第二十一話 もうやだ、このクラス
「起立、礼」
学級委員の号令の下、その日の一日は幕を開ける。
会議の時に聞いたのだが、この学校は村唯一の学校とされ、小中高一貫とした学校である。
一貫としているといっても、そもそも一学年にクラスは一つずつしかなく、全ての学生を集めても余裕が出来るほどだったためそういう制度になったらしい。
そして僕が受け持つのは有里のいる高校の三年のクラス。
新任の若手である僕が高校三年という受験を控えたク重要なクラスを任されてていいものなのだろうかと思ったのだが、どうやらこの学校には大学に進学する人は一人もおらず、みな不思議なことにこの村に残る人だけだった。
それに僕がこのクラスを預けられたのは妹がいるからという理由。
大抵の学校なら成績などの不平等が発生するのは良くないこととされるため親類を受け持つクラスは与えられないのだろうがこの学校では、そんな暗黙のルールは存在してはいなかった。
「おはようございます」
僕のその掛け声に皆一斉におはようございますと返してくる。
クラスの人数は二十人弱といったところだろうか。
それでもこれくらいの人数に一斉に挨拶を浴びるとまた挨拶を返ししまいそうになる。
そんな僕の挙動不審な行動を面白がっているのか、あちこちから忍び笑いが聞こえてくる。
「先生、挙動が不振ですよ」
そんなことを言っているのはなぜか有里の隣に座った有香だった。
この教室に入るなり後は任せたとか言って、当たり前のように有里の隣に座ってしまった。
「さ、早く連絡事項を話してくださいよ悠二先生」
まるで小馬鹿にしたような態度に僕はむっとしたが、連絡事項を述べた。
「なにか質問はあるか」
僕は生徒たちに問いかけると、何人かの手が挙がる。
そんな分かり難かったのかと少し落ち込みながら、身近にいた女子生徒を当てた。
「この三ヶ月私たちをほったらかして何処に行っていたわけですか」
「はっ?」
まるで予想もしていなかった質問に困惑の声が思わず出てしまった。
てっきり連絡事項の質問がくると思っていたのだが、生徒の興味はまったく違うものだった。
僕が虚を突かれていると辺りからはいろいろな声が上がる。
教師ばかり休みやがってずるいぞ。
横暴だ横暴だ、反乱だ。
笹草先生を泣かせやがって。
ざけんなみんなの笹草ちゃんを取りやがって、このロリコン。
そーだロリコン。
「ロリコン!ロリコン!」
なんか途中から激しく変な方向に飛んでいるのは気のせいだろうか。
それと。
「ロリコンじゃないよ」
普通に考えて二個ぐらいの下の人と付き合っているからってロリコンなんていうだろうか。
「ペド!ペド!」
ちょ……。
「なお性質悪いわ」
それに一番盛り上がっているのは有香先生だった。
僕のクラスはこんな騒がしいクラスだったのかと肩を落とした。
「エル、オー、ブイ、イー、ラブリー結衣子!」
「有香先生うるさいよ」
それに今時それは古くないですか。
両腕でアルファベットを作っているのがさらに痛々しい。
「なに、照れるな、照れるな」
なんだろうこのポジティブシンキング。
若干、父さんを感じる。
みんなだってほら呆れて……。
「エル、オー、ブイ、イー、ラブリー結衣子!」
みんなして同じポーズをとっていた。
やだ、もう、このクラス。
こうして僕の過酷な一日が始まった。
「エル、オー、ブイ、イー、ラブリー結衣子!」
もう、いいってば……。
「おや、どんよりしてますね」
僕はなんとか職員室に帰還して席の戻ると、隣で難しそうな雑誌を読んでいる相川が声を掛けてきた。
「いや、なんか、今時の若者のすごさに恐れ入ってね」
僕は口元だけで笑うと、机に突っ伏した。
「なに言ってるんだか、まだまだ篠崎だって若いくせに」
僕のそんな様子がおかしかったのか朗らかに笑っている。
「なんか、授業前なのにすっごく疲れた」
あれから有香を発端にますます勢いが増していったうちのクラスは隣のクラスから苦情を言われるまで続いた。
「なんでこの歳になって高校生にからかわれなくてはいけないだろうか」
それも人の色恋沙汰について。
そもそもなんで学生までもが僕と結衣子のことを知っているのだろうか。
普通はそういうのってタブーじゃないのか教育の場として。
「それだけ篠崎が人気だってことだよ」
