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迷宮のドールズ  作者: オグリ
三章
59/88

彼と彼女と人と亜人と  

 ドンドン! と扉を叩く音がして、シオンは目を醒ました。

 かぶった布団の中から顔と手を出し、枕元の携帯電話を取る。午後一時。朝に一度起きて病院に行き、帰って薬を飲んでずっと寝ていた。昨晩からずっと熱っぽく、体がだるい。

「おーい」

 誰かが扉をドンドン! と叩き続けている。近所迷惑だからやめさせないと……いや、その前に、薄い扉がぶち破られそうな勢いだ。


「シオーン、いるのー? 出てこーい!」

 ドンドンドンドン! と拳で扉を叩き、キキが声を上げる。

「もうお昼だってば! みんな集まってるよー! ハイジが怒ってるよー!」

「そこまで怒ってないよ」

「超怒ってるよー!」

「怒ってないって」

 後ろでハイジは腕を組み、憮然としている。

「リーダーが寝坊とは。これだからワーキャットは……」

 蒼兵衛が呟くと、キキはハッとした。

「まさか……昨日あたしたちが色々イジったから拗ねてる……?」

「そんなにイジったっけ?」

「一番イジったのはお前だワニ子。あーあ、お前とうとうクビだな」

「ピギャッ!? マジで!?」

 蒼兵衛が親指を立て、首を掻っ切る仕草をすると、キキは驚いて飛び上がり、ドンドンドンドンドン! と扉を激しく叩いた。

「リーダー! キキちゃん真面目に働くよぉ!」

「……うるさい……」

 ようやく扉が開いた。僅かな隙間から顔を半分覗かせたシオンは、どことなくげっそりとしている。

「なんか、とり憑かれたみたいな顔してるね」

 ハイジが呟く。

「どうしたの!? リーダー!」

「……誰がだよ……オレか……」

「朝からいいよ、ベタなボケは! 寝坊したこと怒ってないからさぁ、家に入れてよー。ハイジんちのほうが広かったけど、思ったよりフツーであんまり笑えるとこなくて……」

「笑うつもりだったんだ?」

「おい、リーダー。いい加減、顔を洗って準備して来い。天の岩戸じゃあるまいしいつまで引きこもってるつもりだ。早起きは三文の徳と言ってな……」

「紅子が、シオンと連絡が取れないって言ってたよ!」

「まったく、あの娘も寝坊したとかで、近頃の十六歳どもはことごとく緩みきって……」

「っ!」

 慌ててシオンが扉を締めようとしたのを、蒼兵衛ががっしとノブを掴み、勢いよく引っ張った。

「ふん。ワーキャットふぜいが、引っ張り相撲で私に勝てると思うな」

「やったれサム!」

 あっさり扉を開けられ、その勢いでシオンは膝を崩し、べちゃっと上半身から倒れ込んだ。

「あっ、やっぱ寝てたな! めっちゃ電話鳴らしたのに!」

 Tシャツにハーフパンツだけのシオンの姿に、キキが腰に両手を当ててふんと鼻を鳴らす。

「……ごめん……寝てた……薬が効いてて……」

「薬?」

 よろよろと体を起こすシオンを、ハイジが見下ろし尋ねた。

「体赤いね。夏風邪? 病院は行った?」

「……昨日、夜に行ってきた……」

「で、どうだった?」

「薬貰って、飲んで、寝てた……」

「じゃなくて、伝染るやつだった? 僕らに。伝染るならすぐ帰るから」

「ひでえ」

「鬼だ」

 キキと蒼兵衛がボソボソと言い合う。シオン四つん這いのまま、はぁ、と息を吐き出し、小さく頭を振った。

「……伝染らねーよ……ただの、発情期だから……」

「は」

 キキがあんぐりと口を開ける。

「だから……今日、無理だ……。ていうか、しばらく、仕事出来ない……」

「そう。発情期なら仕方ないね」

「……うん……ごめん……寝る……」

 立ち上がり、ふらふらと部屋の中に戻っていく。尻尾まで元気無く揺れていた。もぞもぞと布団に入っていく姿を見届け、パタンと素早く扉を締め、ハイジは他の二人を振り返った。

「……発情期だってさ」

「って言われても」

「さすがにイジれん」






「はっ! はわわわわわっ!? はわわっ!?」

 仲間からシオンの状態を聞いた紅子は、驚きのあまり人間の言葉をすっかり忘れた。

「はわわ……?」

「落ち着いて。言語を成してない」

「うーん。見事に予想通りの反応」

「スケベな小娘だな」

 新宿冒険者センター内の《喫茶室・オデュッセイア》の隅の席。体調不良のリーダー不在のまま、パーティーはなんとなく集まり、紅子の腹がぐうぐう鳴っていたので、なんとなく昼食から済ませることにした。

