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迷宮のドールズ  作者: オグリ
四章
78/88

魔導子(ドール)

「いやー、シオンもとうとうレベル14かー。すっかり一人前じゃん。11から一気に14は快挙よ快挙!」

 まるで昔からの知り合いかのような口ぶりで、笹岡はシオンの肩を抱きながら、我が事のように喜んでくれた。

 が、シオンは暗い顔で呟いた。

「……オレの予定と違う……」

「何がよ?」

「もうすぐレベル上がるとは思ってたんだ……。この前の千葉の戦いでアクアリアの人たちが、協会にもよく話してくれたみたいで、レベル15まで一気に飛ばせると思ってたんだ……」

「あー……」


 静かなダンジョンに、二人の声だけが響く。いやに音の反響するダンジョンは、千葉の半海中ダンジョンを思い出した。

 さっきまでゴブリンが巣食っていたが、すべて駆除を終えたところだ。

 ゴブリンは自分たちの血の臭いに敏感だから、外から入ってくることもないだろう。

 なるべく血の臭いが薄い場所を探し、体を休めていた。


「そういや、笹岡さんってさ……」

「ん? 笹岡さんは〈レベル・すごい〉よ?」

「じゃなくて、いつも最初は剣持って来るけど、途中から放り出して、噛んだり千切ったりするだろ」

「そーねー。そのほうが強いっていうか、強いから」

 狼そのものの口を開け、鋭い牙を指差す。

「……ゴブリンの首噛み千切ってたけど、感染症とか大丈夫なのかなって……」

「今まで大丈夫だったから、大丈夫じゃん?」

「……ゾンビとかも噛むのか?」

「噛むよ?」

「……おえっ」

 あの臭いを思い出し、思わず口を塞ぐと、笹岡に背中をバンバン叩かれた。

「噛むわけないじゃーん! ゾンビは首と手足をもぐ! 常識じゃーん!」

 ゲラゲラ笑いながら、ふんと両腕を胸の高さに上げ、拳をぐっと握る。灰褐色(本人はシルバーと言い張る)の体毛に覆われた二の腕の筋肉が、はちきれんばかりに盛り上がった。犬亜人ワーウルフの中でも純粋な狼の系統だという笹岡は、体躯が大きく、四肢の筋肉が異常に強い。ゾンビの首くらいねじ切れるだろう。

「……おえ」

「おえって言うの止めなさい。いっぺん笹岡さんとアンデッド退治行く? もぎもぎ収穫祭行く?」

「絶対嫌だ……」

 アンデッド退治は苦手だ。怖いわけではなく、ただただ疲れる。臭いし、丈夫だし、数が多いし、しつこいしで、皆が敬遠する仕事だ。

「レベル上げんならそういう皆が嫌がる仕事しなきゃだぜ。ま、わりとマジな話、オレはゾンビ苦手じゃないから駆除やるなら手伝っちゃるよ」

「うん……ありがとう……」

 よしよし、と笹岡がシオンの頭を撫でる。そこさっきゴブリンが投げた石が当たってコブになってるとこなんだけど……と思ったが、これは本気で慰めてくれてるようなので、言わないことにした。痛いが。

「レベル15のことは、あれよ。しゃーない。この前、秩父でけっこー死んだから」

「秩父?」

「知らねえ? どこのセンター所属だったかは忘れたけど、全員冒険者歴五年超え、レベル20に上がりたてほやほやパーティー。レベル解放されたダンジョンに早速挑んで、ワイトが何体か湧いたやらガルムが出たやらでな」

「どこのダンジョン?」

「どこだっけ?」

「そこ忘れるなよ」

「後で調べてちょ。――死にもの狂いで戦って、かろうじて逃げ帰った奴もダンジョン外で待ちゴブだもんなぁ。待ちゴブで死にたくはねえわ~」


 通称『待ちゴブ』――『待ちゴブリン』は、ダンジョン外に出てくる探索者をゴブリンが待ち伏せして襲ってくることだ。冒険者にとっては警戒すべき事故として知られている。

 昔は日本にいなかったという外来種のゴブリンは、貨物船に紛れたり、泳いで海を渡ったりして、その生息域を広げる。

 とにかく丈夫でしぶとく、ダンジョンでは『ゴブリンを一体見れば三十体いると思え』と言われるほどには、日本でももはやおなじみのモンスターであり、駆除対象である。

 警戒心が強く頭が良いので街には降りてこないが、人でも動物でも家畜でも何でも襲う。武装をした冒険者は襲ってこないが、ダンジョンから出てきて疲れたところを待ち伏せする厭らしさがある。


「待ちゴブか……疲れてるときにあれ嫌だよな……」

「そう? オレはワーウルフだからされたことねーのよ」

「え、そうなのか」

「最近はわっしーも一緒だしなぁ。ゴブは大型亜人は襲わねーし。ま、シオンくん、小さなワーキャットだもんね……かわいそかわいそ」

 わざとらしい憐みの目を向ける笹岡が、頭をぐりぐりと撫でてくる。自分が全頭フルヘッド犬亜人ワーウルフだからって……羨ましい……あと痛い。


「……で、待ちゴブと、レベル15と何の関係があるんだよ?」

「だから、レベル解放したてのダンジョンが、やっぱ事故りやすいって話だろ? 緊張と高揚と慢心で。そういうときが一番危ないっていう。そのへん問題にはなってたしな。そんで協会が慎重になったタイミングだったんだろ。運悪かったなぁ」

