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迷宮のドールズ  作者: オグリ
四章
79/88

嘘と本心

「ドール……?」


 たまに紅子が口にしていた言葉だ。何の意味があるのだろうと、シオンも気にしていたことがあったが、忘れていた。


 シオンのような冒険者がよく耳にするのは、憑依霊ポゼッションが乗り移った動く人形リビングドールという幽鬼系モンスターだ。依り代が生物でないぶん、破壊しやすいこともあれば、頑丈で手ごずるときもある。

 以前、何故ダンジョンにあったのかは分からないが、古い薬局の前によく飾ってある大きなカエルの人形が動いていたのはびっくりした。リビングドールは無害なこともあるので、敵意がなさそうなら放っておく。下手に敵に回してしまうと執念深く追ってくるので厄介なのだ。

 もちろん、そんなモンスターのことではないだろう。


「小野原くんにはあまり耳慣れないかもしれないね」


 透哉が言った。空になったコーヒーの缶を傍らに置き、胸ポケットから煙草の箱を取り出した。

「もう一本いい?」

「あ……はい……」

「最近本数が増えちゃって」

 疲れたように言って、煙草を咥えると、ライターで火を点ける。

 夏の夕暮れはずいぶん長い。空の上のほうは暗いのに、地上はまだ明るいのが不思議だとシオンは思った。


「〈ドール〉というのは、魔道士にとっては、実験体とか、依り代とかに付ける、よくある名称というか、記号のようなものだよ。魔道士ならまず、そういうものを想像する」


 実験体。記号。耳慣れない言葉に、シオンの胸は変にざわついた。


浅羽うちでは、魔石と魔道士の体が作り出す、人工魔道士のことをそう呼ぶんだ」

「じんこう……?」

「自然に生まれてきたのではなく、意図的に生み出された魔道士のことだよ。もっともこういう研究は、魔道士の間では珍しいものではない。人道的観点から、現在の日本では行われるべきではない忌むべき行為だし、当然時間も費用もかかる。そうまでして産み出すことにメリットがあるかというと、強力な魔石を作ったほうがよほど簡単だ」

「じゃあ、どうしてそんな研究……」

「単純に、探求心、そしてずっとそれを続けてきたという、くだらない矜持だよ。浅羽一族というのは、表向きでは魔石作りに長けていた一族だった。でもそれは、人工魔道士を生み出すための秘術の一環に過ぎない」


 煙を吐き出しながら、透哉は語り続けた。


魔導子まどうしというのは、普通に女性の体から産み出されるんだ。普通の子供と同じように」


 ただ、産み出す女性は膨大な魔力を持つ、天性の資質を持った女性であることが条件になる。それだけですでに難しいことだ。

 母体となる女性は幼い頃から魔石を少しずつ体内に取り込み、長い時間をかけて魔力を溜め込む。


 そうすると、その体そのものが蓄魔石のようになる。


「そして、これも難しいことだけど――相性の良い男性魔道士との間に子を作る」


 二人の間に子が出来るかは分からない。

 授かったとして、その子供が母親が長い年月をかけて蓄えた魔力を全て引き継いで産まれてくる可能性は、ごく低い。


「他にも細かい条件は色々あるけど、大雑把に説明してるよ。こんな意味があるのかも分からない、非人道と言われても仕方のない秘術を、ずっと研究してきたんだ。浅羽の魔道士は」


 シオンには言わなかったが、魔導子まどうしを産み出せたとしても、母親は例外無く死亡した記録しかない。

 紅子たちを産んだ母親は、家を出て一人で産んだから、出産してすぐに亡くなったのか、しばらく子供たちを育てることが出来たのか、分からない。

 当時のことを知ってるのは母親と、紅子と、その弟だけだ。

 だが幼かった紅子は、今はもう何も憶えていない。


「紅子は、昔から空想好きというか、妄想力の逞しいところがあった。まあ、今もそうだけどね。絵本や子供向けのテレビ番組を観て、その世界の登場人物になりきったりするだろ? 幼い頃は作り話と現実をよく混同して、自分もそんなんだって思いこんだりして、両親がいないぶん、その時々で理想の父親や母親を作り上げて話すことが多かった。自分は遠い国のお姫様だとか、本当は叔父さんと叔母さん……うちの両親だけど――の子供なんだとか」

