始まりの魔道士
「お前の妹、紅子を守ってやってくれ。それが浅羽の魔道士としての、お前の役割だ」
父の言葉に、本気で納得したわけではない。
だが、言葉通りに、茜は熱心に魔法を学び、厳しい訓練を続けた。
自分のために使う力ではなく、ただ一族のため、祖父と父のため、妹のために。
茜自身、身に着けられる能力は、身に着けておきたかった。
それが必要となる日が、きっとくるだろうと、予感していた。
肝心の紅子は、茜に懐かなかった。
紅子は幼くして、祖父も母も超える器だと評されていた。
ふぎゃあと獣のような泣き声が上がると、傍にあった窓ガラスにひびが入る。そのたびに、叔母が慌てて走っていく。
幼い紅子は、生まれつき持ったその大きな魔力をたびたび暴走させていた。声を張り上げて泣くのを放っておくだけで、家中の窓ガラスを割ってしまう。
「あの男と真朱を一緒にしたのは、間違いではなかった」
そのかけ合わせが上手くいったことだけを喜ぶように、祖父はよくそう言った。
鼻が折れるほどの訓練も、努力も、圧倒的な才能の前ではゴミに等しい。
それは何の訓練も受けていない母と妹が、光悦をやすやすと超える魔力の持ち主だったように。
祖父と父は、紅子の魔力の強さを周囲に知られたくないようで、彼らは何度も引っ越しをするはめになった。祖母や母との想い出の残った家はとっくに処分し、茶和には仕事を辞めさせ、紅子の世話に専念するように命じた。紅子が茶和を必要とする限り、透哉たちは紅子から離れるわけにはいかず、茜も転校を繰り返し、友人など出来たこともなかった。必要ともしていなかったが。
そのぶん、自然と従兄の透哉と過ごす時間が多かった。魔力は少ないが、穏やかな従兄には、茜は好意を持っていた。
茜は兄弟のように育った透哉を「兄さん」と呼んで慕っていたが、紅子のことは、妹とは思えずにいた。
突然、迷宮から連れて来られた妹を、守るために生きろと言われて、はいと頷ける子供がいるだろうか。
まだろくに言葉も話せないころから、紅子の防衛本能はおそろしいほど強かった。自分にわずかでも敵意を向ける者には敏感だった。あのときすでに、茜が紅子に抱く感情を本能で感じ取っていたのだろう。近づこうとしても泣き喚いて攻撃してきた。まだ呪文にもなっていない泣き声は――彼女の強大な魔力は――肌を焼くように痛く、鋭かった。
本気の敵意を抱くようになれば、自分はたやすく紅子に殺されるだろうと、茜は諦め気味に思っていた。
「おかぁしゃん、おかぁしゃん!」
紅子の泣き声は、茜の頭に消えない頭痛のように響く。
母がいないからか、紅子の精神はひどく不安定だった。三歳になっても、四歳になっても、赤ん坊のようで、透哉の母である茶和が母代わりのように付き添っていた。
優しく抱きしめられ、あやされると、紅子はぴたりと泣き止み、きゃっきゃと笑う。寂しいときも、悲しいときも、不機嫌なときも、腹が減ったときも、泣くことで自分の感情を周囲に訴えかける。それは必ず魔力の暴走という形で発現した。
幼い紅子に悪気はなく、ただ泣けば誰かが自分のために血相を変えて駆けつけてくれると、分かっているのだろう。実際、世話をしていた叔母も叔父も、その息子の透哉も、紅子に優しかった。
その日は、茶和が少しの間、買い物に出ていた。昼寝から目覚めた紅子は、いつも通りわんわんと泣いて誰かを呼ぼうとしたが、そのときは茜しかいなかった。
「おばちゃん! おばちゃぁん! おかぁしゃん!」
またか、と思いつつ、茜は妹の泣き声のするほうへ向かった。
「紅子、うるさいよ」
扉を開けると、布団の上で泣いている紅子と、手許には一緒にお昼寝をしていたはずのお気に入りの猫のぬいぐるみがバラバラにはじけとび、無残に綿を散らからせていた。
「叔母さんならいない。すぐに帰ってくるから」
うるうると涙を滲ませ、紅子が兄に告げる。
「とらた、しんじゃった……」
バラバラになったトラ猫のぬいぐるみを前に、うるうると目を潤ませる。
「死んでない。人形だから、直る」
そう言うと、頬をぷくっと膨らませる。茜が来ると不機嫌になる。実の兄妹だというのに、ちっとも懐きやしない。
「じゃあ、にぃたん、なおして」
「少し我慢しろ。叔母さんが帰ってきたら戻してもらえよ」
「なおしてよぉ。おじしゃんは? とぅにぃたんは?」
「誰もいないよ……」
「なんでぇ……おばしゃん……どこ? こっこ、おなかしゅいた……」
「いま、買い物に行ってるんだよ。ちょっと待ってろ」
にこりともせずに、イライラと告げる兄に、紅子の顔はみるみるうちに泣き顔になっていく。
「おなかしゅいたよう……にぃたん、とらた、いきかえらせてよう……」
「だから、俺には無理だよ……」
「おなかしゅいた!」
叫び声とともに、茜の体は一瞬ふわりと浮き上がり、真後ろの壁に叩きつけられていた。紅子が大声で泣き喚き出すと、ガラスが割れる代わりに、茜の体は投げつけられたボールのように弾んで、壁や床にぶつかった。物に八つ当たりするように、紅子は実の兄を傷つけた。
「……って」
ようやく攻撃が収まると、茜は詰まっていた息をふはぁと吐いた。肩がひどく痛むのは、ひびでも入ったかもしれない。たぶん左腕は骨が折れた。が、慣れている。祖父も父も病院を嫌っているから、紅子に付けられた傷は、歯を食いしばって自分で治すしかなかった。おかげで、治癒魔法だけはどんどん上達していったが。
「……クソ……バケモノ……」
反魔法を試したこともあるが、茜の魔力をねじ伏せて、攻撃を通してくる。詠唱など知らず、泣き声一つでそれをやってのけるのだ。下手に魔法で防ごうとすれば、敵意とみなされ、かえって手酷い報復を受けた。
「にぃたん……しんじゃった……?」
紅子がぺたぺたぺたと廊下を歩いてきて、うずくまって倒れている兄に、おそるおそる尋ねた。
「おばちゃんが、なおしてくれる……?」
「ぐっ!」
人形の綿を引っ張り出すように、痛む肩に触れてくる。
「ここ、いたい……? こっこ、なおしゅ……」
「いい、やめろ……」
子供のへたくそなヒールで、下手な骨の繋ぎ方でもされてはたまらない。
「……いいんだ、もう、俺が悪かったから……ごめん……」
はぁと苦痛の息を吐き出しながら、茜は妹を宥めた。
叱ってもしょうがない。何も分かっていないのだから。
自分よりも人間はずっと弱いということを、コイツは分かってない。分かるわけもない。生まれながらに、絶対的上位の存在なのだから。
慰めているつもりなのか、紅子が茜の傷ついた体に触れる。そのたびにひりつくような痛みが襲う。制御を知らない紅子の魔力が、針で肌を刺してくるように痛い。茜の敵意を無意識に感じ取っているのだ。
「にぃた……」
「いい……自分で治すから……もう、触らないで……」
ドラゴンが傷ついたネズミをいたわろうとしたところで、ネズミは触れられただけで押しつぶされるだけだ。ドラゴンにそのつもりはなかったとしても。
無邪気なドラゴンは、地上が自分に見合う住処ではないことに気づいていない。母親が迷宮の奥深くで彼女を産み育てた理由は、分かる気がした。地上は紅子には狭すぎる。家の中でドラゴンを飼うなんて出来ない。そうとも知らず、ドラゴンは自分の力を持て余し、ぽろぽろと涙を流す。
――俺はネズミだ。
だが、ドラゴンは自分たちにとって強大な存在かもしれないが、同じドラゴンにとっては、まだ幼い存在でしかないのだ。
十五歳になる前、茜は自ら冒険者になると言い出した。
優れた魔道士の家系であれば、未成年でも冒険者になれる例はある。
