ガルーダ
ハーピィを足場に、シオンは一隻のボートに飛び乗った。
(――けっこう行けるなぁ、これ)
飛行中のハーピィは足場に使えることが分かった。小柄で体重が軽く、身体能力の高いワーキャットならではだろうが。今度ニコねこ屋の人たちにも教えてやろう。
千葉に来てすぐのハルピュイアイ退治で、動きや癖をよく見ていたお陰だ。
「お、お前、ワーキャットだよな? どこから来た?」
ボートに乗っていた冒険者はあんぐりと口を開けていたが、はっとして船に降りてきたシオンに駆け寄り尋ねた。
それが見覚えのある顔だったので、シオンも「あっ」と声を上げた。
「さっきの人」
「あっ、あんときの子供か!」
「オレたちを乗せてくれなかった……」
「しょうがねえだろが! ていうか、いま、どっから来た!?」
「あのへんから」
と、シオンは自分が飛んできた方向を指差した。
「ハーピィに乗って……」
「ハァ!? どういう理屈でだ!?」
「ハーピィは攻撃喰らったり避けたりするとき、反射的に上昇するんだ。その立ち上がりの力がものすごく強いから、タイミングを合わせたらジャンプ台みたいに……」
「は……? あ、あー、いい、いい。説明されても分からん。器用な奴だな……」
「ちょっと休ませてくれ」
言って、シオンはウエストバッグから布を取り出し、片手に握ったダガーに付着した血を拭う。冒険者博で買ったダガーは、六振りあってとても気に入っている。奮発して買ったのと、せっかく透哉にカスタマイズしてもらったので、この海で絶対に落としたくない。
(ハイジはこのへんだと思うんだけど……)
スキュラの周りのゴーストがほとんど片付いている。優先して片づけるならそこだとシオンにも分かる。そして、あらかた片づけた後は、ハイジならすぐに次の仕事をするだろう。
埼玉でもそうだったし、この千葉でもずっとそうだった。限界まで、自分に出来ることをやる。そういう人だ。
だから、ちょっと心配だ。強さは疑っていないが、無理をし過ぎてしまいそうで。
背負ったバッグのベルトをしっかりと締め直し、もう一度手の中にダガーを握る。ソードブレイカーは敵をいなすのには良いが、重いので腰にさしてある。
「ふう」
スカーフを巻き直しながら、辺りを見回した。
このあたりは冒険者たちが乗る船が密集しているが、幽霊船がふらふらと波間に浮かんでいるせいで、どの船も自由に動けていない。
マーメイドのソーサラー団が《退魔》でゴーストを排除しているが、シップまでは除霊出来ないでいる。
海馬を操るマーマンの自警団たちは、主に二つの役割を担っていた。
一つは上手くスキュラを引き付け、幽霊船から離していること。
もう一つは、幽霊船の合間を上手く縫って、海上を疾走しながら、手にした銛で集まって来たメロウを排除している。
「マーマンは戦い慣れてるかんじだけど、冒険者はあんまり役に立ってないな……」
シオンの言葉に、中年の冒険者が顔を引きつらせる。
「し、しかたねーだろが……」
アクアリアの者たちにとっては、自分たちの命や生活が脅かされているが、集まった冒険者にとっては単純な人命救助ではないのだ。手柄を立てて恩賞を貰おうだとか、力試しがしたいだとか、貴重な素材やデータを取りにだとか、緊急事態ほど様々な欲が渦巻いている。
「……俺たちはアクアリアに住んでるわけじゃねえ。奴らほど命はかけられねーからな。こっちも生活や家族がある。ここでおっ死ぬわけにはいかねえ」
男の言い分は、シオンも分からないでもない。色々な冒険者を見てきた。ほとんどが生活のためにやっている。待っている家族もいるだろう。命をかけろとは言えない。
「腕のいいシャーマンを見なかったか? 仲間なんだ」
「シャーマン? 見てねえが、スキュラの周りのゴーストが消えてくのは見たな。あと、シャーマンじゃねえけど、でけえボートに乗ったリザードマンたちが幽霊船をツルハシやハンマーでガンガンぶっ壊してるのは見たぜ」
それはきっと夏休み中だった妹尾組のリザードマンだ。彼らが普段、建設現場で働く様子をありありと想像してしまった。
船体を強引に壊す、というのは、荒々しいが実は効果的だ。
(〈即時除霊〉を一気に使って、いまは休んでるのかもしれない)
シオンはハイジがいまどんな行動をしているのか想像した。
「沿岸警備隊が来りゃ、シーサーペントを釣って行くだろうよ。そしたら終いだ」
「そんな簡単に考えないほうがいいんじゃないか」
思わず言ってしまう。男がムッとした顔をしたが、気づいていないふりをして、辺りを見回した。
スキュラを外海に誘導するには、シーサーペントが邪魔だ。シーサーペントを撃退するか、いっそスキュラを討伐するしかない。
