キキとトロル
――キキは、怒りん坊さんだねえ。
昔、おばあちゃんに言われたことがある。
今も頭に血が昇っていた。こうなるとおでこのあたりがやたら熱くなって、脳みそがグツグツと沸騰しているのかもしれない。
激しい怒りを感じたとき、キキはそうなってしまうのだと、祖父母から教えられた。
怒りで、遥か遠い野生を思い出してしまうらしい。まだリザードマンがただのモンスターだった時代の、ご先祖の血の記憶だ。
怒ったときのキキは、頭は悪くなるけど体はよく動く。怒り以外の感情がないので、心は痛みを感じない。ただ、本能のままに体が動く。なんとなく、解き放たれたような気もする。ただ獲物を捕食し、眠って、生きることだけに集中していた頃、ご先祖様達なりに大変だっただろうが、心は自由だったのかもしれない。
何も考えず、自分より背の高い草の中を、キキは闇雲に這った。
這って、這って、気付いたときには、随分遠くに来ていた。
「……グギャ」
人語を忘れた声を漏らし、キキはきょとんと目を見開き、顔を上げた。
怒りのあまり、少々狂戦士化していたようだ。
這っているうちに頭が冷え、自分が四足歩行できる生き物だったことを思い出し、立ち上がった。
たしか……シオンに腹を立て、激昂したような記憶がある。思い出すとムカムカしてきたので、詳細までは思い出さないようにした。
「……喉……渇いたよぉ……」
はへ、と舌を出し、キキは肩を落とした。
相当な速さで逃げたようで、喉がカラカラだ。
「……むむ! お水だ!」
水の流れる音が聴こえてきて、キキは耳を澄ませた。
「こっち!」
一人しかいないのに、ビッと指をさし、頭の上まで伸びた草をかき分ける。
「おっ、川だぁ!」
小さな川が流れていた。山中のダンジョンには夏になっても雪や氷が残っている場所がある。そこから雪解け水が流れ出し、小川を作ることは珍しくない。
キキは小川の傍にかがみ、獣のように遠慮なく直接顔をつけ、ごくごくと喉に流し込んだ。人間のお嬢様なら絶対にしないだろうが、キキはお嬢様には違いないがリザードマンだった。
「おー、冷たい」
文字通り天然水を堪能し、顔を上げたキキは、ふと透き通った水に映った自分の顔を見つめた。
昔はよく、こうして鏡を見ては、悲しい気持ちになった。
(……誰にも、似てないよぉ……)
かつて何度も思ったことだ。母親に似ていると、おじいちゃんがよく写真を見せてくれたけれど、リザードマンしか見慣れていなかった幼いキキには、写真の中で赤ん坊の自分を抱いて微笑む母親こそ異種族に見えた。
今では、母親似の姿だって可愛いと思っている。でも、みんなと同じリザードマンでいたかったと、何度も何度も思った。何万回も思った。
朝起きたら、リザードマンの子供になっていないだろうか。そう夢見た。
(でもあたしは、リザードマンのプリンセスだもん。みんなにちっとも似てなくたって、リザードマンだよ)
キキは水面に映った自分の顔を、手で払いのけた。
ぱしゃっと音がして、ゆらゆらと水面は揺らいだものの、また壊れない鏡に戻り、キキに現実を見せつける。
自分じゃろくに見えないけれど、背中は黄金の鱗に覆われ、小さいながらも尻尾が生えている。立派なリザードマンの証だ。美人リザードマンだった曾祖母(おじいちゃんのお母さんだ)にそっくりな鱗だと、おじいちゃんが言っていた。
キキは濡れた軍手を片方外し、袖をまくり上げた。肘の少し上に触れると、硬いが温かい鱗の感触がある。
この金色の鱗はリザードマンの中でも珍しい色で、とても綺麗だとおじいちゃん達は言ってくれるのだ。
でも、人間の子供達は「キモい」と言った。
キキの誇りを、軽い言葉で貶めた。
(……いかん……思い出すと殺意が……)
ふるふるとキキは頭を振り、ばしゃっと川の冷水に顔面をつけた。
根深い怒りは、キキの頭の中をずっと焼き続けている。いつだってチリチリとくすぶっているのだ。いつ爆発するかなんてわかんない。そうだ、なのに、シオンは無責任に、キキに学校へ行けなんて言った。最近のシオンは紅子やサクラの為になんでもやる気だから、それをキキにまで押し付けようとした。いくらシオンでも許せない。紅子とサクラのことだけ考えていればいいのに。やっぱり根はワーキャットだ。女好きなのかもしれない……。
