婚約者はアマガエル
特別な日が快晴だと、それだけで特別な気がする。
今日も空はよく晴れていて、蒼天の空の下優美な赤薔薇の庭園で過ごすのはとても贅沢な気持ちになる。
さらにそこに、大事な家族がいるなら満点。
大切な人がいたら花丸。
今日は特別な日で、家族も大切な人も一緒にいる、私にとって何より幸せな日です。
「アンタには勿体ないわ」
幸せな日なのですが―――上姉様が、とても怖い顔をするのです。
「この婚約、私と変わりなさい」
「でも上姉様」
「でもじゃないわ。もともとメルヴィン子爵家に…私に来ていた婚姻の話よ。それを元に戻すだけ。何の問題もないわ」
怖い顔をした上姉様が、白い椅子に座る私の前で腰に手を当てて胸を反らす。四つ上の上姉様は、私より小柄ですが内から滲む迫力は体格を凌駕しています。
「問題はあります。お姉様には婚約者が…」
「婚約話が行ったり来たりしている相手がいるだけで婚約者なんかじゃないわ」
「いえ婚約者ですよ」
「婚約者じゃないわ」
「そんな、シリル様がお可哀想です」
「可哀想だと思うならアンタが…だめね勿体ないわ。今の無しよ。あいつは放っておいていいのよ」
「よくないです。落ち着いてください上姉様」
ざわざわと、様子を窺う周囲の人たち。特別な日に招待された賓客の方々。
まだ始まっていませんが、人は多いのです。そんな人目のある場所で、こんな話をしてはいけません。
上姉様だってわかっているはずなのに…怖い顔のまま、座る私を見下しています。
「とにかく私が婚約するからアンタは早くかえ」
「ベルナデット」
「…シリル」
遠巻きにしている賓客の隙間を縫って、本日上姉様のパートナーとして同席された婚約者のシリル様が現れました。その背後には、他家に嫁がれた二つ上の下姉様の御姿もあります。
三人姉妹の中で一番背の高い、すらりとした下姉様。光の加減の所為か、怜悧な瞳が眼鏡で見えません。
ずかずかと足取り荒く近づいて来たシリル様は、仁王立ちする上姉様の肩に手を置いて振り向かせます。上姉様の御顔も怖いですが、シリル様も怖い顔です。
「何勝手なことを言っているんだ」
「勝手じゃないわ。もともとそういう話だったのだし、アンタに関係ないわよ」
「あるに決まっているだろう。お前の仮にも婚約者だぞ」
そうです物凄く当事者です。
「仮にもね…どうせまたすぐ別の令嬢と婚約の話が出るんでしょ」
「何を言っている。お前の方が相手をとっかえひっかえしているくせに」
「してないわよ何言ってんの」
「あの、シリル様は多分私の婚約者選びで上姉様が面談していたことをおっしゃられています」
「何言ってんの?」
あの、もしや本気でお分かりでない?
「俺が会いに行っても男の釣書ばかり見ていたじゃないか!」
「私が会いに行っても令嬢とお茶会ばかりだったじゃない!」
どっちも弟妹の婚約者探しの一環です。
お二人とも弟妹よりまず自分たちの婚姻を考えてくださいな。
「風邪をひいたって聞いたから見舞いに行ったのにすぐ追い返すし!元気になったと思えば鍛錬するから邪魔だって言うし!」
「お前だってファイエットに泣かされそうになると俺から逃げるだろ!アガットと和んでいる時も俺が傍に行くと顔を顰めるし!俺と居るのがそんなに嫌か!」
「はあああああ!?」
いけません上姉様その雄叫びは令嬢としていけませんそれ以上は。
沢山の賓客に囲まれながら、上姉様がもう我慢ならないと声高に、シリル様に向かって怒鳴りました。
「嫌じゃないわよ!健やかな時も病気の時もずっと一緒に居たいわよ!どうせ私しかそう思ってないわよ!分かってるわよばかぁ!」
子爵令嬢としては失格な言動。ですが感情的なのは上姉様の良い所。もこもこの金髪を乱暴に掻き混ぜますが、もこもこした髪に何のダメージも与えられません。
そんな上姉様に、シリル様も叫び返します。伯爵家の三男ですが、上姉様と同じように感情を偽れない素直な人なのです。
「ふざけるな!俺だってお前が、ベルナデットが笑っていようが泣いていようが傍に居たいって思ってる!お前こそ全然わかってない!!」
ところでお互い凄いことを言っているのは自覚なさっておられるんですかね?
