森の稀人(まれびと)
「んじゃ、あたしもう行くから。りんごありがとね」
水辺の大きな岩場にぴょんと飛び乗り、キキはぶんぶんと手を振った。
「じゃあねー、とろお。達者で暮らしなよ。今度おじいちゃんと遊びにくっからさ」
分かっているのかいないのか、トロルのとろおもゆっくりと手を振り返した。
(とろおを見つけても殺さないように、シオンに言わなきゃ)
その為に、シオンと合流しなければならない。悪くないトロルもいるってこと、教えておいてやんなきゃ。すぐ殺すからな……。
背を向け歩き出したキキの後ろを、のっそのっそととろおがついて来た。それに気づいて、キキはくるっと振り返り、腰に手を当て、見下ろした。
「ついて来ちゃダメだって! 連れてってやりたいけどさぁ。とろおは飼えないよ……むむ、飼えないかなぁ……? おばあちゃん怒るかな。ポチコロんとき怒られたしなぁ」
頭をひねるキキに、とろおがのっそのっそと近づいてくる。
「……もしや、あたしのことを弱いと思ってるんじゃないでしょうね?」
「う、うー」
「別について来てくれなくても大丈夫だよ。キキ強いから」
「うー」
(表情が分からん)
だるだる皮のブルドッグ顔のトロルは、まあお世辞にもブルドッグほど可愛くはない。ブルドッグは犬だから可愛いのだとよく分かる。キキの美醜感覚は人間とは違うが、人間にはたぶんトロルが醜悪な魔物に見えている。冒険映画でよくやられ役になっているからだ。主食は木の実なのに、寄主トロルでもないトロルがガブガブと人間を積極的に食べている、間違った認識なのか大げさなのか、そんなホラー映画がけっこうある。
キキの傍までやってきたとろおは、いきなり豹変しキキを捕まえて食べそうな様子はない。たとえそうだとしても、りんごを腹いっぱい食べた後だから、まあ大丈夫だろう。獰猛なモンスターですら、腹がいっぱいのときにわざわざ捕食はしないからだ。
とろおは、キキの傍らに佇み、じっと黙って立っている。何かを待っているかのようだ。
「うーん? キキの役に立ちたいのかなぁ?」
「うー、う」
たぶんたまたまだろうが、会話っぽくなった。それをキキは肯定と取った。
「よし、じゃあ一緒に行く? 実際にとろおを見たほうが、シオンも納得するかもね!」
ぴょん、ととろおの肩に飛び乗る。とろおはまったく揺らぐことなく、どっしりと立っている。
「……おお、おじいちゃんでさえ、最近グラッとくるのにな……」
オヤジは腰痛持ちだからやめてやれ、とリザードマンの若衆に言われるが、キキはいつまでも幼い頃の気分が抜け切れず、老いた祖父の肩に飛び乗ってしまう。
「おじいちゃんがまだバリバリだったとき、いつもキキを乗っけてたんだよ」
分厚いトロルの肩にちょこんと座り、キキはとろおの頭を撫でた。ざらざらゴワゴワしていて、うっすら産毛が生えている。あんまトロルを間近で見ることないもんなぁ、とキキは思った。口の周りにりんごの汁や涎が残っていて、ツナギの尻ポケットに入っているハンカチで拭ってやろうかと思ったが、うっかり齧られたら困るのでやめた。とろおに害意がないとしても、事故ってあるしな……。野生なのだから、多少汚れているのは仕方ない。でもこんなとろおを見たら、汚くて、気持ち悪いって人間は思うのかもしれない。
「とろおはいい奴なのになぁ」
キキを肩を乗せて歩きながら、とろおはのっそのっそと川べりを歩いた。
「あっ、こんな見晴らしのいいとこ、冒険者に見つかったら面倒くさいかもしんないよ。さっきサイレン鳴ってたし。とろお、森に入ろう」
「うー」
「あっち、あっち!」
と、キキは森のほうを指さしたり、とろおの背中や後頭部をばしばしと叩いた。皮が分厚過ぎて、感覚があるのかも分からない。
そのうち、とろおが気づいて、ゆっくりと左右に首を振った後、キキが示すほうに体の向きを変えた。
「そうそう! そうだよ、とろお!」
「うー……」
「とろおと話出来たらいいんだけどな。とろお、どこに住んでんだろ? ねえ、とろおんち、どこなの?」
話しかけてみても、とろおは短く唸るだけだ。
「やっぱり森ん中かなぁ……森にりんごの木があるのかな?」
キキは首をひねった。返事する者はなく、のしのしととろおは森の中に入って行った。
ワーラットを見かけてから、しばらく森の中を探してみたが、キキは見当たらなかった。
正気を失ったままそのあたりのダンジョンに入り込んでいるのかもしれない、と思うとさすがに焦りが出た。
「キキ! キキ!」
声を上げても、返事はない。
「……キキ……」
はぁ、とため息をついて、シオンは近くの木に背中を預けた。
それにしても狂戦士化するほど腹を立てるなんて。よほど気にしていたことだったのだろう。
「オレのせいだけど……」
透哉のアドバイスから森の中を探しに来たが、暗くて静かな場所にいると、シオンの気持ちのほうがかえって落ち着いた。キキがいるいないはともかく、ここに来て良かった、と思った。
