04
昼の喧騒から一変し、フィニアの暗い町には橙色の温かな光が灯される。
店は酒場以外はほとんどが閉められ、家に入り家族と過ごすものもいれば、1人の時間を過ごすものもいる。
家の明かりと、僅かに灯される魔石を使用した外灯が静かな町を照らす。
夜のフィニアはそんな静かな港町となるのだが、今日は誰もが酒場やその外に集まり、まるで昼の様相を見せているような賑わいがあった。
喧嘩をしているわけでわなく、笑い声や楽しそうに歌う声、食器がぶつかる音などの良い意味で五月蝿かった。
人々の手には酒の入ったジョッキや、苦手な人間は果実酒、飲むより食う方が好きな人間はしこたま料理を頬張っている。
住民の中には体の所々に包帯を巻いた姿の者も混じり、彼らの周りには人が集まっていた。
囲まれている人間たちも様々な表情を浮かべるが、最後は笑っている。
入り乱れている人混みの中、そんな光景に表情筋が緩むのを感じながらモリスはぶつかる体をなんとか進めていく。
馬鹿騒ぎをしている中心から少し離れれば、座って歓談している面々が集まる、多少落ち着いた場所にたどり着いた。
手にしているグラスの中身は半分程、もみくちゃにされたせいで零れている。
服には飛んでいなかったから良しとするが、少々もったいなく感じるのは彼も酒は好きな方だからだ。
残った酒を死守し、モリスは周囲を見渡してある一角に座っている人物に気づき、歩み寄った。
テーブルには彼しか座っておらず、前に置かれているのは果物と魚料理だけ。
賑やかな人混みをぼーっと見ながらフォークで果物を転がしている。
一見つまらなそうに見えるが、彼の目は優しいもので、まるで遊んでいる子供を見守っている親の様な眼差しに見えた。
おかしな事を考えている、とモリスはジョッキに一度口を付けた。
モリスが近くにくると彼はすぐに気づいたようで、モリスの知る食えない顔に戻ってしまった。
「酒が好きだと聞いたんだが?」
向かいに腰掛けたモリスに、果物を頬張った雄牙は笑って答える。
「まぁ好きだけど、今日は飲む必要ないかな」
「今日飲まなくていつ飲むんだ?」
「んー、今日みたいな大事が無い日、とか」
今日は疲れたし、と言う雄牙は見た目はそう感じさせていない。
「それは……ほぼ毎日飲む事になるな」
「あ、気付いた?あっはっは」
「おかしな話だな」
「そうそう、おかしな話なんですよー」
笑う雄牙にモリスもつい笑ってしまい、更に雄牙の笑みが深まる。
はむっと焼き魚にかぶりつく姿は子供なのだが……
モリスは美味しそうに食事をする少年に、先の出来事を思い出していた。
『えー、紹介します。この金髪の憎い程超イケてるメンズ。略してイケメンの彼は、俺の同居人でカザス君です』
モリス達が命からがら逃げた後の事。
置いて来た仲間と雄牙を助けにいくかどうかで口論になっているところに、彼らは帰って来た。
瀕死状態の討伐隊を荷馬車の様なものに乗せ、雄牙は全員、連れて帰って来たのだ。
待機中のはずのフリオと外套を纏いフードを被った背の高い人物がそれをひき、雄牙は……怪我人にまぎれて寝ていた。
「師匠、着きました」という外套の人物の声で、彼が男だという事が分かると同時に、雄牙が「ふがっ?!」と目を覚まし、モリス達が居るのを見て、ポリポリと頭をかいて口を開いた。
『あー、うん。死にかけてる人いるから早く治癒魔法かけてやって』
その言葉は、全員が生きている事を示唆しており、モリス達はハッとしてすぐさま魔道士を集めた。
皆、意識は無いが辛うじて生きており、致命傷になり得た傷もすぐに回復していった。
『ユーガ、一体何が……』
『えーっと、うん、俺、囮。こいつ、ぶった切った。以上!』
『は、ハウンドウルフを殺せたのか?!』
