紅茶のマナーにご用心
神子と呼ばれるようになって久しい。崇められるようになって久しい。尊ばれるようになって久しい。
そして、嫌がらせを受けなくなって久しい。
平民出身という障害を乗り越えて、私は強くあらねばならなかったから。
「この後の予定はなんだったかしら?」
「教会の視察の後、エマニエル殿下との会食を予定しております」
「あぁ、エマニエル様と……」
親のいない私は、教会で育った。ひもじくも幸福な愛のある生活に満足していたが、私の人生はたったそれだけにはならないようだった。十二歳の誕生日に、聖女の任を与えられたのだ。
神殿の聖女。その日から私は、国家のために祈りを捧げる仕事をしている。豊穣、繁栄、栄華、あらゆる事を祈り、願い、空よりも遥かに高い場所にいらっしゃる主へ想いを届けるのだ。
その中でも、どうやら私――トレイシー・ラングマンには才能が有るらしい。
私自身ではわからないが、私が祈るのと祈らないのでは目に見えて違うのだと。かつての聖女とは明らかに変わるのだと。いてもらわなくてはならないのだと。何度も言われた。何度も乞われた。何度も頭を下げられた。
やがて、神子などと呼ばれるようになる。
平民という立場から考えれば、明らかに過分な評価だ。そんな事は私自身分かっているが、最も気にするのは貴族達だった。
聞けば、これまでの歴史の中で、聖女とは魔法の才能を持つ貴族の子女が担っており、平民がその任についた事などないのだという。そして、主の存在を垣間見る聖女の任に就く事は、貴族にとっては大変な誉れであるらしい。
その誉れを、単なる平民が奪ったのだ。面白くないのも仕方のない事だろう。
しかし、だからと言って悲しんでばかりはいられない。私は、神子としてその任を全うする義務があるのだから。
はじめは高圧的な態度や嫌がらせに泣いてばかりいた私も、この五年間で強くなった。涙を流す事は解決になどならないと学び、しかし波を立てる事は不利益になるとも知っている。誰の不興を買うでもなく、自らの責務も果たし、その間に立ちながら痛めない心を持ったのだ。
もしもただ一人であれば、それは難しかっただろう。あるいは、神殿に訪れる貴族の全てが私に対して敵対的であったならば、既に折れてしまっていたかもしれない。
神殿に入り込んだ平民である私に良くしてくれた数少ない友人。そのうちの一人が、この国の王太子であられるエマニエル・ファルガロン・オードロス様だ。
「ずいぶんと久しぶりですわ。確か、隣国に留学なさっていたと……」
「ハルハエスト大公国です。今年の夏ごろ戻られたようですね」
聞けば、どうやら芸術が有名な国なのだという。エマニエル様は特に建築にご興味お持ちらしく、留学中にはご自分で設計図を書かれたようだ。
その建物はまだ造られていないようだが、専門家が見ても一流の建築者と遜色のない出来栄えらしく、本人としても会心のできなのだそう。何故造らないのかと聞かれれば、エマニエル様は不敵な笑みを浮かべられて『まだ造る時ではない』とおっしゃったらしい。昔から謎めいた言い回しがお好きな方で、それは今も変わらないらしい。
「もしかして、神子様は殿下が苦手ですか?」
私の顔を覗き込み、聖女付きの侍女であるラナが不思議そうな顔をする。
「ラナ、言葉が過ぎるわ。不敬ととられかねない発言は慎みなさい」
「し、失礼しました」
ラナを諫めるが、その言葉は鋭いものだった。
私は、エマニエル様に苦手意識を持っている。彼とは紛れもない友人であるものの、軽口をたたけるような仲ではない。かつては幼さを理由とする無知によって軽々しい態度をとりもしたが、今となってはそれも難しい。
立場を知ったのだ。身の程を正確に分かっているならば、首を垂れてこそ当然という間柄である。
そして、なにより彼個人と交わした最後の会話が、彼との再会に大きな抵抗となっていた。
殿下の最後の言葉を思い出すだけで、頭が痛くなる。あんな大真面目な顔で、あんなにもハッキリと言うのだから。
――もしも私に勝ったら考えてもいいわ。
私も私で、そんな事を言う。ラナに不敬だなどと言っておきながら、私の方が遥かに不敬な事を言っているのだ。
それに腹を立てたのか、あるいは傷ついたのか、彼が私に会いに来る事はなかった。
そして、来てほしくない時間は思ったよりも早く来る。
エマニエルと会わなくなってからそうあれかしと言葉を整え、姿を整え、礼儀を整え、もはや私が聖女である事に疑いを持つ者はいない。この取り繕った姿に免じて、あの時の不敬を許してはもらえないだろうか。
あるいは忘れて……はいなさそうだ。昔から、無駄に記憶力が良くて、正直嫌味な男だった。
「お久しぶりです。聖女トレイシー殿」
「お久しぶりですわ。エマニエル王太子殿下」
場所は、王城の一室。最低限の人員のみを室内に残した、静かな食事である。
しかし、私からすればそれでも驚くほどに豪華な食事だ。見た事もないほど立派なテーブルと、それに負けないほどの椅子。私が座ってもいいのかと戸惑ってしまうほどだ。
数年ぶりに会った殿下は、一人前の男性へと成長していた。