「……人は人、オレはオレなのに……」

 納得いかないように、シオンがぼやく。

「明日は我が身ってことだろ。ま、レベル20解放クラスになると、ワイトとか幽鬼系のめんどい敵も増えるし。お前、戦士ファイターじゃん。攻撃手段ないから、審査に響いたんじゃねーの。子供だし」

「ざけんな、十六だ。子供じゃない。あ、そういやガルムって最近普通にいるよな。こないだソロで潜ったらいた」

「マジ? 普通にはいないけど。たまーに出るってくらいじゃん? 戦った?」

「なんでソロでわざわざ……一応ほんとにガルムか、あと何体いそうか確認してから引き返したよ。依頼もダンジョン内の生態調査だったし」

「ふーん。よく働くなぁ。金?」

「金も欲しいんだけど、レベル更新されたのに、14だったショックで……」

 また暗い顔になる。

「センターに勧められた仕事ガンガン入れて、早めに15に持ってきたいと思って。受付の人もそれがいいって。14にいったん留めといて、その後の仕事次第で短期間で15にはなることはあるって言ってたから」

「はー。じゃ、あと何回か仕事したら簡単に上がるな。しばらくわっしーアテになんねーし、笹岡さんの相棒やる?」

「うん。誘ってくれたらなるべく行きたい」

「オッケーオッケー」


 笹岡が持って来る仕事は割りがいいので、こうして誘ってもらえると嬉しい。

 どこでもあまりによく喋ってうるさいので、新宿センターの受付嬢たちも笹岡が来ると優先的に良い仕事を斡旋し、さっさと追い出すという噂まである。良い仕事をもらえるまで窓口で平然と粘る様子を、シオンも見たことがある。


 いつも笹岡と組んでいるリザードマンの鷲尾は、今日はいない。もうすぐ奥さんに子供が産まれるとかで、仕事をセーブしているらしい。いよいよ臨月だという。


「鷲尾さん、子供、今度で七人目だっけ……」

「そうそう。ああ見えて十六でデキ婚してっからね。シオンくんの歳にはもうパパさんよ」

 亜人にはよくあることなので別に驚きはない。それで子供が多いのかと納得した。

「あっ、そうだ。オレ、知り合いが今まで少なかったから、詳しくねーんだけど」

「お、何でも聞いてよー」

「子供出来たらなんかお祝いするんだよな? すぐじゃねーけど、別の知り合いも子供産まれるんだ。そういうときって、なにしたらいいんだ? 金?」

「コラコラ。十六歳の男の子がすぐに金とか言わない。そーねー、子供だし、寄せ書きとかでいいんじゃねーの?」

「それだけは絶対に違うって分かるぞ。子供って、だからオレもう十六だぞ。人間はそうでも、亜人ならじゅうぶん大人だ」

「ブッ!? やめてよそういう一発ギャグ……」

 プクク……と笑いを抑えながら笹岡が言い、シオンはムッとした。

「なにもおかしくないだろ。オレだって子供いてもいい歳なんだ」

「や、やめて……!」

 笹岡が脇腹を抑える。

「それに、昔から早くガキ欲しいと思ってたし……」

「ひぎぃ」

 とうとう土の上に転がって手足をジタバタさせる。

「おい、暴れてランタン蹴るなよ」

「ガ、ガキって子供一人じゃ出来ねーから……! あ、スライムとかなら分裂で出来るけど!」

「分かってるよ、今のままじゃ経済力とかねーから、ちゃんと金貯めて、冒険者のレベル上げて、フリーじゃ安定しないから、冒険者であることを生かしてどこかに就職出来るように……」

「いや、問題はそこじゃねーっつーか……け、経済力て……! ヤベえパンチ強い……!」

「なんでそんなに笑うんだ……?」

 腹を立てていたシオンも、そこまで変なことを言っているのかだんだんと不安になってきて、しゅんと耳を下げた。

「……そんなにヘンか……? 家族作るの、昔からの夢なのに……」

「あ、そうなの? めんごめんご」

 軽く謝られた。

「いや分かってるって。本来、縄張り意識の強さは亜人の本能だからな。特にワーキャットの多くは、自分の家族だけで一つの群れを作る種だ。こうして人間社会で暮らしてる亜人は、野生じゃねーからな、縄張り意識がないぶん単純に家族愛に向くんだよ」

「……なに? よく分からない」

「だから、お前が早く家族がほしいな~って思う気持ちは、別におかしいことじゃなく、単純にワーキャットの本能ってこと。野生の名残だな。これでも大学じゃ亜人行動学とか亜人心理学を専攻してんだぜー。カウンセラーにでもなろっかと思って」

「カウンセラーってなんだ。どんなクラス?」

「カウンセラーって戦士ファイターとか魔道士ソーサラーみたいな役割クラスじゃないですから……なんか悩みがあったら言ってね」

「出産祝いってなにしたらいいんだ?」

「それは寄せ書きでいいって」

「もういい。父さんに訊く」

「最初からそうしろって。笹岡さんからベストな回答得られるわけないじゃん。基本他人のおもしろ行動を期待してるんだから。ちなみにだけど俺は出産祝いのことは軽く考えてるけど、代わりにこないだ鷲尾家にメロンやったぞ。ダースで」

