139話 魔神王バアルゼブルvs嵐神フルフル
地面に倒れたバアルゼブルは、己の血の海に沈んでいる。
少し前までは死にたくないと小さな声で、壊れたラジオのように繰り返し呟いていたが、それすらも聞こえなくなった。
「これで……これでようやくボクは、最強の恐怖の束縛から解放される! これでようやく、ボクは自由に生きられる!」
自分の正気と理性を代償にして身体能力と権能を強化していた神血縛誓を解除し、縛り破棄後特有の気怠さを感じるが、そんなものはどうでもいいフルフル。
今の彼女にとって重要なのは、全盛の四分の一程度とはいえど、最強とまで呼ばれたバアルゼブルを殺すことができたということだ。
本当はここで殺すのではなく、身動きができなくなるまで痛めつけた後に連れ帰り、長い時間をかけてじっくりと彼女の尊厳を破壊するつもりだった。
容姿は同性すらも振り返ってしまうほど美しく、背は大分高めだが緩急激しいメリハリの付いた抜群なスタイル。
声も、人間嫌いなフルフルでもずっと聞いていられそうなほど綺麗なもので、これらはきっと欲に忠実な男性であれば、興奮不可避なものだろう。
まずはバアルゼブルのこの器を、自身の手で徹底的に快楽を覚えさせ続けた後で、醜い欲の捌け口にでも使わせてやろうとでも思ったが、死んでしまったのでそれはもうできないだろう。
だが現代社会はネットが中心。
美琴という人間はアワーチューブという承認欲求の塊のような連中が動画を投稿したり配信をする場所で、ダンジョンを攻略する風景を配信している。
スマホのロックなんて突破するのは容易だし、彼女のアカウントを使って一糸まとわぬ姿にひん剥いた骸を辱める配信でもしてやろう。
そんなおぞましい計画を思い浮かべながらニタニタと笑っていると、頭の中から何かが消えるような感覚があり、同時に一つの疑問が浮かんでくる。
その疑問は美琴という人間に対するものであり、同時に自分の行動に対するものだった。
「……どうして、魔神の力をこんなにも、中途半端に覚醒させているの?」
覚醒条件は死ぬこと。文字通りの死を一度味わうことで、初めて魔神として完全に覚醒する。
フルフルは、器の名を城門姫乃は、自分がどのようにして死んだのかを今でも鮮明に覚えている。
高校生の頃にストーカーに付きまとわれた挙句誘拐され、自分の倍以上体の横幅がある男に、当時いた恋人意外に許したことがなかった体を一晩中汚された。
その挙句、処女ではないことに謎にキレたその男に首を強く絞められて殺された。
それがきっかけとなり姫乃はフルフルとして覚醒し、一度殺された恐怖、生理的嫌悪感を抱く男に犯されたことへの怒り、そして一晩中凌辱されたことで抱いた男性への激しい恐怖。
それら全てが全く同じタイミングで襲いかかり、覚醒したばかりで力が暴走して、その男を家ごと吹き飛ばした。
その後のことはよく覚えていないが、気が付いたら病院にいて、両親と当時付き合っていた恋人が泣きながらベッドの横にいた。
今でも元恋人とは連絡を取っているが、フルフルが抱く人間への嫌悪感と、姫乃が抱く異性への恐怖が重なっていることもあり、退院以降は一度も顔を合わせていない。
幸い、外に出なくても生活することはできるし、もともと絵を描くのが好きだったこともあってイラストレーターから始めて、今はアダルト漫画で生計を立てている。すさまじいまでの皮肉だ。
ここまでフルフルは、姫乃は明確に記憶がある。姫乃は、自分が嵐と雷の魔神フルフルであるという自覚もある。
なのに、この少女はどうだ。現人神であることは受け入れているようだが、魔神であることを、バアルゼブルであることをまだ明確に自覚しているようには見えなかった。
「……え?」
どうしてだと頭を捻っていると、弱っているとはいえど未だ支配下に置いたままだった空が、乗っ取られる。
空を支配できる魔神は少ない。
