海を望む
三階のC棟からD棟へと繋ぐ渡り廊下から望む海は、いつも愛梨の耳に潮騒を連れてきた。
吹き抜けのその廊下を渡る時、愛梨は俯きがちの顔を上げ、無意識の内に、いつも遠くに見える水平線を探していた。
それは高校に入学してから身に付いた癖のようなものだけれど、人の顔よりも背景ばかりに目が行く愛梨にはごく自然のことだった。
「愛梨、置いてくよー」
いつの間にか廊下を渡りきった菜乃花の声に、愛梨はハッと前を向く。
「いま行く!」
駆け出した足から、キュッと上履きの擦れる音がする。
スカートのプリーツを羽ばたくように広げ、愛梨は呆れたような目で自分を見つめる友人のもとへと急いだ。
「愛梨、今日部活休みでしょ? 駅前にできたカフェ、行ってみない?」
担任が教室を後にし、騒々しく帰り支度をするクラスメイトの波を掻き分け、菜乃花は愛梨の机に辿り着くなりそう言った。
「うん、いいよ」
愛梨が頷くと、「やった!」と菜乃花が嬉しそうにピョコンと跳ねた。その拍子に、ふわふわとした癖っ毛が、細い肩の上で綿毛のように揺れる。そんな菜乃花の様子を微笑ましく見つめながらも、愛梨は密かに念入りに手入れをしてきた自分の真っ直ぐな髪がなんの面白味もないように思えて、居たたまれない気持ちになった。
それでも、「食べてみたかったんだよね、あそこのパフェ」そう菜乃花が独り言のように呟くと、「そりゃ楽しみ」と愛梨はいつも通りの顔でその言葉を拾ってみせる。それが愛梨のハリボテのプライドだった。
パフェ、かぁ。
甘いものに目がない菜乃花が、SNSに投稿されていたカフェの看板メニューの『季節のパフェ』の画像を熱心に見ていたことを思い出し、自分のつまらない劣等感を横に置いて、愛梨はフっと笑みを漏らす。
テスト前で部活が休みに入ったのは互いに百も承知だけれど、菜乃花も愛梨もおくびにも出さない。
云わばこれはテスト前の景気付けのようなものだった。テストが終わった後も、きっと同じように『お疲れ会』と称して甘いものを食べに行くのだろう。
菜乃花とは、互いに、大人の目が煩い中学時代から、放課後気軽に寄り道できる高校生活に憧れを抱いていた。そんな仲だから愛梨は菜乃花の誘いを可能な限り断らなかったし、半ばルーチン化したこの付き合いも嫌いではなかった。
数学、ほんとはヤバいけど、夜ちゃんとやればいっか。
あまり当てにはならない寸分先の未来の自分にテスト勉強を託し、愛梨は教科書をいそいそとかばんに仕舞いこんだ。
「羽山!」
帰ろうと立ち上がったその時、席の後ろから焦った声で呼びかけられ、愛梨の肩がぴくりと揺れる。と、同時に菜乃花の意識が、その声の方へ磁石のように吸い寄せられていく。
愛梨が振り向くと、予想通りの人物が、くっきりとした眉を申し訳なさそうに垂らして、書店のカバーがかかったままの文庫本を愛梨に差し出した。
「返すの遅くなってごめんな」
「読んだやつだから、ゆっくりでもよかったのに」
愛梨が言外に気にするなと伝えると、佐野は生真面目な表情を少し崩して笑った。
佐野の、強豪と呼び名の高い柔道部での厳ついイメージと、部活以外は本の虫という姿が重なるようで重ならなくて、愛梨は教室で読書中にはじめて佐野に声をかけられた時の驚きをふと思い出す。
そんなことをつらつらと考えて、受け取る際にうっかり触れてしまった丸い指先に、愛梨はわずかな動揺を押し殺した。
「すげぇ面白かった。ありがとな。また何かおススメあったら教えて」
「うん」
短いやり取りを終え、佐野が「じゃあな」とくるりと背を向け去っていく。愛梨が戻ってきた本を何気なくパラパラと捲っている間、菜乃花が佐野の大きな背中を視線で追うのを、愛梨は気付かぬふりをした。
菜乃花が佐野と言葉を交わすところを、愛梨は見たことがない。三人とも同じクラスだというのに、菜乃花も佐野も、愛梨を挟んで互いを意識しているような気がした。
変なの。