そういえば、シオンとサクラって血は繋がってないんだ、と今更ながらに気付いた。血が繋がってないきょうだいは、別に結婚してもいいんだって、親戚のお姉ちゃんとそこんちの養子のお兄ちゃんが結婚したことがあるから、キキは知っている。
重度のシスコンだとは思っていたけど、シオンはサクラのことが好きだったのかもしれない。サクラが生きてたら、紅子とどっちが好きなんだろ……どうしよう、これ、深い問題かもしれない……。
しばらく息を止め、妄想にふけっていると、ふいに自分以外の気配を感じ、キキはぱっと顔を上げた。
「……うー……」
唸り声がする――どこか緊張感の無い声だったが、人間や亜人のものではない。
明らかにモンスターだ。獣ではなく、亜人タイプだと思われた。上手く言えないが、声の感じでなんとなく分かるだろ、とシオンに言われたことがある。たしかに、なんとなく分かる。声帯がまるで違うからだろうか。
(獣の唸りは野生丸出しの『音』で、亜人の唸りは『声』ってかんじだ)
と、前にシオンが下手くそながらに教えてくれたが、けっこう的を得ている。
「うー、うー」
声の雰囲気から言って、戦闘態勢ではなく、こちらに気付いていない。
キキは身を低くした。小さな体は見えづらく、体が柔らかく四肢の強靭なキキは這ったままでも瞬時に動き出せる。
そのままモンスターの姿を探す。
そして、すぐに見つかった。
(……ふーん……トロルか)
小川を挟んだ向こう側の森の中から、ぬっと姿を現わしたのは、二メートルを超す成人リザードマンよりも巨体だった。というか、横幅がある。横綱級の力士を更に二回りほど大きくしたようだ。
トロル。山中ではお馴染みのモンスターである。《鬼》や《食人鬼》などと呼ばれるオーガに似ているが、筋骨隆々としたオーガより、ずんぐりとした体型をしている。全身がサイやカバのような厚い脂肪に覆われているためだ。たるんだ皮膚も分厚く、皮に痛覚は無いらしい。
動きはオーガより緩慢だが、戦うとなると丈夫過ぎて中々骨が折れる。オーガほど獰猛ではなく、雑食で果実や樹の皮なども食するため人間を積極的に襲わない。オーガは積極的に人を襲うことが多いが、通常のトロルは穏やかな性質であるとも最近は言われている。
とはいえ、まったく襲ってこないわけでもなく、特に《寄主トロル》と呼ばれる茸に媒介にしトロルの胎内に侵入する寄生虫の宿主となったトロルは、打って変わって獰猛になり、オーガ並みに危険な存在だ。
(寄主トロルじゃなさそ)
緩慢なトロルと分かって、キキは寝そべったまま頬杖をつき、その様子を眺めた。顔までだるだるの顔は、ブルドッグに似ている。
トロルに遭遇したら、とっとと逃げたほうが早い、とシオンが言っていた。おじいちゃんからもそう習った。
動きは遅く、逃げる者を積極的に追わないからだ。
倒すとなるととにかく丈夫で、ダメージを与えるなら比較的脂肪の少ない首から上が定番だが、二メートル以上の巨体だし、首も分厚くたるんだ皮に覆われている。
蒼兵衛は首を狙った連続突きで寄主トロルをやすやす倒したとシオンに聞いた。変態剣士だとキキは思った。
寄主トロルを見かけたら、腕に自信のある冒険者は速やかに討伐せねばならない。が、今のキキはツナギの上からベルトで腰に下げた魔銃一つとサバイバルナイフしか持っていない。それに、あれはただのトロルだ。無理に戦う必要はない。
戦意がないトロルからは簡単に逃げられる。
だから、暇なのもあってしばらく様子を見ていた。
「うー……ううー……」
のんびりした声で、歌ってるみたいだとキキは思った。多分、水を飲みに来たのだろう。のそのそと川に近づいていく。その腕に、何か抱えていた。
(んー? 果物かなぁ……)
そんなものを腕に抱えたまま、水を飲もうとゆっくりと巨体をかがめるので、腕の中から果実がぽろぽろと零れ落ち、キキのいるほうまで流れてきた。
手を伸ばし、一個掴むと、りんごのようだった。ちゃんと育てられたものではないようで、形はいびつだった。りんごっぽい別の実かもしれないが、キキは果物には詳しくなかった。
りんごを落としたことも気にせず、のろまなトロルは水を飲み、腕の中のりんごを半分ほど失ったところで、また体を起こした。
そして森の中に戻るわけではなく、小川のふちをゆっくり歩き出した。
「ううー……うううー」
やっぱり歌うように声を上げている。
(おしゃべりなトロルなのかなぁ?)