「メロンをダース……?」

「子供らにな。好きなんだってよ。でも家族多いから普段いっぱい食えないじゃん。出産でごたついてるし、他の子を構ってやったほーがわっしーもヨメさんもラクじゃん。俺子供に好かれるほーだし。今度バーベキュー連れてってやるんだぜ。お前も行く?」

「へえ。けっこういい奴なんだな笹岡さん……」

 感心してしまった。

「ずっといい奴よ? シオンくんの子供もいっぱい遊んでやるからな」

「それはいいかなぁ……ふざけた大人になっても困るし」

「ひどい」

 わざとらしくクスンクスンと泣き真似をしながら、笹岡が携帯食料を口に放り込み、ペットボトルの蓋を開け、口の端から水を流し込んだ。

「そういやさっき行動学がどうとか言ってたけど」

「ん?」

「……ソーサラーがさ」

「んん?」

「自分の口を誰かの口に合わせるのって、なんか意味のある行動なのか?」

「ブフーッ!」

「わ! 汚ねーな!」

 慌てて飛びのいたが、笹岡が吐き出した食料と水を危うく全身に浴びるところだった。

 笹岡はタオルを取り出し口許を拭いながら、ゴホゴホとむせた。

「い、意味しかないんじゃない……? ソーサラーでなくとも……」

「そうか。……まあ、笹岡さんに訊いてもしょうがないよな。ソーサラーじゃないんだし。今度ソーサラーの誰かに訊いてみる。さて、マッピングの続きやるか。えっと、さっきの分岐のとこに、以前は無かった亀裂があったな……」

 そう言って、ノートを広げ、ペンで書きつけていく。淡々と仕事を進めだしたシオンを、笹岡は目を細めて見つめた。

「……早く子供欲しいとか言ってる以前の問題だよ……」




 千葉から帰ってきて、四日が経った。

 戦いの後でシオンだけがセンターに呼び出され、色々と話をさせられた。魔石の話は伏せつつ、起こった出来事を正直に話した。

 アクアリアの混乱はすぐに収まり、一日も経つとほぼ通常の状態に戻ったという。


 アイカとも連絡を取った。

 東京に戻ってきた次の日に電話をしてみたら、

〈急に帰ったから驚いたよ〉

 とちょっと怒ったように言われた。

〈ま、とにかくこっこちゃんさえ元気ならいいや。連絡は取れてるし〉

 そう言っていたので、友達付き合いは続いているようでほっとした。アイカが違和感を覚えないのなら、紅子はもう元の彼女なのだろう。




 千葉から帰る船の中で、紅子と話した。

 戦闘の後で興奮していたから、熱を冷ましたくて外に出て、風に当たりながら夜の海を眺めていた。

 キキは泥のように眠っていたし、蒼兵衛や灰児もさすがにキキのように眠りこけてはいなかったが、少し目を閉じておくといって体を休めていた。

 しばらく外で、真っ暗な海をぼんやり眺めていると、後ろから声をかけられた。

「私も、眠れないや」

 そう言って、えへへと笑った紅子は、シオンの知っている彼女で。

 そのときはもう、目の色も黒だった。


 スキュラとシーサーペントが排除され、千葉アクアリアの近海から、大型モンスターが一時的に消えた。外側に逃げたスキュラもいたらしいが、沿岸警備隊コーストガードに駆除されている。

 流れたスキュラの血にはモンスターに忌避効果がある。しばらくはメロウも近づいてこないはずだ。

 そのことにより、海中ダンジョンの調査がこの夏進むだろうと、シオンは紅子に語った。

 多くの冒険者が南房総にやって来る。

 観光業も冒険者産業も賑わうことだろう。

「賑やかだろうな。また行きたいな」

 そう言うと、紅子が呟いた。


「小野原くんて、やっぱりダンジョン好き?」

「え?」

「こういう話するとき、目がキラキラしてるから。うずうずしてるっていうか」

「そうかな……でも、海中ダンジョンって、マーマンか熟練のダイバーじゃないと探索出来ねーんだ。絶対に自分じゃ行けない場所だから、どんなのか気にはなる。ワーキャットは泳ぎ苦手だし、生まれ変わって別の種族になんないと無理だから、余計に」

 触れられない世界だからこそ、海中ダンジョンを探索するドキュメンタリーは、父親と一緒に齧りつきで観た幼少時代を思い出す。マーマンやダイバーの横を、巨大なシーサーペントが悠々と横切っていく様は、身の毛がよだった覚えがある。


