ヴィルベルトの行方
パーティー翌日、ヴィルベルトが、目を覚ましてダイニングに降りると、両手いっぱいに手紙を持ってきたモーリスが現れて、こう言った。
「ヴィルベルト様、昨日の綿に関する仕入れの申し込みが、この様に大量に届いております」
「……ああ、分かった……食事の後、確認するから、そうだな、書斎にでも置いててくれ」
ヴィルベルトが、そう言うとモーリスは、一礼してから、部屋を出て行った。
そして、朝食に殆ど手を付けずに、新聞だけ読み、コーヒーを飲むと、深い溜め息を落とした。
(何故、こんな事になっているのか……。一体、何を言えば良いのか……)
ヴィルベルトは、アイヴィーに何を伝えれば良いのか、分からなかった。
何を言っても無駄な気がするし、何かをしても、自分の気持ちを否定している気がしたからだ。
(性急すぎたのだろうか……。何が、いけなかったのか……)
ヴィルベルトは、アイヴィーを大切にしたいと思っていた。
そうすると決めていた。
ヴィルベルトは、生まれて初めて、ここまで相手の為に何かを成したのは始めてだった。
その原動力は、彼女を守っていきたいという責任感であり、彼女に必要とされたいという欲望でもあった。
だから、友人に驚かれても、からかわれても、面倒な役回りであっても、アイヴィーの笑顔を思えば、ヴィルベルトは、己の心を強くさせ、何でも出来るような気持ちにさせてくれた。
その努力が無駄で無かったと確信した後、アイヴィーの口から言われた『側に居て欲しい』という言葉が、ヴィルベルトにとって、どんなに嬉しく、心を踊らされたか。
だが、初めて言われたその言葉の後、アイヴィーに本気で拒否された。
彼女の恐怖に歪む顔が、ヴィルベルトの心を凍てつかせた。
ヴィルベルトが何も出来ないのは、拒否されたからだけではない。
アイヴィーの恐怖の顔が、頭から離れないからである。
その顔を他でもなく、大切にしたいと、守りたいと、思っている女にされた。
それが、ヴィルベルトを動けなくさせていた。
(考えていても、仕方ない。とりあえず、先程の手紙を何とかしなければな……。)
そうして、ヴィルベルトは、ダイニングがら出て行くと、書斎に向かって、歩を進めた。
◇◆◇◆◇
そして、また翌日の朝、ヴィルベルトは朝食の為にダイニングにやってきて、椅子に座って、新聞を読んでいた。
(結局、あの後、何も結論が出ないまま、朝になってしまった。)
昨日、ヴィルベルトは、答えの出ない問を繰り返すのに疲れて、結局、仕事に集中する事で、アイヴィーの事を先延ばしにしていた。
それが、アイヴィーから見てどんなに不誠実に映るか分かっていても、答えを出せずにとりあえず動いておく、という事が出来なかった。
ヴィルベルトは、アイヴィーに『とりあえず』などという適当な気持ちで対応したく無かった。
そのせいで、対応が遅れていても、今日中に何とか問題に答えを見つければ、まだ間に合うと己を鼓舞していた。
幸いにも、今日は、まだモーリスから大量の手紙が来ている報告も受けていなかった。
昨日の大量の手紙についても、アイヴィーの問題を考えないようにする為に集中したおかげで、全て終わっていた。
つまり、今日は、逃げたくても逃げる先が無い状態で、ヴィルベルトは、アイヴィーとの事について考えようと、今朝ベッドから起きて、着換えている間に決めていた。
今日こそは。と。
そうは、言っても、まだ2日である。
しかし、ヴィルベルトにとっては、その2日が、もう2日であり、1時間が過ぎて行く度にアイヴィーが自分の事など忘れて何処かに行ってしまうような、喪失感が、自身を責めてくるのである。
その度に苦しく、己の不甲斐なさに怒りを覚えた。
そして、殆ど文字をなぞっているだけの新聞を閉じると、深い溜め息をつき、目の前のコーヒーを飲んだ。
(朝のコーヒーが……、ふとした日常に、彼女の笑顔が思い出されるようになったのはいつからだっただろうか……)
そして、コーヒーの水面を眺めながら、ヴィルベルトは、不甲斐ない己に顔を歪めた。
(私はいつから、こんなに臆病者になってしまったのだろうか。
この、いくら考えても分かるはずの無い問を、愚の骨頂とも思える悩みなど、切り捨てて、理に適った行動をすれば良いだけなのに……怖い、など。
これ以上嫌われようがないのだからと、割り切れれば。)
ヴィルベルトは、自身の考えている事が無駄だという事が分かっていた。
アイヴィーがどう思っているか? 何を感じているか? と考えたところで、アイヴィーではないヴィルベルトに答えが分かるはず無いのである。
