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第四話 ささやかな疑念

 僕は本を閉じると、時計に目を移した。朝早く出てきたはずなのにすでに正午を回っていた。そういえば軽めな朝食をしか口にしていなかったためか今になってお腹が空いていたことに気が付く。


 午後には教授と話があったことも思い出し、僕は食堂に向かった。





 正午を回ってしまった食堂にはあまり人はいなく、容易に席を確保することができた。窓際に荷物を置くと、日替わりの定食を注文する。散財を好まない僕にとってそれが財布と相談できる防衛線だった。


 こう一人で寂れた場所で定食を食べている姿から、定年を控えたサラリーマンをイメージしてしまう。ただの固定観念だけどきっと周りから見てもそんな感じなのだろう。そうやって年をとっていくと思うと、無性に悲しくなるが、それも一つの生き方なのかと諦観する。


 今はこうやって伝奇を読み漁っているのだが、それが未来の僕に結び付くのだろうか。自分が思ったように生きられる人は信念をもった芯のある人だ。僕はまだ未来を見ないようにしているだけ。目の前にある作業に必死になっているふりをして、未来から逃避しているのにすぎない。僕はいったいなにがやりたいのだろうか。


 生きる意味も持たない。好きな物もない。希望もあるわけでもない。


 僕みたいなやつを世では不必要な人間というのだろうか。


 その問いにすら答えてくれる人はいなかった。





 こつ、こつと静謐な廊下に僕の足跡が響き渡る。どうして研究室の廊下はこんなにも暗いのだろうか。


 僕は目当ての部屋に着くと二、三度ノックする。アポイントは取っていたので相手の返事を聞くことなく扉を開いた。部屋に入ると同時に部屋中に満ちている匂いが鼻をさす。


 珈琲の香ばしい匂いだ。


「有栖川教授いますか」


 部屋の奥に声をかけてみるが、返事は返ってこなかった。


 僕は仕方なくどこで拾ってきたのかわからない、応接用の焦げ茶色のソファーに荷物を置き、勝手に湯を沸かす。手慣れた手つきでコーヒーメーカーに豆を入れると、手持無沙汰になり、てきとうに本棚を眺める。


 本棚にはどこの歴史かわからないが数多くの史記があった。興味があるものを探そうと思い、指先で追っていくと一つ隔離されたような場所にいくつかの本が並んでいた。


「……k村の記憶」


 僕はガラス戸を開きその本を手に取る。教授からは、許可なしに触れることを許されていなかったが、ちょっとした好奇心から、伸ばした手を引っ込めることができなかった。


 古びた本はかなりの年月を思わせ茶色く黄ばんでいた。開いて中を見るが所々かすれていて読みづらい。数行読んでみるが子供の落書きのように、わざとボールペンで文字の部分を黒く塗りつぶされている個所があり、文としての形を成していなかった。


 僕はその本を読み解くには難易度が高すぎて、解読作業を諦めて元の位置に戻した。


「異常症状未分類」


 そしてそれらの隣には教授の分野ではない本が並んでいた。僕は不思議に思いながらもその一冊を手に取る。


 未知の精神病。僕はその本を開くが、まったく分野外のことから理解するにはほど遠かった。そこにはいくつかの過去に起こった事件とそれに関連する病気が載っていた。


 ぱらぱらと流し読みをしていたら、お湯の沸く音が聞こえた。それにびっくりして本を戻そうとするが、慌ててしまったため、本の中から紙が零れてくることに気付かなかった。


「あ、やっちゃった」


 気づいた時には時すでに遅く、床じゅうに白い紙が散らばる。


 その時、なんとタイミングの悪いことか、部屋の扉が開いた。


「なんだ、なんだ、湯が沸いているぞ」


 有栖川教授はコンロのスイッチを切ると、僕のほうを見る。


「おう、もう居たのか」


 そう言って、笑顔を見せながらこちらに歩いてくるが、散乱した紙が床一面に広がっているのを見ると、一瞬だけ顔色を変えたが、それも何事もなかったかのようにすぐに笑顔に戻る。


「勝手に本棚を開くなと言ったじゃないか」


「す、すいません」


 二人して落ちている紙をまとめる。その作業に少しだけ教授が焦っているように見えるのは気のせいだろうか。


「これで、全部かな」


 それほど多くはなく、あたりを見回してもそれらしいものはなかった。


 教授がその本をしまうのを合図に僕は珈琲を入れるためにコンロに向かった。


 僕は少しだけやかんを持つ手が震えた。それは湯気による熱さからではない。


 これは胸に閉まっておくことが最善なのかと自分に問う。先ほど拾った紙の一文。別にのぞき見しようと思ったわけではない。けれどふと視覚が認識してしまっていたのだ。


 明らかに手書きだった。書きなぐるような文字。そこには数多、人を呪うような言葉が書きしめられていた。


 殺す。憎む。死。死。死。死。悪。闇。首、飛ぶ。罪。斬首。血。血。血。涙。死。悲鳴。


 確認できていたのはその意味もないような言葉の羅列。多分その紙にはもっと、続きがあっただろう。


 意味もない。意味が理解できない。だからこそ僕はその言葉に恐れた。


 人は理を解せない事象を決まって、自然的なものか、霊的な脅威として扱う。


 五感を用いて解することを出来ないものを、人は恐れる。


 実態のないものによる恐怖というのだろうか。


 この文章もある意味では実態はなかった。敷き詰められた文には込められた思いは理解には遠い。


 言の葉には想いが宿ると言われているが、これらの文字には少なからずプラスな感情は読み取れず。


 それを人は狂気と言うのかもしれない。


「どうしたやかん持ったままだと火傷するぞ」


 その言葉にはっと意識を取り戻す。


 ありえないのだ。少なくともこの人がヒトを呪い殺すような感情を持っているはずない。


 身寄りもなく彷徨っていた僕を、何の見返りもなく保護してくれた教授は今まで一度だって憎悪の感情を示すことはなかった。


 忘れよう。今見たもの、考えたものは忘れてしまえ。


 僕は自分に言い聞かせた。


 僕は先ほど見た文章を忘れてしまうように、心の奥にしまい込むと、コーヒーメーカーに湯を注ぎ二つ分の珈琲を作る。


 思い起こすのは、遥か昔の出来事。僕にはそれだけで十分だった。


 疑うはずもない。疑えるはずもない。


 もしここで教授、……いや義父のことを疑ってしまえば、それこそ僕の記憶を疑わなくてはいけなくなる。


「すまんな」


 湯気の立った珈琲は、冷たく、鋭利となった心を温かくした。


 二人はしばらく何も話さないままくつろいだ。


 二人の間を緩やかな時間が流れる。


 僕はこの時間が好きだった。なによりも安心できた。

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