01
アルカトス大陸東部。
真昼間でも鬱蒼と覆い茂る暗い森の中に腐臭が立ちこめる。
大きな固まりが地面に転がり、人間には近寄りがたい臭気を放っている。
骨が剥き出になっている固まり――死骸は、大部分の肉を根刮ぎ食い破られ打ち捨てられていた。
大雑把に食い漁った形跡があったそれは、すでにハイエナの如く集っている野生動物に荒らされはじめている。
大型の動物、しかも、凶暴の部類に入るその動物を仕留めた犯人の姿は無い。
食事にありついている動物達は犯人が誰かも気にせずに自らの腹を満たしていく。
その光景を後に、僅かに感じる血の臭いを追った。
行く手を遮る木々をものともせず、最小限の音で臭いの主を辿る。
臭いが濃くなればなる程、森が静かになり、賑やかな鳥の声も、探る様に隠れ伺ってきた動物の姿も、まるで嵐の前の静けさのように消えていく。
木々のざわめきすらも静まり、無音が支配した世界。
ふと耳を掠めた音に立ち止まり、完全に音が途切れる。
小さく息を吐き、携えていた身の丈程の得物を手に取った瞬間……
「グルゥォオオオオオッ!」
静寂を切り裂く咆哮。
それと同時に襲ってきた巨大で白く鋭い爪を、漆黒の刀身が受け流した。
人間を丸呑みできる巨体からかかる重量を逸らし、すれ違い様に大太刀を一閃する。
地面に着地した捕食者はドシンという音と共に前方へと崩れ落ちた。
「グォアアアアッ!」
受け流された前足がズルッと正しい位置からずれ、転がる。
肉と骨が見本の様に綺麗に切断され、痛みに怒り狂う度に血が流れていく。
怒りに本能のみで立ち上がり牙を剥いてきた捕食者を冷めた瞳で一瞥し、暗がりで光る鋭い刃を再びふるう。
2つの力がぶつかり、静寂に包まれていた森に轟音が響き渡った。
*****
ドンッ——
勢い良く振り下ろされた木製のジョッキが大きな音を立ててテーブルに置かれた。
中身は空になり、飲み干した本人は下品な音を立ててガスを吐き出す。
それを呆れた眼差しで見ているのは、ふくよかな体型にいつもぷっくらとした微笑みを浮かべている、彼の自慢の奥さんだ。
外はまだ陽が頂点にいったばかりだというのに、彼の目の前には空けられたジョッキが散乱している。
もうこれで何杯目か……
数えてくれと言われて仕方なく数えている彼女は、たまの休みくらい目を瞑ってやろう、と最初は苦笑いしながらも見守っていたものの、今では溜息しか出ない。
彼1人なら飲む量も許容範囲内であり、飲んだ分は彼の小遣いから引けば良いだけ。
酔いが醒めた後で後悔に打ちひしがれる姿が目に浮かぶが、問題は彼の隣……飲み比べに引っ張り出された相手である。
「うー、ひっく。どうだぁ。俺ぁまだ飲めるぜぇ」
日焼けした肌を赤くしながらひくつく男が隣に座っている競争相手に言うと、その相手は大きくジョッキを傾け、ゴクゴクと喉を鳴らしていた。
男とは違い、白すぎない肌色の喉を休まず何度も上下させている彼の前にも男と同じ、ジョッキの山がある。
限界まで傾けられたジョッキが口から離れると、「ぶはっ」という息と同時にテーブルに空になったそれが置かれた。
「もう止めといた方が良いんじゃねぇの?おっさん。ほら、アル中になるとヤバいぞ?なんか知らねぇけど病気になるから。マジヤバいから」
そんな忠告すらも男は豪快に笑い飛ばす。
「ブハハ!俺ぁ生まれてこの方風邪ひとつひいた事ねぇぜぇ!」
「その台詞……そういう『俺は大丈夫』的な人に限って急にポックリ逝っちまうんだからさ……メルダさんからも言ってやってくれよ。あとおかわりー」
「ユーガ、あんた言ってることとやってることがちと矛盾してないかい?」