 仕事の話をするときには必ずシオンがいて、それなりに仕切っていたので、すでにグダグダ感が漂っている。ハイジも積極的に仕切るタイプではないらしい。

「あのな、ワーキャットの発情期ヒートは、おそらく君が考えているであろうよこしまな妄想とは、違うぞ」

「よこしまっ!?」

 蒼兵衛の言葉に、紅子はぶんぶんぶんと首を振った。

「し、してませんっ! してませんけどっ!?」

「人間って他種族の発情期にやたら食いつくよね」

 キキがやれやれと言った様子で肩を竦める。

「くいついてないぃぃぃぃ……!」

 紅子はがくりとうなだれ、ついでにテーブルにごんと額をぶつけた。その様子をハイジが冷ややかに見つめる。

「まあ、常時繁殖可能なうえに、どんな種族とも積極的に交わって子孫を残していく、繁殖力の強い種族だからね。いつかこの世界も人間だらけになるだろうね」

「リザードマンとまで子供を作ってしまうくらいだしな」

「えっへん」

「ちょっとぉ! 蒼兵衛さんはどうして自分は人間じゃないみたいな顔してるのぉ!? 私たち、仲間じゃないですかぁ!」

 紅子が顔を上げ、蒼兵衛を裏切り者とばかりに非難する。

「ワーキャットのシリンさんにずっと片想いしてたじゃないですかぁ! 人間なのに! 大先輩なのに!」

「やめろ! その傷はまだ深いんだ!」

 わっと顔を覆う蒼兵衛の頭を、キキがよしよしと撫でた。

 そんな様子を見ていたハイジが、ポツリと呟く。

「紅子って、シオンの前ではわりと猫かぶってる?」

「えっ!?」

「もし、シオンがここにいたら、そんなにギャアギャア言わないんじゃないの?」

「キッツ……」

「姑みたいだな」

 キキと蒼兵衛がボソボソと言い合う。

「だ、だって、うるさいと小野原くんに嫌われるよって、いつもお兄ちゃんが……! 小野原くんって、中学のときもクラスではすごく物静かで、ぜんぜん喋らなかったし」

「それ、ぼっちなだけじゃん?」

 キキが悲しい目をする。

「クールで、かっこよかったなぁ……消しゴム、『落ちてたぞ』って拾ってくれたの、いまもずっと大事に持ってるんだぁ……」

 頬に手を当て、はぁと息をつく紅子に、ム、とキキが顔をしかめる。

「それってフツーに拾っただけよね?」

「いまも持ってる情念がすごいよ。なんかゾッとした」

「私もシリンから貰ったバレンタインチョコは十三年分ぜんぶ取ってあるぞ?」

「それはもう捨てろぉ!」

「じつは私の消しゴムじゃなかったんだけど……」

「それも捨てろぉ! 人間怖いよぉ!」

 キキが頭を抱える。よしよしと蒼兵衛が頭を撫でた。

「じゃあ……小野原くんは、発……あ、アレで、しばらく、お仕事出来ないの……?」

 紅子は頬を赤らめつつ、おずおずと尋ねる。

「アレって言い方もどうかと思うけど」

 ハイジが白けた目を向け、蒼兵衛が説明した。

「奴の名誉の為に言っておくが、生殖する気の無い若いワーキャットは、発情期ヒートを薬で抑えて処置する。いきなりサカッてそのへんのメスにとびかかるわけではない。人間われわれのように年中発情している種族と違い、奴らにとっては恥ずべきことでもスケベなことでもない。『あ、きそうだな』と思ったらすぐに抑制剤を飲んで寝る。そうすれば発情にいたることもないのだが、一週間ほど熱っぽくなり、喉の渇きもひどく、それに耐えるのが嫌でデキ婚してしまうワーキャットが私の地元には多く……」

「やめてぇぇぇ!」

「まあ、ただの種族差というものだ。そんなふうにキャアキャア言っていると『やっぱり人間ってスケベでデリカシーない……』という目で見られるから気をつけたほうがいいぞ」

「さっすが年季の入ったワーキャットのストーカー」

「違う! 純愛と言え!」

 キキの言葉に、蒼兵衛はまたわっと顔を覆った。よしよし、とキキがその頭を撫でる。

「じゃ、じゃあ……小野原くんは我を忘れてワーキャットの女の子に飛びかかったわけじゃないんだね……良かった……」

「ほんとに好きなの?」

 ハイジが突っ込む。

「というか、僕たちにそれを隠す気無いんだな……隠したら?」

 すると、頬を赤らめた紅子が、えへへ、と頭をかいた。

「だ、だって、仲間だし……みんなには、出来たら応援とかしてほしいなって……」

「図々しいわね……」

 思わず女言葉になったハイジが、ぱっと口許に手を当てた。

「どうしたんですか?」

「……いや、癖を治そうと思ってたんだけど。あまりに図々しくて、つい」

「あれって、癖だったの?」

 ハイジと蒼兵衛の間に座っているキキが、ぱっとハイジのほうを見て、無遠慮に尋ねた。

「心は女じゃなかったの?」

「男だよ。……まあ、色々あって」

「そうなんだ、苦労したんだね」

「そこは深くは訊かないんだ?」 

「うん。人には色々と踏み込んじゃいけない事情があるって、おばあちゃんが言ってた。そういや、ガルーダってデキ婚しないよね」

「そこは踏み込むのか……」

 蒼兵衛が顔をしかめる。

「そうだね。種としては減少の傾向にあるけれど、個人としての彼らは、心から添い遂げたいと思える相手でなければ、子を成さなくても良いとすら考えているからね」

 ガルーダの恋は一生に一回とまで言われるほど、彼らはただ一人のパートナーを深く愛する。他種族との恋に落ちたガルーダは、子孫を残すことよりも生涯たった一度の愛を選ぶ。滅びゆく原因の一つに、その愛の深さも理由しているという。

「そういう相手がいて、初めて繁殖したいって思うみたいだよ」

 他人事のように言う。キキは首を傾げた。

「ハイジはいないの? ガルーダって、子供んときから許嫁いたりするじゃん」

「ああ、僕にはいないよ」

「ふーん? それって珍しいほう? いまどき普通なの?」

「どうかな。僕は先祖返りだからね。ガルーダの一族ではあるけど両親は人間だし」

「えつ、そんなことってあるんですか?」

 驚いたように紅子が尋ねる。

「数代前に人間の血が混ざって、すっかり人間化した亜人の家系にはたまにね。特にガルーダに多い。僕は親から離れてガルーダの中で育ったけど……あまり自分がガルーダという気はしなかったな。同族は、あまり好きじゃない」

「へー。キキちゃんは家族大好き。誇り高いリザードマン族だもん」

「おい、よさないか。身長同様デリカシーまで極小サイズだな、お前は。脳みそまで骨なだけはある」

 踏み込みまくるキキを蒼兵衛が慌てて止める。

「なによ。――キキちゃんはさぁ、一族のみんなとはちょっと見た目違うじゃん?」

「うむ……ちょっとか?」

「ちっちゃい頃はね、あたしも大きくなったらだんだんリザードマンっぽくなってくんだと思ってたんだよね。おじいちゃんやおばあちゃんみたいに、こう、口のへんとかだんだんにゅっと伸びてきてさ……」