駆け出しだったとき、珍しい山菜やキノコの採取をしに、暗い森を一人で探索することも多かった。ひとたび足を踏み入れたら夜のような世界は、不思議と落ち着く。ダンジョン生まれだからか、暗闇はあまり怖くない。
(……オレはこういうところ落ち着くな。いい森だな)
しばらくその場で耳を澄ませた。冷静になってみると、キキを探す方法が色々と浮かんできた。耳の良いワーキャットは、遠くの音を――それも複数の音を聴き分けられる。動き回るより、こうして数メートルおきに音を拾うほうが効率が良いような気がした。
風で木の枝が揺れる音。葉擦れの音。虫か小動物が動いているらしき音。そんなささやかな音に比べれば、キキが動き回っている音なんてすぐに分かる。
(……場所を変えよう)
このあたりを小動物以上の生物が動いている様子はない。
森の中を探すなら、シオンのほうが透哉より適している。森の外はそのまま透哉が探してくれているに違いない。
(探すのはいいけど、森の中は方向感覚が狂うんだよな)
あまり遠くまで行かないように気を付けなければ。
川が流れる音がする。この音からは離れ過ぎないようにしよう。そう決めてひたすら探した。
水場には人もだが、野生の獣やモンスターもおのずと集まる。
「……あ、獣道だ」
人が作った道ではなく、文字通り獣の通り道だ。そこには草も落ち葉もなく、一見すると登山道のようだが、実際は違う。同じ獣が同じルートで動く為、踏みしだかれ続けた場所にこういった道が出来る。
道の大きさで、どのくらいの生き物が通っているかも分かる。
(……そこそこのサイズだな。オーガかトロルでもいるのか?)
別に珍しいモンスターではない。大人しく雑食性のトロルはともかく、オーガがいるなら駆逐したほうが良い。またトロルであっても特定のキノコに寄生された場合は危険なため、そのあたりにキノコが生えていないか確認しておく。
(オーガやトロルがいるって情報は、センターの資料にはなかったけどな。一応、後で報告しておくか)
冒険者協会が管理している冒険者の地図は、冒険者センターにある端末やパソコンなどで確認出来て、地域情報では生息モンスターの種類まで記載されている。そのマップで未確認のモンスターを発見した場合、報告をしておくとただちに調査が入る。こうしてマップは随時更新されている。
シオンの耳に、さっきまで聴こえなかった音が届いた。
(……人か?)
動物ではない、かといってトロルやオーガにしては軽い足音。ゴブリンよりは大柄な、二足歩行の生き物。人間か、亜人の獣堕ちか。
オーガであったとしても、何度も戦ってきたシオンにとっては恐れる敵ではない。臆することなく音のするほうへ向かった。
(……小屋か)
探索者が体を休められる簡易施設は各地にある。この山にも管理者のいる山小屋はあり、冒険者の支援をしてくれる。
そういった施設とは違い、山の中に簡素な小屋だけがぽつんと建てられていることがある。
かつて山で暮らす者が使っていたり、何らかの研究者がそこに留まる為に建てたものであったり、今も誰かが使っていることもあれば、無人となり残されていることがあるのだ。冒険者にしてみれば、そういう場所はありがたい。体を休めたり雨風をしのいだり、時に拠点になることもある。
またそんな拠点がある場所は、誰かが積極的に探索をする場所に選ばれることが多い。
(誰かいるな)
小屋の外で、誰かが何か作業をしていた。背の高いがっしりとした体形は、男だと分かる。癖の強そうな黒髪を短く切り、頭部にはバンダナを巻いていた。
「すみません」
敵意が無いことを示すため、シオンは先に声をかけた。
聴こえたと思うが、返事はない。だが、長身の男はゆっくりと振り返った。
(……人間じゃない)
亜人だ。見た目はかなり人間寄りだが、手の甲まで黒い毛に覆われている。目許まで長い前髪に覆われ、目許が見えない。その所為で表情は読み取りづらいが、思いのほか若そうだ。亜人の年齢は分かりづらいが、人間ならまだ二、三十代くらいの見た目だ。
だらりとした裾の広がったズボンと、薄汚れたTシャツ、それに手製っぽいざっくりとした織物のカーディガンを羽織っていた。
「すみません、オレ、はぐれた仲間を探していて……」
男は無言で、シオンが手にしているダガーと、腰に差した武器を見た。シオンは慌ててダガーを仕舞い、ウエストポーチから冒険者証を出して見せた。
「冒険者です。新宿センター所属の……」
「ん。仲間というのも、ワーキャットかい?」
ようやく男が言葉を発した。折り曲げていた背中を正すと、男の背はシオンより頭二つは大きかった。
(……でかい。ミノタウロスの半頭かな……)
ミノタウロスはリザードマン同様に大型の亜人で、子供でもシオンより大きく、体もがっしりとしている。純粋種である頭まで牛の全頭と呼ばれる者たちは特に巨躯で、見た目通りの剛腕だ。大抵の者は魔法が使えないが、魔法耐性は高いと言われる。