ユーガと呼ばれたまだ若々しい顔つきの少年は、目の前のジョッキ分の酒を飲んだにも関わらず顔色ひとつ変えず、あまつさえ、男に飲み過ぎを指摘したのと同じ口で更におかわりを要求した。
負けじと張り合って「おれにもおかーりだ!」と若干呂律が回らなくなってきた男を見ながら、彼の妻であるメルダは腰に手を当てて溜め息をついた。
シュトレイン国の成人は15歳。
もちろん、飲酒も婚姻もその年になれば可能になる。
とは言っても、ユーガの歳で彼の様に大酒を煽るザルはメルダは見たことがない。
ありふれた茶色い髪に茶色い瞳。
身長は低めのメルダよりも大分大きい。
見た目はどこにでもいるような普通の少年だが、その言動は時々年齢を偽っているのではないかと疑うほど大人びていて、本人も『俺はもう25だけど?』などと冗談を言っていたりもして、余計に周りを混乱させるかと思いきや、殆どの人間が『お前はエルフかよ』と人間が持つ丸い耳を見て笑い飛ばしている。
そんな彼の事情を深く詮索するのはこの町、『フィニア』のルールに反する。
アルカトス大陸極東の町フィニア。
別名、はぐれのフィニア。
港町で商業と漁が盛んな町であり、シュトレイン国にありながらも国からは独立した状態で成り立っている完全自治区。
町には自警団が組織され、国からの援助もなく、住民たちの力だけで守られている唯一の町である。
住民が協力し、暮らしを守っているため、住んでいる誰もがのびのびと生活をしている。
それでいて、訳ありの流れ者や冒険者が度々来ては住み着くことがあるそこは、群れから出された『はぐれ』が集まるとされ、争い事も耐えない。
誰にでも秘密はあり、言えない理由がある。
だからこそ、フィニアに住む人間はそんな彼らの事情を深く聞くことをタブーとしている。
ユーガがフィニアにやって来たのは5年ほど前の事だった。
今とさして変わらぬ外見で、同じ年頃の少年を連れて来た彼は町外れに小さな小屋を立てて暮らし始めた。
当初は町におりてくる事は少なく、今でももう1人の少年は滅多に姿を現さない。
ユーガは度々生活用品を買いに来たり、酒場で酒を飲んだりしている内に自然と会話をする様になった。
元々がなじみやすい性格なのか、フィニアは何も言わず彼らを受け入れた。
何故成人したばかりに見える少年が2人だけで生活をしているのか。
何故住民たちが集う住民区に住まないのか。
何故、ユーガは右腕がないのか。
そんな次から次へと出てくる疑問を誰もが押し殺した。
彼等は謎だらけだったが、接してみれば少し変わっているだけの普通の少年達だった。
人里離れて住んでいるから取っつきづらいのかと思いきや、こうして歳の離れた男と飲み比べしたり、年下の子供たちの遊び相手になってやったりと、友好的だと分かった。
ただ、ユーガの右腕は肩からすっぱりと無く、その傷を見たことがなく、怪我なのか病気なのかもわからない。
隻腕……まるで、かの英雄の様な話だ。
かつて大戦を終わらせた、今では伝説となっているその人物……
と、この少年を見る限り、そんなことはありえないとメルダは分かっている。
彼らが2人だけなのは、戦争孤児や、親に捨てられたなど、右腕がないことも多くの理由が推測できる。
アルカトス大陸東南大戦から10年。
世間は大分落ち着いてきたが、戦いの爪痕は至るところに残っている。
直接的に関わってはいないフィニアにも避難してきた人間は少なくはない。
メルダも身体的に欠陥のあるユーガを心のどこかで哀れだと思っていたが、それこそ彼らに失礼だと今では普通に接することができている。
追加で渡したジョッキ。
なみなみと入ったある程度重い筈のそれを、左手で持ち上げ飲んでいく姿を誰が哀れだと思おう。
メルダはいつかの同情していた自分を後悔した。
「ぷはーっ、他人の金で飲む酒は美味である!」