風を操る魔神バルバトスが、権能を使って台風を発生させることで空を支配したのかと見上げるが、台風のように目がそこに存在していない。
なら一体誰がこんな芸当をやってのけているのだと、正体を見極めるべく乗っ取られた空を見上げていると、黒雲から見えたのは、紫色の神秘的な雷だった。
♢
沈んでいた意識が急浮上する。
神血縛誓で強制的に眠りに就いたはずだが、完全ではないとはいえ覚醒した直後は全てがリセットされるみたいだ。
腹部に痛みはない。傷も癒えている。
覚醒条件が死ぬことなのだから、覚醒した後は体の状態は全て死ぬ前のものに戻るのだなと、一応は納得する。
フルフルはまだ、美琴が目を覚ましたことに気付いていない。
気付いていないというか、そもそも心の内側のあの部屋の中にいた時間と、外の現実世界の時間の流れは全く違うようで、美琴が死んだと思っているフルフルはようやく自由になれると喜んでいる。
体の状態は万全。一方でフルフルは、神血縛誓を解除したのか言葉は流暢なものに戻っており、正気を感じられる。つまり、神血縛誓を正しい手順で破棄した後特有の一時的な弱体化が入っている。
卑怯な手段ではあるが、向こうだって不意打ちしてきたのだし一回くらい不意打ちしたっていいだろうと、気付かれないように小さく息を吸う。
まず先に行ったのは、フルフルに支配されている空を乗っ取ることだ。
流石にばれるだろうと思っていたが、美琴が死んでいると本気で思い込んでいるようで、見向きもせずに周囲を見回して警戒している。
バアルゼブルから受け取った記憶から、他にも空を支配できる魔神がいることを知ったので、もしかしたら他の魔神が来たとでも思っているのだろう。
このまま神立の雷霆で奪い返せた空から雷を落とそうとするが、空を見上げていたフルフルが雲から見えた雷の色を見て全てを察し、持っている大剣を振り下ろそうと大きく掲げる。
それよりも早く、牽制する程度のつもりで雷を落としたが、想定した数倍威力が高い雷が落ちてきた。
自分でやっておいてなんだが、思っているよりも音と衝撃がすさまじく、アスファルトの地面に横たわったままびくりと体を震わせてしまう。
「あ、ぐぅううううううううううううう!?」
雷の直撃を食らったフルフルは苦悶の声を上げ、慌てて後ろに跳躍することで下がる。
そこで美琴はゆっくりと起き上がり、まずは右手でお腹を触って確認する。傷があるという感触はないが、血に濡れているのは変わらず生暖かくぬるりとした感触が返ってくる。
今着ているものは全て破棄しないといけないと、眉を下げる。
「どういうこと……? 確かに殺したはずなのに、どうして……!」
「簡単な話よ、フルフル。私の覚醒は中途半端だった。まあ、今もまだ中途半端なんだけど、お腹を刺される前の私とは思わないほうがいいわよ」
上に着ていたコートを脱ぎ、意識が飛んでいた数秒の間に消えていた七鳴神を再度展開する。
今までも十分、呼吸をするように自然に使えていたが、今は全てがかみ合っているかのように感じる。
まだ七割までとはいえ、実感する本当の雷神の力に少しだけ体を震えさせる。
ひっそりとバアルゼブルに感謝してから、さて、とフルフルに向きなおる。
周りを見ると、二人の戦闘の余波でアスファルトの地面がえぐれ、街路樹や生垣が炭になっているし、ちょっと離れた場所にあるビルには美琴が飛び込んでしまったために大きな穴が開いている。
アモンの時ほど広い範囲に被害が出ているわけではないが、まだあの時の傷がいえ切っていないうちにまたこんなことになってしまい申し訳ないと思っていると、何かがパキリとずれる、知らないのに知っている奇妙な感覚があった。
気が付けば、周りにあった全ての戦闘痕が一つ残らず消えていた。
美琴の記憶の中にはそれを当てるものはないが、与えられた記憶の中にそれができてしまう者の正体がある。
「来ているのなら助けて欲しかったわね、べリアル」
どこかに隠れているであろう、現代の姿を知らず全盛期の姿しか知らないベリアルに対して、小さな声で文句を言う。