自分から話しかけはしないくせに佐野を意識している菜乃花も、それに気付きながら菜乃花を無視している佐野も、愛梨はまどろっこしく感じた。どうにも腰が据わらない、居心地の悪さ。愛梨と一対一では二人とも自然なのに、三人揃うと途端に愛梨は自分が透明な硝子にでもなったように思う。二人とも愛梨を見ているようで見ていない。愛梨はいつだってどちらも必死に見つめているというのに。
「お待たせ。さ、行こっか」
ちくちくと肌を刺すような疎外感を押し込めて、愛梨は菜乃花ににっこりと微笑んだ。
「ねぇ、聞いてる?愛梨!」
「……あー、ごめん。なんだっけ」
綺麗に飾り切りされた果物が器から溢れるように盛り付けられ、アイスクリームと生クリームを積み上げたパフェを前に、菜乃花がむくれた顔をしている。愛梨は手を合わせて、菜乃花に「ほんとごめん」と重ねるように謝った。
パステルイエローを基調としたポップなインテリアの店内は、狙い通りのターゲット層である愛梨たちと似たような年頃の子で席が埋め尽くされている。
甲高いざわめきが、寄せては返し、愛梨と菜乃花をやわく包み込んだ。
「だから、佐野君……のこと。愛梨、佐野君が好きなの?」
「え」
突如飛び出した質問に、愛梨はスラリと長い枝のスプーンを落としそうになった。
わたしが、佐野を、好き?
まるで知らない言語のように、菜乃花の言葉を愛梨は脳内で組み立て、咀嚼する。
好き? 誰が、誰を。
もう一度ゆっくりと噛み締めれば、愛梨の頭の中のクエスチョンマークが次第に薄れ、焦点が絞られていく。
菜乃花がいかにもお喋りの延長線上のように振る舞ってみせても、愛梨はそこにピンと張りつめたような緊張を見逃さなかった。
「佐野はただの友達。そんなの、菜乃花だって知ってるじゃん」
愛梨がさらりと平坦な声音で返す。
そうは言ったものの、愛梨が菜乃花の緊張に気付いたように、菜乃花もまた愛梨の一瞬の間を感じ取るだろう。愛梨にはなぜだかそんな確信があった。
「なんでまたいきなりそんなこと聞くの」
あっけらかんと笑いながらそう言って、愛梨は黄金色のパイナップルと生クリームを一緒に掬う。
理由なんてわかりきってるけど。
そんな本音も、一緒に。
「仲いいから、妬けちゃって。佐野君に」
そう冗談めかしてにやにやと笑う菜乃花も「この焼きもちやきめ」と流す自分も茶番めいていて、愛梨は潮が引いていくように急激に悲しくなった。
なんだこれ。
ほんと、なんだこれ。
口に入れた生クリームは意外とあっさりとした味わいで、すうっと溶けていく。パイナップルの薫りのよい甘酸っぱさといがいがとした痛みだけが、愛梨の舌に残った。
「菜乃花は」
「んー?」
「菜乃花は、喋んないの? 佐野と」
軽い口調を保てずに、愛梨の喉から思わず硬い声が突いて出る。
菜乃花は三分の一減ったパフェの器から視線を逸らさずに、白く浮かび上がる手で踊るようにスプーンを操った。
「だって、喋ることないし」
バニラアイスがスプーンの小さな窪みに収まり、菜乃花の淡く色付く唇へと運ばれていく。
「そーいうもん?」
「そーいうもん」
伏せた菜乃花の睫毛を眺めながら愛梨は、
菜乃花は口の中で己の熱のあつさとアイスクリームの冷たさと、一体どちらを感じるのだろう
ぼんやりとそんなことを考えた。
店を出て、傾いてはきたもののいまだ明るい陽の下を歩きながら、菜乃花と当たり障りのない会話を手探りで繰り広げ、ようやくそれぞれの帰路につくと、愛梨は地中にめり込んでしまいそうなほど重いため息をついた。
大きな喧嘩などしたことのない二人にとって、無意味な会話に漂う灰色の空気は、ただ息苦しいだけでしかなかった。
菜乃花は佐野のことが気になるのだ。きっと、恋に近い感情で。
それが愛梨の出した結論だった。そしてそれが自分にも同じように言えることを、愛梨は自覚していた。
知らず知らず、再び、ため息をこぼす。
それにしても菜乃花は、愛梨の佐野に対する気持ちを知ってどうするというのだろう。