だが、スキュラと本格的に戦うとなると、間違いなく被害は甚大になる。だからマーマンたちも本気で攻撃していない。出来ないのだ。倒しきれなかったら猛り狂うスキュラからの反撃は凄まじいものになるだろう。
(長引かせず一気に倒すなんて、ソーサラーでもなきゃ無理だ。それも浅羽クラスの……)
ふと、過去の戦いを思い出した。
(あ。そういえば、もう一人居たな。一撃で大型モンスターを倒せる奴……)
強靭な肉体を持つ巨大モンスターをも一刀両断に出来る男が。
彼が戦おうとしていたシーサーペントは今は近づいてこない。暴れているのはスキュラだ。
女のモンスターはもったいなくて斬れないと言っていたから、戦ってくれるか心配だ。女以前に完全にモンスターだろうと思うのだが。
(そうだ。あいつのほうが浅羽よりスキュラに近いんだよな……)
戦ってくれるかなぁ、とシオンは遠い目で戦場を見つめた。変わってる奴だからな。
政市の船で出て行ったはずだが、そもそも船酔いをしていないか心配だし、メロウに〈魅了〉をかけられていないかが一番怖い。
遠海にはまだ鬼火が見える。ゴースト湧きは今は落ち着いているようだが、またすぐに湧いてくるだろう。そうなるとマーマンたちがスキュラに集中出来なくなる。
シオンはダガーをしっかり握り、男に顔を向けた。
「休ませてくれてありがとう」
そう言って、ボートの手すりに足をかけた。タイミングよく他のボートがすれ違うか、ハーピィが飛んでこないかな、と思いながら、辺りを見回す。
「おい、ボウズ、また飛んでくのか」
「そうするしかない……わっ」
朽ちた漁船から、けたたましい悲鳴が上がった。とり憑いた憑依霊の断末魔だ。
全身がビリビリと痺れるような絶叫は、かなり近い。思わず耳を抑えながら、シオンはその方向を見た。
「除霊か!」
同じように耳を抑えた男が、顔をしかめながら呻く。
「すげえな……ゴーストシップの除霊なんて初めて見たぜ。すげえ高レベルのシャーマンが来てるな……」
「ハイジだ!」
ぱっとシオンは顔を上げ、ぴんと耳を立てた。
「ハイジ?」
「オレの仲間のシャーマンだ。海に鬼火が出てる。いま湧いてるゴーストを早くなんとかしないと、どんどん湧いちまう。まだ、ハイジならなんとか出来るかもしれない」
やえに預かったバッグを背負い、シオンは近づくハーピィを探した。
その腕を、男が掴んだ。
「だったら、ボウズ。この船で運んでやる。タイミングよく降りてくるハーピィを探すより早いだろ。ただあのへんは混戦状態だ。ある程度近づいたら、自分で上手いことボートを飛び移ってくれよ」
「え?」
男の言葉に、シオンは目をしばたたかせた。理解が追い付いていないところに、男の手がぽんぽんと頭を撫でてくる。
「あなどって悪かったな。お前の仲間なら、たしかに腕が良いんだろうよ」
そう言って、ボートを操縦している仲間に向かって声を張り上げる。
「おい、方向を変えろ! さっきゴーストシップが除霊されたほうだ!」
シオンは驚いた顔のまま、男を見上げた。
「あ……ありがとう……!」
礼を言ったシオンに、男は少し照れくさそうに言った。
「……ワーキャットは生意気な奴が多いから、嫌いなんだ。それもあって冷たくしちまって、すまんな。しかし、ちゃんと礼を言えるワーキャットもいるんだな」
「……あ、えーと、それは、ごめん……」
過去によほど腹立つ思いをしたのだろう。どこのワーキャットか知らないが、シオンは代わりに謝っておいた。
断末魔の後には、ゆらゆらと波間を頼りなく漂う一艘の朽ちたボートだけが残った。
「――これで、六隻目か……」
長い詠唱の後、ハイジは胸の真ん中に手のひらを当て、深く息をついた。
深く、長く、ゆっくり息を吐き出した後、細く、短く吸う。
体の中が軋むような痛みを覚えたが、どこの内臓が痛いのかよく分からない。どの内臓も痛い気がする。
除霊してきたゴーストシップの中には、小さな二人乗りボートなどもあったが、海に出現する船ならゴーストシップには違いない。そんな細かいものを含め、これまで除霊したのは、たしか六隻。
ゴーストシップはそれそのものが魔具に等しい。船という依り代を媒介に、シーゴーストが無限に湧いてくるので、最優先に倒すべきだ。だからスキュラの周りのゴーストをひととおり掃除した後は、ゴーストシップを除霊し続けている。
それにしても数が多い。地球上の表面はほとんど海なのだから仕方がないが。それだけ大昔から様々なものがこの海に流れていったのだ。
「……くそ、これだから海は嫌いなんだ……!」
はぁ、と息をついて、ハイジは腰のバッグから液状の滋養強壮剤を取り出した。個包装の包みを破るとあらかじめポーションの入ったスポイトがあり、その先をぱきっと折って口の中に流し込む。
手に持った細く短い杖をぐっと握り、ハイジは眉をしかめた。
