嵐の前の空
あの日々のことは、どれだけの時間が経っても、克明に思い出せる。
自分たちが、小野原桜を失うまでの時間。
「次は、やえは置いていこう」
仲間の一人が言った。
彼――花垂夜は、ファンタジー世界から抜け出てきたかのようないでたちをしている。黒い服に、黒いズボン、黒い革鎧に、黒いマント。「一緒に歩くのも恥ずかしい」と桜はよく言うものの、闇の中で目立たない黒い装備は、冒険者の間ではスタンダードだ。もっとも、マントを愛用している冒険者を、ハイジは夜の他に見たことがなかった。
目つきがやや悪いことを除けば鼻筋の通った整った顔だちをしているが、見た目の印象ほど頭は良くない。メモがなければろくに魔法の詠唱もできない。「バカで、気が利かなくて、グズ」と桜にいつも罵倒されているが、性根は真っ直ぐで、仲間想いの熱血漢でもある。名字がコンプレックスで、名字で呼ぶと怒る。
腰には刀身の黒い珍しい剣を下げている。黒鋼は魔力を多く蓄積することの出来る魔石の性質を持っている。斬れ味は悪く、用途は杖に近い。
その魔封剣に魔力を込めながら、黒づくめの青年は言った。
「もう、あいつには荷が重すぎる」
仲間の一人である皆森やえは、同じく仲間であるリザードマンの妹尾鯛介と一緒に車を取りに行っている。
本人不在の間に、夜が口にしたことに、桜はムッと顔をしかめはしたが、とりあえずは何も言わずに話を聞いていた。
「次に行く《冥洞》はA級危険ダンジョンだぞ。今度こそ連れてくのは無理だ。無事にクリアしたとしても、その次はもっと危険な場所になる」
桜は鞘に収めた愛用の大剣を地面に立て、杖にするように体を寄りかからせている。その目は睨みつけるように遠くの山を見ていたが、実際に睨みたいのは隣にいる仲間のことだろうとハイジは分かっていた。
「俺達のレベルはどんどん上がっていくんだぞ。いくら本人が行きたくても……」
「やえがどうこうじゃないわ。言ってるでしょ。あたしが連れてくって」
遠くを睨みつけたまま、桜が鬱陶しげに答えた。
「だったら余計、無理に連れていくことねーだろ。なに意地になってんだ、桜」
桜は意地になっているわけではない。ハイジはそう思ったが、口にはしなかった。
ハイジが代弁せずとも、夜だって分かっている。やえは役立たずではない。長く洞窟に潜れるタフな精神、料理の腕、他パーティーとの交渉、冒険のサポートに関してはエキスパートといっていい。
分かっていて、夜は言っているのだ。
「プロのバックアップチームがいれば、やえは必要ない。危険なだけだろ」
桜、ハイジ、夜、鯛介、そして、やえ。このパーティーメンバーになってから、短期間で多くの難しい仕事をこなした。つれて全員が高レベルになり、危険な仕事が増えてきた。
桜はそれらの仕事を受けたがったが、そうであればやえを外し、腕利きのソーサラーを引き入れるべきだと意見したのは夜だった。それに桜は激昂し、以来二人の仲はあまり良くない。
「あたしにはやえが必要なのよ。どんな任務でも、あたしが苦戦したことなんてあった?」
「ヘマはちょいちょいするだろーが。大体お前、肉体強化切れたら剣も持てねーじゃねーか。まだ十七でそんなに滋養強壮剤漬けになってどーすんだ」
「うっさいわね、ハナタレ!」
「その名前で呼ぶな!」
「喧嘩はよせよ。桜。夜の言うことも一理はある」
ようやくハイジが諭すと、桜は顔をしかめつつも、むすっと押し黙った。
「夜は別にやえを貶めているわけじゃない。分かってるだろうけど」
さしもの桜も、ハイジ相手にだけは少し大人しくなる。ハイジは一番最初に桜の仲間になった。それからいまのメンバーで固定するまで、ずっと一緒だ。加えてシャーマンの能力は貴重であり、一年でレベル30になった天才戦士と呼ばれる桜でも、シャーマンの代わりだけは出来ない。
リーダーの桜が一目置いているハイジは、パーティーの中で強い発言力を持っている。それを分かっているハイジは、仲間の言い合いには極力、口を挟まないようにしている。普段抑えているからこそ、こういうときにより強く効果を発揮する。
ハイジは夜に目線を向けた。