人気者は辛いねと、心配もしてないくせに言ってくる。
「その人気者ってのがわからないよ」
僕のどこに人気があるというのだろうか。
有香もそんなことを言っていたがまるで理解できない。
「そこまで鈍感だったとは」
相川が呆れたように口元を歪めた。
「こりゃ、嫁も苦労するってわけだよな」
「嫁って……」
僕はため息を吐いた。
「ま、篠崎はもう少し周りを自覚することだな」
そういって教科書と出席簿で机を叩いた。
「じゃ、お勤めに行ってくる」
相川はそのまま職員室を出て行った。
その姿を見送ると僕も授業の用意をする。
最初のクラスはどこかなと時間割に目を向けた。
「うちのクラスじゃん」
僕は教材と出席簿を手にすると、期待と不安を抱えたまま僕も職員室を出て行った。
「と、いうわけで授業を始めたいわけですが、なぜに有香先生は生徒と一緒に座っているんですか」
あなたはこっちでしょと手招きをする。
あなたがいないとこの授業が成立しないのですよ。
そんな僕のアプローチに彼女は眠そうな目を向けたまま僕のところまで近づいてきて、僕を押しのけた。
「ちょっと、いきなり何するの」
僕は有香に押されるように教壇から落とされたことに不満を述べた。
「邪魔、黒板が見えないでしょうが」
「そ、そうだけど」
出来れば口で言ってほしかった。
「いいから兄上は黙ってみてなさい」
私の授業ってものを見せてあげるから、と言った。
それを聞いてかみんなが感嘆の声を上げる。
僕は生徒から邪魔にならない位置に移動すると、どんな授業が起こるのか期待した。
しきりにあちこちから生徒の嬉しそうな声が聞こえる。
有香先生の授業は最高だ。
有香先生の授業は分かり易い。
等々。
有香はチョークを手に取ると教科書も持たずに書き始める。
中央にでかでかと文字が書かれていく。
自……。
……習。
うわ、本当だ。分かり易っ!
書き終わると生徒の方に振り返る。
「一つ、学習は自らの意思でやることに意味がある」
腕を組んだまま、生徒を一喝している。
「二つ、百聞は一見にしかず」
いや、多分、それ使い方間違ってるよ。きっと。
「三つ、馬の耳に念仏だ」
なんかさりげなく酷い事言っているのは気のせいだろうか。
「四つ、風が吹けば桶屋が儲かるのはなぜだ」
うわ、どうでもいい。けど僕も知りたくなってきた。
「五つ、勉学とは常に孤高であれ」
よく分からないけど、有香が教師として間違ってるのは良く分かってきた。
「それではこれよりここに自習を開始する」
有香が掛け声と同時に右腕を掲げるとみんなは一斉に歓喜の声を上げる。
そして有香はその光景に満足すると何事もなかったかのように教室を出て行こうとする。
「ストップ、ストップ。なんかおかしいよこれ」
僕は頭の上にばってんを作ってみんなを制止する。
「なにがおかしいと言うのだ兄上。この学習法はみんなに生徒にも私にも有効ではないか」
僕はなにもおかしいことを言っていない筈なのに、有香や生徒から向けられる視線にまるで僕のほうがおかしい人であると言っているようだった。
「有香はどこに行くの?」
「あぁ、ちょっと寝に保健室に」
なんだろうこの自由の空間は。
僕は眩暈がしそうになるのを抑えると、教壇に戻った。
有香は使えない。むしろ危険だ。
僕はすぐさま黒板に書いてある自習の文字を消した。
「えー、これから日本史の勉強を始めます」
周りから非難の声が飛びかう。
「ほら、うるさいよ。次無駄口叩いたら、成績表に1付けるからね」
僕は少しだけやけになって、自分の教科書を開く。
「じゃ、今日は、ここだ、鎖国から」
適当に開いたページから始める。
「じゃ、えーと君。そこの髪型から昭和の香りを漂わせている君読んでみて」
僕は一番前に座っている男子生徒を指名した。
「いや、だから君だって、そうきょろきょろしてる君。いや、鏡見ても駄目だからね。いいから昭和君教科書読んで」
昭和君は急いで立ち上がると、教科書を読み上げていく。
「ありがとう。別に立って読まなくても良かったのに。でもありがとね」
半ばやけくそになっている自分に気づく。
僕はチョークを持つと、黒板に字を書きなぐっていく。
「鎖国とは……」
鎖国ってペリーが黒船で、日本に宣戦布告しに来たって……あれ?