「はあ!?私と結婚したら伯爵から子爵に格下げなのが嫌で結婚からずっと逃げていたくせに何言っているのよ!」
「違う!裕福だろうが貧しかろうが関係ない!それに逃げていたのは俺じゃなくてベルだろう!」
「はあぁあ!?私がいつ逃げたのよ!そんな覚えは全くないわ!」
「結婚の話になる度に喧嘩腰になってただろうが!」
「シリルがね!!」
「ベルがな!!」
お互いが掴み合うようにギャンギャンと矛先を押し付け合っています。まるで子供の喧嘩ですが、どちらも結婚適齢期の成人男女。
最初は何事かと視線を集めていましたが、今ではただの痴話喧嘩と思われ生温かな視線を集めています。
「いいわそれならここで決着をつけようじゃない!私はいつだって良かったんだから!」
「望むところだ俺だって待ち望んでたわ!!」
「誓いなさいよ!私だけを愛して敬ってずっと一緒にいるって!浮気とか絶対許さないんだからぁ!」
「誓うに決まってるだろ!お前も俺だけを慰めて助けろ!他の男を見るんじゃない!」
「いつ他の男を見たってのよ見てないわよ貴方だけしか見てなかったわよバッカじゃないの!?」
「俺だって浮気した覚えなんかねーわお前以外の女に目移りするわけないだろ馬鹿め!」
「言ったわね誓いなさいよ!?神に誓いなさいよバーカバーカ!」
「命の限り真心を尽くすと誓ってやるよ覚悟しろ!?」
「こっちの台詞よ!!」
お互いの胸倉を掴み合って、お二人は怒鳴るように誓いの言葉に相当する台詞を叩きつけました。
よく晴れた、赤薔薇の美しい庭先―――神父のいる、末っ子の私が婚約する、その前で。
「あ、結婚しました?」
「「えっ」」
えっじゃないですよ。
お二人とも、お互いしか見えていなさすぎです。
速報:末っ子の婚約式で長女が喧嘩腰で誓いの言葉を叫びました。
下姉様が、眼鏡をきらりと光らせながら上姉様を睨む。
「お姉様、妹の良き日に何をなさっておられるのです」
「だ、だってだってだってだって、ファイエット…!これはそのあのえっと」
「落ち着いてください上姉様!結婚おめでとうございます!!」
「違うわ待ってアガット!違うのよ!」
正気に返られた上姉様が周囲を見渡して、やっと自分たちが今どこに居るのかを把握したようです。思い出したともいえますね。シリル様を見上げれば、シリル様も呆然としておられます。その肩を、ご友人らしき男性がものすごく叩いているのが見えます。もみくちゃにされるまであと三秒のご様子です。
「大分言葉は崩れていましたが内容は間違いなく誓いの言葉でしたので、あとでそちらの神父様に証明書を書いてもらうとして」
「成程、では後ほど」
「ええお願いいたします」
「お父様を通さずそんなことするわけにはいかないでしょ!」
「お父様を通さず賓客の前で愛を誓い合ったのですから今更では」
「ファイエットが冷たい!」
「お父様もきっとお喜びになりますわ!」
「お願い止めてアガット!」
もともとシリル様は上姉様の婚約者ですので問題ないかと思われます。何かとお互い勘違いをしまくって婚約のお話が浮上したり沈殿したりと忙しなく婚姻が先延ばしになっただけですし。お父様も結婚しない結婚しないとやきもきしていらっしゃったもの。いい機会ですわ。
下姉様は呆れたように上姉様を硝子越しに眺めていますが、私はとても嬉しいです。とうとう上姉様が結婚を決意してくださって!
