魔法使いと戦士
スキュラが沈んだ後も、場は混乱を極めていた。
首が落ち、その首を失った体がゆっくりと倒れたせいで海が荒れ、魔法で戦場を支えていたマーメイドたちも、力をほとんど使い果たしていたため、場の安定を諦めて退避したのだ。
逃げ遅れた船が何隻もひっくり返り、まだ余力のあったマーマンたちは救助に追われた。
赤黒くいやにどろりとしたスキュラの血が、海上に油のように広がっていく。その血はメロウにとって忌避性が高いもののようで、海中からメロウが消え去ったのは幸いだった。
「……というか、臭い……」
蒼兵衛が顔をしかめる。
赤黒い血から逃れるように、アイカは蒼兵衛を連れて泳いでいた。
「鼻が曲がるとはこのことだな……」
「でもスキュラの血はメロウ避けの薬の原料になるから、けっこういい値段になるんだよ。手に入らないから高価だけど」
「お、じゃあこれすくっとけば高く売れるのか。何か容器あるか?」
「あるわけ無いし、無理だよ今は。それに少しすくったくらいじゃ売れないって。こうしてる間にどんどん薄まってくだろうし」
「そうか……勿体無いな」
「ああ、そうだね、トレジャーハントってお金要るもんね」
アイカはずっと蒼兵衛の体を支えて泳いでくれている。他のマーメイドたちもその役目をやりたがったが、アイカに頼んで鼻血が止まらなくなる前に逃げ出した。まだ戦いは終わっていないのに、無駄な出血は困る。
ふう、と蒼兵衛が息をついた。
「アイカちゃんがいて良かった……」
「へっ!? あ、あたしっ?」
アイカは目を丸くし、頬を赤らめた。
美人に弱くてコートがダサくて極めて言動のおかしい人だが、さっきは一生懸命戦ってくれて、素直に格好良いと思った。それに、感謝してもしたりない。ついでに背も高くて、黙っていればイケメンと言えないこともない。居住区から出たことがないアイカは、顔馴染みのマーマンか人間とばかり接していた。周りにいないタイプの人間だと意識すると、妹のタズサが蒼兵衛を格好良いと言っていた気持ちが、少し分かる。
と思った矢先に、蒼兵衛がぼそっと呟いた。
「守備範囲外のアイカちゃんのお陰で、私は鼻血を出さずにすんでいる」
「腹立つ……」
やっぱり、無いわ……とアイカは顔を引きつらせた。このまま海の真ん中に置いて行こうかしら。
「はぁ……でも、盲点だった……意外と私が純情だったなんて……」
「女に囲まれて鼻血出すのが純情……?」
「こんなに純情じゃ奥さんどころか彼女なんて出来ない……あっちから積極的にグイグイ来てくれるお姉さんを探さないと……」
「もう蒼兵衛さんは戦ってたほうがいいと思う。ねえ、このまま岸に戻っていいの?」
スキュラと戦闘していた場では、マーマンたちによる救助活動が続いている。
それ以外のマーマンは、逃げ出そうとするメロウを追い立て、駆除している。逃げ出すメロウやスキュラの死体を狙ってハーピィが集まってくるので、そっちの警戒にも追われている。
「メロウはもう大丈夫だし、ハーピィも狙ってるのはメロウやスキュラの死体だし。船がほとんど逃げるか壊れたから、足場も少ないしね。あそこに残ってても戦えないでしょ? あとは自警団に任せて……」
「うむ。それなんだが、シーサーペントのほうに行きたいんだが」
「シーサーペント?」
「ちょっと遠いが、泳げるか? ある程度近づいてくれたら、後は自分で泳いでいく」
人間にとっては遠泳の距離だが、マーメイドのアイカには問題無いだろう。たとえ蒼兵衛を支えながらでも、人間とは比べものにならない泳力がある。
「もちろん、出来る限りギリギリまで頑張って近づいてくれても構わないぞ」
「蒼兵衛さんはその正直過ぎるところを治さないと、彼女出来ないわ」
「えっ!?」
「こっこちゃんのところよね? あたしだって心配だし、もちろん行くわ。マーメイドならシーサーペントからでも逃げ切れるわよ、多分」
「かたじけない」
「でも危なっぽかったら、捨てて逃げていい?」
「……そのときはサーペントの圏外にな」
