始まりのラストラン
-1- 厩務員
「お前は終わった馬なんかじゃないよな。」
鼻面を撫でられたサラブレッドは、むずがゆそうに、それでも心地よい表情を浮かべている。
このサラブレッドの名はラリューン。
フランス語で月という意味らしい。 馬主のお嬢さんがつけた名前とのことだ。
フランス語はわからないが、この馬の優雅な馬体にはふさわしい名前に思える。
通算成績は15戦5勝2着5回。 大きなレースでは皐月賞と弥生賞を勝っている。
5戦無敗で皐月賞を制覇した時には、「無敗の3冠馬誕生か?」などと騒がれた。
結局、ダービーで2着の惜敗後は勝利していない。
「もう1年半以上も勝っていないのか…」
負けてしまった10戦でも、それほど大きく負けているわけではない。
ただ、同世代に怪物がいただけだ。
その馬の名はイノセンス。
無邪気という名前の意味とは程遠い、闘志のかたまりのような馬だ。
13戦12勝で、ダービーをはじめとして大きなレースのほとんどを勝っている。
4週前のジャパンカップでも、後続を3馬身離しての圧勝。
唯一負けたのは昨年のこのレースのみ。
有馬記念。
今週末におこなわれる、一年を締めくくるレースだ。
3歳のダービーと並ぶ、日本で最も権威あるレースの1つ。
ラリューンのような古馬にとっては、最大目標になるレースになる。
「ファン投票7位だとよ。 ファンはしっかりとお前の頑張りを認めてくれてるぞ。」
それでも、古馬ではイノセンスと昨年の有馬記念馬であるブルーライトの後塵を拝した。
さらには、3歳の牡馬2冠馬サマーブリーズと菊花賞馬ライドオン、さらには2頭の牝馬クラシック馬よりも下。
それも仕方がないことか。 秋になってからは掲示板が精いっぱいの結果が3戦続いた。
昨日出版された競馬週刊誌でも、ラリューンの馬名の下には三角の印が申し訳程度についている評価だった。
「お前が競馬で走るのもこれが最後だ。 正直、俺は寂しいよ。」
来年の2月には厩舎も解散する。
自分も同時に定年を迎える。
ラリューンのラストランは、自分たちが大きなレースを勝つ喜びを味わう最後のチャンスだった。
「勝って欲しいけど、まずは無事で走ってくれ。 な?」
調教後の少し熱を持った脚をさすりながら言ったこの言葉が、厩務員の本音だった。
-2- 騎手
「なぜ大きなレースを勝てないんだ。」
いつもの自問自答。
ここ4〜5年は、毎年リーディングの5位以内には確実に入ることができている。
重賞も片手では足りないくらいは勝っている。
でもG1には届かない。
自分に決定的に足りないものは何なのか。 それがわからない。
運がなかったのもある。
確実にクラシックを勝てる手ごたえのあった若駒に乗っていたこともある。
その馬は無敗のまま弥生賞後の骨折で引退した。
もう「若手」と呼ばれる年齢でもない。
勝ち鞍だけでいえば、十分にトップクラスの騎手と自負している。
それでも、通算G1勝ち数はいつまでも0のまま。
「今週で今年も終わりか…」
騎乗レースは多数。 あと1勝すれば100勝に届くところまできた。
メインの有馬記念にも、昨年のダービーからコンビを組むラリューンとの参戦も決まっている。
あの馬も不幸かもしれない。 俺のような、いざという場面で勝負運のない騎手に騎乗されることになったのだから。
唯一のG1勝ちは皐月賞。 騎乗していたのは俺じゃない。
皐月賞馬にも関わらず、ダービー以降はそれまでの主戦騎手には見向きもされなくなったかわいそうな馬だ。
とはいえ、その騎手が選んだのがイノセンスだというのだから、これは仕方がないのかもしれない。
今年の秋以降、ラリューンの能力は明らかに落ちていた。
これは乗っている人間じゃなければわからないだろうが、以前のようなひたむきさが失われている。
先行して突き放そうとしていた今年の春までと比べ、勝負所での反応も鈍くなってしまった。