「そうかいそうかい……って、代金は?!」
「えー?おっちゃんが『俺に勝ったらただにしてやる!』って言ってたけど」
遠回しに勝利宣言をしている余裕綽々なユーガに、メルダは呆れていた表情を引き攣らせ、真っ赤な顔をしている夫に詰め寄った。
「あんた!勝手にそんなこと言ったのかい?!」
「おれぁかつろ!」
「え?カツ丼?何、新メニューはじめたの?カツ丼あるの?」
「なんだい『かつどん』って?!んな変な名前のもんは無いよ!」
「変な名前って……まぁ、別に俺も油っこいのは苦手だから嫌いだけど。あとおかわりー」
素面なユーガと今にも潰れそうな男。
勝敗は歴然としており、「いい加減にしな!」と遠慮なしにおかわり要求をするユーガを怒鳴りながら、メルダはついにテーブルに突っ伏した夫の小遣い数ヵ月分を没収することを決意した。
ユーガは頭を抱える彼女に笑いながら「冗談だって、冗談」と言ってテーブルの端に避難させてあった果物の盛り合わせを摘まむ。
うわばみである彼に勝負を挑んだのは今回が初めてではなく、リベンジだったらしいが、無駄に終わった……いや、男の小遣いが犠牲となった。
ユーガの喉を潤しただけに終わった勝負は終わり、野次馬をしていた数人の知り合いがやっと終わったと言わんはかりに解散する。
「おれゃあまらのめうぅ」と寝言を言う夫の頭を軽くはたいてメルダはジョッキを片付け始めた。
大量に置かれたそれらを器用に慣れた手つきでトレーに重ねていくのを見て、ユーガは「手伝おうか?」と声をかけるが、メルダは立とうとしたその左肩に手を置く。
「一応、あんたも客だからね。おとなしく座ってな」
一応って、と苦笑いを浮かべたユーガにメルダは夫を見ててくれと頼んでテーブルを片付けていく。
小さな果実を口に含んでモグモグと咀嚼している姿は、ただの少年のはずなのに……と彼の右側で揺れる空の袖が自然と視界に入り、パッと目を逸らした。
「(おっと、いけないいけない)」
「ん?」
もくもくと食していたユーガが籠った声を上げる。
その目は酒場の入り口に向けられているが、そこに変わった様子はない。
「どうかしたのかい?」
「んや……」
ごくんと口内のものを飲み込み、首を振った。
「なんか外が騒がしいから……喧嘩か?」
「?」
メルダには何も聞こえず、首を傾げる。
彼女とは違い、何かを感じ取ったのかユーガは綺麗になった皿に向かって、左手を眼前に持ってきて「ごちそーさま」と言った。
そんな彼の行動にフィニアの人間は最初、「なんだそれ」と疑問符を浮かべたが、彼いわく『俺の故郷の食事への感謝の言葉』だという。
本当は両手を合わせるんだけど、と笑って言った、変なところで礼儀正しいユーガの行動をメルダは感心している。
遠慮はないが。
皿をそのままに立ち上がったユーガは、メルダに美味かった、と感謝の意を表し、テーブルに伏している男に「ゴチになりまーす」と言い、背中をポンッと叩いた。
「……ごめん、もう出るわ。また来るからさ」
「今度は代金払っとくれよ」
「勝負じゃなけりゃ払ってたって」
文句はおっさんによろしく、と言い残してユーガは酒場を出ていった。
「まったく……ほら、あんたもいつまで寝てんだい!?さっさと起きて手伝っとくれ!!」
「フンガッ?!なんだぁ?!どうしたぁ?!」
「なんだ、そんだけ元気なら、ガキ共の相手でもしてきな!」
小さな酒場に残されたのは、大量のジョッキと、呆れ顔に笑みを含んだメルダ、彼女に拳骨を食らわせられている男だった。
先ほどまで顔を真っ赤にして酔い潰れていたが、飛び起きた彼は平常の顔色に戻っている。
寝ぼけた様に頭の痛みに混乱している彼をメルダはなんだ、見た目程酔って無かったのか、と思い、しっしっと追い払う仕草をした。
