第十八話 狂い人
目覚めはそれほど悪くなかった。
というのも、最近頻繁に見ていた悪夢を見なかったからだろう。
今日見た夢は一人の少年とその父親の話だった。
僕は役目を果たせぬまま、刻々と刻み続ける目覚ましを止めた。
「少し早すぎたかな」
朝日が昇ろうか、昇らないかの時間帯。
目覚めるには早すぎて、二度寝するには遅すぎる時間だった。
僕は布団から這い出ると、カーテンを開く。
朝靄のかかった外界が晒された。
さすがは冬というわけか、一枚の窓越しに手を当てれば冷たい。
雪が降るのもそう遠くないなと考えて、部屋を出た。
階段を下りると毎度のごとくキッチンから良い匂いがする。
包丁がまな板とぶつかり合う音。
そして二人の楽しげな声が聞こえた。
「おはよう」
僕はキッチンにいる二人に挨拶をするためにドアを開けた。
そこにいたのは、母さんと有香だった。
「あら、おはよう」
それにしても意外な組み合わせだと思った。
有香がこんなに早く起きているのが少し不思議だった。
それに料理といえば、下の妹の有里のほうが似合うような気がする。
いや、別に有香が料理をしていることを否定したいわけではない。
そんなことを考えながら呆けながら有香を見ていた。
「おはよう兄上。ところで先ほどから失礼なことを考えていないか」
刻み終えた野菜をなべに入れながら有香は振り返りながら挨拶をする。
「ちょっと、有香が料理してるなんて思えなくて」
「本当に失礼だな兄上は。私は結衣子に料理を教えてるぐらいの腕前だぞ」
胸の辺りで腕を組みながら、彼女がすねたような顔をしている。
どうやら先ほどまでの一連の流れを見るに、それも見栄ではないと実感した。
「それにしても、こんな早くから起きてるとも思わなかったんだよ」
昨日の寝起きの姿を想像してそう口にした。
「先生が遅刻なんて出来ないからな」
そのくらいの節度はわきまえてるさ、と笑い、手にしたお玉でなべをかき回し始めた。
僕はそれ以上邪魔するのも悪いと思い、顔を洗いにいった。
居間は暖かかった。
東京の住まいにあったようなストーブはなく、そもそも電気なんて通ってないのだろう、年代ものの囲炉裏に薪がくべてあった。
僕はいつの間にこんな暖を用意したのだろうかと不思議に思い、朝早くから用意してくれたであろう母親に心の中でお礼をした。
それにしてもなぜか、居心地が悪い。
いや、この部屋が悪いといっているわけではない。
朝早くから起きて仕事している二人を横に一人部屋で温まっているのが少し嫌だった。
かといって僕が料理を手伝うなどといっても逆に足を引っ張るだけだろう。
確かに一人暮らしで食材を切ることに関してはなかなか上達したと思う。けれど味付けになるとそれは別の話だった。
僕は一度二回の部屋に戻ると、服を着込む。
村の中を知るために少しだけ外に出てみようと思った。
キッチンにいる二人には少し散歩してくると告げると、外に出た。
夜に冷え切った外気は鋭利なものだった。
着込んだ服の上からでもその感触は確かに伝わった。
僕は道なりに沿って歩いてみた。
まだ朝も早いことから人の気配はなかった。
村といっても、結構広いものだと実感する。
住居がところ狭しと立ち並ぶ。
空を見上げれば、都会では邪魔していた電灯も電線もない。今は分厚い雲が邪魔しているが、それが取り払われたとき一面に青空が広がると思うと、嬉しくなった。
少しだけ異質な空間、コミュニティーであると思った。
極度に発展してしまった世界。
それでもここは何も影響がないと言うように残されている。
この木々で覆いつくされた空間が、一つの国家を形成していた。
外の世界では戦争だの、問題だの抱えている。
それなのにこの村はなんて無関心なのだろう。
少なくともこの村に外界の情報が流れ込んでいるところを見たこともないし、当たり前のように使われている最先端機器もなかった。
僕はいつの間にか村のはずれまで着ていた。
目の前には森。僕がこの村にやってきたときの道。
ここを抜ければ果たして僕がやってきた線路はあるのだろうか。
そんな疑問が浮かび上がってくる。よく考えれば僕はあの線路を使って遺跡の調査に行って帰ってきたのではないかと思ってしまう。
僕が村を離れたのは僅かの期間で、その間ずっとここで暮らしていた。
僕は有里と有香という妹を持ち、暖かい家庭で育ってきた。
結衣子という彼女がいて、学校で歴史の講師をしている。
そうなのかと一度自分に問いかけてしまえば、入り乱れたように記憶が混乱する。
「駄目だ」
僕はそれ以上考えるのをやめた。
なにもかもがおかしかったからだ。