キキが思っていると、気が付けば小川を挟んで三メートルも無い距離までトロルがやって来ていた。
しかも、目が合っていた。
りんごを腕に抱えたトロルが、伏せているキキをじーっと見つめている。キキも見つめ返してしまった。とはいえ、恐ろしさはない。この距離でものろまなトロルからキキは簡単に逃げられると思ったからだ。
(それに、寄主トロルじゃないもんね)
寄主トロルは見た目からしてもう病気なのが分かる。顔は腫れ、皮膚はぼろぼろ、口からよだれをだらだらと流し、目が濁っている。そして巨体で襲いかかって来る。その体に突進されれば人間や中型亜人は吹っ飛ばされて大怪我を負うし、振り回した腕が当たりでもすれば頭が潰れる。生きたまま獲物を捕食したというおぞましい話も聞いたことがあり、そのため普通のトロルまで激しく忌避されている。
しかしまあ、これはただのトロルだ。りんごを抱えた。
「うー、う」
トロルはキキに話しかけでもするかのように、声を上げた。敵意は少しも感じられなかった。腕の中からりんごを一つ掴もうとして、他のりんごを全部ばらまいた。
「あっ! あーあ……」
ドジなトロルに、キキは思わず声を上げた。
しかしトロルは気にせず、小川の中にバチャバチャと足を踏み入れた。
川を渡ってきそうなトロルに、さすがにキキも警戒し、四つん這いのまま身を起こした。
「グガァ……」
いつでも牽制の《轟声》を上げられるよう、息を吸い込み、ガチガチと歯を鳴らす。
「うー、うー、う」
小さな獣の唸りも気に留めず、トロルはキキに近づきながら、りんごを差し出していた。
「ううー」
「……ガ?」
キキは顔をしかめた。
曲がりなりにもリザードマン、しかもキキは見た目に反して野生の本能が強い。相手に敵意があるかどうかくらい、殺気で分かる。
「……グガ」
「うー、う」
まるで会話のようだが、全然通じていない。しょせん種族が違う。ただなんとなく、互いの敵意を確かめているだけだ。というより、トロルに警戒心がまったくない。
「……なんだ? コイツ……」
キキは二本の足で立ち上がった。低い位置からでは様子が分かりづらい。
首を傾げるキキに、りんごを差し出し、トロルは相変わらずうーうー唸っている。まさか子供のトロルと思われているわけではないだろうし……。
「もしかしてアンタ、人間が怖くないの? あたしはリザードマンだけど……」
「うーうー」
りんごを受け取りながら、キキが尋ねる。言葉が通じたかのように、トロルが声を上げる。
育て方次第で人に慣れるモンスターもいるが、ほとんどが魔獣種で、亜人種ではそういう話をあまり聞いたことがない。少なくともキキは詳しくない。童話でならあるけど。
「変わった奴。アンタもトロルの中じゃ変な奴なんだ?」
小さなりんごを手の中で転がしながら、キキはトロルの大きな目を見つめた。
「うー」
「よし、お前はとろお……トロルのとろおだ!」
「うーうー、うー」
トロルはキキの話を聞いていないのか、今頃になって他のりんごがなくなっていることに気付き、きょろきょろと辺りを見回していた。
「……トロい……。それじゃトロいトロルのとろおだよ……?」
はぁ、とキキは息をつき、小川の中にじゃぶじゃぶと入って、りんごを拾い上げてやった。
それを見て、トロルも同じように小川の中でりんごを探し始めた。
「そうそう。やれば出来るじゃん」
「うー」
キキは《とろお》と名付けたトロルに、うんうんと頷いて見せた。
「――キキ! キキ!」
シオンは声を張り上げ、キキの名を呼んだ。
「どこだ! キキ!」
手にしたダガーで邪魔な草を切り裂きながら、シオンは草むらを駆けた。
こういうとき、ワーウルフでないことが恨めしい。せめて全頭のワーキャットなら、もっと大きな声が出るし、鼻も耳も効くのに。
「キキ!」
キキは狂戦士症だ。度を越えた怒りで我を失う。そうなると獣と同じで、どんな行動をとるか分からない。多分、自分でも訳が分からないままに、駆けて行ってしまったに違いない。行動が読めないぶん、探すのは困難だった。
シオンは足を止め、はぁ、と息をついた。
息が続く限り声を上げ走り回ったが、キキの姿は見つからない。
GPSで大体の場所は分かったが、山の中で詳細な居場所までは分からない。ましてキキは動き回っている。
(どうしよう……)
もうとっくに置いてきてしまったが、透哉からキキ探しのアドバイスを貰ったことを思い出す。
――彼女は、ただ去ったんじゃなく、「逃げた」んだよ。君から。それを頭に置いて、捜してごらん。
(逃げた……。逃げたと去ったじゃ違うのか……?)