「アガット、貴方はもっと怒るべきです。これは貴方の婚約式なのですよ」
「ええ下姉様。そんな良き日に上姉様のご結婚も決まったのです。喜ばずしてなんとしましょう」
「あああああ末っ子が可愛いいぃ…それなのにそれなのにそれなのにそれなのに」
もこもこの金髪を振り乱し、上姉様は我慢ならぬと叫びます。
「何で相手がカエルなのよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ビシィッと音がしそうなほど勢いよく、私のお膝を指さす上姉様。
その指の先、私のお膝の上には丸い花籠。
その中央にちょこんと、立派なアマガエルさんがお座りしています。
興奮収まらぬ上姉様に、私はちょっとむっと眉を寄せました。
「いけませんわ上姉様。殿方を指さすような真似は」
「カエルなんかにアンタは勿体ないって言ってんのよぉおおおおお!!!」
上姉様の元気なお声が、青空から白い雲を吹き飛ばす勢いで響き渡った。
私はアガット・メルヴィン。ふわふわの金髪に、少し垂れたクルミ色の目の、つい最近社交デビューした子爵令嬢。
この度婚約することになったお相手は侯爵家の長男、ライアン様。
花籠でちょこんとお利口にお座りなさっている、アマガエルさんです。
そもそも何がどうしてそうなったのかというと簡単なお話です。
お父様が、事業を失敗して借金なさって、その肩代わりをして下さったのがカエサル侯爵だったのです。
不幸なことに子爵領で水害があり、借金に借金を重ねなければならない所に肩代わりのお話が出たので、お父様は私に頭を下げて嫁に行ってくれと願われたのです。
そもそも、侯爵家が何故子爵の末っ子である私を借金のカタに買うような真似をなさったのか。それは…お相手の、ライアン様に問題がありました。
星屑を集めたような銀の髪。寒空を写したような怜悧な瞳。騎士として鍛えられた体躯に小麦の肌。大層整った顔立ちと出で立ち。その頃私は社交デビュー前でしたので、実は見たことが無いのですが…年頃の令嬢は熱に浮かされたような目で彼を見詰めていたと聞きます。
ライアン様は、とても女性にモテました。それはもう、王女殿下の初恋と言われるほど逞しい男性でした。ちなみに王女殿下は御歳六つ。罪なことです。
しかし二年前、魔女にいい寄られ、それを無下にした結果、カエルになる呪いをかけられてしまったのです。
なかなか過激な魔女さんです。お伽噺の悪い魔女と呼ばれても文句は言えません。
魔女はそのまま逃亡。ライアン様はカエルのまま。
このままでは一生をカエルのまま過ごすことになってしまう…それを避けるため、何とか『真実の愛の口付け』で呪いを解くことが出来ないか、奮闘することになりました。
ですがご令嬢は、なんと言いますか…大体の方はカエルが苦手です。
そもそもカエルと分かっていて婚約してくださる方はいらっしゃいません。
なので、侯爵は何とかあの手この手でご令嬢をライアン様(アマガエルの姿)と引き合わせ、愛を育んでもらおうと必死なのです。
これが、借金の肩代わりをしてでも侯爵家が婚約者を求める理由です。
そうと分かっていて私を送り出したはずですのに、婚約式に呼ばれた上姉様は怒髪天とばかりに怒りを露わにしておられます。何故でしょう。
「思っていたよりカエルだったのよ!!」
「上姉様ったら、一体どんなお姿を想像なさっていたの?」
「蛙みたいなでぷっとした人間なのかと思ってたのよ!!でもまさかのカエル!!思った以上にアマガエル!!どこからどう見てもちょっと大きなアマガエル!!」
「姉様落ち着いて。不敬よ」
「何が不敬よアガットが不憫よ!!本気でカエルに嫁がせる気!?」
子爵家の私が急に侯爵夫人として立ち回るには無理があるので、婚約が決まった時から教育の為にカエサル侯爵家でお世話になっていました。
実を言うと、婚約式で本当に初めて子爵家は顔合わせをしたのです。事情が事情なので、あまり人は呼んでいませんが子爵家としては大人数が居る場です。子爵家の人間として、上姉様はちょっと落ち着かないといけません。どうどう。
此処は下姉様の様に、思った以上のアマガエルに顔色を変えず対応するのが正解です。恐らく下姉様には人目が無くなってから追及されることでしょう。ええ、今は落ち着いた対応が求められる場なのです。