そんな馬鹿なっ、と驚くモリスと周りで聞いていた人々は耳を疑った。
彼の色々端折った説明に、説明するのが面倒になったんだな、とフリオが横から口を挟むが雄牙に笑顔を向けられて黙る。
改めて事の成り行きを説明してもらうと、モリスはうむ、と考えた。
『つまり、ユーガが囮となり俺たちを逃がした後、ギルドの冒険者である彼がハウンドウルフを討伐してくれた、と』
『おお!そう!それ!』
さすがモリス、分かる男!と褒めちぎられたモリス。
それは分かったのだが、と続けて雄牙の右隣に静かに立っている人物に目をやった。
『彼は……』
言いづらそうにしたモリスに、雄牙は頬を掻いて隣に視線を送った。
肩をすくめる少年に、その人物は頷いてフードを脱ぎ去った。
中から出て来たのは綺麗な金色の短く切られた髪に、碧色の瞳の美青年だった。
周りに居た面々はモリス達の会話をさりげなく聞いていたが、フードの下から現れた美貌に女性は頬を赤らめている。
町では見た事の無い顔だが雄牙は居るのが当然の様に自然体だ。
悪い人間ではない、とモリスが理解するには十分だった。
何せ、雄牙は彼らを逃がしてくれた……命の恩人だ。
『君がハウンドウルフを討伐してくれたのか……ありがとう。腕が立つんだな』
『…………』
『あっはっは、こいつ基本的に無口だから、気にしないでくれな』
口を開こうともしない青年の腕を器用に左手でバシバシ叩く雄牙に、モリスはそうかと納得せざるを得なかった。
『それで彼はユーガとはどういった知り合いなんだ?』
『え?』
『ん?』
『……』
その時初めて、雄牙は青年を町の皆に紹介した事が無い事を思い出したとか。
同居人が居るとは知っていたが、自警団も住民も、彼の顔を見たのは誰もが初めてだと言う。
その後、雄牙に紹介された青年、カザスは一度も口を開く事無く小さくお辞儀をした。
男性陣からは町の恩人という事で感謝の意を述べられたが、女性陣が群がっていくのを見て反応を変えられていた。
中には恋人やら奥さんやらも混じってキャーキャー言う始末。
女性曰く、『こんな美形知ってたらユーガの家なんて毎日行ってやるわよ!』と押し掛け宣言する程に、衝撃の話題なのだ。
今まで姿を見せなかった事情は誰も訊かないが、彼はギルドに登録しており、日々討伐の依頼をこなしているらしい。
その時の女性陣の反応といったら…………
モリスはつい思い出してしまい、雄牙に変な顔をされた。
「なんだよ。思い出し笑いか?思い出し笑いをする奴はエロい事を考えてるのが多いって知ってるか?お前もエロか?エロなのか?」
「なんなんだ『えろ』とは……いや、彼を紹介された時の事を思い出してな」
そう言ったモリスの視線は違う意味で賑わっている方を向いていた。
雄牙がそれを追うと、「ああ」と苦笑いを浮かべる。
馬鹿騒ぎをしている空気とは違い、そこは異様にピンクなオーラが漂っていた。
何人もの若い女性が頬を染め、眼を輝かせて1人の人間を包囲……囲んできゃぴきゃぴと楽しそうに話しかけている。
それはまるで恋する乙女……と例えたモリスに、「違うな、あれは肉食獣の眼だ」と雄牙は後々訂正した。
肉食系……ではなく、うら若き女性に迫られているのは町の住人に紹介したばかりの噂の人、カザスだった。
外套を外し、軽装となった彼は細身だが均整がとれ鍛えられた体をしており、女性に更に騒がれている。
騒がれている本人は無表情で一切しゃべらず、時折雄牙の方を見ているのだが彼に無視をされていると分かると僅かにしょんぼりとしていた。
女性達はそれに気付く事は無く、あわよくば……とアプローチ合戦状態となっている。
モリスも可哀想に、と思いながらも少し僻があるため傍観に徹していた。