だけれど、考えずにいれない。
正解を求めずにいられなかった。
正解がわからなければ、動けなかった。
それが、どんなに正しくない行いだと自分で分かっていても、一歩が踏み出せなかった。
何が悪いと分かっていなくても、怒らせて、困らせて、恐怖を与えたのは事実なのだから、それについて、早急に謝るべきだと思っている反面で、アイヴィーを愛したい、触れて、閉じ込めておきたい、その為の欲望の何が悪いのだ、と思ってしまうヴィルベルトがいた。
(上手く行き始めたら、逆戻りか……。いや、それよりも悪いな……。)
ヴィルベルトが自嘲気味に笑みを浮かべると、執事のモーリスが、急いだ様子でダイニングにやって来て、ヴィルベルトに言った。
「ヴィルベルト様、王宮より、勅書が届きました。」
「勅書……だと?」
「はい、こちらに」
ヴィルベルトが眉を上げて、モーリスに尋ねると、モーリスは、王宮から来たという手紙をヴィルベルトに渡した。
それを、慣れた様子でペーパーナイフで開け、中身を確認すると、ヴィルベルトは席を立って、モーリスに言った。
「これから、王宮へ行ってくる。帰りはいつになるかわからない」
「かしこまりました。では、直ぐにキャリッジの用意をいたします」
そう言って、ヴィルベルトが去ったダイニングをモーリスも、大股で歩いて去っていった。
◇◆◇◆◇
ヴィルベルトは王宮に到着すると、宰相執務室へ向けて歩を進めた。そして、ノックもなく、その扉を開けると、机に座って仕事をしている自身の父に文句を言った。
「父上、話が違います! 何故、この様な事になっているのですか!」
宰相であるヴィルベルトの父は、勢いよく開いた扉から現れたヴィルベルトを、一瞥すると、再び机の上の用紙に視線をもどして、答えた。
「まず、ノックもできんのか、我が愚息は。それに、その話は、する気がない」
「父上、私は、行きません」
「勅書を無視するというのか?」
「無視はしません。考えを変えてもらいます」
「王にお目通りを願うのか? だが、それは叶わないだろうな。そんな私情は、私が許さない」
ヴィルベルトの方を一切見ることなく、宰相はそう告げると、ヴィルベルトが悔しそうに顔を歪めて、さらに言葉をはいた。
「先日の特許の件がやっと上手く行き始めたのです。今、この国を離れれば、それこそ、誰がこの計画を勧めていくというのですか!?」
「綿の話か? だったら、お前の心配は不必要だな。お前が持っているのは、紡績機の特許であって、あの綿の特許ではない。それに、あの紡績機の特許は、お前一人のものではなく、お前の婚約者と共同名だ。お前一人この国に居なくなったとしても、何の問題もなく、その事はまわっていくだろう。」
「ですが!!」
「物の分からない、子供の様にごねるな。お前は、お前にしか出来ない仕事をしろ、というだけの事だ。たかだか数年か……長くても十年程の話だろう?」
宰相はそう不機嫌そうに眉を持ち上げて、ヴィルベルトをみて答えると、ヴィルベルトが、悔しさに下唇を噛みしめていた。
そして、無理矢理、言葉を続けたのである。
「それでは、彼女が離れてしまいます」
「彼女というのは、婚約者の事か? ヴィルベルト、お前、婚約者とは、利害関係が一致したから、婚約したと言っていなかったか? 特許が取れた今、彼女と婚約を続けて何の意味がある?」
「確かに、初めはそうでした……ですが、今、私は彼女の側を離れなる訳にはいかないのです!」
ヴィルベルトがそう言うと、宰相は眉間のシワをさらに深めて、ヴィルベルトに言ったのである。
「ヴィルベルト、それは責任感か? だったら、その検討違いな責任感は今すぐ捨てるんだ。お前が、守らなくとも彼女の事は彼女の親や必要であれば、この国が守る。お前がそのせいで、勅書を無視し、隣国へ赴かぬというのなら、彼女とは今すぐにでも、婚約破棄させる。……わかったな?」
「父上、どうして理解してくださらないのですか!」
「理解している。理解した上で、言っているのだ。私は、子供の気持ちとこの国の未来なら、迷わずこの国の未来を取る。なぜなら、それが、私の役目で、この部屋に居る人物の役回りだからだ。」
宰相は子供に諭すように、現状を示すとヴィルベルトは、顔を伏せ、両手に力を込め、言葉を発した。
「……父上が、立派な方というのは、理解しております。ですが、納得いきません」