「前も、言ってたよね。浮遊ダンジョンに行ってみたいって」

「ああ、冒険者博エクスポで立体映像流してた……でも、やっぱりオレには無理だよ」

「無理かな?」

「ああいう特別な場所は、特別な冒険者しか行けないんだ」

「特別って、どういうの?」

「どうって……」


 浅羽みたいな。

 と言いそうになって、シオンは口をつぐんだ。


 彼女のような規格外のソーサラーであれば、いつかあんな場所に行くことも可能かもしれない。


「小野原くん、冒険者向いてるのに」

「そんなことねーよ。なんか、ただやってるだけで」


 前にもこんな話をした。

 桜や蒼兵衛が通ったような冒険者の学校の話したのだ。

 学校の話になると、ちょっと肩が強張る。

 モンスターよりも、もしかしたらずっと恐ろしいかもしれない。

 またあんなところに通うくらいなら、死んだ方がマシだとさえ思う。

 あのときは、紅子の前だったから、気にしてないふりをしたけれど。本当は全然克服していない。やっぱり、あの空間に戻るのは、嫌だ。


 でも、少しだけあのとき思ったのだ。

 高校に通っていたら、中学とはまったく違う環境で。

 なんだ、こんなものかと思えたかもしれない。


 もし、また嫌がらせを受けたり、嫌な奴に会ったとしても。

 今度は違う向き合い方が出来る気がする。

 出来ずにやっぱり辞めたとしても、そんなところなんだと切り捨てられる。


 そう思うと、学校というものに関する最後の記憶が、ずっとマシになるんじゃないか。


「お、小野原くん? 私、なんか悪いこと言った?」

 よほど難しい顔をしていたのか、紅子が慌てた顔をした。

「額に、脂汗……浮かんでるよ?」


 ……そんなに?


「汗かいてる……?」

「すっごく」


 申し訳なさそうに紅子が頷いた。




 紅子や他の皆にはあれから会っていない。しばらく家を離れていたので、次の大きな探索が決まるまで、それぞれの生活を優先することになっている。

 次の準備として、シオンは15までレベルを上げておきたかった。もうすぐ上がるだろうと馴染みの受付嬢の岩永にずっと言われていたので、そろそろ上がると思っていたのだ。


 予想通りレベル14に上がったことは、本当なら喜ぶべきなのだろうが、ショックだった。




「……はぁー……」

 シオンはソファの上に寝転がり、レベルが上がったことで再発行されたばかりの冒険者証を眺め、大きくため息をついた。


〈小野原シオン/戦士ファイター/レベル14〉


 14と15じゃ全然違う……。


「はぁー……」

「なにゴロゴロしてため息ばっかついてるんだい、紫苑」

 リビングにやって来た父親の竜胆が言った。

「すぐに上がるよ、14までいったら。未成年だからいったん止めただけでしょ」

「だったらすぐに上げてくれりゃいいのに……」

「なにをブツブツといつまでも」

 足許にあるクッションをぼすぼすと蹴飛ばしている息子の、子供っぽい仕草に父親は笑った。

 テーブルの上にコーヒーと、ジュースの入ったコップを置いた。竜胆はジュースなんて飲まないから、シオンが家に行くと聞いて買ってきたのだろう。別に今は特別好きでもないけれど、父親にとってシオンの好きな飲み物はいつまでもオレンジジュースらしい。

 シオンは足で弄んでいたクッションをぽんと蹴り上げ、起き上がってキャッチすると、コップに手を伸ばした。

「そうだ、父さん。今度、オレの知り合いに子供産まれる人が二人いるんだけど、出産祝いって何したらいい?」

「え? 親族じゃないならプレゼントとか商品券とか? 父さんそういうの手っ取り早く金で済ませたいタイプだから、商品券にしちゃうかな。何が欲しいかなんて分からないし。でも紫苑は子供だからなぁ……」

「父さんまで……オレもう十六なのに」

「いや子供でしょ。何言ってんの。本来高校一年生だよ」

「高校……」

 その単語だけで汗が出る。シオンは飲みかけのジュースを置いた。

「その話をこれ以上されたら死ぬみたいな顔しなくても……」

「腹のあたりがムカムカしてきた……」

「そうか、まだ辛いのか……可哀相に、父さんまで胸が痛くなってきた。ごめんな、この話はちょっと仕舞っておこう」

 すっかり耳が寝てしまっている息子に、竜胆は悲しげな目を向けた。

「ごめんね、早く気づいてあげられなくて」

「……別に……父さんだし……」

 竜胆は優しいが、ちょっと適当なところがあり、鈍い。呑気な性格を、よく娘の桜にも怒られていた。そんな父親が悲しむ姿を見るのは嫌だったから、シオンは学校でいじめに遭っていたことをひた隠しにしていた。


「ごめんね」

 と竜胆はもう一度謝った。


 十四歳で冒険者になり、それからソロの戦士ファイターが、二年でレベル14は充分優秀だ。良いパーティーメンバーにも恵まれ、あと数年もすればレベルで計られることのない、冒険者協会所属の特級冒険者になれるかもしれない。

 それほど順調な冒険者人生を歩みつつあるのに、学校の話になるだけで中学時代に受けたいじめを思い出してクッションに顔を埋めているのだから、子供時代のトラウマというのは取り返しがつかない。

 竜胆もそのことを知ってから、何度も学校に足を運んだが、そもそもいじめをしたという証拠がないということで、相手の保護者たちとまったく話にならず、結局不登校になった。息子も学校に行かなくていいならそれでいい、と言うので、そうした。