リザードマンが攻撃に適した戦士だとしたら、ミノタウロスは攻防に優れた戦士と言われている。混ざった人間の血が濃く出ているライトミクスはフルヘッドほど大型ではないが、それでもミノタウロスの特徴が強く出て、大抵の者は巨漢だ。
彼は長身でがっしりした体躯ではあるが、ミノタウロスにしてはかなり細身だ。
まあ大型ばかりと思われがちなミノタウロスも、そこから派生したカモシカの特徴を持つ者もいるらしく、彼らは種族の中では小型らしい。それでもワーキャットよりはずっと大きいだろうが。
「いや、仲間はリザー……亜人だけど、見た目はほとんど人間で」
キキのことをリザードマンと説明しても、ピンとこないだろう。リザードマンハーフの子供はごく少数なのだ。普通、人間とリザードマンの間には子供が出来にくい。
「一応冒険者だけど、子供なんだ。まだ小さくて。はぐれてしまって、今頃バーサー……パニックを起こしてるかもしれない」
「……ワーキャットの子供かい?」
「あ、ワーキャットじゃなくて、リザードマンなんだけど……」
「リザードマンで、見た目は人間の子供? それは、あんま言わないほうがいいなぁ」
「え?」
「珍しい動物って、すぐに騒がれっからね」
口調なのか訛りなのか、変わった喋り方をする男だったが、その口調は穏やかだった。
何の作業をしているのかと思ったら、男はぱんぱんになったゴミ袋の口を幾つも縛っていた。
「ここらにも冒険者はよく来っけど、探索なんて言って踏み荒らしてくからね。ゴミを持って帰らない者もいっから、動物やモンスターが食べ物のビニール袋を飲み込んだり、持ち込んだ食べ物の残りを漁って、味を覚えてしまったりすんだよ。そうすっと結局人里に出て行ってしまう。迷惑するのは、そこに住む者だろう?」
よく聞く問題だ。新宿冒険者センターにも、ゴミの持ち帰りを訴えるポスターが貼られている。シオンたちもゴミ袋は必ず持ち込んでいる。でもやっぱり、守らない者も多くいるらしい。
「おらも一応、冒険者の資格は持ってんだ。あると便利だし。あんま使ってないから今ないけど」
男はシオンの冒険者証を見て、小さく頷いた。
「ええと、小野原、シオンくんかい?」
「ああ……はい」
「喋りやすいように喋って構わないよ。たぶんそんなに歳変わらんと思うけど」
若そうだとは思っていたが、シオンが思っているより若いようだ。
「おらは毛利……毛利春慶って言んだけど、覚えにくい名前だかんね、シュンでいいよ」
シュンは頭に巻いていた長いバンダナを取った。ゴワゴワとした髪は激しくうねって、バンダナをしていないとたしかにまとまりが悪そうだ。
彼はゆっくりとした動作で髪をかき分けた。そこには髪と同じ黒い小さな獣の耳と、ぽっかりと禿げた部分があった。
いや、禿ではなく、角を切った後だ。
牛亜人や羊亜人の雄には角があるが、ライトミクスの頭にあまり大きな角があると、固定器具がないと首を傷める事故を起こしやすい。発育に影響するというので、幼い頃に親が切ってしまうのだ。ガルーダの羽と同じだ。
「……あ、もしかして、フォーン?」
シュンはこくりと頷いた。
初めて会った。今日は初めて見る種族によく会う日だ。
フォーンは街で暮らすのを好まず、馬亜人や蛇亜人のように他の者が住みたがらないような山奥や森の中に居住していることが多い。群れで暮らす者たちもあれば、単独で暮らす者もいる。非常に穏やかな気性で、自然を愛する。自分達から他種族に近づくことは少ないので、偏屈なイメージを持たれがちだが、他種族には友好的であると言われる。
「おらは、探索に役立つ魔法が使えっからね、一緒に探そ」
シュンはバンダナを巻き直し、小屋の外に立てかけてあった棒を手にした。棒に見えたが、どうやら木から切り取った杖のようだ。
羊亜人は魔力の強い種族だ。シュンは首に巻いたストールの下から、笛を取り出し、それを吹く。音はしなかったが、シオンの耳にはかすかに聴き取れた。多分、犬笛だ。
しばらくして、大型犬ほどの大きさの魔犬が四頭、森の中から走ってきた。
「茶色のがオス、白いのがメス。メスは一頭が母親で、あとは全部兄弟。救助犬の訓練してる。独学だけど。こいつらの父親は死んでしまったけど。二頭一組でいつも森の中をパトロールしていて、この笛で戻って来んだ」
「へえ」
犬も便利そうだなぁ、とシオンは感心した。訓練出来る自信はないし、何よりアパートで飼えないが。
「名前は、母親がルンルン、娘がランラン、ちょっと片耳立ってるほうのオスがケンケン、一回り小さいのがカンカン」
「微妙に覚えにくい……」
「死んだお父さんはじゃがお」
「なんで……」
「じゃがいもみたいな色で、勇敢だったけど、迷い込んできた遭難者をオーガから守ろうとして、傷を負って死んでしまったんだ。たまに味を占めたオーガが来っからね」