「でもね、夜。ダンジョンでのやえの力は大きい。それは君も分かっているよな?」
「……分かってるよ」
ぶすっとしつつ、夜も答えた。
二人が静かになったところで、ハイジは言葉を続けた。
「次のダンジョン――《冥洞》は縦の長さおよそ288メートル、60階層ある。これまでに確認された出現モンスターも危険な奴ばかりで、A級危険ダンジョンは伊達じゃない。だが、調査団の護衛依頼であって、殲滅戦じゃない。そういう仕事のときこそやえの力が発揮されるんじゃないかな。僕も夜も桜も……はっきり言うと、戦闘力は高くても、コミュニケーション能力は低いほうだと思うんだけど」
「心外だけど、やえの力が必要なのは大いに同意よ」
「でも護衛は、ただでさえ守るものが多いってことじゃねーか」
「そうだね。だからこそ、緊急避難があったときに、誘導が一番上手いのはやえだろうし、人を落ち着かせる術には長けている。次の仕事には、僕はやえの同行に賛成だ」
「そうよね! やっぱりハイジは話が分かるわ」
ずっと不機嫌だった桜がぱっと顔を輝かせ、対照的に夜は黙り込んだ。それは、夜も同意に転んだということだろう。
「今回までだ」
むすっとした顔で、夜が言った。
これで今回は話がついた。ふうとハイジは小さく息をついた。こんなことをこれからも繰り返していくのは問題がある。
「次こそは、やえを外したほうがいい」
「またそれ?」
ある意味根気強く提案する夜に、桜がうんざりした顔を向ける。
「今回は上手くいったじゃない。同行した依頼者もやえを気に入ってたし。やえが細かいとこまでマッピングしてくれて、辺りに気を配ってくれたから、採取もはかどったって喜んでたでしょーが」
《冥洞》の調査はつつがなく終了したというのに、しつこくやえを外そうと言う夜に、桜は明らかに苛立っていた。
「やえの能力は充分分かったでしょ。いい加減にしないと、アンタを外すわよ、夜」
「外れていーのかよ」
次の仕事の打ち合わせにやって来たファミリーレストランで、当のやえはこの場にいなかった。元々パーティーの中で唯一、冒険者以外の仕事をしていて、事前の打ち合わせには参加出来ないことが多い。離れて暮らす母親が病気で入退院を繰り返しており、それなりの額を送金しているという事情があり、冒険者をしながら幾つかアルバイトをかけもちしている。
それが最近は好都合でもあった。
「オレらじゃ、料理一つ満足にできないっすもんね。大丈夫。やえさんは、オレが守りますよ」
鯛介が場を和ませようと明るい大声を出しつつ、どんと胸を叩く。
「なーに、他のパーティーもいますしね!」
鯛介とハイジは基本的に桜の意見を尊重する。
結果、夜の意見に賛同する者はいないのだが、夜は退かない。あくまでやえを外すべきだと主張し、桜は断固として受け入れない。
そんな状態でも、夜がパーティーを見限って抜けることはなかった。彼は貴重な高レベルのルーンファイターで、ソーサラーのやえよりも魔力量が多く、強力な魔法が扱えた。
サポート専門のやえと、攻撃専門の夜は、それまでは良いバランスでパーティーに貢献していたし、夜もやえのことをちゃんと認めていた。
桜だって夜が外れるのは困るだろうし、ショックを受けるに違いない。だが夜はきっとそうしないだろうと分かっているからこそ、言い争いも出来る。
桜も夜に甘えている。だから本気で怒るのだ。
「……夜ってあんな奴だったかしら」
ハイジと二人だけになり、桜がぽつりと呟いた。
「あれほんとに夜? どっかのダンジョンでいつの間にか霊に憑依されたんじゃないの?」
「残念ながら夜だよ」
「間違いなく?」
「間違いなく」
あまり実りの無い打ち合わせが終わった後、不機嫌そうに夜が帰ろうとすると、「夜さん、一緒に帰りましょう」と鯛介が声をかけるのがお決まりとなっていた。人の好い彼は、夜が孤立しないよう気を配っているのだ。
それからハイジと二人きりになると、桜はむすっとした顔で、鬱憤を晴らすように夜の悪口を言いまくるのだが、その日は違っていた。
「ごめん」
小声かつ、感情のこもってない声音だったが、ハイジは驚いた。桜が詫びるところなんて見たことがあっただろうか。