…上姉様は落ち着けずに妹の婚約式で誓いの言葉を叫ぶことになったのですが…あれは、思った以上に末っ子の婚約者がアマガエルで混乱した上姉様が「アマガエルに可愛い妹は勿体ないわこんなことなら私が結婚して初夜で炙るわ!」なんて気持ちで叫んだから起こったことです。多分こう思っていたんだと思います。私の身を案じてくださった、妹想いの姉なのです。
そんな上姉様の「婚約を替われ」発言に、ご一緒していた婚約者のシリル様が反応して大喧嘩かーらーのー誓いの言葉でした。
…まとめてみても、何が起きたのかよくわかりませんね?
「帰るわよアガット!本気でカエルと結婚なんて考えられない!お父様はぶちのめして何とかするから!」
「お姉様、落ち着いて」
「ファイエットは何とかなったけどアガットはこれ絶対騙されているわ!」
「お鎮まりになって」
「めほっ」
「上姉様!」
冷静な顔で下姉様が上姉様の首裏を扇で殴打なさった。涼やかな対応がお見事です。お父様似のストレートな金髪を耳にかけ、ずれた眼鏡を直しながらこっそり嘆息なさっています。
「気持ちはよくわかりますが、落ち着いてください―――アガットの、婚約式です」
「下姉様…」
下姉様は私より早く他家に嫁がれており、それも遠方の辺境伯の元だったので、なかなか連絡が取れませんでした。この婚約を知ったのも婚約式の招待状で、です。
本当はお父様が借金をなさったとき一番の助けになれたはずなのに、情報戦で負けてしまっていたことが悔しいようです。でも仕方がないのです。辺境まで距離がありますし、お父様が辺境伯に借金のお話を出来なかったのも悪いのですから。
ちなみにそのお父様ですが、現在侯爵夫妻とお話し中でこの庭園に姿を見せておられません。ですがまだ来ない方がいいかと思われます。上姉様もですが、下姉様もお怒りなのに変わりはないので…下姉様の結婚も、お父様がポカをした尻ぬぐいでしたので、またか…という思いが、下姉様にはあるのです。硝子の奥の目が、その、とても凍てついておられます…。
「それと、確かに我が夫は乱暴者と名高く恐れられておりましたが、手綱を握れないほどの野獣ではありません。むしろ手綱を捌くのが良き妻の務めです。アガットも覚えておくように」
「私には少し難しそうです」
「いずれ可能ですよ。貴方は貴方のままで十分操作できるでしょうけど」
「アマガエルをどう操作するというの…かふっ」
「ベル―――!」
元気な上姉様はまだ何か言いたげでしたが、下姉様にど突かれて鎮まりました。すぐにシリル様が上姉様を回収していきます。喧嘩ばかりのお二人ですが、ああいった姿を見ると仲が良いなぁと思わずにはいられません。あ、結婚したんでした。末永くお幸せに。
ああいけない、子爵家の人間が騒ぎを起こしてしまいました。これを治めるのは同じ子爵家の私でなくては。下姉様もそう思っていらっしゃるのか、一歩下がって視線で私を促しておられます。
下姉様はお嫁に行かれたので、子爵から籍が抜けています。なので、姉ですが私の代わりは出来ないのです。ここは私がしっかり謝罪しなくては。ふんすっ。
私はそっと花籠を持ち、立ち上がります。不格好ですが、そのまま淑女としての礼をしました。
「この度は私共の婚約を祝う席にお集まりいただいたのに、お騒がせして申し訳ございません」
「僕がこんな姿なばかりに、愛しい婚約者殿のご家族を不安にさせてしまった。僕からもこの場を騒がせた謝罪をさせて欲しい」
「「…は?」」
ぱかっと。
上姉様も、シリル様も、珍しいことに下姉様も。
お集りの他の賓客の方々も。
ぱかっと、お口を開けて一点を見つめています。
どうなさったのでしょう。
「騒がせてすまない」
私の抱える花籠で。
アマガエルのライアン様が、とても低く渋みのあるお声で謝罪なさっただけなのに。
「「「「キェェェェアァァァァシャベッタァアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!????」」」」
皆さま貴族とは思えないほど絶叫なさったので。
婚約式前の混乱はご自身のことも含め、全てなかったことになりました。
あ、上姉様の結婚は別ですよ!神父様よろしくお願いします!