 顔の前で、両手をにゅっと突き出す。

「尻尾もドン! と太くなって、全身キンキラ鱗の、立派なゴールデンリザードマンになると思ってたんだよ……」

 頬杖をつき、キキがふっと遠い目をする。

 その肩を、蒼兵衛がぽんと叩く。

「たまにそういう生き物に見えるときあるけどな。なんかほんとモンスター的な……『あ、やっぱリザードマンだな』的な……アレに……」

「そっか……さすがリザードプリンセス……」

「流石流石」




 食事が運ばれてくるまで、いやに長くかかっていると嫌な予感がしていたハイジだったが、すぐに理由が分かった。

 最初に「お食事は皆さま同時にお持ちしますか?」とわざわざ訊かれた理由も。

「お食事で~す」

 お馴染みのワーラビットのウェイトレスが、のんびりした口調とはうらはらに、テキパキと食事を運んでくる。

「今日の《こっこちゃんスペシャル》ですよ~」

「わぁ、美味しそう!」

 紅子が弾んだ声を上げる。巨大なプレートの上にハンバーグとトンカツ、単価を抑えつつボリュームを増やすためか、何故か大きなちくわ天が三本も添えられ、付け合わせであろうナポリタンスパゲティがどう見ても一人前の量で盛られ、キャベツが別の大きなボウルいっぱいに盛られ、ラーメンどんぶりいっぱいのわかめスープ、特盛りのライス。パンまでついている。

 六人席に通された理由はこれか……。紅子だけで三人分の席を占拠し、自分たちが向かいに座らされた理由も。

「スープとキャベツはおかわり自由ですからね~。ライスは三杯までです~」

「えへへ~いただきま~す!」

 紅子の食べっぷりに感心した店主が考案した《こっこちゃんスペシャル》は女性冒険者に限り、普通のランチセットと同じ値段で提供される。大食いの女性冒険者が、わざわざ別のセンターからやって来ることもあるらしい。それでも、特盛りのライスを三杯限界までおかわりして完食するのは紅子だけだという。店に写真も飾られている。

「やっぱりどこかぶっ壊れなんだな……」

「え? なにがですか?」

 フォークとナイフを手に、紅子が目をしばたたかせる。

「昨日もすごく食べていたけど、そこは猫かぶらないんだ?」

「そこ……とは?」

「大食い」

「う、これだけは……かぶれないです……! でも小野原くんの前では抑えてるつもりですけど……!」

「たしかに今日は昨日さらに酷い」

「もう私、食べるのが好きで好きで好きで……!」

 紅子はフォークとナイフをわなわなと握りしめ、ぐっと目を閉じた。

「小さいころなんて、ご飯だけは誰にも盗られまいと抱え込むように食べてたって……いつも何を食べてもどうしてこんな美味しいものがこの世にあるんだろうって、新鮮な喜びでいっぱいで……! あ、噛みしめて食べるから、食べるのは遅いんですけど……」

「いいよ……ゆっくりどうぞ」

 そう言い、ハイジはコーヒーを口許に運んだ。

「ハイジさん、コーヒーだけ……? 少食なんですね……ていうか、当サークルの男性陣は少食ですね……」

「サークル? ちょっと待って、サークルだと思ってるの?」

「すみません。間違えちゃって。パーティーです」

「そこは間違えないで。一気に遊び感覚になるじゃないか」

「私は体づくりのために好物を我慢しているだけだ。蒼兵衛さんが強くてスタイル抜群なのには理由があるんだぞ」

「僕は人前で食事をするのが苦手なだけ」

「ハイジね、昨日、ピザ取ってくれたんだよ。でもハイジはぜんぜん食べてなかったよね」

「君がピザ食べたいって言ったんじゃないか。少しは食べてたよ」

「ビールばっか飲んでた」

「そんなに飲んでないよ。三本ぐらい」

「でも大きい缶のほうだったよ」

「なんか、楽しそうだったんだね……いいなぁ」

 紅子が羨ましそうに呟くと、蒼兵衛が恨めしげに呟いた。

「楽しいものか。ピザなんてファットフード、私はほとんど食べられなかったんだぞ。二片で我慢して、あとは豆腐に醤油かけて食べていたのに、このワニ娘はラージサイズをこれみよがしにムシャムシャと……!」

「うち基本和食だからそーゆーの普段食べないんだよね。油分はキキちゃんのピカピカ鱗をツヤツヤにするのに必要なんだけどね。ピザってさぁ、魚を丸ごとのせて焼いたら絶対美味しいのに、そういうのないよね」

「魚に火が通る前に生地が黒焦げになるんじゃないかな」

 ハイジが言うと、キキは納得したように魚の頭をかじった。キキのメニューも特別な魚を丸焼きにしてもらった《リザードプリンセススペシャル》だ。好物の魚を頭からバリバリと食べる様を嫌な顔で見ている蒼兵衛は、ダイエットメニューのような玄米ご飯とみそ汁と漬物とサラダをつまらなさそうに食べ、時折近くのテーブルの女性冒険者たちが食べているチョコレートパフェを羨ましげに見つめていた。


「じゃあ、しばらく小野原くんには会えなくなっちゃうのかぁ……」

《こっこちゃんスペシャル》を半分ほど平らげたところで、紅子は特盛りライスをお代わりし、ふぅと息をついた。

 食事中、今後の方針を決めようと話したのだが、シオンはアレだし、紅子もこれからテスト期間に入るので、しばらくパーティーの仕事は控えようと、ハイジがさっさと結論を出してしまったのだ。

 寂しいけれど、仕方ないや……学校もちゃんと行かなきゃ……。紅子はもそもそとハンバーグを口に運びつつ、はあと息をついた。

「シオンはアレで、紅子はテストだけど、キキちゃんは空いてるよ?」

「私もほぼ年中無休で予定が空いてるぞ」

「ね、三人でダンジョン行こうよぉ」

「嫌」

「つれないぞ姉上」

「男だって言ってるだろ。次言ったら呪うぞ」

 キキと蒼兵衛が不満の声を上げるが、ハイジはがんとして取り合わなかった。

「――やむを得ん。私は、セイたちを手伝ってやるか。ソウさんと久々に仕事が出来て、アイツら喜ぶぞ」

「キキちゃんもおじいちゃんと遊んであげるかぁ。ポチとコロになんか芸覚えさせよっと。ブルのおっちゃんすごいんだよ。ポチとコロを三日くらい預けたら、別犬みたいに大人しくなっちゃっててさぁ」