「あの、大丈夫ですか?」
近くで守ってくれていたマーマンの戦士が声をかけてきた。
疲労が顔に出ていたのだろうか。ハイジは顔を上げた。なるべく平静を装っているつもりだが、取り繕おうとすればするほど無表情になってしまう。
「……問題ないよ。どんどん滅していくから、詠唱に集中させてくれ。さすがに数は多いから」
「分かりました」
船はマーメイドのソーサラーが安定させてくれているので、そう揺れはしないが、漁船なので臭いがきつい。疲れてくるとちょっとしたことで集中が乱れてイライラする。やえはこういうことによく気づいて、消臭の魔法をかけてくれたが。
いや、無いものねだりは良くない……。そう考えながら、手の中の小さな杖を見やる。
(……こんな戦闘になるなら、もっとマシなやつ持ってくれば良かったな……いや、持って行こうか悩んで、忘れてきたんだっけ……。忘れっぽいんだよな……僕は……)
ガルーダという種族自体が、執着や関心が薄く、性格もぼんやりとした者が多い。不本意だがハイジも、そういった性質を受け継いでいる。ようは物忘れが多い。
だから、世俗を離れて自分たちの世界に閉じこもっている者ばかりだ。それが嫌で、一族の許を離れた。今のシオンよりまだずっと若くて――キキくらいの頃だっただろうか。
あの頃から、多くの経験を積んできたつもりだったけど。
(しょせん、ただの宝探しだと思っていたのかもしれないな……)
浅羽一族の魔道士が、同じ浅羽の魔道士のために隠した魔石。
それならば手にするべき者の許へ、必ず還るはず。紅子といればいずれ見つかるだろうと思っていた。
そのたびにこんな苦労するんじゃ、先が思いやられる。
隠された魔石も、隠れ暮らす魔道士の話も、よくある話だ。しかし、思っていた以上に高い魔力を持っていた一族なのかもしれない。そして本当に上手く、歴史から隠れて生きてきたのだろう。帰ったら、また調べることがたくさんある。
(とりあえず、帰らなきゃな。この戦場から……)
教鞭に似た、細く短い伸縮式の携帯杖を握り締め、ハイジは短い息を吐いた。
携帯杖はどこでも持ち運べて便利だが、折り畳み式のか細い杖は、長杖より力が落ちる。
力を強く伝えるのは、やはり長杖だ。しかし持ち運びに不便だから、普段ダンジョン探索に持ち歩くことがない。
桜たちとパーティーを組んでいたときは、戦槍を模した長杖を持ち歩いていた。シャーマンであることを偽る者は、別の武器に偽装した杖を持ち歩くことが少なくない。
魔法系はいつも人手不足だから、自身の力以上の成果を求められる。それを嫌がる者も多い。
桜のパーティーは良かった。全員が強かったし、ハイジの負担を分かってくれていた。仕事は多かったが、気楽だった。
辛いときほど、昔のことを思い出す。ハイジはなんだか笑ってしまった。
(……僕はこうやって、すぐに過去ばかり懐かしむ)
いつだって、やるべきことをやるしかないのに。
ウエストバッグから蓄魔石を取り出し、杖の柄と一緒に握り込む。これで少しは魔力が補充される。
魔石は体質に合う合わないもある。ハイジはそう吸収率の良いタイプではない。紅子のような《魔力喰い》体質のほうが特殊中の特殊だ。
天才とはああいう者のことだ。彼女は魔法使いとして、天性の資質がある。膨大な魔力量、そして魔力吸収の特異体質。
ハイジも稀少な才能を持ってはいるが、天才ではない。学んできたこと、培ってきたことを、やるだけだ。
それこそが、一番の武器だと自負している。
ふう、と短い息を吐き、背筋を伸ばす。長杖だったら体を預けることも出来たが、今は自分の足で立つしかない。短杖を持った腕を真っ直ぐ胸の高さに掲げ、そっと瞼を閉じた。
戦闘中にあまり目を閉じたくないが、疲労している中で集中を高めるためには仕方がない。
「……拠るべなき虚ろな魂よ、その器は此処に無く、仮初めの安寧は無い……」
詠唱を始めると、不思議と戦場の音が遠ざかる。
何人かが叫んでいる。
それも遠い。
「――しまった、取り逃がした!」
マーマンたちの声をかき消すように、ハーピィの鳴き声と羽音が近くで聴こえた。
「危ない!」
悲鳴のような声が飛ぶ。
「後ろです!」
――分かっている。
「縋るもの、魂の在り処を求め嘆くもの」
分かっているが、ハイジは目を閉じて微動だにしなかった。
慌てて振り向いたところで、鉤爪で顔面を裂かれる。どちらにしろ大怪我だ。いっそこのまま背中を向けていたほうがマシだろうと、構わず詠唱を続けた。
「生は呪縛。死は解放……」
どうせ魔力も尽きかけている。
戦線離脱する前に、一発でも大きな魔法を撃ったほうがいい。
「ハイジ!」
聴き覚えのある声が、すぐそばで飛んだ。
懐かしい声が、重なって聴こえた。
――なにしてんの! 背中ガラ空きじゃないの!