***
「皆さん驚いておられましたねぇ」
「まあ…僕は滅多に喋らないからね」
あれから無事に婚約式を終えて、私は花籠を膝に乗せたままライアン様とおしゃべりをしています。
カエサル侯爵家が用意してくださった、私の部屋。最初は桃色の多かったこの部屋ですが、今では観葉植物や落ち着きのある緑の多い、ライアン様が落ち着ける空間を目指しています。やっぱり葉っぱの上が落ち着くようなので。
勿論乾燥は大敵なので、優美な水桶も完備です。
「ですが、以前の婚約者の方々とはお話しされたのでしょう?」
「ん、んー…その、他の子たちは、まず僕を見ると逃げ出してしまうから…」
「あらまあ」
覚悟していても、婚約者ですとカエルが現れたら普通の令嬢はひっくり返るか逃げ出すのが普通らしい。
逃げなかった私がおかしいのだと、ライアン様はおっしゃいます。
ですが、私は別に、カエルさんは苦手ではなかったですし…。
婚約式の前に侯爵家で過ごしたのは、婚約相手がライアン様から逃げないかの確認期間でした。流石にどんな手を使ってでも連れて来たご令嬢ですが、無理やり結婚させるのは意味がありません。
侯爵家の狙いは、真実の愛を育むこと。対話が出来なければそれも叶いません。
もし私がライアン様から逃げるようなら、借金は別の形で返済することになっていたようです…このこと、姉様たちにはとても言えそうもありません。お父様の身の危険が増します。
「でも、君のお姉さんの反応は普通だよ。愛する家族がカエルと結婚するなんて、借金があっても絶対止める」
「ですがそういうお話で家を出ましたのに」
「言ってたでしょ。思ったよりカエルだったんだよ、僕は」
居心地悪そうにもぞもぞ動き廻るアマガエル。
苛烈な上姉様を思い出されたのでしょうか。なんとなく、お声がしょんぼりなさっている気がします。
「その…やっぱり嫌にならない?カエルと結婚なんて。君は、借金さえなければ別の家に嫁げたはずだ」
「借金がなければのお話ですけどねぇ」
「父が人買いみたいな真似をしてすまない…」
「いえいえ、貴族ですもの。お家の為に婚姻するのは当然のことですわ」
「お家の為にカエルと結婚するのは違うだろう…」
「あらまあ」
ライアン様ったら、しょんぼり期だわ。
時々訪れる、ライアン様がじめじめなさる時。私はこっそりしょんぼり期なんて呼んでいる。ご自身がカエルの姿だからかしら。ふとカエルの自分なんて、とじめじめなさる。
私はそっと、両手でライアン様を手の平に乗せた。ちょっと他のアマガエルより大きなアマガエルは慌てたようにぺたぺた動くけれど、そこから逃げ出すことはない。
「ライアン様。私は、ライアン様をお慕いしております」
そりゃあビックリしました。思っていた以上にアマガエル。そう思ったのは上姉様だけではないのです。私だって、侯爵家の談話室でちょこんと花籠に乗ったアマガエルを見て、びっくりしました。
どうせすぐ逃げるとツンツンしていたライアン様ですが、私が逃げないとそわそわしだして、どうしたらいいのかわからないようでした。
カエルの姿なので、騎士として鍛錬は出来ないライアン様。しかし書類のお仕事は多いらしく、書記の方と一緒にカエルの御姿のままお仕事はしっかりなさっている。