「たしか、俺がカザスより年上って話をしたら『あんたその歳で年下に養われてるの?!』とか『こんなちんちくりんのとこじゃなくて私の家にくれば良いのに!』とか『馬車馬の様に働かされてるのねー!』とか言いたい放題だった事か?」
「ぶっ……アレは酷かったな」
「ちんちくりんはねぇよな。ちんちくりんは」
顔面の格差社会はここでも健在か……と呟いた雄牙の言葉はほろ酔い気味のモリスには聴こえなかった。
「でもまぁ、だからここは居心地が良いんだよなぁ」
「……」
雄牙はそう言って再び先ほどの大人びた表情を浮かべていた。
ジョッキを空にしたモリスは少し思考して、テーブルにそれを置いた。
「なぁユーガ、1つ訊いても良いか?ああ、いや、答えなくても良いんだが」
「ん?」
酔いのせいにしてモリスは思い切った質問をしてみようかと思ったのだが、寸での所で悩んだ。
これは、訊いてはいけない事だ。
視線をさまよわせ、そわそわとしている彼に雄牙はふっと笑ってフォークを置き、頬杖をついて言葉を待った。
「早く話せ」と言われているようで、モリスは口を開いた。
「ユーガ、君は何者なんだ?」
ハウンドウルフの情報。
討伐隊を助けた時の魔法。
モリスはこのユーガという少年に訊かないわけにはいかなかった。
それがルールを破る行為だとしても。
「あの魔法……それに、ずっと訊きたかった……君のその腕はどこで失くした?」
黙ってモリスの質問を聞いている雄牙は笑っていた。
普通は聞くな、と怒る所だとモリスは思うのだが、彼の価値観と雄牙の価値観は違うらしい。
「君は……」
「質問は1つじゃなかったか?」
一度言葉が出ると次から次へと聞きたい事が吐き出されていった。
それを止めたのは雄牙だったが、それでも彼は怒らない。
モリスは自分の失態に酔いのせいではなく、恥ずかしさで顔を赤くした。
すまない、と言うモリスに雄牙は視線をテーブルにやった。
彼の答えを待つ為にモリスも黙り込み、テーブルは静かになる。
周囲の雑音が遮断されたかの様にモリスは緊張していた。
「カザスはさ、俺の弟子なんだ」
突然の告白に目を丸くしたモリスは、雄牙の視線が金髪の彼に向けられている事に気付いた。
「色々事情があって、あいつはもう故郷には帰れない。家族も、家も、たぶん友達も……全部捨てて来た。俺がそうさせた」
料理を四方から差し出されているカザス。
雄牙は困っている彼を見てうっすら笑っていた。
「じゃないと、あいつは多分本当に死んじまうから」
「……」
「今のあいつは俺の右腕の代わりをしてくれてる。これは……そうだな、あいつが自由になる代償、かな」
無表情だが視線を女性達から逸らし、アプローチから身を守っている姿を眺めながらモリスは黙って聞いていた。
「生きる理由って奴が見つかるまで、あいつの傍に居てやるのが俺の最後の役目だと思ってる」
「役目?」
「そ。のんびりこうして飯を食ったりできる平和ってのを満喫するっていう役目。だからさ、俺の魔法の事、黙っておいてくれてありがとな」
モリスが首を傾げると雄牙は座り直して、左手でちょいちょいと招く仕草をした。
彼の魔法については大事にならない様に厳重に口止めをしたのだが、それを聞いて彼はほっとしていた。
改めて礼を言われ、モリスはこちらこそ感謝しても仕切れない程のことをしてもらったのだ。
会って数日も経たない自分の質問に教えてくれたのは今日という日があったからだろう。
この事も公言するつもりはない。
モリスが眼を閉じると、女性に囲まれていたカザスが呼ばれた頃に気付き、バッと立ち上がって早足で移動して来た。
残念そうな声がしたが、本人は気にしていない様子だ。
「お前、飯は食ったか?」
「いいえ」
その声にモリスは驚いた。
雄牙が話しかける時だけ彼は進んで口を開くらしい。