「ブル……ああ、森のブタさんか……」

「おっちゃん、シオンのこと気に入ってたなぁ。また会いたいって言ってたよ。シオンってモテるよね。リノもめっちゃシオン好きだもん」

「えっ」

 ハンバーグをごくりと飲み込み、紅子は恐ろしいモンスターに出会ったかのような顔をした。

「そ、そんな……! どうしよう、小野原くんがリノちゃん好きになっちゃったら……! あんなに可愛いし、同じワーキャットだし……!」

「でもリノ、小学生だよ」

「うそ!?」

「そうか、あのチビ猫がもう来年には中学生か……。いまでも不登校だから行けるのかは知らんが……」

 まるで自分が兄のような顔をして、しみじみと蒼兵衛が呟く。だが紅子はそれどころではない。

「て、てっきり少し下くらいだと……! 実はキキちゃんが小学生だったっていうのなら分かるんだけど……!」

「なんであたしをディスってんの? あたしのがリノよりお姉さんなんだよ?」

「ひぃぃ……!」

 驚愕する紅子だったが、ややあってハッとした顔になった。

「あっ、じゃ、じゃあ大丈夫かな……? 見た目が大人っぽいから意外な事実にびっくりしちゃったけど……小野原くん、小学生は守備範囲外だよね……? あ、小学生だって知ってるのかな? 早めに教えてあげたほうがいいよね!」

 ぱっと明るく顔を上げる紅子を、ハイジが白けた目で見やる。

「けっこう俗っぽいな、この子」

「でも計算とかは出来ないから、無害だよ」

「昨日も、なんか気が付いたらお兄ちゃんばっかり小野原くんと一緒にいて! 私が師匠にビシバシ修行つけられてる間に、小野原くんの家にいたって……ズルくないですか!?」

「おい、愚痴り出したぞ」

「僕らに同意を求められても」

「シオンがいないから本音ぜんぶぶつけられてるよぉ」

「しかも、『小野原くんの秘密を知ってしまった』なんて言って……! なんでお兄ちゃんがそんなにあっさり小野原くんの秘密を!? お願いします教えてくださいって頼み込んだら、一時間も肩揉みさせられて、あげくに教えてもらったのが、『小野原くんはこたつが好き』って、それだけ……! ああ、でもすごく猫っぽくて可愛い……!」

「いいの? 一時間の労働の対価をあっさり僕らにバラしてるけど……」

「シッ。喋りたいんだよ。そっとしといてやって」

「小野原くんの誕生日、九月だったから、がんばってお金貯めてこたつプレゼントしようかな……」

「前代未聞だよ、女の子からのプレゼントがこたつなんて」

「こたつならうちにいっぱいあるよ。あげようか? リザードマンサイズだけど」

「私たちはこの娘の目的のためにダンジョン探索をする金を稼ぐんじゃなかったか? こたつなんかに使われたら目もあてられんぞ」

「あっ、そうだ、ダンジョンといえば、千葉に行くんだよね!? 海のダンジョンって小野原くんが言ってたけど、みんなは水着持って行く……? すごく悩んでて……」

「……君、何しに行くつもりなの?」

「ふんどしで泳げばいいじゃないか」

「もっ、もちろん探索ですけど、少しくらい海で遊ぶ時間もあるかなぁって……そういうとき無かったら困りますよね……?」

「絶対に遊ばないから僕は困らない」

「ふんどしでなんとか」

「キキちゃんは持って行くよね?」

「えっ、あたしっ?」

 海の話になったとたん、話にまったく入ってこなかったキキが、ギクリと顔を上げた。

「キ、キキちゃんは、遊びに行くわけではないので……紅子さんおひとりでどうぞ……」

「そんなっ。それじゃ私だけバカみたい……! や、やっぱやめとこ……」

「やめとこやめとこ」

 うんうんとキキが頷く。あ、と蒼兵衛がキキの頭を見下ろす。

「そうか。お前、みじめな尻尾があるんだったな」

「みじめじゃねぇぇぇ! もったいなくて見せられないだけだからっ! キキちゃんの尾っぽはキンキラで立派なんだからねっ」

「がっ!」

 ガタッと立ち上がったキキの頭が、蒼兵衛の顎にクリーンヒットした。

「おい、顎の骨が真っ二つに割れるかと思ったぞ……!」

「《キキちゃん流奥義・アイアンヘッドバッド》だよ!」

「それはアイドルを志す者の必殺技ではない……。そんなに立派なら見せてくれてもいいだろう」

「見せるかスケベザムライが!」

 キキがガァッと吠えるが、蒼兵衛が顎を撫でさすりながら、心外そうに告げる。

「冤罪もはなはだしい。クソワニガキなんぞに性的興味はまったくない。ただ珍獣を見てみたいという永遠の少年心だろうが」

「珍獣じゃねええええ!」

 キキがテーブルの下で足をぶんぶんと振って、蒼兵衛の足を蹴る。

「……ほんと、シオンがいないと、全然話にならないな」

 うんざり気味に、ハイジがため息をついた。




「そういえば、紅子。住所教えてくれるかな。杖送るから」

 三杯目のコーヒーを飲みながらハイジが言った。

 大量の食事を時間をかけて食べる紅子以外は、すっかり食べ終わっている。

「あっ、そうだ。昨日、師匠に相談したら、知り合いに杖を加工してくれる職人さんがいて、材料が揃ったら師匠が連れてってくれるって。師匠も要らない杖で私に合うのがあったらくれるって言ってたし」

「良かったじゃないか」

「趣味の良い杖を作ってもらえよ」

 ピンク杖のことを思い出しながら、蒼兵衛がうんざりと言った。

「職人さんへの代金は、お兄ちゃんが貯金から払ってくれるって」

「紅子の兄ちゃんさぁ、顔色悪かったけど大丈夫なの?」

「透哉お兄ちゃんはイトコだよ」

「分かってるけど、紅子のイトコの兄ちゃんって言うのややこしいからさぁ」

「まあお兄ちゃんみたいなものだけど……あ、お兄ちゃんと言えば、このさい杖は壊れたときのために、ゴルフクラブみたいにたくさん背負って持って行けばって、言われたなぁ……」