彼女がここにいるのなら、少しだけ派手にフルフルに灸をすえてもいいだろう。
そう思い、数度深呼吸をする。
「蒼い空を雷雲で覆い、地に落とすのは慈悲の雨と裁きの雷」
心の内にいるバアルゼブルから授かった、神性開放。
元々は、それができるほど肉体が強くなかったため、解放するための言葉を教えられていなかったが、臨死を体験することでようやく教えてもらえた。
その方法というのが口付けだったのは、勘弁願いたかったのだが。
「善き人は降る慈雨に喜びを、悪しき人は轟く雷鳴に恐怖を抱け。私は高き館の主なり」
全てを得たわけではないからか、やたらと短い詠唱を口にする。
直後、内側から信じられないほど強い力が沸き上がってきて、体を書き換えられていくのが分かる。
額から角が生えてきた感触があった。触れてみると、右側が長く左側が少し短いようだ。
書き換えられていくという奇妙な感覚がなくなり、自分の体を見下ろす。
服装は大きく変わっており、どういうわけか普段着ているあの着物のように丈が短い着物に、肩や腕、腰回りに鎧が付いていて女侍のような格好となっている。
名前はバアルゼブルなのに格好は和風なのだなと変に思ったが、彼女は厳霊業雷命という名で日本に千年前に存在していたのだし、この格好はそこから来ているのだろう。
腰に違和感を感じたので触れてみると、鱗の生えた尻尾のようなものが生えており、手足を動かす様に意識しなくともうねうねと動かすことができる。実に奇妙だ。
他にも色々と変化している個所はあるだろうが、今はそれを確認している場合ではない。
そう思いフルフルの方を向くと、顔を真っ青にして膝をがくがくと震わせ、滝のような涙を流している姿が目に入る。
流石にあんな反応をされると地味に傷付くが、気持ちを切り替えて一歩前に踏み出る。フルフルがビクゥッ!? と体を跳ねさせる。
「神刀真打───抜刀」
静かに呟く。
胸の中心に力が一気に集まっていき、手を当てる。
硬いものに触れ、それを掴んで引き抜く。
以前は神の力を全て刀の形にして取り出していたが、神性開放状態だと力の消費をほとんどせずにできるらしい。
あくまで神性開放している時だけで、通常時では前と同じようにしなければできないと、なんとなく理解できた。
フルフルは、美琴が真打を抜いてから殊更顔を青くして、今にも吐きそうになっている。
持っている大剣を、ごとりと地面に落とし、腰が抜けたのかぺたりと地面に座り込んでしまう。
「ねえ、フルフル。私が今、何を考えているのか分かるかしら?」
「ッ、ッ、ッ……!?」
恐怖のあまり過呼吸になってしまったようで、ひゅー、ひゅー、という呼吸音が聞こえてくる。
一応、現時点の美琴が完全に覚醒しても全盛期の半分程度なはずなのだが、それでも彼女にとってボコられたトラウマを思い出すには十分らしい。
「よくも私の家族に、辛い思いをさせてくれたわね。おかげであの子、取り返しの付かない状況になっちゃったのよ。その責任、どう取ってくれるわけ?」
「───っ!?」
幼くして両親を含めた身内から酷い扱いを受け、打算で美琴と仲良くしていた鳴海。
どんな形であれ、まだ雷の力が全く使えなかった美琴と一緒に遊んでくれて、京都にいる間は姉妹同然に育ってきた彼女を苦しめた元凶。
この魔神さえいなければ、鳴海とさえ会っていなければ、あの子はきっとクリスマスを恋人と過ごすことができたし、なんだかんだで行動力もある子だから順調にいけば家を飛び出してその恋人と結ばれていたかもしれない。
そんな一人の女の子の明るい未来を潰したこのろくでなしに、美琴は今までにないほど激しい怒りを抱く。
真打を持つ右手に力が入り、それに伴って空から雷が刀身に向かって大量に落ちてきて、空を支配していた分の力全てが刀身にぎゅっと凝縮される。
「殺しはしない。このご時世でそんなのご法度だし、今の私もそんな覚悟なんてないからね。でも、もう二度と人間に手出しできなくなるほど、私という恐怖を魂の髄まで叩き込んであげる」