秋緒戦の毎日王冠では直線半ばで一旦先頭に立つもイノセンスにはあっという間に交わされた。
天皇賞秋では中団に構えたがじりじりとしか伸びずに3着確保がやっとの体たらく。
前走のジャパンカップではゲートを出てからの行き足もひどいものだった。
先行すらできず、最後は追い上げたが前とは決定的な差があった5着だ。
今回の有馬記念でラストラン。 ちょうどいい潮時なのかもしれない。
「まずは100勝が目標、か。」
騎手は大きなため息をついた。
-3- 調教師
人生50年と言っていたのは戦国時代の話か。
齢70を迎えるにあたって、ようやく自分の人生が競馬一色に染まっていたことを認識した。
寝ても覚めても競走馬。 どうすればダービーを取れるか、それだけを考えていた気がする。
結局、夢だったダービー制覇は夢のまま終わってしまった。
ダービー制覇の最大のチャンスを与えてくれたラリューンは、馬主の意向もあって今週の有馬記念がラストランだ。
「明日が最後の晴れ舞台なのは、あいつも私も一緒だな。」
勇退は来年2月。 有馬の後にもフェブラリーステークスが残ってはいる。
しかし、うちの厩舎にはあのレースに出せるような一流のダート馬はいない。
ある馬主からは「先生の勇退のために、無理をしてでもうちの馬を出走させていい。」と提案された。
しかし、それは馬のためではなく、自分自身の、人間のエゴのため。
ありがたい話ではあるが、丁重に断った。
自分自身が臨む最後の大レースを走るのが、ダービーで惜敗したラリューンなのも何かの運命だろう。
目の前にはラリューンの馬房があった。
いつの間にか、散歩がてら厩舎の馬房に来ていたようだ。
この数十年間続けてきたライフワークだった。
「ラリューン。 調子はどうだ?」
いつもの通り、静かに話しかけてみる。
馬からは言葉は返ってこないが、その表情は言葉よりも如実にその気持ちを伝えてくれる。
「そうか。 疲れたか。 私と一緒だな。」
2歳の秋口、期待馬の一頭として入厩してきたのがラリューンだった。
当初は、すらりとした馬体とバネのありそうな筋肉が印象的だった。
調教を重ねていき、とても賢い馬だということがわかった。
何かを教え込んでいくと、そのことは絶対に忘れない。
幼い馬には過酷なゲート入れも、過去のどの馬よりもスムーズにおこなえた。
デビュー戦でも、既にレースを知っている古馬のような大人びたレースをしてくれる。
限りない魅力にあふれていた。
そしてその目。 意思の強さを感じられた。
自分はどの馬にも負けないという意思が。
今の彼は、歴戦の古馬になった。
結果は出せていないが、能力的にはそれほど衰えてはいないはず。
ただ1つ、目だけはあの頃の輝きを取り戻してはくれない。
「次が最後のレース、お前にはわかっているのかな。」
首筋を撫でながら、ラリューンの目がまどろんでいくのを調教師は見つめていた。
-4- 有馬記念 パドック
断然の1番人気はイノセンス。 2倍を切るオッズだから、このパドックを見ている客の多くも、イノセンスの単勝馬券を持っているのだろう。
2番人気はサマーブリーズ。 差がない3番人気はブルーライト。
その次がライドオンで、ラリューンは5番人気だった。
ファン投票では負けたが、牝馬2頭よりも支持を受けているらしい。
とはいえ、10倍を超えるオッズだから、伏兵扱いなのは間違いない。
そんなことを考えながら、厩務員はパドックでラリューンを引いていた。
「すごいな。 今年は本当にお客が多いわ。」
隣にいるラリューンにだけ聞こえるような小声でつぶやいた。
無理もない。 ここ数年では最もメンバーが良い有馬記念になっている。
今年の古馬中長距離G1完全制覇がかかっているイノセンス。
クラシック3冠は逃したが、古馬との勝負付けはまだ済んでいないのが魅力の2冠馬サマーブリーズ。
昨年の有馬記念以降はやや精彩を欠いているが、怪物イノセンスに唯一土をつけたディフェンディングチャンピオンのブルーライト。