 大事にすると、桜がいじめっ子を家族ごと殺すとか言いかねないから、という理由で。

「いじめた奴の家を全部調べて一晩のうちに襲って殺す。素早くやれば捕まる前に全員殺れる」という安易な殺人計画を立てる桜を二人で止めるのは大変だった。


「……いや、違うんだ。父さん、オレさ」

 シオンがクッションから顔を上げる。 

「うん? ケーキでも食べる?」

「……後でいい。話の続き聞いてくれ」

「ごめん、続けていいよ」

「……学校の話がすごく嫌ってわけじゃなくて……ていうか、最近まで、ほんとにどうでもよくなってたんだ……よくはないけど、もう行かなくていいとこだって」

「うん」

「でも最近、ちょっと思うんだ……オレ、高校くらい行ったほうがいいのかなって……」

「え?」

 思いがけない言葉に、竜胆はコーヒーカップを落としそうになった。

「……キキ」

 ぼそっとシオンが呟く。

「へ?」

「……キキを見てたら思うんだ。あいつも学校行ってないから……」

「キキちゃん? ええと、中学を一ヵ月足らずで不登校になったんだっけ?」

「うん。あいつ、ちゃんと友達出来るようになってきたっぽいんだけど、学校はたぶん行けないんだ、まだ」

「そっか。リザードマンハーフだもんね。色々あったんだろう」

「……うん。オレは、それでいいと思ってた。オレもそうだったし。でも最近はオレ、あいつは学校行ったほうがいいじゃねーかなって。リノやタズサ……キキの友達なんだけど、同じ歳くらいの奴と一緒にいるとこ見たら、そう思うようになったんだ。……だけど」

「うん……?」

「でもオレが学校行けってキキに偉そうに言えないなって……」

「別に、紫苑が言わなくていいんじゃない? それは」

「……そっか……」

 はぁぁとため息をついて、黙ってしまったので、竜胆は慌てて言い直した。

「あ、ああ、分かるよ。キキちゃんがもし学校に行けるようになったとしても、紫苑はそうじゃないってことが、なんか後ろめたい気がするんだよね? 別に後ろめたく思うことじゃないけど、思うわけだね?」

「うーん……」

 本人もよく分からないのか、眉間の皺を深めた。

 テーブルの上に、冒険者証がある。それをシオンはじっと睨みつけている。

 竜胆は、嫌なことから逃げるのが悪いこととは思わない。彼が逃げたとも思っていない。

 でも今の息子は、逃げることを嫌がっている。

 良い傾向なのかもしれないが、急いで成長しようとしているようにも思える。父親だからいつまでも子供でいてほしいだけなのかもしれないが。

「紫苑は末っ子だと思ってたけど、今はお兄ちゃんなんだなあ」

「お兄ちゃん?」

「パーティーの仲間は、君にとっては家族なんだねってこと。なあ、紫苑。今度、お父さんとダンジョン行ってみない?」

「父さんと?」

 そういえば最近、中年冒険者の週末冒険者とかいう趣味活動の引率をしていると言っていた。他にも小さな仕事は入っているかもしれない。昔はけっこう腕の良いパーティーに所属していたようだから。

 でも、父親とダンジョンに行くというのは、なんか恥ずかしい気がした。

「親とダンジョンって……」

「大型亜人は最初そうやって一族の中で戦いや冒険者の基礎を学ぶんだよ?」

「そうだけど……オレもうレベル15だし……」

「なにしれっとサバ読んでんの、まだ14でしょ」

「そういや、父さんのレベルって知らない」

「言ったことなかったっけ。しばらくやってなかったからね。父さんは探求士スカウトだから、再登録してもレベルは引き継ぎだったよ」


 探求士スカウトだけは、戦いの役割としてのクラスではない。学者や職人など、様々な分野の専門士といっていい。

 シオンが知っている中だと、キメラ捕獲を依頼してきた豚亜人グリンブルの香坂がスカウトだった。彼は優秀な魔獣研究者だ。


「君には、口で言うより見せたほうが早いよね」

 父親は立ち上がり、電話台の引き出しからカード入れらしきものを取り出した。

 なんて所に入れてるんだ……とシオンは思った。

「そういうとこ、空き巣に漁られやすいんじゃないか」

「そう思うんだけど、置き場所変えると忘れちゃいそうで」

 戻ってきた父親は、冒険者証をシオンに手渡した。

「レベル38……」

 あまりに思わせぶりに持って来るので、驚くほどの高さかと思ったら、そうでもなかった。いや、シオンよりずっと高難度のダンジョンに入れるし、充分だが。

「なんだ、もうちょっと上かと……」

 ついそう言った後の、父親の何とも言えない表情を見たとき、言わないほうが良かったとシオンは後悔した。

「いま、頭の中でお姉ちゃんのパーティーの人たちと比べてない?」

「うん……」

 鯛介のレベル48、やえのレベル49、灰児のレベル50がどうしてもちらつく。灰児なんかは特に、稀少なシャーマンだ。

「危険モンスター討伐パーティーと比べてはいけない……彼らはあんなに顔の広かったお姉ちゃんが、最終的に選んだ人たちだよ……。それに僕は意識してレベル上げるような仕事やってないからね。あ、負け惜しみじゃないからね? ブランクもあるしね」

「オレを拾ったときも、こんぐらい?」

「そうだね。その後すぐに冒険者辞めたから」

 竜胆はカップを持ち、少しぬるくなったコーヒーを啜った。コーヒーは熱くないと飲んだ気がしない。少しでもぬるくなると口をつける気を失くす。

「昔から、コーヒーセットだけは必ず冒険に持って行ったなぁ。どんなところでもお湯を沸かして飲めるようにだけはしてたよ。紫苑にも教えてあげるよ。温かくて美味しい飲み物を飲むとね、疲れが取れるし、仲間も笑顔になるよ。ダンジョンの距離が長くなるとね、案外そういうことが大事だったりするんだよ」