「別に、普通じゃないかな。オレも昔サクラと冒険者ごっことかしたし……」

「そうだね。そんなこと、子供にはよくあることだけど、あの子の場合魔力が桁外れに強いものだから、思い込むと自分に強い暗示をかけてしまう。他の人間より情動が激しいんだ。自分の物だという執着もすごい。だから、浅羽の家に来てからは、彼女が一番懐いていた叔母……僕の母、それから僕や父に対しては、とても強い執着を持っていたし、多分いまもそうだと思う」


 逆に、彼女が好きではなかった祖父や、彼女の父や兄に対しては、祖父がある程度コントロールしていたものの、敵意が強かった。


「子供の敵意なんて苦手とか怖いとかそんなものだろうけど、あの子の場合はそれで人を殺せるレベルだから。茜なんて、実際に何度か殺されてかけていたし」

「自分の兄さんを……?」

 あの優しい浅羽が? と思うと信じがたかった。透哉は苦笑いで頷いた。

「まあ、茜は特に厳しくあの子に当たっていたから。こっこも最初は彼に興味を持っていたと思うよ。だって家では一番血の濃い存在だったんだから。だから、愛されないショックと、悲しみと、憤りと……捨てきれない執着が、特にキツく茜にぶつけられたんだろうなって……今なら分かるよ」


 兄のことで泣いていた紅子の姿をシオンは思い出した。

 たしかに、ただ嫌っていただけとは思えない。彼女からしばしば、兄へのただならない感情がうかがえた。

 あれは、執着だったのか。自分の兄さんへの。


「本当は、好きだったんだ……」


 大好きで、でも思い通りにならない存在に、子供だった彼女は、泣いて好きになってと訴えただけ。普通の子供ならただそれだけのことなのに、彼女は何度も兄を殺しかけてしまった。

 そんなの、気が狂いそうだとシオンは思った。

 好きで、愛されたい人を、嫌でも傷つけてしまうなんて、あまりに悲しい。


「あの膨大な魔力に、思い込みの強さ、執着の激しさ、加えて魔力喰いマナイーター……天才なんてレベルじゃない。……人間とは、言えなかった。だから、あの子を人間にするのが、僕達の役割だった」


 それが、浅羽の一族がやってきたことの、責任だ。


「でも責任を、自分たちで果たせない……本当に勝手だけど。紅子の弟のほうは放っておけと祖父は言ったけれど、茜やその父はそう思っていなかった。何とかして紅子のように連れ戻すか、それか……」


 ――ドール。


 赤く目を光らせた紅子が、シオンの記憶の中で呟いた。


 まだ再会したばかりの頃。

 それを倒さなければならないもののように言っていた。


 そうか。ドールを。自分の弟を。

 殺す為にずっと、石を探していたのか。




 ――結局、何も思いつかなかった……。


 紅子の誕生日プレゼントを買ってやるつもりだったが、彼女の欲しい物が何一つ分からなかった。

 彼女の好きな物、あげたらとても喜ぶ物は知っている。食べ物だ。

 実際透哉にも、

「小野原くんがくれたものなら、コンビニおにぎりでも喜ぶと思うよ」

 と言われた。

 でもコンビニおにぎりを誕生日プレゼントと言って渡しては多分いけないだろうということは、シオンでも分かる。


 身近な女子といえば姉の桜だが、彼女の誕生日には……幼い頃はなけなしの小遣いからハンカチやマスコットなんかを買ってプレゼントをしていたが、ある程度の年齢になってからはしていない。姉はあれで子供っぽいところがあり、幾つになっても家族揃っての誕生日パーティーを要求してきた。

 シオンはその準備はしたが、プレゼントは父親の役目だった。

 姉が亡くなるまで、彼女の誕生日前にはせっせと折り紙で輪を作って繋いだり、ティッシュで花を作って、家中に飾っていたものだ。「パーティー会場作りはアンタの役目」と言われていたので渋々やっていた頃が懐かしい。それこそ昔は大好きなお姉ちゃんの為にはりきって準備に勤しんでいたが、後々にはひたすら面倒だった。