祖父は強力な詠唱式をいくつか生み出し、そのうち二つが魔道士協会公認の詠唱式として登録されている。冒険者協会から要請を受けて、仕事をこなすこともあった。祖父はひどいタヌキだった。表向きは優秀な魔道士を演じていた。その孫として、祖父の魔道研究の助手をするという名目で、茜は冒険者になる資格を得ることが出来たのだ。
その祖父と父の役割を引き継ぐと、茜が自分から言い出したとき、透哉はそれをいぶかしく思った。
あれほど祖父たちを愚かしげに見ていたのに。
しかし茜は、「身に着いた力を試してみたくなった」としか言わなかった。
そんなものだろうか、と思ったが、彼の真意を聞きだすことは魔法を使っても難しいだろう。
初めてダンジョンに潜るという前日も、茜はいつもと変わりなかった。緊張も恐怖も無く、いつもと同じように過ごし、食事をし、透哉と他愛の無い会話を交わした。
帰ってきた日も、同じだった。
怪我をしたときも、恐ろしいモンスターに遭遇し、それを倒してきたときも、何も変わらなかった。ただ、義務のようにダンジョンに潜り続けていた。
やがて、協会の許可がなくても、父と共にダンジョンに侵入するようになった。そして平然と帰ってきた。
そんな日常の中、彼は家ではつねに変わらないふるまいをしていた。食事のあと、透哉の部屋にきて、雑談をするのが日課だった。
「わっ、おにいちゃん……」
透哉に絵本を読んでもらおうとやって来た紅子は、入った部屋に兄の姿を見て、そそくさと逃げて行った。飼っている猫が、入れ替わりにするりと部屋に入ってきた。
「そんなに睨まなくても」
透哉が可笑しそうに言う。茜は答えなかった。睨んだつもりはなかったが、無意識だろう。
妹は優しい人間たちに囲まれ、少しずつ人間らしく成長してきた。魔力を暴走させることもなくなった。「そんなことをしていたら、モンスターになるぞ」と、茜がことあるごとに言ってきたせいかもしれない。泣きながら傷つけられても、茜は紅子への厳しい態度を崩さなかった。
透哉たち家族の愛情と、兄の厳しい態度、それぞれに接するうち、紅子は様々な感情を学んでいった。それが紅子を人間らしく成長させていった。感情に任せて魔力を暴走させず、他者をきちんと慈しむようになった。
その代わり、逆に兄を恐れるようになっていた。
「透哉兄さんは、紅子が可愛い?」
「うん? 可愛いよ。茜と同じくらい」
おどけた従兄の言葉に、茜は苦笑いした。
「一緒か。俺もアイツも。兄さんは優しいんだな」
足にまとわりついてくるトラ猫を、茜はかがんでその顎の下を撫でてやった。
庭に居ついた野良猫が子供を産み、そのうちの一匹だけがずっと庭に残ったままで、ほだされやすい叔母がとうとう家に入れるようになった。生き物を飼っても紅子が殺してしまうのではないかと、家族の誰もが内心で心配していたが、昔よくバラバラにしていたぬいぐるみのようにはならず、ちゃんと可愛がっている。
茜に魔力をぶつけることもなくなった。一応、傷ついてはいけないものと認識出来るようになったのだろう。
「茜も優しいと思うけどね。たまには、こっこに、行ってきますって言ってみたら?」
透哉は言った。茜は撫でていた猫の背から手を離した。猫のトラタはまだ撫でてほしそうに、足にまとわりついてくる。
「いつもちゃんと叔父さんと茜の帰りを心配してるよ。雨の日にはてるてる坊主作ってさ。ちゃんと帰ってきてほしいって、お祈りしてるよ」
「それは、兄さんを心配してるんじゃないか」
「僕、ただの運転手だしなぁ。それはこっこ、分かってると思うよ。ダンジョンで主だって戦ってるのも、もう叔父さんじゃなく、茜だってことも」
茜は何も言わなかった。その足許で、構われることを諦めたように猫が去って行った。
「茜に優しくしてほしいんだよ。もう、いいんじゃない? こっこは、人間だよ」
「……俺には、そう思えない」
人形のように無感情な顔で、茜はぽつりと言った。
「それを認めたら、俺は、戦えなくなるかもしれない」
「茜。もう、戦わなくていいんじゃないかな。じいさんも死んだ。伯父さんだって、茜が好きに生きたいと言えば、無理にはダンジョンに連れてはいけないよ」
もう、茜のほうが強いのだから。そう透哉は言いたそうだった。
「いや、俺が行きたいんだ」
恐れて逃げだすくせに、紅子は茜と話をしたそうにしていることに、気づいていないわけじゃない。
もっと普通の兄妹のように、仲良く出来たら。紅子は茜に、そんな期待を持っている。
それは家族の愛情を求める、普通の子供の姿だった。
透哉の言う通り、彼女は人間なのかもしれない。人間として産まれ、あるべき場所で育った。もう誰も傷つけはしない。茜を傷つけてきたことをどこかで憶えているのか、自分でも恐れているのか、強大な魔力を器の中に隠し、ほとんど使わなくなった。心優しい子に育った。このまま人間の中で育てば、学校にも行けるだろう。友達も出来る。どんどん人間らしくなっていって、いつか、忘れられるのかもしれない。ダンジョンのことも。魔法のことも。
だが、それでも。
「やっぱり、逃れられないんだ。浅羽の血から」
「……それは、こっこじゃなくて、お前がじゃないの」
透哉の言葉に、茜は答えた。
「そうかもしれない。紅子からも、母さんからも、光悦からも、俺は逃げたくない。恐ろしいからこそ、すべてを終わらせたい」
いつしか感情を捨てたような顔をするようになった少年は、時折目に強い光を宿した。
本人は気づいていないかもしれないが、紅子ほどではないにしても、黒目の周りがうっすらと赤みを帯びるときがある。
そういうとき、彼らはちゃんと兄妹なのだと、透哉は思った。
どんなに嫌っても、恐れても、血は裏切れない。
だからいつか、二人が想い合える日もくるのだと、彼は信じていた。
「あー、楽しかったぁ!」
会場を出て、そう声を上げた紅子だったが、ハイジを見てハッと口をつぐんだ。
「……あ、遊びに来たんじゃなかったですね……すみません」
「なんで僕が真っ先に機嫌をそこねるみたいに思うの?」
「あっ、べつに、そんなことは! すみませんすみません!」
ぺこぺこと頭を下げる紅子を、ハイジは冷たく見下ろし、ふうと息をついた。
「……そんなに謝られても逆に気が悪い。僕も、買い物出来て良かったしね。今日は……誘ってくれて、ありがとう」
おおっ、とキキと蒼兵衛が声を上げる。
「いま、ありがとうって言った? 幻聴じゃないよね?」
「本心はそんなものだ。誘われないほど寂しいことはないからな」
「君たちって本当にイラつくな」
「あのさ、ハイジ」
彼の機嫌が悪くならないうちに、シオンは声をかけた。
「パーティーでの仕事なんだけど、予定が立ったらすぐに連絡するから。そっちも何かあったら呼んでくれ。それと、今日は疲れさせたみたいで、ごめん」
「いいよ。収穫はあったからね」
そう言われてほっとする。ハイジも手に買い物袋を持っていた。
「何買ったんだ?」
「畜魔石と、すごく軽くて丈夫な水筒」
「なにその普通の買い物……水晶玉は?」
解せぬといった表情のキキに、ハイジが白けた目を向けた。
「水晶玉持ってシャーマン名乗ってる奴がいたら、そいつは十中八九エセだから」
「そうだったのか!」
愕然とするキキの肩を、トントンと蒼兵衛が叩く。振り返ると、自慢げに手にした紙バッグを見せてきた。
「私も夏に備えて、ちょっと薄手のコートを買ったぞ。セイに金借りて」
「自分をフッた女のダンナに金借りて装備整えるなぁ! しかも結局コート!」
「だってやっぱり長衣に刀差すと格好良いじゃないか。十一代目柊蒼兵衛・夏の陣に期待してくれ」