そう宣言してから、雷鳴と共に一瞬でフルフルの目の前まで移動して、真打を上段に掲げる。
もはや恐怖のし過ぎで逆に目を離せなくなってしまった彼女は、涙で潤んだ瞳で振り下ろされようとしている真打を見つめていた。
美琴が言ったように殺しはしないと分かっていても、本気の怒りと真打の持つ威圧感と存在感で、殺されると感じているのだろう。
そして、一気に刀を振り下ろし、超ギリギリで寸止めする……のではなく彼女の真横のアスファルトに向かって振り下ろし、深々と裂傷を刻み込む。
「言ったでしょう? 殺しはしないって。でも、もし次また人様に何かするようなら、容赦なくボコるから。その覚悟はしておきなさい。まあ、神血縛誓を結ぶから、ボコしに行く必要もなくなるんだけど。で、結ぶわよね?」
「……」
「返事は?」
「は、はひ……!?」
掠れた小さな声だったが、これ以上は流石にやりすぎかとやめておく。
持っている真打を消し、見下ろすような形のまま二者間の神血縛誓を結ぶ。
結んだのは二つでその内容は、金輪際美琴の家族である龍博、琴音、鳴海の三名、その他の友人全ての関与しないこと。
二つは、今後は美琴の許可なしで権能の使用を禁止することだ。
誓約を立てた後で、神性開放を解除する。
途端に、全身に重りを付けているかのような怠さが襲いかかってくる。
魔神全盛期の肉体を上書きするのだから何かしらの反動はあると予想していたが、これは中々だ。
重い足を引きずるように、脱ぎ捨てたコートのある場所まで歩いていき、拾い上げる。
鞄は襲われた時に公園に放置したはずなので、ものすごく怠いが取りに行くことにする。あの中にはスマホや財布などが入っているから、盗まれるのはまずい。
もうじきギルドの特務執行室の方々が来るだろうし、それまでにフルフルには動いてほしくないが、もう権能を使えないようにしたので雷を使って無理やり体を動かして逃げる、なんてこともできないだろう。
これでようやく決着かと安堵しながら、放置されている鞄を回収しに向かう。
公園に行く途中で、家から出て来ていたらしいアイリがアームで鞄を持ちながらやってきてくれたおかげで、長い距離移動することもなくて非常に楽だった。
次にギルドに向かおうとしたが、それも途中で特務執行室の方々がやってきて、車に乗せられてギルドに運ばれて行った。
なお、最後に美琴が地面に付けた傷は、やはりベリアルがどこかから見ていたようで綺麗さっぱりなくなっていた。
ギルドに着くと、まず真っ先に支部長室に通されて、そこで事の経緯を説明する。
神性開放の反動で意識が飛びそうになるのを堪えながら全て説明した後で、マラブがフルフルを連れて支部長室にやって来た。
美琴を見るなり悲鳴を上げて逃げようとしたが、マラブが権能でそれを予見済みだったのか、自身の手首とフルフルの手首に手錠をかけておくことで逃亡を防止していた。
スマホのバイブレーションのように体をぶるぶる震わせながら、フルフルは優樹菜に全てを自白。
これでようやく鳴海にかけられていた疑惑は大分緩和され、この件はすぐに世間に公表することになったため、鳴海の行動の制限は取り払われた。
他にも色々とやることはあったが、とりあえずまず聞きたかった鳴海のことと、若干怯えていたが杞憂に終わった探索者ライセンスのことを聞けた。
その後は帰宅したが、当然かなりの騒ぎになったので龍博と琴音が先に帰宅しており、戦わなければいけない状況だったのは仕方ないが、かなり無茶な戦い方をしたことをこんこんと叱られた。
二人の言うことはもっともなので甘んじでそのお叱りを受け、終わった後はお風呂に入ってさっぱりした後に、疲れすぎて食欲もなかったので琴音にサンドイッチを作ってもらい、それを食べてから歯を磨いて部屋に直行し、ベッドに倒れ込んで一瞬で意識を手放してしまった。