流石にお仕事のお邪魔は出来ないので拝見したことはないけれど、日中は執務室に籠られ部下の方の出入りが激しいので、察します。何なら花籠に乗って同僚が鍛錬している様子を見に行くことだってあります。ライアン様はお仕事熱心な方です。
私が侯爵夫人となるべく勉強していると聞き、本当にカエルと結婚する気なのかとビックリなさっていた。借金があるから帰れないなら、別の返済方法だってあるから気にせず帰れとおっしゃられて…カエルの自分と結婚する令嬢がいるわけないと、拗ねたようにお話しする様子がなんだか可愛らしくて。私はライアン様を支えて差し上げたいと厚かましくも思ったのです。
少しでも落ち着いた空間をと思って観葉植物を増やしたり、水桶を用意した私に呆れたりしていたようですが…お話しする声は、どんどん柔らかくなっていきました。
確かにカエルさんですが、お話しする声が優しくて…私はどんどん惹かれていきました。
私は、この方に恋をしている。
真実の愛が求められる婚姻で、私が恋を知ったのはカエサル侯爵様にとっては幸運でしょう。ですが全てはここからです。
今度は私が、ライアン様に恋していただかなければなりませんから。
だから私は、素直に想いを伝えることにしています。
「アガット、と呼んでくださる声が、私はとても好きですわ」
「…アガット」
「ふふ」
ぺたぺたと、手の平を確かめるように歩くアマガエルが愛おしい。
これは愛玩動物に対する想いではなく、上姉様とシリル様のように、神に誓う想いです。
「私、アガットは…健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しき時も…愛する人と支え合うことを誓います」
そっと両手を持ち上げて、振り返ったアマガエルに口付ける。
呪いを解く万能の魔法。真実の愛の口付け。
でも手の中のアマガエルは、きょとんと私を見上げるだけ。
「…今日もダメでした」
思わず私もしょんぼりです。
恋心を自覚してすぐ、想いを告げて口付けたのですが、ライアン様はアマガエルのまま。私の想いは、真実の愛ではないという事。
つまり、私の想いはまだ愛ではなく恋なのでしょう。宣誓するには、ちょっと早かったようです。
「待っていてくださいライアン様。この恋は…近いうち、愛に育ちますから」
いつか私は恋から愛を育てて、貴方の呪いを解いて見せます。
まだ真実と言えなくても。ライアン様からのお返事がなくても。私が真実の愛を育てられたらきっと、それが可能だと信じています。
そして人になった貴方をぎゅっと抱きしめてみたい…なんて、はしたないでしょうか。
アマガエルのままのライアン様も愛らしくて素敵ですけど、人としてのライアン様にもお会いしたい。何て私は我儘なんでしょう。
え、はしたなくて我儘って駄目です。私ったらいけないわ!
流石に照れてしまって、私は黙ってしまったアマガエルをそっと花籠に戻し、控えていた従僕に花籠を預けました。
いくらお姿がアマガエルでも、ライアン様は立派な成人男性ですから!部屋は別々なのです!
でも結婚したら一緒に…ああ!一緒に寝たら潰してしまうかもしれません。今からしっかり寝相に気を付けないと。私は将来夫を踏みつぶさないよう、こっそりカエルの小物と一緒に寝ています。これもまた勉強です!
ちなみに寝る前に、侍女に口を消毒されました。アマガエルはばっちいらしいので…ううん、複雑です!