「い、一生モテるわけないこんな奴……!」
「女魚亜人相手ならひょっとするかも」
「うええ、男の趣味わっる!」
ハイジの言葉に、キキはうへえと舌を出した。
「でも、小野原くんが買い物好きとは思わなかったよ」
誰よりも両手にたくさんの袋を提げたシオンに、紅子が言う。
「……オレもこんなに買つもりなかったんだけど……」
販売員のセールストークに引き込まれ、何もかも良いものに思えてしまった。ダンジョンで使える携帯マッサージ器を買いかけたときは、さすがに透哉が止めてくれたが。
「で、でも、小野原くんは本職だもんね! ほとんど毎日お仕事してるんだもん、色々必要なものあるよね!」
「よく考えたら要らないものもあるかも……」
急に恥ずかしくなってきて顔を赤らめるシオンを、紅子はフォローしてくれたが、仲間たちは容赦無かった。
「ギャハハハハ! 洗い流さない尻尾用シャンプー買ってる!」
「おっ、スライムネックピロー、今度ダンジョンで貸してくれ」
「あーあ……おにぎり器なんて100円ショップでも売ってるのに。勿体無い」
「いいだろ! オレの金で何買っても!」
キキと蒼兵衛、ハイジにまで袋の中身を物色され、シオンは耳と尻尾を逆立てて怒った。
「小野原くん、荷物多そうだから、車で送って行こうか? ……あ、でも二人泊まるんだっけ。そんなには乗れないか」
「お兄ちゃんの車、後ろ狭いじゃない。散らかってて」
「オレの家だって狭いのに……布団足りねーし」
シオンがぶつくさ言うと、ハイジがキキと蒼兵衛に向かって言った。
「じゃあ君たち、僕のところに来るかい?」
「えっ」
と全員の声が重なった。
「僕はタクシーで帰るし、二人くらい増えても構わないよ」
「えー。マジで? いいの?」
「マジか。いいのか。寝る前に日課の腕立て伏せとか逆立ちとかするぞ?」
「構わないよ。マジで」
意外な申し出に興味津々で寄って来た二人に、ハイジは平然と頷いた。
「ねえねえ、やっぱハイジんちって、死体とか骨とか飾ってるかんじ?」
「通報されるよそんな奴」
「やっぱり食事は果物とワインだけとかだったりするのか?」
「どんな栄養バランスで生きてるんだよ、僕は。本当にムカつくな君たちは。来なくてもいいけど、多分シオンの家よりは広いよ。客用布団くらいあるし」
「行く行く! あたしハイジんち泊まる!」
「じゃあ私も泊まる」
わーいと二人がはしゃいでいるのを見て、シオンも内心ハイジの家ってちょっと行ってみたい……と思った。
「あっ、でも先にシオンちに寄ってよね。キキちゃんのパジャマ置いてるから!」
「私も置き浴衣をしている」
「……早く持って帰ってくれよ」
「マンションの近くにショッピングモールあるから、そこで買えば」
「う……おばあちゃんに交通費代わりのICカードしか持っちゃ駄目って言われてるから、おじいちゃんいないとキキちゃんお金無い……」
「貸してくれるセイちゃんがいないから、ソウちゃんもお金無い」
「……着替えくらい買ってあげるよ」
「イエーイ! シオンと甲斐性ぜんぜん違う! ハイジ様!」
「兄上と呼ばせてもらおう。それとも姉上のほうがいいのか?」
「ぶっ殺したい」
「ハイジ、別にいいぞ。オレが連れて帰るから」
「やだ、ハイジんち行く! 狭いアパートはもうやだ!」
「すまない、シオン。私は足を伸ばして風呂に入りたい」
キキと蒼兵衛がささっとハイジの傍に逃げたので、コイツら……いままでさんざん人んちを荒らしてきたくせに……とシオンは顔を引きつらせた。
「いいよ。僕もうるさいのには慣れてるから。君は浅羽さんに送ってもらえば。そしたら車に乗れるだろ」
「そうしたら? 小野原くん」
透哉もそう声をかける。
「今日は草間先生が都内に出て来る用があるから、ついでにお知り合いの教室を借りて、紅子に魔法を教えてくれる約束をしていてね」
「そうだったんですか」
「うん。だから、先に紅子をそっちに送ってからでいいかな? 僕もどうせそこから時間潰さないといけないし」
「あ、はい……。じゃあ、お願いします」
「そうだった! 師匠に終わったら連絡しろって言われてたんだ!」
ハッとしたように紅子が慌てて携帯電話を取り出し、シオンを見る。
「ね、今日はこのまま解散でいいの?」
「あ、うん。そうだな、結局仕事の話しなかったけど……」
「明日でもいいんじゃない。僕は今日は疲れた」
ハイジの言葉に、シオンは頷いた。
「そうだな。どうせ明日もみんな東京にいるんだし……あっ、そうだ」
思い出し、ジャージのポケットを探ると、丸々としたドラゴンのキーホルダーを取り出した。
「浅羽、これやるよ」
「えっ、なにっ?」
紅子に手渡すと、手の中でぬいぐるみがころんと転がった。
「武器買ったらくれた。グレートディバイディングドラゴン」
「わっ、可愛い!」
「コロコロまんまるドラゴンの間違いじゃない?」
うわぁ、と紅子が嬉しそうな声を上げ、キキが首を傾げる。
「ほんとにいいの? もらっちゃって」
「オレが持ってても仕方ないし」
「すっごく嬉しい! 前に小野原くんから貰った釜めしは、食べちゃったから……」
「嘘でしょ……あげたほうも喜ぶほうも……」
キキが可哀相なものを見る目で紅子を見る。それでも失恋したての蒼兵衛にはじゅうぶん辛いのか「斬りたくなってきた……」と顔を暗くし、ハイジは口許に手を当てて笑いを堪えていた。
「ああ、そういえば、キメラ捕獲した帰りに持って行ったな」
「いままで食べた釜めしの中で一番美味しかった……器は大事に取ってるんだ……」
「陶器で良かったね」
「もっといいものあげてよぉ!」
あはは、と透哉が笑い、キキはたまらず叫んだ。
「……あっ、やっぱり、ちょっと待って。小野原くん、おうちの鍵持ってる?」
「え? うん」
「貸してもらっていい?」
はっとした顔になった紅子に、シオンは言われるまま、ウェストバッグからアパートの部屋の鍵を取り出し、手渡した。
「ずっと気になってたんだよね……」
貰ったばかりのぬいぐるみキーホルダーを鍵に付け、シオンに返した。
「はい。小野原くん、鍵そのまま持ってるから、失くしそうで。これ付いてたら簡単に失くさないでしょ?」
「……これ、付けとくのか? オレが?」
「可愛くない? 冒険者ってかんじだし」
「どうかな」
「これだけ大きいと失くさないしね。はい、ちゃんとしまってね」
「……分かった」
鍵をバッグにしまうと、紅子は満足そうにうんと頷いた。
喜んでくれたと思ったけど、実はそうでもなかったのかな……とシオンは思った。まあ、コロコロまんまるドラゴンだしな。やっぱ食べ物のほうがいいのか。
その光景を見ていた蒼兵衛が、据わった目で呟く。
「……斬りたい。いまの私なら手刀でも人が殺せる気がする……」
「諦めな。このパーティーにいる限り、ずっとこうだよ」
「僕は、こういうの嫌いじゃないけど」
キキがポンポンと背中を叩く。ハイジはけっこうツボに入ったのか、たびたび笑いをこらえていた。
「……なんか、ハイジさん、気を遣ってくれたみたいだね」
運転をしている透哉がそう言うと、後部座席でぼうっと外を眺めていたシオンは、顔を上げてバックミラー越しに彼を見た。
「はぁ……そうなのかな? 別にオレ、アイツらが家に来てもいいけど……うるさいけど、慣れてるし」
「じゃなくて、僕が小野原くんに話したいことがあるの、なんとなく勘づいてるのかと思ってさ」
「あ、そうだ。オレも、透哉さんに訊きたいことが色々あったんだ」
「うん。そうだね。だと思う。ずっとほったらかしにしてたというか……ろくに話もせずこっこを預けてしまって、ごめんね」
