桜
いつだって、大丈夫よ、と言うのが、彼女の口癖だった。
確かに、彼女にとっては、どんなことも大丈夫だったのだろう。
嫌な空気の漂うダンジョンも、手強く恐ろしいモンスターも、彼女は何一つ恐れていなかった。
大丈夫よ、とシオンにはことさら、そう言った。
それは彼女の、強い使命感からきたものだ。血の繋がらない亜人の弟を、自分が守ってやらなければと、彼女は自らも幼いときに、自分に誓いを立てたのだ。
彼女は、ずっと強かった。
でも、弱いところも、シオンは知っていた。
生まれた場所を故郷というのなら、その記憶は無い。
だがそれを忘れがたい、懐かしい場所のことを言うのなら、シオンの故郷とは、家族と過ごしたあの家のことだ。
古ぼけた一軒家ばかりが並ぶ住宅街に、ひときわ古い和風の家屋があった。
それが、シオンが育った小野原の家だ。
築三十年という歴史を持った家は、驚くほど安く手に入れられたが、そのぶんボロボロだった。何年も手入れをされず、放置されていた廃屋を、近くのアパートに暮らしながら、父は毎日通って、自分の手で少しずつ直した。
人が住めるくらいになると、一家は引っ越した。
どうしても庭のある一軒家に住みたかったのだと、父は言っていた。庭のある家で、子育てをしたかったのだと。
せっかく息子がいるんだから、小さな庭でもあれば楽しいだろう、優しくロマンチストな父はそう考えたが、現実の子育ては、そんな夢をあっさりぶち壊した。
ワーキャットの男の子は、幼児であっても足腰が強く、わけも分からず人間の姉にじゃれつき、引っかいたり嚙んだりして、泣かせた。
庭を駆け回り、父が丹精込めて育てた花を踏み荒らし、土を掘り返したり、虫を咥えて家に戻ってくる。
人間社会で生きるワーキャットの親は、わが子が人間と一緒に生きられるよう、赤子のうちからかなり厳しくしつける。幼児期に、生まれ持った野生を殺してしまうのだ。
が、人間の父は、かえってのびのびと育て過ぎてしまった。
紫苑と名づけた男の子は、兄弟のワーキャットにそうするように、人間の子供である姉に、本能のままじゃれつき、鋭い爪で背中に大きな傷を与えてしまった。
耳と尻尾以外はほとんど人間だからと、娘のときと同じように考えた、父親の甘さだった。
人間に似ていても、ワーキャットの爪は硬く頑丈で、子供であっても専用の爪きりを使って、まめに手入れをしなければ、すぐに鋭く伸びてしまう。ワーキャットの親ならそれを知っているが、あまりにも人間の子供のようだったので、父は自分の知っている知識で育てようとしてしまった。男親のおおらかさもあっただろう。
可哀相な姉の背中には、のちのちまでうっすらと赤く爪の痕が残ってしまった。
男一人で忙しく二人の子育てをした時間は、毎日が嵐、というのさえ生ぬるい日々だったというのに、「あとから思い返すと、本当にかけがえのない素晴らしい日々だったとしか、思えないんだね。そんなものだよ」と父は目を細めた。
小学生のとき、『自分の小さいころ』をテーマに、家族に話を訊いて作文を書きなさいという宿題を持ち帰ったシオンに、父はそんなふうに、にこにこと話をした。
庭を眺められる雰囲気の良い縁側があり、夏にはそこに風鈴が飾られ、「ここに並んでスイカが食べたかったんだよ。家族でね」と父は言いながら、二人で並んで、あまり甘くないスイカを齧った。
隣の家の庭には、秋にはキンモクセイが咲き、強い芳香が鼻の良いシオンを辟易させた。
自分の家の庭には、父が好きな紫苑の花がいっぱいに咲く。自分の名前の由来であろうその花を父が植えていることが、嬉しくもあったが、気恥ずかしくもあった。
庭付きの家も、紫苑の花も、父が本当に自分を愛してくれようとしたのだと、子供心にも、痛いほどに分かった。
父の竜胆は、子供のときから冒険者になるのが夢だったという。
鍛錬し、勉強し、冒険者になると、叶えた夢は生活を支える糧に変わった。