 最後にやった誕生日会ではとうとうケーキ作りを要求され、「三段以上じゃないと尻尾を引っこ抜く」と言われ、父親に「手伝ってあげるから」と慰められながら八割以上父親作のケーキを作ったが、案の定バレて「努力が足らないのはあたしへの愛情が足りないからじゃないの? アンタをここまで育てたあたしへの感謝と愛情はバベルタワー級のケーキで示しても足りないくらいじゃない?」とネチネチ責められ……まずい、全然良い思い出が無い。


 でも、ケーキくらいちゃんと練習して作ってやれば良かったなと、今になって思う。それが崩壊したバベルの塔であっても、桜は喜んだんじゃないだろうか。プレゼントもろくに用意しないくせに、父作成のケーキの上にいちごを乗せてチョコレートペンで『おねえちゃんおめでとう』と書いただけで自分も作ったと言い張ったのは、怒りを買っても仕方のなかったことだったのかもしれない。本当に尻尾を引っ張るのは酷いと思ったが。

 それでも、外で大人として生きていた桜にとって、家の中ではいつまでも「勝手に振舞うお姉ちゃん」が出来る場所だったのだろう。

 と、いなくなった後では、何でも切なく感じてしまう。ハイジあたりに話すと「いやそれは普通に酷い思い出だよね?」と言われそうだが。


 さておき、桜との思い出は参考にならなかった。


 紅子とは同業者なのだから、仕事に使える物が良いのかなと考え、『自分が貰って嬉しい物』を選んだ。

 そして、値の張る滋養強壮剤ポーション10本セットを手に、薬局から出てきたところで、本当にこれでいいのか? と改めて不安になった。

 アイカに聞いておけば良かっただろうか。キキには絶対に聞きたくない。そうだ、リノなら良いアドバイスをくれたかもしれない。小学生女子に訊くのもどうかという気はするが、キキよりは遥かにマシだった。しまった。もうポーションを買ってしまった。


(いやでも、ポーションだってあると便利だし買うと高いから、良いはずだ……)


 そう自分に言い聞かせ、店の前の駐車場に行くと、車の外で煙草を吸って待っていた透哉が、驚いたように目を見張った。

「そんな高い物を買ったの?」

 薄いビニール袋から透けて見える箱の商品名だけで、高価なポーションだと分かったらしい。

「これ、すごく効くから……」

 透哉は「紅子へのプレゼントなんていいよ」と身内らしく言ったが、そういうわけにはいかない。結局、地元から少し離れた駅近くの薬局まで車で連れて来てくれた。地元の駅前にも取り扱っている薬局はあったが、そこには駐車場がなかったのだ。

 地元は同級生に会いそうなので、正直ありがたかった。


「でも、プレゼントが買えて良かった。これ、浅羽に渡しといてもらえますか? しばらく会えないかもしれないから」

「いいけど……」

 透哉は苦笑し、携帯灰皿に煙草の吸い殻を入れてから、シオンに言い直した。

「いや、やっぱり、いつになってもいいから、小野原くんが渡してあげてくれる?」

「あ、すいません、頼み事ばっかりして」

「じゃなくて、そのほうがあの子も喜ぶから。こういうのはね、何を貰ったかじゃなくて、誰に貰ったからが嬉しいものだよ」

「はあ……」

 桜もそうだったのかな。食べきれないほどのバベルケーキじゃなくて、シオンが彼女のために一生懸命になっていれば、喜ぶ顔が見られたのだろうか。

「……じゃあ、会って渡します。会ったついでじゃなく、浅羽忙しいかもしれないけど、ちゃんと連絡して、直接おめでとうって言います」

「そうしてあげてくれると、僕も嬉しい」

「そうなんですか」

「あの子が嬉しいと、嬉しいよ。あの子とは、ずっと兄妹みたいに育ってきたから」

 紅子にとっても、透哉は本当の兄のようだ。周りに気を遣いがちな彼女が、透哉の前ではワガママを言ったり甘えたり出来るのは見ていて分かるし、彼女にそんな存在がいて良かったと心から思う。