透哉の物言いは思わせぶりで、けれど妙に頭の隅に残る。
去る。逃げる。逃げる、という言葉のほうが、切迫感がある。なりふり構わず、その場を離れるというイメージだ。
(そうか。今のキキは、狂乱してる。野生のリザードマンと同じなんだ)
あのときのキキは何も考えず、本能のまま逃げ出した。
リザードマンの獣堕ちには滅多に遭遇しない。なので、実際に逃げて行くところを見たことはない。強モンスターだが、逃げる状況があるとしたら、やはり手負いであったりするときだろう。手負いのモンスターの行動は、大体同じだ。
(野生のリザードマンが、逃げたんだったら……)
シオンは草むらから、森の中に入った。木々に囲まれ、道も無い鬱蒼とした森の中は、いきなり夜になったようだ。
こういう森ではあっという間に方向感覚を失い、迷子になる。
(いつものキキなら入らないだろうけど……今のキキはモンスターだから、迷子になるなんて気にもしないだろう。俺がモンスターなら、人が入って来ない場所にこそ逃げ込むだろうな)
ましてや、キキはリザードマンだ。かつてリザードマンは深い森の奥に住んでいたという。闇深い森、それが彼女の先祖の故郷だ。
ダガーを片手に握り締め、シオンは森の中に足を踏み入れた。
「とろおは、りんご好きなの?」
「う」
岩の上に並んで腰かけ、キキはトロルのとろおに貰ったりんごを齧った。酸っぱくて不味かったが、キキはそれほど味覚が優れていなかったので、平気だった。亜人は人間ほど細かい味の違いが分からないのだ。
とろおとは、多分言葉は通じていないが、何を言っても返事をするので、会話をしている気になってしまう。
二メートルを超え、相撲取りのような肉体のトロルと、並んで座ることなんてそうないだろう。腕の太さはキキの頭ほどもある。力いっぱい殴られたら、キキの頭は無くなるだろう。胴体にめり込んで。
だが、とろおにはまるで殺気が無い。キキがりんごを芯まで噛み砕き丸々一つ食べ終わると、もう一つ差し出して来る。せっかくの好意なのでまたかぶりつきながら、キキは完全に安心していた。
「とろおは、何してたの? りんご、あたしが食べちゃっていいの? とろおのご飯でしょ?」
「うー」
「分からん……。まあいいや」
いかにとろおが良いトロルでも、意思疎通は出来ない。
「仲間はいんの? 仲間もとろおみたいにトロいの?」
「うー」
「……んん? トロルって、群れを作らないんだっけ? オーガは群れてたような気もするな……んー、分からん……シオンならモンスターのこと詳しいのにな……」
シオンの名を自然に口にして、キキははっとした。
「あ、あの男は許さん! キキちゃんは許してないんだからね!」
腕をぶんぶんと振り上げると、とろおが不思議そうにキキを見つめた。
「この怒り、とろおも分かるの!?」
「ううー」
「ありがとう、とろお……」
多分分かっていないとろおに、キキは深々と頭を下げた。
項垂れたまま、はー、と息をつく。
「とろおでさえこのあたしの複雑な気持ちを分かってくれるのになー……。シオンのことは、仲間だと思っていたのにさ……」
「う」
身も蓋もない言い方をすると、『友達いなくて、学校行きたくない仲間』だ。
でもシオンは、少し変わった。変わっていっている。
多分、好きな女(それも二人もいる)のために頑張ってるからだ。裏切り者。
「ねー、とろお。キキちゃんも、好きな男でも出来たら、変わりたくなんのかなぁ?」
「ううー」
「とろおは彼女いんの? ていうかトロルってオスメスいるの?」
「うう」
「でも、トロルじゃ生きにくい世の中だよね……。シオンならトロル見つけたらすぐ斬りかかりそう……アイツ、モンスターの駆除好きだから……あっ!」
キキはハッとした。
(とろお、見つかったらシオンに殺される……!)