頼りになる仲間とともに、さまざまなダンジョンを探索した。パーティーには人間も亜人もいたが、みんな気の良い、頼もしい仲間だった。
結婚し、子が出来ても、冒険にのめり込んだ。それは楽しさからではなく、家族を守るための手段になっていた。妻も冒険者で、結婚前は気の合う夫婦で、腕の立つ女性のようだった。慣れない育児に疲れたという理由で、夫からも心を離し、娘を置いて出て行った。
共に生きてきた相棒を失った。それでも父は冒険を辞めなかった。どのみち生活費は必要なのだ。九州に住む老いた両親に娘を預け、自分のために、金のために、娘のために、ダンジョンに潜った。
それほど情熱をかけた父の冒険は、唐突に終わった。怪我をしたわけでも、病気になったわけでもない。
あるダンジョンで亜人の子を拾った父は、その子を連れ、両親と娘の住む故郷に顔を出すと、「もう充分に金は貯まったから」と両親に告げた。そして、預けっぱなしだった幼い娘と、息子にすると言った亜人の赤子とともに、また関東に戻った。
両親はやんわりと、こっちじゃ亜人の子は向こうほど珍しくないから、男手だけで育てるよりはいっそ戻ってきたらどうか、と息子に勧めたが、彼は自分だけで育てると、がんとして聞かなかった。
自分で買って出た苦労のぶん、子供が無事とはいえないまでもなんとか成長していく様は、竜胆にとって感動的という言葉さえも陳腐に思えるほどだった。
昼夜問わない赤子の泣き声に眠れない日々も、背中に怪我を負った娘と、自分のしたことも分からず暴れる息子を、前と後ろに抱えて夜中病院へ走ったことも、病気になった息子をつい獣医に連れて行ってしまい追い返されたことも、正直辛く、何度もくじけかけたが、あとになれば不思議と良い思い出ばかりになった。
さまざまなクエストをこなしてきた青春時代には、こんな輝くような時はもう一生訪れないだろうと思っていた。若く逞しく、エネルギーに溢れ、それに相応しく充足した時を過ごした。
あの日々を超えるものなんてないと、そう思っていたのに、そんなものをあっさり吹き飛ばすような怒涛の毎日は、どんなダンジョンに潜るより大変だった。
しかし、冒険では見つけられない宝を、彼はたしかに見つけ、はぐくんだ。
彼の宝とは結局、子供たちであり、家族だった。
亜人の子育ては、父一人で奮闘したわけではない。
いささか甘い父に代わって、野生的な弟を制したのは、姉だった。
姉は当初、力と運動能力では劣ったが、人間らしく知恵を付けるのは早かった。
あらゆる手段を使って、獣のような弟を叩きのめし、痛めつけ、荒っぽい姉とのコミュニケーションの中で、シオンも痛みと加減を覚えていった。
人間にやってはいけないこと、嫌がることや、怒られること、そして自身も人間らしい振る舞いが出来るようにと、たった二つ上の姉との本気の遊びとケンカの中で、厳しく教えられていった。
姉でありながら、兄のようでもあり、母のようでもあった。
そして、姉の荒々しい男勝りな性格は、元々の性質もあったかもしれないが、半分は幼少期にシオンが作ってしまったようなものだ。
やがて弟が人を傷付けるどころか、人の中でさえやや内向的な少年に育っても、彼女はますます豪胆に、逞しく育った。
穏やかな父と、大人しい弟にとって、やかましく元気な姉の存在は、彼女にとって彼らがそうであるように、いつもそこにあって当たり前のものだった。彼女の輝くような生命力が、そう簡単に失われるなんて、考えられるわけもなかった。
「ねえ、いいもの見せたげる」
と、彼女が耳打ちした。
「きっと、シオンも欲しいもの」
縁側で、何をするでもなく庭を眺めていたシオンの隣に、桜は寄り添うようにして座った。
姉弟なのだから、肩が触れ合うほど近くに居ても、不自然というほどではない。
だが、いくら仲が良くても、血の繋がらない姉弟でもある。
姉の桜は高校に入ったばかりで、シオンは中学二年になっていた。