「いえ……」
草間に紅子を預けてから、シオンを家まで送ると透哉は言ってくれたのだが、そういえば今朝、彼もシオンに話があると言っていた。
「オレこそ、今日はろくに話もしないで、買い物ばっかしてて……すみません」
すると透哉は笑った。
「あはは、それは謝る必要ないよ。僕も楽しかったなぁ。自分は何も買わなくても、みんなが気持ち良く買い物してるの見てたらさ。リノちゃんって子が言ってたけど、『他人のお金で物選ぶの楽しい』って。あれ、なんか分かるよ」
そういえば、リノはキキがブランド服を買うのについて行っては一緒に選んではしゃいでいた。キキと国重が気前良く物を買う様子に、自分の服を選ぶよりずっと楽しいと喜んでいた。国重がリノにまで服を買っていたので、セイヤが慌てていた。
「パーティーのみんなも、妹尾さんもニコねこ屋さんたちも、良い人たちばかりだね。……小野原くんとパーティーを組んでから、こっこが毎日楽しそうでさ。いつも君たちの話をしてるよ」
「そっか……それなら良かった」
「僕らもこっこには苦労をかけてるから……。でも、君ともう一度出会えたことは、あの子にとって本当に幸運なことだと思う。感謝してるよ。スランプで悩んでいたのも、草間さんを紹介してもらえて、なんとかなってるし。彼も良い先生だね。情に厚い人ってかんじがするね。こっこがすぐに懐いたし」
「ああ、草間さんはオレの面倒もしばらく見てくれて……信頼出来る人だから、きっと浅羽の力になってくれると思う」
「そうだね。……でも」
透哉は一度言葉を切って、言った。
「僕の口から、彼に浅羽の話をすべて明かすことは出来ない。彼もそれは分かっていて、踏み込まないでいてくれるんだと思う。魔道士というのは、そういうものなんだ。色々なことを偽って生きている」
「……どういうことですか?」
「僕は、君にまだ何も話していない。浅羽家のことも、紅子のことも。魔石のこと、それから、『敵』のこと」
「……敵?」
シオンは眉をひそめた。あまりに透哉が淡々と話すので、聞き逃しそうになった。
「敵って? そんなもの、いるんですか?」
「話し終わるより先に、家に着くかもしれない。紅子を迎えに行くまで僕も時間を潰さないといけないし、どこかに寄る? お腹空いてない?」
「オレは別に……エクスポ内で食ったし」
そう言うと、透哉が乾いた笑いを浮かべた。
「実は僕も、まだお腹に残ってる気がするんだよね……」
「はい……」
紅子に付き合って、さんざんみんなで有名店や有名シェフが監修したという冒険者飯とやらを食べたので、まったく腹が減っていない。しきりに紅子が「あれもいいな……でも、あっちもいいな……」と食べたがっていたのだが、周囲の目を(いまさら)気にして思いきり食べられない様子だったので、「じゃあオレが買うから半分食うか?」と何度も申し出てしまった。最後はもう、半分どころかほとんど彼女にあげていたが。透哉も同様だ。シオンの場合、紅子の食べっぷりが見ていて気持ち良いというのもあるが。
「メシはいいんで、それより話が聞きたいです。あの、狭くていいなら、オレの家に来ますか? あ、駐車場……は、駅前にしか無いけど」
「じゃあ、お邪魔しようかな。それから、一か所だけ寄ってもいい?」
「はい」
「薬局で、胃薬買いたくて……」
「ああ……はい。それなら駅前にあります」
「まったく、僕の前じゃ遠慮なくバクバクなんでも食べるくせに、今日はいやに鬱陶しかったなあいつ……」
透哉のげんなりした顔がバックミラーに映った。
アパートに帰ると、管理ワーウルフの西沢が竹ほうきでせっせと目の前の道路を掃除していた。以前、居候中に犬の糞を踏んだ蒼兵衛にクレームを受けて以来、掃除は完全に習慣づいたらしい。
そんな西沢を見て、透哉が興味深そうに尋ねた。
「いまどき熱心な若者だね」
「管理人だから」
「あっ! お帰リザードマーン! おのたん、何買った!? 見せて、見せて!」
手と尻尾を振りつつ、西沢が寄って来る。
「あれっ、またお仲間増えた? ワォ! めっちゃ男前じゃん!」
「ありがとう」
「キュンッ……! 男前って言われてさらっと笑顔で『ありがとう』って返す人、アツシ初めて……! ワーウルフなのに人間に禁断の恋しそう……!」
「アツシって言うのか……それにメスだったのか」
「ブッ」
「なんでそうなんの!?」
真顔のシオンの発言に、透哉が吹き出し、西沢があんぐりと口を開けた。
「これだけイケメンだと性別も犬種も超えるよね。いやもうこれ以上ボケても滑るだけだわ……モノホンのボケには勝てない。それにしてもいっぱい買ったねー! 何買ったの?」
「色々。じゃあな」
「……オウ……シンプルなお返事ありがとう……」
「失礼します」
竹ぼうきを手にガックリとうなだれる西沢の横をシオンはさっさと通り抜け、透哉が微笑みながら頭を下げた。
「小野原くんって、ワーウルフの人とはわりと気が合うかんじ?」
「え、ぜんぜん。なんで?」
扉を開けようと鍵を取り出していると、思ってもいなかったことを言われ、シオンは思わず顔をしかめ、丁寧な言葉遣いも忘れてしまった。
脳裏に浮かんだのは、もちろん笹岡の顔だった。
「こう言うと失礼かもしれないけど、雑に扱ってるかんじが、かえって気を許せるのかなと。彼らの気さくさのせいだろうけど」
「ぜんぜん。ほんと、うるさいだけ。合わない。ワーウルフとは」
首を振りながら、シオンは断言した。透哉が苦笑いする。
「そ、そう……?」
「種族で性格がどうのこうのって言うのは、ほんとは好きじゃないんだけど、でもワーウルフとだけは、ぜっっったいに合わない。クソうるせーから」
「そこまで……」
「どうぞ。狭くてボロいけど」
丸々としたドラゴンぬいぐるみがプラプラと揺れる鍵で、部屋の扉を開ける。
「お邪魔します」
と透哉は言って、中に入った。羨ましいほどの長身なので、アパートの部屋がひどく狭く感じた。というか、天井が低く感じた。きっと蒼兵衛よりも背が高い。
つい訊いてしまった。
「……透哉さんて、身長いくつですか?」
「え? 分かんない。測らないし……でも180センチくらいじゃないかな。僕って実際より大きく見えるんだよ」
じゅうぶんでけーよ……と小柄なワーキャットは思った。
「そういや、国重さん大きかったね。あんなに大きなリザードマン、生で初めて見た。外国人サイズだよね。逆にキキちゃんがすごく小さいから、対比で余計に」
シオンは部屋の隅に積んでいた座布団を持ってきて、小さなテーブルの周りに二つ置いた。
「国重さんは、ちょっと太ってるのもあると思う」
「ハッキリ言うね」
「でもオレも次生まれ変わったらリザードマンかミノタウロスになりたい」
「ははは……こっこは泣きそう」
透哉は乾いた笑いを浮かべながら、ジャケットを脱いで折りたたみ、畳の上に置くと、自身は座布団に腰を下ろした。
「うわ。座り心地がいいね。質も良さそう」
「キキが持ってきたやつで……布団より気持ちいいから、最近はこれ並べて上に寝てる。片づけも楽だし」
「小野原くんって、こたつがあったら、もうそこで寝そうなタイプだね」
「実家ではそうだったけど……ここは狭いから、我慢してます」
「本当は置きたいんだね……」
同情するような、どことなく温かい目で見られた。
「急須とか、湯呑のみとか、ぜんぶキキが持ってきてるから、お茶も淹れられますけど。冷たいのならお茶と水があって、コーヒーは誰も飲まないから、無いですけど……」