シオンは絶対にキキを捜しているだろう。そのシオンがキキを見つけ出したら、一緒にいるとろおも当然見つかる。トロルはそれほど狂暴ではないが、別に保護対象というわけでもないので、人の脅威となる前に、見つけたら倒す冒険者はいる。
モンスターとはいえあまりに一方的な殺戮は禁じらているが、大型モンスターにはあまり適用されない。トロルも、寄主トロルのこともあり、特に咎められることはない。
「とろお、早く森に帰ったほうがいいよ! シオンは小さいけどすごく強いから……」
慌てて立ち上がり、とろおの腕をぐいぐいと引っ張る。
とろおはきょとんとしている。
「や、ホントに! 倒すとなったら鬼みたいな奴だから! 急所すぐいくから! ズバッと! 小さいけど、とろおの頭にくらいぴょんっと跳び乗るんだよ!」
「うー、う」
「くそっ、びくともしねえ……!」
とろお自身が動いてくれないとまったく動かない。茶色くガサガサした象のような分厚い肌を、キキはばしばしと叩いた。
「ったく、トロいなほんと……」
大きく息をつき、キキは諦めた。とろおがりんごを差し出す。
「や、もういいよ。……とろおは、なんでそんなにりんご食わせようとすんの? 変なトロル……って言うほど、トロルのこと知らないけど……」
実は他種族にりんごを食わせたがる習性でもあるのかもしれない。それに、人間とモンスターが友達になるような童話もあるし。『泣いた赤オーガ』とか。当然作り話だと思っていたが、実話なのかもしれない。
「……モンスター、奥が深いな……。シオンに話したら興味持つかな……?」
けっこうモンスターの話するの好きだからなぁ、とキキは思った。うちで飼ってるポチとコロもそういやシオンが助けたんだった。最近は、即殺すってこともないかな? 話くらいは聞いてくれるかもしれない……キキがちゃんと話せば。
はぁぁ、とキキは息をついた。
今はシオンの顔を思い浮かべるだけで腹が立って、バーサークしそうだ。
「……ちゃんと話したくないよぉ……」
う、ととろおがブルドックのような顔を向け、りんごを差し出す。
もう要らんって言ってるのに……と思いながら、キキはそのりんごを受け取り、がぶっと噛みついた。
「置いて行かれてしまったなぁ……」
独りごち、透哉はのんびりと川沿いを歩いた。シオンがさっさと駆け出してしまったので、透哉は違う場所を捜索していた。
たぶん、シオンは闇雲にキキが消えた草むらの中を捜し、そのうちに頭を冷やして透哉のアドバイスを思い出すだろう。冒険慣れした彼なら深い森の闇の中でも迷ったりはしない筈だが、透哉はそうではない。自分まで迷って二次災害を起こし、彼に迷惑をかけるわけには行かない。
それに、どんな獣でも喉は乾く。水は必要だ。だから水場を捜すことにした。迷ったとしても、川はいずれふもとに流れる。
(ここらの山も、ずいぶんと魔素が濃い。ダンジョンも多いんだろうな)
それらしい洞穴も幾つか見かけた。中にはダンジョン化し、深くなっているものもあるだろう。
ダンジョンには魔素も魔物も集まるが、人もまた惹かれ集まる。
多くの者がダンジョンに惹かれ、命を落としたり、奪ったりもする。
(小野原くんに任せて良かった)
透哉は心の中で呟いた。
ずいぶん早く、紅子は魔石を回収出来た。元々、あの魔石と紅子は惹き合う関係だ。だから冒険をしていればいずれは彼女の許に戻ってくると思ってはいた。それにしても、こんなに早く一かけらを回収出来た。
昔、祖父に聞いたことがある。ときに、いやに『当てる』者がいると。人も、縁も、トラブルも、良いことも悪いことも、妙に引き当ててしまう者だ。そういう者は得てして行動力があり、人が良く、慕われる。