遠くで口惜しげに見ている女性が知ったら雄牙はどうなることやら……
だが、話を聞いていたモリスはまるで彼らの会話が親子の様なものだと感じ、なんとなく微笑ましく思い始めて来た。
年下に見える雄牙の言葉に頷き、言う事を聞いているのがなんともおもしろく、他のテーブルに置いてあった酒をこっそり持って来て口を付けた。
「トリの実、好きだったろ?どっかにデザート的な感じで置いてあった様な……」
「とってきます」
「ああ、いいって。一応、お前が主役っって事になってんだから」
右隣に陣取ったカザスが立ち上がろうとするのを止め、雄牙は遠くに居る人物に声をかける。
「んじゃ、ポチ!トリの実の料理もってこーい」
「僕はポチではない!」
フリオだ!と訴える彼は空のジョッキを運んでいた。
何故彼が給仕まがいの事をしているのか……簡単に言えば罰である。
命令違反に勝手な行動をした為、自警団でフリオの上司であるモリスからの提案だ。
この騒ぎの手伝いとして駆り出されている彼は、食べる事も飲む事も許されていない。
「命令違反に武器と防具の無許可装備したのは誰だ?」
酒が入っていい気分だったモリスが、厳しくフリオに告げる。
「うぅっ」と上司に言われて後ずさる彼に、内心で愉快な気分になったのは気のせいではない。
「待機場所を放って来たんだってな、なぁポチ」
「何故知ってる?!」
「うむ、それはいけないことだな、ポチよ」
「も、モリス殿までっ?!まさか情報漏洩をしたのは……」
「なんだ、文句あるのか?ポチ」
「そうだぞポチ」
「ううう、トリの実だな?!とって来てやろうではないか!」
雄牙とモリスの二段攻撃に耐えられず、フリオは何故か偉そうに料理の置いてある方へ走っていった。
悔しさのこもった台詞を受けた2人は顔を見合わせプッと噴き出す。
「1日1弄りだな」
「ユーガがフリオで遊ぶ気持ちが少々分かってしまったのだが」
「面白いだろ?」
「意地の悪い奴だ」
まるで苛めっ子だな、と笑うモリスに、雄牙は人の事が言う?とにやにやしながら返す。
それもそうだな、とジョッキに口を付けるが、傾けると酒は空になっていた。
気付かぬうちに飲んでいたのか、とジョッキを置いたモリスの目の前に新しく酒が置かれた。
雄牙がいつの間にか頼んでいたらしい。
「すまんな……本当に酒は良いのか?」
「ああ、今日は無理かな」
「いつもは樽を1つ空にすると聞いたが」
「あー、メルダさん情報?それともポチ?本当の事だから構わないけど……なんなら今度、勝負しますかね?」
「良い提案だ」
「負けた方が支払いで」
「採用しよう」
「オッケー」
フリオが戻ってくる頃、水を飲んでいるカザスの横で、雄牙とモリスは笑い合っていた。
町の空気がそうさせたのか、それとも2人の間に何か通ずるものがあったのか。
料理を嫌がらせの様に目一杯持って来たフリオだったが、全てカザスと雄牙の胃袋におさまるのを見て、二の足を踏んでいたのを酔っぱらいのモリスが腹を抱えて笑った。
フィニアの夜は今までで一番長いものになる。
誰もが笑い、癒され、大変な一日が終わったのだと喜んでいた。
治癒魔法を受けたが、未だに傷だらけの人間も痛みを忘れ談笑し、中にはモリスに助けられた魔道士の
女性も居た。
本来戦闘には向かない、支援系の魔法を得意としていた彼女は慣れない魔法を使った結果、役に立てなかった事を悔いていた。
しかし、後に『君が居たから助かったんだ』と言われ、もっと頑張ろうと決意をしたのだ。
彼女は集まっていた集団から少し離れ、決意のきっかけとなり、自分を助け起こしてくれた人物を捜した。
事情を知る友人からは「頑張りなさいよー」と声をかけられ、うるさい!と照れながら叱りつけた。