ハイジが襲われる寸前、小柄な体をハイジと敵の間に滑り込ませる。同時に、両手にそれぞれ持った武器で、首と鉤爪を引っかけると、飛び込んできた勢いを利用しながら、背負い投げでもするかのように全身を使ってハーピィを甲板に叩きつけた。
すぐに腰からダガーを取り出し、ハーピィの喉を素早く掻き斬り、心臓を突く。吹き出した鮮血を全身に浴びながら、それでも眉一つ動かさない少年は、あの頃の、あの少女の強さを、ハイジに思い出させた。
気持ちの高揚は、術者の魔力を高める。
「現世に囚われしものよ。惑うことなく、円環にて眠りにつけ!」
詠唱を完成させると、ゴーストシップから悲鳴が上がった。とり憑いたゴーストの断末魔に、マーマンたちがわっと歓声を上げる。ゴーストシップ一隻を倒せば、そこから湧くゴースト数十体、数百体を倒したのと同じだ。
それだけの力を使ったハイジは、立っていられず膝をついた。
「……はぁ……」
気の抜けた声が出てしまった。
魔力はまだ尽きていないが、襲われる寸前だったので、限界まで緊張していたのだ。覚悟はしていたとはいえ、どっと力が抜けた。
目の前には傷ついたハーピィが転がっている。
その血を浴びながら、『彼』は振り返った。
そうだ、彼女じゃない。
ただ、あの一瞬。――ほんの一瞬。
飛び出してきた彼の姿が、桜に重なった。
ハーピィに引き裂かれる寸前よりも、肝が冷えた。
身のこなしや思いきりの良さが、彼女に重なって。
少年はまだあどけない顔を血で汚し、ほっとしたように笑った。
「良かった。ハイジのこと探してたんだ」
「……シオン」
彼の動きは、彼女と似ていた。だがそれ以上に無駄な動き一つない、瞬足の獣の狩りを思わせた。
桜には力も速さも技術もあった。シオンはひたすらに速く、躊躇が無い。普段は人の好いところがあるが、こと戦闘になれば迷いなく敵を排除する冷徹さを持ち合わせている。
「大丈夫だったか? 間に合ったならいいけど」
血まみれなことも気にせず、背負っていた大きなバッグを下ろす。
「……どうやって来たんだ?」
「船で運んでもらった。船と船の間は、ジャンプで」
「ジャンプで?」
「足りないところは、こいつらを足場にして……」
と、仕留めたハーピィを見やる。
「……そう。興味深いけど、詳しい話はまた今度聞こう」
意外に破天荒なことをする。だから見間違えたんだ、とハイジは思った。そういうところ、やっぱり姉弟だ。
「残響洞でハルピュイアイと戦ってて良かった」
まだ幼さの残る顔に、血が跳ねてこびりついていた。それをシオンはスカーフでごしごしと拭った。
「……そう」
安堵して、ハイジは目を閉じた。腕の良い護衛がやって来たのだ。気を抜いていいだろう。
「ハイジ! これ!」
シオンが声を上げる。慌ただしい。
「やえさんから預かったんだ。ハイジのなんだろ?」
ハイジは少し目を見開き、バッグから取り出したそれを受け取った。
「……わざわざ運んで来たのか。そのために、ここまで?」
「うん」
「これは……たしかに、僕のだ」
シャーマンが使う霊杖で、かつて使っていた長杖だ。
見た目よりは軽いが、先端だけはずっしりと重い。
桜のパーティーにいたころ、最後の戦いにも持って行った。あの頃は高レベルダンジョンばかりに潜っていたから、もうシャーマンであることを隠していられなかった。強力な詠唱を補助するこの霊杖を毎回持ち込んでいた。
二年ぶりに握った杖は、持ち主を忘れていないかのように、嫌というほど手に馴染んだ。
先端に付いた魔石に指を当てる。濁りなく水のように透き通った石だ。
「……これを手に入れてくれたのは桜たちだ」
「杖?」
「いや、石」
「変わった魔石だな」
「銀水晶。霊水晶とも言って、霊力を強く高めてくれる石だ。これを手に入れるのに、けっこう大変な冒険をしたんだ」
「へえ」