男は言われるがまま、息子と娘を探しに立ち上がるが、不思議と軽い体に違和感を覚える。
結構飲んだはずだが……なんだ、まだいけたんじゃねぇじゃねぇか。
「ユーガの野郎、次こそは勝ってやるぞこの野郎!」
そう、男は悔しそうに拳を握りしめたのだった。
*****
「タダ酒程美味い酒は無いなー、ゲフッ」
酒場を出た中央通り。
腹を擦りながら満足げに少年—―染井雄牙は息を吐いた。
彼の故郷で言えば160cm半ばの身長。
二枚目とまではいかないが、見るに耐えない容姿とは無縁の顔立ち。
ありふれた茶色い髪には癖がついており、同色の瞳が見える位に切られている。
見た限り15歳ほどの少年だが、彼の仕草は知り合いの酒場の女将曰く『うちの旦那と同じ』。
雄牙は水を飲むように酒を飲み、酔う様子を全く見せないうわばみでもあった。
本人の冗談とも取れる主張を誰も信じないが、若干怪しいと感じている者もいるとか。
それでも誰も深く突っ込んでこないのはこの町だからだろう。
細かい詮索をせずに受け入れてくれるフィニアに住んで5年。
雄牙はこの町が気に入っている。
田舎じみていながらも活気のある町並みも、喧嘩っ早い人間がいるが明るく優しい住民も。
この中央通りには住民の他にも外からやってきた露天や、旅人を含めた冒険者たちも溢れかえっており、賑やかな町並みを彩っている。
平和に見えるフィニアで喧嘩は珍しくはない。
国からはぐれた町、と蔑む声も、訳ありの荒くれ者もまぎれているために喧騒は日常茶飯事だ。
ざわつく通りに普段とは違うざわめきがある。
まだ血なまぐさい事にはなっていないのだろうが、想像はついた。
雄牙が腹に手をやりながら視線をやると、知り合いの顔があるのに気づいて足を踏み出した。
フィニアには、町の住人で組織した『自警団』が存在する。
正式な兵士では無いため、決まった制服も無い彼らの目印はフィニアから見える海を象徴した青い布。
小さなそれをある人は頭に、ある人は首に、自分の好きな部分に纏っている。
有志を募って結成された自警団は実は元兵士だった人や、何十年か前は元冒険者、といった経歴を持つ腕の立つ人間が数人いるが、他はただの一般市民だった人間。
暇な時に訓練をし、事件が起きれば一番に飛んでいく。
自分の町は自分で守る。
それが自警団の誇りだ。
雄牙の視線の先にある人だかり。
その中心にいるのも、青い布を二の腕に巻き、剣を腰に携えている青年だった。
抜く気配は今の所見受けられないが、精悍な顔つきは険しい。
彼に睨まれているのは顔に傷があり、獣の毛皮と金属で繕われた鎧を着た人間—―冒険者だ。
腰には青年の物よりも太く大きな剣がぶら下がり、自分よりも背の低い青年を見下ろしている。
周囲の人間は少しだけ距離を置きながら心配そうな面持ちで青年を見ているが、誰も手を出そうとはしていない。
それもそのはずだ。
冒険者はどんなに態度が悪く、問題行動が多い荒くれ者でも、一般人くらいは簡単に殺傷が可能だ。
国に仕える兵士とは違い、身分は必要なく、実力主義で誰でも登録できる『ギルド』。
登録をした人間を冒険者と呼び、彼らに依頼をすれば実力に見合った依頼を受けてもらえる。
金を稼ぎたい、戦いが専門の人間の多くがこのギルドに登録される。
ギルドの冒険者はピンキリであるが、名前と階級をひけらかして一般市民を傷つける人間も少なくない。
そういった者たちは各地に点在している支部の規則に従い罰せられるが、フィニアにギルドは無く、町で問題を起こすのはそういった力を振りかざす冒険者が多かった。
青年と対峙している冒険者もその一部だろう。
「大人しく詰め所に来てもらおう」
「ああん?なんで俺がてめぇに命令されなきゃならねぇんだ」