さっきのサイレンも、もしかしたらオーガが出たのもしれない。
「じゃあ、捜しに行く準備だ」
のんびりとした口調で、シュンが告げる。
「今からおらが、シオンくんとルンルンたちに聴覚と嗅覚が鋭敏になる肉体強化をかけっからね。シオンくんはワーキャットだから、感覚が鋭敏になればより効率よく探索が出来ると思う。精神防護のアミュレットなんか付けてたら、外してほしいけど」
言われて、シオンは慌ててスカーフの下の魔石がついたチョーカーと、腕に巻いた安い魔石のアミュレットを外し、ポーチに仕舞った。
「そんじゃあ、傍に来て。おらの詠唱をよく聴いて」
シュンが片手に杖を掲げ、片手でシオンの耳に、それから鼻に軽く触れ、犬たちにも同様に行う。魔法により強化する部分を意識させるためだろう。
「――我ら守り人、森と大地の祝福を受けるもの、木々はその腕を広げ、我らを抱き締め、風は導き踊り、我らを惑わすことはない。大地の精霊に祝福され、我らは誇り高く歩む。風の精霊は迷う背を押し、我らの道を示すだろう。樹の精霊よ悪戯に耽ることなかれ、我らは正しく、この森に住まう者だから」
喋り声よりもずっと朗々と、抑揚の強い声で、シュンは呪文を唱え、犬たちは大人しくそれを聴いていた。シオンもそれに倣う。呪文の意味はよく分からないが、シュンの詠唱を聴いていると妙な高揚感が湧いた。まるで自分がこの森の中で暮らす生き物で、この森のことなら何でも分かるような、この森にすむ精霊たちに愛されているかのような気分だった。
最後にまた、両耳と鼻先を指でちょんちょんと撫で、シュンはにこりと口の端を上げた。
「よし、ルンルン、ランラン、ケンケン、カンカン、行っておいで」
犬たちの背をぽんぽんと叩いていくと、順番に彼らは走り出した。
「シオンくんも、何かあったらこれを」
と、シュンは犬笛を渡してくれた。
「魔石を削って作ったものだから、おらでも感知出来る」
「あ、ありがとう!」
「遭難したときも、遠慮なく吹くんだよ」
シオンは彼の親切に感謝し、ぺこりと頭を下げてから走り出した。
「おーいシオン! シオーン!」
とろおの肩の上でキキは大声を上げたが、森の中でこだまするだけだった。
「あっ、そうだ《轟声》!」
リザードマンの発する《轟声》は、遠くまで響くはずだし、シオンならそれがキキの声だと聴き分けられる。
キキはとろおの肩からぴょんと飛び降りると、
「とろお、びっくりしないでよ。あー、ゴホンゴホン、あ、あー、ヴ、グ、ガ、ガ、ガー」
咳払いと発声練習をし、すううと息を吸い込んだ。大量に酸素を吸い込んで薄い胸が一瞬ぼこんと膨らむ。
「グガァァァァッ……ガッ?」
叫びかけたところで、力がどんどん抜けていく。パクパクと口を動かすが、上手く声になっていない。口の中がピリピリと痺れ、手足の力が抜けて、ガクンと膝から崩れた。
「ガッ……ギギ……!」
あれ? まずい、なんか知らんけどまずい……! とキキは焦りながら、まだ動いている頭を周囲を見回した。
とろおがキキの傍に屈み込んでいる。キキを覗き込んでくる垂れ下がった皮に覆われた顔と、涎まみれの口許が不気味に見えた。
「うー」
「と、とろお……まさか……」
コイツ、りんごに毒を入れて、キキを油断させて喰おうとしているのか……と一瞬だけ思ったが、そんなめんどくさいことしなくても、丸齧りにされる機会はいくらでもあった。
「うう、ううー」
とろおは両手を差し出し、崩れ落ちた小さなキキの体の下に、そっと手のひらを差し入れると、大切そうに抱え上げた。
母親の獣が、子供の獣を優しく咥え、危険な場所から離れるように。
「と、とろお……でも、なんで、だれが、いつ……」
とろおはキキ毒殺事件の容疑者から外れたが、だったら何故体が急に動かなくなったのか、キキの本能が、完全に嫌な展開を察知していた。
「とろお、逃げろ……! て、敵がいる……! 敵が、アンタに、あのりんごを……!」
声を出すのさえ困難になってきたが、キキははぁっ、と息をついて、もう一度大きく息を吸い込んだ。
「《轟声》!?」
シオンははっと顔を上げた。かすかに聴こえた。小さなリザードマンの吼え声を。
キキにしては元気が無かった。聴覚強化をしてもらっていなかったら、聴き逃したかもしれない。
いつも以上に過敏になった聴覚で、声がした距離感も正確に掴めた。距離はシオンの足でならそう離れた場所ではなかったが、それにしてはキキの声が小さい。キキならもっと大声が出せるのに。
それに、どこか弱々しかった。手負いなのだ。シオンの背筋がぞっと縮こまった。キキは強いが小さい。シオンよりは丈夫かもしれないが、大人のリザードマンよりはずっと脆い。大型の獣に跳ね飛ばされたりしたら、ひとたまりもない。
(……キキ!)
幸運のワーラットや、フォーンの森の加護がまだ続いているのなら。
(無事でいてくれ!)
