絵と数学とノットイコール 【問いかけ】
アトリエの窓からは、温かい光が差し込んでいる。
埃が反射してキラキラと宙に漂っていた。
神楽は時計を見る。1時40分。
神楽湊は絵画教室の先生だ。
絵画教室は地域に展開する小さいもので、アトリエも数か所に分かれて存在している。神楽はその内の一つ、このアトリエを任されている。
絵画教室は2時からで、神楽は準備を始めた。
デニム生地のエプロンを着て、腰で蝶々結びをする。駐車場に面している大きな窓ガラスの前へ移動し、反射する像で外見をチェックした。上手くいかずに何度か結び直す。
神楽の左手は義手である。
手の部分が二又の金属になっていて、物を挟むようにして使用する。身体にはハーネスが巻かれていて上半身の体幹の運動を利用して、フックの開閉を行っている。
神楽は長机と椅子を出し、上に新聞紙を敷く。早くやって来そうな生徒の描き途中の絵を出しておく。
絵画教室は沢山コースがあるが、子供のコースは、一週間に一度。二時から六時まで開いている。園児と低学年の小学生は下校が早いので、二時や三時に来る。高学年の子や中学生は部活終わりに来てくれる。だからどの生徒が来るかは大体予想出来るのだ。
駐車場に車が止まり、さっそく生徒がやって来た。
二時前だが、一時三十分に来てしまう生徒もいる。逆もまた然り、六時終わりだが七時に親が迎えに来る生徒もいる。
時間はあっという間に過ぎ去り、全員親が迎えに来て、帰って行く。
一人を除いて。
小学一年生の生徒である陽菜は、宿題の書き取りをやりながら言う。
「まだ来ない」
神楽も全く同じ感想で「そうだね」と返す。
「おそーい」
「もうすぐかな」
陽菜はノートをパタンと閉じて、ため息交じりに言った。
「先生、土曜日と日曜日の宿題も終わっちゃったよ」
「すごい!偉いね。じゃあ陽菜ちゃんに片付けを手伝って貰おうかな」
「いいよ!」
「箒でそこら辺を掃いてくれる?」
神楽は左手で部屋のアトリエの隅を指差す。
「はーい」
七時ピッタリ、駐車場に一台の自転車がやって来た。
「あ、陽菜ちゃんお迎え来たよ」
「え、ホント?」
「うん」
陽菜の父親は自転車から降り、のんびりアトリエに歩いて来た。
陽菜の父親は、水色のシャツの上に、黒いビジネススーツを羽織っている。ベージュのスラックスは黒いベルトで留められていて、スタイルの良さが際立っている。
少し頭を下げ、身体を縮めながら陽菜の父親がアトリエに入って来る。
身長は190センチ近くありそうで、顔は驚く程に整っている。芸能人と言っても信じてしまいそうだが、彼に限ってそれは無いと断言できる。
陽菜が不満げに言う。
「おそーい!」
神楽は挨拶する。
「こんにちは」
いっぱく遅れ、陽菜の父親は低い声で返す。
「どうも」
ニコリともしない。
手の平で絵を指し示し、陽菜の父親に説明をする。
「今日陽菜ちゃんは兎の絵を描きました。学校で動物を飼っていて、この白いうさぎちゃんを担当しているそうですよ」
陽菜の父親は頷く。
神楽は言う。
「みんな小さく描きがちですが、陽菜ちゃんは大きくしっかり描けているのでとても上手です」
陽菜が近づいて来て、父親を見上げて言う。
「毛もリアルでしょ」
「ああ」
父親の薄いリアクションに陽菜が眉を顰める。
神楽はフォローに回る。
「毛は白いだけじゃなくて、少し黄色が混ざったりしているのがリアルです。よく特徴を捉えていると思います。1年生とは思えないくらい上手です。陽菜ちゃん凄いね」
「うん!」
「今日絵、持ち帰る?」
「うん!持ち帰る!」
神楽は新聞紙で絵を丁寧に包装しながら、傍に立つ陽菜の父親に話をする。
「陽菜ちゃんはしっかりしていますね。土日の宿題も終わらせて、教室の片づけまで手伝って貰いました」
陽菜の父親は頷く。
神楽は机に置いてあったプラスチックの箱を持ってきて、陽菜に差し出す。
「そんな頑張った陽菜ちゃんには、飴を1個あげます」
「わーい」
陽菜は中から1つ選んで飴を摘まみだす。
「先生ありがと!」
「いいえ。家に帰ってから食べてね」
「はーい」
陽菜はタッタッタ、と走ってアトリエを出る。
神楽は陽菜の父親にも笑いかける。
「お疲れ様です。気をつけて帰ってくださいね」
陽菜の父親は神楽の義手をじっと見てから、神楽の顔を見る。
陽菜の父親は大分変わっている。陽菜の父親は立ち去らず、話もしないので、神楽は間を埋めるために言ってみた。
「パパさんも飴、食べますか?」
いっぱく置いて、陽菜の父親は低い声で答える。
「ああ」
「何でも良いですか?」
「ああ」
苺ミルクの飴を差し出すと、陽菜の父親は手を出して受け取る。
「…懐かしいな」
意外なリアクションに、神楽は驚きつつ笑顔で答えた。
「美味しいですよね」
扉が開き、陽菜が顔を出す。
「おそーい」
陽菜の父親は神楽を見た後、小さく頷いて踵を返す。
神楽は二人を見送った。
神楽は戸締りをしながら、陽菜の父親との短いやり取りを反芻する。
陽菜の父親は、いつも能面のように表情がなく、無口なことで有名だ。
陽菜は幼稚園の時から絵画教室に通っていて、神楽は二年以上顔を合わせているが、父親とは全く喋ったことがない。
今日が会話の最長記録である。
アトリエの先生たちの間では、その人間味のなさから、某有名映画からとった「マトリックス」というあだ名が付けられている。
マトリックスがどういった職業で、どんな生活を送っているのか、気にならないと言えば嘘になる。
全身が一式スーツではなく、ビジネススーツを羽織ったシャツとスラックスという微妙にカジュアルな格好からも一般的なサラリーマンではないのが分かる。だからといって専業主婦というのも違和感がある。堅気では無いのではないか、と言っている先生もいる。陽菜もあまり父親の話をしないし、全貌は未だ謎に包まれている。
江戸川は研究室で論文を読んでいた。机の上には膨大な紙の山がある。一度見たものをアウトプットするため、論文を印刷した紙を裏返し、白紙にボールペンで数式を書いていく。
江戸川は数学の准教授である。
仕事は数学科の生徒に授業をするのと、少人数で行う研究室での研究だ。生徒と協力して研究をしたり、生徒にアドバイスをしながら、自身でも論文を書いている。
一区切りついて顔を上げると、生徒が横にいた。
「先生、今大丈夫ですか?」
「ああ」
男子生徒は問題の紙を見せて言う。
「3です。ここのΣの導き方、こっちのαを代入して、その結果がこれに収束するっていうのはどうでしょうか」
「正解だ」
「よっし」
嬉しそうな3の生徒に、江戸川は用意していた100の問題が印刷された紙を差し出した。
「これは良い問題ばかりだ。今週までに全て解くと良い。3君の研究に必要な発想だ」
「うっ…」
「理論を組み立てる上で順序というのは大切だ。3君の事を思い出して作った問題もある」
「え!わざわざ有難うございます」
「気にしなくて良い」
「俺頑張ります」
「ああ」
ほかにも生徒がやって来る。
背の高い男子生徒は言う。
「4です。UDSFAのアルゴリズムについてですが、こう求めました」
4の生徒の書き出した数式を見る。江戸川は3枚の紙に書かれた細かい数式を見てすぐに紙を返した。
「もっと完結に求められるはずだ。1ページで良い。やり直しだ」
「…はい」
4の生徒は肩を落とす。
江戸川は先ほど読んでいた外国の論文を4の生徒に差し出した。
「これを読みながら少し休憩すると良い。解説を付け加えておいたから分かりやすくなっているはずだ。とても美しい証明だった。息抜きになるだろう」
「え、有難いですが……」
「嫌なら良い」
「いえ!読んでみます!」
「君なら出来る。少しずつやれば良い」
「はい!」
また生徒がやって来て、言う。
「1です、シミュレーションモデルの正確性について訊きたくて」
「1君か、昨日列補充について考えていたが、どうなった」
「はい、やってみました。これが…」
一通りアドバイスをすると、1の生徒は言った。
「先生、ありがとうございました」
江戸川は頷く。
1の生徒は言う。
「そうだ先生、新しく秋入試の子が入ってきますよ。話を聞いたところによると、先生の研究室は人気が高くて倍率高いらしいです。きっと優秀な人が入ってきますよ」
「…新しい生徒か」
江戸川が俯くと、1の生徒は胸を張って言った。
「任せて下さい、入って来た子には、先生のことは説明しておきます。番号は先生がつけてあげて下さい」
「助かる」
「いいえ。なんでも頼って下さいね」
江戸川は人の顔が分からない。
目や耳や口のパーツは把握できても、顔全体が理解できない。
「相貌失認」というもので、江戸川の場合、虫眼鏡で目、鼻、口、のパーツを拡大して表情などをいちいち把握しているような状態だ。
その上、江戸川は人の名前を覚えるのが苦手だ。
だから江戸川の研究室では、生徒の発案で、生徒に番号をつけることになった。
江戸川は数学だけでなく、「数字」が大好きなので、数字と生徒の情報は結びつきやすかった。
江戸川の研究室では、生徒は何か言う時は数字を名乗るのが決まりだ。
江戸川は昨日のことを思い出して言った。
「1君、一つ悩みがあるんだが」
「はい、何でしょう」
「姪のお絵描き教室で、先生に父親だと勘違いされている」
「あ、姪っ子さんがいるんですね」
「ああ。お迎えをしているんだが、その時に会うお絵描き教室の先生に、パパさんと呼ばれる。どうしたら良いだろうか」
1の生徒はきゅっと口角を上げ、すぐに手で隠した。
たぶん笑っている。
「うーん、そこまで気にする問題でもないと思います」
「そうか?」
「はい。訂正する機会があれば言えば良いんじゃないかと思います。悩むほどのものじゃないですよ」
「そうか」
「でも珍しいですね。先生がそんな事を気にするの」
「手がイコールの形をしている」
「え?どういう事ですか」
「そのままの意味だ。手が開く時、イコールに見える」
「…等号記号という事ですか?」
「そうだ」
「…」
1の生徒は謎だったのか、無言で首を傾げる。
江戸川は思い出して説明する。
「普段は閉じているが、新聞紙で絵を包む時、絵を押さえる手の形がそうだ。他にもある。例えば、セロテープを切る時、二本の指が開かれて、テープの隙間に入る。上から覗くと、曲っていた指が直線に見える。あと、逆光の時、たまに開いている手が、袖口から上をイコールで示している」