蒼兵衛は手で、腰に差した二振りの刀を確かめた。一振りはスキュラの頭に刺さったままだったのを、アイカが潜って引っこ抜いてきてくれた。実家にあった祖父のお気に入りの刀なので、失くすと不味い。それに失うには惜しい業物である。祖父にも殺される。
もう一振り――妖刀こころちゃんは、多分放っておいても手許にあるだろうが。
「……終わったら、しっかり拭いてやるからな。もう少しの辛抱だ。少ししたら、うちの魔女が全部ぶっ飛ばしてくれるだろうから」
二振りの刀の鞘を海中で撫で、蒼兵衛は言った。
「魔女って、こっこちゃん? その言い草、ヒドくない?」
「的を得ていると思うが……見れば分かるさ」
アイカは顔をしかめた。
まあ見ないほうがいいか、と蒼兵衛は内心で思った。
「とにかく、私を紅子のところに送り届けてくれ。そうしたらアクアリアに戻れ。あとはなんとかする」
「シーサーペントを倒すの?」
「ああ。戦士は、魔法使いの肉壁にならなければ」
なんとかするのは、私じゃないだろうからな。
「ス……スキュラが……」
戦場のすみっこで地道にパーピィやメロウを倒していたキキとタズサは、突然の大波に必死でボートにしがみついて耐えた。タズサが魔法でボートを上手く波に乗せてくれたお陰で、ボロボートは壊れずに済んだが、もっと大きな船がどんどんひっくり返っている。
海が荒れる前、スキュラの巨体から頭が落ちたのが見えた。
「……うそだろ……誰か、スキュラを首ちょんぱしやがった……!」
キキはあんぐりと口を開けた。
誰がやったかまでは見えなかったが、紅子の魔法ではなさそうだ。スキュラは魔法耐性が高いので、紅子クラスかそれ以上の高火力ソーサラーでなければ一撃で致命傷を与えるのは難しいだろう。
てことは、剣士がやったのだ。それも相当凄腕の。
はは、とキキは乾いた笑いを浮かべた。
「ね、サムライさんかな? スキュラ倒したの」
タズサが声を弾ませる。キキはぶんぶんと首を振った。
「まっ、まさかっ。あんなヘタレザムライが、キキちゃんより活躍するとかありえないよ……っ!」
「だって、すぱっと頭落ちたよ? 誰かが剣で……」
「ハッ……あの気持ち悪い刀……!」
近づくのもおぞましい妖刀の存在が頭をよぎった。バカに妖刀、とハイジが言っていたが、バカだが強い蒼兵衛に、呪われた刀を持たせたら、最凶の組み合わせだ。なにせゴーストもスパスパ斬ってしまうのだ。
スキュラの首くらい落としても不思議ではないと、キキはごくりと唾を飲み込んだ。
元々バカ強いからな、アイツ……バカだけに……。
(……ハイジが大量のゴースト全消しした後で、サムがスキュラまで……。ヤバい、キキちゃんわざわざ海まで出て来て、活躍してなくない……?)
ひそかにゴーストやメロウやハーピィを倒し続けていたので、戦闘にじゅうぶん貢献しているはずだが、仲間たちが派手に戦っていると、自尊心の高いキキは焦ってしまう。
「キキちゃーん。このへんメロウもハーピィもいなくなったけど、どうする?」
「もちろん、突撃じゃあ!」
「どこに?」
「シーサーペントのほう!」
「ラジャー!」
タズサがぶつぶつと詠唱を始める。優秀な彼女の魔法を持ってすれば、ボロボートでもどこまでも行けるだろう。
キキもオールを手に立ち上がり、少しでもボートが早く進むように波をかいた。
詠唱を終えたタズサがへりに頬杖をつき、尋ねる。
「ね、シーサーペントと戦うの? シーサーペントは普段は大人しいけど、陸に近づいてくるときは危ないんだって。おじいちゃんが言ってたよ。大きいし、動きも速いし。船ひっくり返されたら、すぐに捕まっちゃうと思うよ。マーマンなら逃げれると思うけど、リザードマンはどうかなぁ?」
「や、やなこと言うな……リザードマンは泳ぎは早くはないけど、強いから大丈夫なんじゃよ……たぶん……」
「作戦とかないの? キキちゃん隊長、バシバシ指示くれるから戦いやすかったのに」
「うーん、雑魚掃除は慣れてっけど、海のでっかいやつとは戦ったことないからなぁ……下手な作戦は部隊を壊滅させるっておばあちゃんが言ってたからなぁ……」
キキはオールを手放すと、ボートの真ん中にどっかり腰を下ろし、持っている四丁の魔法銃の弾を入れ替えた。
「電撃弾……はやめとこ。味方まで感電しちゃうもんね」