蒼兵衛は筋金入りの甘党だし、キキも子供なので、苦いコーヒーは誰も好まなかった。シオンも得意ではない。
「ありがとう。お気遣いなく」
「あっ、ココアならある。キキ用のだけど」
「いや、お茶もらえる? 熱いのなら嬉しいな」
「ああ、はい。……えっと、冷房入れますね」
部屋の中は少し蒸し暑かったが、話をするのに窓は開けないほうが良いかと思って、エアコンを入れた。冷房の風はあまり好きではないのだが、弱風でもこもった部屋の熱気をすぐに下げてくれた。
やかんに水を入れ、火にかける。
「偉いね、君は。こっこと同じ歳なのに、ずっと一人で生活してるんだ」
透哉は低いテーブルの下で、窮屈そうにあぐらをかき、台所に立つシオンを見つめた。
「……普通かなと思いますけど」
「ワーキャットの君にはそうなんだろうね。でも僕が君くらいの歳のとき、家族というものは当たり前にあった身の置き所だった。いつかは離れようと思っていたけれど、結局は家族以外の他人を信用出来なかったんだ」
シオンは戻って、自分も座布団の上に腰を下ろした。
「僕らは、一族というものに縛られている。現代においては時代錯誤だと思うかもしれないが、浅羽家はそうだった。そして僕らは秘密を共有し続ける限り、信頼出来るのは家族以外にありえなかった」
「秘密って……?」
「秘術といえる独自の魔法、研究……その成果だよ。もう何百年も、いまやどうでもいい研究になってしまったとしても、やすやすと捨てることは出来なかった。僕たちの一族は、歴史に名を残した一族ではない。だけど、その陰でずっと脈々と生き続けてきた。その歴史を、伝承されてきたすべてを、おいそれと捨てることは、誰も出来なかった」
「その内容って……浅羽は知ってるんですか?」
本当は、浅羽家が守り伝えてきたもの、それがどんなものなのか尋ねたかったが、簡単にシオンに話して良いものではないのだろうと思い、そこには触れなかった。
透哉は淡々と告げた。
「こっこ……紅子には、浅羽家がどんな魔道士一族だったか、何を受け継ぎ、何を求めたのか、何も話してはいない。話せないんだ」
「話せない?」
「彼女は……君も知っている通り、才能ある魔道士だ。凡人が努力では得られない魔力量とそれに耐える器を母親から受け継いだ。浅羽家の魔道士の中で最高の逸材だろう。だが……それを扱うだけの目的が無かった」
「目的って……家族のために、〈たからもの〉を探すことじゃないんですか?」
「それは、彼女に無理やり与えられたものだ。紅子の兄――茜から」
「浅羽の兄さんって、死んだっていう……」
「そう、紅子の目の前でね。茜は〈たからもの〉を求めて、父親とともに禁忌ダンジョンに潜り込み、なんらかのモンスターに致命傷を負わされた。だが、その傷ついた体で、ダンジョンの深部から転移魔法で外に逃れてきたんだ」
「そんな魔法を使えるなんて、すごい人だったんだな……」
さすが紅子の兄だ。そう思ったが、透哉は首を振った。
「いや、そこまでの力は彼に無かったはずだ。だが、死にかけたことで能力以上の力が発動するということは、ソーサラーには稀にある。そして……傷ついた彼を、家まで連れ帰ったのは僕だ。紅子は憶えていないが、僕もその場にいて、彼らの侵入を手助けした、いわば共犯なんだ。ダンジョンの外で、彼と彼の父の帰りを待っていて……そして、瀕死の茜を連れて、家に戻った。紅子の前に」
「あ、ちょっと待ってください」
やかんからピーッと大きな音がしたので、シオンは慌てて台所に立った。なんでこのタイミングで……と思いつつ、素早く茶を淹れて、透哉の前に置いた。
「す、すみません……」
「いや、ありがとう。いただくね。ちょうど喉が渇いていたから」
透哉は微笑み、湯呑みを取って、熱い茶を平然と啜った。熱い食べ物が苦手なシオンには出来ない芸当だ。
話の続きを待っていると、湯呑みを置いた透哉が、小さく息をついた。
「一気に語り過ぎたね。先に、僕たち浅羽一族の話をしようか。どうして、茜やその父親がダンジョンに潜っていたのか、何を求めたのか」
そう話す透哉は、変わらず穏やかだが、いつもよりどこか疲れているように見えた。
「浅羽一族は、近代魔道史では僕たちの祖父、光悦しか名を遺したと言える魔道士はいない。それも幾つか詠唱式を作ったというだけでね」
シオンは紅子に、祖父はすごい魔道士だったらしいと聞いていた。
「でも、すごいソーサラーだったんですよね?」
「そうだね。天才と言っていいくらいの力があった。紅子の祖父と言って相応しいだけの。でも、彼が最低限名を売ったのは、魔道士としての信用を得るためだけに過ぎなかったんだ。ある程度認められた魔道士なら、冒険者協会や魔道士協会に融通もきく。そうして協会の仕事も表向きは受けていた。紅子の父は、彼に心酔していた魔道士だったんだ。彼は光悦に気に入られて、紅子のお母さんを娶って、茜と紅子を授かった。光悦は、けっこうなクソジジイだったけどね」
透哉は小さく笑った。
「でも、強かった。あの力をもっと世の中の役に立てていれば、僕たちの現在も違ったものになっていただろうね」
「たしか、もう亡くなったって……」
「紅子は深くは知らない。良い死に方とはいえなかったからね。すごい魔道士ではあったけど、やっぱり人間だった。最期はあっけなく、病に侵されてね。末期ガンだったけど、病院には入らなかった。最期まで好きなように生きて、そして、死ぬ前に姿を消したよ。彼の遺体はどうということはないダンジョンで見つかった。遺体の状況から、病を苦にした自殺だろうとあっさりカタがついた。老いた魔道士にはたまにあることなんだ。自死して、アンデッドへの転生を望む。転生出来たとしても、もはやその場に留まっていないのなら、追うことは出来ないから、警察も冒険者協会もそれ以上関与しない」
「じゃあ、浅羽のおじいさんは、いまもモンスターとなってどこかにいるかもしれないんですか?」
「それか、とっくに討伐されているか。どちらにしろ、会っても祖父だと分からないかもしれないし。気にしても仕方ない。仕方ないんだよ、魔道士の死なんて、そんなものなんだ。それとも……彼はいまだに魔石を守っているのかもしれない」
「アンデッドになって?」
「あり得るよ。そのぐらいの図々しさはあったから」
透哉は冗談っぽく言っているようで、少しも笑っていなかった。温厚な彼が祖父を嫌っていたことはよく分かった。
「浅羽一族は、光悦よりさらにもっと古い時代にまで遡れば、何人かは有能な魔道士を輩出してるけど、一般的な歴史書に載っているほどじゃない。魔道士についてディープな研究をしている人じゃないと知りえないだろうね。草間先生はそこまで調べたみたいだけど」
草間には魔道士の知り合いがたくさんいる。中には熱心な研究家もいるかもしれない。
「昔は戦闘魔道士として傭兵をしていて、有力な武将に仕えたこともあった。一族の力が一番あったころだ。それも表向きの記録だ。当時、彼らは多くの貴重な宝を持っていた。それは有能な魔道士や稀少な魔石だった。特に魔力が強かった浅羽の女魔道士がまた優れた魔道士を産み、成長した彼らは有能な戦闘魔道士となった。傭兵として戦い、迷宮に潜り、さらに多くの宝を得た」
「そういえば、浅羽に昔話を聞いたことがある。たからものを、奪ったとか、どうかとか……」
「奪い合っていたというのが正しいかな。それだけの稀少な魔石を所持していれば、権力者に目をつけられるのは当然だ。そういう時代だったからね。支配する土地で見つかった魔石を差し出せと命じられたこともあるだろう。ある程度は支配者に納め、本当の〈たからもの〉は決して手放さなかった」