2つのグラスを持って人ごみの中、顔を確認して歩いていると、集団から離れた場所で座っているのを見つけた。
鎧姿から解放された彼はあの時助けてくれた少年とその同居人である青年、そして、同じ自警団の『残念』でおなじみのフリオと同じテーブルに居る。
モリスに用事があったのだが、彼らにも礼をしなければと女性は飲み物を零さない様に近づいていく。
自然と笑みがこぼれ、高揚するのを我慢しながら声をかける。
「あのっモリスさ」
その時だった。
「え?」
歩み寄ろうとした足が止まり、彼女は空を見た。
そこには星空があるだけで何もない。
「気のせい……かな?」
ざわついた胸に違和感を覚えながらも、感じた『何か』が気のせいだと思った。
周囲を見ると彼女の他にも幾人かの人間は一度空を見てから再び談笑に戻っている。
他の大勢の人間は気付かないようだった。
それが何なのか、魔道士としてまだ卵に近い彼女が知る由もなく、「ま、いっか」と視線を向かっていた方向へ戻す。
「モリスさん!」
ガタッ—―
女性が近づこうとした時、突然目の前に居た少年が立ち上がった。
モリスとフリオは急な出来事に驚いた様子で、青年も座りながら見上げている。
「どうしたんだ、ユーガ?」
心配そうに話しかけるフリオだが、少年は真っ青な顔をして口元を抑えていた。
俯いて眼を見開いていた彼の瞳が女性には『黒』に見えた。
そんな色はこの世に存在しないはずだ、と気のせいだと言い聞かせ、恐る恐るモリスに話しかける。
「あの、どうかしました?」
「ああいや……っユーガ?!」
「悪い……帰る……っ」
俯いたままそう言って少年は女性とすれ違う様に早足で人ごみに消えていった。
それを追って青年も席を立ち、モリス達が残される。
彼らの座っていた場所には大量の皿と2人分のフォークと1本のナイフが置かれていた。
「食べ過ぎ……ですか?」
女性が首を傾げて問うとモリスも苦笑いを浮かべ肩をすくめた。
「……そうかもな」
彼女にそう同意しつつ、その表情は不安げだった。
*****
町の灯りから離れた暗い道。
整備などされてはいないごつごつしたそこを2人の影が歩いていた。
俯いたままの雄牙と、それを追うカザス。
賑やかな場所から離れても尚、何も言わずに歩を早める師匠を黙って追いかける。
突然口元を抑えて立ち上がった雄牙。
その瞳は偽装の為の魔法が掛かっていたが、それが解除される程に彼は動揺していた。
『髪』は辛うじて大丈夫だったようで、茶色の髪が歩くのに従って右袖と共に揺れている。
カザスが追いかける背中は昔から変わらず、成長した彼より小さい。
しかし、その背中に背負いきれないものを彼は抱えている事をカザスは知っていた。
今も何を思い、何を感じているのか……彼には分からない。
雄牙が向かった先には崖があった。
明るい時ならば見渡す限りの青く輝く大海原が一望できるが、今は暗く、空に瞬く星の光を反射していた。
雲に覆われる事無くそこにある星。
だが雄牙は見向きもせずに座り込んだ。
地べたに座った師匠の隣にカザスも静かに腰を下ろす。
片膝をついて座っている雄牙は膝を1本しか無い腕で抱え込み、顔を埋めた。
その仕草は本心をあまり言わない彼の癖で、1人で考え込んでいる時に見られるものだ。
黙ったままの雄牙。
カザスも必要以上に言葉を口にする事は無く、静かな空間が生まれた。
波の音と虫の声だけが聴こえてくる。
「悪いな」
戻っても良いんだぞ、と言う雄牙にカザスは「いえ」と小さく答えた。
「俺が戻るのは、師匠の所だけですから」
そう言ったカザスにそう言う意味じゃねぇって、と呆れまじりに笑い、顔を上げる。
「何か、あったんですか?」
あの時……
カザスに問われ、雄牙はため息を吐いて目を伏せた。
