真実
《スナック・熱帯魚》と看板を出している店は、有名な館山水上歓楽街ではなく、周囲には民家の無い街はずれにあった。
小さな店は道路の途中にぽつんと佇み、しかし駐車場はそれなりに広い。客は車で乗りつけてくるのだろうが、運転手には酒を出せないだろうし、店としてはあまり儲からない気がした。
店の中は隅々まで掃除され、手入れが行き届いていた。伏せられたグラス一つ一つまでよく磨かれているのが分かった。店内に入ると、カレーの匂いがした。
「カレー?」
と思わずシオンが呟くと、タオルを手渡してくれながら、やえがにこりと微笑んだ。
「昨日ハイちゃんから連絡貰ってから作ったの。お腹空いてない?」
それまで腹は減っていなかったが、あまりに美味しそうな匂いに食欲がそそられた。急に空腹を覚えた。
「……空いた」
濡れた髪をタオルで拭きながら、シオンはついそう呟いてしまった。使い終わったタオルを受け取り、やえは微笑んだまま頷いた。
「せっかくカレー作ったから、サフランライス炊いたの。すぐに用意するね」
カウンターに入って、てきぱきと昼食の準備をする。カレー皿によそったほんのり黄色づいたライスにはたっぷりとルゥをかけ、付け合わせにはカリッと揚げたオニオンフライ、コンソメスープとサラダが、それぞれがほど良い分量で器に盛られ、すぐにシオンたちの前に並べられた。
「ハイちゃんも、少し食べてね」
「ああ。ありがとう」
「カレー、ちょっと甘くし過ぎたかも。一晩寝かせたから、美味しく出来たと思うんだけど……」
と言いながら、温かいおしぼりをシオンに手渡してくれた。母親を知らず、それまで桜の下手な料理か、紅子の弁当やおにぎり以外で、女性の手料理を食べることなど無かったので、なんとなく気恥ずかしくなってしまった。
「い、いただきます」
「どうぞ。でも、ゆっくり噛んで食べてね。冒険者って、早飯食いの人が多いから」
氷水の入ったグラスを置きながら、やえは母親のように優しくそう言った。冒険者なんてやっていると、爪に綺麗に色を塗った女性自体見かけることがない。
「元気か?」
スプーンを手に取り、カレーには手をつけないまま、ハイジが尋ねた。やえが頷く。
「うん。元気だよ」
色白で、垂れ目が柔らかな印象を与える。男勝りだった桜とは正反対の女性だと思った。
「シオンくん。初めましてじゃないけど、ちゃんとお話ししたことはなかったね。皆森やえです」
「あ、お、小野原シオンです」
喉が渇いていたので、出された水をすぐに飲もうとしていたところで、シオンも慌てて自己紹介をした。
「気にしないで、食べてね」
「あ、はい」
「シオンくんは憶えてないだろうけど、よく覚えてるよ。いつもサッちゃんのこと、待ってたね。とっても大きくなったね。見違えちゃった」
「あ……」
昔は桜が冒険から帰って来るのを、出来る限り家の前で待っていた。桜はクタクタになるまで働いて帰って来るから、心配だったのだ。
顔を赤くしながら、シオンは頷いた。
「いま、いくつ?」
「十六……もうすぐ十七歳です」
「そんなになるんだ」
目を細め、やえは変わらず笑みをたたえていたが、最初に見た笑っているのに泣いているような印象はシオンの中で変わらなかった。
シオンとこうして会って話しているのも辛いのではないかと思った。
「あの、姉がとてもお世話になったみたいで……」
「それは、私がサッちゃんのことが好きで、頼ってたから。サッちゃんは私を守ってくれるっていつも言ってくれてたの。だから私も出来る限りのことを、あの子にしてあげたかったの」
「男だけのパーティーなんて、桜のほうがごめんだっただろう」
ハイジが言った。
「そうね」
「あんなにがさつなのに?」
弟のシオンのほうがそんなことを言ってしまった。