紅子のおとぎ話では、浅羽一族のほうが宝を奪って隠した悪者のようだったし、紅子もそうと信じていた。だが、透哉の話では印象が違う。
「やがて、歴史の中で浅羽一族は衰退していった。それは、本当に大切なものを守るためだ。築いた財産を捨て、分家は浅羽の名を捨て、表の歴史から完全に姿を消えることを選んだ。そして、直系だけが浅羽の名を守り続けた。その末裔が僕たちだ」
「……浅羽や、お兄さんやお父さんが探していたものが、一族にとって一番大事な〈たからもの〉なんですか?」
「前に、六柱石って、僕は話したよね?」
「ああ、はい」
紅子と二人で仕事をしたダンジョンの帰り、車の中で透哉が話してくれた。キキと出会ったばかりのころだ。もうずっと前のことのような気がする。
「オレも調べたけど、六柱石って名前の石はいっぱいあって……何も分からなかった」
冒険者センターでパソコンを借りて、慣れないながらもネット検索をしてみたが、各地に伝わる伝説の魔石のおとぎ話がたくさん出てきただけだった。そういうものだと草間は言っていたが、魔道士の伝承とはそうしたものだとも言っていた。大切なことだからこそ、ありふれたおとぎ話の中に隠す。シオンはそこまで考えがいたらなかった。今から探すものの得体のしれなさに、途方に暮れたのだった。
「手がかりもないうえに、六つもあるのかって思ったんだ……」
思わず呟くと、透哉が目を軽く見開いた。
「え? 六つあるって意味じゃないよ?」
「えっ」
シオンは耳を立てて驚いた。
「六つに割った石じゃ……?」
以前そう聞いたはずだ。
「ああ、ごめんね。あれは嘘というか、まだ君をそれほど信じてはいなかったから。六つに割った石って言えばそれっぽいと思って」
さらっと透哉が言う。
「でも、調べたらすぐに嘘だって分からなかったかな?」
「え? 何が?」
「そういう形だってことが。原石が六角柱状の形をしていたから、そう呼ばれるんだよ」
「あ、いや……気づかなかった……本当に六つに割ったのかと」
思いきり無知を晒したシオンは、赤らめた顔を伏せた。もっと名前について詳しく調べておけば分かったことなのに、それを怠ったことも恥ずかしくなった。へたりと耳を下げたシオンに、透哉は苦笑した。
「いや、そこまで気にしなくても……。たとえばエメラルドとか、アクアマリンなんかは、緑柱石という石の仲間なんだけど、そういう石の原石は見たことない? あれも六方晶系の六角柱状の結晶なんだ」
「え、えーと……なんですか?」
聞き慣れない言葉に、ピクピクと耳を動かすシオンに、透哉は微笑みながら言い直した。
「今日の展示で、魔石の原石をいくつか見ただろう? その中に、六角の柱がたくさん生えてるもの、あったよね?」
「あ。あったかも……」
「表向きには、六柱石と当たり障りない名で呼ばれていたけれど、浅羽の魔道士はそれに《紅耀晶》と名を付けた。草間先生には、魔石の話はしたけど、この名前は告げてない」
「オレに言っていいんですか?」
「うん。もういいんだ」
透哉の中で、何かが変わったのだろうか。自分がそれほどの信頼を得たのか、シオンには分からなかった。秘密主義の魔道士が、特定の人物に心を開くこともあるとハイジは言っていたが、自分が透哉にとってそれほど信頼に値する存在なのかというと、違う気もする。紅子には信頼されていると思うが、それ以外の魔道士の考えることはシオンには複雑過ぎてちっとも分からない。
だけど、本当か嘘か分からない話なら、疑っても仕方ない。いまはありのままを、透哉から聞いておこうと、シオンは真剣に話を聞いた。
「もっとも一族が栄えた時代、その中心には浅羽紅葉という力のあった女性魔道士がいた。その魔石を初めて手にした一族の当主で、石には彼女の名を取ってつけられた。彼女は多くの子を産んだ母であり、才ある魔道士だった。紅子の名前も、彼女にあやかったんじゃないかな。あの子は祖父と父に期待をかけられていたから……」
「あ、あの、ちょっと待ってください。石の名前、メモしてもいいですか……?」
「いいけど……僕、書こうか?」
シオンが遠慮がちに尋ねると、透哉はジャケットのポケットからボールペンを取り出し、財布に入っていたレシートの裏に、さらさらと書きつけた。
《六柱石》《紅耀晶》と書かれた紙を、シオンは受け取った。
「調べても、六柱石なんて名前のついた魔石はゴロゴロしてるし、紅耀晶のほうは、浅羽の魔道士しかそう呼んでいなかったし、書物にも残されていないから、調べても名は出ないと思うよ」
「あ、はい。でも一応……」
「それに、もう原型は無いんだ。紅耀晶は畜魔石の性質を持っていてね、かつての浅羽は女性が当主を務めていたんだけど、その石を手に入れた紅葉を始め、多くの当主がその石を生涯大切に持ち、次の当主に伝えてきた。彼女らの有り余る魔力を貯めこんだ石は、そのまま所持しておくにはあまりに強大過ぎる力があった。そこであるとき、いくつかに分けられた。そうすれば、それぞれがただの魔石となる。すでに多くは誰かの手に渡ったり、失われていっただろう。本当に、おとぎ話の石なんだ。それ自体はね」
「でも、お父さんやお兄さんは、それを信じていたんですよね。おとぎ話だと分かっていて、命を賭けるとは思えない……」
シオンはもう、その石は確実にあったのだと確信している。そして、ダンジョンに隠されている。透哉はまだぜんぶを話していない。
「……そうだね。欠片一つであっても、紅耀晶の力は強い。特に、浅羽の魔道士が手にすればね」
「どうしてですか?」
「浅羽の魔道士たちが力を注いできたからだよ。だから、浅羽の血を引くものに強く感応する。実際、光悦は生前、多くの魔石を回収した。ダンジョンだけじゃなく、いたるところから見つけてきた」
「え? じゃあ、魔石はすでに集まってたんですか?」
きょとんとするシオンに、透哉は曖昧に頷いた。
「ああ。一度はね……だが、また失われた。そして光悦の死後は、それを茜が探す必要があった。父の香一郎さんは、外からきた魔道士で、浅羽の一族ではないからね」
「……透哉さんは?」
「僕は、強い力が無かった。茜と紅子の母親と、僕の父親は姉弟だったけど、母が違うんだ。そのせいか、僕の父はさほど色濃く浅羽の血を受け継がなかった。優秀な魔道士としての血をね。祖父は出来の悪い僕の父や僕をはなから切り捨て、魔力の高い娘やその子供に執心した。特に紅子は、自分の娘以上の才能を見ていただろう。優れた血統というものは、それほど大切だったんだ。僕たちの祖父にとって」
「浅羽一族にとっての大事なものっていうのは、優秀な魔道士と、その魔石なんですか?」
なんとなくすっきりしなくて、シオンは尋ねた。
「浅羽が探し出したい〈たからもの〉は、浅羽を助けてくれるものなんだって、オレは思ってた。バラバラになった石を戻せば、きっと石の呪いは解けるって、浅羽は言ってた。でも、話を聞いてたら、なんか……違う気がする。呪われた魔石やアイテムがあるってことはオレも知ってる。でも、とっくに無くなってしまったその石が浅羽たちに呪いをかけてるなんて、透哉さんは信じてないですよね?」
「信じてないよ。ある意味では」
「ある意味?」
眉をひそめるシオンに、透哉は淡々と答えた。
「その石に執着する……しなければならないほどの、強い力に対する執念は、呪いのようなものだと思っている。けれど、石そのものに呪いの力があるとは思っていない」
「じゃあ、ただ力があるだけの魔石を、なんで浅羽は探してるんだ?」
「それが、茜のかけた魔法だよ。そして、紅子が自身にかけた魔法でもある」