その衝撃を顔には出さず、ハイジはため息混じりに言った。
「謝るなら、夜にじゃない?」
「イヤよ」
「夜だって、言いたくてあんなこと言ってるわけじゃない。分かってるだろう」
「分かんない。ハイジはどっちの味方なの?」
桜はふてくされ、ふんと鼻を鳴らした。
「桜の味方だよ」
「だったらあたしの機嫌治して」
「僕が何かして治るならとっくにやってるよ。治してほしいのは夜にだろ?」
桜は答えず、テーブルに片肘をつき、手のひらを額に当て、ふうと息をついた。
「……じゃあ、パフェでも食べる? 奢るけど」
「そんなんで機嫌が治るなら、世の中の人間は全員仕事帰りにパフェ食ってるわ」
「頭に糖分送り込めば少しは冷静になるんじゃない?」
「やえはこういうとき、優しく励ましてくれるわ」
「そうだね。だから僕はやえを連れて行くことを反対はしていない。僕達じゃ面倒な君の面倒は見きれないよ」
「なによ。今日のハイジ、キツい」
「僕はいつもこんな感じ。桜が落ち込んでるから、そう感じるだけ」
「落ち込んでる? あたしが?」
桜は顔をしかめた。
「あたしは落ち込んだりしない」
また拗ねたように、唇を尖らせる。そんな仕草は十七歳の少女相応だ。
口は悪く、傍若無人だが、寂しがりで仲間を大事にしている。だから、夜と意見が食い違うことや、実際やえが戦闘能力でパーティーについて行けなくなっていることも、桜には大きなストレスになっているのだろう。
そう思って、ハイジはいつも通り、静かな口調で告げた。
「大丈夫。僕は君の味方だし、夜もやえも鯛介もみんなそうだ。君がいるから、僕達もここまできたんだ」
桜は小さく、かすかに頷いたようだった。
「……少し前は、仕事の前の打ち合わせだって楽しかった。なんで今は楽しくないわけ?」
「意見が食い違うからじゃない?」
「夜はあんな奴じゃなかった」
「あんな奴だよ。仲間想いで、誰よりも君を心配している。やえのこともね」
「あたしには、やえが必要なの」
「分かってるよ」
「ハイジ」
桜が顔を上げる。
その表情がいつもより翳って見えるのは、彼女がこの状況にまいっているからだ。
「あんたは、あたしの味方?」
「味方だよ。僕は」
「だったら、絶対にいなくならないでよ。もっと良いパーティーからスカウトが来ても」
「いなくならないよ」
「よその奴らとパーティー組まないでよ」
「僕のリーダーは君だけだよ」
「特に若い女がいるパーティーは駄目。語尾を変に伸ばして喋る女は特にダメ」
「やえじゃないか」
「やえはいいの。あと『あわわ』とか『はわわ』とか言う女はもっとダメ」
「単に君の好き嫌いだろ」
「そうよ。話が逸れたわね。何話してたんだっけ」
「君が逸らしたんだよ」
「そうだ、夜の奴をぶっ殺してやろうかって話ね。協力してくれる?」
「嫌だよ」
「どうしてよ」
「僕はそれほど夜に腹立ててないし。あいつの言いたいことも分かるから。でもやえを外したほうがいいとも思ってない。君がやえを必要だと思うように、僕もやえはパーティーに必要だと思っている」
「そうよね」
ぱっと桜の表情が明るくなった。目の前の冷めたコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばしかけたハイジの手を、桜がぐっと掴んできた。
「やっぱりハイジは話が分かるわ」
「……そうだね」
少女らしい無邪気な笑みを見返し、ハイジは嘆息した。大きな剣を握る桜の手のひらは、とっくに潰れたまめだらけで、十七歳の女の子とは思えないほど硬かったが、その造り自体は小さく、彼女が好んで使っている大剣も、本来なら細身の彼女向きの武器ではなかったはずだ。
それでも彼女が選んだ戦い方を、止めようとは思わない。
彼女に足りない部分があるなら、仲間が支えてやればいい。
ハイジは自分が、肝心なことになると言葉足らずになると自覚している。お喋りなほうだとは思うが、本当に伝えたいことは上手く口に出せない。口に出す前に、相手の反応を気にして躊躇してしまう。昔からそうだった。大事なことは、いつも心の中にしまってきた。