(たぶん、小野原くんはそうなんだろうな)
分からなくもない。彼はとても熱心で、真っ直ぐで、裏表が無いから。最初に会ったときから、ああ紅子は彼が好きなんだなと分かった。あの子は性根の悪い者には近づかないから。たぶん、彼の仲間たちも。
(彼がいれば、あの子は人間らしくいられるだろう。もう、俺がいなくても……)
そんなことを思ったとき、背筋に悪寒が走った。肌がざわつく感覚は、魔道士にとっては気の所為ではない。
(……ああ、この森の奥だ)
川とは反対側に、木々が生い茂っている。奥に進めば暗い森に足を踏み入れることになるだろう。そんな愚行はしたくない。
(嫌な感じだな。一度紅子を連れて来てもいいかもしれない)
この山にはダンジョンが多い。そのダンジョンの奥深くまで進むと、別の山のダンジョンに繋がっているなんてこともある。きな臭い場所かどうか、紅子なら連れて来るだけで勘づくだろう。
紅子には悪いが、あの子こそが魔石を呼ぶのだ。千葉でそうだったように。
森には足を踏み入れることなく、透哉は川沿いを歩き続けた。
自分は強くない。己が持つ力以上のことをして、あのときのような目には遭いたくはない。色々なものを失った、あの日のような。
森を探索していると、いくつかのダンジョンを見つけて、シオンはキキのことを少し忘れて感心した。
(このあたり、あまり来ないけど、天然のダンジョンが多いんだな。今度、みんなで来てみよう)
有名なダンジョンの名前は聞かないが、中には深そうなダンジョンもある。当然冒険者が足を踏み入れただろう痕跡も多くあった。
冒険者に探索されていないダンジョンを探すほうが難しい。が、地震や地崩れでダンジョンの形状はけっこう変わる。だから、常に日本のどこかで新しいダンジョンが生まれていると言われる。日本はダンジョン大国であり、地震大国でもある。それに大型モンスターの移動なんかでも別のダンジョンと繋がったりするのだ。
(けっこう潜ってみたいとこあるな……あのへんとか、人が入ってなさそうだ)
天然のダンジョンなので、入り口が異様に狭いところもあり、大人や体格の良い亜人では入れない場所は放置されがちだ。成人でも比較的体の小さいワーキャットやワーラビット、もしくはキキのような子供なら探索出来るだろう。
うずうずしたが、今はキキを捜さなくてはならない。周囲を警戒しながら、音を立てず、ゆっくりと湿った森の中を進んでいく。昼なのに、夜のように暗い。
狭いダンジョンの入り口らしき場所に、小さな獣の巣穴がいくつか空いているのが目に入った。そこにさっと隠れた獣の姿をシオンははっきりと捉えた。
それは、愛くるしい小さな鼠のぬいぐるみに見えた。大型のハムスターくらいのサイズで、毛がふわふわとしたぬいぐるみが、洋服を着て、後ろ足で立っている。絵本のイラストからそのまま抜き出したようだった。桜が子供の頃、ああいう可愛い動物の人形を集めてたなぁと思い出す。なんとかファミリーとかいう。なんだっけ。
その人形に、憑依霊がとりつき動いているのだろう。愛らしい人形にとり憑く霊は、幼い子供の霊が多いと灰児に聴いたことがある。
害は無いだろうし、そっとしておこうと思ったら、巣穴から鼠の人形がちらっと顔を覗かせた。鼻をひくつかせ、髭がぴょこぴょこと動いている。きょと、とシオンを見つめ、パチパチとまばたきをした。人形が出来る動きではないとすぐに気づいた。
「……っ!」
声を上げかけて、慌てて息を呑む。
(わ……ワーラットだ!)
