第二十五話 冗談
家につく頃にはひどく体が冷え込んでいた。
口を開くことも億劫で二人は黙したままただ足を動かしてここまで来た。
玄関には暖かな光が灯っている。
玄関をくぐれば一度暖かな空気が僕を包んでくれるのだろう。
暖かい料理に、暖かい空気。
風呂だって沸かしてあるし、布団だって干してある。
やはり違和感は消えてくれない。
いつのことだろうか。
僕はいつだってこの生活を繰り返してきた。
仕事のため学校に出かけ、家に帰れば家庭の温かさに触れる。
なのになんで僕はその日常に違和感を覚えているのだろうか。
僕は一人じゃない。
ぼろなアパートも。
冷たい夕食も。
一人の部屋も。
あれはただの夢だったではないか。
いや、夢だったのか。
大学は?
研究は?
卒論は?
父さんは?
分からない。
なんでこんなに頭の中がぐちゃぐちゃになっているのだろうか。
昨日のことがうまく思い出せない。
一昨日の出来事が分からない。
一年前の記憶がない。
「兄上?」
玄関前で動かなくなった僕をおかしく思ったのか有香が怪訝な顔を向けていた。
「そんなところで立ち止まっていたら風邪を引くよ」
「ああ」
僕は頭の中で渦巻く謎を振りは払うと有香の後に続いて玄関をまたいだ。
「まさかさっきの冗談を気にしているのではないか」
「冗談?」
有香が脱いだ靴を揃えながら頷いた。
「私が兄上を殺すわけないだろう」
冗談だ、冗談と手を振っている。
「へ、あ、はっ、そうだよな、ははは」
「なんだよ、その反応だとよもや信じていたのではなかろうな」
有香はまったくと腕を組んだまま僕の前で露骨にため息を吐いて見せた。
「ま、いい。とりあえず荷物を置いてくる」
そういうと有香は自分の部屋に向かって歩いていった。
「冗談だよな、冗談」
誰もいない廊下で自分を笑い飛ばした。
「あの真剣な表情も、悲痛そうな表情も、心から誰かを救いたいと思っている意思も」
冗談か。
……なわけないだろ。
「冗談であんなに悲しそうに殺すなんてこと言えないだろ」
有香はいつもまっすぐすぎたから。
真剣に冗談が言えるほど器用ではない。
知っている。知っていた。
「僕を誰だと思っているんだよ」
兄なんだ。
僕は有香の兄だから。
いつだって見てきた。
「あれはいつのことだっただろうか」
僕は目を瞑ると何処からか響いてくる泣き声に身を任せた。
始まりはいつだっただろうか。
気づけば僕はいつも妹を守らないといけないと思わされていた。
その子はいつも臆病そうに僕の後ろをついて回っていた。
当時六歳になったばかりの僕には三歳の有香と一歳の有里という妹がいた。
母親は有里の面倒を見ることで精一杯で、有香は必然的に僕と一緒にいるしかなかった。
愛情が一番必要な時期に母親のそばにいれない有香を今なら不憫に思える。
有香にとってよりどころは僕しかなかったのだろう。
僕は有香の手を取るとよく山に遊びに行った。
僕ぐらいの年代なら村の広場に遊びに行けばいいのだが、それは難しいことだった。
僕がその場にいるだけで、みんなは怯えたように帰っていく。
以前有香にみんなと一緒に遊びたいと言われて言ってみたときのことだった。
僕と有香が姿を見せた瞬間、子供たちは僕たちに悪口を浴びせかけながら去っていった。
有香はその言葉の意味が分からず、僕に不思議な顔を見せて笑った。
「だれもいないからあそびほうだいだね」
僕はただ頷くことしか出来なかった。
その後も何度も広場にせがまれたが行く気にはなれなかった。
そんな有香はひどく人見知りする子だった。
もともと人と接する機会もなくただ家庭という狭い環境で物を見てきたせいもある。
有香には他人とどう接触すればいいのか分かっていなかった。
家族から見れば良く笑う子だった。明るい子だった。
けれど一度外に出てしまえば、僕の後ろで申し訳なさそうに俯いている小さな子だった。
そんな環境だったからだろうか。
有香に少なからず外界の恐怖を植えつけるきっかけになっていたのかもしれない。
そしてまた一つ。幼心にも分かってしまっていたのかもしれない。
僕が有香を疎んでいたということ。父親から命令されたから有香を守ってやっているという僕の中の暗黙の了解。
有香は必死だった。僕から離れまいと必死に裾を掴んで離そうとはしなかった。
いつも僕の後ろでいつの間にかべそをかいていた。
僕が常に有香を無視していたからだろう。
それで気がつけば泣いていた。
そんな幼少期を送っていた有香の性格はひどく捻じ曲げられてきたものだった。
外界には恐怖。家庭では僕から疎まれ。母親はかまう事が出来なかった。
それが今の性格に結びつくまで色々なことがあった。ありすぎた。
少なからず有香は僕と、そして僕が引き連れた彼女たちの影響を多大に受けてきた。
それが今となっては良いか、悪いかなんて分からない。
それでもこの時点で有香が今もっている、一つの性格は形作られることになった。
周りから嫌われたくない一心で身に着けた有香なりの処世術。
悪意を向けることの恐怖。
有香には誰かを嫌うということが出来ずにいた。
またそれに付随する言葉や行動。
たくさんの出会いがあり、人に触れ合ってきた今でなら多少の臨機応変はきくようになってきた。
それでも有香の根底にあるものは揺るがない。
だからこそ冗談で身内である僕を殺すなどと真剣に口に出来るはずがないのだ。
「はっ」
なにか脳裏に電気信号が走ったみたいに顔を持ち上げた。現実に収束されていく。
「それならなぜ?」
僕は先ほどのやり取りを思い出す。
有香は他人に悪意を向けることが出来ない。
そう、他人を嫌うことが出来ないんだ。
「なぜ、紗枝華先生は兄妹そろって苛めているといったのだろう」
有香にはどうしたって紗枝華先生を苛めることが出来ない。
そこの事実関係が不意にあやふやになってくる。
そうだ、あやふやなんだよ。全部が。
僕は荷物から手帳を取り出すとアドレスの欄を開く。
「確かめなくては」
開いたページは有栖川教授のページ。
「大丈夫、まだ僕は僕でいられている」
僕は急いで階下に出ると古ぼけた黒電話の前に立つ。
「確かめなくては」
受話器を取ると、ダイヤルを回していく。
教授なら何か知っているかもしれない。
この違和感の正体。
徐々に蝕まれていく現実。
僕はその声を聞きたい一心に電子音を待つ。
義父さんの声を聞きたいが故に。