タズサの言う通り、シーサーペントと戦う算段はついていないが、とにかく次の戦場の中心に行くしかない。
「行けばきっとみんなも来るだろし」
「パーティーのみんな?」
「うん。紅子が戦うだろうからさぁ。みんなでサポートしてやんなきゃね。紅子、ビビリだし、初心者だしさ」
「ふうん? あのお姉ちゃん、優しそうだけど、戦えるの?」
「戦えるっつーか……んー、まあ、魔力は強いよ。頼りないけど。あと、たまに紅子じゃないやつが戦ってるときは、あるかな……」
「じゃないやつ?」
「なんかなー、そういうかんじがしっくりくるんだよね。てか、いま言ってしっくりきた」
ふむ、とキキは少し考えて、答えた。
「紅子じゃない、強いやつ」
揺れが収まるまで、シオンは船室でハイジの頭を抱え、体を丸めていた。
ようやく収まった後で、シオンは船を操舵していた男に声をかけた。
「大丈夫か……?」
「なんとか……そっちは? シャーマンの兄さんは大丈夫だったか?」
ハイジの様子を見ると、微動だにせずに寝ていた。
「……うん、寝てるな」
「よく起きなかったな……」
あれからシオンはゴースト退治を共にした船に乗せてもらっていた。スキュラが大暴れを始めてから揺れが酷くなったので、船室のソファからハイジが転がり落ちないよう支えていたのだ。
揺れがようやく収まって、しばらくして歓声が聴こえた。
それから船室の扉が開いた。
「スキュラが沈んだぞ」
乗せてもらっている船の、パーティーのリーダーである冒険者だ。
最初にシオンを無下にした男で、名は坂元と言った。今はすっかり腕を見込んでくれている。
「誰かがやったぞ。首が落ちた」
「そうか」
シオンは特に驚かず、頷いた。
「お前の言った通りだったな。スキュラと戦ってたあたりは酷い有様だ。スキュラが大暴れして、幾つも船が大破してる。マーマンたちはもう救助だけで手一杯だろうな」
「俺達はまだ離れていて良かったな……」
ふう、と息を吐き出し、操舵者が呟いた。
ゴーストが一掃された後、スキュラのほうに応援に向かうか相談していた坂元たちに、シオンが言ったのだ。
――あっちにはスキュラを倒せる奴がいる。下手に近づくより次の動きに備えたほうがいい。
「おかげで、俺たちはすぐに動けるぜ。どうする?」
操舵者が言った。それには答えず、坂元はシオンに尋ねた。
「スキュラを倒したのも、お前の仲間なのか?」
「それは分からないけど……倒せるくらい強い奴なのはたしかだ」
「そのシャーマンの兄ちゃんといい、高レベルパーティーなんだな」
そのシャーマンの兄ちゃん――ハイジはいまは完全に眠っている。スキュラ戦の場から離れていたとはいえ、けっこうな揺れだったのにまったく起きなかった。それだけ消耗したのだろう。陸まで戻って戦線離脱させてやりたかったが、まだ戦力の残っている船を引き返すよう頼むのは気が引けたし、またハイジの力が必要かもしれないとも思った。
しかし、起きる様子がまったく無い。このまま戦場に置いていていいのだろうか、と思いながらも、陸に引き返す時間は惜しい。
たぶんスキュラを倒した蒼兵衛たちは、場の態勢を整えるのに時間がかかり、すぐに次の戦いには加われないだろう。
「シーサーペントを追い払えば、大型はいなくなる。その後は集まったハーピィやメロウを片づければ、奴らも消えていくだろう」
ほとんど戦いは終わったかのように、坂元が言った。
「スキュラを倒したのがお前のパーティーの奴なら、お前らが今回の大殊勲だな。普段から討伐専門でやってるのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
「そうなのか? でも今回の戦果で、討伐の依頼が増えるだろうな」
「そうだな……」
坂元の言葉に、あ、とシオンは思った。
強力な討伐パーティーに依頼が来るような危険なモンスターは、ほとんどが低レベル冒険者では入れないような迷宮にいる。普段封鎖されていて、立ち入りを禁止されているような場所だ。
桜もそういう場所で多くの危険モンスターを討伐していた。
単にアクアリアを守るために戦っているつもりだったが、同時にパーティーを評価を上げることにも繋がる。
