第十三話 婚約者
道すがらポケットにしまわれてあったメモ帳を開いてみたが、別段面白いものが書いてあるわけでもなかった。
きれいな字がちりばめられるように、そこには料理のレシピが載っていた。
「もったいぶるほど楽しいことなんか書いてないじゃないか」
僕は、これは完全に有香に踊らされたと気付き、ポケットにしまい込む。
僕はすることもないの、辺りを観察していた。
「穏やかだな」
そう素直に口に出てしまうほど、ここは平和だった。
少なくとも都会のような忙しい雰囲気は微塵もない。皆がのびのびと暮らしている。
一息一息の空気も新鮮で美味しかった。
辺りが森林だからだろうか小鳥のさえずりが響き渡っている。
ここには電線がないため電気が通っていないが、その代りあちこちには井戸や釜戸があり実に興味深かった。
師走を控えたこの時期、ストーブやエアコンのないこの村でどう過ごせばいいのか心配になったが、村民の顔を見るにその不安も消えていた。
誰もが楽しそうに暮らしていて、誰の心にも陰りはないようだった。
「本当に穏やかだ」
再度そう呟くと道なりを右に曲がる。
たしかここら辺だと有香から聞いていたのだが。
僕は右を見て、左を見て、なにかそれらしいものがないか確認していると視界の奥に一人の女性が映った。先ほどから父親以外では女性しか見てないなと、この状況を喜ぶべきか悲しむべきなのか考えながら、視界の先で俯いている女性のもとに向かった。
僕と彼女の距離が近づき彼女の姿がはっきりと見えた時、彼女が僕に気がついた。
彼女は僕に気がつくと慌てたように立ち上がり、頻りに顔をあげたり下げたり隠したりと挙動不審な行動をとる。
離れた位置からでも彼女が可愛らしいのは見て取れた。けれどその可愛らしさは有里のような子供っぽい可愛らしさではなく、違う言葉でいえば可憐。彼女が持つのは美しさを兼ね備えた可愛らしさだった。
亜麻色の髪が、太陽の光を浴び神々しく輝いているようだった。
僕の家族が彼女のことを前面に押すのがよくわかる。良家の箱入り娘を思わせるその子を泣かせるのは何たる恥知らずだろうか。
しかしそんな子がなぜ僕と婚約しているのだろうかと様々な疑問はあるものの、まずは開口一番に何を言えばいいのか分からないでいた。
「あ、えっと元気だった」
手紙も出さず、半ば放置していたような男の帰郷の言葉がそれなのかと自分に問かけてみるが、すでに口に出してしまったものはしょうがない、そのまま話を続けることにした。
「突然、いなくなってごめんね。えっと、手紙も出さなくてごめんね」
女々しい。男ならはっきり言えよと、どこかで誰かが言っているような気がするけど、こんな可愛い子の前では言葉もしどろもどろになるさと言い訳する。
僕のそんな言葉になぜか彼女は泣きだす。
急な事態に状況把握能力が追いつかない。
僕は何か泣かすことを言ってしまったのかと思い返してみるが、なぜかこういらん時に父さんの言葉が蘇る。
泣かせたら、許さんぞ。
違います。違います。僕は泣かせていません。
収集のつかなくなった事態に言葉が詰まっていると、彼女が抱きついてきた。
本日二回目の抱擁に、あれデジャビュ、なんて考えながら、もしかしてナイフなど腹に刺さっていないか確認する。もちろん刺さっていない。
「よ、よかった。ゆ、悠二さんが突然いなくなってしまったから、わ、わたし……」
彼女はひどく体を震わせていた。
そしてその途切れ途切れの言葉に僕はなにか心の中に入ってくる心地がした。
そうか、彼女は。
僕は彼女の気持ちを理解すると彼女を抱きしめ、胸に顔を埋めている結衣子の頭を撫でた。
「ごめんね、心配掛けたね」
僕はその行動が自然と出てきた。それが当たり前のように。
「わ、私に愛想尽かしたのかと思って。お、臆病な私をお嫌いになったのかと思いまして」
頭を撫でるとそれが引き金になったのか、先ほどより激しく泣き始めた。
「もう、それ以上自分を傷つけることは言わないで。悪いのは全部僕だから」
そう言って僕らはしばらく抱きあったままでいた。僕は彼女が泣きやむまで頭を撫で続けていた。
「す、すみません、取り乱してしまいまして」
彼女は泣きやむと僕に何度も頭を下げてきた。そのたびに僕は気にしないでと言い続けるが、先ほどから彼女が謝るのを止めない。
これが彼女の性分なのかと思うが、さすがにこうも悲しい顔されると僕も悲しくなってくる。何かこの状況を打破するものはないかとポケットに手を入れると、結衣子に会いにきた用事の一つを思い出す。
「結衣子」
「は、はっい」
それほど強く言ったわけではないのになぜか彼女は飛び上がった。
「はい、これ」
僕はポケットからメモ帳を一冊取り出すと彼女の掌に置く。
彼女はしばらく首をかしげていたが、中身を開くと何かに気がついたのか顔をあげた。
「あ、これ、有香さんに貸していた料理のレシピ」
「有香がすごく喜んでいたよ」
僕は彼女の代わりにありがとうと、お礼をした。
「そ、そんなこれくらい。それにこれは……」
彼女はしきりに首を振っている。
もうそんな彼女の行動に慣れつつあるのか、次第に微笑ましくなり笑っていた。
「え、あの、どうして笑っているのですか」
そんな僕の笑顔に疑問を覚えたのか、彼女は少し焦ったような顔になる。
「ん、どうしてだろうね」
僕は少し意地の悪い応答をすると彼女からメモ帳を奪い取った。
「あ、ゆ、悠二さん。だ、駄目ですよ」
僕はすぐに取り返そうとする結衣子の手から届かないように、腕を振り上げて中身を読んだ。結衣子の情けないような声が聞こえるが、僕はそれを無視して読み続ける。
「うわ、これおいしそう」
僕は一枚ずつページを開いてざっと見てみるが、なぜかどれもこれも僕の好物らしいレシピに思わず心が躍る。
「え、どれですか」
彼女は僕のその声を聞くと、メモ帳を取り返すのをやめ僕の肩に飛びついてくる。
自然な光景で、彼女は特に意識してないのだろうなと思うけれど、僕は心臓の音が高鳴る。
「うーん」
彼女が必死になって、メモのページを見ようとすればするだけ、彼女は僕に抱きつく形になり、しまいには顔の距離が擦りあってしまいそうになるまで近づく。
僕は彼女に悟られないように、上に掲げていたメモ帳を彼女が無理なく読めるところに下げ平静を取り繕う。先ほどの状況を彼女が理解したなら間髪入れず謝り続けるだろうと予想し、それはもう勘弁願いたかった。
「ほらこのページ」
僕は彼女がよく見えるようにメモ帳を差し出し、真剣にレシピを眺める彼女を見守った。