「でも、女の子の冒険者には、女の子なりの苦労もあるから。シオンくんのパーティーは男の子ばかり?」
「あ、いえ」
最近珍獣にしか見えなくなってきたキキを女の子と考えていいのか微妙なところだが、紅子はちゃんと女の子だ。
「そう。戦士?」
「魔道士です」
「そう。ソーサラーにはけっこう女の子がいるものね」
治療を得意とするソーサラーには、何故か女魔道士が多い。だから彼女たちは重宝される。しかし男ばかりのパーティーの中で、一人いるかいないかの割合なので、男しかいないパーティーよりも問題は起こりやすいようだ。
「女の子であることを特別扱いすることもないけど、やっぱり男の子とは同じじゃないから……気にかけてあげてね。言われなくても、そうしてると思うけど」
やえの声は柔らかくて優しかった。
「サッちゃんも優しい子だからね。そのサッちゃんが、弟くんのことを優しい子だっていつも言ってたから」
彼女は桜のことを、「優しい子だ」と言った。「優しい子だった」とは言わずに。いまも桜がこの世に存在しているかのように。
桜が生きていると信じているのか、それとも死が受け入れがたいのか。
どちらにしても、シオンが会いに来たことは、彼女にとって何よりも辛いことなのではなかっただろうかと、この後に及んでも思った。
「食べたら?」
食事に手を付けるタイミングを逃したシオンに、ハイジがそう促した。
カレーを口にすると、ほんのり甘味があり、辛い物があまり得意ではないシオンにはちょうど良かった。
「……おいしい」
と呟くと、やえがにっこりと笑った。
「良かった。ワーキャットは刺激物が苦手な人が多いから。いつもよりちょっと甘く作ったんだけど。ハイちゃんには甘過ぎるかしら」
「うん」
正直にハイジが頷く。やえは気を悪くするふうもなく、ニコニコとしている。
「おかわりもあるからね」
「あ、いえ」
「千葉にはしばらく滞在するの?」
「はい」
「トレジャーハントをしてるってハイちゃんに聞いたよ。海蝕ダンジョンが多いから人手がいるね。手伝ってあげたいけど、お店があるし、もうずいぶんと冒険者をやってないから、きっと駄目ね。かえって足手まといになっちゃう」
「あ、いや。大丈夫です……」
「君がいてくれたら心強いけどね。このパーティーは癖の強い子供ばかりだ」
ハイジの言葉に、やえが目を細める。
「そうなの。どんなコたち?」
「目的以外のことで頭がいっぱいのソーサラーに、人間性に多いに問題のある魔力がカス以下のルーンファイターに、寝相の悪い珍獣」
「またそうやって、ハイちゃんは人の悪いところばっかり強調して見るから……」
やえの言葉はまったく的を得ているとシオンは思った。
「でもね。良いところもちゃんと分かってるの。言わないだけ。ハイちゃんは人にも自分にも厳しいけど、面倒見はいいの。けっこうお人好しなのよ」
「あ、はい。分かります」
「別にそんなことないけど」
「楽しそうなパーティーだね。良かったね、ハイちゃん」
「何がいいの。成り行きだよ。シャーマンがいないようだったから。桜の弟だし放っておけないだろう」
「あたしは、ハイちゃんはまた誰かとパーティーを組むだろうなって思ってたよ」
やえはどこか嬉しそうに言った。
「そのほうがいいとも思うの。ハイちゃんの力は、たくさんの人の役に立つから。ヨッちゃんもそう言ってた」
ハイジが眉根を寄せた。
「ヨッちゃん?」
シオンが尋ねると、やえが頷く。
「夜っていうあたしたちの仲間だった男の子」
「あれは男の子じゃないだろ」
「そう? まだ二十二だよ。ぜんぜん若いよ。あのコは子供みたいなとこあったし」
「夜さんって、いまは連絡がつかないっていう?」
「そうね、でも、たまにふらっと顔見に来てくれるの」
「そうなの?」
とハイジは少し驚いたように言った。