長杖ロングロッドが好みなら、そうしたら? 重くならない程度に。ただ、長い探索になると、本当に疲れるよ」

「冒険って、重たいんですね……」

 いよいよ弁当の量を減らさないと……と紅子は暗い顔になった。

「そうだよ。それが嫌だから、僕は短杖ショートロッドに慣れる努力をしたけど」

「ハイジさんは、出来るソーサラーですね……」

「シャーマンだけどね。紅子、夏休みはいつから?」

「あ、えーと、二十日です。」

 ファンシーな手帳を取り出し、紅子が日付を確認する。

「十六、十七、十八の土日月が連休で、十九に終業式挟んで夏休み」

「なにそれめんどくさーい。終業式サボッちゃえば?」

 学校に行っていないキキがクリームソーダを飲みながら顔をしかめた。メロンソーダの上に浮かんだソフトクリームを羨ましげに見つめながら、蒼兵衛が言った。

「いや、連休はどうせ週末冒険者がダンジョンに殺到するから、避けていいんじゃないか。夏ならなおさら」

 週末冒険者は、平日は勤めなどに出ていて、土日にしか探索が出来ない冒険者のことだ。

「連休の間にしっかり準備をしておいて、紅子の夏休みが始まったらすぐに千葉に発つのはどうだ? 私はいつでもいいぞ。常に体は空いている」

「あたしもー。でも家庭教師に予定言わなきゃだから、早めに決めてよね」

 ハイジがタブレット端末を取り出し、自分の予定を確認する。

「僕はいまところ、七月後半の予定は空けてある。シオンには後で確認するとして、とりあえずここで大体の予定を決めてしまおうか」

「うむ。異論は無い」

「紅子は、連休はどうすんの? 夏休みの前の」

「あ、えっと、テストも終わってるし、どこかダンジョンに行けるなら行きたいけど……でも追試があったら、行けなくなっちゃうし……」

「追試? そんなのよほど頭が悪くないと受けることはないだろう」

「うっ……す、数学と、英語と、日本史が……」

 ハイジの言葉に紅子が声を詰まらせた。

「ほとんどじゃないか」

「最近までバイトもしてたし、冒険と、修行で、勉強なんてぜんぜんしてなくて……。授業中も眠いし……」

「それは良くないね」

「私のように冒険者科のある高校に入れば良かったのに」

「よくそんなバカな学校、入ろうと思ったよね」

 クリームソーダの上に乗ったアイスを一口で食べたキキが、蒼兵衛の顔を覗き込む。

「なんでもったいないことを……!」

「人間の冒険者ってすぐ仕事にあぶれるしフリーターみたいなもんじゃん? 死にやすいし」

「うむ。入学のとき、『実習中に死んでも文句言いません』という同意のサインを親ともどもするんだが、特例の条件を満たせばコネの無い人間でもあっさり資格をくれるのがいいなぁと思ってたのが志願理由だ。あと馬鹿でも入れた」

「やっぱバカだったんだ」

「資格を貰ったら自習届出して勝手にセイヤたちとダンジョンに潜っていたら、親が学校に呼び出されて『柊くんはぜんぜん授業に出てくれないので、いっぞこのまま冒険者になったらどうですか?』ってクビになりかけたが、ちゃんと卒業したぞ」

「逆に良心的じゃない? 在籍してるだけで授業料取れるのに中退勧めてくれるなんて」

 ハイジが感心したように呟いた。

「ま、とりあえず高卒の資格は取ったほうがいいかと思ってな。腕一本でいつまでも仕事出来るとは限らんし。ちゃんと高卒扱いにはなるんだ」

「サムのくせにまっとうじゃん。でも戦い以外は向いてないと思う」

「僕も思う。外国で危険種と戦う傭兵とか向いてるんじゃないかな。厳しい訓練とか好きそうだし」

「わぁ、かっこいい! 蒼兵衛さんなら外国でも元気にやっていけそう!」

「なあ、何故日本にいさせてくれないんだ……? セイヤもシリンも同じこと言うんだ……やっぱり新婚夫婦には私が邪魔なのか……? ずっと三人でいるって約束したのに……うそつき……」

 ブツブツと呟き、蒼兵衛が暗い顔になっていく。他の三人はさっと話を変えた。

「じゃあ、話を戻すけど、三連休は紅子は追試があるかもしれないわけだね?」

「うう、すみません……」

「馬鹿なら仕方ないよ」

 申し訳なさげな紅子に、ハイジは慰めになっていない慰めを言う。

「もし行くなら、三連休は遠出して探索する週末冒険者が多いから、都内なんかは逆に混まないけどね」

 そう言って、タブレットの画面をテーブルの真ん中に置く。画面には都内のダンジョンがリスト化され、ずらりと並んでいた。

「こ、こんなに……」

「ただ、都内のダンジョンは探索され尽している。君の求めるものがあるのかは、疑問に思うよ」

「うーん……近くまで行ったら、ピンときそうな気はするんですけど……」

「魔石だったよな? せめて大きさとか、形状とか、分からないのか?」

 復活した蒼兵衛の問いに、紅子がしゅんと身を小さくした。

「わ、分かんなくて……すみません……」

「曖昧なものを闇雲に探し回るのは骨が折れるぞ。一生かかるかもしれん」

「魔石ね……ほんとに石の形をしているのかな」

 ハイジの呟きに、キキが首を傾げる。

「石って言うんだから、そうじゃないの?」

「石という言葉で惑わせているだけかもしれない」

「おいおい、ただでさえ魔石くらいしか手がかりがないのに、さらに石じゃありませんでしたなんてことになったら、本当にこの娘の勘頼みでしかないぞ」

「う……すみません……」

「結局、その勘が一番の手がかりなのかもね。まあ形状はともかく、強い力の魔道具アイテムだったとして、それが長年どこかで発見されずにいるとしたら、やはり意図的に隠されているものだと僕は考える。そうなると、必然的に魔素濃度が高い場所になるだろうね。その場の魔素を利用して、目くらましの永続幻惑トラップをかけて隠すことも出来る」

「うむ。魔素濃度の低いダンジョンは省けるな」

「っていうと、やっぱり田舎のダンジョンだねー」

「南房総はいい線いってるかもしれないね。海辺のダンジョンには濁った魔素が溜まるからね。ダンジョンの数の多さは申し分ないし、海中ダンジョンは探索者も少ない。資源なんてすでにマーマンにほとんど採り尽されているだろうが」

「特に魔素が溜まりやすいのは、入り江に出来た半海中ダンジョンだな」

「いくつかピックアップしておくよ」

「うちの組から、バックアップ頼んでみようか? ヒマしてる奴で、千葉で遊ぶついでに付き合ってくれそうなの。リザードマンは海好きだからさぁ、それなら遊び半分でタダで手伝ってくれるかも。その代わり、バーベキューと花火に付き合ってあげてよ?」

「う」

 アウトドアな遊びが苦手なのか、ハイジが心底嫌そうな顔をした。

「しかしリザードマンでは狭いところの多い海中ダンジョンに入れないだろう。斬牙……じゃなかった、ニコねこ屋から何人か拉致ってきてやろうか?」

「ただの探索となると資金が出ていくばかりで実入りが無いからね。連休は金目当ての仕事でもする?」

「おっ、いいぞ」

「そーだねー。おじいちゃんに頼んだらいくらでも人もお金も動かしてくれるだろうけど、そういうことするとシオン怒るからなぁ。おじいちゃんもおばあちゃんに怒られちゃうし」