眉目秀麗、質実剛健、頭脳明晰、文武両道。噂には聞いていたが、エマニエル様は私と会わなくなってからずいぶんと変わったらしい。昔は王子というにはやんちゃすぎると感じたものだが、今では過去のものと言わざるを得ない。
すっかりの様変わり。まるで絵本から飛び出してきたかのような、理想の王子がそこにあった。
「それにしても、ずいぶんとお美しくなられた」
「殿下ほどでは御座いませんわ」
「昔の快活とした貴方も素敵でしたよ」
「ただの騒がしいだけの子供ですわ。お恥ずかしい限りです」
その魅惑の顔は、もう昔のような生意気さを垣間見せる事がない。鼻の高さ、目の大きさと角度、唇の厚さ、頬の色、顎の輪郭、そのどれかがどのようにでも変化したならば、彼に抱かれる美しさは損なわれてしまうだろう。若干細身でやや色白に見えるが、その儚さも見る人が見れば魅力に映る。まるで花のようにささやかな存在であるかのようでありながら、非現実にも思える現実として彼は確かにそこにいた。女性に生まれていれば、紛れもなく傾国と呼ばれていた事だろう。
まさか、ここまでとは。
「実は、貴方とお会いするのを楽しみにしていました」
「光栄です」
会話も、当たり障りないながら滞りもない。特に良くはないだろうが、悪くもないと思える。
聖女としての教育が役に立った。完璧な王子と食事を共にしても恥をかかない方法など、実家では学ぶ事がなかった。神殿においても決して裕福な暮らしとは言えないが、少なくとも実家よりはマシだろう。テーブルに着いての食事などほとんどないが、それでも恥をかかない程度の教養は身につけさせてもらっている。
「本日はお時間を取っていただきありがとう御座います」
「いえ、殿下の頼みとあらば、この不肖の身を尽くすのは当然で御座います」
過去の非礼を思い、食事はいまいち味がしない。いつ、あの時の態度を糾弾されるか分かったものではないからだ。マナーの誤り一つで首を討たれてしまうのではないかと戦々恐々とし、手が震えないように注意しながら食事を終えた。
命を繋ぐのは、いつだって知識と知恵だ。もしも神殿で何も学んでいなかったなら、私の命はここまでだった。
「時間はまだありますので、お茶でもいかがですか?」
「頂戴します」
断れるはずなどない。相手は王太子で、聖女といえど私は平民の娘なのだから。
テーブルに着いてのお茶は初めてだ。なので、食事よりもはるかに緊張する。
お茶の味もしない。ソーサーとカップをぶつけてガタガタと音を立てないように注意深く持ち、上品に一口含む。一度で飲み干すのは品のない行為だ。ゆっくりと落ち着き払って楽しむのが淑女のたしなみである。
――と、思っていた。
「おや、トレイシー殿」
「は、はい!?」
急に声をかけられ、思わず上ずってしまった。これは大変なマナー違反だ。まさか、急に大声を出してしまうなんて。
いや、驚いただけであるといえば言い訳にはなるだろうか。命がかかわるのなら、多少無理やりにでも取り繕うくらいはして見せよう。
だが、エマニエル様が問題にした事はそこではないらしい。
「ソーサーを持っていらっしゃる」
「へ? は、はい」
なにか、まずかったろうか? まさか、ソーサーを持つ事はマナー通りのはずだ。神殿ではいつもそうしてきたし、それが正しいと教えられた。注意された事もなければ、当然注意した事もない。
「そ、それが何か?」
「おや、ご存知ありませんか? 膝より高いカップはソーサーとともには持たないのです」
知らない。
そもそもからして、高いテーブルでの食事自体が珍しい。神殿では質素な生活を心がけているし、自室で食べる場合はそもそもマナーなどというものを指摘されない。膝上と膝下でマナーが違うなど、知るはずもないのだ。
「すすす、すみません! どうか命だけは!」
「え? 命?」
この国で二番目に尊いお方の前で、まさか粗相を働いた。怒りを買ったのならば、何をされても文句は言えない。わざわざ指摘してきたところを見るに、きっと大変気になさっている。私にできる事など、命乞いをおいて他にない。
「わ、私にできる事ならなんでもいたします! だから命だけは!」
平服、屈服。本来であれば、神殿の名を背負う神子がして良い行為ではない。それは自ら以外も貶める行為であり、例えば貴族の聖女であればこんな屈辱的な行為は絶対にしない。
しかし、私は平民である。
自分の命が何より大切で、それ以外の全部は二の次三の次である。こんなところで、聖女は貴族がするべきだという根拠が示されてしまった。他の誰でもなく、私自身が示してしまった。
だが、知った事ではない。なにせ、私は平民なのだから。
「今後こんな事は決していたしません! ですからどうか!」
「え、落ち着いて?」
落ち着いてなどいられるものか。こんな状況で落ち着いていられる者など、命よりも誇りを大切にする貴族くらいのものだろう。
「お、俺は別に何をしようってわけでもないぞ!」
「そう言われましても、安心などできよう筈も御座いません! ……ん?」
今、少しおかしかった。
殿下は何と言ったろうか? 俺は……? 『俺』?