「時々ね。痩せて、人相も変わっちゃったし、前みたいに喋らなくなったから、ハイちゃんが見たら驚くかもね」
「あいつは今何をしているんだ?」
「さぁ……ポツポツお仕事は受けてるって言ってた。『サッちゃんのこと、捜してるの?』って訊いたら、『そのことは心配するな』って、それだけ」
「夜が桜のことを諦めるはずはない。今も手がかりを探しているだろう。あいつは直情的で短絡的なバカだったけど、その気になればどんな仕事でもこなせる腕がある」
「夜さんって、そんなに強かったのか?」
ハイジの言い方は冷たかったが、それでも素直に認める強さということだろう。
「正統派の魔法戦士と言っていい。ルーンファイターというのは大抵、肉体強化か武器への魔法付与どちらかに寄るものだが……」
女性である桜は典型的なエンハンサーだった。それ以外の魔法はからっきしだったが、肉体強化魔法を扱うことには高い才能を持っていた。己の魔力を練り上げて肉体に行き渡らせるという術は、訓練も大事だがセンスに寄るところも大きい。未熟な者が使えばあっという間に魔力も肉体もへたばってしまうが、熟達した者が使えばかなりの長時間、強化状態で戦い続けることも可能だという。
蒼兵衛はエンチャンターだ。魔法付与は彼のようにごく少ない魔力量で発動することが出来るのが強みだ。ただし効果が切れるのも早いため、状況によってはかけ直しが間に合わないときもある。また強くなるのはあくまで武器であり、肉体は強化されない。武器を失えば一気に戦力が落ちるうえ、大剣や大槌を扱おうとすればそれに伴う肉体が必要である。
エンハンサーとエンチャンター、両方に言えることは、いずれも魔力に頼り過ぎると、いわゆる「事故って死ぬ」ということだ。魔力が枯渇したときに物を言うのは、結局素の強さになる。
魔法戦士はほぼこの二つのタイプのどちらかになる。魔法そのものを駆使して戦うソーサラー寄りの戦士は、一般的にはバランス型と呼ぶが、他クラスの間では器用貧乏となどと呼ばれ馬鹿にされている。ソーサラーになるほどの素質もないのなら、素直に肉体か武器を強化して戦ってもらったほうがマシということだ。
それこそ軍の特殊部隊などでは厳しい訓練を受けたバランスタイプのルーンファイターが多く在籍しているようだが、同業者ではシオンも見たことがない。
「夜はバランスタイプのルーンファイターだ。ソーサラーの素質がかなり高く、才能を見出されて教室に通ってもいたようだが、同時に剣も取った。母子家庭で、早くに働く必要があったからだと言っていた」
「何かをやり出すと真面目に打ち込むタイプなのよ、ヨッちゃんは」
「よく言えば職人肌、悪く言えば融通の効かない奴だ。でも強かった。奴の魔法で何度も僕達は救われたし、桜が背中を預けるほどの戦士だった。単純に武器だけの戦いなら桜や蒼兵衛ほどではないだろうが、そこに魔法が加わると分からない。彼らにも勝てるかもしれない」
「そんなに強いのか」
「でも、ヨッちゃんは戦うことが好きじゃなかったよ。どっちかって言うと、仲間を助けることのほうに力を発揮するタイプなの」
「それもいまは分からない。とにかく直情的な奴だ。桜を失って、考え方が変わっていたら……例えば目的のために手段を選ばないと決めたなら、そうするだろう」
「そうだねぇ。でも、根っこは変わんないと、やえは思うな」
手持ち無沙汰そうにグラスを拭きながら、やえがシオンを見て微笑む。
「正義感が強くて、涙もろくて、お人好しで、いい子なの」
「君は良い所ばかりをことさらに強調するところがある」
とハイジは言い、一息ついてから食事を再開した。
食事が終わると、やえが尋ねた。
「デザートでも食べる? アイスクリームくらいしか無いけど」
「いえ、大丈夫です」