 両親も兄も弟もいない紅子に、家族と言える人がいて、本当に良かった。

「あの」

「ん?」

「ええと、長生きしてください」

「えっ」

 透哉が驚いた顔をする。

「……なんで? いきなり」

「いや、なんとなく……」

「怖いなぁ。……今日は色々、キツい話聞かせてごめんね」

「いえ」

「それにしても、この原付邪魔だな」

 透哉が自分の車の隣に停まっている、三台の原付バイクを見た。

 車を停めたときには無かったが、バイクの駐車場は別にあるのに、目に着いた場所に適当に置いたのだろう。

「僕がそこのコンビニに煙草買いに行ってる間に、停まってたんだよね。戻って来るときすれ違った子たちかな」

 薬局の隣にコンビニがある。そこに買い物に来たのだろう。そう思ってコンビニのほうを見ると、店の前に人間の若者が五人ほどたむろっていた。よくある光景だが、原付の数より明らかに人数が多い。彼らは大きな声でゲラゲラと談笑しながら、食べた後のゴミをそのまま店の前に捨て、のろのろと立ち上がった。

「原付の二人乗りか。ヘルメットも持ってないみたいだし、タチ悪そうな子らだな。絡まれたら面倒だし、僕らも行こうか」

 透哉が言って、車のロックを解除した。

「小野原くん?」

 向かって来る男たちは、埼玉のワーキャットたちのようにチャラチャラとしていたが、全員人間だ。

 顔にはあどけなさが残っていて、全員まだ少年だと分かるので、透哉にとっては浮ついた子供でしかなかったが、シオンは彼らを凝視したまま、ぽかんと口を開けていた。

「どうしたの? 知ってる子?」

「中学の……」

 自分で口にして、尻尾の毛が逆立つようだった。

「あれ? 小野原じゃん」

 煙草を吸いながら歩いてきた少年の一人が気づいて、シオンを指さした。

「やっぱり、小野原だろ? うわ、全然変わってねーな」

「小野原?」

「ほら、中学んときいた。ワーキャットの」

「あー、思い出したわ。こいつの元カノがコイツのこと可愛いって言ったから、腹立てて殴ったじゃん」

「それコイツだっけ?」

「そんで逆に殴られてたやつ。めっちゃダセー。そんで、ボコしてやろうって」

 まるで友達同士でじゃれていた話でもするかのように、男たちは笑っているが、シオンにとっては少しも笑える話ではない。

 煙草を吸っていた少年が馴れ馴れしく近づいてきた。

「元気かー? 今何してんの?」

「お前に関係ないだろ」

「うーわ、その言い方、めっちゃ思い出した」

 透哉の車に手をかけ、寄りかかりながら、少年が大げさに笑う。吸いかけの煙草をちらつかせ、シオンの顔を覗き込んだ。

「あ、今もうそんな臭くねーじゃん。尻尾の毛生えたか?」

「……っ」

 一瞬で頭に血が昇ったが堪えた。

 あのとき・・・・は事件にならなかった。だが、もう学生同士ではなく、自分は働いている。武器の携帯を許される冒険者が他者に暴力を振るうことは許されず、厳しく罰せられる。レベルダウンや活動停止、場合によっては資格を剥奪される。


 ――人間だ。オレは人間だ。モンスターじゃない。

 あの頃は、そう思って耐えた。

 父や姉に心配かけたくなくて。

 ただでさえワーキャットである自分のことを、二人ともいつも気にしてくれてくれていた。人間の中で上手くやっていけないなんて、人間である二人に知られたくなかった。

 何より、自分が二人と一緒でいたかったのだ。


 殴られたり、嫌がらせをされるくらい、我慢すればいつか終わると思っていた。


 でも、無理だった。一番そうしてはいけないと思っていたのに、獣の本性を剥き出しにしてしまった。

 人間と一緒に暮らす中で、毎日忘れずに切り揃えていた爪を、そのときは手入れすることを怠っていた。気がついたら、右手が赤く染まっていて、指先には肉を抉り取った感覚がはっきり残っていた。

 もっと幼い頃に、姉に大怪我させたときのように。人間を、人間が持たない力で傷つけてしまった。父と姉と一緒にいるために、絶対に獣にならないと思っていたのに。


「これ、まだ残ってるぜ」

 少年の頬に斜めに走った傷が三本、うっすらと浮かんでいる。当時はもっと生々しかった。

 竜胆は言わなかったが、かなり治療費を払っただろうということは、シオンも分かっていた。それでちゃんと治療士ヒーラーに診せていたら、治る傷だ。


 ――キキを叱るとき、オレはどうしてる?