 そんなことを、灰児も言っていた。やえが温かい飲み物を作ってくれていたと。それに、香坂との仕事の後も、彼らはコーヒーを飲んでいた。

「父さんは地図を書くのも上手いよ。ダンジョンにいる虫や植物にも詳しい。テントを張るのも早いし、そのあたりにあるものをかき集めて、休む場所を作ることも出来るよ。携帯食をちょっと工夫して美味しいご飯も作れる。交渉も得意だ。すごいだろう?」

「すごい」

 自分は苦手なことばかりなので、今度は素直に感心した。

「オレがこないだ一緒にダンジョンに行った笹岡さんってワーウルフも、うるさいけど交渉だけはすごいんだ。口が上手くて、強引で、ちょっと無理やりだけど、なんか上手く丸め込んでくるっていうか」

「うん、うん」

 シオンの話を、竜胆は嬉しそうに聞いた。学校の話で辛そうにしているより、楽しそうに冒険の話をしている姿を見るほうが、父親としてはやはり安心する。


「父さんは紫苑と、あまり話してこなかったよね。ダンジョンに行ったら、僕が教えてあげられることは教えてあげるよ」

「う……うん……」


 なんだか、変な話になってしまった。

 結局、出産祝いって何すればいいんだ?


「……あ、そうだ。父さんも魔法使えるよな?」

「うん? 火起こしとか風起こしとか簡単なものならね。肉体強化はもう駄目だなぁ。元の体をあんまり鍛えてないから、筋肉痛がすごい。しかも最近二日後とかにくるんだよなぁ……」

 遠い目をする。

 娘の桜が魔法戦士ルーンファイターで、肉体強化エンハンス特化ではあったが、中々の使い手だった。魔力の才能は遺伝するので、父である竜胆にも素養はある。


「ソーサラーが口を口にくっ付けてくるのって、どういう魔法効果があると思う?」

「ブッ!」

 盛大にコーヒーを吹かれて、シオンは手にしていたクッションを防御した。が、テーブルの上に置いていた自分と父親の冒険者証に飛び散っていた。

「あー! 冒険者証が……!」

「こ、硬質カードだから濡れても大丈夫だよ……」

 慌ててティッシュを取りに行った息子に、ゴホゴホとむせながら、父親が声をかけた。カップを置こうとして、手を滑らせてしまい、ガチャンという音にシオンが耳を立てつつ振り返った。

「あーもー! なにしてんだよ……」

「な……なにしてるってこっちのセリフなんだけど……」



 

 八月三日のことを忘れていた。

 アイカに言われていたのだ。「こっこちゃんの誕生日だよ!」と。

 再確認するようなメールを貰って思い出した。


〈こっこちゃんの誕生日憶えてるよね?〉


 憶えてなかった……。


 帰ったら何か用意しようと思っていたのに、気が付いたら出産祝いのことばかり考えていた……。


「――それで、僕に相談を?」

「いや、相談は別にあります」

「うん。いいよ。何でも聞くよ」

 透哉は煙草の煙を吐き出した。仕事帰りらしい。白いシャツにネクタイを少し緩め、グレーのスラックスという軽装だ。肘の下で袖を捲っているが、意外に骨太でしっかりと筋肉がついており、左手には時計をしていた。

 普通のサラリーマンの格好ではあるが、端整な顔立ちに背もすらりと高いので、サラリーマン役をしている通りすがりの役者だと言われても、納得してしまうと思う。

 薄着だと筋肉の張りが分かる。魔道士にしては鍛えてるんだな、とシオンは思った。

 従兄といっても、顔は紅子に似ていない。けれど、目許などところどころ似ている。

 透哉の黒い目は、普段の紅子の目と同じだ。


 普段の紅子のほうが、シオンがよく知っている紅子だ。

 でも、よく考えたら、知っているというほど知らない。

 あのいつもと違う紅子が、紅子じゃないとは言いきれない。

 あれも、彼女なんだと思う。


「小野原くんには、いつもこっこがお世話になってるし。僕達もね。僕からもお礼言わなきゃと思っていたんだ。ごめんね、中々連絡しなくて」

「透哉さんは仕事が忙しいから……」

「それにしてもこっこ、小野原くんには誕生日言ってなかったのか。僕には要求してきたくせに……」

「何あげるんですか?」

「色々言われたけど参考書を買ってやるつもり。がっかりした顔が目に浮かぶよ」

「オレはどうしよう……」

「おめでとうメールで充分だよ。……ここ、暑いね」

「はい……」


 話をしたいと言っても、どこに呼んでいいか分からず、近所の公園なんかに来てもらったことを、シオンは後悔していた。

 ベンチに座っているが、日陰が無い。蝉の鳴き声がうるさい。

 夏になってずいぶん日が長くなったが、もう陽も暮れかけている。この濃い赤と夜になっていく濃い青が混ざったような色は、なんて言うんだろう。紅子の魔力の色のような赤とは違う。もう少し沈んだ赤。


