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朝、起きて時計を見る。
まだ寝られる、と二度寝をして母の甲高い声、もしくは妹ののしかかりで叩き起こされる。
容赦のないその攻撃に文句を言いながら洗面所で顔を洗う。
いつになっても変わらない平凡な顔つきに彼女が出来ないのはこのせいか?と悩んでいたら、「お兄、邪魔」なんて足蹴にされてちょっとした兄妹喧嘩になったりする。
同じ血が流れているとは思えない、整った容姿のいわゆる『可愛い系』の妹は俺にとっても可愛いわけで、結果的に軍配は相手に上がる。
ぼさぼさの頭のまま食卓につけば、つまらないニュースがやっている。
チャンネルをお気に入りの美人なお天気お姉さんが出る番組にして、お決まりの朝飯であるスクランブルエッグとパンをかきこむ。
聞き心地の良いお姉さんの声をBGMに折り畳み傘をバッグに放りこむ。
玄関の靴箱からスニーカーを取り出して履き、鞄を背負う。
「いってきます」
そう言って外へ出ようとするとリビングの方から「待って、一緒に行く!」と妹が声を上げる。
さっきまで喧嘩腰だったくせに、俺のチャリにちゃっかり相乗りするらしい。
それもいつもの事なので「早くしろよ」と大きく返事をすれば遠くで妹が慌ただしく足音を立てる。
キーホルダー付きの鍵を指にかけて回しながら玄関の扉を開ける。
「待ってよ、お兄」
「先にチャリまわしてくるから」
「うん」
ちゃんと待っててよ、と念を押され扉が閉まった。
*****
「お兄、お待た……あれ、お兄?」
母親に持たされた折り畳み傘を詰めながら少女は玄関先にいる兄に声をかけたが、そこにあるのは兄の使い古された学校指定の鞄と、銀色の鍵だけだった。
「お兄……?」
*****
「っは……っぅ」
一瞬の夢だった。
ごく平凡でつまらない、そんなありきたりで幸せな夢。
それは右半身を中心に刺す様に響き渡る痛みと熱にかき消された。
口から出るのは乱れた呼吸とみっともない呻き声。
土砂降りの大粒の雨と右肩から滴る赤色の液体が湿った大地に広がり、地面に溜まっていく。
立つ事すらできない鋭い痛みに足の力が抜け、パシャリと膝から崩れ落ちた。
朦朧とする意識の中、視界の端に映るのは地面から突出した土の槍に貫かれた鎧の姿。
ピクリとも動かないそれが握る西洋の剣へ雨が降り注ぎ、赤い液体を洗い流していく。
泥の匂いに混じって鉄の匂いがする。
―俺……何をしてたんだっけ……?
そうだ……
朝起きて時計を見た。
それで、まだ寝れると思って二度寝しようとしたら母さんに叩き起こされた。
容赦なくて文句を言ってまた叩かれて、仕方なく洗面所に行ったら妹と喧嘩になった。
いつものように妹に軍配が上がって、ぼさぼさの髪のままでお天気お姉さんの天気予報を見た。
雨が降るから折り畳み傘を入れて、玄関を出ようとしたら「待って、一緒に行く!」って妹が言ってきたから「早くしろよ」って言って。
それから……それから、外に出て……
「っちが、う……」
そうじゃない。
いや、違わない。
けれど、『今』じゃない。
「違う……っ」
頭に浮かんだ明るい情景が暗い現実に変わる。
今にも倒れてしまいたい衝動を抑え、動かすのも億劫な頭を無理矢理上げた。
霞む視界に映るのは立ちすくんでいる1人の人間。
綺麗な顔と固い空気を纏う軍服が泥だらけで、所々に傷がある。
自分も傷だらけで痛いはずなのに、彼は大きな目を更に広げてこちらを見ている。
手から滑り落ちた凶器が地面に突き刺さるのも見ずに向けられている瞳から、雨が滴り落ちた。
「ど……して……」
雨の音でかき消されそうな声が耳に届く。
どうして、と……そう問われたけれど何も考えられない思考回路は答えを出せなかった。
「ほん、と……なんで、だろう……な……」
なんでこんな所にいるんだ?
なんでこんな痛い思いをしているんだ?
なんで俺『達』はこんなことをしているんだ?
