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第十五話 夢、始まりの前

「ただいま」


 篠崎家に着くとようやく落ち着きを取り戻した。


 あまりにも必死だったためどこをどう帰ってきたか分からなかったが、偶然にも戻ってこられたみたいだった。


 玄関の戸を開けると、優しげな空気が体に纏わりつく。穏やかな安息に張りつめていた心が弛緩した。


 僕が玄関の戸を開ける音に気付いたのか、有里と有香が寄ってきた。


「ただいま」


 僕はそんな二人に帰ってきた挨拶をすると、彼女たちは家に迎え入れてくれた。


「おかえりなさい」


 こんな些細なことにすら感動を覚える。


「兄上、結衣子は元気だったかい」


 僕は先刻までの結衣子とのひと時を思い出して頷いた。


「ちゃんと、謝ってきたよ」


 そういうと苦笑いがこぼれた。同時に結衣子の泣き顔が浮かんだからだ。


「その分だと、泣かせてしまったみたいだね」


 僕は曖昧な笑みを浮かべると、靴を整え、家に上がる。


 有香の後ろから、結衣子さんを泣かせたの、といった有里の非難の声が聞こえた。


「どうだった、久々の甘い一時は」


 どうして有香は僕と、結衣子のことになるとこんなに楽しげな顔になるのだろうか。


 その問いかけに対して笑顔で首を傾げると、洗面所に向かう。


「こら、兄上、逃げるのか」


 詮索しようとする有香の手から逃れるように僕は洗面所に入って行った。





 夕食は昼食に比べると平和だった。


 僕が結衣子のところに向かったあと、書斎に籠り切りだった父さんは、実家に帰る、と突然家を出て行ったらしいが、帰ってくることはなかった。


 それに対して、我が家の女性陣は明日の朝にでも何事もなかったように現れるわよ、などと楽観視していることからそれは今日に始まったことではないのだろう。


 そう言ったわけで、和やかな、楽しい食事を行っていた。


 有香は食事時にはめったに喋らないのか食事に集中し、母さんと有里が主に会話を広げていた。それに加えて僕が一言二言とってつけたような会話をし、ご飯を摘まんでいた。





 食事を終えると、僕は荷物を整理するため自分の部屋に行き、バックを開く。


 そう言えば荷物なんてないようなものだったと、思い出し、ベッドに腰かけた。朝から歩き続けだったため心地よい疲労感が頭を鈍らせた。


 すぐにでも眠ってしまいたいという欲求があったが、その前に風呂に入らなくてはと思ったのだが体は言う事を聞かず、欲求のまま仰向けの体勢でベッドに沈み込む。


 そこから目を瞑ってしまえば、意識を失うまではそう時間はかからず、僕はいつの間にか夢の世界に誘われていた。





 爽やかな風が吹いていた。そこは僕にとって心地のいい場所だった。


 村から少し森の奥に入った場所。どこから流れてくるのか分からない小川の岩に一人座っていた。


 僕はいつもこうして妹の目を盗んで、ここに一人でやってくる。妹たちがいると騒がしくて仕方ない。それにここは僕だけの秘密の場所にしておきたかった。


 その日もいつもと同じように川の中を眺めていた。川の中を楽しそうに泳ぎ回る魚を眼で追っていた。


 聞こえてくる音は、木の葉が風でなびく音。小川のせせらぎ。鳥がさえずる声。そして虫の営み。僕はひとり時間を忘れて呆けていた。


 同年代から見ると、自我が確立している方だと思っていた。僕は幼いころから兄として育てられたため、少しだけ大人びて育っていた。


「くだらない」


 どこかここに来てもいつもより気が立っているのは、先ほど見た同年代の子たちのせいか。嫌悪する言葉が意識もせずに口に出る。


 何が楽しいのか、子どもたちは蟻を踏みながら遊んでいた。


 まだ命というものを理解していないのだろう。誰が一番殺すことが出来たかを競い合っていた。


 子供らしい好奇心なのだろう。純粋すぎる心が、自分の知るところなしに命を摘み取る行為に僕は居たたまれなかった。


「それにしても、少し言い過ぎたかもしれない」


 僕はそれ以上その行為を見逃すわけにいかず、楽しそうな顔で虫を踏んでいる子供たちの前に立った。バカ父さんから、男なら男らしく正義を貫いて見せろと言われたことが頭をよぎる。