「殿下、お言葉が……」
「ああ、ようやく気が付いた。ホントのホントに悪くするつもりなんてないんだ」
砕けた口調。困ったような顔。魅惑の顔に似合わない、やんちゃそうな表情。
それは王太子として褒められた事ではないのかもしれない。しかし、私にとっては見慣れたものだ。よく知っていると言い換えてもいい。なにせ、何年か前まではそれが普通だったのだから。
「マナー勝負は俺の勝ちだな!」
「え、エマニエル……あなたまさか!」
「ふふ、言ってただろ? 勝ったら結婚を考えてくれるって」
「――!!」
震えた。驚いた。目を見開いた。結婚など、子供の頃の口約束だ。あるいは売り言葉に買い言葉。当然、本気で言っていたわけではない。
それをまさか、こんな年齢まで覚えていて、こんな不意打ちじみた事をしてまで成そうとするなど。
「な、何のつもりよ!」
「何のつもりも何も、俺の行動は一貫しているさ。ずっと前から好きだった女を振り向かせるために、ずっと今まで努力をしてきた。どんな勝負でも勝てるように、ありとあらゆる努力をな」
「それで理想の王子様になったっていうの!?」
「理想の王子かどうかは分からんが、つまりはそういう事だ」
ありえない。とんでもない執念。わざわざ私なんか狙わなくても、エマニエルならば引く手あまただろうに。
「とりあえず、これで俺たちは婚約関係という事になるな!」
「い、いや待って! 待ってください」
「敬語なんていいよ。俺とお前の仲だろう?」
のんきに言ってるエマニエルは、もう私と結婚した気になっている。しかし、一つ大きな問題が残っている。そもそも、私は結婚などしたくないのだ。したくないからこそ、自分に勝てたらなどという条件を付けた。現状の待遇には大変満足しており、聖女の任期が終われば実家に帰る事になっている。
そうなれば……
「殿下」
「何だ?」
「ジャンケンポン!」
「は!?」
殿下の手はグー。私はパー。この勝負、私の勝ちである。じゃんけんの最初にグーを出す癖は変わっていない。
「か、勝った! 私の勝ちよ!」
「は、はあ!?」
「だ、だから! これで一勝一敗! まだあなたの勝ちじゃあないわ!」
約束は、私に勝った場合の話だ。一発勝負だなどとは言っていない。ならば、多少強引でも筋は通った言い分のはずだ。そもそもエマニエルの求婚自体が強引である。私だけが蔑ろにされるいわれはないだろう。
「だから、結婚はできない! できないから!」
「……言ったな?」
「え……い、言ったけど……」
エマニエルの目が座る。この目をする時は、彼が本気になった証拠だ。この癖はいつまでたってもこの癖はいつまでたっても変わっていない。かつてはそれでも私の方がなんでも上手くできたが、今ではそうもいかないだろう。
生唾を飲み込む。何を言われるのか戦々恐々として。
「聖女の任期はあと何年だ?」
「は?」
「あと何年だ。答えろ」
「よ、四年です」
「ほう、ならその四年で決着をつけよう」
「け、決着!?」
その言葉の意味するところを、理解できない私ではない。つまり、私の命運がこの四年間で決まってしまうという事だ。
「四年間。この期間でどちらが多く勝ち星を挙げられるか勝負だ。俺が勝ったら、約束通り結婚しよう」
「な、なんでそんなに私に執着を!? 殿下なら他にどれだけでもいいお相手がおられるでしょう!」
「どれだけいい相手がいても知らん。俺が好きなのはお前だからだ」
「なっ、にを恥ずかしい事……っ!」
頬に熱を感じる。なまじ顔がいいために、甘い言葉にころっといく相手もいるだろう。
しかし、私は騙されない。王族の重責などというものはごめんだ。
「こ、断るわ! 結婚なんて絶対に!」
「なら勝て。俺はお前をあきらめない」
「~~~ッ」
引き下がらない。食い下がる。王族がそれほど言うのなら、私に拒否権などあるはずがない。
「な、なら、結婚しろと命じればいいのに」
「お前の意思を無視などできるか! お前が勝負で結婚を決めると言うからそうしているんだ!」
意外に誠実。子供の頃の口約束を、まさかここまで本気にするとは。
気付いていなかった。私が、彼を好いているなど。
ほんの少し、たった少しではあるが。
「ぜ、絶対に勝ちますよ!」
「気が合うな。良い事だ」
これからの四年。私達は嫌でも長く一緒にいる事になる。
そして、不本意ながら周りにはそれが仲がよさそうに見えたらしい。私の任期が終わるころには、もう私達の仲に文句がある人間は一人もいなくなっていた。
酷い話だ。酷い話だが、文句を言われるより遥かにマシだった事は間違いがない。また、貴族から目の敵にされるのはごめんだからだ。