「そこで、俺はお前に訊きたいんだが。俺達もこのままサーペントの包囲に加わっていいのか?」
坂元がシオンを真っ直ぐ見た。シオンを対等以上に見てくれているのだろう。
「いいんだよな?」
「出来たら頼みたい……んですけど」
「まあすでに戦闘圏内まではきてるけどな。シーサーペントはひとたび好戦的になれば、このくらいの距離すぐに詰めてくる。それに、稀にブレスを吐いてくるからな。海竜ほどの威力は無いが、喰らえば船に穴ぐらい開いちまう。……そういや奴らのかなり近くに、一つだけ船があったな。ずいぶん近くでシーサーペントたちを牽制してて、あれに乗ってる奴らもたぶん、相当討伐慣れしたパーティーだろうな」
「それたぶん、オレが乗ってたボートだ」
「そっちもお前の仲間か」
坂元は驚きを通り越し呆れたような顔になった。シオンは頷いた。
「仲間のソーサラーが乗ってる。オレはそこに戻りたい」
「いいけどよ……シーサーペントが暴れ出したら離脱するぜ。もうシャーマンの兄ちゃんも戦えないだろ?」
「近づいてくれたら、適当に足場を探して乗り移る。そしたら離脱してくれて構わない」
「足場に出来そうなハーピィも減ってきてるけどなぁ」
「それから勝手な頼みだけど、オレが船を降りたら、ハイジを連れて戻ってほしい」
「まあなるべく近づけてやるさ。スキュラとは戦わずに済んだし。それにこの戦場で一番強いのは、お前らのパーティーみたいだしな」
「ありがとう」
「出来たら、戦わずに追い払って済めばいいな」
坂元の言葉に、シオンは頷いた。
――でも、そうはならないだろうな。そうシオンは予感した。
鬼熊やワイト、並みの冒険者では手に負えないようなモンスターと対峙したとき、紅子は凄まじい力を発揮してきた。
それは、紅子が強力なモンスターに対抗し強くなっているというよりは、紅子の強さに匹敵する敵が自然と湧いているような気さえしてくる。
戦うたびに、紅子の魔力は増大している。
それに紅子本人の精神が追い付いていないだけで。
(そういえば、冒険者センターで浅羽に会ったとき、なんて言ってたっけ……)
――……私、ダンジョンに、行きたいの。
――どうしても。行かなきゃ。だから、冒険者になるの。
――行けば分かるの。だから、行くの。
話している途中に、ぼんやりと光を失った瞳で、でもはっきりと呟いていた。
あれは、誰が喋っていたんだろう?
(たんに、時々、おかしくなるんだと思ってたけど)
最初は驚いたが、人間離れした特異な力を持っているし、変わった出自の彼女だから、そういうこともあるだろうとすっかり慣れてしまっていた。
(でも、あんなふうになる浅羽も、浅羽なんだよな)
あの状態のとき、彼女は何を想っているんだろう?
「坂元さん」
立ち上がったシオンは、深々と頭を下げた。
「ハイジのこと、頼みます。もし起きたら、戦況を伝えてください」
「なんだよ、急にかしこまって。別に気にしなくていいよ、お前らは功労者だし」
「こっちこそ助かった。ありがとうございます」
ぺこりとシオンは頭を下げ、船室を出た。
戦場での経験豊富なハイジは起きないし、スキュラを包囲していた者たちは、おそらくほとんどが戦線離脱だ。蒼兵衛もどんな状態か分からない。そういえば、妹尾のリザードマンたちはどうしているんだろう? 幽霊船と違って、シーサーペントは彼らと相性は悪いだろう。
(大海蛇退治は、ソーサラーが適任だ)
沖に向かって進んで行く船の上で、シオンは手すりを掴み、キョロキョロと辺りを見回した。足場になりそうなハーピィの群れは無い。ほとんどが大戦場になっていたスキュラのほうに行ってしまっていた。あの辺りはまだ掃討戦が続いている。
でもそのほうが、好都合だ。
紅子が思いきり魔法を使うには。
(あのクラスのモンスターでも、浅羽なら倒せる)
火力だけなら、充分高レベル級だ。でも経験は無い。
(……オレにも無い)
大規模な海上戦闘はこれが初めてだ。大型なんて遭遇したこともなかった。
潮風に髪が顔に張り付くのを払いながら、シオンは顔をしかめた。
(違う。ただ、強さじゃないんだ……)