1の生徒は、ゆっくり二度頷いて言った。
「先生の感性は独特ですね。難しいなぁ。でも、覚えられたのは良い事ですね」
「ああ。あと、苺ミルクの飴を貰った」
「姪っ子さんにですか?」
「俺の分もくれた。とても美味しかった。久しぶりに食べた」
「へぇ!イコールさんは優しいんですね」
「ああ。だから勘違いされているのが少し気になった」
「なるほど、そうだったんですね。大丈夫ですよ、今度機会があれば言ってみて下さい。気楽に気楽に」
「そうだな」
1の生徒は小さく口元に笑みを作る。
「上手く話せると良いですね」
「ああ」
江戸川は絵の先生の顔を思い出そうとした。だが、上手くいかなかった。
彼の象徴は、義手の、少し歪んだイコールだ。
それは遠くからでも判別できるから、覚えやすい。
十月の第一週。トラブルは起きた。
絵画教室の終わり頃になって、クレーマーの親が乗り込んで来た。
絵画教室には、夏休みの絵の宿題をする夏のコースがあるのだが、その時、短期で通っていた生徒の親だ。
ちょうど他の生徒の親も迎えに来ていたので、少し面倒なことになった。
クレーマーは腰に手を当て、大声で言う。
「今日朝礼で夏休みコンクールの受賞式があったんだけど、娘が呼ばれなかったの。この絵は賞が取れるって言いましたよね?」
言っていない。
数学などとは違い、絵には正解が存在しない。人によって見え方も違う。だから、子供の描いた絵を具体的に評価する事はしないし、それは勿論、他の先生達もしない。暗黙の掟、当然の事だ。
つまり、賞が取れなかったということに対する、シンプルなクレームだ。
神楽は頭を下げる。
「すみません」
「今謝られても仕方がないの。もうコンクールは終わっちゃったのよ」
「すみません」
「どうして娘の絵は評価されなかったの?指導が悪かったんでしょう、認めなさいよ」
「ええ、すみません」
「すみませんばっかりね、ちゃんと謝罪しなさいよ」
「…すみませんでした」
クレーマーは腕を組み、威圧的に神楽を睨みつける。それから、神楽の腕に視線を向け、微かに口角を上げて言った。
「そんな腕でちゃんと教えられるのかしら。自分で筆も持てないようだけど、子供に教える資格なんて無いんじゃないの?」
「いえ、筆は持てます」
「そういう話じゃないの!」
「すみません」
その時、急に陽菜の父親が割り込んできた。
陽菜の父親は毅然と、弁護士のように言った。
「刑法第231条、侮辱罪に当たる。公然と人を侮辱した者は、交流または科料に処するというものがある。また障害という具体的な事実を挙げて、相手の社会的価値を下げるような行為は名誉棄損罪に当たる。刑事罰で逮捕される条件が揃っている」
陽菜の父親の発言に、クレーマーの親はたじろいだ。
他の生徒の親がこそこそとお喋りをし始め、危機感を覚えたのか、クレームを入れていた親は引き下がり、無言で踵を返して去って行った。
神楽は陽菜の父親に言った。
「助かりました。法律にお詳しいんですね」
陽菜の父親はいっぱく空けて、言う。
「数字に関係するものは覚えやすいので」
聞き間違いかと思って、神楽は問い返す。
「数字、ですか?」
「231は楔数の素因数が等差数列になる2番目の数だ。俺は等差数列が好きなので、231という数は好きなんだ」
神楽は目を瞬かせる。
無言でいるのも良くないと思って、相槌を打った。
「えーっと、そうなんですね」
陽菜が声を上げる。
「おじさん!先生が困ってる!」
神楽は驚いた。
「おじさん?お父さんかと思ってた」
陽菜は肩を竦め、腕を組んで言う。
「ママとパパは働いてるけど、おじさんは仕事をして無いから、暇なんだよ。それでわたしを迎えに来てくれるの」
「へえ」
神楽が陽菜の伯父を見ると、陽菜の伯父は眉を上げて反論した。
「仕事はしているぞ。終わりがちょっと早いだけだ」
不信感が顔に出てしまったのか、陽菜の伯父は胸ポケットから名刺を出して神楽に渡した。神楽は両手で受け取る。
江戸川春秋
〇〇大学数学科准教授
江戸川は言う。
「数学の准教授をしている。代数学の分野です」
「代数学?」
「簡単にいえば、数学の構造を研究する学問だ」
「へえ!凄いですね」
神楽は笑顔を作り、言った。
「僕は神楽湊と言います。絵画教室で働き始めて五年になります。先生達の中じゃ一番新米です」
「5年で1番ですか。歳は幾つですか」
「27です」
「若いですね」
神楽は微笑んで答えた。
「良い先生になれるように頑張ります」
江戸川は一つ頷き、言った。
「俺は37だ。ちょうど君とは10離れている」
「そうなんですね、もっとお若いと思っていました」
陽菜がチラリとこちらを見て、江戸川の腕を引っ張った。
「おじさん、帰ろう。絵の教室は六時で終わりだもん」
「そうか」
「先生、ありがとうございました。さようなら!」
「気を付けて帰ってねー」
二人は自転車で帰って行った。
それにしても、陽菜の父親は父親ではなく、おじで、更に数学の准教授をやっているとは思いもしなかった。
ハンサムで数学者で浮世離れした天才という三拍子は、同性の自分でも格好良いと思う。
「…そんな事より」
神楽は自身に言う。
コンクールまで一か月を切った。
神楽は画家を目指している。働きながら絵を描き続け、もう十年以上経つ。
一年に一度佳作に入るか入らないか、のレベルだが、神楽は諦めていなかった。そもそも夢なんてお金と命がある限り追い続けられるものだ、と神楽は思っている。
神楽はアトリエの端に押しやられている三脚椅子を持ってきて、駐車場とは反対側にある、水道の上にある窓を全開にした。生徒の描き途中の油絵が並べられている一番奥から、自分の絵を取り出し、イーゼルに置く。もう一つ椅子を持ってきて、そこに絵具を開いた。
窓からは、欠けたブロック塀に囲まれた古い空き家の庭が見える。
神楽は欠けた場所から覗く、柿の木の景色を描いていた。
右手だけを使い、白い紙のパレットに赤い絵の具と黄色の絵の具を出す。
油絵はパレットで絵具を混ぜるのはなく、キャンバス上で色を付け足しながら、赤と黄色を残しつつ橙を作っていく。たわわと実り、少ししなった柿の木は夕陽を受けて赤みがかっている。だが、影の部分は酷く暗い。
どうしたら秋の渋さと温かみが伝わり、美しく見えるか、少し離れて絵を見て、神楽は考えながら絵を描き進めた。
江戸川はひたすら数列を書いていた。
自身の回答を見直し、首をひねる。
「…もっと完結に…美しく出来ないものか」
本来、数学は、ただ問題を解くのではなく、理論や構築を打ち立て、それを証明する事である。
あらゆる論文や大学の授業で扱う数学の内容はそれが大半で、数学は数式などの「美しさ」を追及する学問、と言われている。
休憩でコーヒーを飲んでいると、男子生徒がやって来て言った。
「先生の出してくれたこの問題、めっちゃ綺麗っすね」
「そうだろう」
「はい、良い問題でした」
「俺が学生の頃に扱ったものだ」
「えー先生凄い。こんなの全く思いつきませんよ」
休憩だと判断したのか、他の生徒もやって来て色々と話をする。
話すといっても、江戸川は頷くだけだが。生徒はそれで満足らしい。
ふと女子生徒が言った。
「そうだ、先生。イコールさんに無事訂正できました?」
「出来た」
「良かったですね!」
イコールさん?と生徒たちが首を傾げ、前回話を聞いていた生徒が彼等に説明する。
生徒達は小鳥のように、一斉に喋り出す。
「手の形がイコールに見えるんだって、だからイコールさんで、先生はイコールさんって覚えられたっぽい」
「へー」
「苺ミルクの飴を貰ったって先生が嬉しそうに報告してくれたの」
「何それ可愛いー」
生徒の言う可愛いという表現、特に事象を可愛いと感じる感性はとても不思議だ。
江戸川は数列の書かれた紙に視線を落とす。
まだこちらの方が分かりやすい。
数学は理解者だ。一番自分の傍にいて、一番自分を受け入れてくれる。
生徒が言った。
「先生、また困ったことがあったら、教えて下さいね」
「…分かった」
だが、こんな出来損ないの先生でも、生徒は理解してくれようとする。
数学の二番目に愛おしい、大切な存在だ。
神楽は絵画教室の仕事と、画材屋のバイトをしている。
絵画教室は週に一回。画材屋のバイトは週に五回。日曜日は休業で、絵画教室の日がバイトの休みに当たる。
神楽は画材店で品出しの作業をしていた。
額や絵具などぎっしり詰まった段ボールを荷台を利用して運び、品物を店内に並べる。重労働だが、慣れるとそうでもなくなる。
神楽は段ボールの底に右手を差し込み、上半身で支えながら抱えるようにして持つ。店内は大人一人しか通れないくらいの細い道ばかりなので、荷台は使えない。
絵具が入った段ボールを絵具コーナーの前に置くと、アルバイトの女性が言った。
「神楽さーん、ありがとー」
「絵具の方はお願いしますね」
「はーい」
彼女は美術大学を卒業したばかりで、最近バイトを始めた。
名前は「畑山愛」。真面目に働かないが可愛いので、お客さんにも店長にも甘く見てもらっている。
その時、客に呼ばれた。
「すみませーん」
「はいっ」
神楽は作業を止めて客の元へ向かう。
四十代くらいの女性が言った。
「絵の具が欲しいんだけど」
「どのような用途でしょうか」
「子供が絵を描くの」
「学校で使われるものですか?」
「そうそう」
「何年生でしょうか?」
「三年生よ。普通に授業で使うやつ。絵の具だけ失くしちゃったみたいなのよ」
「そうなんですね、大変でしたね~」
「本当。とりあえず筆とかバケツとかはあったんだけど、どうして絵具だけ失くす?っていう」
「あはは、でもそういうお客さんは良くいらっしゃいますよ」
神楽は手の平で指し示す。
「えーっと、授業で使うのはこの辺りですかね」
「あ、多分これ。ありがとう」
「良かったです」
女性は絵の具のセットを手に取ってから、横の棚にある絵の具を見て言った。
「こっちの方が高いけれど、高学年になったらこういう物の方が良いのかしら」
「あ、これはまた別の種類なので、小学校の内は学校から指定が無い限りこれで大丈夫だと思います」
「そうなの?どう違うの?」
神楽は近くの壁に掛けられていた二つの絵を手で示す。
