第十七話 夢、原初
そこは一人だった。
笑わない童に家族は頭を抱えていた。
別に両親が悪いわけではない。そんなことは知っていた。よく愛情を注いでくれていると知っていた。
けれどその子供は笑わなかった。感情の一部がもともと機能していなかった。
思えばそれが症状発症の過程だったのかもしれない。
幼子にしては達観していると思われたのはちっとも泣くところを見せたことがなかったからだろうか。手のかからない自慢の息子だと父親はしきりに自慢していたが、その実少し寂しかったに違いない。
あれは僕に妹が出来て、自我がとっくに芽生えていた頃だった。学び舎と呼ばれる所に通わされ、そしてそこにはたくさんの同年代の子供がいた。
僕は近寄るみんなを鬱陶しく思い、一人教室の端の机に座っていた。
初めは毎日声を掛けてくれた子も、愛想のない僕に興味を失い、挨拶だけをかける他人となり。それすらも無意味だと気付くと僕を空気にした。
僕としても他人を知ろうとも思わなかったから好都合だった。誰一人としてその頃は人間として認知していなかった。
ある日の帰り道だった。
僕はその日喧嘩をした。理由は言いたくない。しいて言えば相手が初めに手を出してきたから僕がそれに応戦した、ということにしておく。
その後、僕はなぜか三人の子供を地面に転がしたところで駆けつけてきた先生に押さえつけられてその場は収集された。
「なぁ、なんで手を出したんだ」
夕焼けに染まる帰り道、二歩先を歩く父さんは振り返らずに訊ねてきた。
あの後、担任にこっぴどく怒られたあと、両親に連絡が行った。
話を聞いているか聞いていないか分からない僕に痺れを切らしたのだろう。
「知らない」
僕は下を向きながら道端に転がる石を数えるのに夢中だった。
「理由もなく殴ったのか」
理由はあった。けれど僕は黙っていた。
「そこで黙られると肯定だと受け取られるぞ」
それでも僕は黙っていた。
例え、僕が理由もなく殴ったのだろうと思われていても、それならそれで十分だった。
何もかも面倒だと思った。
夕陽の緋が印象的だった。
「父さんが前にも言っただろう、人を簡単に傷つけては駄目だと」
それは僕が蟻を愉快そうに殺している男の子たちを殴った時だった。
あの話が父さんの元まで伝わった後、飛んできた父さんに有無言わずに殴られた。
「今回は理由があるんだろう、言ってみろ」
だから無いと言ったのにどうしてしつこいのだろう。
僕は簡単に思いついた理由を口に出した。
「むかついたから」
年相応のひどく子供じみた言葉だろう。
けれど、父さんには効かないようだった。
父さんはため息をつくと、口を開いた。
「どうして嘘をつくかな」
「嘘なんかついてない」
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ。
なぜか自分に腹が立った。
何を隠す必要があるのだろうか。
誰かを傷つけないため。
それが、優しさだからか。
いや、嘘だ。
優しさなんか、僕が持っているはずはないんだ。
強くなるなら、優しさなんかいらない。
それが、約束だから。
男たるもの強くあれ。
「父さんはな、お前が誇りなんだ」
そう言って笑顔を見せてくる。
「教えてくれたんだよ、颯太のクラスの女の子から」
どうか颯太を怒らないでください。
颯太君は悪くないんです。
颯太君はお父さんを酷く言われたから。
どんなにも自分の悪口を言われても動じなかった颯太君が、お父さんの悪口を言われたから殴ったんです。
「そりゃ、殴るなんて良いことだとは思わないよ」
もっと最善の行動はあっただろと、付け足した。
「それでも、ありがとな」
父さんのために殴ってくれて。
そう言って父さんは僕を抱きしめた。
「それで、颯太はなんて言われたんだ」
心無い中傷だった。
仲間外れだの、孤独だの、不必要だの、呪いの子だの。
けれど僕は慣れっこだった。
さほど気にも留めず座っていた。
けれど駄目だった。僕には触れられてはいけぬ聖域があった。
父さんを、誇りをもって仕事をしている父さんの悪口を言われるのがたまらなく嫌だった。
お前の父さんは殺人者。
その一言が僕の拳を振るうのには十分だった。
「…………」
僕は黙って首を振った。
出来れば知らないで欲しかった。
このことは僕の胸で小さな傷であればいいと思った。
少なくとも伝聞であろうが父さんは心無い中傷で傷ついてしまった。
「ありがとう、ありがとな」
そのまま僕は夕陽を眺めていた。
僕は心の中でまた決心をした。
それは、僕をさらに苦しめる結果になったのは誰も知らない。
僕は目の先にいつの間にかいた彼女を見据えた。
それは、僕を先日ひっぱたいた少女だった。
「許さない」
僕は彼女を力一杯睨みつけた。
父さんに事の発端を教えたのが彼女だと知っていた。
父さんが傷ついた原因が彼女だと知っていたから。
それはなんとなくだけどわかってしまった。
遠くからでも安心しきった彼女が見えたから。
「僕の聖域を侵すやつは許さない」
ひどく小さな声だった。
もしかしたら心の中での呟きだった。
それでもその時初めて認識した。
彼女は僕の父さんを間接ながらも傷つけた。
それだけが、僕にとって彼女に対する憎悪の対象になりえる行為だった。
そしてその時もう一つ認識する。
誰の意図かは誰も分からない。
ただの偶然が必然へと結びついた先、それが僕と紗枝莉が出会った瞬間だった。