「……この色、なんて言うのかな」

「え?」

 一応煙を気にしてか、透哉が目線だけをシオンに向けた。

 シオンは夜に変わっていく途中の空を指さした。

「あの、赤いのと青いのが混ざったようなとこ」

「……紫色じゃない?」

「さすがにオレでもそれは分かるというか……」

「群青色? それとも、もう少し赤いとこ?」

「ええと、濃い赤いとこ。真っ赤じゃなくて」

「……赤紫じゃないかな」

 思っていた答えと違う、という顔をしていたのか、透哉が煙を吐きながらはっと笑った。

「ごめん、ごめん。ちょっと疲れてて、適当に答えちゃったね」

「いや……すみません、疲れてるときにこんな場所で……」

 人間より大きな耳が見る見るうちに下がっていくのが可笑しくて、笑っては悪いと思いながらも、やっぱり透哉は笑った。亜人というのは不便な生き物だ。感情が隠せない。

「ううん。そうじゃないんだよ。あれはね、あかね色かな」

「どっかで聞いたような気がする」

「こっこのお兄さんの名前だよ」

「あ、そうか……」

 茜、浅羽茜さん、とシオンは頭の中で反芻した。

「ごめんね、小野原くんには世話になって。こっこ……紅子も落ち着いてる。石の力はあの子に馴染んでるみたいだ」

「浅羽、元気ですか? メールしたら、草間さんとこ通ってるって」

「うん。いまは、ほとんど毎日」

「そんなに?」

「草間先生が、千葉から帰ってきたら色々と教えたいことがあるって仰ってね。ちょうどいいから朝は僕が仕事前に毎日送って行ってる」

「遠くないですか……?」

「そうだね、かなり早起きしないといけない……」

 それで疲れているのか、とシオンは透哉を気の毒に思った。

「帰りは、僕のほうが遅いから、草間先生が犬の散歩がてら近くのバス停まで送ってくださるそうだよ」

 草間の家は山中にあり、そこから更にバスでふもとの駅に行って、電車で帰って来なければならない。

「でも、草間さんがついてるなら安心していいか」

「そうだね。うちにいるよりいいと思う」

 透哉は横に置いた鞄から携帯灰皿を取り出し、煙草を消した。

「どうかしたんですか?」

「母の具合があまり良くないのは知ってると思うけど、そんな母の様子を見てたら、紅子は強くなった力を使いたくなるだろうから。でも、そんな簡単に治るものじゃないんだよ。だいたい、紅子は治癒ヒールを医学的に学んだわけじゃない。力技なんだ。それに母が病んでいるのは、心のほうだから」

「心……」

「仕方ないんだ、うちは色々あったから。それに、元々そういう人なんだよ。特殊な魔法を受け継いでいる一族の出身なんだ。〈遠視ヴィジョン〉という稀有な魔法でね。それが祖父の目にかなって、父と結婚したんだ。かけ合わせってやつ」

「かけ合わせ?」

「そう。異なる秘匿魔術を受け継ぐ魔道士と魔道士は同じ人間でありながら異種とも言える存在だからね。そのハイブリッドを……」

 言いかけて、透哉は止めた。

 シオンの表情が、苦手な授業に必死でついていこうとしている子供のようになっていたからだ。

「……まあ、特別な魔道士一族の生まれなんだ、僕の母も。でもその魔法を、時に意識下でなくとも発動させてしまうことがあってね。それはとっても疲れることなんだよ」

「そうなんですか……」

 比較的簡単になった説明に、シオンはほっとしたような表情を見せた。透哉は微笑んだ。

「本当に、申し訳ないと思ってる。魔道士一族となんて関係の無い君に、頼ってしまって。家族として情けないけど、紅子は君のことが、一番頼りみたいなんだ。……そしてそれは、周りがどうこうしようとしても、しょうがないことだから」

「頼ってもらっていいですよ……オレそんなに頼りになってないと思うけど。浅羽やみんなのほうが強いし」

「そうかな? 小野原くんの良い所は、付き合いの短い僕でもすぐに十個以上言えるよ」

「そんなにあるかな……?」

「自分じゃきっと分からないようなことだから、他人が分かるんだよ。君のそういうところが、まず一つ良い所」

 にこりと透哉が笑う。

「あ」

「なんだい?」

「今の顔、浅羽に似てた」

 シオンの言葉に、透哉は一瞬きょとんとして、それから苦笑した。

「ごめん、自分じゃ分からないよ。見たことないから」

「あ、そうか……」

「どっちかっていうと僕は、茜のほうと似てるって言われてたよ」

「浅羽のお兄さんのほう?」

「そう」

「じゃあ、浅羽の兄さんは、浅羽に似てたのかな」

「そうでもなかったかな……? 僕とこっこ、普段は似てないだろう?」

「うん」

「その僕と似てるから、普段は似てなかったと思うよ」

「分からなくなってきた……」

 混乱してきたシオンに、透哉は紅子に似た顔でまた笑った。目を細めると似ているのだろうか。

「今日はとりあえず、小野原くんの相談を訊こうか?」

「あ、はい」

「その前に、パシらせていい?」

「へ?」

「喉が渇いたから」

 と言って、ポケットから小銭入れを取り出し、シオンに手渡した。

「そこの自販機で買って来てくれる? 小野原くんも何か飲みなよ。これ使って。僕はコーヒーがいいな。ブラック分かる? 砂糖入ってないやつ」

「あ、はい」

「あと、言うまでもないかもしれないけど、冷たいやつね」


 ……言われなかったら熱いやつを買っていた、とシオンは内心ほっとした。父親がどんなに暑くてもコーヒーは絶対にホットなのだ。


 急がなくていいよ、と透哉は言ったが、シオンは走って公園の入り口の自動販売機に向かった。父親もいつもブラックだから、よく買っている缶コーヒーを選んだ。自分のぶんは水にした。