ハイジは鳥亜人でありながら、その血は薄れている。人間と交わって数代、両親も祖父母もその親も、霊力が高めな他は、すっかり人間と変わらない。《先祖返り》のガルーダであるハイジだけが、人間の両親と離れ、亜人の中で育てられた。人間との交わりによって薄れゆく種族の血を守るためだ。ハイジの一族も人間化したとはいえ、ガルーダの矜持を忘れてはいない。
しかしハイジ自身は、そんな同胞をどこか遠くに眺めているような気分だった。その血を大切にされればされるほど、自分が人間とも亜人ともつかない存在であるように思えた。
どちらの種族としてではなく、自分がどういう存在でありたいのか。そう考えるごとに家族や一族や種族など些末な括りでしかないという結論に至った。その中で自分という個は、誰かと同じ考えを持ち、同じ行動を取るわけではない。
冒険者になる前に決めたことは、自分だけは守ろうということだった。種族よりも、一族よりも、大事なものは自分だ。
だが、自分と同じくらい大事な仲間が出来てから、もう一つ決めたことがある。
それは、彼らに嘘はつかないということだ。
「桜」
無邪気に繋がれた桜の手をそっと離すと、桜は綺麗なアーモンド形の目を子供のようにぱちぱちとまたたかせた。
「なに?」
「君のことはちゃんと守る。……君と出会ったときから、決めていたんだ」
こういうとき、上手く微笑むことは出来ないが、昔からよく不機嫌そうだと言われる顔が、そうは見えていないかと気になった。
「……ほっぺた、ちょっと赤いわよ。ハイジ」
「うるさいな……」
「でも、ありがと」
横を向いたハイジの視界の端で桜がはにかんだ。
言われてみれば、頬がいつもより熱い気がする。桜は案外鈍感では無いし、こんな状態で喋ったらどんどんボロが出る気がして、言おうとしていた言葉を飲み込んでしまった。
――僕は君の味方だよ。これからも、ずっと。
目覚めたとき、まだ雨が降っていた。天気予報では夜の間には止むと言っていたのに、シオンはがっかりしているだろうと、ハイジは思った。海蝕ダンジョンの探索は、雨の日を避けるのが普通だ。小ぶりではあるが、いつ強くなるか分からない。海の天気は変わりやすい。水位が上がり、シーモンスターの出現率も上がる。
慎重な冒険者なら、ダンジョンアタックはしないだろう。そしてこのパーティーのリーダーのシオンは慎重な性質である。
とはいえ、そう長く滞在する予定はない。となれば多少の無茶を決断するくらいの行動力もシオンにはある。
実際、多少の無茶は可能だ。シオンは戦闘も探索も充分に経験を積んでいるし、パーティーをよくまとめている。メンバーはレベルは低くアクも強いが、それぞれ突出した固有能力を持っている。紅子以外は戦い慣れしているし、紅子も本人が思っているほど使えないわけではない。ちゃんと指示してやれば確実に魔法を出してくる。本人は知らないだろうが、戦闘中にちゃんと魔法を発動させられるだけで、ソーサラーとしては合格点をやってもいい。実戦で詠唱をしくじるソーサラーなど吐いて捨てるほどいる。ただ暗記した詠唱を口にするだけで、何も発動しない、もしくは大した威力も出ないなんてこともある。
更にレベルも経験値も高いハイジが加わった今、少々の無茶はまかり通る。そうシオンも思っているはずだ。
桜は大胆さの中に繊細さも持ち合わせていた。弟のシオンは逆で、繊細さの中に大胆さも持っている。似ていないようで、似ている部分もある。その似ている部分を彼の中に見つけるたび、思う。桜は確かに生きて、存在していたのだと。
今日くらいの雨なら、シオンはダンジョンに潜る決断をするだろう。行くにしろ行かないにしろ、準備だけは万全にしてある。
霊力と魔力は系統は違えど、根源は同じである。自身が持つ魔力をより霊的なエネルギーに変換したものが霊力となる。魔力をそのまま使うソーサラー・マジックとは異なり、シャーマンを生業とする者は自身の霊力を高めるため、普段から暗示めいたことを行う。動物性の食事を一切しないだとか、一日に何度も沐浴をするだとか、決まった時間、決まった方角に祈りを捧げるだとか、個人や宗派によりけりだが、ある程度自身に《制限》をかけることが、体内の魔素を霊力へと変換させやすくするというのは、迷信を信じないハイジも、感覚的に認めている。