 たしか、怒りを剥き出しにする前に、一度飲み込めって言った。


 口を開こうとすると手が勝手にブルブルと震えたが、それが治まるのを待つ間に、少し頭が冷えた。

 小さく息を吸って、相手を見返す。

「……そんなの、ちゃんと治さなかったほうが悪い」

「すげーな、怪我させたほうが言うセリフかよ」

 他の少年が笑って言った。

「オレだって、怪我したんだからお互い様だ。親同士でも話し合って、父さんのほうが多めに治療費を出したのも知ってる。もう関係ない。オレも尻尾を焼かれたりしたんだ。お前も傷つけられて当然だろ」

「は?」

「だから、関係無い。悪いとも思ってねーから」

 少年が笑いを凍りつかせ、顔を歪める。


 あのとき、何を恐れていたんだろう。

 モンスターより、自分をいいように使っていた大人の冒険者より、少年の顔は醜悪ではなく、命をかけることも知らない子供に思える。


「――それ、治してあげようか?」

「あ?」

 声をかけられたほうを少年が振り返る。

 いつの間にか隣にやってきていた長身の青年は、柔らかく笑っていた。

「なんだお前……」

「失礼」

 顔を覗き込んできた青年は、無遠慮な動作であるというのに、これから診察を始める医師の前に座らされた患者のように、少年は動けなかった。

「うん、いい子だ。僕の目を見てごらん。僕は君を傷つけたりしない。寄り添い、分かち合う、ひととき、僕は君の友人であり、兄であり、父であるのだから。僕の前で君は怯えることも、虚勢を張る必要もない。そうだろう?」

 詠唱のような、ただ呼びかけているだけのような、直接声をかけられていないシオンにの耳にさえするするとその言葉が入って来る。

 優しいのに、どこか強い声音。ゆっくり話しているような、そうではないような、抗うことを許されないようでいて、甘やかで、ずっと聴いていたくなるような響き。

「僕は君の友であり家族であり、医師でもある。この指先は君を傷つけるものではなく、君に巣食った病巣のみを取り除く。健全な肉体を損なう醜いひび割れは塞がなければならない。傷ついた器は柔らかに時を止め、癒し手を待つだろう」