「あちらと、あちらの絵を見ていただけますか?水彩絵の具というのは、大まかに「透明水彩」と「不透明水彩」の二つに分かれています。そこにある絵が透明水彩の絵で、向こうが不透明水彩の絵ですね。ジ〇リのアニメーションの背景なんかにも使われています。小学生の子供達が使っているのはこれと同じ「不透明水彩」です」
「あー!そう、こんな感じ。色が濃い方よ。なるほどね、種類が違うのね」
「はい」
神楽は笑顔で頷く。
女性は言う。
「あ、待って、他にも聞きたいことがあるの。筆がボロボロなんだけど買い換えた方が良いのかしら?」
接客が終わると二時だった。休憩を取りたいが、店長と畑山はほかの店に商品の搬入をしに行ったきり帰って来ない。
仕方なく品出し作業に戻っていると、お客さんがやって来て、話し掛けてきた。
「額縁はあるかい?」
よく来てくれる、常連のおじさんだ。年頃は五十くらいでいつもスーツを着ている。普通のサラリーマンっぽいが、話をすると、絵画の知識が豊富で自分の方が勉強になるくらいだ。
神楽はニコリと笑って立ち上がる。
「はい。ご案内いたします」
棚と棚の間の細い道を抜け、額の場所まで歩きながら、男は言う。
「描くのは油絵で、コスモス畑の予定だ」
「素敵ですね。秋も深まって来ましたし、季節的にもピッタリですね」
「そうだろう?私もそう思ってコスモス畑に決めたんだ」
額縁の前で神楽は問う。
「サイズなどは如何いたしましょう」
「平面サイズで厚さは20mm程度、158×228SMだ」
「分かりました。えーっと、ここにあるものですが、種類はどうされますか?」
男は柔らかく笑みを浮かべ、神楽に言う。
「コスモス畑を描くには、どんな額縁が良いと思う?」
「え、僕の考えですか」
描いても居ない絵を想像して、額を決めるだなんて、難易度が高すぎる。
男は神楽をじっと見つめる。
「そうだよ、君の意見が欲しい」
神楽は考える。
そうでなくても、「額選び」というのは額の専門店で行われるような仕事だ。
自分に正解を選べる自信は無い。
この男性がどんな絵を描くのかも、自分は知らないのだ。
「すみません、僕は」
「君に訊いている。君の意見が聞きたい」
男は譲らない。
神楽は言う。
「分かりました」
出来るだけ考えて応えるしかない。
神楽は問う。
「この絵はどこに飾る予定ですか?」
「玄関だ」
「どんな玄関でしょうか。壁の色とか、置いてあるものとかを教えてください」
「白いタイルの壁で、床は黒い大理石だ。靴は多くない。黒い靴が多い」
コスモスの絵やサイズだけで考えると、明るい木の額が似合いそうだが、場所を加味すると、絵だけが浮いてしまいそうだ。
「コスモスの花はどんな色ですか?」
「白とピンクと、薄い桃色だね」
「空はどのくらいの割合で映っていますか?」
「3分の1くらいかな。雲は無い。滑らかな水色だ」
神楽は額縁を見回して熟考し、言った。
「白の額縁でローズカラーの線が入ったもの…少し華やかな樹脂製のものはどうでしょうか」
「おお、良いじゃないか」
男はぱっと笑う。
この男性はおそらくお金持ちで、いつも高額のものを購入してくれる。高額なものは質が良い事を理解してくれている。だからここは遠慮なく高額なものをすすめるのが商売上手と言えるのだが、高額で似合うもの、が自分には分からなかった。
神楽は踏み台に乗り額縁を取って、男に見せて言う。
「少しポップで安価かもしれませんが、お部屋の内装のことを考えると、木製の額よりも合うかと思いました。飾ってみて良くなければ、すぐに対応いたします」
男は微笑んで言った。
「ありがとう。これにするよ」
帰り際になって、畑山が唇を尖らせて言った。
「神楽さんはー、お喋りが好きですよね」
「ん?」
仕事中私的なお喋りは一切していない。
意味が分からず神楽が首を傾げると、畑山は眉を顰めて言った。
「一人のお客さんに時間かけすぎですよ。効率悪いです」
神楽は苦笑して言った。
「お客さんが話をしている最中に話を切り上げる方が良くないですよ。効率悪いっていうのは何の効率ですか?」
畑山は視線を彷徨わせ、ぽつりと言う。
「…色々」
品出しなんて、最低限のノルマも終わらない畑山の分まで手伝ってあげているのに、酷い言い草だ。だがそれを詰っても仕方がない。
神楽は優しく言った。
「僕はちゃんとやっていますよ。お疲れ様でした」
神楽は丁寧にエプロンを折り畳み、リュックを背負って画材屋を出た。
畑山はムッとしていた。
可愛い自分よりも、客は神楽に話し掛ける。
常連の客なんか、いつもそうだ。自分だって額は選べるし、神楽と違ってちゃんと美術大学にも行ったし、よりも良いものを選べる自信もあるのに、今日も神楽の手柄、みたいな感じだった。何だか納得いかない。
畑山は椅子の足をコツンと蹴った。
神楽は帰宅して、何気なくスマートフォンを開くと、メールが届いていた。
【件名 新しい義手についてのお話です】
義手を製作してくれる、義肢装具士の男性だ。
義肢は一人一人違うので、採寸し、話し合って調整して義肢を作る。
子供の頃からお世話になっている、信頼できる義肢装具士さんだ。
内容は、筋電義手についての話だった。
筋電義手についての知識はある。
現在神楽が使用しているのは、フック式のもので、体幹に巻いたベルトを利用しながらフックの先を開閉して使うものだ。
筋電義手というのは、本当に手の形をしていて、自分の意のままに手を動かせる、らしい。
今まで保険適用が効かず高額だったが、3Dプリンターの普及によって比較的安価で作ることが出来るようになったという話はニュースを介して知っていた。
興味があればぜひ来てください、と書いてあったので、神楽はお願いしますと連絡を返しておいた。
義肢装具士の人と話し合って、神楽はフック式のものから、筋電義手に変えた。
扱い方に慣れてきて、絵画教室でも装着してみる事にした。
その初回。
陽菜以外の生徒が帰って行き、神楽は無事仕事を終えられて、一安心する。余りにも便利で、感動してしまった。五本の指が動くというだけでこんなにも違うものだとは思わなかった。
陽菜は気を遣っているのか、手の事には触れてこない。
陽菜は頬杖をついて言う。
「まだかな~」
「あ、来たんじゃない?」
カラン、とドアが開いて、江戸川がやって来た。
神楽は笑顔で言う。
「こんばんは」
江戸川は頷く。
神楽は陽菜の絵を手で示す。
「今日、陽菜ちゃんは秋の絵を描きました。栗、紅葉、柿、サンマ、赤トンボ、秋のものを沢山知っていて素晴らしいです」
江戸川は絵を指差す。
「これは何だ?」
陽菜が覗き込んで答える。
「おじさんが買ってくれたケーキ。栗のケーキ。栗は秋だから」
江戸川は頷く。
神楽は陽菜を褒める。
「すごーい!陽菜ちゃんはよく知ってるね」
「えへへ」
「先生も栗のケーキ好きだよ、美味しいもんね」
「うん!」
「絵は持ち帰る?」
「もちかえる!」
いつものように新聞紙で絵を包んでいると、江戸川が覗き込んで言った。
「フックじゃないのか」
神楽は驚いて手を止め、江戸川を見る。
まさか気が付いて話をしてくれるとは思わなかった。
神楽は微笑み、答える。
「はい。変えました」
「フックがダメになったのか?」
自己紹介をしたあの日から、少しずつ会話が増えた。
嬉しく思いながら、神楽は言う。
「いいえ、新しいものに変えただけです。見た目もそうですが、機能性も充実しているので動かし易いんです」
「どんな機能が変わったんだ?」
「えーっと、少し難しい話なのですが、今まではハーネスを操作して動かす能動義手という物だったのですが、筋電義手というものに変えました」
「筋電義手と能動義手はどう違うんだ?」
神楽は腕を捲り、義手を見せて言う。
「筋肉を動かす時に、微弱な電位が発生するのですが、それを増幅させて、こうやって手先部分の開閉を行っているんです」
「ほう、筋肉を動かすというのは、君自身の意思で動かしているのか?どこの筋肉なんだ?」
「それらを説明するには、まず幻肢という症状を説明しなければいけません」
「げんし?」
「幻に肢と書きます。手足を切断した後も、まだあるように感じる手足のことです。例えば目を閉じて、手をグーパーさせることが出来ますよね。それと同じように、幻肢にも運動感覚があって動かすことが出来ます」
「…凄いな、君もそうなのか」
「はい。手足を切断された方の95%から100%に幻肢が存在すると聞きました。その現象を利用します」
「どう利用するんだ?もっと詳しく教えて欲しい」
江戸川が詰め寄った時、陽菜が怒って、江戸川の腕を引っ張って言った。
「おじさん、もう6時過ぎてる。終わりの時間」
「…そうだな」
「あ、ちょっと待ってください」
神楽は義手装具士から貰った説明の紙をコピーして、江戸川に差し出した。
「義手の説明書です。仕組みも書いてあります。良かったらどうぞ」
江戸川は目を大きくして受け取る。
顔を上げて、江戸川は神楽の顔を凝視した。
江戸川は、じっと神楽の目を見つめて丁寧に言う。
「ありがとう」
神楽は微笑んで小さく首を振る。
「いいえ。興味を持ってくださって嬉しかったです。みんな形については聞いて来ますが、機能については触れて来ないんです。この義手はとてもよく出来ているので、誰かに聞いてもらいたいなって思っていました。質問があれば、また聞いて下さい」
神楽は微笑んで二人を見送った。
翌週。
絵画教室で江戸川は言った。
「以前、君が義手について質問をしても良いと言ったが、頼み事でも良いだろうか」
「頼み事、ですか?」
「ああ。君の義手の動きを見せてくれないだろうか。あれから興味を持って色々調べてみた。気になった事がある」
「はい。何でしょう?」
「とある論文で、耐故障性を高くするというものを読んだ。人には日常的に使用する手の形が存在する。耐故障性というのはその形をしっかり再現し、自由度は低いものの日常生活で耐えうるものをしっかり作るという内容で興味深かった。君の筋電義手がどのように動くのか見てみたいと思った」
「これじゃ駄目なんですか?」
神楽は腕をグーパーする。
江戸川は頷き、右手で丸を作った。
指の関節をなぞりながら言う。
「人の手には複数の関節が存在するが、例えば何かを掴むような動作をした時の、第1関節の曲げ角度、第2関節、第3関節の外角。第1関節と第2関節の角度の比率を見てみたい。他の把時動作、持つものによって当然関節の角度も変わる。それを実際に図りたい。君の腕がどう調節されているのか見たい」