 ジュースでも飲もうかと悩んで、結局ペットボトルの水にした。なんだかんだ言って、ダンジョンにいつも持ち込む水が一番飲み慣れている。


「ありがとう」

 戻ってきたシオンに、透哉が礼を言い、差し出された缶コーヒーを受け取った。

「あ、待って」

 プルタブを開けようとした透哉に、シオンは慌てて声をかけた。

「それを飲む前に聞いてほしいんですけど」

「……うん?」

「ソーサラーが口を付けてくるときって、何か魔法をかけてるんですか?」

「……口を付ける? 何に?」

「口に、口を」

 と、シオンが自分の口を指差す。

接吻キス?」

 透哉は改めて缶のプルタブを開けた。カシュッと小さく音がする。

「もう飲んでいい?」

「念のため、もうちょっと待ってください。この話をして、二回も飲み物吹かれたんで」

「……そう。それって、誰かがソーサラーにキスされて、それで何らかの魔法をかけられたかもしれないっていう相談てことだね?」

「キス?」

「知らない? 魚じゃないほう。口と口を付けたって話だよね?」

「魚じゃないのは分かります。でもキスじゃないです。口をくっ付けただけだから」

「いやそれがキスだよ。事象としては」

「キスって抱き合って、男からするやつじゃないんですか?」

「ちょっと違うかな。……いや、男からという部分を除けば、情を示す行為をキスと定義するのであれば、人工呼吸は確かにキスとは言えないし、同じく魔法をかけることが動機であるなら、それもやはりキスとは言えないから、小野原くんが正しいのか……」

「え? え?」

 ブツブツと呟いた後、透哉はコーヒーをぐいと飲み、それから言った。

「いや、深い話をありがとう。分かった。それはキスじゃないよ」

「はい」

「で、ソーサラーに口づけられたのは、小野原くん?」

「はい。なんかの魔法ですか?」

「異性間であるならまずは〈魅了チャーム〉を疑うべきだけど。そのソーサラーって、女性?」

「はい」

 透哉はコーヒーを飲もうとした手を、急にぴたりと止めた。

「……もしやうちの子に? こっこ?」

「あ、はい」

 目を閉じ、透哉はしばらく黙って、それからはあと息をついた。

「それは……兄として……いや従兄だけど……まあほとんど兄として……大変申し訳ないことをしたと言わざるを得ないね……」

「やっぱり何かの魔法なんですか?」

 シオンの顔が青褪める。透哉は今まで見たことがないほど悲しげな顔をし、ため息と共に額に手を当て、項垂れた。

「……大変申し訳ないとは思いつつ、あの子が気の毒だから、一つ言わせてもらっていい?」

「はい」

「……それは、キスかな……」

「は?」

 ぼそっとあまりに小さい、もごもごとした声だったので、耳の良いシオンにも聴こえなかった。

「あの、今なんて……」

「いや、いいんだ。魔法かどうかは……ちょっと分からないけど、そのときの紅子は、魔石を取り込んだ後?」

「はい」

「目が赤くて、ちょっと子供っぽいかんじの?」

「あ、そうです。あのときはずっとそんなかんじで」

「そっか。……それならきっと、マーキングのようなものだよ」

「マーキング……?」

 獣や魔物が、縄張りを示すために、特殊な分泌物や糞尿で臭いを付けたりすることだ。知性の高い魔物だと、爪や牙で樹木に傷をつけたり、自分が仕留めた獲物の骨や皮を飾ったりもする。

 ……というようなことを、難しい顔をした彼は考えているのだろう、と透哉は思った。

「僕、小野原くんのことよく分かってきたよ」

「え?」

「あまり気にしなくていいよ。ああいうときのこっこは、本能のほうが強いから。石を取り込んだことで、その意識が強くなったのかもしれない」

「本能?」

「そう。彼女が人間らしく産まれてこなかったというのは、前に話したよね?」


 透哉が優しく言った。シオンは頷いた。

 だんだん空が暗くなってきた。茜色と彼が教えてくれた色が、少しずつ消えていく。


「あの状態の浅羽が、弟がいるみたいなこと言ってた」

「……うん」


 透哉がコーヒーに口を付けた。シオンは手に持ったペットボトルをまだ開けていない。すっかり忘れているうちに、もうぬるくなっている。


「浅羽、弟がいるんですか? その、ダンジョンで産まれた……?」

「そう。一緒にね。あの子、双子なんだ。弟かは分からないけど、あの子が言うならそうなんだろう。今はもう、口にしなくなったけど。忘れたんだよ。だんだん人間になってきて。弟のことも、ダンジョンのことも。だから普段は憶えてない」

「双子……」

「言わなかったのは、あの子自身が忘れたことだから。でも、小野原くんにはもう話すよ。知ってしまったんだったら」


 兄弟のことを忘れてしまうなんて、可哀相な気がした。

 それに、忘れられたほうも。


「名前、なんて言うんですか? その、浅羽の弟って」


 透哉はしばらく、じっと空を見つめていた。彼は少し伸び気味の前髪を耳にかけていたが、ゆるく吹いた風でぱらりと目許に落ちた。


「無いよ。誰も付けてない」

「無い……名前が……?」

「人間じゃないからね」

「人間じゃない?」

「あれは紅子とは違う。人間に出来なかった。だから、名前も無い」


 あまりに衝撃的なことをさらっと言うので、シオンは次に何を尋ねていいのか分からなくなった。


「最初は、紅子もそうだったんだ、名前が付くまで。――あの子たちは、魔導子ドールって呼ばれてた」

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