「飲み物は、何が好き? コーヒー……は、まだ若いしあまり飲まないかな? ジュースでいい?」
「あ、はい」
コーヒーは苦手だが、大人に囲まれて働いていると何故か苦手と言いにくく、そのまま出されてしまうことが多いので、シオンはほっとして頷いた。
「甘いの、好き?」
「わりと……」
「サッちゃんも好きなのよね」
ミルクセーキが出てきた。以前、シリンやユエが働いている《きまぐれキャット》でも出してもらったが、あのとき飲んだものと味が少し違っていた。
「前飲んだのと違う」
「喫茶店? 喫茶店だとソフトクリームで作ってるんじゃないかしら。うちにはソフトクリームは無いから、バニラアイスを使ってるの」
「すごくおいしい」
「ありがとう」
やえが微笑む。物腰の優しい彼女に、シオンは何も聞けないでいた。
ドレスを着て髪や爪を綺麗に整え、こうして料理を出す姿がとても似合う。こんなおっとりした女性が、本当に桜やハイジと同じパーティーにいて、命をかけた探索や戦いをしていたとは思えなかった。
「お店は繁盛してそうだな」
とハイジが尋ねた。彼にはやえはコーヒーを出した。
「まあまあね。お客さんにもオーナーにもよくしてもらってる。元々得意な仕事だし……」
「あの、やえさんはどうして冒険者に?」
思わずシオンは尋ねてしまった。
「そのとき付き合っていた男が、冒険者だったの。それだけだよ。あたしは少し魔法が使えたから、サポートしろって。あたしも若かったし、まあいっかーってかんじで、資格を取ったの。そのときの彼はダンジョンで死んじゃったけど」
「……すみません。オレ、余計なこと聞いて」
恋人をダンジョンで失ったなんて、辛いことを聞いてしまったと思い、シオンは謝ったが、やえは首を振った。
「モンスターに追い詰められて、あたしを囮にして逃げたの。でもすぐに別のモンスターに襲われて死んじゃったの」
「自業自得だろう。ソーサラーを囮にファイターが逃げるなんて」
ハイジが冷たく言い放った。それはシオンも同意見だ。詠唱を必要とするソーサラー、ましてや女性だ。多少傷ついてもファイターが盾になれば、切り抜けられた可能性もあるのに。悪手だ。
「やえさんは、よく無事でしたね」
「モンスターはオーガだったの。ダンジョンを進んでいる間に、いくつか隠れられそうな横穴を見つけてたから、そこまで一目散に走って逃げて、潜っただけ。オーガは大きいし、入って来られないから。ゴブリンなら駄目だったな。穴の中には血まみれのレイスがいたけど、いるだけだから。オーガはずっと穴の入り口であたしを捕まえようと手を伸ばしたけど、別の冒険者が来るまで、穴の中でレイスと一緒にじっとしてたわ。ゴブリンなら頭が良いから、投石されて嬲り殺しにされてたと思う。オーガはゴブリンよりずっと強いけど馬鹿だから、切り抜ける方法はまだいくつかあったから、幸運だったの。遠くから逃げた彼氏が別のオーガに捕まってる悲鳴が聴こえたけど、彼は重装備だったから、どっちみち横穴には入れなかったと思う。彼があたしを見捨てたから、あたしも彼を見捨てられたの。じゃなかったら、一緒に戦って、一緒に死んだかな」
かなり壮絶だ。初心者の女性が黙って耐え抜ける状況ではない。紅子などすぐにパニックを起こしてしまうが、やえは相当に冷静で、肝が据わっている。
「やえの話を聞いていると、退屈しないよ。僕らのパーティーと出会うまで、そんな話ばかりだから。男を見る目が無いから」
ハイジが言った。
「当時は、〈秋葉原のバッドラッカー〉って有名なあだ名の冒険者だったんだよな」
「アキバ?」
「登録センターが秋葉原だったのよ」
「本人を知らなくても、その名前だけよく伝わっていたよ」
「そ、そんなに……?」
