緑青
葵生りんさん主催、ELEMENT2015秋、テーマ創作参加作品です。
ちょっとミステリっぽい文学――
宇宙の星々がここぞとばかりに存在を主張し合う、晴れた月夜。
風もなく、暑くも寒くもない――そんな穏やかな秋の夜のことだった。
庭のそこかしこに潜んだ虫たちが奏でる、目に見えない演奏会。
そんな涼やかな音々に聴き入りながら佇むのは、一人の男。
場所は彼の自宅の縁側だった。灰色の和服に身を包んだ彼は、冷酒を中に注いだらしい二本の「お銚子」を床板の上に並べ、盃をちびりちびりと傾けている。
男の名前は、佐伯といった。
歳の頃は、50代なかば。サラリーマンなら、もうちょっとで定年――といった感じか。
乱れた襟を、ついと正したその男は、青白い月光を彼の両眼の網膜の中心に捉えながら、一重瞼の切れ長の目を、ゆっくりと細めた。
――まさに、中秋の名月
その姿は、彼に昔年の記憶を蘇らせた。盃を持つ、その手の動きが止まる。盃の中の透明な液体の塊が、月の姿を映し出す。
「あれからもう、七年か……早いものだな」
彼の呟きが示す、七年前の出来事――それは、最愛の妻「千春」の死だった。
田舎暮らしながらも楽しい我が家――晩婚で十ほど年の離れた妻と結婚し、「健太」という名の子どもも授かった。
給料の安い仕事ではあったが、彼は家族を養うため、懸命に働いた。甲斐甲斐しく働く千春と、腕白盛りの健太の笑顔に癒される日々。
まさに、その時期こそが、佐伯の人生における幸せの絶頂期だった。
――しかし、幸せとは長続きしないモノ。
神様の与える平等とは、そんなものらしい。
幸せの絶頂を突然襲った悲劇――それは、一人息子の突然死。交通事故だった。
「健太、生きろ!」
そこは、佐伯の住む場所から車で一時間ほどの場所にある、大きな総合病院。
集中治療室に担ぎ込まれた健太の、その小さな体につながれた、何本もの太い管。
佐伯の祈りにも似た、その叫び。
けれどその声は、結局、天には届かなかった。
それから――たった三年。
ショックでほとんど食事を受け付けなくなってしまった千春は急激に元気を失い、結局、健太の後を追うようにして、亡くなった。
当然、佐伯もその後を追いたかった。生きていたってしょうがない。けれど――どうしても、追えなかった。どうしても……
――ゆっくりと動く灰色の雲に、月の光が遮られる。ぴん、と空気が張り詰め、世界が白黒二色の淡い色彩に変わる。と同時に、ゆりかごの揺り返しの如く、佐伯の意識が現世に連れ戻された。
「もう、そろそろ……かな」
佐伯は、一本目の銚子が空いたことを確認すると、二本目に手を延ばそうとした。
酔いが回ったせいなのだろう――彼の手は、小刻みに揺れている。
とそのとき、真っ赤に染まった一枚の紅葉の葉が、風に吹かれるようにして、ゆらゆらと彼のもとに舞い降りた。震える彼の手の側を通り過ぎ、二本目の銚子の口に、ぴたり、と張り付く。あたかも、彼がそれを口にすることを阻むかのように――
「……紅葉?」
佐伯は、思わず首を傾げた。
彼の家の庭には、そんな真っ赤に染まるような葉を茂らせる樹木は無い。
だとすれば、どこからか風に乗り、ふわり、この場所にやって来たということだろうか。それにしても、季節的に早すぎる気がするのだが……
震えの収まった手で、やんわりと、その紅い葉を掴む。
水分を失くして「がさがさ」している――そんな彼の予想に反し、真紅に染まった一枚の葉は、意外にも「しっとり」とした手触りだった。
「そういえば――健太も千春も、紅葉狩りが好きだったな……あの秋の真っ赤な景色を、いつまでも眺めていたっけ……」
佐伯には、その一枚の紅葉の葉が、何故か愛おしく思えた。
縁もゆかりもない、どこからか風に乗ってやって来ただけの、ただの葉っぱのはずなのに……
佐伯が、真紅の紅葉の葉を、そっと胡坐している膝の上に置く。
それからもう一度、中味の入った銚子を取ろうと、手を延ばした。
「あっ」
再び震えの始まった手が、銚子を掴み損ねる。中の液体を床の上に撒き散らしながら、縁側の板の上に銚子が一本、ごろん、と転がった。
と、そのとき雲が晴れ、世界はまばゆいほどの月光に包まれた。
青白い月光が照らしたからなのか――こぼれた液体は、淡い緑色――緑青色を呈しているかのように見える。
「……」
一重瞼の眼を、ゆっくり閉じる。
その途端、目尻からは溢れたのは、透明な涙だった。どこか緑がかった、ほんのり透明感のある涙。
更け行く秋の夜空に、彼の嗚咽の声が、微かに響く。
「今夜も月は、蒼く輝いた……か」
膝の上の、一枚の紅葉の葉。
しっかりと――けれど、潰さないようにふんわり優しく――佐伯は合わせた両掌の中で、それを包み込んだ。
【終】