間違いない、もっとも小型の亜人種だと言われている、鼠の獣人――鼠亜人だ。
小さいとは言っても人間ほどのサイズもあるワーキャットやワーラビットとは違い、ワーラットは小型のまま今も野生に生きている亜人だ。言語は無く、知性は獣並みと言われる。大きめのハムスターが立ち上がったような姿で、手のひらに乗る程度のサイズしかない。純粋な妖精種ほどに稀少だと言われるが、実は世界中に存在しているという。
(すごい……ワーラットが見られるなんて……)
素直に感動した。そのくらい、珍しい生き物だ。
非常に警戒心が強く、魔素深い森に棲み、上手に人や他のモンスターの目から逃れて生息している。その神秘的な生態とマスコットのような姿から、全世界で有名なテーマパークのキャラクターにもなっている。
かつてはもっと人間の近くで暮らしていたらしいが、愛玩用として乱獲されずいぶん数が減ってしまい、近代では世界的にも重要な保護対象となっている。
かつては日本でも人と密接な関係にある亜人十二種族の中に数えていたが、人と共存することなく、言語も解さないため、ワーラットは十二種族から外され、代わりにメロウから人に寄り添い進化したマーマンたちが海から陸に上がってきたことで、彼らが十二種族となった。ワーラットが人と暮らす進化を遂げていたら、十三種族になっていただろう。
じっと巣穴を見ていると、もう逃げ去ったかと思ったワーラットが、ふと顔を覗かせていた。一見したらただの野生のネズミなのだが、ワーラットの指の数はネズミより多い。巣穴にかけた小さな指は、五本ある。ネズミは四本だ。鼻をひくひくさせて、シオンの様子を伺っている。好奇心があるのは、若い個体だからだろう。
(こんなところでワーラットを見るなんて……!)
いつになく興奮したが、決して音は立てないよう、その場にとどまる。
(もっと良く見たいけど……驚かせたら可哀相だな)
亜人種の中に今も数えられているのは、彼らが衣服を身に着けるからだ。草を編んだり、時には人が捨てて行ったり置いていった布を調達して、人を真似るように、ズボンやスカートのような形状のものを上手く作って、身に着けているからだ。
シオンを見つめているワーラットも、どこかで拾ったのだろう布をズボンの形にして履き、チョッキを着て、頭にはちょこんと帽子までかぶっている。見様見真似で覚えたのか、彼らの間に製法が伝わっているのか不思議だ。
(……なんか、可愛いなぁ……)
可愛いものが好きな紅子や桜なら、すごく喜ぶだろう。シオンでさえ、可愛いと思ってしまったのだから。
(そういや、サクラも見たことないんじゃないか? 見たら絶対話しただろうし……)
冒険者の間では、森の中で独りでワーラットに出会った者は、ツキに恵まれるというジンクスがある。そのくらい、滅多に見られない存在なのだ。
(この森には、ワーラットがいるんだ……)
猫と鼠が見つめ合っているというのも、おかしな光景だ。どことなく好奇心を持って自分を見つめてくれるワーラットに、シオンは好感を持って、少し微笑んだ。が、次の瞬間には《唸り声》と呼ばれる獣の唸り声を上げた。
ウウウ、と若い獣が放つ警戒の唸りを敏感に察し、愛らしいワーラットはさっと巣穴に逃げて行った。
せっかく敵意なくシオンに興味を示してくれたのに、胸が傷んだが、
(このほうが、いいよな)
そう思って、シオンはその場を後にした。あの好奇心旺盛なあのワーラットが、同じように誰かの目の前に姿を現わし、身勝手な者たちにこの森が荒らされるのは嫌だった。
このことは一生、自分の胸の中にしまっておこうと思った。もしかしたら、そうやってみんな、出会ったことを言わないだけかもしれないな、とも。
もし幸運が得られたのなら、すぐにキキが見つかればいいのだが。それから、キキとちゃんと話が出来るといいけど。
なんだかんだ言っても、キキとは一緒にいる時間が一番長い。ほぼ毎日シオンの家に遊びに来て、平日のダンジョンでも大抵一緒だ。商店街を歩いていると兄妹に間違えられることもしばしばだ。
あの馬鹿さとワガママさと親しさから、キキを適当に扱っている部分は……多分大いにある。でも、冒険のときはそれなりに頼りにするようになった。さっきみたいに入り口の小さいダンジョンでは、キキは誰よりも活躍する。戦闘能力も高い。いつの間にか、キキの能力を重宝していた。頼れる仲間だと思うようになっていた。
学校のことを話したとき、あんなに怒るとは思わなかった。いつも子供でワガママで煩い奴だとばかり思って、キキの本当の傷のことを、ちゃんと考えたことなんてなかった。
そうだ。キキは元気だが、意地っ張りだ。今も、心の中には深い傷を負っていて、それを表に出したくないだけだ。
人間の中で馴染めなかった苦しみは、シオンだってよく知っているのに。
(キキの話を真面目に聞いてこなかったオレが悪かったんだ……ちゃんと話して、謝ろう)
透哉に諭されたことや、ワーラットに優しく出来なかったことで、シオンはせめてキキには前より優しくしてやろうと、そう思った。