シオンは全速力で駆け出した。
朦朧としていく意識の中で、がやがやと話し声がする。騒ぐ声と、血の臭いと、とろおの荒い息。ぜんぶ、覆いかぶさっているとろおのせいで、何にも見えないし、分かんないよ……何が起きてるんだろう? めちゃくちゃ眠い……キキは落ちそうになる瞼と意識を必死に保った。ずっと、うーうーととろおが唸っていたけれど、だんだんその声も小さくなっていった。
「女の子、ヤバくね?」
「ま、あの毒摂取したら死ぬわな」
「でもさっきまで動いてたよな。トロル用の毒だぜ。子供なんて一口食ったらふつーに死ぬけど」
「特異体質の奴もいるからな。あーあ、子供、これ潰れちまってんじゃねえかな」
キキを抱えたとろおの大きな体は、小刻みに痙攣している。毒の効果なのか、槍で突かれ、剣で斬りつけられ、魔銃で撃たれた為なのか、大の男が五人がかりで動けないトロルを幾度となく攻撃しても、膝をつかせるのさえ骨が折れた。
とんでもない耐久力だったが、トロルは動けない子供を抱えたまま、ただ背中を丸めてじっとしていたので、嬲り放題だった。まず両目を潰し、いたるところに武器を突き、刺し、打撃を、魔法を加えた。それでも、トロルは生きている。
「しかし、変わったトロルだなぁ。ペットとして捕まえたら、売れるんじゃね」
「いくら人に慣れてても、トロルじゃなー。可愛くないだろ。目まで潰しちまって、誰も買わないって。どうやって売るのかも分かんないし」
「それよりアクセス数、アクセス数。回すぞ。――はい! チャンネルを見てくれてるみんな、ありがとねー! こんちわっす! こちら、前回の放送で予告したトロル狩りにきてまーす」
「まあ例によって、もうほぼ倒したとこからなんですけどね!」
「大事なとこ全部カットっつー」
「なんと、女の子が喰われかけてたんで、これヤバい展開じゃん!? って思ったんだけど、まあー秒殺でした!」
「戦うとこは、やっぱ真面目にやってるんで、カメラ回せてないんですけどねー。トロルはもうほぼ虫の息なんで、女の子救出に入ってまーす」
「軽く下敷きになってるみたいなんで、救助は呼びましたー」
男達はとろおの巨体の下からキキを奪おうと、再びとろおの体を傷つけ始めた。攻撃されていても大人しかったとろおだが、キキを奪われかけて、歯を剥いた。
「う……が……が」
「うーわ、クッソこえ~」
男の一人が笑いながら、潰れたとろおの目に再び槍を突き立てた。
「う、がっ!」
「と、……ろ、ぉ……」
顔を伏せたとろおの目から、ぼたぼたと血の塊が落ち、キキの頬を濡らした。朦朧としていた意識が、赤く塗り潰されていく。
「とろお……戦えば……とろおなら……こんな……きき、を……守って……」
キキなんて守らず、戦えば良かったのに。そう言いたかった。
戦闘で傷を負ったリザードマンの戦士は、自らを切り離されるべき尻尾とする。仲間の足手まといにならないよう、最期まで役立てるよう、深手を負った者から特攻する。仲間の盾となって、散るべき存在だ。それが誇り高きリザードマン戦士だ。
尻尾になったキキを守ったりしたから、とろおはとても痛い思いをしている。とろおは、優しいトロルだから。
トロル用の毒だったんだ。コイツらがりんごに仕込んで、とろおに食わせたんだ。とろおはきっと、それまでもりんごで餌付けされてたに違いない。とろおは人間に優しい。だから騙されて、毒を食べた。
「と……ろ……とろ……お……とろ、おぉぉ……!」
キキの目から涙がボロボロと零れた。とろおのちょっと生臭い血と混ざって、目に染みた。眼球が痺れて痛い。赤い涙が頬を汚し、大地を汚した。
真っ赤になる。目の前が。怒りと悲しみで塗り潰されていく。中学校で級友に鱗をバカにされたとき、モンスターに攻撃されてものすごく痛かったとき、シオンとケンカしたとき――いや、そんな怒りじゃない、そんな怒りでは済まない。もっとどす黒い怒りを知っている。
傷つけられたときだ。大切な者を。
おじいちゃんを、殺されかけたときだ。精霊鉱山で。今でも憎い黒いリザードマンとワーキャットの獣堕ちと、今でも死にそうな国重の姿を思い出す。キキは痺れた脳で、あのときの怒りを思い出そうとした。おじいちゃんをいじめたやつら、とろおをいじめているやつら、殺す。みんな殺してやる。殺す、殺す、殺す、殺す、殺す――!