鎖国って何だっけ。
あぁ、もうこの際どうでもいいやと、チョークをしまった。
「というわけなんだよ。質問は……一切受け付けません」
えー、と非難の声が上がる。
「とりあえず教科書読んで。日本史における教師の役割はその歴史背景にある雑学を披露するだけの存在だから」
日本史なんて教科書に全て答えが載っているのだから。
「じゃ、きりきり行くよ、はい次のページをそこの君読んで」
こうして僕の間違った教師としての第一歩が踏み出されることになっていった。
「おや、どんよりしてますね」
そう声を掛けてきたのは僕の隣で優雅にコーヒーを啜っている相川だった。
「どんよりってさっきも聞いたよ」
僕はどさっと教科書を机に落とすと椅子に腰を下ろした。
「疲れた」
僕は人にものを教えるのがどれほど大変なのか今日一日身にしみた。
「おいおい、まだ半日しか経っていないぞ」
先ほどの授業で四回目。今はようやく待ちに待った昼休みの時間だった。
「とりあえずコーヒーでも飲むか」
「うん、いただく」
相川は職員室に備え付けてあるポットからコップにコーヒーを注いで僕の目の前に置いた。
「ほらよ」
「ん、さんきゅ」
僕は舌が焼けるのもかまわずにそれを口に運んだ。
「あちち」
「馬鹿、そんなに勢い良くコーヒーを飲むやつがあるか」
「そんな気分なんだよ」
そう言って、今度は落ち着いて口に運んだ。
そういえば僕猫舌だったんだと思い返して、後で火傷するかもと少しだけ後悔した。
「んで、久々の授業にやられたというわけだな」
「まあ、な」
やられたもなにも、初めての授業で勝手がまったく分からなかった。
「なぁ、以前の僕はどんな授業をしていたのか覚えている?」
僕は少しだけ気になってそんなことを尋ねていた。
「は、なんだよ急に。よもや記憶喪失にでもかかったのかよ」
「どうだろ、もしかしてそうなのかもしれない」
僕は少しだけ深刻そうな顔を見せたが、相川は動じる様子もなく呆れているようだった。
「馬鹿も休み休みにしておけ。たった三ヶ月も前の記憶なんて忘れるわけないだろ」
「…………」
「おいおい、そこで黙るか普通。なんなら良い医者でも紹介するよ」
「遠慮しておく」
そんなことを話していると、相川は一気にコーヒーを飲み干し席を立った。
「ん、どうした」
「どうしたもこうしたもあるか、飯だよ」
ああ、そういえば昼だなと自覚して、僕もご一緒しようと立ち上がる。
「ちょっと、せっかく俺が気を使っているのになんでお前も立つかな」
「は?」
なぜか立ち上がった僕の肩をつかんで椅子に押し戻す。
そうした後、目線で右を指示する。
そこにはこっちをちらちらと見ている結衣子がいた。
「ちょっとは彼女の身にもなってやれ。いつも一緒に昼食べてたのにもう忘れたのかよ」
この鳥頭と罵られる。
「ああ、いいよな愛妻弁当を持ってきてくれる子がいてよ」
「愛妻弁当?」
僕がとぼけたような顔が気に食わなかったのだろうか頭を小突かれる。
本当に分からなかったのだが、ここで不平をもらしても無益だと思って何も言わなかった。
「いいからさっさと行けよ。羨ましいんだよボケ」
「あ、あぁ」
僕は椅子の足を蹴られ、それが勢い良かったものだから反動で立ち上がってしまった。
「これ以上笹草先生を悲しませんなよ、色男」
そういうと、相川は僕の背中をおもいっきり叩いて職員室から出て行った。
「痛いな、もう」
僕は背中にひりひりとした痛みを感じながらも、結衣子が座る机に向かっていった。
「結衣子、昼ご飯一緒に食べない?」
僕が結衣子の机に近づくにつれ、結衣子が動揺しているのが目に見えてわかった。
「は、はい是非」
そういいながら、僕はバネのように立ち上がった結衣子に少しだけ驚いた。
「ご、ごめんなさい。い、勢い余って」
「い、いや別に、あはは」
毎度の事ながら苦笑せずにはいられなかった。
「それよりもここじゃ目立つし、屋上にでもいいますか」
彼女の机の上をちらっと見てみればそこには赤と青の包みに包まれた弁当が二つあった。
僕はそれを掴むと、彼女を促した。
「そ、そうですね。行きましょう」
僕は半歩後ろを申し訳なさそうに歩く結衣子を先導すると屋上に向かっていった。
まるでそれは、しょんぼりと落ち込んだ子供を連れ立って歩く母親のような構図だった。
「誰にも会わないように」
僕はこの状況を噂されるのを恐れるように、神に祈りを捧げた。