ハイジも幾つかの《制限》を、大事な仕事の前には欠かしていない。それらを、子供が学校へ行く前に忘れ物がないか確認するように、ベッドに体を起こしたままブツブツと呟く。
「……千葉へ来る前に、古い血は抜いた。食事は水とパンと果物だけ。昨日の晩からは水だけ。冷水での沐浴は三回。睡眠は八時間ジャスト……」
それから自分が使える呪文を全て、三回ずつ諳んじて、最後に大きく息をつき、ハイジはベッドを下りた。
「行くぞ」
まるで他人に声をかけるように、自身にそう声をかける。他人が見れば気味の悪い行動だろうから、狭い部屋で雑魚寝するような貧乏なパーティーと一緒にいたくはないのだが、いずれはこんなホテルが近くにない場所に行く羽目にもなるだろう。
シオンが肩入れしている紅子は、どうにも厄介な望みを持っていて、それがハイジの目的にも少なからず手がかりをもたらすものになるだろうと確信している。
そんな娘に出会えたのも、シオンが桜の弟だったからだ。
運命的なものは信じないが、桜に導かれているような気すらする。
桜と過ごした時間は、一年足らずと短かったのに、間違いなく人生で一番満ち足りていた時だ。
失った今、彼女が存在したことすら幻だったように思える。そのくらい、現実感を失うほどに、あの日々はあまりに愛おしい。
だからこそ、終わらせなければ。
あの日から、何をしていても、空虚だ。桜がいなくても、生きていくことは出来る。だが、それだけ。ただ、生きているだけで、あの鮮烈な日々に比べれば、死んでいるようなものだ。
こんな状態の冒険者は、いずれ死ぬ。生きていくことに執着がないから。生死と隣り合わせの冒険者にとって、生への執着が生き死にを分ける場面は幾つもある。
今は、桜の遺体を見つけるという目的がある。それまでは死ねないと思う。その先は分からない。桜の死を認めたとき、それでも自分はまだ冒険者をやれるだろうか。
分からない。だが、どちらにせよ、それは必要な儀式のようなものだ。どう生きていくかなんて、それから考えればいい。
桜にもう一度会いたい。それがどんな姿であっても。それが叶うまで、きっと自分も夜もここから一歩も動けない。
「は、はわわ……ど、どうしよう……!」
杖を握り締め、紅子が見るも情けない顔でハイジを振り返った。彼女と話すたびに、桜の言っていたことを思い出さざるをえない。「はわわ」と口にする女が本当にいたとは。
「こ、こういうとき、ハイジさん、どうしたらいいですかっ?」
「……それを考えるのが修行じゃない?」
降り止まない雨で、洞窟内の半分が海に浸ってしまったダンジョンに、多くのメロウが入り込んでいた。それは充分に想定内のことだったが、紅子は多くの獣堕ちを前に早くもパニックを起こしかけている。
それというのも、大勢のメロウが水中という安全圏から、狭い洞窟の中で魅了を仕掛けてきたからだ。
「見るなっ、サムっ!」
キキが手をぶんぶんと振りながら、蒼兵衛の顔の前を隠すように、ぴょんぴょんとジャンプしている。が、長身の蒼兵衛に対し、キキは背が低い。
「コラッ! 見るなぁっ、メロウのおっぱいを!」
「何を言う。せっかく目の前にあるんだから私は見るぞ」
「偉そうに言うなっ! 魔物のおっぱい見て興奮すんな!」
ぴょんぴょんと跳ねるキキの頭をぐっと押さえつけ、蒼兵衛はくすくすと笑うメロウ達(の裸身)を凝視する。マーマンの獣堕ちは、魔物とは思えないほど美しい、近くで見ればより一層、ごく普通の女性にしか見えない。その上、獲物が自分たちに親しみを持つように、魅了の魔法を得意としている。
「このままじゃ、蒼兵衛さんが魅了されちゃうっ……! ええと、ええと、こういうときに使う妨害魔法は……!」
「普通にメロウ達に向かって炎魔法でも撃ったらいいぞ」
慌てふためく紅子に、シオンは冷静に告げた。
「えっ、あっ、そんなのでいいのっ?」
「いいんだよ、魔法をキャンセルさせるだけなんだから。何か投げてもいいんだけどな。知能の高いモンスターにそれやると、拾われて逆に武器にされたら不味いから。こういうときは魔弾か攻撃魔法を撃つ」