牝馬戦線で活躍していた馬も、例年になく出走してきている。
そして、昨年の皐月賞馬のラリューン。
ここ2年の国内G1タイトルホルダーのほとんどが、今このパドックを歩いている計算になる。
豪華メンバーの有馬記念。
日本でいちばん馬券が売れるレース。
にわか競馬ファンが増える1日。
世間の注目も、ある意味ダービーよりずっと上だろう。
ふと気付く。 ラリューンが妙に首を左側に向けたがる。
普段はこんな仕草をしたことがない。
さすがにこの客の数に興奮してしまったのだろうか。
しかし、興奮してイレ込んでいる様子もない。
ラリューンの視線を追うと、そこにはイノセンス。
まさか、意識しているのだろうか。
いや、まさかな。
「止まーれー」
停止の合図がかかった。 いよいよ騎手の騎乗だ。
状態は悪くない。 あとは騎手に全てを託そう。
-5- 騎乗命令直前
「はぁ…」
結局1勝もできず、99勝のままの騎手がため息をつく。
しかも、勝ちが計算できたレースでは騎乗馬の前をカットされてしまう不運。
「ついてない。」
最終レースの騎乗依頼は無い。 ということは、これから始まる有馬記念が今年最後の騎乗。
ラリューンは、予想通りの5番人気。
チャンスがある人気とも言えるが、1番人気の馬は断トツの実力馬。
勝負を諦めたわけではないが、かなり厳しいことはわかっている。
「ため息なんぞするな。 運が逃げて行く。」
隣にはいつの間にか親父が立っていた。
「これで今年最後だと思うと、ため息も出るさ。」
父は55を越えた今でも現役の騎手だ。
騎乗数も往時の3分の1程度に減ったが、未だに一線で頑張っている。
今回の有馬記念では、地方から上がってきたピーシーサウンドという馬に騎乗することになっている。
「バカな奴だ。 有馬記念に乗れるってだけでもありがたいじゃないか。」
確かに、フルゲートが16頭だから騎手は16人までしか騎乗できない。
その1人になれること自体が、幸せなのかもしれない。
「そうは言うけどさ、イノセンスは強いよ。」
これは一緒に競馬をしていればわかる。 あの馬の伸び脚は横から見ていても気持ちが良さそうだ。
「勝負前から諦めてどうする。 俺は一泡吹かせるつもりで騎乗するぞ。」
「ピーシーサウンドだっけ? 最低人気なんだよな。 気楽でいいな。」
「そういうことじゃない。 気概の問題だ。」
気概で勝てれば競馬は簡単だ。
俺ももっとG1を勝てているはずだ。
「悪いな。 息子をちょっと借りるぞ。」
声をかけられて気づくと、後ろにラリューンの調教師が立っていた。
どうにも、この調教師には頭が上がらない。
戦法にしても、こと細かに指定してくるし、ダメな騎乗をしたときはベテラン相手でも文句を言う。
敗因の検討もしっかりとおこなわされる。 これだけでもう面倒だ。
現に若手の間でもここの厩舎の馬は極力避けているのもいる。
確か来年2月には定年だったはずだ。
少しさびしい気もする。
今の若い調教師は、かなりビジネスライク。
敗因の検討なんてしない。 目に見えるミスをしたら降ろされるだけ。
何よりも、この調教師には騎手が他の馬を選ばない限りは同じ馬に乗せてくれる人情があった。
「先生、戦法の指示ですか? いつも通りに乗ろうと思っていたんですが。」
先に聞いておくことにした。
「いや、そうじゃない。」
いつになくトーンが下がっている。
「え? それならどうしたんでしょう?」
ほんの少し間があった後に、調教師は言った。
「今回はどんな乗り方をするかお前に任せる。」
「…」
おそらくこんな言葉をこの調教師から聞いたことはない。
たぶん俺だけじゃなく騎手仲間の全員。
思わず絶句してしまった。
「一つだけ指示をするとだな、後悔が残らない騎乗をしてくれ。」
この言葉の意味することが、俺にはわからなかった。
一体誰の後悔が?