「たぶん、昨日も帰って怒られてると思うぞ。あの買い物の山……」


 そんな仲間たちの会話を、紅子はただぽかんと口を開けて眺めていた。

「……どうしたの?」

 呆けている紅子に、ハイジが怪訝そうに声をかける。

 紅子はハッとして、恐縮したように頭を下げた。

「あっ、いえ、ほんとに、私って自分のことなのに、何にも役に立ってなくて! ……ただただ、みなさんにひたすら感謝しておりました……!」

「なにその喋り方……皆、君より冒険者歴が長いんだから当然だろう。キキはリザードマンの娘だし。人間の子とは違う」

「えへん。まあね。超初心者の紅子は大漁船に乗った気でいなよ!」

「お前もレベル1のくせに……。しかしでかそうだな、リザードマンの大漁船は……」

「う、うん! ありがとうみんな……! 私、がんばるね……!」

 紅子は深々と頭を下げた。ハイジが頷く。

「そうだね、まずはテストを頑張って」

「はひ……」

 とたんに力無く、紅子は頷いた。




 シオンのアパートの前で、紅子はうろうろとしていた。

 みんなと別れた後、一人でシオンのアパートに来てしまったのだ。

 

 その数時間前、《オデュッセイア》で、紅子は仲間たちからこんな仕打ちを受けていた。

「……小野原くんのお見舞い、行かないほうがいいかな……? 昨日の晩、お菓子作ったんだけど……」

 ハイジと蒼兵衛が心底呆れた顔をした。

「それで寝坊したのか」

「なんという娘だ……。日々のいとまをぬって、こうしてパーティーが集まっているというのに、一人だけ色恋にうつつを抜かすとは……」

「ひぃぃ、すみません!」

「サムは年中ヒマなんでしょ」

「みんなのぶんもあるよう!」

 紅子は慌てて、隣に置いていた紙袋を引き寄せ、中から綺麗にラッピングされたクッキーを取り出した。

「でも、小野原くんのに綺麗なやつを多めに入れたことは許してください……!」

「あ、手作りとか僕要らない」

「えっ!」

「私も本命あてのカムフラージュに作られた義理菓子なんぞ要らん」

 ハイジが真顔で告げ、蒼兵衛はふんと顔を背けた。キキだけがまあまあと慰めた。

「男どもは冷たいけど、キキちゃんは手作りクッキー好きだよ。普通の店には売ってないじゃん、失敗して丸焦げのガリッガリの硬いやつ」

「そ、そんなの無いよぉ!」


 悲しい思い出に、しばし紅子は身を浸した。

 しかし、ここまで来たのだから、せめてクッキーは置いていきたい。

(発情期でも、お腹は空くよね……?)

「薬さえ飲んでいればメスの尻を追いかけたりはしないから安心しろ」と蒼兵衛は言っていたけれど、きっといまは一人でゆっくり治したいだろう。病気ではないけれど。ともかく、会わずに帰るのが無難だという結論に達した。

(ほんとは会いたいけど……でも小野原くんにまで手作りクッキーに引かれたら、テスト頑張れないよ……)

 反応を見ないのが懸命だろう。

 ポストにお菓子と手紙を付けて置いて行こうと思ったら、なんと共用ポストだった。

(そうだ、お部屋の前に置いたら……!)

 蟻がたかるよ、と心の中の透哉が告げた。

(そうだよね……ただでさえ男性陣に不評だった手作りお菓子に蟻がたかってたら、間違いなく小野原くんを引かせちゃう……)

 ふう、と息をつき、紅子は覚悟を決めた。

(……帰ろ……)

 お菓子の入った紙袋を下げたまま、トボトボと帰ろうとした紅子の後ろから、声がかかった。

「……浅羽?」

「ぼえっ!」

「ぼえ?」

 慌てて振り返ると、ジャージ姿にコンビニの袋を下げたシオンがそこに立っていた。

「おおおおおおお小野原くん!」

 飛び上がらんばかりに驚いた紅子に、シオンが首を傾げる。

「なんでびっくりしてるんだ? ここにいるってことは、オレに会いに来たんだろ?」

 紅子の目は点になった。


 ――あれ? 思ってたよりケロっとしてる?

 顔はちょっと赤いけど……。


「……えと、お菓子……」

「お菓子?」

 きょとんとするシオンの様子に、なんとなくほっとした。いつもの彼だ。発情期なんて、大げさに捉え過ぎていたみたいだ。これだから人間は……。

 ふにゃふにゃと笑顔を作る紅子に、シオンが不思議そうな顔をする。

「腹、減ってんのか?」

「えっ? いやいやいや、そうじゃなくて! あっ、そうだ、具合どう!?」

「ああ、大丈夫。……どうせアイツらから聞いてるか。ただの発情期だから」

 ワーキャットの少年は、想像以上にあっさり答えた。

 変にぎくしゃくしないようつとめながら、紅子は笑って頷いた。

「た、大変だね」

「ぜんぜん。発情する前にすぐ薬飲んだから。なんともない。ただ、熱っぽいから飲み物はたまに買いに行かないと、喉が渇いてさ」

「へ、へえー……」

「ずっと寝てて、いま起きたとこだったんだ。熱がすごかったからさっき熱さまし飲んで、それが効いてるから出て来た。夜にはまた熱出ると思うけど」

「大変なんだね……」

 自分たちには無い苦労に、紅子は同情したが、シオンは軽く笑った。

「仕方ねーよ。亜人オレたち、人間みたいに繁殖力ないから、人間とは色々違うんだって、初めてんときは父さんに病院連れてってもらって、そう習った。姉さんにはめちゃくちゃからかわれてムカついたけど……」

「そ、そうなんだ」

 まったくドライかと思ったら、やっぱり少しは恥ずかしいのか、シオンは熱っぽい頬をさらに赤くしていた。

「アイツは冗談だって分かってるから、別にいーけど。学校も長いこと休むと、怪しまれんのかな。発情期だろってクラスの奴に言われたのは、ほんとムカついた。ただ薬飲んで苦しいだけなんだけど……すぐ変なふうに取るよな」