「あーあ、言っちゃったね」
ハイジが軽く息をついた。
「彼女に考えさせないと修行にならないんじゃないの?」
「え? そうなのか?」
紅子が師の草間から言いつけられたことを、シオンは知らなかったので、目をきょとんとさせた。
「まだ言ってなかったの?」
ハイジが呆れた目つきを紅子に向けると、えへへ……と半笑いで肩を竦める。この子、忘れていたな……と内心で思いながら、ハイジはシオンに告げた。
「大魔法を使えるのはこの滞在中に三回までらしいよ」
「そうなのか。大魔法ってどこからどこまでが大魔法なんだ? そういうことはあらかじめ言ってくれたほうがいいんだけど……」
「ご、ごめんなさいっ……」
「今はいいけど」
岩になまめかしくよりかかり、こちらの様子を伺っているメロウの群れを見やりながら、シオンは答えた。メロウは魔法も使ってくるが、用心深いのでこちらが警戒している限りは積極的に攻撃してこない。迂闊な獲物を魅了で絡めとろうと、親し気な笑みを向けてくるだけだ。
「はっ……そういえばワーキャットは精神魔法には弱いはず……! だ、大丈夫っ、小野原くんっ!」
「うん。ダンジョンに入る前にハイジが〈精神防護〉かけてくれたし、護符もほら」
と、首に巻いたスカーフをめくって、桜の形見となった魔石の付いたチョーカーを紅子に見せた。セイヤに忠告されたように、安物のアミュレットも幾つか手足に巻いている。
「そ、そっか、良かったぁ~」
「でも長くいないほうがいい。もう行こう」
「ほらぁっ! 行くぞ、サムっ! 撤退っ!」
とうとう蒼兵衛によじ登ってその肩にちょこんと座ったキキが、ボカボカと頭を殴って促す。少しはメロウから気が逸れたのか、蒼兵衛はハイジに尋ねた。。
「メロウから受けている魔法の所為か、このワニ娘への憎しみが募ってくるんだが……」
「それはおそらく元々持っていた感情じゃないかな」
「これ、つまんで海の中に捨ててもいいだろうか……」
「ほらっ、キリキリ進むよっ!」
幾つかの海蝕ダンジョンを回ったが、雨のせいで半海中ダンジョンがすっかり海中ダンジョンと化しているものもあった。
「ダメだな……海の中はほとんど探索出来てない。メロウの群れが入り込んでる場所を、オレ達が泳いで探索するのは危険だし」
一行はニコねこ屋の車の中で、マーマンの料理人・政市に頼んで作ってもらった弁当を食べながら、昼食を採っていた。ハイジだけは水でいい、と断っていたが。
「バックアップが必要ですね」
とニコねこ屋のユエが告げた。
「マーマンのバックアップが」
「そうなるよな……」
「タズサんとこ頼んじゃえば」
キキがあっさり言う。
「タダで助けてくれるって言ってたし」
「そんな迷惑をかけるわけにはいかないだろ。それにシー・モンスターがうようよしてるから危険だ。ちゃんとしたバックアップチームを雇うべきなんだけど……」
そうなると、当然高くつく。更に雨が降っていれば追加料金だ。これだから海辺のダンジョンは嫌なんだと、シオンは口に出さず内心で呟いた。
「しかし海のモンスターというのは、こんなに多いものなのか?」
蒼兵衛が言うと、リョータが頷いた。
「多いっすよ。海は広いですから。地球の表面の七割は海ですから」
「分かっている。蒼兵衛さんをおバカさん扱いすると叩き斬るぞ」
「なんか最近ちょっと斬る斬る言い過ぎっすよ、ソウさん……」
リョータが嫌な顔で蒼兵衛の刀をちらと見る。〈残心〉と名付けられた妖刀は、元々持っていた刀と共に蒼兵衛の隣に立てかけられているが、鞘に収まっている限りは何の変哲も無い日本刀だ。
「変な夢とか見てないか?」
ハイジが尋ねると、ああ、と蒼兵衛は何ということも無いように答えた。
「ここ二日ほど続けて刀で首を刎ねられる夢を見たな」
「見てるんかい!」
焼き魚を丸ごと齧っていたキキが顔を上げて叫んだ。
「夢の話だぞ?」
本人があっけらかんとしているので、もう誰も何も言わなかった。
「なーんも成果無しかぁ」
帰りの車の中でキキがぼやく。雨はすっかり上がっていたのがせめてもの救いだ。