 透哉の長い指が、少年の頬に残った傷痕の、触れるか触れないかというところで止まる。少年がヒュッと息を呑んだ。

「――見つけた。ほら、ここに棘が刺さっている。これは取り除かなければならないね?」

 少年がぼんやり頷く。指先が、頬の傷を全て、すうっと筆を走らせるように触れる。

「消えない痛みは無く、許されない傷も無い。そら、要らないもの、辛いことなんて、全て手放してごらん。――ね、お母さんのことは、好きかな?」

「……は、い」

「そう。優しい子だ。お母さんは、君をなんて呼んでたっけ?」

「……たっちゃん」

「ふうん、可愛いね。はい、たっちゃん、おりこうさんだった。――終わったよ。もう痛くはないね?」

「……うん」

「原付二人乗りは危ないよ? 帰りは歩いて帰りなさい。ね?」

 こくんと頷いた少年の肩を、透哉が軽く、とん、と突き飛ばすと、ふらふら仲間のほうに向かって数歩歩き、突然糸の切れた人形のように膝からがくんと崩れ落ちた。

 呆気に取られていた他の少年たちが、ようやくはっとして、慌てて駆け寄った。

「えっ、どうしたんだよ、竜弥!」

「うわ、なんか目がイッてる」

「え、なに怖ぇ、マジなに? 今なにあった?」

 軽いパニックに陥りかけた集団に、透哉はいけしゃあしゃあと告げた。

「安心して、僕は通りすがりの治療士ヒーラーです。頬の傷は治ったけれど、治癒魔法ヒール酔いをしているので、原付には乗せないで。お代は結構だよ。それでは失礼」

 言いながら、シオンの前で助手席のドアを開ける。

 それからワーキャットのシオンには聴こえる程度の小声で、

「――早く乗って。とっとと退散しよう。精神魔法をかけるのは軽犯罪だから」

 そう言って、自分もさっさと車に乗り込むと、まだ騒いでいる少年たちの傍から速やかにバックし、駐車場を出た。




 すっかり夜になってしまった。


 暗い車の中で、シオンは尋ねた。

治癒魔法ヒール酔いってあるんですか……?」

「はは、あるのかな?」

 透哉が可笑しそうに言った。

「……あれ、精神魔法なんですか?」

「ちゃんと治癒ヒールだよ。精神魔法をかけ合わせたね。自己流の催眠術も入ってるけど」

治癒ヒールと精神魔法を、重ねて同時にかけた……ってこと……?」

 無理ではないのかもしれないが、たぶん、すごく器用なことなんじゃないだろうか。

「なんて詠唱式なんですか?」

 訊いたところで分からないかもしれないが、つい訊いてしまった。

「あんなの、あのとき適当に作った式だよ。もう忘れちゃったよ」

 透哉が笑う。

「詠唱のようにでいて、意味の無いお喋りも入ってる。でも、その意味の無い言葉を紡ぐときにも、話し方とか、抑揚とか、緩急とか、視線、触れるタイミング、その触れ方にも、意味を持たせてある」

「でも、あれだけの時間で」

 古傷とはいえ、傷を消し去ってしまったのを、シオンはたしかに見た。

「もしかして、透哉さんもすごいソーサラーなんじゃ……」

「僕に魔力の素養は無いよ」

 きっぱりと遮った。

「でも、こっこよりは器用かな? 彼が小野原くんと話しているときから、僕は彼の表情や、話し方や、行動の癖を見てた。血色が良かったから、それなりに良いご家庭のお子さんなんだろうと思って。小野原くんとのことも、親同士はそれぞれ治療費を払って示談で済ませようとしたのは、彼の親御さんにとっては世間体か、息子の経歴に傷をつけることを恐れたか、どちらかだろうと思ったし。それならきっとご両親は顔の傷を治してほしいと思っている。けど、彼が消さなかったのかなって。でも彼が愛されている自覚があるのなら、彼の子供である部分に、消さない傷の負い目はあると思ったから。その推測が当たれば簡単に治るかなって。僕程度でもね」