ただ強いだけで生きて帰れるのなら、桜は死ぬことはなかった。
浅羽は、まだ初心者で、それに、女なんだ。
本当なら学校に行って友達と過ごして、戦闘なんて似合わない、そういう女子だ。生い立ちが複雑で、強い魔力があるという以外は、普通の。
優しい彼女には、普通の生活が似合っている。
やえから桜の話を聞いてから、以前よりそのことを意識するようになった。
あんなに強かった桜でも、生きて帰ってこられなかった。普通の女子並みに臆病で、戦うのが苦手な紅子に、このまま戦うことが出来るのか不安だった。
(……あ。そういや大魔法三発って、あれ守る気なのかな)
彼女が師に言われたことだ。急に思い出した。
この冒険の間、使って良い大魔法は三発まで、という約束だ。どういう魔法が大魔法なのか、聞いても答えなかったから、本人もよく分かってないのだろう。
(……守りそうだな。とりあえず、ついててやらねーと……戦力にはならないかもしれないけど。浅羽は強いけど、そうじゃないんだ……ついててやんないと……)
ずっとそうやって冒険してきた。これからもそうだ。
シーサーペントを包囲している船団の中に、ひときわ重厚な船があった。その横にシオンの乗った船がつくと、上から声がかかった。
「シオンさん!」
聞き覚えのある野太い声は、リザードマンのものだった。船の上から妹尾のリザードマンが手を振っていた。
「こっち上がってきますか!?」
言うより早いか、縄梯子が投げられる。シオンは急ぎ船室に戻った。
「あの船に、すれすれまで近づいてほしい」
操舵士にそう頼み、出て行く前にちらとハイジの様子を見ると、瞳がうっすらと開いた。
緑と淡い褐色が混ざったような瞳の色は、いまは魔力のほとんどを放出する大霊術を使った影響か、いまは色を失ったように灰色に変わっている。名前の由来なのかもしれない羽のように拡がった彼の魔力の銀光を思い出した。
「ハイジ……起きたのか?」
彼が横たわっているソファにシオンは近づいた。狭いソファだから足を折り曲げさせられていて窮屈そうだったが、ハイジはまだ眠たそうに目を細めている。
「……少し……いや、まだ少し寝てる……たぶん、会話したことは後で忘れる……」
「もういいから、休んでてくれ。後はオレたちが」
「……死ぬなよ……」
ぽつりと、ハイジが言った。
「仲間が……僕の見てないところで死ぬのは……もう、御免だ……」
「ハイジ……」
意識は半ば夢現にあるのだろう。でなければ、ハイジはこんな話をしないような気がする。本当の気持ちを、彼はいつも奥底に閉まったままだ。
「……僕はただ、桜に付き従っていただけだ。夜はそうじゃなかった。でも、彼の方が姿を消してしまった。正しいのは彼だった。でも深く気に病んだのも彼のほうだった……」
「そんなことない。誰の判断が正しかったかなんて誰にも分からない。俺だって目の前で仲間が死んで、何も出来なかったことがある。もっと何か出来たんじゃないかって思ったし、何度も夢に見た。でも、どうしたら良かったのかなんて、今でも全然分からねーよ。ずっと苦しいと思うけど、でも、この苦しさを増やしちゃいけないとは思ってる。だから、さっきハイジが皆を救ってくれたこと、感謝してる」
色を失った瞳が、シオンの金の瞳をぼんやりと見つめた。ソファから落ちてだらりと垂れ下がった手をシオンは掴み、強く握った。
「ありがとう、ハイジ。もう休んでていい。俺達全員、ちゃんと帰って来るから」
「……桜……」
「似てるか?」
「……素で間違えた……。言っただろ、寝ぼけてるって……もういい……戦ってきなよ……」
腕を腹の上に戻してやり、ずれていた毛布をかけ直してやった。
「……ちゃんと信じてるから。君たちの戦い、見てきたから。……強いよ、君たちは。あの頃の僕らには及ばないけど、充分にね」
喋り疲れてきたのか、ハイジが目を閉じた。すぐに眠ってしまいそうだったので、シオンは慌てて言った。
「さっき、仲間って言ってくれたの、嬉しかった。俺たちの戦いって言うなら、その中にもうハイジも入ってる。俺は、サクラに負けない強いパーティーを作りたい。それにハイジは必要なんだ」