「トレジャーハントってそういうものだよ」
ハイジが静かに告げた。海のダンジョンにはやはりゴーストが多く、今日もずいぶん魔法を使っていた。にも関わらず、食事は水以外口にしていない。
気になって、シオンは尋ねた。
「ハイジ、大丈夫なのか?」
「何が?」
「その、あんまり食ってなかったから」
「僕は冒険中はこんなもの。僕なりのやり方でやっているから気にすることはない。もちろんコンディション不調で倒れたりもしないから」
「そうか……?」
「その分、戦いには極力参加しないけど。特に近接戦闘はまったく期待しないで」
「分かった」
「僕は僕のやれることをやるだけだ」
そう言って、窓の外を見やる。
その言葉に、シオンは思わず紅子のほうを見た。紅子は大人しく座って、やや俯いている。
前ほどではないが、すぐに軽いパニックを起こしてしまう彼女は、探索の役に立てないことを気にしているようだ。草間の言いつけが余計に悩ませているのだろう。照光の魔法だけでも役に立っていると言っても、慰めにはならないだろう。
以前のスランプとは違う。彼女はソーサラーの成長にはつきものの、山にぶち当たっているのだろうと、ハイジが言っていた。それなら、シオンに言えることはない。一つ一つ、紅子なりに乗り越えていくしかない。
「あー、アイカちゃんだー」
ホテルの前で、紅子が携帯電話を取り出し、言った。
「マーマンの?」
シオンが尋ねると、紅子が頷く。
「うん。いまメール来てた。帰ったら会えるかって。《ボワイヤージュ》の近くの船着き場まで来てくれるって」
「誰だ?」
蒼兵衛が尋ねた。
「ほら、来たばかりのときに会った、マーマンの女の人たちがいたじゃないですか」
「ああ、あのマーメイドの、どの娘だ? 一番上のお姉さんか? 結婚適齢期っぽいお姉さんがいただろう。美人の。あのお姉さんか?」
そう淡々と尋ねる顔があまりに真顔で、紅子は何も答えられずにただ薄笑いを浮かべた。
あっ、とキキが声を上げた。
「そういやタズサが、サムのことかっこいーって言ってたよ。キキちゃんはクソだって言っといてあげたけど……」
「お姉さんか!?」
キキの肩をがっしと掴み、そのまま持ち上げ、ガクガクと揺さぶる。
「あががが……違うよ! 一番小さいの!」
「なんだ、ガキか……」
ぽいっと放り捨てられたキキは、慌てて地面に着地し、怒鳴った。
「ガキでは蒼兵衛さんと今すぐどうこうなれないだろうが。蒼兵衛さんは適齢期の女性と今すぐどうこうする関係になりたいんだ」
「アンタだって老けて見えても十八でしょ!?」
「早生まれだから年が明けたら十九歳になる。充分適齢期だ。来年には親友の子供も産まれるだろうし、ソウちゃんだけ取り残されるのは嫌だ……早めに家族ぐるみの付き合いをせねば……」
「発想が気持ち悪いっ! いつまであのワーキャット夫婦とベッタリして生きる気なんだよ! 子供が欲しい男がよその子供を放り投げないでよね! こんなに可愛いリザードマンのお嬢さんを!」
「ああ、別にリザードマンと家族ぐるみの付き合いをする気はないんで」
「ギギギ! リザードマン怒らせると怖いよ!」
「話せば話すだけ疲れるよ。話が通じないんだから」
ハイジが宥めたが、キキは放り出された怒りにギギギギと歯を鳴らしている。
「え、えっと。いいですか?」
紅子が片手を上げつつ、割って入る。
「アイカちゃんは真ん中で、私と同じ歳なんですよ。この近くに、オムライスが美味しいお店があるんだって。私、今日はそっちでご飯食べます。だからみんな、先に帰ってて」
「うーん、女子高生でも別にいいんだが、私はお姉さんタイプが好きなんだよな……あのマーメイドのお姉さんみたいな……」
「分かったからオレたちは帰ろう」
シオンは蒼兵衛に促した。
「あ、小野原くんも一緒に行く?」
「え? なんで?」
「ほら、アイカちゃんたちに改めてお礼言いたいって言ってたし」
「ああ……それは明日の朝にでも行くよ。店のほうに。今日は手ぶらだし」
「ほう。君も菓子折り持ってくくらいの気遣い出来るんだな」
蒼兵衛が何気なく失礼なことを言ったが、聞かなかったことにする。