「あああああああああああああっ! うあああああああああああっ!」
「うわっ!?」
「なんだ、急に! まだ動けたのか、このトロル!」
人間達が焦り出す。とろおの声だと思ったらしい。
声は出たが、体が動かない。毒。毒が回っているからだ。体は動かない。でも、少しだけ、まだ毒が回りきっていない。少しだけなら動く。
「もう殺せ! もう充分撮ったし、後は上手いこと編集出来るだろ!」
「くっそっ! 死ね!」
「首、簡単に落ちねえぞ、斧使え!」
斧を持った男が、とろおの首の近くにやってきた。キキはとろおの体の下の隙間から素早く這い出し、男の足首に噛みついた。
「ギャッ! かっ! 噛まれた!」
キキが強く噛みついたまま、ぐるんと体を転がすと、男の足首からゴキリと音がした。そのまま、鋭い歯を突き立て、肉ごとバキバキと骨を噛み砕いた。
「ぎゃああああ!」
骨を噛まれた男が、悲痛な叫びを上げる。他の者を慄かせるのに充分なほどの悲鳴と光景だった。キキは男のもう片方の足も、丈夫な生地のアーミーズボンごと肉を噛み千切った。
「がああああっ! 足っ! 足がっ……!」
「に、人間じゃないぞ! モンスターだ!」
両足を喰いちぎられた男は泣きながらのたうち回っている。キキは血走った目で次の獲物を探し、這ったまま素早く近づいた。毒で立つことは出来ないが、狂戦士化により身体能力の上がった体で、這いずる程度でも充分動き回れた。それがまた、男達に恐怖を与えた。
「ギャギャギャギャッ! ギャギャギャギャッ!」
「ヒィッ……」
「化け物!」
「助けてくれよぉ! 足が喰われて、歩けないんだよぉ!」
腰が引けている者から、キキは襲った。剣や槍を振り回す者もいたが、狂戦士は己が傷つくことなど構わない。一度斬りつけられている間に、キキはそいつの足を両方とも噛み砕けるのだ。二人やられ、パニックを起こした一人が魔法を唱えようとしていた。これは完全な愚行で、詠唱の間に当然襲われる。素早く這ってきた小さな化け物に膝から下を噛み砕かれ、他の二人同様、翅をもがれてのたうち回る昆虫のようになった。
「ギ……ギギ……」
「ひ……」
血に濡れた歯は、よく見れば人間よりずっと鋭い。目は血走っているが、どこか感情が無い。爛々と血走って、モンスターそのものだ。下手な動きをすると、這ったまま素早く近づいてきて、襲いかかって来る。
「まさか、さっきのサイレンてこの化け物……っ」
「ち、違うんだ、あいつらが、やろうって……! 俺は、やめとこうって言ったんだ! でも広告収入を上げたいからって、あいつらがぁ……!」
一人の男は失禁しながら尻もちをつき、泣き叫んだ。戦意喪失しているそいつを無視して、キキは逃げ出したもう一人を素早く追いかけ、靴の上から足の甲の太い骨をパワーショベルでやすやす岩壁を抉るようにバキバキと噛み砕いた。
「ぎゃああああっ! ごめんなさい! ごめんなさいっ!」
「ひぃっ……ひぃっ……!」
腰を抜かした男は、すぐ近くで仲間が骨を砕かれ泣き叫ぶ様を見ながら、涙や汗や小便や、体のあらゆるところから液体を垂れ流し、口から泡を吹いて倒れた。
シオンが駆け付けたときには、もう人間達はキキに襲われているところだった。三人転がっていて、他の者に襲いかかろうとしていた。
「ギャギャギャギャ! グギャギャギャギャ!」
すぐに救出に向かうべきところだが、多分、今まで見たバーサーク状態で一、二を争うヤバさだ。迂闊に近づけないでいるうちに、四人目が襲われ、足を砕かれた。
(あれは本当にヤバい……!)
シオンも近づけば襲われる。
人間達の喉元に噛みついていないのが幸いだった。全然幸いではないが、喉だと絶対死んでいる。
どこかで、殺してはいけないという理性が働いているのか、とりあえず獲物全員を逃がさないよう、効率的に足の機能だけを奪ってから全員を屠るつもりなのか――まあ後者だろう。野生の獣というのは、常に狩りに最適な行動を取るものだ。
状況が分からないが、近くで傷だらけのトロルが死んでいる。キキがやったにしては、見覚えの無い武器で全身を傷つけられていた、剣や槍が刺さり、モンスターながら痛ましい。
おじいちゃん人形はキキが置いてきてしまったのを、透哉が持っているはずだ。キキの武器も、荷物も、全部透哉が背負ってくれている。せめて人形だけも持ってくれば良かった。でも今のキキじゃ、本物の国重でも来ないと効かないかもしれない。
(呼んでる暇なんかないし、オレが……!)
最後の一人の足を、キキが喰い千切ろうとしている。もう失神していて、声すらも出さない。シオンは貰った犬笛を吹き、駆け出した。
「キキ! キキ、もういい! もういいんだ!」
シオンはキキの背中に飛びつき、頭を抑え付けようとした。しかし、バーサーク状態のキキの力は凄まじい。蒼兵衛でもないと止めきれない。
「キキ! 殺しちゃダメだ! 殺したら、キキはオレたちといられなくなるぞ!」
「グギャギャギャギャ!」
頭を振り乱すキキを、なんとか組み敷いたが、50キログラムのシオンの体はすぐに浮き上がった。こんなとき、魔法戦士なら……! サクラのように肉体強化で抑え込めるのに……!