シオンは興味ありげに耳を動かしながら、ダガーを仕舞う。代わりに腰から二振りの剣を抜いた。セイヤに貰ったという奇妙な形の剣で、でかい十手みたいだ、とハイジは思っている。
重たいと当初は言っていたが、ちゃんと使いこなしているようだ。時々蒼兵衛やキキと特訓しているお陰もあるだろうが、実戦を積むごとに成長している。
「その話、今度聞いていいのか?」
言いながら、腰を低く落とし、すぐに動ける姿勢を取りながら、上空を舞うハーピィを
目で追っている。耳がせわしなく動いているのは、ワーキャットは複数の音を同時に聴き分けるからだ。こうしてハイジと話していても、ちゃんと戦場の音を聴き分けている。
「……いいよ。長くなるけど」
ハイジは言って、杖を支えにしながら立ち上がった。
「疲れてるとこ悪いんだけど、鬼火が見えたんだ。だからハイジに……」
「分かってる。なんとかしよう。少し長い詠唱をするけど、その間ずっと、無防備な僕を守れるか?」
「ああ」
「その後の僕は、本当に使い物にならないぞ」
「それだけの仕事してくれるんだろ?」
シオンはこくっと頷いた。
「じゃあ後はオレたちがなんとかする。絶対に」
「……信じるよ」
「大丈夫。ちゃんと守る」
ハイジは頷き、深く息を吸いながら、両手で杖を握り締めた。杖を垂直に立て、背筋を伸ばす。
「――聞け。彷徨うもの。迷うもの。恐れるもの。許されざるもの。自縄せしもの。解き放たれるときがきた」
ハイジの声が、いつもよりはっきりと、波の音や風の音にかき消されることもなく、シオンの耳に――周囲の耳に届く。
「朽ちた生の楔に囚われることなかれ。現世と常世の狭間にたゆたう赤子。再び胎へ還るときがきた。静止し、委ねよ。虹雲の彼方、階へと誘う羽音を聴け……」
初めて聴く長い詠唱だった。他の詠唱ならとっくに完成しているところなのに。それに、いつもより詠唱の速度も遅い。
いや、遅くなっている。
「……目を閉じよ。耳を塞げ。受け入れるべきは安寧の眠り。閉じよ。塞げ。誘うは羽化を守るゆりかご。安息は永遠ではなく、ひととき安らかな繭に留まり、のちに新たな歓びを得るだろう……」
背筋を伸ばして立っていたはずのハイジが、少しずつ背を曲げている。長杖を両手で握り、もたれかかるように俯いている。
詠唱の合間には、短く荒い息を吐いていた。ただの詠唱じゃないのか、かなり苦しそうだ。
声をかけたかったが、せっかくの集中を妨げることになる。シオンはなるべく速やかに、襲ってくるハーピィを倒すことに尽力した。
大きめの幽霊船が視界の端に揺らめいているのが見えた。あれだけは漁船ではなく装甲船のようだ。海で沈んだ沿岸警備隊の船なのだろう。船自体は何もしない。だが、あれそのものがゴーストを呼ぶ。船を壊してしまえば力は弱まるが、あれを破壊するのは骨だろう。
「……あ」
そこらに転がっていたハーピィの死骸が、むくりむくりと起き上がった。それを見てシオンの背筋が寒くなった。嫌な汗が出た。
「死体に、ゾンビ化までされたら……」
死霊術士の芸当だ。それを鬼火か、ゴーストシップか、何がかは分からないが、死んだモンスターをアンデッド化させている。
「こんな、キリがないぞ……!」
誰かの声が響いた。
まして、ゾンビには急所で仕留める攻撃が効かない。その身を叩き潰すまで動き続ける。
焦ってハイジを見ると、まだ詠唱をしている。
しかも、さっきより荒く息をつきながら。
腰も老人のように折れ曲がり、完全に項垂れてしまっている。まるで大怪我を負った兵士のようだ。
その背中が、うっすら輝いているような気がした。強い魔力が自然と体から漏れ出し、魔力光となって目に見えることがあると聞いたことがある。それだろうか。
放っておいて大丈夫か不安になったが、詠唱は続いている。邪魔をするわけにはいかない。
それに、ハイジが信じると言った。
だったら、シオンも信じる他ない。
――とにかく、戦うだけだ!