愛梨の浅い経験値では、とても菜乃花の答えには辿り着きそうにもなかった。それが、苦しくて、寂しい。
「うそつき」
そうこぼれた言葉は、誰に対してのものなのか分からぬまま、愛梨は目の前に聳える入道雲を、キッと睨み付けた。
数日真夏日が続いた後、久し振りに雨が降った。
胸の内のもやもやを考えまいと勉強に打ち込んだからか、テストでは思ったより手応えを感じて愛梨はホッとした。
菜乃花とは、あの膠着した雰囲気が嘘のように、元どおりだった。
そう、すべてが元どおり。
変わらず菜乃花と佐野は、愛梨を挟んで、距離を見計らっている。変化といえば、菜乃花が、愛梨が佐野に貸した文庫本を読んでみたいと言ったことぐらいだろうか。
菜乃花も本は読むけど、あれはどうかなぁ。
丁寧な日常を描いた世界観を好む友人の顔を思い浮かべ、ううーん、と心の中で唸る。
愛梨が貸した、登場人物がやたらと多い推理小説は、北欧が舞台だけあってその名前の響きすら馴染みがない。愛梨など、途中で名前を覚えるのはすっかり諦めて、勝手にあだ名をつけていたぐらいだ。入り込めばするするとその息吐かぬダークな展開に手に汗握るのだけれど、そこに行き着くまでにちょっと時間がかかるタイプの本だった。だからこそ、佐野の『面白かった』という感想が、愛梨はとても嬉しかった。もしかすると菜乃花も、佐野のその言葉を聞いて、興味を持ったのかもしれない。
そうだとして、なんだっていうの。
愛梨はまとまらない思考を一時中断し、お気に入りの渡り廊下の壁にもたれ、雨に煙る校舎を眺めた。
風が無いせいか、雨は廊下に入り込むことなく、真っ直ぐに降り落ちる。高台にある校舎は通学時こそきつい坂道だが、その甲斐あって眺望は抜群だ。
学校の周りにある所々の深い緑、その下には雨で霞みがかった街並が広がり、そしてせり上がるように、鼠色の空との境界線も今は曖昧な水平線がある。
海にも── あの海にも、雨は降っているのだろうか。
一滴一滴が海面にぽつぽつと穴をあけ、そうして一緒くたにのみ込まれていく。それが寂しいことなのか、嬉しいことなのか愛梨には分からない。
それでも、ひとりぼっちで空を駆けたあと、辿り着いたそこで自分の輪郭がとけていくなら、せめてあの海が暖かだといい。そう思った。
「こんなとこにいた」
愛梨を感傷から引き戻すには十分なボリュームで、教室のあるC棟側の出入り口から菜乃花の安堵するような声が響く。
「よく見つけられたね」
暢気に愛梨が振り向き笑いかけると、菜乃花は小柄な割には大きな歩幅でスタスタと愛梨の方へ近付いてきた。
「教室に居ないから探した。委員会、終わったよ。帰ろ」
探す場所の大体のあたりを付けていたのだろう。さして怒ってもいない様子で菜乃花はそう言って、愛梨の隣に陣取る。
外のコートが使えないせいで早く部活が終わった愛梨は、菜乃花の委員会が終わるのを待っていた。いつもなら待たせることの方が多い愛梨にとって、待つことは新鮮だった。ぽっかりと空いた時間をついつい校舎の散策に使ってしまったのは、何となく菜乃花と佐野の気配が残る空間から離れたかったからだけれど、結局この渡り廊下に行き着くのを、付き合いの長い菜乃花には見透かされていたのかもしれない。
帰ろう、と言った当の菜乃花は、愛梨の隣でまったく動く気配を見せず、愛梨と同じように雨に濡れる世界をどこか上の空で見ている。
雨足の弱まった雨がさあさあと、二人の耳元で囁きつづけた。
「あの本、読みづらい」
唐突な感想が、想像通りのもので、愛梨はプッと吹き出してしまった。
「うん。そうだろうなぁと思った」
「……でも」
「うん」
「ちゃんと読む。全部」
「そっか」
何気ない会話が、まるで宣誓のように厳かに響く。菜乃花の意を決したような声を、愛梨はただ降り落ちてくる雨を見上げるように受けとめた。