「う……う……」
キキにひっくり返され、噛みつかれそうになるのを、身を捩って避ける。もつれ合っていると、倒れていたトロルがゆっくりと起き上がった。
(あいつ、生きてたのか!)
この上、トロルにまで襲われたら確実に死ぬ。あの巨体で踏みつぶされただけで、シオンの体なんてひしゃげてしまう。
そう思ったが、傷ついたトロルは、シオンに覆いかぶさったキキの体を、ひょいと抱え上げた。
「グギャッ! ギャギャ!」
邪魔をされて怒り狂ったキキが、トロルの腕の中で暴れ、するりと抜け出し、その首筋に噛みついた。キキの歯はトロルの分厚い皮膚すら喰い破ったが、血がうっすら滲んだだけだった。
「うー……う、う……」
目玉を潰されたのか、両眼から血を流しているトロルが、なんとなく優しい顔をしているように、シオンには思えた。
「ギャ……」
キキの攻撃を、まるで子供の獣に甘噛みでもされているかのように、トロルはキキの体を抱え、じっとしていた。
「ギャ、ギャ……」
「うー、う……」
キキの目から、光が無くなっていく。穏やかなトロルの行動が、戦意喪失のきっかけになったようだ。キキの体から力が抜けていき、噛みついていた歯が離れた。
「――精霊たちは、争いの道具を隠した。風はひととき留まり、森の子らに安らぎを。慈しみぶかき慈母の大地は、森の子らを受け止める褥となり、木々は優しきその腕を広げ、夜の訪れを与える。森の子よ、眠れ――……」
耳の奥まで響いて来るような詠唱が、シオンの耳にも届いた。血と争いの臭いで昂ぶっていた体が落ち着き、頭が休息に冷えていく。キキはこてんと意識を失った。傷ついて呻いていた人間達も、気を失っていた。
「だいじょーぶ?」
「シュン……さん」
シオンはほっと息をついた。
長い木の杖を手にしたシュンが、四頭の犬達を伴って歩いてきた。
「んー……どういう状況か、よく分からないけれど……」
「オレも、あんまり……」
「なんかマズそうな状況だったから、鎮静魔法かけたけど……」
「助かりました」
シュンは一頭の犬の首輪から道具箱らしき物を外し、だるだるのズボンのポケットから赤いスカーフを取り出すと、代わりに首輪に巻いた。
「ルンルン、山小屋に走ってくれ。ふもとに搬送してもらわんと」
そう告げ、犬の背をぽんと叩くと、ルンルンはすぐさま駆け出した。それからシオン達のところに近づく。
「ありゃ……こいつは、りんごトロルだ」
「りんご……?」
「そう呼ばれて、ちょっと有名になったときもあったんだけどね」
りんごトロルは、キキを腕に抱いたままだ。
「こいつ、暴走したキキを止めてくれたんだ」
「こいつは人間が好きなんさ。人前にも姿を現わして、登山客や近くの村のモンから食べ物貰ったりしてね。悪さしないし、一緒に登山客と歩いたりして、共存出来てたんだな。特にりんごが好きで、馴染みの人間がよく持って来てやってたんだけど。ここらもダンジョンが増えてさ。オーガが棲みつくようになって、登山客が襲われてる事件もあったんだ。冒険者は来るけど、登山客は減ってね」
「助かるのか?」
「ん。こんぐらいなら、おらがなんとかするよ。トロルは首でもやられない限りは生命力が強いから、可哀相だけど後回しで大丈夫。刺さった武器は抜かないで」
シュンは話しながら、キキの具合を診てくれた。
「ん、顔が血だらけなのは、返り血みたいだ。外傷はないけど、脈拍が早いね。悪いものでも食べたかな。嘔吐はしてないようだけど。先に治癒しよう」
「出来るんですか?」
「んー、いちお、治療士だかんね」
「色々出来るんですね……」
「資格あると便利だかんね」
さすが羊亜人。魔力の高さに定評のある種族だけはある。知識欲が高い種族と言われ、魔術研究者も多い。
「リザードマンハーフだっけ。リザードマンは生命力高いからあんま心配しないで。この子、持病とかある?」
「あ……狂戦士症で……」
「ん。脈拍早いのはそれもあるかもね」
「あの、人間は?」
「ん、全員足が砕かれてるみたいだけど、命に別状はないかなって。とりあえず寝かせたし。血を流してる子だけ、止血してもらえるかい? 応急処置くらい出来る? 犬達の首輪に箱下げてっから」
のんびりとした口調は崩さず、シュンがてきぱきと指示をする。
「テキトーで大丈夫だよ。どうせ治すから」
犬達がシオンに近づいてきた。首に道具箱を下げている。急いで外して、中を開く。
「包帯と……あ、先に消毒か?」
「手伝おうか?」
荷物を持った透哉が歩いて来た。シオンも内心焦っていたのか、かなり近づいて来るまで気づかなかった。
「あ、透哉さん」
「こっちざわついてたから、ようやく見つけたよ。トロルに襲われたの?」
「全員寝てるんで、ちょっとよく分からないんですけど……多分、人間をやったのはキキかと……」
「それは……この後が色々と大変そうだね」
「はい……」
「後で考えよう。僕でも傷口を綺麗にして血を止めるくらいは出来るよ。そちらは?」