 少し怒ったようにシオンが言う。変なふうに取りかけていた紅子には胸が痛い。

 クラスが離れていた中学二年のとき、同級生にからかわれたり、いじめられていたとシオンは言っていた。紅子は何も知らず、時々廊下ですれ違ったことを喜んでいたりしていたのだが、そのうち彼が学校に来なくなったと噂で聞いた。

 暗い顔をしている紅子に気付いたのか、シオンは目線を落として言った。

「悪い。変な話して。気持ち悪いよな」

「ぜんぜん! 人間なんて年中発情期だし!」

 とんでもないフォローを入れてしまった。たちまちシオンの顔が真っ赤になった。

「あ、そう……」

「……気持ち悪い種族でごめんなさい……」

 紅子がしょぼんと肩を落とすと、シオンは小さく笑った。

「そんなこと、思ったことねーよ。人間嫌いってわけじゃない。オレはずっと人間と暮らしてたんだから。自分が人間だって、ずっと思ってたしな。自分がワーキャットだって自覚してからも、そのうち人間になれるかもしれないって、信じてたんだぜ」

「そうなんだ、可愛い……」

「えっ」

 思わず紅子が呟くと、シオンはビクッと耳を立てた。

「あ、ごめんね。男の子に。でも人間になれると思ってた、小さいころの小野原くん、可愛かっただろうなぁと思って……」

 ただでさえ容姿の整ったワーキャットの子供時代の可愛さは、人間にはたまらない魅力に溢れているというのに、小野原くんの子供時代なんて、それはそれは純粋で愛くるしい幼ワーキャットだったんだろうと妄想しつつ、紅子はあたふたと言い訳した。シオンが赤い顔を上げた。

「……部屋、上がるか?」

「えっ!?」

 驚いた顔を向ける紅子に、シオンはぱっと顔を俯かせた。

「あ、道で話すのも、変だし……」

「……部屋……」

 紅子も赤い顔を俯かせる。心臓がバクバク音を立てている。

 そういえば彼の部屋で一人で上げてもらったことはない……昨日は透哉のことが死ぬほど羨ましかったけど、いざその幸運が訪れると、逆に大慌てで逃げ出したくなるのは何故だろう……。

「……あ、ごめん。なんか、誤解されてんのかな……。発情期だから、襲うとか……?」

「いえいえいえいえいえいえいえいえいえ!」

 その光景を想像しかけて、ぶんぶんぶんっと紅子は首を振った。

 ――人間ってどうしてこうスケベな種族なの!?

「ごめん……そんなつもりじゃなかったけど……帰るなら駅まで送る」

 気を取り直そうとしているのか、シオンがそう申し出てくれたが、

「いえいえいえいえいえいえいえいえいえ!」

「……オレ、どうしたらいい?」

「ど、どうって」

 紅子の思考回路は完全に狂っていた。真っ赤な顔でへらへらと笑うことしか出来ない紅子に、シオンはふいと目を逸らした。

「このへん、ガラの悪い亜人もいるから……あんまり一人で来ないほうがいい」

「……ご、ごめんなさい……」

「あ、怒ってねーけど……」

 亜人の住む場所には、やはり亜人が集まるものだ。リザードマンやマーマンのように自分たちの居住区を作らない種族でも、自然と同じ場所に集まってしまう。平和に共生していても、人間ばかりの中で暮らすのは、どことなく居心地が悪いのだ。都会住みの亜人たちほど、その傾向にある。

 以前の戦いで、紅子は無意識のうちでも強い力を使っていた。迷宮育ちだと透哉が言ってた彼女は、きっと過酷な幼少期を過ごしたのだろう。本人に記憶はなくとも、防衛本能は凄まじい。それは戦いの中で証明された。だから、紅子は自分で思っているより、自分の身を自分で守れるはずだ。彼女は、シオンよりもずっと強い。

 だからと言って、守る必要が無いとは思えなかった。

「……悪い、様子見に来てくれたんだよな……」

「う、うん……みんなはそっとしておいたらって言ってたけど、お菓子、作ってきたから……クッキーなんだけど。手作りでごめんね……」

 おずおずと、紙袋を差し出す。

「なんで謝るんだ? ありがとう。腹減るから、つまめるものあると助かる」

 紙袋を受け取り、シオンが礼を言う。それだけで紅子はむせび泣きそうになった。

「うう、優しい……」

「え?」

「なんでもない……硬いのあったら、捨ててね。あの、じゃあ私、帰るね。テスト勉強しなきゃ。お仕事の予定、ハイジさんが連絡してくれるって。千葉のダンジョンのことも調べてくれるって。バックアップも、キキちゃんと蒼兵衛さんが頼んでくれるみたい」

「ああ、ごめん。みんなで、話し合ったのか」

「うん……だから、大漁船に乗ったつもりで、しっかり治してね……」

「たいりょう……? 別に病気じゃないんだけど、分かった。落ち着いたら、また連絡する」

 そうシオンは言って、駅の方向に向かって歩き出した。

 紅子は目をぱちくりとさせ、アパートのほうを指さした。

「小野原くん? おうち、帰らないの?」

「だから、駅まで送って行くって。べつに病気じゃねーし」

「でも」

「オレもこんなだし、浅羽はテストなんだろ? しばらく会えねーし、もうちょっと話したい」

「えっ、あっ、うん!?」

 声を上ずらせる紅子に、シオンはまた顔を赤くした。

「……オレ、また変なこと言ったか?」

「い、言ってないよ!」

「そっか……なら、いいけど」

 そう言って、不自然に距離を取って歩きながら、シオンは自分と同じように赤い顔をしている紅子を見た。

 透哉の話を聞いて、浅羽一族の事情や紅子の生い立ちを知っても、彼女が今までと違う存在に見えるということはない。

 むしろ、近しい存在に思えた。

 シオンはワーキャットである自分に、いつもどこかうしろめたさがあった。父と姉がどれだけ大切にしてくれても、自分を幸せだと思いきれないでいた。

 紅子は、幸福な生まれではないかもしれないが、いつも一生懸命で、元気で、優しい。そんな彼女を見ていると元気になるし、力になってやりたかった。昨日の透哉の話を聞いて、彼女が心から幸せだと思えるようになったらいいなと思った。