この年頃でこうもベタベタしていては、いくら優しくておおらかな父も、心配するのではないか。シオンはひそかに思うようになっていた。
キャミソールから覗く桜の白い肩が、Tシャツ越しに自分の肩に触れるのを、避けたと思われないよう、自然な動作でそっと離した。
薄着の姉の背中に、うっすらと赤い傷痕が見える。
右肩から左下にまで向かって、斜めに裂かれた痕。
自分でも覚えていない赤ん坊のころに、爪で傷付けてしまったのだと聞いた。
近所にヒーラーはおらず、普通の医者に診せて縫ってもらったが、痕が残ってしまった。いまからでも腕の良いヒーラーに診てもらえば、治るだろうが、彼女は治すつもりはないようだった。
その傷を見るのが、シオンには辛かった。
けれど桜は、「子供なんてそんなもんよ」と、あっけらかんと言った。
「あたしだって、アンタの頭、タンコブでボコボコにしたしね」と。
だから桜は傷を少しも隠さない。シオンが付けた傷を。
「……なんだよ、いいものって」
一応そう答えると、その反応がいまいち面白くないのか、桜は眉をしかめた。
「なんか、メンドくさそうね?」
「そんなことないけど」
実際のところ、まったく興味が無いというわけではない。しかし、とても興味があるというわけでもない。ただ、姉は何かにつけてもったいぶるところがある。それにいつも付き合っていると、いい加減反応も冷めるというものだ。
「あんた、最近そっけないわね。泣きべそかいてお姉ちゃんのあとばっかついてきてたのに」
そしてすぐに昔の話を持ち出す。
幼いころの自分が、臆病で泣き虫だったことは否定しない。
近所の悪ガキに亜人であることをからわれ、尻尾を引っ張られて泣かされ、怒った桜が悪ガキを追いかけ回すうちに、結局一番のガキ大将になっていた。
いつしか、桜を恐れてシオンを苛める子供は、近所のどこにもいなくなった。
そんなふうに守ってもらっていたのも、事実だし感謝している。が、同時に一番小突き回して泣かせていたのも、彼女だったのだが。
「別に、そっけなくねーよ」
「そうかしら」
姉が眉間に深く皺を入れる。美人と言っていい顔立ちなのに、どうしてこう恐ろしい顔をするのだろう。シオンは小さくため息をついた。
「もったいつけるなよ。何がいいものかも分かんねーのに、どう反応すりゃいいんだよ」
「手ぇ上げて、すごく見たいですって言いなさいよ」
「言うか」
呆れるシオンに、桜は大げさにふうと息を吐き出してみせた。
「あんたねー。最近、暗いわよ? 毎日毎日、庭ばっか見て。背中からものすごい老人臭してたけど」
「別に庭ばっか見てるわけでも……ヒマなんだからそれくらいやれって、掃除も洗濯も買出しもゴミ出しもサクラが当番全部押し付けるから、けっこう忙しいけど」
「うるさいわね。事実でしょ。学校行ってないんだから、毎日ヒマでしょ。それくらいやんなさいよ。ご飯は作ってあげてるでしょ」
「そうだな。焼いたやつは焦げてるし、煮たやつは半生だし、米は硬いけど」
「あんたを焼いてやろうか」
物騒なことを言う。冗談ではなく、彼女は多少だが魔力がある。本当にやりかねない破天荒さもある。
しかし焼かれるのではなく、両頬をぎゅっとつねられた。
「……イテーんだけど」
「顔が暗いから、思考も暗くなるし、陰険な物言いをするのよ」
「イテテテテ」
きゅっとつねるくらいなら可愛いが、加減を知らない姉は、頬の肉を思いきり掴んでひねり上げてくる。痛みを訴えるかのように、尻尾がバタンバタンと暴れる。
「頬、えぐれる……」
「大げさねー」
けらけらと笑い、相変わらず弱虫だと言いたげに、姉が笑う。離してもらった頬が、信じられないくらい熱く火照っていた。全然大げさじゃないのだが。
「……別に、陰険な物言いでもねーだろ。サクラのメシが不味いのは事実……イテテテテ」
やっと解放された頬を、今度こそ本当にねじ切られるかというほど、つねられた。
桜が得意とする魔法は、攻撃魔法でも治癒魔法でもなく、肉体強化魔法だ。