横柄な態度を取る冒険者の男に青年は怯むことなく、睨み返す。
「僕はフィニアの自警団だ。君はこの店の従業員である彼女に暴力行為を働いた。これは見過ごせない」
見ると、彼らの近くには地面に踞った1人の女性がいた。
寄り添う様に彼女の隣には少女—―子供なのか、分からないが―—がいる。
冒険者と彼女の間でトラブルがあり、間に入ったのが青年だったのだ。
「見た所、君は冒険者の端くれらしい。これから隣町のギルド支部に連絡をし、君の処分を検討してもらう。その為の手続きを詰め所で行なうので……」
「んだと?!勝手な事言ってんじゃねぇ!」
「勝手な事をしているのは君の方だ。住民への暴力行為の取り締まり。これは町の決まりで、それを破ったのは君……それよりも、無抵抗の女性に手を上げるのは力ある者として、規則違反以前の道徳的問題だ」
騒ぎ立てる男に言葉を並べる青年に雄牙は苦笑いを浮かべる。
男を言葉で責め立てる自警団の彼、フリオは雄牙の知り合いで、良くも悪くも正直者であり、正義感がある性分だ。
女性を傷つけた事に憤っているのではなく、『暴力行為』そのものが彼は許せないのだろう。
(でも、相手を逆撫でし過ぎだって……)
相手は額に青筋を立て、自分に正論を突きつけてくるフリオをギッと睨んでいる。
「俺を誰だと思ってやがる……」
「ギルドランクCでつい先日、Bランクの魔物を狩ったパーティのリーダーをしていたガロット……と、先ほど高々と名乗っていただろう?自分が名乗った事も忘れたのか?」
大丈夫か?と心配そうな顔を向けてきたフリオについに男、ガロットは腰にしていた剣を抜いた。
野次馬が悲鳴を上げ散らばり、立って見物していた雄牙は誰かに足を踏まれ、「痛ぇっ!」と小さく呻いた。
誰が踏みやがった、と相手を探そうとしたが、ふと目の前の少女と目が合った。
被害者の女性に寄り添う少女は抜かれた凶器に女性に抱きつき怯えているが、彼女を守ろうとしているのだろう。
震えているが離れる様子は無い。
「……」
「何を興奮している、落ち着け……はっ、まさか!やましい事がまだあるのか?!」
「黙りやがれ!」
ガロットを落ち着かせようとしたフリオの言葉に付け加えられたのがいけなかった。
完全に『ブチキレ』た彼は大剣を振りかざし、フリオに向かって切り込んできた。
「剣を抜いたな。しょうがない、僕が相手を……むぎゅっ!」
切り込まれているにもかかわらず、暢気に台詞を続けるフリオは足払いを駆けられ尻餅をついた。
その上を彼の体を真っ二つにするはずだった剣がブォンッと重い音を鳴らし空振る。
「な、なにふぉふる!ひはをかんられはらいは!(な、なにをする!舌を噛んだではないか!)」
「この馬鹿……舌噛んだだけで済んでありがたいと思えよ」
そう言って呆れる雄牙が寸での所でフリオを転ばせなければ、彼は上半身と下半身がお別れしていただろう。
命を助けられた自覚の無いフリオは、呆れ顔の雄牙を見て表情を綻ばせた。
「ほほ!ひゅーはへはらいは!(おお!ユーガではないか!)」
「挨拶は後にしろよ、ったく」
「なんなんだてめぇ!」
続けて振り下ろされてきた剣を、フリオの首根っこを掴む事で避けさせる。
フリオの股間があった位置に地面を抉る様にして剣が突き刺さった。
「げほっげほっ……ゆ、ユーガ、首は掴まないでくれ。苦しい」
「じゃあ、さっき助けなければ良かったか?てめぇが切り取られて『男』止めても、俺は構わねぇんだぞ」
「それは困る!大いにこま、ぐぇっ!」
乱雑だが的確に狙ってくるガロットの剣からフリオを避けさせていく。
フリオは雄牙に引っ張られているだけ腰の剣を抜かない。
……と、いうよりも、抜いても意味が無い。