菜乃花は強い。状況に甘んじているのは、いつだって愛梨の方だ。愛梨は変わっていくことが怖かった。
愛梨と菜乃花を変えてしまう佐野に、あまつさえ自分が恋心を抱く佐野に、見当違いだと分かっていながら時折憎しみさえ感じる程に。
互いに視線は交わさなかった。相手がどんな表情をしていて、自分がどんな表情に見えるかなんて知りたくもなかった。だから、二人は雨を見ていた。平らかな気持ちが訪れるまで、ずっと、雨を見ていた。
ざらざらとした質感のチャイムを背に、愛梨と菜乃花がようやく校門を出る頃、ちょうど他の部活生と下校が重なりその賑やかさに愛梨は助けられたような心地がした。
朝から降り続いた雨はようやく上がり、雲の隙間から射した陽の微かな名残は、水たまりをオレンジ色に染めていた。
気を取り直して、菜乃花ともうすぐ訪れる夏休みの過ごし方についてあれもこれもと盛り込んで計画を立て始めると、だんだんといつもの調子に戻っていった。
それなのに。
「羽山も今帰り?」
目下気まずさの原因であった人物が、点々とある集団の中から、何も知らないが故の朗らかさで声を掛けてきたので、愛梨は息が止まってしまいそうだった。
「うん。おつかれー」
柔道部の仲間と連れ立っている佐野に、そんな気持ちを悟られぬようひょいと手を上げて愛梨が軽く挨拶すると、「おつかれ」と佐野も手を振る。そして、愛梨たち二人を追い抜きざま「宮田もおつかれ」と菜乃花の方を向きもせずに、低く呟いた。
「ば、バイバイ!」
突然のことに驚いた菜乃花が、それでも声を振り絞る。佐野は歩みを緩めるとほんの少し振り向いて、応えるように菜乃花に手を振った。
「声、裏返っちゃった」
右手の指先を唇に当て、菜乃花が恥ずかしそうにこぼす。
「大丈夫だよ」
だいじょうぶだよ、だいじょうぶ。
佐野も、菜乃花を好きなんだから。
愛梨はそんな言葉を頭の中で響かせながら、菜乃花を慰めた。
興奮をどうにか胸の内に押しとどめようとする菜乃花は、その小さな体を余すことなくすべてで恋をしていた。
菜乃花、かわいいな。
愛梨は純粋に菜乃花が羨ましかった。眩しかった。愛梨も、確かに佐野に恋をしているはずなのに、菜乃花のそれとは同じようにはちっとも思えない。
菜乃花の恋がふくらんだ想いが満を持して徐々に花ひらくような恋なら、愛梨の恋は与えられた偶然を頑なに握りしめて眺めるばかりの恋だ。
菜乃花の瞳は佐野の方を向いているのに、愛梨の瞳はどこまでも自分の手のひらの中に向いている。
勝手だと、思った。言ってしまえば、佐野を必要ともせず恋をし、それなのに現実には生々しい嫉妬をもて余している。なんて自分は勝手なのだと。
微笑みを貼り付けたまま押し黙る愛梨に、察しのいい菜乃花は「喉渇いちゃった。そこのコンビニ寄っていい?」とすぐに話題を切り替える。愛梨はその気遣いに便乗して、ペットボトルの炭酸水をそこで買った。
喉の奥で弾けていく刺激に、この気持ちすべて誤魔化してしまいたくて、愛梨は帰り道何度もそれに口をつけた。
部屋の天井の木目が暗闇の中でもぼんやりと浮かび上がる。
愛梨はベッドの上で何度も寝返りを打ちながら、自分と菜乃花と佐野に起きた出来事を反芻していた。
本当は『出来事』など、何も起こっていないのかもしれない。菜乃花が普段は読まない本を読みだして、佐野はいつもは無視するクラスメイトに挨拶をしただけなのだから。愛梨に至っては何もしていない。ただそれをそばで見ていただけだ。
それなのに、なぜか愛梨は自分が嵐の目の中にいるような気がした。静けさの中にあっても、愛梨自身もまた、嵐の一部なのだ。
今まで愛梨は、こういった悩みはすべて菜乃花に相談してきた。すでに家を出た歳の離れた姉とは気性が全くと言っていいほど合わないし、母親は心配性で些細なことも大袈裟にしたがるきらいがあったから、年頃でもある愛梨にとって菜乃花は家族よりも信頼の置ける相談相手だった。