神楽が目を丸くすると、江戸川は近づき、必死になって話しはじめた。
「ダメだろうか。指差しや、ペンを掴む時などの三面保持、摘まみ、荷物を持つような鉤握りをしてもらうだけだ」
神楽は考えて言う。
「えーっと、僕は色々なものを持てば良いんですかね。ペンは必然的に三面保持の持ち方だし、鞄は鉤握りが日常動作ですから、様々なものを持てば測れますよね」
「そうだ。君は聡いな。仕事の一環として捉えて欲しい。こちらから謝礼をしたい」
神楽は苦笑して返事をする。
「良いですよ。でも陽菜ちゃんは?」
「一度連れて帰って、また来ます」
「そうですか。でも今日は六時から大人の色鉛筆のレッスンがあるので、アトリエは空いていません。今日実験は出来ないですね」
神楽が言うと、江戸川はさらっと返した。
「そうか、それなら俺の家に来ては貰えないだろうか。ここから五分も掛からないんだ」
神楽の言葉を遮り、江戸川は頭を下げて言った。
「お願いだ」
「ちょっと、頭を上げて下さい」
本当に逼迫した様子で江戸川は頼み込んでくる。
そこまで知りたい事なのだろうか。
江戸川が眉根を寄せて言う。
「ずっと気になってしまうんだ」
今日、アトリエには神楽のほかに、アトリエを仕切るベテランのおばさん先生もいた。大人の色鉛筆のコースを担当するのだが、神楽の仕事はこれで終わりだ。
やり取りを見ていたおばさん先生は笑って手を振った。
「かぐちゃーん、行ってらっしゃーい」
上司にもそう言われてしまえば、断れない。
江戸川は大事なお客さんだし、謝礼も出してくれると言っている。
神楽は承諾することにした。
二人が自転車なので、神楽は走る羽目になった。
「せんせーい、おそーい」
江戸川も、ちらっと神楽を振り返るだけで、遠慮が無い。
やっぱり断って帰れば良かったかもしれない。大体、義手を測定させて欲しいなんて頼み事、意味が分からない。
だが、神楽は断るのが苦手だ。
陽菜の家へ陽菜を送り届け、結局、江戸川の家へ向かった。
江戸川の家は戸建てのアパートの二階だった。アパート自体も良くある古いものだ。
玄関に入った瞬間、ドアの開いた僅かな衝撃で、玄関の棚に山積みになっていた文庫本がトストスと音を立てて零れ落ちた。
同時に、神楽の江戸川への配慮の気持ちもずれ落ちる。
神楽は思わず言った。
「玄関に本を置いておくって、どういう事ですか」
「片付ける場所が無かったんだ」
「意味が分かりません」
顔を上げ、その衝撃的な光景に神楽は目を疑った。
床が見えない。
様々な装丁の本が無数に置いてあるせいで、床がパッチワークのようになっている。
絶句する神楽に、江戸川は言う。
「廊下は海外の雑誌やペーパーの場所に分類した。良く使うのは、リビングにある」
扉を開け、リビングを見て、絶句した。
紙で出来た雪の上に、冷蔵庫とコンロと、ちゃぶ台とパソコンが埋もれているような感じだった。ちゃぶ台やその周りには変な魔法陣みたいなものが大小無数に描かれていて、悪魔が降りて来そうだった。
「…この魔方陣は何ですか?」
「それはこの前やっていた授業で使ったものだ。生徒のものだ」
「雑に置いておいて良いんですか?分からなくなっちゃいますよ」
「それは良いんだ、もう使わない。仕事の後だし君も疲れたろう、コーヒーくらいならある、そこに座ってくれ」
「どこですか」
「どこでも構わないぞ」
神楽は考え、キッチン付近を片付け始めた。水が垂れたりしたら紙が濡れてしまうだろう。
とりあえず、無造作に重なる紙を拾い上げ、纏めていく。
潰れた虫の死骸が出てきて、神楽はフリーズした。
冷静に言った。
「義手を測定する前に、掃除をしますね」
「掃除?しなくて良いぞ」
江戸川の言葉を無視し、神楽は早急に掃除を始める。
二時間後、紙は積まれて整えられ、マス目のように木の床が見えるようになった。
江戸川は冷蔵庫に寄り掛かって、英語と数式の書かれた紙をパラパラと読んでいた。
神楽は江戸川の肩を揺さぶり、言った。
「軽く掃除をしました。どうですか」
江戸川はああ、と顔を上げ、部屋を見てから、拍手して言った。
「掃除をしてくれたのか…素晴らしい。綺麗だ。ありがとう」
「数学の研究って、パソコンでしないんですか?」
「パソコンで出来ることは頭で出来るから、章ごとの順番が決まり、組み立てまで出来たらパソコンで一気に打ち込んで論文を作る。あと俺は目が悪いから、電子機器は使いたくないんだ」
江戸川が立ち上がる。
「さあ、測ろう。こっちの部屋に来てくれ」
江戸川の部屋には、大量の定規やコンパスみたいなものや、とにかく様々な種類の見た事が無い測りが置いてあった。
数列の書いた紙も足の踏み場もないくらい散乱している。
神楽はいろいろと諦め、指示されるまま、色々な物を持った。
江戸川は様々な方向から写真を撮り、一つ一つ指の関節の角度を、定規を当ててあっという間に測っていく。
三十分後、江戸川は言った。
「ありがとう。面白かった。少しだが受け取ってくれ」
スラックスのポケットから、直接一万円札を取り出して神楽に差し出す。
何だか謝礼の事はどうでも良くなってしまった。
神楽は苦笑して言った。
「いいえ、大丈夫です」
「いや、悪い。掃除もして貰った」
「大した事じゃありませんよ。いつも陽菜ちゃんをありがとうございます。じゃあ僕は帰りますね」
「待ってくれ。何もしない訳にはいかない。飯はどうだ?」
ご飯…否応なしに身体が反応してしまった。神楽は貧乏だ。
江戸川は言う。
「今日、教授に地元の土産で蒲焼きを二尾貰った。うな重にして食べないか」
その瞬間、おなかが鳴った。
冷蔵された蒲焼きの袋に書いてあった「美味しい食べ方」を読み、神楽は近くのスーパーでアルミホイルを買って来た。江戸川はレンジで良いじゃないか、と言うが、「当日発送国産うなぎ、生の状態から串を持ち、丁寧に手焼きをしています」がレンジでチンで良い訳が無い。
神楽がアルミホイルに包み、じっくりトースターで焼いていると、その傍らで江戸川は神楽の腕にペタンと定規を当てて言った。
「君は随分細いが、ちゃんと食べているのか?」
「そうですね、世間一般よりは食べていないかもしれません」
「絵画教室は給料が少なそうだな」
「そういう事言わないで下さい。楽しい仕事で気に入っています」
「絵は習い事の中でも優先順位が低そうだ。陽菜は最近生徒が少ないと言っている。所得が下がる中、画材道具の値も上がる。利益を得るには難しい商売と言えるだろう」
神楽はアルミホイルを開け、蒲焼きの様子を見ながら言った。
「江戸川さんは、10歳も年上で、生徒さんの保護者で、大切なお客さんですが、あまり言いたくありませんが、随分デリカシーが無いですね」
「よく言われる。だが君は怒らないから、つい言ってしまう。悪かった」
まったく悪びれる様子がなく、江戸川はちゃぶ台の前に胡坐を掻いて座る。
容姿だけならとても格好良いのに、色々と残念だ。
出来上がったものをご飯の上に乗せ、神楽はちゃぶ台の前まで持って行った。
「良い匂いがする」
「そうですね。ご相伴に預からせて頂きます」
神楽と江戸川は手を合わせて言う。
「「いただきます」」
蒲焼きと、ご飯を合わせて食べる。
余りの美味しさに神楽は無言になった。
途中まで食べて、少し落ち着いてから神楽は言った。
「中はふんわり、皮はパリパリで本当に美味しいですね!」
江戸川はもぐもぐしながら頷く。
「ちゃんと焼いて正解だったな」
うな重を食べ終えて、神楽は言った。
「江戸川さんの今の職業、准教授って、博士にならないといけないんでしたっけ?凄いですね、部屋が汚いとか言っちゃいましたけど」
「そうだな、大学へ行って、その後大学院に行き、五年過程を修了しなければならない。それから大学教員のポストに応募し、助手、助教、講師、准教授とステップを踏む。俺の場合は論文を評価されて、比較的早く准教授になる事が出来た」
「へえ、すごい。努力が必要なんですね」
江戸川は首を傾げる。
「どうだろうな」
江戸川は神楽にたずねる。
「君は絵が好きなのか?大学には行っていないというが、独学か?」
「一応予備校で勉強していたので、独学じゃないのかな」
「予備校?」
「基本的に美術大学は実技もあるので、美術の予備校に入って絵の勉強をしないと受かりません。金銭的な問題もあったので、高校を卒業してからは、予備校に入って絵の勉強をしながら、バイトをしていました。そこで卒業生からも話を聞けたのですが、大学では絵の勉強はあまりせず、造ることや就業に向けての活動がほとんどだったと聞いて、ふと大学に行く意味があるのかと思ってしまいました。就業もイラストやインテリア系のものを勧められるらしくて、悩みました。僕は絵を描く職業が良かったんです」
「なるほど。美術大学はそういう感じなのか」
「いえ、これはあくまでも僕が話を聞いた感じなので、違うところも沢山あると思います。ですが、そもそも国公立でも美術大学は年間80万くらいするので、それを4年間、300万以上と考えるときついなと思いました。ですが、予備校は大学の半分以下のお金で大学以上に絵の技術を磨けるので、意外と好条件なんじゃないかと思いました」
「なるほど。自分の考えをしっかり持っていたんだな。若いのに落ち着いているな」
「僕は家族がいないので、頼れるのが自分しか居ませんから」
「そうなのか」
「はい。そうこうしている間に絵画教室のバイトに行き会って、楽しくて一生懸命やっていたら、先生達から自分の状況を聞かれました。話したら、雇用する提案をしてくれて、僕は絵画教室で働くことを決めました。自分が満足するまで予備校に通って技術を磨きました。そうして足りない部分を画材屋でバイトをしながら生計を立てる生活が日常になっていました」
「そうか。さっきは悪い事を言ったな」
「いいえ、江戸川さんの言う通りです。なかなか難しいですね。将来のことも考えて貯金は増やしたいのですが、現状維持で精いっぱいです」
「そうか。家族は…いや、何でもない」
「気を遣わなくても大丈夫ですよ。元から居ませんから。僕は捨て子で施設で育ちました。捨てられた理由は分かりませんが、腕は先天的なものだったので、その可能性は高いと思います」
「そうなのか。親は完璧な状態を望んでいたということか」