本人いわく、魔力量はバリバリのソーサラーでやれるほどではないらしいが、肉体を強化する程度なら、それほどの魔力を要しない。むしろ、魔力で底上げした能力を、どう使いこなすかが重要だ。
魔力と、そのコントロールと、運動神経と、剣の腕。
彼女はかなり以前から、自分の特性を見極め、必要なスキルを絞って修練に修練を重ねた。才能だけでなく、努力も集中もすさまじい。
ソーサラーでもファイターでもない、魔法戦士になれる類稀な才能を持ち、またそれを、正しく鍛え上げている。
そんな彼女が、本気で肉体強化をした指先なら、柔らかい頬くらい本当に抉り取ることが出来るだろう。
そんなことを想像してぞっとしたシオンを、桜は落ち込んでいると誤解したようだった。
「ほらほら、また元気無い顔して。ごめん、ごめん。あたしが学校のことなんか言ったから、イジメられたこと思い出しちゃったね。だからイジメっ子なんか、お姉ちゃんがぶち殺してあげるって言ってんのに」
「それはちょっと……つーか頬、離して」
離してくれれば、すぐにでも元気になるだろう。
「あ、ごめん。赤くなっちゃったね」
と桜は笑って言ったが、本当は赤を通り越して紫色になっていた。
「なんか、すさまじく痛いんだけど……オレ、怪我してないか?」
「き、気のせいでしょ。やだ、大げさね。それより、いいもの見たい?」
「だから、なに?」
見せたいんだろ、と思いつつ、頬が無くなっては嫌なので、口にしなかった。
しかしまだ不満げなので、シオンは仕方なく手を上げた。
「見たい」
「いい子ね。あのね、これよ」
彼女が言い、誇らしげにシオンに見せたもの。
それは、一枚のカードだった。真新しく、ピカピカと輝いている。
「これって、冒険者証?」
シオンも見たことはなかったが、それが冒険者が持つ身分証だということはすぐに分かった。
「あたしの。へへ、先に取っちゃった。見たいでしょ? 見ていいよ」
と言われ、見てほしそうだったので、手に取ってシオンはそれを眺めた。
「運転免許みたいだな」
「同じよ。免許証だもん」
彼女の顔写真。彼女の名前。レベルはまだ1。クラスはやはり、ルーンファイターだ。
ルーンファイターは、他者には敬遠されがちなクラスである。
そもそも武器と魔法が使えるのなら、ファイターかソーサラー、得意なほうで登録すれば良い。だが、そうするとファイターの数が多過ぎる。ファイターの中から新しくクラスを作れないかということで、出来たクラスだ。
当然、資格もテストも無い。大抵は、ちょっと魔法が使えるファイターだったり、ちょっと剣が使えるソーサラーだったりする。
他のクラスと同様に自己申告で登録出来るが、明確な基準が無いぶん、武器も魔法も使えます、と胸を張って名乗るのは、なかなか勇気がいる。
自己顕示欲の強さが試されるクラスであり、そこを乗り越えてルーンファイターを名乗る奴は、全員ではないが、ちょっと痛い、と言われたりもする。
桜は昔から、ルーンファイターになると言っていた。
実際、それだけの力もあるのだから、問題は無いだろうが。
むしろ問題は、別の部分にある。
間違いなく、彼女は冒険者になったようだが、そんな彼女にシオンは、「おめでとう」では無く、一言こう返した。
「バカ」
「言うと思った」
彼女は悪びれた様子も無く、シオンの手から冒険者カードを奪い取った。
ポニーテールがふわりと揺れる。
「お前、いくつだよ。学校どうすんだよ。せっかく、冒険者になる学校ってのに行ってんだろ」
「行きながらでもいいじゃない。女子高生冒険者。良くない?」
ひらひらと、冒険者カードをちらつかせる。
「良くねーだろ」
「ふふ、いいの。あんなとこ、辞めちゃった」
笑いながら平然と言い放つ桜に、シオンはただ絶句した。
「……は?」
「今日、退学届出してきたわ」
「なにやってんだ。父さん知ってんのかよ」