「シオンが選ぶお菓子気になる」
「僕もちょっと気になる」
キキとハイジも何か言っているが、聞かなかったことにする。
「あたし、絶対ついてこ。お菓子屋さんを選ぶところから笑える予感する」
「後で報告してよ」
「ラジャ」
こういうとき、ハイジも姉の友人だな……と思う。でも、何も話してくれないよりはずっといい。ハイジの感情はシオンには読み取りにくいので、キキや蒼兵衛と話しているのを見るとほっとする。一緒になっていじられるのは嫌だが。
「ほんとに、いい?」
紅子に尋ねられ、シオンははっとした。誘われていたのを忘れるところだった。
「うん。オレはいいよ。でも遅くならないように……あ、いや、帰りは連絡してくれたら迎えに行くよ。慣れない土地だし、何かあったら危ないから」
すると紅子が顔を赤くして、ぶんぶんと首と手を振った。
「ひええそんな滅相もないです……!」
「なんでそんな喋り方?」
紅子と別れてから、キキがシオンの脇を肘でドンドンとついた。
「なにするんだ」
するとキキはニヤニヤとして、
「あれってさぁ、迎えになんて行ったら『オレが彼氏です』ってアピールしに行ってるようなモンじゃん」
「……は?」
「そのつもりはなくても紅子の友達はそう思うよね。キキちゃんだってそう思うもんね」
「……なんだそれ。女ってめんどくせーな……」
「女じゃないが蒼兵衛さんだってそう思って、ちょっと斬りたくなってしまうかもしれん」
「アンタは異常者だよ」
キキが律儀にツッコミを入れる。
「ともかくシオンは紅子の家族や友達の前では振る舞いを考えたほうがいいかもね。彼氏と思われたくないんならさ。アンタたちただでさえ無駄に距離近いし」
「距離……?」
「距離感。付き合ってる男女の距離感。付き合ってない男女の距離感。あるでしょ?」
「知らねーよ」
シオンは顔をしかめると、その顔をキキはわざわざ体の前まで回り込んで見上げた。
「あ、顔真っ赤」
「うるさい」
ホテルの前でハイジと別れるとき、シオンは声をかけた。
「ハイジ、メシどうする?」
「僕のことは構わなくていいよ」
「そう言われると分かっていても、声かけちゃうんだよね。まあ許してやってよ。物覚えが悪いのはワーキャットの習性みたいなモンだから」
偉そうにキキがフォローになっていないフォローをする。
「仕事中は、決まったときに決まったものしか摂らないようにしてるから。別に君たちと一緒に居たくないわけじゃないよ。居たいわけでもないけど」
「一言は絶対多いんだよな、姉上って」
「それは自分でも思う。とりあえず誘ってくれてありがとう」
「明日もよろしくな、ハイジ」
「はいはい。君たちのことは嫌いじゃないよ」
桜が死んでから、もう一つ決めたことがある。
余計な軽口は叩けても本当は口下手で、言いたかったことはいつも言いそびれていた。いつか言えばいいと思っているうちに。その『いつか』が来なくなってしまうなんて、分かっているつもりでも、信じていなかった。
失った桜にも、去ってしまった夜にも、自分の気持ちを伝えられないままだった。自分を責め続けるやえにも、未だかけるべき言葉が思いつかない。
口下手は今更治りそうもないが、自分が出来ることは、きっとまだたくさんある。
だから決めた。本心を伝えるなんてどうせ苦手なのだから、守ると決めたものは、絶対に守り抜く。きっと桜なら、口にするよりも先に、そう行動するだろうから。
ホテルに入る前、ハイジは一度、黄昏の空を見上げた。いまは雨は止んでいるが、重たげな雲が夕陽を隠し、グレーとオレンジが混じり合っている。
またいつ降り出してもおかしくはない。千葉に向かう前に見た天気予報は外れっぱなしで、滞在中はずっとこんな天気が続くのかもしれない。桜たちと冒険していた頃、前触れなくいきなり海が荒れるのを、何度か経験した。そういうときは決まって、強力なモンスターが現われる。それに呼応するように、複数のシーモンスターが大量に発生する。
また埼玉のような戦いが起こるかもしれない。いや、それ以上の規模の。
闇に落ちる前の空は、黒い雲を模様のように貼りつかせながら、一層燃えるように赤く不気味に輝き出していた。