「あたしがいたパーティーでは、そんなふうによく仲間が死んだの。私は一番弱くて、いつも逃げ遅れるか見捨てられて、でもあたしだけ生き残る。そのうち、〈バッドラッカー〉は仲間を見殺しにする冒険者だって噂が広まってた」
たまにそういう〈いわく持ち〉の冒険者はいる。仕事柄、ジンクスに拘る者も多いので、パーティーを転々とする者を嫌がる同業者は多い。ましてや、パーティーとことごとく死に別れているとなれば。
シオンはそういうジンクスを信じていないので、やえはただ運が悪いか、よほど人を見る目が無かったのか、それだけのことだと思う。
「それまでの運の悪さは、みんなと出会って帳消しになったよ。あたしみたいな平凡な女がみんなとパーティーを組めたことは、そのぐらいの幸運だったと思う。でも結局、〈バッドラッカー〉だったね、あたしは」
やえは明るく言ったが、ハイジはしまったという顔をした。そして、
「ごめん」
とばつ悪げに謝った。やえは首を横に振った。
「〈バッドラッカー〉ってあだ名だけが広まって、あたしの名前なんて誰も知らなかったからね、探せば次のパーティーはすぐに見つかった。でも、長続きはしなかった。あんなに長く同じパーティーにいたのは、サッちゃんたちとだけ」
彼女は懐かしげに目を細めた。
やえに会って、一番聞きたいことは桜の最期だった。それを聞くタイミングが、シオンには分からなかった。
だが、彼女には分かっていたようだった。
すでにピカピカのグラスを、やえは丹念に磨き続けていたが、手にしていた一つをコトリと置いて、顔を上げた。
「シオンくんは、お姉ちゃんのことをあたしに聞きたいのね」
「そう」
シオンの代わりにハイジが答えた。
「あたしが知ってることは、シオンくんのお父様や警察に話したことが全部だけど、シオンくんはお父様から何も聞いてないのね」
「父さん……父は何も」
「お父様は、優しい方だから、あたしの話をずっと落ち着いて聞いて、頷いていたわ。全部話終わったら、笑って、『話してくれてありがとう』って言ってくれた。『忘れろとは言えないけれど、気に病まないで。それは娘も望んでいないから』って」
父親らしいとシオンは思い、頷いた。
「オレもそう思います。サクラは、仲間を恨むような奴じゃないから」
「ありがとう……。お父様は『ずっと桜の傍にいてくれてありがとう』って、あたしたちみんなに言ってくださったの。シオンくんも、同じね。お父さまに似てる。優しいのね」
「本当にそう思うから。サクラは強かったから、自分で何でも決めて、冒険者になって、戦ってた。覚悟だって出来てたと思う」
「そうね。でも、覚悟は出来ていても、死にたくなんてないわ。誰でも。最後に見たサッちゃんの表情が……あたしには忘れられない。不思議そうな顔をしていた。自分の身に起こったことが、分からなかったんだ」
そう言って、やえは微笑みながら顔をくしゃくしゃに歪めた。綺麗に描かれた眉をしかめ、グロスを塗った唇を震わせて、ほっそりした手で顔を覆った。
「……ダンジョンで遭遇した獣堕ちと戦っている最中に、崖下に落ちたの」
「それは……知ってます。でも、それは事故で。戦いにはよくあることだから……」
「……あんなに強くて用心深かった子が、どうしてそんなことになったのか、一緒にいたあたしも分からない……。あたしはサッちゃんの邪魔にならないように、自分の身を守って戦うだけで精一杯だった。あの日、サッちゃんは少し体調が悪くて、あたしだけがそれを知ってた。日によって調子が違うってことは、女の子の冒険者にはよくあることだから。サッちゃんはあたしに頼ってくれたけれど、高レベルの危険なダンジョンで、サッちゃんに守られていたのはあたしのほう……」
「聞いていた情報より多くのモンスターがいた。先行したバックアップの情報よりずっと多くのモンスターがいきなり湧いたんだ、まるでトラップみたいに」