「……強い仲間を得るには、見返りが必要だって、分かるか?」
「分かるよ」
「じゃあ、勝ってきなよ。僕は強い仲間としか組まない。仲間の鎮魂なんかしたくないからな……」
「うん」
シオンが頷いた後、もうハイジは寝息を立てていた。起きた時には覚えてないだろう。ガルーダは忘れっぽい種族だと言われている。それはどこかの国の神話で、夢と現を渡り歩く霊鳥の化身だという伝説があったからだ。亜人の中でもとりわけ数が少なく、滅びゆく種族であるゆえに、彼らは仲間を失う悲しみを何より深く恐れ、嘆く。
(オレだって、仲間を失うのは嫌だ)
船はリザードマンの船に近づいてくれていた。
シオンは手すりを越え、躊躇なくジャンプすると、縄梯子に飛び移った。と同時に、自力で登らなくてもスルスルと縄梯子が上がっていく。リザードマンの一人が引き揚げてくれたようだ。やっぱりすごい力だと改めて感心する。
「良かった。無事だったんですか」
シオンがそう声をかけると、リザードマンの青年が、がははと声を上げた。
「ま、海の戦いは得意とは言えませんが、リザードマンが幽霊船やスキュラごときに沈められたりはしませんよ。ときに、うちのお嬢は?」
「あ、陸に置いてきたんだけど……」
「なるほど。じっとしてりゃいいんですが、してないでしょう」
「やっぱりそうかな。でも、キキは一人でもある程度行動出来る奴だから……」
「いやいや駄目すよ? あれを過信しちゃ。そこらの子供よりは強いでしょーが、余計なことせずにいられないのがうちのお嬢とオヤジの血っすからね。ま、どっかで落ちて死んでりゃそれまで」
ガハハと笑う。リザードマンの絆は強いが、こういうところは元々戦闘種族だからなのかドライだ。
「それに比べて、蒼兵衛さんはすごいですねえ。スキュラの首を落としたのを見てましたよ」
「あ、やっぱり蒼兵衛がやったのか……相変わらず強いな」
「人間離れしてますよね、あの人も。さて、シーサーペントを追い払いますかね」
「どうやって?」
「強引ですが、この船で突っ込みますよ。他の船より持つでしょう」
「そんな、三体もいるのに、危なすぎる」
「でも、マーマンたちはもう打ち止めでしょう。なに、一人二人溺れ死ぬかもしれませんが……」
「やめよう! アンタらが溺れたら、誰も引っ張り上げられない!」
軽く笑うリザードマンの青年に、シオンは慌てて言った。
「でも戦いってそんなもんでしょう。戦士が躊躇したら戦士以外の者が死ぬ。シーサーペントをここで食い止めないと、マーマンの居住区が襲われるかもしれねえ」
「そ、そうだけど……」
「そのへんもっとクールな方かと思ってましたけど、けっこう優しいんすね」
リザードマンの言葉に棘は無く、皮肉ではなかっただろう。だがシオンははっとした。
少し前なら、彼と同じことを思っていた。
「そういうとこ、シオンさんの良い所ですけど、戦場では気をつけてくださいね。ひとたび戦いの場になれば、俺達戦士は真っ先に突っ込むし、魔法使い連中の肉壁にもなる。誰かがやらなきゃなんない役目を、俺達は選んでここにいて、メシ食ってる。そうでしょう?」
かつては当たり前に思っていたことを言われ、背中をぽんぽんと子供にするように撫でられた。
「ま、シオンさんたちは俺らが守りますよ。図体だきゃでかいっすから。寒さと電撃には弱いですけどね」
「オレもあんまり泳げないから人の事言えねーけど……リザードマンは海上戦闘とは相性悪いから、無理はしないでください」
「そうそう、こういうことは、はっきり言わなきゃ。なんせ命かけてんだから」
ガハハ、とリザードマンは笑った。
今度は無遠慮にバシバシと背中を叩かれた。かなり痛かったが、彼らはよくこうして仲間と鼓舞し合う。戦いの場にいるという感覚がする。
少し、頭が冷えた。
紅子を守ってやらなければなんて、おこがましい。
彼女は強い。それに、もう冒険者だ。
そうだった。彼女の力を信じるなら、友人として彼女の傍にただいるだけではなく、戦士として、彼女の戦いをサポートすべきだ。
ドン、と巨大な太鼓の音のような音がして、突然海が揺れた。