対処法は分かっている。ゾンビ化したぶん、動きは鈍くなる。羽ばたく前に捕らえ、首を一気に斬り落とすのだ。
ただ、シオンの力と武器では難しいので、近くで戦っていた冒険者に声をかけた。
「オレが捕まえるから、首を落としてくれ!」
「よし! ゾンビにはこいつだ!」
ちょうど船室から、ファイターが斧を持って出てきた。シオンが捕らえたハーピィの首筋めがけて、斧を振り下ろす。
すぐにシオンは次のハーピィの鉤爪をソードブレイカーでひっかけ、体を使って抑え込む。ハーピィゾンビはもがいているが、生前のように甲高い声は発しない。口から血を溢れさせ、ヒューヒューと不気味な風音のようなものを吐いている。
「上手いぞ、ボウズ!」
別の冒険者が頭を掴む。シオンが胴体を抑え込んだまま、今度は大剣を持った冒険者が近づいてきて、それを振りかぶった。
落とした首は海に捨て、動いている胴体も手足を斬り落としていく。紅子には絶対見せられない光景だな、とシオンは思いながら、ハーピィを捕らえていく。地味で地道だが、ゾンビにはこれが一番効く。ジャージもスカーフも髪も血で汚れている。
「あのシャーマン、大丈夫か!?」
近くの戦士が言った。
ハイジは完全に膝をつき、やはり項垂れているが、手だけはしっかりと杖を握っている。
シオンは頷いた。
「大丈夫だ。詠唱を邪魔しないよう、戦ってくれ」
銀水晶とか言っていた、杖の魔石が煌々と輝いているので、彼が力尽きたわけではないことは分かる。
「……眠り。安寧。死。休息。誘い。導き。壊し、廻り、巡る……」
まだ続いている詠唱が、シオンには聴こえる。空中から滑空してきたハーピィを叩き落し、ゾンビ化したら動く前に捕らえながら、近くにいた冒険者たちに声をかけた。
「あの人を守ってくれ! 頼む……頼みます!」
ハイジが高レベルのシャーマンであることは、この場にいる者は皆分かっているはずだ。
「オレの仲間を信じてくれ!」
シオンの言葉にマーマンたちは頷き、目の前の敵を倒し始めた。
「……いま古き肉は完全に朽ち、魂は放たれる。還れ。再び、この地に降り立つときまで。還れ、還れ、還れ、還れ……」
還れと繰り返すごとに、ハイジの背中から、白い魔力光がゆっくり、ゆっくりと広がっていく。
それは肩の下あたりから、左右に、まるで鳥が翼を広げるように。
よく見ると、彼の背中の肩甲骨は、人間に似た他の種族に比べると、かすかに出っ張っているように見えた。背中をひどく折り曲げているから分かったくらいの、わずかに歪な骨の形。
それはかつて、鳥亜人の赤子が産まれてすぐに未熟な羽を切り落とされる――断羽の名残だ。中途半端に生えた羽を持ったままでは生きづらく、病気にもかかりやすいという。だからガルーダたちは羽を落とす。
その背から溢れる、高まった魔力の光が、翼をかたどっている。
それが広がっていく。船よりも大きく。
生きたハーピィたちはそれだけで圧倒されたのか、攻撃してこなくなった。逃げる者さえいた。
「ガ、ガルーダだったのか!」
「初めて見た……」
「えっ、ちょっ……戦ってくれ!」
周囲の味方まで圧倒されていたので、シオンは慌てて叫んだ。ハーピィの動きは止まっているが、ゾンビはまだ動いている。
仕方なくシオンが捕らえたハーピィの喉に、自らダガーを抜いて突き立てようとしたとき。
「さぁ、いま、還してやる。だから、もう――いい加減に、還れ!」
詠唱と言うより、最後はほとんど自棄じみた声で、ハイジが言い捨てた。同時に、それまで硬く握っていた長杖を高く振り上げ、ドンッ! と床に突き立てる。
直後、魔力の翼が、まるで本物の羽のように羽ばたき、戦場に一陣の風を起こした――ように思えた。
本当は、風なんか起こっていなかったのかもしれない。けれど、誰もがそう錯覚したはずだ。風と、光が、その場を一瞬で覆いつくした。
敵も、味方も、生きている者は誰も、白い光の眩さに目を閉じ。
再び瞼を開いたとき、アンデッドはすべて消滅していた。
鬼火も、船も、死霊も、全てが。
光が収まったとき、ゾンビさえも動いていなかった。
「……おえ……」
ハイジが呻き、今度こそ本当に、ずるりと傍に崩れ落ちた。最後まで握っていた杖も、ガランと音を立てて投げ出された。
「危ない!」
シオンはハイジを支えるよりも、杖が海に落ちないように取りに行ってしまった。そのままハイジがばったりとうつ伏せに倒れる。
「ハイジ!」
シオンは杖を抱え、ハイジに駆け寄った。
まだ意識はあるようで、小さく何か言っている。シオンは耳をひくひくと動かし、それを聴き取った。抱き起こそうとすると、