「そうだろうと思います。子供の内は成長するのに合わせて義手も買い換えなければいけませんし、とてもお金がかかります。僕は子供のうちは義手なしで生活していました」
「そうなのか。支援は無いのか」
「一番最初の義手には援助がありますが、それ以降は無いですね。両腕なら援助があっても、片腕だと審査が通らなかったりします」
「酷いな」
「なので、フック式の人が凄く多いのが現状です。それに、実はこの筋電義手、昔は150万以上しました」
「なんだと」
「これは15万円です。義肢装具士の方が教えてくれて購入しました。これなら自転車にも乗れますし、普通の手と同じ動作が出来るので、出来る事が増えて、本当に嬉しいです」
「そうか。素晴らしい」
「はい」
久しぶりに自分の生い立ちや義手のことを他人に説明した。
満腹なのもあってか、どこか満たされた気持ちで神楽は江戸川のアパートを後にした。
江戸川は唐突に言った。
「鰻は美味しいな」
「どうしたんです、急に」
生徒が目を丸くする。
「昨日食べたうな重が、とても旨かった」
江戸川が言うと、生徒は唇をきゅっとすぼめた後、言う。
「私も好きです。美味しいですよね。お店に行かれたんですか?」
「違う。家で焼いて食べた」
「へぇー!良いですね。でもいつもコンビニ飯とかばかり食べている先生が家で手焼きするなんて、あんまり想像できないな」
「焼いて貰った」
「え?」
「俺じゃなくて、あのイコールの、絵画教室の先生に焼いてもらって、一緒に食べた」
水を打ったように、研究室が静かになった。
生徒が身を乗り出す。
「お家で、ですか?」
「そうだ。俺の家だ」
「えー!!」
生徒達は一斉に騒ぎ始めた。
「先生が呼んだんですか?」
「ああ。アトリエじゃ落ち着けなかったから、家に呼んだだけだ」
「先生かっこいい!」
生徒達が盛り上がる。中には拍手している人もいる。
江戸川は一人首を傾げた。
ある日、神楽がシャワーを浴びていると、急にお湯が水になった。
「つめたっ」
神楽は慌ててノーズを横に向ける。
何度調節しても、お湯にならない。
給湯器が壊れた。
今日の絵画教室は、ベテランのおばさん先生が居た。
時間が余って、神楽はベテランの先生と話をしていた。
「あら、それは大変ね。いつ直るの?」
「大家さんに言ったら、なんか部品を取り寄せるとかで、五日位かかるらしいんです。暖房は出ないし、お風呂も入れません」
工作をしながら、話を聞いていた陽菜が声を上げた。
「えー!お風呂も入れないの?ヤバイじゃん!」
「うん。どっか銭湯行くしかないかな。近いところでどこかありましたっけ」
おばさん先生は言う。
「ショッピングモールの隣にあるけど、あそこは車で一時間かかるわね」
「うーん、ちょっと遠いですね」
陽菜があ!と思いついたように言う。
「先生!あたしの家のお風呂貸してあげるよ」
「ふふ、大丈夫だよ、陽菜ちゃんありがとう」
「なんで駄目なの?」
「迷惑をかけちゃうよ。陽菜ちゃんが良くても、お母さんとお父さんは困ると思うよ」
「うーん、たぶん大丈夫だよ」
そんなやり取りをしていると、江戸川が迎えに来た。
「こんばんはー」
陽菜が江戸川に駆け寄った。
陽菜は元気よく言う。
「おじさん!カグ先生にお風呂貸してあげて!」
江戸川はいっぱく置いて、陽菜に言う。
「一から分かりやすく説明してくれ」
「お風呂が壊れちゃったんだって!」
神楽は笑って付け足す。
「給湯器ですね。陽菜ちゃんは優しいから、色々対策を考えてくれていたんですよ」
江戸川は頷く。
「そうか。ちょうど良い。俺も陽菜の提案に賛成だ。腕の実験をしたいと思っていたんだ。むしろ君に来て欲しいんだが、どうだろうか」
「え、いや、」
陽菜が笑顔で神楽に言う。
「先生良かったね!おじさんは、ドクシン、だから迷惑じゃないよ!」
「そういう問題じゃ…」
「そうだ、生徒から冷凍のカニを貰ったんだが、俺は料理が上手くない。君に調理を頼みたい。風呂のついでに、一緒に飯も食わないか」
カニ…
ちょうど義手も買ってしまったし、カニなんて、いや、普通に生活していても、カニなんか食べる余裕はない。絶対食べられない。
コンクールに応募するためのキャンバスや絵具代はけっこうする。普段から神楽の食事は質素である。
追い打ちを掛けるように、江戸川は言った。
「北海道のタラバガニだ。一キロあるし、一人じゃ食べきれなくてな」
神楽はその魅力に抗えなかった。
神楽は江戸川の家へ向かった。
「失礼します」
部屋は元の汚い状態に戻っていた。
江戸川は言う。
「では早速計測に入ろう」
実験しながら、江戸川は言う。
「君の腕は凄いな。物を持つ時、何かを握る時、毎回角度の比率が誤差なくセットされている」
「そうなんですか。自分じゃ意識したことが無かったですが、筋電義手にはロック、という機能があって、力を抜いて固定する持ち方をしています。義肢装具士の人に習ったんですけど、そのロックが決まっているんですかね」
「素晴らしい。文章だけじゃよく分からない事ばかりだ。君から直に話を聞けて良かった。ありがとう」
「いいえ」
江戸川は言った。
「ところで鍋が食べたいんだが、作れるか?」
「鍋くらいなら、出来ますよ。材料はありますか?」
「蟹がある」
「知ってます。それ以外です」
「無い」
「じゃあ買いに行ってきます。蟹鍋で良いですかね?」
「ああ、頼んだ」
白菜、絹ごし豆腐、長ネギ、人参、春菊、シイタケ、和風だしや料理酒を買ってきて、コンロを出し、鍋で具材を煮る。
蓋を閉じ、神楽は言った。
「ガスコンロって、やっぱり鍋が似合いますね。普段からお鍋は作られるんですか?」
「いや?ここにフライパンを置けば、フライパンから何でも直接食えるから便利だ」
神楽は絶句した。
「危ないですよ!そういう風に使うものじゃないです!信じられません」
「いつもじゃない。たまにだ。ソーセージを焼いたりする」
「…」
いろいろと心配になってくる。この人大丈夫だろうか…
鍋が完成し、箸で取り分ける。
江戸川と顔を見合わせ、手を合わせて言った。
「「いただきます」」
一口食べて、思わずため息が漏れた。
「美味しいです…春菊も白菜も、旬ですね。蟹の旨味も染みてます」
江戸川も目を閉じて、モグモグしながら短く言う。
「旨い」
しばらく夢中で鍋をつついて、江戸川は言った。
「君は料理が上手いな」
「そんな事ないですよ。鍋なんて具材を切って煮れば良いだけなんですから」
江戸川はしいたけを箸で摘まんで言う。
「このシイタケの柄も旅館で見るやつだ」
「これはただ切れ目を入れてるだけですよ、味がしみ込むように」
「そうだったのか。オシャレだと思っていた」
江戸川はしいたけを凝視する。
神楽は笑った。
「江戸川さんは面白いですね」
江戸川はひょいとしいたけを口に放り、嚥下して言う。
「そうか?俺は退屈な人間だとよく言われる」
「それは江戸川さんの事をよく知らない人ですよ」
鍋を食べ終えて、江戸川は言った。
「俺のことは、先生と呼べば良い」
「先生、ですか?」
「ああ。みんなにもそう呼ばれている」
「そっか、先生は准教授ですもんね」
「違う。数学の先生だ」
「え?名刺に書いてあったじゃないですか」
「俺は凄くない。多くの人間が想像するような偉い教授じゃない」
神楽は笑って頷いた。
「分かりました。先生」
神楽は冷凍庫からカップアイスを取り出す。
「先生も食べますか?」
「ああ。そういえば、君にお金を渡して無かったな」
「大丈夫ですよ。銭湯分は浮きましたし、蟹も食べられました」
「そうか?」
江戸川はガスストーブのスイッチを押す。ヴー、という音の後、温かい風が吹いてくる。
アイスを食べながら江戸川は言った。
「そうだ、泊まっていけば良い。給湯器が壊れているということは、暖房も機能していないだろう。鍋も作ってもらったしな」
とても魅力的な案だった。
神楽は寒さが大の苦手だ。10℃の夜をどうやって越すか、頭を悩ませていた。
「良いんでしょうか」
江戸川はコクコク頷いて言う。
「ああ。ぜんぜん良いぞ。歯ブラシはアメニティの物がある。ベッドは無いが、布団がある」
「有難うございます」
そうして神楽は江戸川の家に泊まった。
翌朝。
江戸川は大きく寝ぐせをつけながら、のっそりとリビングに現れた。
「おはよう」
神楽は振り返って笑顔で挨拶する。
「おはようございます。食パンがありますが、食べますか?」
「食パン?そんなもの家に無い」
「さっきコンビニで買ってきました。あとフライパンをお借りして、僕のついでに先生の分の目玉焼きと余っていた春菊と白菜で梅マヨサラダを作ったので、良かったら食べて行って下さい」
江戸川は目を丸くする。
「…君はすごいな」
神楽はリュックを背負って言う。
「昨夜はお世話になりました。ではまた夜にお邪魔します」
「どこに行く?」
「画材屋のバイトです」
「そうか。いってらっしゃい。大体七時以降は家にいるから、いつでも来て良い」
「分かりました。ありがとうございます」
神楽は江戸川の家を出て、画材屋に向かった。
店長に挨拶をする。
「おはようございます」
畑山は大体遅れて来る。
神楽はストックの奥に荷物を置き、エプロンを着用する。
余った時間で、ストックにある段ボール内の、取り寄せられた品物を確認した。
日本画の画材が多い。日本画の画材は大量に種類があって専門店に行かないと手に入らないものが多い。顔彩という48色の絵具だけでなく、膠を使う水干絵具、岩絵の具…とにかく山ほどあり、非常に高価だ。天然岩絵具などは10グラムで7000円する色もある。
まず色の見分けがつかないし、白禄という色一つにしても、淡口、中口、濃口、黒口、と分類されていて、覚えるのが難しい。だが訊ねられた時に答えられないとまずいので、神楽は手に取って色を見ながら、口に出して暗記をする。
畑山がやって来て、揶揄うように言った。
「何一人で喋ってるんですか。怖いんですけど」
「ああごめん。品物の確認をしていました。今日取りに来るお客さんが多いでしょう?」
「うわー真面目すぎ」
「そんな事ないです。僕は日本画について知識が無いので勉強するのは当たり前のことです」
「それ嫌味?」
「違いますよ、僕の話です」
面倒になって、神楽は倉庫を出る。
店が開き、品出しをしていると、お客さんがやって来た。老婆の客は、しばらく絵具の棚を見てから、レジに向かい、畑山に話し掛けた。