本当に普通だったのだ。
今日の大事が終われば、また穏やかな毎日に戻ると思っていた。
そんな事は絶対に無理だと思いたかった自分を殺して。
「誰かが『また』、召還魔法を使いやがった」
それも契約獣を呼ぶだけの召還魔法ではない。
あの瞬間、世界の空間が歪められる程の巨大な魔力の動きがあった。
常人では感じられない、魔道士にもそう簡単には分からないものだが、たしかに感じられた魔力。
到底、1人の魔力では補えない程の消費量。
そして複雑かつ綿密に計算され、現代では誰も理解できない様な魔法構成をされた儀式的魔法。
転移魔法にも似ている、大規模だが単純な魔法……
その魔法が召還する対象はこの世界のものではない。
「くそっ……」
魔法が発動され、その魔力は世界の空間を、理を歪めた。
その余波を感じ、雄牙はかつて自分に起こった事がフラッシュバックしていた。
変わらぬ日々。
つまらないけれど穏やかで幸せだった。
いつものように過ごすのだと思っていた自分を待っていたのは……
(もう、吹っ切れたと思ったんだけどな……)
思い出すだけで身の内の魔力が乱れ、吐き気が襲う。
三半規管が揺らぎ、頭痛が酷くなる。
まるでメリーゴーランドを高速回転されてるようだ。
そこに乗っているのはきっと雄牙1人。
回転させている犯人は同じ『奴ら』だろう。
懲りない犯人は雄牙が乗っているそこに、もう1人、犠牲者を乗せようとしている。
きっと、そいつはまだ自分が『何』に乗せられているのか理解していない。
訳も分からず乗り続けて、回転していくそれに巻き込まれ……
そして……
「師匠」
呼ばれて雄牙はハッとした。
気付くと背中を温かいものが上下している。
見ると、隣に居るカザスが丸くなった雄牙の背中を擦っていた。
慣れない手つきでいつもは魔物を狩っている硬い手を何度も優しく行き来する。
雄牙は、無表情に動かしている姿に不思議と気持ちが落ち着いていくのを感じた。
「ありがとな……カザス」
「……俺は、師匠の右腕ですから」
「ああ……優秀な右腕だよ」
言葉の意味そのままに雄牙は呟いた。
右側を指定席にしているカザスは背中を擦り続ける。
こそばゆさがあったが、まるで子供の様なたどたどしい動きが可笑しくて、何も言わなかった。
「師匠」
「ん?」
擦りながら呼びかけて来たカザスに空を見上げて返事をする。
視界の端にいるカザスも雄牙と同じ場所を見ていた。
碧眼が暗闇の星を映し、宝石の様に光っている。
子供の頃から変わらないその色。
それはまっすぐに、何かを決意した色を乗せて、空を見つめていた。
「俺は……どこへでも、一緒に行きます」
夜空を見上げ、カザスは告げる。
前にも聞いた事のある言葉だ。
どこで聞いたかは思い出せないけれど、同じ口で言ってた事は記憶の片隅にある。
まるで、雄牙に言い聞かせる様に、カザスは静かに、強く言った。
雄牙は眼を丸くしていた。
そして、ポカンと自分より大きくなった弟子に視線を向け、再び空に戻す。
「……お前、それ、一歩間違えれば危ない台詞だぞ」
その後、隣で真面目な顔をして座っている右腕に、冗談じみた台詞で返し、大きな笑い声を響かせた。
染井雄牙はこの世界の人間では無かった。
『異世界召還』という魔法により、この世界に呼ばれたごく普通の少年だった。
地球の両親の間に生まれ、妹がいて、高校生活が始まって……
そんな当たり前な日常から、雄牙はこの世界に落とされた。
争いの続いている世界。
その一端を止める力になった彼は今、やっと手に入れた平穏の中を生きていた。
10年。
たった10年。
そう、今の彼にはたったそれだけの短い日常。
それさえも奪い去り、世界は再び彼を動かす。
「ここ……どこ?」
もう1つの歯車をはめ込んで。