「知ってるから、冒険者やらせてくれるのよ。だってさ、いままで訓練なんかしたことのないような奴に、一から剣術の型とか教えてんの。で、あたしも同じ授業を受けるのよ。バカバカしいでしょ?」
「なに考えてんだ。バカ。学校には違いねーだろ。行けるなら行けよ」
「いいの。大丈夫よ」
なにがどう大丈夫なのか。シオンは呆れた。
「学校で初心者に混じって勉強したって、意味ないって分かったの。結局、実戦が一番じゃない。それよりも経験を積みたいの」
「じゃなくて、高校くらい出とけよって話だよ」
「中学も行ってないやつが、なに説教してんのよ。学歴なんかいらないのよ。あたし、どうせ冒険者になるんだから」
本気のようだった。
「やめとけよ」
「やめない。なに、くやしいの?」
「何が?」
「あたしが先に、冒険者になっちゃうこと」
悪戯っぽい瞳が、シオンの顔を覗き込む。
甘い匂いが、鼻先にふわりと触れた。
最近まで幼かった顔つきは、いつのまにかすっとした輪郭を持ち、手足もすらりと伸びていた。胸や尻は薄いが、腰のくびれがはっきりしているので、ちゃんと女性らしい体型に見える。
昔みたいにじゃれていたらダメだろうとシオンは思うのに、彼女は幼いころと変わらず、屈託無く体を寄せてくる。
顔をそむけたのを、弟が拗ねていると勘違いしたようだ。
「アンタ、自分が先に、冒険者になりたかったんでしょ?」
「そんなんじゃねーよ」
「平気よ。あたし、シオンより強いから」
「分かってる」
シオンが彼女と剣で打ち合えば、十本に一本も取れない。
彼女が鍛え上げた肉体強化魔法も、彼女の剣の腕を支えるだろう。大人の男でも振るえないような重たい剣だって、軽々と持つことが出来る。
たしかに、冒険者の学校など、彼女には手ごたえがないだろう。幼少のうちより元冒険者の父親に戦闘の手ほどきを受け、類稀なルーンファイターの才能を持つ彼女には。
冒険者の登録が出来たということは、父も冒険者協会もそれを許したということだ。これほどの才能を持つのなら、彼女の、父親の、そして冒険者協会の判断は、あながち間違いとは言えない。
この若さから経験を積み、成熟すれば、素晴らしい冒険者として功績を残すのかもしれない。
それでも。
「サクラ」
シオンは手放しで、おめでとうとは言えなかった。
がんばれよ、とも、言いたくなかった。
シオンでは彼女に勝てない。彼女は強い、だが、シオンと魔物は違う。訓練と実戦も違う。魔物は彼女を斬りつけることを躊躇しない。
心配でないわけがない。
「なんで、冒険者なんかになるんだよ。お前はオレと違って、人間の学校に行けるじゃねーか」
「何言ってんのよ。そんなの、いらないわ。あたしはね、シオン」
意思の強そうなアーモンド形の目が、一瞬険しく細められた。
そしてまた、シオンの顔を覗き込む。
「人間より、アンタのほうがずっと好き」
さらっと言われ、シオンは言葉に詰まった。
そんなシオンを見て、彼女はまた笑った。
昔からそうだ。いつもシオンを困らせたり戸惑わせたりして、それで機嫌が良くなるのだからタチが悪い。
「ほんとよ。シオンをイジメる人間なんて、お姉ちゃんがやっつけたげる」
「イジメられてねーよ。それに、そうだとしても自分で何とかする。もうガキじゃねーんだから……」
言いかけたところで、柔らかい手が、シオンの手を握った。
反射的に、シオンの手がぴくりと震えたが、彼女は離さなかった。
「ねえ、そうやって、突き放さないで」
悪戯っぽくシオンを見ていた目が、いつの間にか真剣なものになっていた。
「オレ、臭いぞ。……ワーキャットだから」
シオンは顔を背けたまま、桜は握ったその手に、やんわり力を込めてきた。
「それ、思春期だけでしょ。成長臭だっけ? 体臭くらい人間だってするわよ。お父さんの枕とか最近すごい臭うし。男のくせに、ニオイくらいでナイーブになってんじゃないわよ」