接客で畑山は頼りにならない。
神楽はフォローに回るため、一応会話を聞いておく。
畑山は問い返す。
「日本画ですか?」
「ああ、日本画の絵具、天然純紫金末だよ」
「うーん、無いですね。ここにあるのが全部ですよ」
その名前には心当たりがあった。
神楽は前に出て、客に言う。
「少々お待ちください」
倉庫にある段ボールの中から瓶に入った岩絵の具を取り出して、お客さんの元へ持って行った。
「最近入荷されました、これではないでしょうか」
「そうそう、これだよ。そっちの姉ちゃんは調べもしない」
畑山の代わりに、神楽は謝罪する。
「申し訳ありません」
客は肩を竦め、神楽に言った。
「君、ちょっと付いて来とくれ。他にも見たいものがあるけど、私は目が悪いんだ」
「分かりました」
レジを打ち終え、客を見送ると、畑山がこちらをじっと見ていた。
「どうかしました?」
神楽がたずねると、畑山は顔を背け、腕を組む。
「別に」
あからさまに言いたい事がありそうだが、何が彼女の気に障ったのかよく分からない。
神楽は柔らかく言った。
「なにか気になる事があれば、教えて下さい」
「何もないって言ってるでしょ」
畑山は顔を顰める。
神楽は頷く。
「そうですか」
そして再び品出し作業に戻る。
神楽が休憩を取っていた時、店長がやって来て、神楽をちらりと見た。
目が合う。神楽は微笑んで小さく頭を下げた。
「店長お疲れ様です」
「ああ、お疲れ」
店長は五十代前半の男性で、眼鏡をかけた柔和な顔つきをした人だ。だが、見た目とは裏腹に、意外とやり手だ。画材屋は様々な専門店から品物を取り寄せることもあるため、画材の質の目利きや商売そのものが上手くないとやっていけない。
店長は神楽の前に座り、優しく言った。
「君は普段からよくやってくれている」
「…突然何でしょうか」
神楽が内心で首を傾げると、店長は言った。
「なにか困っている事はないかい?」
「…いいえ。特にはありませんが」
「何か溜め込んでいるいたりとか?」
「…話が見えないのですが」
「そうか。うーん、畑山さんから話があってね、君からセクシャルハラスメントを受けていると相談されたんだ」
「は?」
思わず素のリアクションが出て、神楽は言い直す。
「そんな事、していません」
店長は頭を掻き、わざとらしく困った風に言った。
「でもね、こういうものは、相手がどう感じているか、に焦点を置かなければならないんだよ」
「…」
「気を付けてもらいたい。畑山さんは君の障害に理解がある。上手くやっていけるはずだ」
真剣な眼差しで言われ、神楽は困惑する。
障害があっても、普通の人と同じように働かせてくれている店長には感謝している。
だが事実じゃない事を認めるのもおかしい話だ。
神楽は考えて言った。
「僕はセクシャルハラスメントなんて一切していませんが、店長がそこまで言うなら気を付けます」
店長は複雑そうな顔で頷く。
休憩を終えて再び店内に戻ると、レジの前で座っていた畑山が頬杖をつき、ちらりとこちらを見て、口角を釣り上げた。
バイトの帰り道、神楽はスーパーに寄った。
夕飯を考えて買い物をしながら、考える。
畑山に苛立つというより、店長に注意された事の方がショックだった。五年間真面目に働いてきたのに、店長は自分の障害しか見ていなかったのかもしれない。最近バイトを始めた彼女の言い分の方を信用するなんて、そんなに自分を信用していないのか。
腕のことにも理解がある優しい人だと思っていたけれど、冷めてしまった。もちろん頭ではそれだけの事だと分かっているし、人には様々な面がある。元からそういう側面はあった訳だ。
つまり、自分が店長の人柄に期待しすぎていただけなのだろう。
こういうことがあると、決まって昔の出来事を思い出してしまう。
神楽は養護施設で育ったが、腕の悪口は日常茶飯事だった。それだけでは済まず、学校でも酷いいじめに遭っていた。
子供の内は身体が成長するので、義手を作っても新しいものに取り換え続けなければならない。その費用は神楽も出すことが出来ないので、義手を作ることが出来なかった。
いじめの事を教師に相談しても、関係ないと言わんばかりに、頑張れとしか言われなかったし、腕が無いせいで特別扱いされて、普通に授業が受けられず、余計に孤立した。養護施設で仲が良かった友達も自分に秘密で養子に選ばれて施設を出て行った。
悲しい出来事をあげればキリが無い。
神楽は体育も家庭科も、昼休みの遊びにも参加できなかった。
だから神楽は、一人で絵を描いていた。
絵は、自分の一番の理解者だった。
紙と鉛筆がある限り、絵は逃げない。絵は裏切らない。ずっと自分の傍にいる。
そして、描いている際中は、現実から離れた自由な世界にいる事が出来る。
神楽は夕飯を作っていた。
江戸川は横で神楽の手元を見ている。
「君は器用だな」
「筋電義手のお陰です。一つの動作に時間が掛からなくなりました。とても良いです」
神楽はゴム手袋を外し、左手の義手でトングを持つ。右手で皿を持ち、グリルで焼いたししゃもを取り出した。
「良い匂いだ。なんの魚だ?」
「ししゃもです。安かったんです」
「ほう。懐かしい。給食で食べた」
「給食?いつの時代の話ですか。これ運んでください」
「分かった」
ご飯が炊きあがるまで、神楽は明日の夕飯の支度をした。ビニール袋に乾燥したしいたけを入れ、水に浸しておく。
神楽は何気なく言った。
「人間関係っていうのは、難しいですね。俺、悪いことをした覚えはないのに、バイトの子に嫌われているみたいです」
「そうなのか?たった数日だが、君は器用で気の遣える人間だとよく分かった。愛想も良いし、嫌われる要素なんか無い」
「そう言ってくれて嬉しいです。僕は特に好きも嫌いも感じてないんですが、仕事の支障が出るのは困るので、てきどに仲良くはしておきたいんですよね」
「仕事に支障が出る程、嫌がらせをされるのか?」
「うーん、まあ今日は少しそうでした」
江戸川は珍しく、ハキハキと言った。
「君は優しすぎる。嫌なことは、ちゃんと嫌だと言うんだぞ」
「分かってますよ、子供扱いしないで下さい」
「相手はどんな嫌がらせをしてくるんだ?」
「典型的なやつです。他人に嘘の悪口言ったりとか」
「何だと?それは許しがたい。俺が一緒に行って、ちゃんと言ってやろう!」
眉根を寄せて身を乗り出す江戸川を、両手で押し返した。
神楽は首を振って言う。
「大丈夫です!大した事ないですから!ほら先生、箸持って行って下さい」
江戸川は箸を受け取り、いっぱく置いて言う。
「俺は君の味方だ。いつでも頼って良いぞ」
江戸川はじっと神楽を見る。
神楽は不思議な気持ちになって、江戸川を見返した。
江戸川は勘違いしたのか、少しむきになったように言った。
「俺は、そこそこ、大学では上手くやっている。それに君より十年も長く生きているんだぞ」
神楽は笑って頷く。
「そうですね。頼りにしていますよ」
「ああ。なんでも相談しなさい」
江戸川は二度頷く。
今日はタケノコご飯、ししゃも、肉じゃが、残っていた春菊と白菜の梅マヨサラダだ。
手を合わせて言う。
「「いただきます」」
江戸川は肉じゃがを食べ、言った。
「美味い」
「良かったです」
「ちょうど良い甘さとしょっぱさだ」
「ふふ、ありがとうございます」
神楽は言う。
「先生、問題です。この肉じゃがの味付けは、ある比率で出来ています。何でしょう?」
「味付けの比率だと?」
「そうです」
江戸川は首をひねる。
「醤油と砂糖のグラム数の割合みたいな感じか?」
「そうですね」
数学に意識を奪われても困るので、神楽はすぐに正解を言った。
「黄金比です」
江戸川は目を見開く。
「何だと?!素晴らしい。説明してくれ」
「砂糖1、酒2、しょうゆ3です」
江戸川は大きく首を振った。
「それは黄金比ではない。黄金比というのは、長方形の長さの比率だ。近似値1対1,1618。まったく黄金比ではない」
「えー、じゃあ料理の言葉だと、美味しい味付けに間違いない比率っていう意味なのかな」
「ふむ。そういう事だな。だが、料理ごとに、美味しい味付けの比率があるのか。そう考えると、とても興味深い」
「そこまで深くないですよ、ほら、食べて下さい」
「ああ」
ご飯を食べ終えてお風呂を借りようとした時、電話がかかってきた。神楽は電話に出て、話を聞く。
江戸川が問う。
「どうした?」
「なんか、修理の部品が直ぐには入らないようで、もうあと三日くらい掛かるとの事でした」
「そうか。じゃあ三日間泊まっていきなさい。いちいち帰るのも面倒だろう」
「え、良いんですか?」
「ああ。良い良い。そうだ、スペアがある。自由に使ってくれ」
江戸川からひょい、と鍵を渡される。
「君のご飯は最高だ、こちらも助かっている」
一瞬、生徒の伯父にここまでお世話になって良いものかと思ったが、別に異性でもないし、相手から言ってくれたのだから、気にする必要もないか、と神楽は頷く。
「では、甘えさせて頂きます。朝食と夕食は作るようにします」
「頼む」
そうして、休日になった。
江戸川は起きてリビングへ来てからも、ソファで寝そべってゴロゴロしている。
ふいに身体を起こし、言った。
「良い匂いがする」
神楽は火を止め、言う。
「今日は鮭を焼きました。白米とほうれん草のお浸し、ワカメと豆腐のお味噌汁です」
「素晴らしい」
食卓につき、二人で手を合わせ、頂きますと言う。
江戸川は食べながら言う。
「このちゃぶ台じゃ狭いな。もう少し大きい物を買うことにする」
「一人分なら十分ですよ。二人だから狭いだけです。それにちゃんと朝食とるのは、今だけでしょう」
江戸川は眉を下げる。
「そうか。君は帰ってしまうんだった」
犬がしっぽを下げるようなあからさまなガッカリした様子に、神楽は思わず笑った。
「そんなに落ち込まないで下さい。また来ますよ」
江戸川は朝食を終えると、再び床に寝そべり、分厚い本を読み始める。
江戸川は太っていないし、痩せてもいないが、色が白くて普段家から一歩も出ない。スーパーへ行くのにも面倒くさがる始末だ。絶対身体に悪い。
神楽は提案してみた。
「ピクニックに行きませんか?」
「ピクニック?」
「そうです。ピクニック。ちょっと自然を見に行きましょうよ。今日は天気も良いですし」
江戸川は少し間を開けて答える。