***
花籠に入ったアマガエルを任された従僕は、そのまま何事もなく廊下を進み、主人の部屋へと入った。
部屋の端にある虫籠を開けて、花籠からアマガエルを移す。大人しく移動したアマガエルに餌を与えながら、呆れたように呟いた。
「いつまで黙っているつもりです」
「無理…心が無理…」
従僕への返事は、アマガエルではなく背後から聞こえた。
視線を向けると、何もないはずの壁がぐにゃりと歪んで人の姿になる。両手で顔を覆って蹲っているのは、大柄の男性。
身悶える男性を呆れた視線のまま見詰め、従僕は虫籠の蓋を閉める。先ほどまでライアンとして花籠で可愛がられていたアマガエルは、本当にちょっと大きいだけのアマガエルだ。
この身悶えている男こそ、本当のライアン・カエサルである。
―――何故、カエルにされたはずのライアンが人の姿をしているのか?
確かに彼は魔女に呪われてカエルになった。しかしそれは、一年だけの話。
カエルになる呪いは、一年きっかりで解けた。もともと姿を変える呪いは高度で、一生姿を変え続けることは出来なかった。ライアンは真実の愛がなくても呪いから解放されていたのだ。
しかしその一年で、ライアンは重度の人間不信に陥っていた。
人間ではなくカエルの姿をしたライアンに対して、周囲の人間は本音だけをぶつけて来た。今まで偽っていたものもすべて隠すことなく、ライアンが口を開くことをしなかった所為もあり、知能も蛙だと思われていたのだ。両親はライアンがライアンのままだと知っていたが、特に呪いを解く為に婚約者として連れてこられた令嬢たちは酷かった。仕方がないこととは言え、カエルと婚姻などごめんだと逃げた。今までライアンに愛しているといい寄ってきた女性すべてがそうだ。ライアンは人を信じなくなった。
しかしそれでは困るのが侯爵家。ライアンは一人息子で跡取りだった。家の為にも婚姻は結ばなければならない。侯爵の婚約者探しは続いた。
続いたが、人間不信のライアンは婚約者を信じられず、呪いがまだ解けていないことにして相手を試すことにした。アマガエルを用意して、それがライアンだと偽ったのだ。
悉く婚約者候補は逃げ帰った。侯爵は懲りず令嬢を連れて来たが、ライアンはカエルで試すことをやめなかった。
騎士としての仕事は、まだ呪いが解けて間もないことと、後遺症を調べるために一年様子を見るという事で書類仕事を回されるようになっていたので、ライアンが人の姿に戻ったことを知るのは本当に一部だけだったのだ。
そこに現れたのが、アガット。借金のカタに売られた貴族の娘。
なりふり構わぬ侯爵に呆れたが、どうせこの令嬢もすぐに逃げ出す。そう思っていたのにアガットは逃げなかった。それどころかアマガエルをライアンと信じて慈しみ、アマガエルがすごしやすいようにと創意工夫をやめない。侯爵夫人として勉強しながら、アマガエルを無下にせず、いつだって全てを許容するような優しさを持って接していた。
ライアンは呪いの副作用で周囲に擬態する能力を手に入れており、カエルのふりで会話することが容易だった。なのでライアンはカエルのふりをしながら、カエルを慈しむ婚約者と交流を深めるという珍事が起きた。
不幸なことに、アガットはアマガエルをライアンだと信じ切っており…ライアンもまた、真実を話す機会を探りに探って逃げ腰だった。
だからこそ、アガットが一途に真摯に誠実に、健気に真実の愛を信じてアマガエルに口付けるという事態に陥っている。
本当のライアンは背後で壁に擬態した腰抜けである。
しかもそのまま月日が過ぎて、真実を告げられないまま婚約式を迎えた。
子爵家の面々が度肝を抜かれるのは当然だし、親族がビビるのも当然だし、事情を知る一部が呆れた目で見るのも当然だった。
喧嘩腰ながら一組のカップルが結婚したのは意味が分からないが、とても健全だった。常に婚約者の背後に隠れている大男ほど不健全な奴もいないだろう。