それは普通にナイーブになるだろとか、男女関係ないだろとか、父さんの枕は別にいいだろ、など、何か言い返そうと思ったが、相手のほうが弁も腕も立つのでやめた。
「学校で、何されたか知らないけど。大丈夫よ。シオン。あんたのことは、あたしがずっと守ってあげる。学校は一緒に行ってあげられなかったけど」
「それは……学年違うから、仕方無いだろ」
「でも、学校なんていいのよ。辞めるならさっさと辞めちゃいなさい。シオンが冒険者になったら、あたしが一緒にダンジョンに行ってあげる。そのためにも、先にもっと強くなっとくから」
それ以上先に強くなるのか……とシオンが思い、苦笑しかけたとき、細く柔らかい指がそっと、シオンの指の間に絡んだ。
それは、姉弟がするような触れ方ではなく、シオンは思わず手を引きかけたが、思わず姉の顔を見た瞬間、彼女は不安げにシオンの目を見返した。
「……離さないで。分かるでしょ?」
拒まれることを、恐れている目だった。
彼女が、勇気を振り絞っているのだと、シオンにも分かった。
気が強く、わがままで、いつも前向きな彼女が、シオンがその手を振り払いはしないかと恐れながらも、勇気を出して指を絡めてきている。
いつの間にか、桜は泣きべそをかいていた。そのとき、シオンは初めて、彼女もただの少女なのだと、気付いた。この人の肩や腕は、こんなに小さかっただろうか。
「ねえ。もし、アンタが冒険者になっても」
こんなに掠れている彼女の声は、初めてだ。
「……サクラ」
「あたし以外の人と、パーティー組まないでね」
「何の話だよ……」
絡めた指が、きゅっと握られる。
「……特に女の子とは」
「分かったよ」
「分かってないでしょ」
「他に、どう言えばいいんだよ。嫌だって言っても怒るんだろ」
俯き、頷く。
「怒る」
「だったら、どうしたらいいんだよ……」
それでもシオンは指を振り払えず、かといって握り返すことも出来なかった。
「なに言ってんだ……お前、ほんとにどうかしてる。急に、冒険者なんかになったりして……」
「どうかしてない」
「姉弟だろ」
「分かってるよ」
姉ぶっているくせに、姉になりきれない。
彼女が、弟としてだけでなく、異性として自分を好きなのだということを、シオンも分かっていた。
でも、彼女はやっぱり姉で、母のようでもあって。
父にとっては、二人とも大事な子供で。
それに、シオンは亜人だ。
桜がどんなに強かろうと、その事実をぶち壊すなんて出来ない。
シオンには、もっと出来ない。
「バカだ。……姉さんは、そんなことのために、冒険者になったのかよ」
「何よ、いきなり、姉さんなんて。そうよ……なにが悪いの?」
「オレのためにか? オレが亜人で、学校なんてさっさと辞めて、冒険者になるって言ったからか?」
「そうよ。だってアンタ、怖がりだもの。ダンジョンなんて、ほんとは行きたくないんでしょう? ただ学校に行きたくないだけでそんなこと言ってるの、知ってるんだから。亜人の子供だから、他に仕事なんて無いから、言ってるだけでしょ。バカはアンタよ。でも、あたしはアンタが可愛い。バカでも、好きなの」
「……それは、家族としてだろ」
「全部よ。あたしはアンタの、全部になりたい」
弟を試すようにか細く繋がれた指を、シオンが握り返すことは無かった。
「オレは……サクラのこと、姉さんだと思ってる」
「知ってるわ」
「……家族でいたい」
「ええ」
桜のほうから手を離し、シオンの顔を覗き込んだ。
彼女はもう、泣いてはいなかった。強い、勝気な瞳で、シオンを真っ直ぐ見つめ返していた。
そして、にこりと笑った。
「なに、アンタのほうが泣きそうになってんの。フッたくせに」
そしてシオンの頭のほうへ手を伸ばし、くせのある髪に指をうずめ、小さく動く耳の裏を、指の腹でそっと撫でた。
幼いとき、父も桜も、よくこうして撫でてくれた。いまはただくすぐったく、シオンは顔をしかめた。
「大丈夫よ。あたしは変わらない。ずっとアンタのお姉ちゃんだし、アンタのことを好きよ」