一方の当事者である菜乃花に相談できない今、愛梨はこれまでになく自分の葛藤を見つめていた。羞恥で身悶えしたくなるのも、己の馬鹿馬鹿しさに嫌気がさすのも一度や二度ではない。言葉には到底できない、滲むばかりの色彩が胸の中で混ざる度に、愛梨はきっぱりと引かれた水平線を探していた。そこに答えがあると、藁にも縋る想いで。
まだ眠くはない目をそっと瞑る。
蒼い闇がなだらかに広がっていく。
浅い眠りを繰り返し、新聞がカタンとポストに落ちる音で目覚めたのは、そうする必要があったからなのかもしれない。
日に日に大きくなっていた焦燥が、薄明かりの中で静かに愛梨を駆り立てる。
行かなきゃ。
愛梨はTシャツにジーンズというラフな格好に着替えると、アリバイ作りの為の部活着をバッグに詰め、ひっそりと寝静まる家を出た。常に仕事で忙しくしている母親は休日はいつも遅い時間にしか起きてこないから、休みの日も朝練に出る愛梨と顔を合わせないことなどざらにあった。
部活をサボるのは気が引けるけど。
そう思いながらも、引き返すという選択肢は愛梨にはもうなかった。うまれたてのか弱い青さで空が、愛梨の頭上に広がっていた。人も疎らな始発の電車に乗り込むと、愛梨はやわらかな黄身のような光に包まれた起き抜けの街並みが窓越しに流れていくのを見ていた。
なんだ、簡単じゃん。
一時間ほど電車に揺られ、降り立った駅から記憶頼りで着いた浜辺は、徒歩十分とかからなかった。
もちろん一人で海に行くことなんて初めてだったけれど、冒険と呼ぶにはあまりに呆気ないゴールに、愛梨は拍子抜けした。
まだ熱を帯びていない陽の光が、波間を優しく撫でている。風は潮の匂いをのせて愛梨の首筋をさらりと掠めた。
朝の海は清清と明るい。そんな明るさの中に自分を置いてみると、それは否応なしに訪れる夜明けにどこか似ていて、愛梨は暴かれる恐怖さえ感じた。
渡り廊下からいつも望んでいた海を目の前にして、当たり前になみなみと広がるその光景に、愛梨の胸にストンと何かが落ちる。
つづいているんだ。
あの向こうも、ずっと。
半円を描く空を別つように引かれた水平線と、その向こう。そうしてつづいていく、海原。
穏やかな波の音は否定も肯定もせず、そこで鳴り響いている。
泡波が裾を広げるように、愛梨の足元近くまで押し寄せた。
あーあ。
「あーあ」
心の中で漏れた言葉をそのまま愛梨は小さく声にのせる。そして、諦めたように砂浜に腰を下ろした。
菜乃花と佐野の関係はきっと変わっていくだろう。それはそのまま、愛梨も変わっていくことを意味していた。重ねた時間にとけていったのは愛梨だけでは、ないのだから。
海に落ちた雨は。その輪郭をなくした雨は。
あの日、さんざめく雨を菜乃花と見ていた。
菜乃花と一緒に、海が見たい。
それは愛梨なりの覚悟だった。変わっていくことが、つづいていくことなら。同じ二人では、いられないのなら。
二人の視界いっぱいに、あの水平線を引きたい。違う地図を手に、約束なんて交わさぬまま、そこから漕ぎ出したかった。
愛梨が両手を色濃くさせた青空に突き出し、思い切り伸びをする。
なんの答えにも、ならないのかもしれないけれど。
確かめたかったのは、己の心の在りかだったのかもしれない。それが、波にさらわれそうに揺れる、頼りないものだとしても、愛梨はそれを照らしつづけていたかった。見失いたくはなかった。
愛梨は靴に砂が入り込むのも厭わずに、砂浜についた手で体を押し上げ勢いよく立ち上がった。
ちらほらと浜辺を散歩する人達は、互いに意識を向けぬよう波の音ばかり拾っていて、愛梨もまた海の景色となるべく同じようにゆっくりと歩きだす。
菜乃花と中途半端に立てた夏休みの計画に、どうしてもつけ加えたいことができた。
今は、それで、十分。
決意ともつかぬそれと一緒にぎゅっと手を握りしめると、ざらざらと手のひらに残る砂に微かな痛みを感じながら、広がる海を背に、愛梨はまだくっきりと残る自分の足跡を追いかけた。