なんで……
「俺にも、わかんねぇよ……」
きっと答えを知っている奴なんかこの場所にいない。
このクソッタレな世界で答えてくれる奴なんかいない。
もしいるとしたら、それは神様とかいう奴なんだろう。
……なんてらしくもないことを考えてしまって、思わず口角が上がってしまった。
痛みでどこかおかしくなったのかもしれない。
「はは……っ」
流れる赤が肩が揺れる度にドクドクと溢れる。
だけど、笑うしかなかった。
涙なんてとうに流しきってしまった。
何もかもを奪われて、独りになった時から。
怒りだって誰に向ければいいのかわからない。
「……ちく、しょう」
訳のわからない感情が、痛みすらはね除けて喉から吐き出される。
頭が熱くなる。
痛みのせいじゃない熱に苦しくなる。
「畜生……っ」
*****
大陸の東に位置する大国、シュトレイン国には多くの伝説が存在している。
実際に起きた出来事になぞらえてできたものもあるが、それらはどこかで折り曲げられている。
都合のいいように、皆が尊敬するように、感動するように。
この国は大陸ができた時に最初にできた国だとか
この土地の地下には大きな遺跡が眠っているとか
そこには伝説級のドラゴンの骨が埋まっているとか
実は王族はもともと異世界の人間だとか……
事実になぞらえてあるものから、全く作られたものまで、さまざまだ。
そこに新しく伝説が刻まれる。
架空の物語ではない、証拠のある伝説だ。
『大戦を終わらせた英雄』
彼はシュトレイン王国の危機を救い、戦の終結へと導いた。
先陣を切り、片腕を失くしてまで戦った、この国の英雄。
敵の将を討ち取り、世界に平和をもたらした。
戦場に出た者以外は真実を知ることはない。
戦争終結の際の出来事は国家機密とされ、折り曲げた伝説を噂として流した。
誰が流したとは定かでないその伝説は今では国中の誰もが知っている。
国の宝物庫には厳重に保管されている固定魔法のかけられた英雄の片腕が眠っている。
先の大戦で“斬り落とされた”腕。
救世主は戦争終結とともに消え去り、誰も行方を知らない。
風のように現れ、風のように消え去った彼を誰もが称えた。
夢を見る子供は「彼のように強くなりたい」と将来を語る。
「馬鹿みたいだ」
窓の外で夢を語る少年少女を視界の端に入れながら、ちびちびと飲んでいた酒を一気に飲み込む。
木製のジョッキをテーブルに置き、隣に銅貨を数枚無造作に並べた。
それに気づいた店員の中年女性が笑顔でありがとうございます、と声をかけてくる。
「お客さん達、旅の方?」
「ええ、まぁ……っつっても、静かに暮らせる場所を探してるんだけど」
「じゃあ『フィニア』なんかどうだい?」
「ふぃにあ?」
世界地理にはまだ疎い為、疑問符を浮かべていると、女性は壁にかかった大きな世界地図を目で指す。
「ずっと東の大陸の端っこの町でね、漁業が盛んな田舎さね。こんなご時世だけど平和なもんさ。あそこはシュトレインには属してない完全自治区で国の目がないからって悪さする奴も多いらしいけど……それだって警備隊つくって自衛してるってんだから国のお世話なんかいらないんだとさ」
大陸の最東端。
小さく名前が書かれているそこを見つめる。
東……か。
「そうだな……興味出てきたかも」
「そうかいそうかい。良い場所が見つかると良いね」
「ありがとう」
懐からもう1枚銅貨をテーブルにのせれば、女性は少しだけ驚いた顔をして笑った。
「今度来たときサービスしてあげるわ」
「ラッキー、んじゃ」
「はいよー、いってらっしゃいな。
坊っちゃんもね」
10年前、シュトレイン国とイオカリス帝国の間に起こった『アルカトス大陸東南大戦』が停戦した。
シュトレインからの停戦を受け入れたイオカリスだったが、続けていればどちらかが完全に滅びる結果となっていただろう。
後に2か国の間で終戦が宣言されることとなる。
王都で開催された式典には多くの国民が集まり、王族を、国を、名も知らぬ英雄を讃えた。
彼らに背を向け、国を去る2つの影に気づくこともなく。