スキュラが倒れてから、穏やかになりつつあった海が荒れ、海上を安定させていたマーメイドたちが力を使い果たしたことで、波が激しくうねり、頑強なリザードマンのボートもぐらりと揺れた。
「おっと!」
リザードマンの青年は大股を広げてその場に踏ん張り、シオンは腰を落として体勢を保った。
「いまの、魔法?」
シオンは傾いたボートの縁まで走り、手すりを掴んで身を乗り出した。
ドン、ドン、と立て続けに花火が上がるような音がして、水柱が上がる。聴いたこともなかったシーサーペントの咆哮が空気をビリビリと震わせた。
水柱が上がっている場所から少し離れたところに、小さなボートが見えた。それより奥で波がよりいっそう激しくうねっているのは、シーサーペントだろう。
三体いたはずだが、一体はすでに胴体に大穴を開け、波間に浮かんでいた。
「……倒してる……」
その獰猛さと素早さから、マーマンが数人がかりで沖に追い返すのがやっとの危険なモンスターだ。
魔法攻撃が有効だが、素早さに加え魔力感知能力の高さもあり、大きな魔法は簡単に回避されてしまう。詠唱に集中と時間のかかる大きな一発を当てるのが難しいため、倒しきるのが困難なのだ。
だから、チームを組んでの連携が必要となる。マーマンの戦士が海での機動力を生かした牽制とソーサラーの守りを担当し、複数のソーサラーが威力は低めでも連続で精度の高い魔法を確実に当て、ダメージを蓄積させるというやり方が定石だ。
それを紅子は、詠唱短めの魔法を並みのソーサラーの数倍もの速さと威力でほとんどやみくもと言っていい撃ち方をし、シーサーペントを自分たちの近くに近づけないようにしている。一体は運悪く胴体に直撃を喰らったのだろう。しかし残りの二体は、紅子たちに近づけないまでも、巧みに回避している。
このまま外海に逃げ去ってくれれば、これ以上戦わずに済むが。
(……浅羽の強さが圧倒的なのに、逃げない……?)
あまり粘り腰で来られると、紅子の集中が切れる可能性がある。その隙を見計らってボートに接近し、ひっくり返すことなど動作も無い。
「まずいな。もう少し近づければ……」
リザードマンの船は、重量級の彼らが乗っているだけあって、激しい揺れの中でもなんとかひっくり返らずに進んでいる。しかし、あまり近づきすぎると、今度は彼らが標的になってしまう。もちろん彼らはそれが狙いで、さっき言っていたように、自分たちは船を破壊され海に投げ出されたとしても、ソーサラーの援護をするつもりだ。
(でもそれじゃ、死人が出る)
小柄なキキの泳ぎは悪くなかったが(泳ぎ方は妙だったが)、本来重量級のリザードマンは泳ぎが不得手だ。冷えに弱いし、重みから素早く動けない。
「――おーい! シオンー!」
下からでかい声が聴こえて、シオンは真下を見た。
信じられないくらいボロの、ただの救命用ボートに、キキとタズサが乗っていて、遭難者のように両手を振っている。
「それ、うちの衆の船だろ! ったく、トロトロしやがって! こっち来なよ!」
「え……」
三人乗ったらもうひっくり返りそうだ――。
「大丈夫! タズサがちゃんと魔法でキャッチしてくれっから! 中々の魔女っ子だからぁ、コイツ!」
キキの口の悪さは酷いが、タズサがうんうんと横で頷いている。マーメイドのソーサラーたちがしているサークレットやブレスレットを身に着け、にこにこと笑って手を振っている。たしかに、小さなボートが波にひっくり返らずピタリと静止しているのは、彼女の魔力の強さと安定感を表わしている。おっとり笑っているのに妙な頼もしさを感じたのは、
(あ、そっか。浅羽がそうだからだ)
シオンにとって、強いソーサラーのイメージは、いつだって浅羽紅子だ。
(オレだって、もう失いたくない)
浅羽も、蒼兵衛も、キキも、ハイジも、出会ってきた人たちも――。
「おうおうオメエら! シーサーペントはこのプリンセスがきっちりシメてくっから、しっかり声出しとけよ!」
轟音の中でもキキの声はうるさく響いた。リザードマンの若衆たちは、手にハンマーを持ち、操舵手以外はボートの前方後方左右にそれぞれ踏ん張り、バランスを取っていた。
「クソガキだがお嬢の言う通りだな。轟音といえば俺ら、負けてられねえ」