ハイジが静かな声で告げた。その顔に表情は無かった。
「そういうトラップって聞いたことないけど……」
「この狭い日本ですら、ダンジョンや魔法罠の全てが解明されているわけじゃない」
桜が死んだとされるダンジョンは、普通の冒険者では立ち入れない立ち入り禁止ダンジョンだ。 栃木県にある、《えいえんの国》という名の禁忌ダンジョンだ。
名前とは裏腹に、過酷なダンジョンで有名だ。人工ダンジョンと天然ダンジョンが複合した、混合ダンジョンと呼ばれる場所だった。かつて大きな新興宗教施設があり、広大な敷地の地下に三十層を超える天然ダンジョンが広がっている。
モンスターが沸きやすく、県が冒険者協会を通して精鋭のパーティーにモンスター駆除を依頼していたが、長らく宗教団体が所有していた為、存在が知られていなかった、比較的新しいダンジョンであったことで、当時は禁忌ダンジョン認定はされていなかった。現在は禁忌ダンジョンとなっている。
「地上ダンジョンだけでも広大だった。複数の建物がすべてダンジョン化している上に、地下は三十三層あった。冒険者だけじゃない、研究者や賢者を含め、多くのパーティーが調査に当たっていた。と言っても、僕達はモンスター討伐を主としていたパーティーだったから、あのときも目的は同じだった」
ただ現れるモンスターを倒していけば良かった。広大なダンジョンではあるが、出現モンスターはそれほど脅威ではなく、それまで調査も滞りなく進んでいた。
「そうやって協会に依頼を受けて、何度か赴いたダンジョンだった。あのときも、同じように終わると思っていたよ」
大勢の者やパーティーが集まると、それだけ揉めることもある。
探求心の強い研究者たちと、場数を踏んだベテラン冒険者の間で諍いが起こることもたびたびあった。桜たちはどちらに与することもなく、完全に統率が取れているとは言えない大規模なチームの中で、討伐班として戦いだけを専門として加わっていた。
こと戦いになると、桜の率いるパーティーは主力を担っていた。
「モンスターの大量湧きも、当初は外部から侵入したと思われていた。《えいえんの国》は山中にあったからね。しかし特に多くのモンスターが地下ダンジョンに突然湧いた。調査は地上と地下に別れていたが、それぞれで奇襲を受けた。地上には5メートル程度だが、単眼巨人が二体現れた」
「サイクロプスなんて、早々見ることなんてないのに……」
巨人種はかつては日本の山々にも多く生息し、鬼熊と並んで恐れられたモンスターだ。日本中の炭鉱やトンネル工事に従事していた蜥蜴亜人や豚亜人、牛亜人などの大型亜人は、巨人種来襲のときには道具を武器に持ち替え戦った。ただでさえ巨大な上に外皮が硬く、魔法耐性もそこそこあり、人間や小型亜人がまともに戦えるモンスターではなかったのだ。
巨人種との戦いでは、大型亜人たちも多くが命を落とした。キキたちリザードマンが自分たちを戦闘種族だと誇るのは、文字通り彼らは命をかけて山野を切り拓いてきたからだ。
巨人種は現代に至るまで、日本ではほとんど狩り尽されている。とはいえ完全に絶滅したわけではなく、残った種を保護しようとする愛護団体も存在しているという。
「サイクロだけならまだ良かったが、デスナイトも出現した。デスナイトはデスやリッチに並ぶ上位幽鬼で、最上級危険モンスターの一種だ。死霊魔法を使い、《喚起》で大量のワイトやゴーストファイターを召喚する。そして実際に、アンデッドが大量出現した。シャーマンは全員、地上に行かざるを得なかった……」
ハイジはそこで、桜と別れたのだと分かった。