どうしてこんなに優しく笑えるんだろう。
触れる指の温かさに、胸が痛んだ。
そのほっそりした身体に、縋りつきたかった。だがそれは、弟として彼女に甘えられるのなら、幼い子供のようにそう出来たら、というだけで、彼女に情欲を抱くなんて出来ない。
「ずっと守るわ。そのために、強くなったの」
彼女の顔の中で、一番印象強いのが、目だ。睫毛が長く、目尻が僅かにつり上がっている。その綺麗な目の造形よりも、そこに宿る強い眼光は、誰にでも持ち得るものではない。
彼女が少しの間見せた頼りない少女の顔は、とっくに潜められていた。
「だって、シオンは、あたしのなんだから」
彼女らしい強さ、優しさで微笑み、誓うようにそう告げた。
あの日も、最後に見た桜の顔は笑っていた。
簡単な仕事だと言っていたが、彼女にとっての簡単が、他の冒険者に出来るようなことでは無いことは、シオンも分かっていた。
たった一年足らずで、熟練の冒険者に引けを取らない実績を積み上げていた彼女は、協会が定めたレベルを一気に飛ばし、協会に信頼されて、難しい仕事を幾つも任され、難なくこなしていた。
強さと大胆さの中に、意外な慎重さを持って仕事をこなす彼女を、同じセンターに通う冒険者に、駆け出し扱いする者などいなかった。若い人間の女だと笑う者もいなかった。
実力だけの世界で、桜は文字通り自分の実力で成り上がっていった。
「大丈夫よ。アンタって、いつも置いてかれる犬みたいな目で、見送ってくれるわね。猫なのに」
背中に愛用の大剣を担ぎ、片手を腰に当てる。駆け出しのころに適当に揃えたという革の軽鎧ではなく、金をかけた装備に変わっていた。といっても変わったのは素材だけで、覆う部分の少ない軽鎧を相変わらず好んでいた。
細かった身体は、相変わらず華奢には変わりなかったが、くぐり抜けた修羅場のぶんだけ逞しく見えるようになった。ますます堂々とした振る舞いには、自信が満ち溢れていた。
まだ若く、肉体も精神もこれからピークを迎える少女に、すでにこれだけの力が備わっている。
底知れない才能に、誰もが期待し、憧れた。
「ちゃんと、勉強しなさいよ」
「分かってるよ」
「三日は帰んないわ。早く終わるか、長くかかるかも分かんないから、終わったら電話する。なんにせよ、帰ったらご飯、肉がいいわ。でかいやつ」
「明日ちょうど特売日だから、いっぱい買っとくよ」
よりによって、最後の会話が「肉食べたい」なんて、桜本人が一番笑いそうだ。
虫の知らせなんてものを、信じるわけではない。
もしそうだったら、もっとあの日、嫌な予感でもしていたら、彼女を必死で引き止めたかもしれない。
そんなわけでもない、ごく普通の日に、彼女はいつもと変わらず、出かけていったのだ。
ただあのときの桜の笑顔は、いつもよりずっと綺麗に見えた。圧倒的な輝きを持っていた。かりに時を戻し、何度あの桜に会ったとしても、これから死んでしまう人間だなんて思わない。
最後に見送ったのは、小さな背中だ。外に仲間の車が来た音がして、彼女は古風な引き戸をガラガラと開けた。玄関で見送るシオンに、彼女は一度、振り返って告げた。
「じゃあね。シオン」
それは、永遠の別れの挨拶ではなかった。
でも、結果としてそうなった。
誰よりも強く頼もしかった自慢の姉は、父とともにシオンの誰よりも一番近いところにいて、最後まで愛してくれた。弟としても、男としても。
もっと楽な生き方もあっただろうに、とても辛い恋をしながら、それを貫いた。
あんなに明るく美しかった彼女が、暗くて湿っぽいダンジョン内で、一人で死んでいって、どんなに寂しく、辛かっただろう。
なのに、シオンは彼女に、何もしてあげられなかった。何もかも彼女にもらったばかりだ。彼女の願いを叶えてやることさえしなかった。
そんなことばかり考え、後悔した。嘘でも抱き締めればよかった。女として見れなくても、彼女の愛に応えればよかった。どうせそのくらいしか自分には出来なかったのに。