青年がすううと息を吸い込み始めた、分厚い胸板がみるみる膨らんでいく、シオンははっと両耳を手を塞ぎ、船から飛び降りた。
「グガァァァァッ!」
先にキキが発した〈轟音〉を掻き消すように、その何倍もの音量の〈轟音〉が海上に響き渡った。
六人ものリザードマンの〈轟音〉は凄まじい。空気をビリビリと震わせ、重く下がっている雲まで散らしかねない。多くの味方がいたときの戦場では使えないが、今ならシーサーペントの注意を紅子から逸らし、強い牽制にもなる。
「――親しき友、大気の精霊よ、その腕を広げ、抱擁せよ」
キキたちのボートに飛び降りたシオンの体が、途中から落下スピードがゆっくりとなり、ふわりとボートの真ん中に降り立った。ボートの中はぬるま湯が浅く張ってあったので、ブーツが足首まで濡れた。
「すごいな。すごく安定した魔法だ」
大気に干渉するのは、強い集中と繊細なコントロールがいる。まして落ちてくるシオンを素早く受け止めるのは、熟練したソーサラーの技の域だ。
「わたし、激しくて攻撃的な魔法よりも、細かくコントロールのが得意なんです。ああいうふうに、強い魔法見たのは初めて」
タズサは言って、戦場を指さした。〈轟音〉のお陰で普通は聴き取れないはずなのに、とシオンが不思議に思っていると、タズサはにこっと笑った。
「大気に干渉して、このあたりだけ隊長たちの〈轟音〉の音量を和らげてます」
「すごいな。でも、念のため聞くけど、隊長って……」
「キキちゃん隊長です」
タズサが誇らしげに胸を張り、吠えているキキに視線を向けた。
「タズサは、キキちゃんパーティーに入れてもらったんです」
「そうか……。おい。キキ、キキ、お前はもういい」
ぽこん、とその頭を小突くと、「おおっ?」と声を上げ、キキが我に返った。
「グガ……吠えなくていい?」
「もういい。タズサ、船を動かしてくれないか? あの船の近くまで」
「はい!」
「危険だと思ったらオレが離脱の指示を出すから。タズサだけでもボートを捨てて、泳いで逃げるんだ。このあたりにメロウはもういないし、マーメイド一人なら逃げきれる」
「んん? そしたらキキちゃんは?」
「……戦士だろお前は」
ぽんと肩を叩くと、キキは慌てて頷いた。
「お、おお、そうだった。リザードプリンセスは死を恐れぬ戦士だった。溺死はあんまりだけど……てかシオン、いざというときあたしを助けるつもりないの!?」
「状況によるけど、海での戦闘はオレも不慣れだし、そんなこと考えてる余裕が無い。国重さんにも言われてるだろ。キキはリザードマンの戦士だって。オレたち戦士はソーサラーを守って戦うのが役目だ。生き延びる覚悟も死ぬ覚悟も無いなら、帰れ」
「帰らないもん! 行くもん行くもん! あんま活躍してないし!」
グギャーと吠えて、キキは背負っていた魔銃を手にした。
「シーサーペントには炎じゃあ! 《サラマンデル》!」
「飛距離はタズサが補うよ! 遠くからでもバンバン当てちゃうから! キキちゃん隊長、頑張って!」
「任せろ!」
おー! と子供二人が腕を振り上げる。この緊張感の無さは、まあこの場合むしろ長所だろう。
シオンも一振りだけソードブレイカーを抜いた。
「あの~」
「ん?」
タズサにジャージの裾をぐいぐいと引っ張られ、ひっきりなく水柱の上がる海を睨みつけていたシオンは、彼女のほうを見た。
「キキちゃん隊長が号令してるから、わたしたち隊員は、『おー』か『いえっさー』は言わないとですよ?」
「隊員……? オレ?」
「ですです」
タズサは真顔で頷き、シオンがキキを見ると、さっと目を逸らされた。
「いつ隊長になったんだ?」
「な、成り行きというか、タズサがあたしのこと尊敬し過ぎてて……てかさぁ、キキちゃんのキャラはいつもこんなじゃん……? 今更ツッコまないでよ! 行くぞっ! お前たち!」
「おー!」
タズサには気分良く魔法を使ってもらわなければならない。この場で紅子の次に戦力になりえるソーサラーかもしれないのだから。
「……おー……」
士気高揚しているタズサの手前、シオンも反論せずソードブレイカーを持った腕を上げた。




