山荘らしい。
風の祠堂は切妻屋根の大理石造りの建物で外観の大きさは小教室ほどだった。扉の枠には唐草模様のレリーフがある以外は簡素な造りだ。扉には渦巻きに舞う葉っぱのような紋章が刻まれている。
「古代の精霊を祀った祠なのです。私も長くお仕えしていますが、中を見たのは指折り数える程度でして」
ヤストキは扉を開こうとしたがびくともしなかった。
老執事は次に山荘を案内した。
「先代のお館様が、別宅としてお造りになりました」
居間は12畳くらいで寝室2つにトイレや洗濯場、屋根裏部屋もあるようだ。
執事による家の説明や雑談をしている間、御者の兵士が荷馬車から野菜籠や衣類箱などを運び入れ、銀髪の少女は台所で何か作っているようだった。湯気が漂っている。
「精霊使い殿、領内は魔物もたまに出るので、物置にある短剣や弓は好きにお使いください。くれぐれも丸腰では森の奥に行かぬよう」
「ま、魔物って」
「ミルティアや、よろしく頼むぞい。では私は屋敷に戻りますゆえ」
「ええっ!?、ちょっと待……」
あっけにとられるヤストキを居間に残し、老執事を乗せた馬車は帰ってしまった。
「あの、しゃーまんさま」
「は、はい」振り返ると、銀髪の女児がいた。
白い肌にあどけない顔立ち。首には鳩の形をしたペンダントを身につけていた。着古されたワンピースは薄汚れていて所々破けている。
「メイド見習いのミルティアです。10歳です。お料理とかするよう言われました。えーと、がんばります」とおじぎをする。
「こちらこそ……」
釣られてヤストキもおじぎしてしまうのだった。
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