「行ってらっしゃい」
「先生はちょっと動かなさすぎですよ、早死にしちゃいますよ。普段から研究室に籠ってばっかりなんだし、日差しを浴びて、てきどに運動することは大事です」
「うーん。俺はいい」
神楽は寝転がる江戸川の肩を揺さぶって言う。
「ほら、ニュートンはリンゴの木を見て万有引力を思いついたって言うじゃないですか。外に出ることは閃きに繋がるかもしれませんよ」
江戸川は本から顔を上げる。
「…ケントの花か。懐かしいな。ケンブリッジの接ぎ木を見たことがある」
江戸川は身体を起こし、神楽に言った。
「リンゴが食いたいな」
神楽はおにぎりを作り、急遽リンゴを買ってきて、お弁当を作った。
横でみていた江戸川が言う。
「一個食べて良いか?」
「ダメです」
二人で自転車に乗り、目的地へ向かう。
江戸川は問う。
「場所はどこだ?どのくらいかかる?」
「二十分くらいです。僕が先頭を行くのでついて来て下さい」
田舎から駅の近い街中を抜ける。再び自然が多くなり、道のりに坂を下っていくと、小さい池がある。周囲は散歩コースに道が整備されていて、ちょうど一周ぐるりと回ることが出来る。
池の畔では、カエデが赤く、黄色く色づき、秋の様相を呈していた。
神楽はゆっくり自転車を漕ぎながら言う。
「生徒に紅葉が綺麗な場所を教えてもらったんです」
「確かに、沢山咲いているな」
「咲いてるって、花じゃないですよ?」
「分かっている。もう到着じゃないのか?」
「少し行った所に広い公園もあります。ちょっとだけキャッチボールをしましょう」
江戸川は目を大きくして首を振った。
「そんな話聞いていないぞ、大体ボールとグローブなんて」
「持ってきました!フリスビーもありますよ」
「…」
江戸川は嫌な顔をしたが、逃げられないと思ったのか、諦めたようだった。
緩いカーブの歩道を進むと、左手に、芝生の生えた広い公園が現れる。
沢山の子供やその家族が遊んでいた。
自転車を留めて公園に降り立つ。
神楽はグローブとボールを手渡して、問う。
「何年ぶりですか?」
「高校生ぶりだ」
神楽と江戸川はキャッチボールを始めた。
「おい、もっと狙って投げろ」
「狙ってますよー」
神楽の外れた的のボールを、江戸川は意外にも結構取ってくれる。
動かないだけで、もともと運動神経は良い方なのかもしれない。楽しそうだ。
江戸川から言って来た。
「フリスビーをしよう」
「はい!」
神楽の投げたフリスビーは、ブーメランのように返ってきてしまったが、江戸川は走って来てキャッチして言う。
「君は随分運動音痴だな」
それには答えず、神楽は水筒を差し出す。
「ありがとう」
水筒を一気飲みする江戸川の隣で、神楽は言った。
「あー良い汗掻きましたね。お弁当にしましょう。もう二時です」
「そうだな」
公園を出て、場所を移動する。
「どこで食べますか?池に近い東屋は二つありますね」
「左にしよう」
「はい」
東屋の長椅子に座り、広い木製のテーブルに弁当を広げる。
今日は二人で食べるので、大きい正方形の二段弁当だ。上におかず、下におにぎりが入っている。もう一つのタッパーに剥いたリンゴがある。
神楽は並べたおにぎりの具を説明する。
「これがおかか、昆布、梅干し、鮭です」
「鮭」
「はい、どうぞ」
江戸川は一口食べて言う。
「美味い」
「良かったです」
おかずを食べてから、リンゴのタッパーを開いて、江戸川は頷く。
「素晴らしい。Σ(シグマ)の形だ」
「初めてその解釈を聞きました。通称ウサギって言います」
「なるほど、これは耳を表現しているんだな」
「そうですね」
ご飯を食べた後、紅葉で色づく公園を二人で歩いた。
神楽は落ちている紅葉を拾い上げ、言った。
「綺麗ですね」
江戸川も紅葉に顔を近づけ、神楽に問う。
「どんな色だ?他のものに例えてみてくれ。俺は目が悪いんだ」
「色ですか?」
「ああ」
神楽は考える。
意外と難しい。
「えーっと、そうですね。沈みかけの夕陽の色かな」
「他には?」
「うーん、みかんの色」
江戸川は紅葉を凝視する。
神楽は言った。
「自然のものは一色で出来ていません。複雑に沢山の色が合わさっています。それにほら、紅葉と言っても、一枚一枚色が違いますから、何か一つの物に例えるのは難しいかもしれません」
「なるほど。じゃあ一枚一枚説明してくれ」
「良いですよ」
神楽はしゃがみ、拾って説明する。
江戸川も隣にしゃがみ、神楽の話を聞く。
上手く拾えないと、江戸川は横から直ぐに紅葉を拾ってくれた。
江戸川は問う。
「これは?」
「今食べた、熟したリンゴみたいな濃い赤です。でも葉脈付近には、少し橙色も入っていますね。炎みたいで情熱的です」
「ほう。情熱か。良い例えだ」
東屋の木のテーブルに、神楽は紅葉を並べた。
「左が赤で、右が黄色です。グラデーションに並べてみました」
「そうか」
神楽は江戸川を見て問う。
「分かりにくいですか?」
「いや、分かるよ。ありがとう」
江戸川は微笑む。
神楽はたずねた。
「先生はどんな風に目が悪いんですか?」
江戸川は紅葉の柄を掴み、くるくる回しながら言った。
「簡単に言えば、赤を感じ取る細胞が目に無い。だから俺の世界は、全体的に青っぽく見えているらしい」
「え、じゃあ紅葉は良くなかったかな」
江戸川は首を振り、神楽に笑いかける。
「いや、とても面白い。君が丁寧に教えてくれるから、楽しいよ。この歳になるとどんな色が視えているか、なんていちいち他人に聞けないからな」
神楽は安心した。
「それなら良かったです」
江戸川は紅葉を置き、神楽を見て言った。
「君はどんな風に目が悪いかと聞いたが、俺には二つ障害がある。一つは色で、もう一つは顔だ」
「顔?」
「俺は「人の顔」が覚えられない。君を覚えられたのは、君が義手だったからだ」
神楽は驚いた。
「そうだったんですか。顔が分からないって、見えないってことですか?」
「パーツや輪郭は知覚できるが、一つの顔として把握するのが難しい。酷いと何年も一緒にいる夫の顔すら分からない、という例もある。俺はそこまで酷くないが、陽菜も見分けがつくかどうか、という程度だ」
「え、じゃあ僕の顔も見えていないってことですか?」
「見えているが、他人との区別がつかない。あと、覚えられない」
障害の重さに神楽は言葉を失った。
江戸川は笑って言った。
「不謹慎だが、君が義手で助かっている。とはいえ、フックの方が分かりやすかったから、フックの方に戻せば良いのに、と、あの時、思わず言いそうになった」
思い出し、神楽は苦笑した。
「そうだったんですね。普段無口な江戸川さんが話しかけて来た理由にも納得しました」
江戸川は遠くを見つめ、言った。
「日本では誤魔化せるが、外国では無理だった。人も多いし、よく喋りかけられる。とても疲れる。研究に集中できなかった」
「外国で研究したかったんですか?」
「そうだな。だが、生物や物理とは違い、実験器具が無きゃ何も出来ないという訳じゃない。だから生徒に教えながら、自分でも論文を書き続けている。勿論、外国で行われる大きな学会には参加するし、俺は生涯数学を研究し続ける予定だ」
「僕は恵まれていますね。目に見える形の障害であれば、いちいち説明しなくても人は理解してくれますし、手が無いことがどういうことなのか、想像もつきやすい。けど、先生の障害は、想像も、理解されるのも、とても難しいですから」
「いちいち説明するのが面倒になって、俺は余り喋らなくなった。人とも関わりたくなくなった。若い頃は意欲があったが、失敗を繰り返すうちに、嫌になって、どうでも良くなってしまった。それが良いことか悪いことかは、今でも分からない」
だが、と江戸川は続ける。
「一つ言えるのは、これらの障害が無ければ、俺は俺で無かったという事だ。そう思うと、悪くない。それに、俺はここまで数学を愛せなかっただろう」
神楽は微笑んで言った。
「先生は本当に数学が好きですね」
「ああ。数学を愛するという表現は少しおかしいと思うかもしれないが…」
「そんな事ないですよ、俺も絵が好きです。よく分かります。つらい時、絵が支えてくれました。僕の一番の理解者です」
江戸川は目を細めて頷く。
「同じだ」
そして、江戸川は続けて言った。
「君を見ているとよく分かる。君は時間が空くと、いつも絵を描いている。そういう時の君に話し掛けても、集中しているせいか、何にも話を聞いていないんだ。俺は初めて、他人が俺に言っていた、集中しすぎて話を聞いていないという事が理解できた」
「え、すみません」
「いいんだ。俺も同じだろう?」
「えーっと、まあそうですね」
江戸川が笑う。
何となく神楽もつられて笑った。
江戸川の穏やかな笑顔を見て、神楽は言った。
「先生がこんな風に笑う人だとは思いませんでした。いっつも能面を顔に貼っているみたいで、怖い人だと思っていましたから」
江戸川は自身の顎を摩り、問う。
「俺は笑っているか?」
「はい。笑っていますよ」
江戸川は紅葉に染まる池を見て言った。
「君といると、良い影響ばかり受ける。ご飯は美味しいし健康も良くなるし、笑わない俺が笑っている。一人ではピクニックなんて絶対にしなかった。キャッチボールが楽しいことを思い出せた。君がいたからだ」
「大袈裟ですよ」
神楽が笑うと、江戸川は神楽を振り返って言った。
「人生は一期一会だ」
「…一期一会?」
「その機会は二度と繰り返されることはない、一生に一度の出会いだ。人との巡り合いを意味している」
江戸川は言う。
「君との関係がこれきりだと思うと、とても勿体ない」
神楽は笑って言う。
「また来ますって」
江戸川は首を振る。
「君は来なくなると思う。君は淡泊だから、すぐに俺のことも忘れてしまうだろう」
神楽は首を傾げる。
「僕はそんなに淡泊に見えますか?」
江戸川は頷き、静かに言う。
「人にはもう少し起伏がある。君は俺が能面だと言うが、君だって笑顔のお面を張り付けているだろう。俺は顔が見えないが、パーツは見える。口が笑顔を作り過ぎている」
神楽が驚いて無言になると、江戸川は言った。
「だが、気にしていない。君の場合、癖になっているようだから」
神楽は苦笑し、言う。
「…愛想笑いが良いと感じる人なんて居ません。フォローはしなくて良いんですよ」
「本当だ。そんなところも面白い。君は素直に見えて案外頑固だし、よく喋るかと思ったが、静かが好きな人間だった。君のことをもっと知りたいと思う」