そんな時にそいつは現れた。
「ん……が……だくぁ」
首が横にゆがんだ男の人だった。
その男はいつの間にか僕の目の前にいた。
その男は森の奥に視線を走らせながら何かつぶやいている。
「び……や……るん、け」
小汚い格好をしていた。
その男が発しているのは言語ではなかった。
瞬時に僕は狂っていると思った。
その目から、顔から、体全体からその男が普通ではないことはすぐに察することが出来た。
僕は生理的な嫌悪を感じ、その男から離れるように一歩下がった。
けれどその男は僕を追い詰めるように一歩近づいた。
そして先ほどまで森を見ていた男の目がいつの間に僕を捕らえていた。
「ぎゃ、ぎゃ、ぎゅ、ぐ?」
そいつは僕になにか伝えるようとしていた。
けれど僕は何もわからず首を左右に振っていた。
僕はすでに恐怖でいっぱいだった。
先ほどその男が近づいたときに、隠すように持った斧の刃が見えていた。
そんな僕の視線に気づいたのか、その男はゆらゆらと体を動かしながら笑っている。
「きゃ、はは、ははは、ははは」
男はまるで子供のような無邪気な声を上げている。
ゆらゆらと動かした体の先からはすでに斧がはっきりと見えていた。
「ははは、へへへ、ほほほ」
冷や汗が背中を伝うのを感じる。
僕はこの状態に混乱するのと同時に、なにか手立てはないかと焦っていた。
「ぎゃは、ぎゃははは、ぎゃがぎゃぎゃがあががが、、、」
「ぎゃ、があああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
全身の毛が逆立った。
身の毛もよだつとはこのことを表すのだろうか。
僕はその男の叫び声に動けなくなった。
「みんなが、やつが、お前が、俺を殺そうとする」
男は正気を取り戻したのかはっきりとした声で何か叫んでいる。
いや、正気ではない。目が座っている。
「首だ。首を狩れ。やつが首をちぎった。血管が首の根元から伸びている。血を啜っている」
気づけば僕は走った。
その男が斧を振り上げた瞬間に村の中に入るように走っていた。
「頭はどうしようか。目をほじくり出そうか。ぶすっと力いっぱい目の串刺しだね」
腰が抜けてなくて助かった。
しかし、日ごろの運動が祟ってすぐに息が上がる。
「ぎゃははは、みんなで殺した。俺の妻を殺した。中指を切り落とし、親指を捻じ曲げ、小指を引きちぎった」
男は疲れた様子もなく、残酷なことを口にしている。
「神経は美味しい?脊髄はぽりぽり。血なまぐさいね。ぎゃは、脳はとろとろ」
もう限界だった。
足の震えが半端ではなかった。
「君はどんな味かな?美味しい?不味い?食べちゃおうか、食べましょう、喰ってやろう」
僕の手が男の手に捕まえられた。
その反動で僕は、バランスを崩し倒れた。
男の顔がまじかに迫っていた。振りあがる斧が見えた。
もう何もかもがおしまいだと知った。
そんな時だった。斧が振り切るより早く、空気が破裂するような大きな音が広がった。
耳が痛かった。
目をつぶっていたので何が起きたのかは分からなかった。
次の瞬間、男は寝そべるように仰向けに倒れていた。その手から斧が放される。
死んだと感じるのは男からなにも感じなくなったからか、それよりも生きている安堵に僕は心が温まる心地がした。
五、六人ぐらいだろうか。
一人が掛け声を上げると、いっせいに男が寝転がっている方向に駆け出していった。
手際のよい動きでその男を大きな箱の中に詰めている。
僕はちらりと流し見ると、赤い液体がとめどなく噴出しているのが見えた。
僕は気持ちが悪くなってすぐに見るのを止めた。
吐き気がするのを押さえ込むと、ため息が出た。
そんな僕に近づく影があった。
「大丈夫か」
僕はその男から腕を借り起き上がる。
「どうしてこんな早い時間に外を歩いていたんだ」
僕は起き上がってからすぐに気がついた。
この手を引いていたのは父さんだった。
そして腰には拳銃が挿してある。
「と、父さん」
「聞きたい事が山ほどあると思うが、今はお前を安全の所に返すのが先だ」
父さんは男を入れた箱を持っている同僚らしき人になにやら話しかけた後、僕に向き直った。
「……罪のない人を殺すのはきついな」
「え……」
「なんでもない。さ、戻ろう」
母さんが朝ごはんを作って待っているから、といって父さんが僕の手をつかんだ。
この年になって、父と手をつなぐのは少し良い気持ちではなかったけど離すことができなかった。
なぜならその手が、震えていた。
寒さからではない。
何かを堪えるように、激情を押さえ込むように、その手は震えているのだと思った。