俺のなのか、あの馬の関係者のなのか?
考えても答えは出ないまま、騎乗命令がかかった。
首をかしげたまま、騎手はラリューンに向かって走って行った。
-6- 返し馬
「おいおい。 なんだよ。」
今日のラリューンは、今までと違った凄味があった。
いつもの返し馬ではのそっと走り出すが、今日ははじけるように馬場に飛び出して行った。
引き綱を持っていた厩務員も驚いたようで、引っ張られて体勢を崩していたほどだった。
脚の捌きも今までと違う。 強いて言うなら、ダービー当時の出来と近いものがあった。
いや、あの時よりも上かもしれない。
かなり速く走っているはずなのに、背中が全くぶれない。
安定し過ぎているせいか、スピード感を感じないので逆に危ない気がする。
メイチの仕上げ。 厩務員が言っていた言葉を思い出す。
これなら勝負できるかもしれない。 本当にありがたかった。
「お前、こんな実力を隠していたのか?」
答えが返ってこないのはわかっていても、話しかけずにはいれなかった。
この感触は、ラリューンの父馬とそっくりだった。
ラリューンの父はG1を4勝している。
その全てが胸をすくような追い込みで、スピードが乗ってからは他の馬を完全に凌駕する末脚だった。
ペースが合わずに不発に終わることもあったが、勝つ時はとにかく印象に残る馬だった。
当時所属していた厩舎の馬だったこともあり、調教時には何度もその背に乗った。
まさしく、今の興奮と同じ思いを抱いていた。
それと同時に、自分がレースでその感動に騎乗することができない悔しさも。
「さすがにあの馬の血を引いてるんだな。」
そう言った時にふと気付いた。
父と自分は似ているのだろうか。
父は勝ち鞍だけならそれほどの成績でもない。
同じくらいの年まで騎乗していれば、間違いなく自分の方が勝ち数は多くなるだろう。
ただ、大きなレースでは思い切った騎乗で穴をあけることも多い。
2つのレースを除いて、全てのG1を制覇している。
その父でも届いていないレースが、ダービーと有馬記念だった。
ダービーと有馬を勝つまでは競馬をやめない。 これが父の信条だ。
今の俺に、ここまで何かに賭ける思いはあるのだろうか。
父の年齢なら、きっと1レースを終えただけでもかなり疲労があるだろう。
何よりも、ほんの少しのミスで命を失いかねない。
そんな世界に身を置き続けて、それでも勝っていないレースの制覇を夢見ている。
今の俺に、ここまでの思いはない。
G1を勝つには。
当たり前の気持ちで臨んではいけないんだ。
何度もあるG1の一つではない。
目の前にあるこのレースこそ、勝たなければいけないんだ。
「わかったよ、親父。」
何かを決意したように、騎手は輪乗りの輪へとラリューンを進ませた。
「さぁ、お互いに負け続けの人生に終止符を打とう!」
レース結果まで描いてしまうのは野暮な気がしてスタート前で終わらせました。
主人公は馬にするつもりだったのですが、結果的には勝負運のない騎手になりました。
競馬にひたむきな人に囲まれて、自分の冷めた思いに気づかされる騎手。
最後には馬にまで気づかされて、きっと後悔しない騎乗を心がけるのでしょう。