江戸川は続けて言う。
「給湯器の修理が終わっても、家に居て欲しい。君とはもう少し、関わっていたい気がするんだ。もちろん、強制じゃない。少し考えてみてくれ」
不思議な話だった。
でも悪くないと思った。
異性との付き合いは勿論、人嫌いな自分がここまで他人と距離を縮めても平気なのが、まずイレギュラーなのだ。
江戸川は1人じゃピクニックなんて来なかったと言うが、それはこっちも同じだ。なんとなく不健康な江戸川を外に連れ出したくなっただけだ。
趣味も同じじゃないし、仕事も、「芸術」と「数学」というある意味正反対の職業だ。
けれど、何かが噛み合っているというのは、神楽も感じていた。
始めはお試し、という感じだったが、神楽は本気で居候を考え始めた。
江戸川のアパートは立地が良い。絵画教室にも画材屋にも、スーパーにも近い。徒歩五分で買い物ができて、自転車で十分で職場に行けるのは、非常に便利だ。
結局、給湯器が直っても必要なものだけ取りに帰って、江戸川の家にいた。
そうして二週間が過ぎると、著しく帰る気持ちが失くなってしまった。一か月経ったら、寒くて遠い、灯りの付いていない自分の家に帰るのが嫌になった。
そうして神楽は江戸川のアパートに居候することを決めた。
江戸川はパソコンを閉じて言った。
「帰る」
生徒が顔を見合わせ、言う。
「先生、最近帰るの早いですね」
「ああ。飯を作って待っている人がいる」
研究室が静まった。
生徒が目をぱちぱちさせて、たずねてくる。
「え、同棲しているんですか?」
「一緒に住んで一緒に飯を食っている」
「それを同棲って言うんですよ!」
生徒が一斉に喋り出す。
「あのイコールさんですか?」
「そうだ」
「えー!!」
みんな顔を見合わせ、目を大きく見開いて、両手で口を覆った。
そんなに驚くことだろうか。
江戸川が首をひねると、生徒がたずねて来た。
「イコールさんってどんな人なんですか?」
「どんな人とは何だ、もっと具体的に質問をしてくれ」
「えーっと、容姿は綺麗系ですか?可愛い系ですか?」
「同じ絵の先生に、格好良いと言われているのを聞いた事がある」
「クール系なんですね!歳は幾つですか?」
「10下だ」
「お若いですね」
生徒が矢継ぎ早に質問をしてくる。
「どうやって仲良くなったんすか?」
「どうやって…仲良くというのは一般的に何を基準にしている?」
「連絡先の交換とか」
「俺から名刺を渡した」
「え、積極的!」
わらわらと生徒が集まってくる。
「その…どんな所が良いと思ったんですか?仲良くなったきっかけは?」
「相手の腕に興味があった」
「へえ、やっぱり絵が上手なんですね」
「絵の先生だからな」
「性格はどんな感じなんですか?」
「性格…優しくて明るい人間だ」
「へぇー」
「上手い飯を作ってくれるし、掃除もしてくれる。裁縫も出来る」
「家庭的で素敵な人ですね!」
「そうだな」
穏やかに時は経過し、十一月に入った。
神楽がいつも通り画材屋で働いていると、額選びを頼んで来た、あの男性が来店した。
何本か筆を取り、レジにやって来ると、男性は神楽に微笑んで言った。
「あの額、とても良かったよ。秋の静かな雰囲気を残しながらも、コスモスの可愛らしい様子を引き立てていた。部屋にもピッタリだった。私じゃあ、あの額は選べなかった」
「そうですか!良かったです」
神楽は心底安堵した。そして嬉しく思った。
男性は言う。
「また選んでもらいたいんだが、良いかな?」
「え」
神楽は、内心ビクリとした。
前回のようにうまくいくかは分からない。
男性はじっと期待するように神楽を見つめる。
「わ、分かりました」
あれから額について勉強をした。店長から話を聞いたり、自分でも実際に絵を飾ってみたり、時間のある時に額屋さんに行って、額選びのポイントを教えて貰った。
だから、たぶん、前回よりもマシなはずだ。
そんな葛藤が顔に出ていたのか、男性は声を上げて笑った。
「そんなに緊張しなくて良いよ」
神楽は笑顔で言う。
「はい。精一杯考えさせて頂きます。今度はどんな絵をお描きになるのですか?」
「ちょっと気は早いけれど、クリスマスの絵を描こうと思ってね。サイズは308×399mmだ」
クリスマスの絵!?それは予想外だ。
神楽は問う。
「描くものを詳しく教えて頂けますか?」
「クリスマスツリーだ。下にプレゼントが三つ置いてある。赤と、緑と、青だ。背景は白くて、不透明水彩、ツリーはそこまで大きくなくて、イラストに近い感じにする」
「飾る場所を教えてください」
「壁は白色のボード、床はキナリ色のリノリウムだ」
めちゃくちゃ難しい。
「家具はどんな感じでしょうか」
「黒い革の椅子がある。それだけだね」
神楽は店内に掛けられた額を見渡し、絵を想像しながら当てはめる。
そして、レジの机に紙を引き、棚に置かれている布を二枚、金色の額縁を一つ持ってきて、裏面を取り、そっと上に翳した。
神楽は言う。
「Wマットで、上段の内側のマットが細くて濃いブルー、下段の外側のマットを深みのあるえんじ色、微かにダイアゴナルチェックが入っている柄にして、フレームは細いシンプルな金色のもの…」
神楽は身体を引き、男性に示す。
「こんな感じは如何でしょうか」
男性は目を細め、にやりと笑った。
「良いね、とても良い」
「飾ってみて似合わなければ、すぐに交換いたします」
男性は神楽を見て言う。
「勉強したね?」
「あ、はい。分かりますか」
「分かる分かる。前回よりも随分こじゃれているからね」
「変でしょうか。もう一度考え直します」
「いやいや、それが良い。今回はクリスマスだし、部屋がシンプルだから、とても合っている。クリスマスらしさがある。君はイメージを引き立てるのが上手だね」
「そうでしょうか」
神楽が不安な顔をすると、男性はニコリと笑い、神楽の肩を叩いた。
会計をしていると、男性は言った。
「君自身は、絵を描くのかい?」
「あ、はい。毎日描きます。ジャンルは様々です」
「へえ、凄いじゃないか。君は絵が好きなのか」
「はい。趣味でもありますが、コンペティションやコンクールに応募したりもしています」
「画家を目指しているのかい?」
「そうですね。なれたら良いなと思います。自分の絵を飾ってくれる人が居て、絵を見て何かを感じてくれたら素敵だなと思うので」
「そうか。確かにそれは素敵なことだ」
男性は頷き、言った。
「そういえば、私の友人が近くのカフェで展覧会をするらしいよ。君も参加してみたらどうだい?」
神楽は驚いて手を止めた。
そんな話、初めて聞いた。
コンクールや展覧会の情報はネットでも常にチェックしている。高くアンテナを張っているつもりだったが、知らなかった。
神楽は言う。
「そうなんですね、良ければお店の名前を教えてもらえますか」
「ルマサルドカフェだ。二階を画廊にするらしい」
「教えて下さって有難うございます」
男は神楽を見て、微笑んで言う。
「画廊は、店が公募している訳じゃないんだ。あくまで内々のものでね。だが、僕はオーナーの友人だから、僕の名前を添えて参加したい旨を伝えれば参加できるかもしれない」
神楽は驚く。思ってもみない話だ。
「良いのでしょうか」
「ああ。私の名前は井手上郷道。井手上と言えば伝わるはずだ」
神楽は頭を下げた。
「すみません、有難うございます」
井手上は頷く。
「頑張りなさい」
「はい。有難うございまいした」
額を差し出し、神楽は頭を下げる。
井手上は帰って行った。
神楽はバイトの帰りに、ルマサンドカフェに寄ってみた。
ルマサンドは木製のオシャレな外装をした店だった。
店内に入ると、店員さんが直ぐに来てくれて、席に案内してくれた。
広くもないし、狭くも無い感じだ。机は五つ。カウンターを合わせたら、椅子は十二脚。二階が吹き抜けになっていて、自由なスペースがあるのが一階から見える。
神楽は注文の後、店員にたずねてみた。
「ここの二階で展覧会をするという話を聞いたんですが、一般の人も参加できますか?」
女性の店員は、ああ、そうなんですね!と高い声で言う。
「私も参加するんです。でも、オーナーは美術大学の生徒を中心に声を掛けてるみたいだから、どうなんだろう。オーナーの許可が貰えないと参加は出来ないんです」
神楽は言う。
「オーナーさんは、今日ここにいらっしゃいますか?」
「はい、居ますけど」
神楽は少し考え、言う。
「僕はオーナーさんのご友人に参加を薦められました」
「あ、そうなんですね」
「オーナーさんに、井手上さんに誘われて参加したいという人がいる、と伝えて貰っても良いですか?」
「分かりました」
女性の店員はカウンターの奥へ行き、少しして帰って来て言った。
「オッケー出ましたよ。けどご覧の通り広い訳じゃないので、定員があります。一般の人はお客様だけ、と言っていました」
「分かりました。有難うございますとお伝えください」
「はい。名前を聞いても良いですか?」
「神楽湊です。よろしくお願いします」
「えーっと、絵を飾る日は十二月七日です。当日に絵を持ち寄って飾る場所などを決める感じです。あと、今回は展覧会っていうか、コンペティションみたいな感じです。お客さんからの投票もあります」
「え、そうなんですか」
聞いていた話と少々違う。
だが、絵を見て貰う機会があるだけありがたい。
女性の店員は口元に人差し指を立てて言う。
「オーナーは顔が広くて画商さんとも繋がりがあるので、画家になりたい人にとっては大きなチャンスなんですよ。ラッキーですね」
「そうなんですね、教えてくれてありがとうございました」
「はい!負けませんよ」
神楽は返答に困り、頷いて言った。
「お互い頑張りましょう」
店員は眉を顰める。
「ちょっと、あんまりやる気が感じられませんけど。本当に頑張る気があるんですか?参加できただけでも凄く有難い話なのに」
実際、自分が想像していたよりも、しっかりしたコンペティションのようだ。
だが、だからこそ気遅れせず、しっかり取り組もう。
店員は去る。
神楽は考える。
客の投票という仕組みがあるならば、競うというよりも、客層を考えて絵を描くというのが得票のコツな気がする。
だが、画商が、得票が多いから目をつける、とは限らないと思う。
自分が描きたいもの、見て貰いたいものは何か、しっかり考えて絵を描きたい。