「大型亜人も同じだ。全員がサイクロプス討伐のため地上に。強力な攻撃魔法を扱えるソーサラーも同様だった。夜は《退魔》も魔法付与も、攻撃魔法も、多くの魔法を使うことが出来た。僕と夜と鯛介は、地上への救援を求められ、桜もそうしろと言った。地下も決して安全では無かったけれど」
「……地下では、あたしたちより先行していたチームが行方不明になっていたの。救援の通信を最後に、連絡が取れなくなって……」
「あのときは緊急事態で、地上にほとんどの戦力が割かれていた。行方不明のチームを見捨ててでも、地上のモンスターを討伐するべき状況だった。危険級のモンスターが人里に向かえば、大惨事になる」
「だから……サッちゃんは、行方不明の人たちは、自分がなんとか助けに行くって……そしたら必ず、地上に戻って戦うからって……」
「涙、拭きなよ。化粧が崩れてるよ」
ハイジが言うと、やえは頷き、ハンカチを取り出して目許を拭ぐった。ハイジの言う通り、目の周りの化粧が剥がれていた。
「君は無理に話さなくていい」
「ううん……」
やえは首を振った。拭っても拭っても潤む目許に、じっとハンカチを押し当て、はぁと息をつく。
剥がれた化粧の所為か、やえの目許が黒く滲んでいた。
「……シオンくん……」
何度拭っても潤む目をシオンに向けながら、本当はその姿を見ていることも苦痛であるかのように、やえは顔を歪めた。子供が泣きじゃくっているような顔だった。
「……ごめんね……あたし……。ごめんなさい……謝って、許されることじゃないけど……謝ることしか、分からなくて……ごめんなさい……。シオンくんにも、お父様にも、サッちゃんにも……」
「謝るなんて」
シオンは慌てて椅子から立ち上がった。そうしたところで、カウンターの向こうにいるやえに、どう声をかけていいかも、何を言えば慰めになるかも分からなかったけれど。
喪失の悲しみは知っている。だが、大切な人を救えなかった苦しみを、シオンは知らない。かけがえのないものが、なすすべもなく自分の目の前で失われていった。
それを知る女性は、ハンカチを目に押し当て、しばらく静かな呼吸を繰り返してから、やがてゆっくりと、言葉を紡いだ。
「シオンくん……あなたやお父様が許してくれても、あたしの目の前から、サッちゃんが消えてしまったことは、永遠に忘れられないの。あの子が暗闇に吸い込まれるみたいに落ちていったときの夢は、毎晩見る。そのたびに思うの。あのとき、一緒に落ちていれば良かったって。あたしのその後の人生なんて全部使い果たしても、あの子が生きていたほうが良かった」
やえは泣いていたが、シオンは自分で思っていたよりも冷静に、彼女の言葉を聞いていた。
桜が死んでいく姿を、これまでシオンも何度も夢に見た。遺体まで痕形も無く喰われたとだけ父親からは聞かされていた。直前まで桜がどんなふうに戦っていたのか、どんなモンスターと戦っていたのか、それも聞いていない。自分以上に辛いだろう父親が言わないのだから、聞いてはいけないのだと思っていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝らなくていい」
泣きじゃくるやえを、シオンは真っ直ぐ見つめた。
「やえさん……やえさんが辛くても、オレは知りたい。姉さんは、どんなふうに死んだんですか」
黙っていたハイジが顔を上げた、しかし、すぐに目を伏せた。
「たとえリザードマンの獣堕ちに囲まれたとしても、姉さんが苦戦するなんてオレには想像出来ない。いや、戦闘で勝てない相手だったとしても、あいつも、アンタも、窮地を切り抜けられる冒険者だったはずだ。だから、オレは知りたい。サクラは……」
どんなモンスターに追い詰められたのか。その問いは、シオンにとっても腑に落ちないものだった。
その違和感の正体に気付き、シオンはこう言った。
「サクラは、何に油断したんですか?」
やえの身が一瞬強張った。