そんな考えの傲慢さに気付かず、自分を責めていたとき、父親にも突き放された。
どんなときも優しかった父に、厳しい言葉を突きつけられたのは、初めてだった。だが、父はあえてそうしたのだと、分かっていた。そうでなければ、シオンはもうそこから一歩も動くことが出来なかった。
自分にも、父にも、癒しが必要だった。それはただじっと耐える時間だ。そうすることでしか、人は悲しみをやり過ごせないのだ。それは父と二人では出来なかった。
父の冒険者時代の友人に、人間魔道士がいた。かつてパーティーを組んでいた仲間であり、シオンを拾ったダンジョンでも、一緒だったという。
父の勧めで、彼の家に一時身を寄せることになった。当時は何もかもどうでもよく、何もしたくない気分だったが、やはり他人に世話になっているという遠慮から、すすんで彼の仕事を手伝ったり、家事をしたりと、嫌でも体を動かすことになった。
言われて、勉強もした。将来どうするのかと尋ねられ、やはり人間の中で普通に働くのは怖かったので、冒険者になるしかないと気付いた。
そして、冒険者になるための鍛錬も、再開した。
何も考えず、訓練に費やす時間は、少しずつシオンの頭を冷やした。
桜や父に訓練をつけてもらったことを思い出しながら、身体を動かしていると、いかに彼女が強かったかを、改めて思い出した。
父の友人に、魔法への対処法もいくつか教わった。魔力を持つ魔物もいる。攻撃魔法はともかく、ワーキャットは魔法や催眠における精神耐性が人間や他の亜人種に比べて格段に低いと教わった。
桜が初仕事で取ってきてくれた魔石は、結局首飾りにして、ダンジョンに行くようになったら肌身離さず身につけるように、と言われていたが、シオンはその言葉を深く受け取っていなかった。
自分の与えたものを身につけさせたいという、桜らしいわがままくらいにしか思っていた。
その魔石のチョーカーを偶然父の友人が見たとき、これは身につける者の精神耐性を格段に上げてくれる効果を持つ、相当に魔力凝縮度の高いものだと教えてくれた。
それを知ったとき、また泣いた。
泣きながら、ようやく理解った。
彼女が死んだことは、可哀相なんかじゃない。
好きになった男に女として愛されなかったくらいで、彼女はくよくよもしなかったし、それでもいつだって、シオンのことを一番に考えてくれていた。
桜は輝くように生きて、死んだ。
それを否定することは、彼女の生き方や強さを否定することになる。
時は戻せない。だから、一度失ってしまい、もう二度と取り返せないものというのは、当たり前のようにそこにあったときよりも、美しく心に残り続ける。
もしも、時を戻せる魔法があったら、どれだけの人間がそれを追い求め、大金を出してでも、人を殺してでも、手に入れたいと思うだろう。
けれど、多分、そんなことではないのだ。
少しばかりの時が経ち、そう思えるようにもなってきた。
割りきれたわけではない。いまでも彼女のことを想って、何度も夢に見て、苦しいし、涙も出る。ふと、彼女の声を思い出し、その笑顔を、怒った顔を、あのときの泣きそうな顔を、思い出す。思い出して、辛くなる。
それでも、何度、時を巻き戻したとしても、彼女は彼女の決めた人生を進むのだろうし、最後に見送ったあの日に戻っても、自分は彼女を信じ、見送るのだろう。
――だいじょうぶよ。
幼いころ、姉の背中の大きな傷を、自分が付けたものだと知ったとき、泣きべそをかいて謝ったシオンに、姉は頼もしく笑って言った。
(これはあたしが、シオンのお姉ちゃんだって、しるしなの。キズじゃないの。だいじょうぶよ。あたしが、シオンのことまもってあげる。ずっと。ずっとね)
少女が大切にした傷痕は、自分もまた彼のものであるという証であり、それはシオンにも永遠に明かされなかった、彼女だけの誓いだった。
消さない傷痕こそ、彼女がとっくの昔に、弟からもらったものだった。