 僕は子供たちの前に立つと一番楽しそうに踏んでいるやつの頭を殴った。渾身の力を込めて。僕は殴ることしか知らなかった。そして傷つけることしか知らなかった。


「知っているか」


 殴られた子は地面に倒れ、泣きだした。周りにいた子たちは唖然としている。無理もないだろう。その子たちにとって殴られる理由なんて思い当たらないのだから。


 僕らはそこにいるみんなに聞こえるように声を張り上げた。


「お前らが今踏んでいるのは命だ。お前らは殺しという最悪のことをしている」


 僕が言っていることなんてこんなやつらには理解できているはずもない。けれど子供たちの顔が引きつっている。それがここに現われたのが僕だから。


「今殺した虫は、きっと夜仕返しに来るぞ。復讐に来るぞ


 僕がお化けのまねごとをすると、うっすら目に涙をためている。


 僕は村で評判の悪者だった。それはきっと僕がみんなを殴り、泣かせるからそういう評判が立ったのだろう。けれど僕はなにも悪いことはしているつもりはなかった。


「呪われろ。お前らなんか呪われてしまえ」


 僕はそれだけ言うと恐怖で怯える子供たちの前から離れていった。


 また、後で父さんに叱られるのだろうな、なんて思いながら僕は一人になれる場所に向かっていった。


 僕はいつも僕なりの正義を貫いているつもりだった。けれど父さんはそう言った僕に、みんなから親しまれることのない正義は悪になるのだと答えた。そんな僕はみんなから親しまれる悪は正義になるのかと聞いてみた。父さんは苦笑いして、それは父さんにも分からないのだと言った。


 父さんは、世間一般によくないことしているとよく話してくれた。そんな父さんの職業は村を警備することだった。それの何がよくないのか僕は聞いてみたことがある。そんな時に父さんは言った。みんなから親しまれる悪をしているのだと。罪もない村人を殺しているのだと言った。


 僕はそんなことを考えながら一人小川を眺めていた。


 そろそろ僕の悪行が響き渡っていることだろか。


 帰る足取りが重く、いつまでもそこにいたいと思っていた。


 そんな時だろうか、僕の聖域を脅かすような草を踏みこちらに向かってくる足音が聞こえた。


 僕は足音がする方に目を向けると一人の女の子がやってくるのが見えた。


 年は僕と同じだろうか。僕を見据えたまま動かない瞳に、少しだけ感心する。


 僕と向き合ってここまで恐れない人がいるということが意外だった反面、愉快だった。


 僕は彼女が開口一番に何を言ってくれるか楽しみにしていた。


 しかし僕が座っているところまで来ると、いきなり平手が飛んでくる。


 僕はそんな不意打ちに身構えている暇もなく、岩の上から落ちていく。僕の後ろがちょうど小川だったため、冷たい水の中に投じる羽目になってしまった。


 僕は起こったことが理解できず、水の中で呆けていると彼女が見下すように僕を見ていた。


「君がやっていることと同じ事をされた気分はどう」


 僕は彼女の言っていることの意味が理解できず、ただ理不尽なことをされた怒りに彼女を睨みつける。


「同じ事だと」


 僕がいつこんなことをしたというのか、甚だ疑問だった。なぜ僕が初めて会った女の子に突き飛ばされて水浴びをしているのが、同じことなのか理解できなかった。


「わけも分からず殴られたのと、わけも分からず平手を受けたこと」


 どっちも同じでしょ、と顔をしかめた。


 なにが同じだというのか。僕は彼らが悪いことをしていたから殴ったという理由がある。そんな僕が平手を受ける理由などあるのだろうか。


 考えれば考えるほど僕には意味が分からなかった。


「僕は、あいつらが蟻を楽しそうに殺していたから殴ったんだ」


「なら、そう言えば済むことでしょ」


 そういっても子供には理解されない。だから僕は痛みでそれを教えた。


「言ったところで、分からない。馬鹿には理解されないんだよ」


「だったら、馬鹿はあなたでしょ」


 売り言葉に買い言葉とはこういうことだろうか。


 僕と彼女はしばらくにらみ合った後に、僕は呆れたように溜息をついた。


 春といえども、氷雪が解けた水は冷たい。小川から出ると彼女に背を向けて歩きだした。


 これ以上の口論は不毛だと思ったからだ。


「逃げるの」


 まるで彼女は挑発するように僕の背中に投げかける。


 一瞬殴ってしまおうかと思ったが、妹が生まれてきてからというもの、女の子は何の理由があろうと手を出してはいけないと父さんからきつく言われていた。普段は馬鹿な父さんもそう言うことに関しては厳しかった。


「くだらない」


 僕はそれだけいうと、そのまま歩きだした。


 僕の後ろでなおも何かを叫んでいる声が聞こえたが僕は何も聞こえなかった。


 そして歩き続けながら、足取りが重くなっていることに気づいた。


「どうしてうまくいかないんだろう」 


 人付き合いも、僕の正義も。


 今まで一度だってうまくいったためしがない。


 けれど、それで良いのだと言い聞かす。


「僕は強くならなくてはいけない」


 弱さは見せてはいけない。


 そう心に誓うと、そのまま歩き出した。


 僕には誰も要らないから。


 誰にも負けないために、僕は泣かない。挫けない。


 それが一人であろうと。


 僕は僕なりの正義を貫くため、父さんの元に向かった。

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