「……精神魔法?」
「自分の意思を継ぐように、死の間際に茜は言った。死んでいく兄を目の当たりにしながら、紅子はショックと混乱の中で、その言葉を深く自身に刻み付けてしまった」
「……どんな?」
シオンに見つめられ、透哉はその目を見返した。
彼は、過酷な世界に身を置いてきた。たった一人の子供が、これまで誰かに裏切られたことも無く、汚いものを見なかったはずもないだろう。だが、すさんでいない。最初に会ったときから、彼は真っ直ぐで、良い子だった。
だから、紅子を預けてみようかと思った。
なにより、紅子が『選んだ』のだから、彼に託すしかなかったのだ。
「茜は、紅子にこう言ったんだ」
死の間際、茜が紅子に告げた言葉。
(いいかい? それは、迷宮にあるものだ。深い、深いところにある。お前なら、必ず分かるから……)
血だまりの中で、しっかりと目を開いて、茜は「詠唱」した。
その姿に圧倒されて、紅子は彼の言葉を受け入れた。
それは初めて、茜が紅子に勝った瞬間だったのかもしれない。彼女に唯一勝てるその手段を、茜は分かっていた。
ただ、彼は笑った。
紅子に対して、初めて、微笑んだ。
たった一度きり、兄から贈られた、優しい笑顔。
それが、紅子の心を初めて彼に開かせた。そこにするりと、彼の言葉は入り込んできた。
(紅子、お兄ちゃんの目を、見てごらん。俺は死んでも、お前の中に居るから。お前は強い子だから、怖いものなんて、無いんだ。だから、迷宮に……)
「……紅子なら、魔石を見つけ出せるだろう。それは確実に、どこかのダンジョンに存在する。ただ、紅子自身は、ずっとダンジョンを恐れていた。あの子は、ダンジョンの外の世界が好きなんだ。そして、あそこにはもう戻りたくないと思っていた」
「え?」
透哉の言っていることの意味が分からず、シオンは顔をしかめた。
彼は、ふうと小さく息をつき、言葉を続けた。
「あの子は、ダンジョンで産まれたんだよ」
「……え」
絶句するシオンに、透哉はなんの言葉もかけず、続けた。
「紅子の母親は茜を産んだ後、本当に愛する男性と恋に落ちた。彼女は父と夫が集めていた魔石をすべて奪い、失踪した。彼らから逃れ、強大な魔力を持った子を生み出すために、魔素の強い場所に隠れ住み、子供を出産した」
静かに、時折小さく息を吐き出しながら、透哉は告げた。
感情を押し殺した――いや、もう感情が無いようみたいな話し方だと、シオンは思った。
いつも優しそうに微笑んで、紅子を気遣っている男とは思えなかった。
「あの子が君に話したおとぎ話……それは叔父さん……紅子の父親が彼女に聞かせたものだ。浅羽の魔道士が、権力者から魔石を奪ったというものだろう」
「あ、はい」
「あれは現代での出来事に置き換えられる。権力者は光悦、浅羽の魔道士は真朱……紅子の母親だ。光悦が回収し、守ってきた魔石を、彼女が奪った」
「じゃあ、浅羽のお母さんが、奪った魔石をバラバラに隠した……?」
それは何かおかしい気がする。子供を産むだけで精いっぱいだった人が、魔石をバラバラに隠せるだろうか。それとも、その部分だけは、現代に置き換えられないのだろうか。
「魔石のその後の行方は知らない。でも、叔父さんや茜は何かを知っていたかもしれない。茜は直系の男子だったから、僕の知らないことも伝えられていたんだろう。だが、紅子は何も知らない。あの子の生い立ちは、あの子にはまだ重過ぎる」
うまく返事が出来ず、シオンは話を聞いた。
いつも明るい紅子だが、兄と父の話をするときは、悲しそうだ。何も憶えていない、思い出せないことが悲しいと、そう言っていた。
「あるとき、祖父と叔父が、紅子だけを見つけて、連れだした。いや、紅子自身が、ダンジョンから出たがったのかもしれない。彼らは紅子に呼ばれたに過ぎない。あのときのことは、僕も良く覚えている。家に連れて来られたあの子は、すぐに外の世界に馴染んだ。僕たち家族に懐いた。美味しいものを食べて、遊ぶのが好きだった。魔力が強い以外は、普通の子供だった……」
ただ、茜だけは紅子を愛さなかった。普通の子供だなんて、思っていなかった。
そう思ってはいけないと、自分に言い聞かせていた。
「……透哉さん?」
透哉の目尻から、涙が流れていた。
「泣いてるんですか?」
シオンが声をかけるまで、彼はそれに気づいていなかったようで、はっとした顔をして、慌てて袖で目尻をこすり、恥ずかしげに笑った。
「ああ、ごめん……」
「いえ……」
どう言葉をかけていいのか分からないので、シオンは小さく頷いた。
「僕は、何も出来なかった。誰のことも止められなかった。紅子にダンジョンに行ってほしくないと思いながら、恐れているんだ。だから、口では紅子を気遣うふりをしていても、本当は……茜と同じなんだよ」
薄く笑いながら、目を伏せる。
「僕たちは……紅子に、ダンジョンに行ってもらわないと困るんだ。金なんかじゃない。あの子にしか、出来ないことがある」
「魔石を集めること……?」
「いや……あれはたしかに、あの子の力にはなるだろう。紅子の母親は、あの子を出産するときに紅耀晶から魔力を取り込んだ。石の魔力を、あの子は母親を……いや、自分自身の欠片を見つけ出すように、感じ取れるはずだ。それはどんな小さな欠片であっても、あの子の力を増幅してくれる。魔石を手にすれば、自分がもっと強い魔法を使えるはずだと彼女が信じているのは、当然だよ。分かっているんだ、本能で。魔石の力はずっと彼女に寄り添ってきたものだから」
そう言う透哉の顔は、ひどく暗い。というより、何かを恐れているようだった。余裕のある大人の姿ではなく、幼い少年のようにさえ見えた。
シオンは、素直に尋ねた。
「……透哉さんは、なにかが怖いんですか?」
彼は小さく笑おうとして、出来なかったようだった。はあ、と息をついた。
彼は嘘をついている。けれど、その嘘を吐き出そうとしている。でも、それには時間がかかるのだろう。
待つ代わりに、シオンは言った。
「オレ、浅羽のこと、好きだよ。どんなことになっても、アイツに何があったとしても、大事な仲間だし、守ってやりたいと思う。だから……その、ダンジョンで何があっても、浅羽を見捨てたり、置いていったり、絶対にしない。オレも死なないようにするし……だから、えーと」
何を言ったらいいのか、だんだんと分からなくなってきた。安心してくれなんて言えるほど、自分は強くないし、実際透哉も安心出来ないだろう。
でも、自分が魔道士じゃないせいか、紅子の生まれ育ちを聞いても、驚きはあったが恐れはなかった。
「オレも、ダンジョンで産まれた獣堕ちの子だったから……浅羽がダンジョン行きたくないのは、ちょっと分かる。オレだって、なんとなく嫌な場所だった。オレ、亜人だし、不登校だったし、バカだし、冒険者になるしかねーかなぁとか、なんとなく思ってたけど、なりたいわけじゃなかった。サクラ……姉さんが冒険者になって、平然とモンスターぶち倒して帰って来るから、だんだんと怖さは無くなってきて、サクラに鍛えてもらって、やれるかもって自信もついてきて……でも、それまでは、怖かった。ダンジョンでほんとの親が殺されたみたいに、オレもダンジョンで殺される夢、子供のころからよく見てたし……」
怖がる紅子を放っておけなかった、それがどうしてだったのか、いまは分かる。
自分も怖かったからだ。でもそれを、桜が拭ってくれたから。生きるための力を与えてくれたから、やってこれた。
そんなときに、かつての自分のような、紅子に出会った。
(あれ? 小野原くん?)