「……そんなに簡単とは思えないけど」

「小野原くんが頑張ったことに比べたら、簡単だよ」

「え?」

「よく我慢して、冷静に話してたなと思ってたよ。偉かったね」


 それは、自分でも意外と冷静になれたと思う。

 別にそれで、嫌な記憶がすべて払拭されたわけではないけど。


「……っ」

「大丈夫?」

 シオンが俯いたので、透哉が声をかけた。

「……っ、く、くくっ」

 思い出したら、可笑しくなってきた。

「何思い出してるか、当ててあげようか?」

 透哉も少し笑って言った。

「『たっちゃん』」

「ぶっ!」

 堪えきれずに吹き出した。小さな子供みたいに透哉の質問に頷く姿を思い出すと、可笑しくて仕方がない。

「……あんな、これ見よがしな傷残しといて、家じゃたっちゃんって……!」

 自分でたっちゃんと呟いていたときの、あの呆けた顔を思い出し、シオンは久しぶりに声を上げて笑った。

 ひとしきり笑った後に、笑い過ぎた目尻から涙が一筋流れた。

 それを腕でごしごしと拭って、拭って、拭っても、涙が零れた。


「……なんだ、くっだらない……」


 くだらない。相手はくだらない子供だった。

 でも、自分も子供だった。我慢なんて出来なかった。

 だから、我慢出来なかった自分を、人間から弾かれた自分を、恥ずかしいと思っていた。


 ごめんねと、父親に謝らせた。それが悔しかった。

 オレがワーキャットだから。

 父さんを悲しませて、恥をかかせた。自分にも、相手にも謝らせた。父親に頭を下げさせたときが、生きてきた中で一番悔しい瞬間だった。


 涙がぽたたっと膝の上に落ち、ジャージに染みを作った。擦っても擦っても、バカみたいに出る。


 でも、本当に辛かったのは、たぶん違う。父さんがどうとかじゃない。

 亜人がとか、人間がとかでもない。

 本当は。――本心は。


 オレは、ただ。


「……あんな奴に、あんな奴に……負けて……恥ずかしい……」


 う、と嗚咽が漏れ、眉間にぎゅっと手のひらを押し付ける。

 泣きたくない。けど、目の奥に水溜まりでもあるみたいに、涙が溢れてきて視界をぬるく遮った。


「さっきは、負けてなかったよ」

「……ダンジョンで、アイツがモンスターなら、ぶち殺してやったのに……出来なくて、悔しい……」

「うん。君にはそれが出来る。でも、しなかった。耐えたことが強さだよ。そしてそれは、これからもずっと君の糧になるよ」

 透哉の声は心地好く耳に届く。こういうの、なんか笹岡さんがなんか言ってたっけ。そうだ、カウンセラーとかいうやつ。正直、笹岡さんより彼のほうがずっと向いてると思う。

 紅子や、パーティーの仲間たちや、父親であっても、言いたくないことはある。吐きたくない弱音も。

「……もっと学校、行きたかった……」

「いつでも行けるよ。君なら」

「悔しい……」

「取り戻せるよ」

「……我慢したのに……」

「偉かったね。でも、もっと頼っていいよ。僕たちに」

「誰に……?」

「大人に。君は大人の中で生きているけど、僕は君より長く生きてる。魔法も使える。ずる賢いところもある。あと僕は口が硬いから、今日の事は誰にも言わない」

「……じゃあ、言わないでほしい……」

「うん」

 特に、紅子にだけは絶対に見られたくない姿だ。こんなの。

 はぁ、と息をつき、シオンは顔を上げた。千葉でやえと話したときといい、最近よく人前で号泣しているような気がする。やえもそうだが、透哉もだいぶ年上で、心を許せる雰囲気があるからだ。ずずっと鼻を啜ると、透哉がのん気な口調で言った。

「あ、ダッシュボードの中にティッシュ入ってるよ」

「ありがとう……ございます……」


 礼を言ってダッシュボードを開け、ティッシュの箱を取り出す。

 鼻を噛んで、あらかたの水分が出てしまうと、シオンは大きく息を吐き出した。


 まだ、完全に立ち直ることは出来ないだろう。

 でも、泣いたぶんと、吐き出した本心のぶんだけ、醜い傷痕は少し消えたと思う。


「……ちょっと、すっきりした」

「そう。小野原くん、落ち着いたなら、そろそろ家に送ろうか?」

「あ、すみません……もう大丈夫」


 シオンが泣いていたので、しばらく車を適当に走らせていたのだが、もうすっかり落ち着いたようだ。ティッシュで拭いた目許はまだ少し赤いが。

 強い子だと透哉は思った。


「こっこはもう電車に乗ったかな。せめて駅まで迎えに行ってやるか」

 ほとんど独り言のようにそう言った後、シオンがおずおずと尋ねてきた。

「あの、実は、まだもう一つ、訊きたいことがあって」

「ん? いいよ」

「出産祝いって、何をあげたらいいんですか?」

「出産祝い」

 十六歳の少年の口から中々聞けるセリフではない。でも一応、社会で働いている子なのだと、透哉は改めて感心した。真面目というか。自分が彼なら年齢を理由にやらない。

「知り合いに子供産まれる予定があって、でもオレよく分かんなくて。他にも聞いてみたら、寄せ書きとか商品券って言われて……」

「寄せ書きは多分からかわれてるよ」

「やっぱり」

「商品券は小野原くんから貰っても、相手は困るかもね。カタログギフトも似たようなものだし。そういうのって人によりけりだから、僕は本人たちに直接聞いてたかな。あげたことあるやつだと、タオル、よだれかけ、赤ちゃん用のバスローブ、ベビーリュック、おむつケーキなんてのもあったな」

