印象
私はいつも見かける例の少女と一緒に、大海原でボートを漕いでいた。現実感はなかった。少女と私の姿も含め、輪郭は無いに等しく、すべてがぼんやりしていた。だが、この世界の「光」だけは大きな現実感を持っていた。
真夜中の航海だった。冷たい潮風が私たちに吹き付ける。体は寒気を覚えたけれど、私はこの風は嫌いではなかった。その風に後押しされてか、私は少女に、少女の正体を訊ねた。しかし、少女は黙って微笑むだけだった。私は不満感を覚えた。しかし、すぐさま忘れた。
私がボートを漕いでいた世界は、とにかく美しかった。吸い込まれるような闇に、ゆらめく海に、私はすっかり魅了されていた。少女も楽しんでいるようだった。しかし、その海に、私は不安も覚えていた。絶対に手を出せないような、呪われているような、そんな感じがしたのだった。私はその海が理解できなかった。
私は疲れてパドルを船の上に置き、腰を下ろした。休憩している間も私は海を理解しようと努めた。海を凝視したり、海に顔を突っ込んでみたり、あえて海に目を向けず、思索にふけってみたりもした。海の水を飲むのはさすがにやめたが。しかし、やはり私は海を理解することはできなかった。
私が悩み続けていると、少女が口を開いた。「場所、変わってくれる?」「いいけど、どうするんだ?」私は反射的に答えた。「代わりに漕ぐよ」「・・・わかった」今度の返答は遅れた。私たちはゆっくり場所を変えると、少女は立ってパドルを握り、船を漕ぎ始めた。
海の事を考えてもらちの明かないことに、遅まきながら気が付いた私は海の事を考えるのをやめ、少女に視線を移した。どこまでも不思議な少女である。何度も会っている。彼女は基本、私に干渉しないが、感情や行動が一線を越えようとすると、私を止めてくれる。私の知らない人であることは間違いないのだが、どこか懐かしい感じがする。
それと同時に、私は海に対しても一種の親しみを感じていた。恐ろしいけれど、私たちを守っているような、私たちの船を浮かせてどこかへと導いてくれているような、そんな感じを覚えた。不安感と親近感を同じものに対して持つのは、明らかな矛盾ではあった。だが、そう考えてしまうのは人間の性質かもしれない。
そんなことを考えていると、一隻の船がやってきた。その船と、その船に乗っている人は、やはりぼんやりしていた。船には、二人の男が乗っていた。片方は肌を焼き、上半身は裸だった。筋肉がしっかりとついている。パドルを持って私たちと同じように船をこいでいた。もう片方は船に座っていた。色白で、髪は手入れされていないらしく、ぼさぼさになっていた。服には、アキバ系の美少女が描かれていた。理由は分からない。理由など無いかもしれない。
私は気分が高揚していた。そこで勢いで、二人の男に大声で話しかけた。「いい気分ですね」だが、彼らの反応は冷ややかなものだった。「あいつ、正気か・・・?」色白の男がはっきりとそう言った。「正気かって・・・どういうことです?」私は聞き返さずにはいられなかった。すると突然「あぁ!?」と男たちがひねくれた声で返した。その後、二人はわめくように語り始めた。どの言葉がどちらの言葉なのか、聞き分けられなかった、
「気分がいいって?」「寝言は寝て言え」「こんな退屈な世界でか!?」
「島ひとつなく、海から逃げられないこの世界で」「気分がよくなるって!?」
私は怒りを覚えた。こいつらとはかかわりたくない。そんな思いが急速に湧きあがった。私は少女と素早く位置とパドルを交換すると、彼らを振り切るために全力で船を漕ぎ始めた。彼らはわめいていて、パドルを手に取って
いなかった。だからすぐに距離は離れると思った。しかし、彼らとの距離は一向に離れる気配がなかった。疲れ果て、私がパドルを離して腰を下ろすと、今度は彼らが漕ぎ始めた。私はそれをじっと眺めていた。彼らの方から離れてくれれば何の問題もない。しかし、やはり二隻の船の距離は変わらなかった。
両者ともに疲れ果て、二隻の船はただ海の上を漂うだけとなっていた。夜空は、いつの間にか明るくなり始めていた。もうすぐ、日が出てくるだろう。私はその瞬間を待つため、眠い目をこすって夜空を眺めていた。男たちは未だ不満のようだった。何か文句のようなものをつぶやいていた。私は耳をふさいでいた。これ以上彼らに気分を乱されたくはなかったからだ。
すると男たちは、突然海に向かって飛び込んだ。だが、彼らは泳げないらしかった。男たちは海の中でもがき始めた。すると、彼らの船が流されて、溺れる彼らを救うものはついに無くなった。彼らにいら立っていた私は彼らを見捨てた。
だが、男たちが海の底に沈んでいったとき、私はわずかながら罪悪感を覚えた。
私は日の暖かさを感じた。感じた方向に目を向けてみると、そこには、異常なほど美しい風景があった。ぼんやりした世界に、はっきりとした光、日は高く舞い上がり、海と、広い世界を照らしていた。そして、遠くには煙突とその煙、工場群らしきものがぼんやりと見えた。それはまさしく、男たちが望んでいたものだった。私の心は奪われていた。気持ちは高揚し、ようやく海と、この世界を理解できた気がした。そして、美しい風景に目をやりながら、私は・・・。
気が付くと私はベットの上で横になっていた。よほど上質な眠りだったらしい。良い夢を見た気がする。だが、はっきりと思い出せない。目覚めた私には、その夢の印象だけが、はかなく残されていた。