「……み、見ないで……。血が……」
「血……? 血が出てるのか!?」
「い、色んな穴……特に鼻から……みっともないから……」
「穴?」
穴、と言われて思わず耳の穴を見たら、本当に血が出ていてシオンはぎょっとした。顔面は鼻から下が血だらけだった。
「早く手当しないと!」
「いい……流れるだけ流れたら、治まるから……血管の色んなとこが切れてるだけ……血抜きするくらいでちょうど、いい……」
荒い息の下でも、しっかりハイジは喋っていたが、いきなりゲホッと咳を出したかと思うと、少し血を吐いたようで、抱えていたシオンにかかった。
「すまない……」
「ほ、ほんとに大丈夫なのか……?」
「君こそ、血まみれだけどね……」
「これは全部返り血だから……」
シオンはハイジを仰向けに寝かせた。鼻の下が特に血まみれだった。見られるのを嫌がっていたが、仰向けよりマシだろう。シオンはウエストバッグから綺麗な布を探して取り出し、ハイジの鼻に当ててやった。
「……ぼく……は、やるべきことを、したから、な……君も、戦えよ……」
布に手を当てながら、ハイジが呻いた。
「分かってる。でもここじゃ、ハイジを休ませられないだろ」
シオンはハイジを抱えて立ち上がろうとしたが、いくらガルーダが華奢とはいえ装備をした男性一人抱えるのは、戦闘直後の足には響いた。ましてやハイジは消耗し、力が抜けきっている。弛緩した体は重い。
「おい。シャーマンの兄さんは、動けねえのか。船室に運んでやるよ」
他の冒険者がすぐに手を貸してくれたが、
「う、知らない人間に触られるのはあまり……」
とシオンにしか聞こえないくらいの小声で、ハイジはぼそっと呟いた。潔癖なんだろうが、そんなことを言っている場合ではない。ここは我慢してもらおう、とシオンはハイジの訴えを無視した。背負われていくハイジは、ぐったりとしていてもう何も言わなかった。杖だけを持ち、中まで付き添う。
「あ。でも、オレが触るのは良かったのか? さっき……」
シオンの言葉に、ハイジは背負われたまま、はっとした顔をした。すぐにばつ悪げな表情になり、その頬が赤くなっていた。鼻血を出したせいだけではないだろう。
「オレは、ちゃんと仲間って思ってもらえてるんだな」
「うるさいな……」
からかうつもりはまったくなく、本当に嬉しかったのでそう言ったのだが、ハイジはふいと顔を背けてしまった。
「……そういうのは聞き流せよ……デリカシーの無い……」
そこまでが限界だったようで、がくっと首から力が抜けて、驚いたシオンが顔を覗き込むと、ハイジは眠っていた。気絶かもしれないが。
どちらにしろ、やるべきことはやってくれたのだから、休ませておこう。
あ、とシオンは大事なことを思い出した。
今更言っても遅いだろうが。
「ありがとう、ハイジ」
白い光が海上を包んだかと思ったら、ちょろちょろと鬱陶しかったゴーストが一掃されていた。
ゴーストシップも波に漂うただの船と化している。
「……おお。ゴーストいなくなった?」
退魔弾を込めた魔銃を構えていたキキは、ぱちぱちとまばたきをし、辺りを見回した。
キキとタズサが乗っているのは、港に繋がれていた古いボートだ。廃棄もされずに放置されていた手漕ぎボートを、タズサが風と水に魔法で干渉し動かしている(キキも少しオールで漕いだ)。
「さっきのって、大規模除霊魔法だよね。すごーい。キキちゃんの仲間の人だよね? あの人、ガルーダだよね?」
タズサがぱちぱちと手を鳴らす。
「あ、あー……そうそう。ハイジね。うちのパーティーの」
ハイジがそれほどの霊術を扱えるとは知らなかったが、キキは無属性魔銃を下ろし、とりあえずふんぞり返った。
「うちのハイジはすごいから。実はレベル50だから。事情があっていま25しかないけど、実はすごいシャーマンだから。なので、同じパーティーのキキちゃんもすごいリザードマンなんだよね」
「うん。すごいすごい! キキちゃんいっぱい魔銃持ってるし! 高い退魔弾いっぱい持ってるし!」
パチパチとタズサが手を叩く。
「そう。キキちゃんには巨大なバックアップがついてるからね」
背負ったおじいちゃん人形に、心の中で感謝する。お金持ちでありがとう。
それからハイジにも。
(やっべえ~! シーゴーストの数ヤバかった! 助かったよ、あんなモン退魔弾がいくらあっても足りゃしねえ~……マジですごいシャーマンなんだな。あんまナメんとこ……)