いつもと同じ一日のはずだったのに、あの日、偶然紅子と再会してから、色々なことがあった。
それもぜんぶ、紅子があのとき、声をかけてくれたから。
何年も会っていないただの元同級生に、昨日別れたばかりのように、ごく自然に声をかけてきた。
(小野原紫苑くん、でしょう?)
そんなふうに誰かに話しかけられたことは、ずっとなかったから、嬉しかったのだ。きっと。あのときの自分は。
あれからずっと、彼女と一緒だ。
「オレ、ちゃんと浅羽と一緒にいるから……だから、今日、ぜんぶ教えてもらわなくても、いいです」
シオンは言って、さっきまでの透哉のように顔を伏せた。
自分で言っていて、顔が真っ赤なのが分かるほどに熱くなっていた。
どんどん、どんどん熱くなっていく。
あれ? オレ、いま、なんて言った?
浅羽のことが……。
「小野原くん……」
「や、気にしないでください……」
シオンは自分の発言を思い出し、ぎゅっと目をつぶった。背中に冷たい汗が流れる。よくよく思い返してみたら、彼女の家族の前で、好きだなんて言ったんじゃないか? いや、仲間だって、その後に言ったとは思うけど……でも……。
「あのさ、もしかして、小野原くんって」
それまで死人のような顔をしていた透哉が、心底意外そうな顔で、呟いた。
「……うちのこっこのこと、好きなの?」
バン! とシオンがテーブルを叩いた。空の湯呑みがぐらぐらとゆれる。
「うわああああ! 忘れて、忘れてくれ!」
「否定はしないんだ……?」
「あ、えっと、ちがっ、いや、ちが……わない……? す、好きはすきだけどっ」
はは、と透哉は笑った。シオンは尋常じゃない勢いで尻尾をバタンバタンと動かしながら、顔の前でぶんぶんと両手を振った。
「いや、ほんとに、好きって、そういうのじゃなくて! その、仲間だからっ……!」
「あ、うん……分かってる」
「あのっ、そういうこと、浅羽に言うと迷惑だから! あと、アイツらに言うとからかうから、絶対に言わないで!」
「うん……言わないよ……ああ、びっくりして、いろんなこと吹っ飛んだ」
「わ、忘れて……」
真っ赤になった顔を逸らすシオンに、完全に場の空気を和まされ、透哉は笑った。
自覚が多少あることにも驚くが、それでいて紅子の気持ちにはまったく気づいていないのは、もう才能だ。
「世界鈍感王選手権があったら、僕は君を日本代表に推薦するよ」
「な、なんですか、それ……」
「だってこっこなんてあんなにあからさまに……」
「え?」
もう半分泣きそうな顔を上げるシオンに、透哉は言葉を止めた。
「もしかして、自覚無かった?」
「……な、なにが……?」
「自覚が多少あったんじゃなくて、いま急に自覚した?」
「……だから、なにが? え、オレ、なんか変なこと言ってますか?」
「いや、大丈夫。君の状況は理解したから」
相当純情なようだから、これ以上この話題に言及したら、いっそ憤死するかもしれない。
「あの、ほんとに、忘れてください。いまはそういうこと考えてるヒマないし、オレも目的あるし、浅羽にもあるし、仕事あるし」
と、開きかけた恋の扉を、思いきり閉めてしまった。紅子には気の毒だが、彼にとっていま色恋を考えている余裕はないのだろうと、透哉は頷いた。
「分かったよ。僕の胸だけにそっと秘めておくから。安心して。僕は隠し事をしておくのは、けっこう得意だから」
「そ、そうですね……」
シオンは動揺したままうんうんと頷いた。
「でも、ほんとにびっくりしたよ。まさか、あんな大食い娘を小野原くんが……」
「っ……頼む……ますから……忘れて……!」
耐えきれなくなったのか、シオンはテーブルに突っ伏した。
面白過ぎてついからかってしまった透哉はひとしきり笑ってから、腕時計を確認し、脱いでいたジャケットを手に取った。
「……あー、ごめんね。そろそろ、こっこを迎えに行かないと。帰るよ」
「あっ、すみませ……」
透哉が立ち上がると、シオンも慌てて立とうとして、テーブルの裏に膝を思いきりぶつけてしまった。
「いってえええ!」
「うん、落ち着いてね。僕には構わなくていいから。ここで」
膝を抱えてのたうち回るシオンの肩をぽんぽんと叩き、透哉は優しく言った。
「じゃあね、小野原くん。ありがとう。またね」
「あっ、ありがとう、ございます……!」
シオンは呻きながら、出て行こうとする透哉に律儀に告げた。
透哉は軽く頭を下げて、部屋を出た。
古いアパートの階段を下りながら、透哉は息をついた。
……結局、最後までは言いそびれたな。
死んでいく茜が告げた、最後の言葉。
(紅子、迷宮で、お前はあれを殺すんだ。でないと、お前もお前の大事な人たちも、俺のように喰い尽くされてしまうよ。お前と同じ、もう一人の魔導子に)
だが、まだ言わなくて良かったのかもしれない。
彼が紅子を好きでいてくれるのなら。
紅子には、助けてくれる者が必要なのだから。
それには、ただ同情でも、利害でも、打算でもない、本当にあの子を想ってくれる者でなければ。
階段を下り、彼がいまも真っ赤な顔で転がっているだろう部屋を、青年は見上げた。
――ありがとう。
紅子を、好きになってくれて。
でもそれだけでは、きっとあいつには勝てないだろう。必要なのは、愛でも、友情でも、思いやりでもない。強大な敵を倒せるのは、同じく強大な力だけなのだから。