「いい加減真実を告げてください。もうそろそろ騎士として復帰もするんですよ。まだ誤魔化すつもりですか。アガット様のお姉様が言った通り不憫でなりません」
「分かっている…分かっているんだ…!アガットが稀有な女性だと分かっている。僕の見た目でなく、内面を好いてくれていることだってわかっている」
「まあ、見たことありませんからね。人の姿のライアン様」
外見に惹かれようがない。
「だが今更どう伝えればいい…!?アガットからアマガエルにキスをしてくれるんだ!真実の愛であることを願いながらアマガエルにキスをしてくれるんだ!!呪いが解けなくてもまだ恋が愛に育ってないだけなんて言って笑うんだ!言葉が出ない!!他の言葉ならすんなり出てくるのに!」
「どんな言葉です?」
「アマガエルコロス」
「理不尽」
身代わりに用意された他よりちょっとだけ大きなアマガエル。誰よりも何よりもアガットに大事にされ、愛し気に抱えられ、キスをされるアマガエル。ライアンのライバルは間違いなくアマガエルである。
ライアンには心なしか、アガットに可愛がられるアマガエルが誇らしげに見えてならない。というか本当にこれはただのアマガエルだろうか。実は別の呪いにかかった誰かじゃないだろうか。自業自得とはいえアガットにキスを授かるアマガエルが憎すぎる。
「カエルの姿のまま婚約式をしてしまったのですから、結婚式までには真実を告げないとアガット様はカエルと結婚した令嬢になってしまいます。真実の愛など結局なかったのだと笑われることにもなるでしょう。アガット様の献身をないものとされる前に、しっかり正体を明かしてください」
「分かっている…」
本当にわかってんのかこのヘタレ。
従僕の呆れた視線が止まらない。
何せ、婚約式までには真実を告げるといいながら告げられなかったヘタレだ。まさかカエルと婚約式をする令嬢の姿を見ることになるは誰も思わなかったことだろう。もうこれで、アガットはカエル好きの変わり者だ。万が一この婚約が流れても、誰も彼女を貰おうとしないだろう。
…侯爵様はそれを狙って、カエルの誤解が解けないままでも婚約式を決行した気がする。
人間不信になったライアンが受け入れている、不器用なライアンを受け入れている令嬢だ。逃がすわけがない。
アガットはほやほやと幸せそうだが、不憫でならない。包囲網は出来上がっている。この事実を知ったならば、彼女の姉たちが何をするかわからないな…従僕はこっそり苛烈な長女と冷徹な次女の姿を描いた。
…うちの坊ちゃん、殺されないかな…。
ちょっと不安になった。
「ああ…なんて言ったらいいだろう。アガットは僕にいつも愛を告げてくれているのに、僕がカエルなばかりに伝わっている気がしない。僕だって、僕だって彼女を…なんで僕はカエルなんだ!」
「人間です」
カエルじゃないんだからしっかりしろ。
とにかく真実を告げて、さっさと呪いを解いてこい。
自分で自分を呪った愚か者は、偽ったが為に真実の愛を告げるタイミングを逃し続けている。
果たしてアガットは―――ライアンは、人の姿でアガットと結婚式を挙げることが出来るのか。
めでたしめでたしには、まだ遠い。
ライアンはアガットが告白する度フリーズするので、アガットはまだライアンは恋をしていないと思っている。勿論両想いだと嬉しいけれど片想いでも真実の愛なら呪いは解けると思って恋を愛に育もうと頑張っている。
何気にその考察は正解である。
ただしキスした相手が呪われていないから呪いが解けるわけがない。
知っている周囲はアガットの献身に庇護欲が爆発している。ライアン(人間)は腰抜けー!!と怒られているが、第三者が口出しするとこじれるので焦れ焦れ。皆槍を片手にアガットの背後に潜むライアンを突っつきたくて仕方がない。
ちなみにアガットは笑って許してくれたけれど、二人の姉は全力でライアンをいびり倒すことになる。