ふう、と息を吐き出し、キキはボートの底に腰を下ろしているタズサを見た。波が荒れている所為で、ボートの底には水が溜まっている。沈むほどではないし、そこがマーメイドのタズサにはちょうど良いプールになっていた。
戦場に出たというのに、タズサは変わらずマイペースというか、ほわんとしている。しかし魔力は大したものだ。白い光にゴーストが一掃される前は、一緒にシーゴーストを倒していたのだ。
(うーむ。〈退魔〉まで使えるとは……こいつ、やるな……)
素人だと思っていたら、意外な相棒である。もちろん頼りにならないよりはずっと良い。キキは魔力がからっきしなので、バランスも良い。
(まあ、なんにせよ、ウザいゴーストはいなくなったし! あたし、ゴースト退治は得意じゃないもんね)
撥水加工されたロングブーツを、ばしゃっと水の中に浸し、キキはオールを手に取った。
「どうするの?」
「移動するよっ。もちっと戦場に近づいて、メロウやハーピィを撃つ!」
言って、ギコギコと音を立てながら、廃棄寸前の古いボートを漕ぐ。それをタズサが魔法で補助する。
「スキュラやサーペントは? 戦わないの?」
タズサがこてんと首を傾げる。
「戦う気かお前……。もちろんキキちゃんなら楽勝だけど、あたしは射撃士だからね。味方の援護をしなきゃ。ほら、見てみなよ。ハーピィやメロウが邪魔になって、スキュラと戦えてないでしょ?」
キキが言うと、タズサも近づいてくる戦場を見て頷いた。
「そだね。なんだかごちゃごちゃしてるね」
空からはハーピィ、海からはメロウが狙っている。ハーピィは好戦的で、隙あらば突っ込んでくるし、メロウは魔法も使ってくるから厄介だ。海に落ちたら、たちまち引きずり込まれてまず助からないだろう。
「タズサ、あんたメロウ嫌い?」
「うん。わたしたちの獣堕ちだもん。わたしたちまで、悪い目で見られちゃう」
「うむ。じゃあ、これを貸しちゃる」
キキは片手でオールを持ったまま、もう片手で傍らに置いた魔銃を手に取り、ん、とタズサに手渡す。
「いいの?」
目をぱちくりとさせるタズサに、巾着袋も渡す。魔法のこもっていない弾丸が入っている。
「無属性銃の《デス・オア・デス》。こっからはあたしはもう使わないと思うからさ。あんたはそれに自分で魔法込めて」
「うん」
「隙あらば撃て! ……あと、まあ、一応護身ね」
「ありがとう、キキちゃん! でもタズサ免許持ってないけど、いいのかな?」
「いいよいいよ。誰も見てないもん。緊急事態だしさ。船のコントロールも忘れないでよね。おっと、そろそろメロウに気づかれるかもだな」
キキはタズサに目配せした。ぴたりとボートが停まる。キキもこそこそとボートの底に身を伏せた。
「お洋服、濡れちゃうよ?」
「構わん。タズサもあんまし頭出すなよ」
新調したばかりのロリータドレス装備が汚れるのも構わず、キキは水の溜まった船底に身を隠し、ぶるっと身を震わせた。
「うう。お腹が冷える……リザードマンは寒さに弱いんだよぉ……」
「魔法でお湯にするね」
慌ててタズサが詠唱を始める。これが紅子なら瞬時に釜茹でリザードマンにされるところだが、タズサはコントロールが良いので大丈夫だろう……と異論は唱えなかった。戦闘中に腹が冷えるほうが困る。
やがて水がぬるくなると、キキはほっと体の力を抜いた。まるで温泉に浸かっているようで、わずかな雨混じりの風で固まっていた全身の筋肉がほぐれてきた。
「んじゃ、こっから狙撃しよう。あんたに渡した〈デス・オア・デス〉じゃ距離が足りないと思うから、風魔法で補助して。オーケー? タズサ隊員」
「オーケーだよ、キキちゃん隊長」
「味方に当てないでよ? 狙撃が成功したらそれでいいし、無理なら威嚇するだけでもいいんだからね。んで、こっちに気づいて近づいてくる奴がいたら、迎撃! ボートまで接近されちゃったら、しっかり教えてよ。キキちゃんが串刺しにするかドタマをかち割るので」
ボートにはもちろん槍とハンマーも置いてある。弾丸が尽きたらこれが主力の武器となる。リザードマン族にはむしろ扱い慣れた武器である。リザードマンの戦士となる子供は、まずこれらの武器の扱いを習うのだ。特にハンマーは、とにかく力任せにぶん殴ればいいので、楽ちんだ(とキキは思っている)。
とはいえ近接武器など、ガンナーにとって使う機会が無いにこしたことはないが。
「よーし、んじゃメロウでもハーピィでも何でもいいから、排除してくよっ!」
「ラジャー!」
「いい返事だ!」
片腕に銃を抱え、もう片手でびしっと敬礼してみせるタズサに、キキは大きく頷き、自らも銃を構え、混戦している海上を睨みつけた。