「おむつケーキ……?」

「僕もそのときまで知らなかったけど、おむつで作ったケーキがあるんだよ。ギフト用に」

「た、食べられるんですか……?」

「食べない食べない。ラッピングされたおむつを積んでケーキに見たててるものだよ。そうだな、タオルとかでいいんじゃない? 絶対使うだろうし」

「あ、そういうのでいいのか」

「そのぐらいの買い物なら、いつでも付き合ってあげるよ。ちゃんと専門のお店あるから。小野原くんじゃ入りにくいだろうし」

「あ、いや、透哉さん忙しいから」

「無関係な君たちに魔石探させておいて、そんなこと言えないよ。出来ることなら何でも言ってくれ」

 と言っても、透哉に付き合ってもらうのは流石に駄目な気がする。父親や笹岡なら気にならないが。

「適当な奴と行きます」

「そう? 気にしなくていいのに。小野原くんは僕に遠慮し過ぎなくらいだよ」

 そうかもしれない。そういう意味では笹岡のほうが気を許せている……やはりあれはあれでカウンセラーに向いているのか? とシオンはどうでも良いことを考えた。


 ハイジもそうだが、『魔法使い』に萎縮してしまうのかもしれない。自分は魔力ゼロだし、出来ないことを出来るということがすごい。だいいち、魔道士はどうしてああも長い詠唱を憶えていられるのだろう。

「魔道士だからって気を遣わなくていいよ」

「えっ、オレいま口にしてた?」

「してないけど、そんな気がしたから」

「す、すごい……それも魔法ですか?」

「いや全然違うけど。僕わりと小野原くんのこと分かるよ」

「……すごい」

「うん、耳や尻尾を見てれば大体の感情はね……」

 感情バレバレの気の毒な種族だとは透哉は言わなかった。


 ――彼には、感謝してもしきれない。

 紅子が好きになった子が、素直な良い子で良かった。

 そのことは、心から良かったと思える。


 彼は知らないだろうが、シオンから届いたメールがたった一言であっても、暇があったら眺めるなんて可愛いレベルじゃない凝視をし、その目はもううっすら赤っぽいし、透哉の視線に気づいて「えへへ、お兄ちゃん……小野原くんからのメール、なんかいい匂いがする……」と何言ってるんだコイツとしか思えない狂気じみた行為をしている紅子は、『恋』という強い感情に縛られている。

 それは――ちょっと気持ち悪いが――モンスターなら持たざる感情だ。一応は、人間の娘らしいといえる。


 彼と一緒のうちは、石を手にしても紅子は安定していられるかもしれない。

 だから、彼に危険が及ぶようなことは、絶対にあってはならない。

 ドールは恐ろしい魔物かもしれないが、紅子だってそうだ。彼女が我を忘れて暴走でもしたら、取り返しがつかない。

 もし、彼を失いでもしたら、兄を失ったとき以上の暴走をするかもしれない。

 あんなこと、もうさせてはいけない。


「……さっきも言ったけどね、僕は本当に、才ある魔道士ではないんだ」

「へ?」

 シオンは目をしばたたかせた。

「そう思わないけど……」

「僕は魔力は強くないけど、それを補う努力くらいは出来る。ただそれだけ。それは才能じゃない。――でもね、才能溢れる魔道士に見せかけることも出来る」


 こんなふうに、口は良く回るから。

 心の中で、透哉は付け加えた。


「だから、惑わされちゃ駄目だよ。この世の魔道士には、才のある者と、腕のある者に分かれる。こっこは前者、僕は後者。そして後者の魔道士は、大抵嘘つきだ」

 するとシオンは顔をしかめた。

「だったら、透哉さんも、嘘つくんですか?」

「つくよ。沢山嘘をついてきたし、小野原くんに色々黙ってきたしね。今も黙ってることがある。でも、必ず全て話すから。それは約束する」

「さっき、嘘つきって言ってたけど……嘘つきの約束って、信じていいんですか?」

「ちゃんと分かったね。もちろん駄目だよ」

 あはは、と透哉は笑った。


「才能はないけど、少しは腕のある戦闘魔道士だ。今度から、僕もバックアップするよ。君たちの冒険を。――あと、運転も上手いしね」

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