「ユーガ!ありがとう!今度はこちらの番だ。僕の剣で……」
「てめぇの鈍らな腕でどうこうできるか。テイルラビットも狩れない癖に」
「うぐっ」
テイルラビットとは名前の通り、兎の姿をしている魔物だ。
最下級の魔物で一般人でも倒せる危険度Fクラスの、ギルドの初心者への討伐推奨モンスターにも指定される事の無い弱さを誇っている。
長い尻尾が特徴的で、魔物の中でも草食という珍しさもあるが、数もいる。
そんなテイルラビットをフリオは狩った事が無い。
経験が無いのではなく、何度狩ろうとしてもフリオには剣の才能が無く、戦闘能力ゼロと自警団では有名な話だ。
本人が治安維持に積極的な為、『弱いから止めとけ』とは言えず、ちゃっかり自警団に所属しているある意味大物なフリオ。
彼の武器は正義の心と良く回る舌、らしい。
彼のサポートの為に必ず1人はついているのが、自警団内での暗黙のルールだと聞いた事があるが、その姿は今日は無かった。
「相方はどうした?」
「今日は漁の手伝いに出ている。僕も待機だったんだが、女性の悲鳴が聞こえ、でぇっ!」
「勝手に出てきた訳か」
相手の剣を避けながらため息をつく雄牙。
唯一の左腕がフリオという多いな荷物を抱えているため、避けていくしか無い。
『右腕がいれば』こんな面倒にはなっていないのだろうが。
「さっさ、と、くたばれ!」
「遠慮、する!」
「のあぁ?!」
さすがはCランク冒険者、と感心しつつ、雄牙は相手の隙をついてフリオを女性と少女の方へ投げ飛ばした。
荷物がなくなり、空いた左腕。
ガロットはフリオに構わず、自分の攻撃を避ける雄牙に矛先を向けていた。
視界を遮っていたフリオがいなくなった事で、2人は正面から立ち会う。
すると、雄牙を見たガロットは「はんっ」と鼻で笑った。
「なんだ。『腕無し』か」
雄牙の風で揺れている右袖。
それを見て笑われたが、雄牙は表情を変えない。
しかし、男の態度に怒りを露にしたのはフリオだった。
「ユーガの姿が面白いと?君は僕の友である彼を笑ってただで済むと思っているのか?!年下のくせに敬語も使わず、昼間から酒を飲んだくれる呆れた性分の持ち主だが、彼を笑う者は僕は許さないぞ!というかユーガ!さっき酒の臭いがしたがまた真っ昼間から……」
「フリオ、フォローになってねぇし、殴りたくなってくるから黙ってろ?」
それはもう『素敵な』笑みでフリオに言うと、彼は得意の口を閉じた上に手でそれを覆った。
もうしゃべりませんアピールのつもりだろう。
「あー、なんだっけ。俺が片腕だって事?なにか問題でもあるか?あっても無くても、あんたを黙らせるくらいは片腕だけで十分だろ?」
「良い度胸じゃねぇか」
そのなめた口、閉じさせてやる、とガロットが踏み込もうとした瞬間、雄牙が左腕を上げる。
なにがくる?と構えるガロットに雄牙はハッとした表情を浮かべ、
「あー!あんなところに全裸の美女が飛んでる!!!」
『えっ?!』
指差した方向を遠目から見ていた住民達が見上げ、フリオも「何?!不埒な!」と振り向いた。
ガロットも「何を言ってやがる」と言いつつもバッと振り向くが、そこには何も無い。
「なにぐっ?!」
が、その時、ガロットの急所に生を受けてから最大の痛みが彼を襲い、与えられた耐えられぬ激痛に意識が真っ暗になった。
ドサッという音がしてフリオが見上げていた顔を戻すと、そこには倒れたガロットと彼の正面に立ち、雄牙は顔を歪めていた。
「うえ……男のモノ蹴っちまった……気持ち悪い……」
「ゆ、ユーガ……」
呆然と事の成り行きを見ているフリオを振り向いた。
わなわなと拳を握りしめている彼に雄牙はおお、と話しかける。
「フリオ。だいじょ」
「全裸の痴女はどこへ逃げたんだ!?」
「お前はもう黙ってろ」