ハイジがコーヒーを一口啜ってから、カップを置いた。
カチャン、と陶器が擦れ合う音がしたしばらく後、彼は意を決したように告げた。
「ワーキャットの獣堕ち」
「え?」
シオンは目をしばたたかせた。
「地下ダンジョンにいつの間にか入り込んでいたのか、自分たちより強いモンスターに追われて逃げてきていたのか、ワーキャットの群れと遭遇した。野生化ではほとんどいないはずの半獣頭……君とほぼ同じ姿をした」
シオンと同じ――人間とほぼ変わらない姿をした獣堕ちの討伐は、レベル60を超える討伐専門のベテラン冒険者が、「どんなモンスターを討伐するよりも、一番堪える仕事だった」と言ったこともあるというほど、精神的に過酷なものらしい。
「それでも桜は弟と同じワーキャットの獣堕ちに囲まれたくらいで、動揺するような戦士じゃなかったはずだ……最初はそう思った」
「そんなわけないじゃない……」
やえの頬に涙が伝い、ファンデーションを落としていく。
「辛くないわけない……だから、いつもより、脇目も振らずに、がむしゃらに戦ってた。何も考えないようにしてるみたいに。群れには幼獣がいて、成獣たちはいきり立ってて……戦わなかったら、その場にいたみんなが死んでた……だから……」
やえの言葉が、シオンにはどこか遠く聞こえた気がした。
「だから……小さな……まだ赤ん坊の幼獣を斬ってしまった……あのとき、初めて……初めて……あの子が剣を落とした……。呆然としてるあの子に、獣堕ちが襲いかかって……一緒に、崖から落ちたの……最下層まで落下して……」
嗚咽を漏らしながら、やえが再び顔を覆った。
「あたしは……それを全部、見てるだけだった。何も出来ずに、声もかけられずに、あの子が消えていくのを、ただ見ていた……」
シオンは首を振った。
「違う……」
どんなに強い戦士であっても、誰しもが憧れた冒険者であったとしても。
シオンにとって彼女は、最後まで大好きな姉だった。
姉のままで、いてくれた。
――全部よ。あたしはアンタの、全部になりたい
――大丈夫よ。あたしは変わらない。ずっとアンタのお姉ちゃんだし、アンタのことを好きよ。
――ずっと守るわ。そのために、強くなったの。
――だって、シオンは、あたしのなんだから。
いつだったかの桜の言葉が、いくつも思い出された。まるでさっき聴いたばかりのように鮮明に。桜との想い出は、いつも鮮烈に蘇る。
大好きな姉さん。自分のことを大好きでいてくれた姉さん。家族のままでいてほしいと言ったシオンに、頷いて笑ってくれた。
気づかないうちに、一粒だけ涙が零れて落ちた。ぽた、とカウンターの上に落ちた雫が、最初は何なのか分からなくて、雨漏りかとバカなことを一瞬思ってから、自分が泣いていることに気付いた。
「……サクラ……姉さん……」
口にして名前を呼んだとき、また涙が零れた。桜の言葉や表情一つ思い出すたびに、涙がぼろぼろと流れて、シオンはそれを拭うのも隠すのも忘れて、ただ立ち尽して呟いた。
二歳しか変わらないのに、死んだときだって、今のシオンと変わらない年齢だったのに、彼女はずっと強かったから、大人に頼るように甘えていた。
幼い子供のときから、彼女はシオンのヒーローだった。だから、桜の弱さを受け止めてやることが、シオンには出来なかった。
どうしてだろう、こんなときに思い出す桜の姿は、最後に会ったときではなくて、幼かった、まだ子供だった頃のものだった。冒険者になるんだと、目を輝かせていた頃の、小さな桜。血の繋がらない獣堕ちの弟を、本気で愛してくれた。
「……おねえちゃん……」
シオンもいつの間にか、泣きながら子供に戻っていた。
泣きながら呼べば、いつだって駆けつけてくれて、こう言ってくれたのだ。
(だいじょうぶよ。シオンは、おねえちゃんがまもったげる)