 そのときの気持ちを思い出すと、また顔が熱くなる。発情期のせいで誤魔化せて良かった。

 紅子のほうはというと、しばらく話しているうちにすっかり調子を取り戻したようで、昨日みんなで行った冒険者博が楽しかったと、思い出して語っている。

 あっさり気を取り直す紅子の明るい性格に、けっこう救われている気がする。

「浮遊ダンジョンの立体映像、素敵だったね」

「ああ、浮遊遺跡か。近くで見てみたいけど、瓦礫とか落下するから、観光船じゃ近づけないんだよな。飛行機の上から見えるって、父さん言ってたけど」

「映像ならいいけど、あんなの上に来たら、怖いよねぇ。日本にもすごく近づくときあるんでしょう?」

「うん。でも一定以上、陸地には近づかないように風の流れとかちゃんと管理されてるんだ。魔法ってすごいよな。大昔の魔道士は、魔石で浮いた島の上でみんな生活してたんだもんな」

「でも、いつかは落っこちちゃうんだよね」

「高度がどんどん下がってるみたいだけど、でも、ずっと先だよ、オレたちが死んだ後、ずっと何百年も先だってさ。父さんに教えてもらったことある。昨日の映像の中でも言ってただろ」

「小野原くん、行ってみたい?」

「行ってみたいけど、行けねーよ。浅羽やハイジみたいなすごい魔法は使えないし、蒼兵衛やサクラみたいに腕が立つわけでもない。リザードマンみたいな強くて丈夫な種族でもない、普通の冒険者だからな。近くのダンジョンに潜って金稼ぐだけだよ」

 別に卑下するわけではなく事実だ。魔法は使えず、規格外に強いわけでもなければ、強靭な種族でもない。紅子の目的を果たしたら、また日々の生活を続けるだけだ。生きるためにダンジョンに潜る生活を。

「今日ね、冒険者の学校の話、蒼兵衛さんがしてたの。小野原くんのお姉さんも行ってたとこだよね」

「ああ、すぐ辞めたけど」

「蒼兵衛さんもあんまり行ってなかったみたい。でも、ああいうとこ、小野原くんのほうが向いてそうだよね」

 と言って、紅子ははっと口をつぐんだ。

「どうしたんだ?」

「う、うん……私、デリカシー無くて……小野原くんが学校で嫌な思いしたの、知ってるのに」

「ああ、そんなのもう、終わったことだし」

「ん、なんかね……冒険者を目指すような子たちからしたら、小野原くんってすごく頼りになるだろうなぁって思ったの。私がそうだもん。色んなこと知ってて、すごいなぁって」

「オレ、学校じゃバカだったぞ。通知表、体育しか良くなかった。体育も水泳サボってたけど……」

「それは、普通の学校でしょ? 小野原くんは仕事のとき、いつも頼りになるもん。もし冒険者の学校に行ってたら……」

 言いかけて、紅子は口をつぐんだ。

 もし、冒険者の学校に行ってたら――すごくモテてそう……。

 ふっと紅子は遠い目をした。小野原くんが冒険者の学校に行ってなくて良かった……。そうしたら、いまこうして一緒にいることもなかっただろうな。紅子は運命にひたすら感謝した。

「冒険者の学校か……」

 中学を不登校になり、ずっと背中を追っていた桜もあっさり高校を辞めてしまったので、学校というものに興味が失せていた。桜が高校に行かなくても立派な冒険者になっていくのを見ていると、学校なんて行かなくてもいいんだと思えた。

「小野原くん?」

 黙ってしまったからか、紅子が気まずそうに声をかけた。

 桜に逃げ場所を作ってもらって、ここまで生きてきた。それを後悔はしていないが、そうじゃない道でもきっと大丈夫だったと紅子に言われると、そうだったかもしれないと思う。桜は弱さを認めてくれたけど、紅子はシオンの強さを信じてくれている。それがくすぐったい。だが、嬉しい。

 彼女よりずっと弱いかもしれないけれど、ずっと頼っていてほしいと思う。

 この先、どんなことがあったとしても、紅子を裏切らない。透哉もそれを信じてくれたのだろう。他の冒険者より力は足りなくても、それだけはたしかだ。

「……早く、ダンジョンに行きてーな。前はそう思うことなかったけど、いまは新しいことを知ったり、見たりすんのが、少し楽しくなってきた」

 彼女のおかげだ。そう考えただけで顔が紅潮してしまうので、とても口には出せないが。

 自分で閉ざしていた世界が広がっていくのは、あの日、一人で冒険者になろうとした彼女に出会ったから。

「オレは、もう一人で生きていけるんだと思ってた。サクラがいなくても、父さんがいなくても、一人でやってかなきゃいけないと思ってたし、もうそれが出来るんだって、うぬぼれてた。でもそれは、一人でしか行けない狭い世界での話だったんだな。いまは、みんなのおかげで色んな場所へ行ける。ダンジョンに行くのは命がけには変わりないけど……でも、楽しいと思うようになってきたんだ」

 シオンは顔を上げ、夕から夜へと移りゆくグラデーションがかった空を眺め、目を細めた。暮れかかった群青の空にオレンジ色の雲が浮かび、金色の髪と耳は西日の反射でキラキラと輝いてみえた。ただ隣を歩いているだけなのに、なんだか彼の特別な存在であるようで、紅子は嬉しかった。昔は、こんなふうに仲良くなれるなんて思っていなかった。

「死ぬかもしれないのに、楽しいなんて変だけどな。オレは強くねーし、サクラみたいな冒険者にはなれないかもしれないけど、いまはもう少し、行けるところまで行ってみてーな」

「うん」

 中学のときは、こんなに長くお喋りしたことなかったなぁ。家族は大変だし、不謹慎かもしれないけれど、魔石のおかげだなぁと、紅子は幸せを噛みしめながら、にこにこと頷いた。

「私もね、小野原くんやみんなと一緒なら、何があっても怖くないよ! モンスターや死体は怖いけど、でも、それよりもっとみんなとたくさん冒険したいって思うの。迷惑かけておいて、なんだけど……」

「浅羽は強いし、助かってるよ」

 シオンの言葉に、紅子がぎゅっと拳を握り、ぶんぶんと首を振る。長い黒髪が一緒に揺れる。

「ううん! 私のほうがいっぱい助けられてるよ! だって小野原くんはいつも守ってくれるもん!」

 ね! と満面の笑みを浮かべる少女に、シオンはまた顔を赤らめ、うん、と小さく呟き、俯いた。


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