「納得なぞ、必要ない。お前がこの国の民であり、この国の役人であるのならば、従うのみだ。感情は後からついてくる。そういうものだ。」
最後に、冷たくそう言い払うと、宰相は、ヴィルベルトを部屋から出て行くように言い、扉の外の騎士にヴィルベルトを連れ出す様に言った。
そして、ヴィルベルトは、抵抗もなく、扉の外に出て行ったのである。
宰相室から出て、王宮内を再び歩き始めるヴィルベルト。
そこへ、目的の人物が歩いているのを発見すると、ヴィルベルトはその相手に声をかけた。
「殿下! 探していました! 話があります!」
「どうした、ヴィルベルト。今日はえらく積極的だな。まさか、私に仕事を振ろうなどと考えているのではあるまいな? 今日は久ぶりの休暇なのだぞ? これからビクトリアの所に行くというのに、何を考えている?」
レオンハルトが、おちょくるように、ヴィルベルトに言うと、ヴィルベルトは、レオンハルトに軽く礼を取り、焦った様に言うのである。
「殿下、どうか、殿下のお力をお貸しください」
「ん?どうした、そたなにしては、珍しい言い様だな? 何があったと言うのだ?」
レオンハルトは、ヴィルベルトの普段とは違う様子に驚いき、表情を固くすると、続くヴィルベルトの言葉を待った。
「……このままでは、私は、来月にでもこの国を出て行かねばならなくなります」
ヴィルベルトがそう言うと、レオンハルトは、固くした表情を解き、眉を下げて少し悲しそうに言った。
「そうか……では、とうとう、そなたに大使が決定したのだな。兄と慕っていた、そなたと暫くこの様に気軽に、会えなくなると思うと少し寂しくなるな」
「殿下、違います。この勅書を取り下げるか、変更させて欲しいのです」
「勅書を?? 何を迷い言を。そんなものは、無理に決まって居るだろう? いくら私がこの国の王子といえど、私にこの国の、いや、王の決定を覆す力が有ると、思っているのか?」
「ですが、殿下でなければ、他に誰もその様なお力はございません」
「どうした? そなたらしくないな。この国を離れたくない理由が有るというのか?」
眉を寄せて、心配そうに尋ねるレオンハルトに、ヴィルベルトは少し躊躇いがちに言葉を発した。
「……彼女に、このままでは、アイヴィーに婚約破棄されてしまいます」
「だが、先日のパーティーではその様には見えなかったが?」
「その後、色々あったのです」
「そうか――私は、愛を知っている人間だ、そなたが不安に思う気持ちもわかる」
不安に顔を歪めていたヴィルベルトがその言葉を聞き、少し安心したかのように眉を下げると、レオンハルトはまだ言葉を続けた。
「分かるが――私もこの国の王子なのだ。分かってくれ」
そう言って、ヴィルベルトの肩に手を当てて答えると、ヴィルベルトはうやうやしく、レオンハルトに挨拶をしてその場を去って行った。
ヴィルベルトには、分かっていた。
勅書が届いた時点で、もう誰にも変える事など出来ないという事を。
幸運にも王にお目通り適ったとしても、王が、一度出した命令をそう簡単に取り下げる訳にはいかない。
それが、王というこの国の上に立つ者の責任だという事を理解していた。
それは、王子であるレオンハルトも同時にそうであるという事も。
父である宰相に無理だと言われた時から、ヴィルベルトもその事を理解していたのである。
理解していてもなお、諦めきれなかった。
こんな状態で、彼女と離れたく無かったのである。
しかし、突然の出来事にヴィルベルトは、これ以上為す術を何も持っていなかった。
彼女にこの事を伝えなければ――、そう思っても、その先を思うと何も手をつけられなかった。
失意の中、足取り重く自宅に帰ると、ヴィルベルトは自室のソファに、力なく身体を預けた。
アイヴィーに会いに行かなくてはいけないと思う一方で、その反応を知りたくないと、己の恐怖心と戦っていた。
(この事を話したら、彼女は何と言うだろうか? 嘘つきだと罵るだろうか? それとも、婚約破棄を進めてくるだろうか? それとも――。)
答えを逡巡し、ヴィルベルトは、最後に深く長い溜め息をはくと、執務室に向かい、筆を取り、アイヴィーに手紙を書いた。
その手紙は、すぐさまモーリスに渡し、アイヴィーに届ける様に言うと、その場を去った。
結局、ヴィルベルトは、直接反応を伺う事もせず、かと言ってこのまま何もせずに、時がすこしでも解決するという方法を取る訳には行かなくなったので、手紙に簡潔に、現状を認め、最後に、先日の行動に対する謝罪の言葉を書いたのである。
一言、【すまない】とだけ、添えて。