道具箱を手に取り、作業に入りながら透哉が尋ねる。状況を尋ねながらも手を止めないところは流石だ。
「シュンさんは治療士で、この森に詳しい方で……」
「毛利春慶です。シュンでいいです。別に治療士が生業ってわけじゃないんだけど、まあいちお。あなたは、魔道士っぽいけど」
「浅羽透哉と言います。治癒術は、少しならというところですが」
「浅羽……ん、あさば……? 聞いたことあるなぁ……。してもらえんなら傷口の消毒と、出来たら血を止めてもらえれば。あとはおらがなんとかするんで」
「ええ」
「あ、シオンくん、怪我人は動かさないように置いといてね。千切れた肉とか出来るだけここで戻すから」
「あ、はい」
「蛇とかいないか見ててくれっかな」
「はい」
話しながらもシュンは犬から外した救急箱から布を取り出し広げると、キキを草の上に寝かせ、つなぎを緩め、靴を脱がせた。衣服をめくり、手足、それから腹部などを確認していった。
「毒蛇に噛まれたとかなら、まあ足だと思うんだけど、違うぽいなぁ。つなぎの下にちゃんと色々着込んでるし。たしかにリザードマンだねえ、立派な鱗と尻尾だ。リザードマンは毒耐性が高いから、この山にいる毒蛇くらいなんともないはず……んん? あ、やっぱ毒かなぁ。お尻に赤い斑点が出来てる。何か服毒したかな。毒って種族によっても出る症状が違うからなぁ。嘔吐はなし、泡も噴いてない。発汗と瞳孔収縮があんね。このあたりの空気をとりあえず洗浄して……」
ブツブツとシュンが呟いているが、多分話かけられているわけじゃなく、独り言だろう。邪魔しないようにしようとシオンは思ったが、透哉もてきぱきと人間達の処置をしている。シオンの下手な血止めよりは、透哉に消毒まで任せたほうが良さそうだ。
「小野原くん、こっちも大丈夫だよ。魔法使うから」
「はい……」
「にしても、バキバキだなぁ。あ、骨がね。肉をズタズタにして、噛み千切ってる。食いついて振り回したってかんじかな。すごい歯の強さと顎の力だね」
透哉が妙に感心したように言う。
それをやったのが、モンスターじゃなくてキキというのが問題だ。
何も出来ることがなくなってしまった。まだ何の処置も受けていないのはトロルだけだが、トロルの処置なんてもっと出来そうにない。可哀相だが、そっとしておいた。
一体、この状況はどうしたんだろう。
人間達の傷口から見てもキキが襲ったのは間違いない。キキの顔は口を中心に血で汚れていた。
人間達が無事回復したら、当然キキが危害を加えたことは問題になるだろう。
シュンの話からすると、りんごトロルは人間を襲うことはなさそうだ。トロルが人間の足だけを噛み砕くということは考えられない。トロルならその太い腕で撲殺するだろうし。
(どう考えてもキキがやったんだろうけど……)
バーサークしたまま、人間に襲いかかったのだろうか? トロルは人間と一緒に行動していた? にしては、トロルは傷ついている。それも多くの武器で。これは、人間達にやられたんだろうか。
(毒って言ってたな……なんで毒なんて)
今更ぞっとした。
犬達が人間達の荷物らしきものを集めている。シオンもその手伝いをすることにした。
全然状況は分からないし、憶測でしかないが、もし、キキに毒を盛ったのが人間達なら、そのことは許せない。報いは受けているかもしれないが。
(そうだ)
シオンは人間達の持ち物を犬達と一緒に全て拾い集めた。とりたてて不審な物は見当たらなかったが、スマートフォンや携帯電話はひとまとめにし、没収しておくことにした。壊れてはいなかったが、ロックがかかっているのか中は見られなかった。
キキの治療をしていたシュンが、応急処置は出来たのか、傷ついたトロルの具合を見ていた。耐久力の高いトロルとはいえよく生きているくらいの怪我だ。特に顔面は血だらけで痛々しい。シオンも何度か寄主トロル討伐に加わったことがあるが、普通のトロルを倒したことはない。
(バーサークしたキキを、あいつが止めてくれたんだよな……)
流石のキキでも、人間を襲ってはいけないことくらい、分かっている。それを襲うくらいだから、相当な怒りだった筈だ。
何を恐れることもない激しい怒りは、バーサークしたキキの一番の武器になる。
(……そうだ。オレに怒ったくらいで、ここまでのことはしない。キキがこんなに怒ったのは、国重さんを傷つけられたときだった)
キキは、誰かを傷つけられて、人間達に怒った。
それは、このトロルだったのだろうか。
考えても分からないけれど、一つ分かるのは、このトロルのお陰で、キキは元に戻れたということだ。
シオンはキキの傍らに行き、ぐうぐうと寝息を立てている、いつも通りの顔を眺めた。顔は血まみれだが、苦しんでいる様子はなくてほっとした。
しかし、とんでもないプリンセスの姿だ。
「お前は、冒険者が向いてるよ」
そう言って、シオンはしゃがみ込み、キキの穏やかな寝顔を何度も確かめ、ほっと息をついた。