紅子
「浅羽?」
シオンは顔をしかめた。
「うん。憶えてないかな? 中学のとき同じクラスだった、一年のときに、一学期の初めに隣の席だった、浅羽です」
と言い、ちょこんと頭を下げる。
長い髪が揺れ、ふわりと花のような匂いが漂う。
中学一年のとき。一学期の初め。しかも隣の席。
そこまで限定されれば、さすがに分かる。
顔を上げ、にこりと屈託無く笑った少女の、その笑みを見て、ようやく思い出した。
「あー……」
「憶えてた?」
嬉しそうに少女が言う。
黒目の大きな瞳がきゅっと細くなって、目尻が優しく下がった。
白い頬はちょっとしたことでも赤くなるのだろう、うっすら桃色になっている。
その笑顔だけで、彼女が表情で見せる感情表現がとても豊かだということが分かる。
本当に、心から嬉しい! というような顔だった。
シオンは昔の同級生の顔を、実はあまり憶えていない。
そもそも中学に通っていたのは、二年の途中までだ。夏休みに入る前に退学した。一年半にも満たない学校生活で、知っている同級生なんていくらも居ない。
それに、在学時代のことは、なるべく思い残さないようにつとめてもいたのだ。
それでも浅羽紅子と名乗った女子のことは、言われてからだが、思い出せた。
「たしか、出席番号が……」
「そうそう!」
言い終わらないうちに、紅子が元気よく頷いた。
「私が女子の二番で、小野原くんは男子の二番だったよね! 懐かしいなあ。出席番号が早かったから、入学してすぐ日直して、プリントが色々いっぱいあって、でも小野原くんが、職員室から全部運んでくれたの」
「……そうだっけ?」
あったかもしれないが、些細なこと過ぎて憶えていない。
「ごめん。あんまり憶えてない」
正直に答えたシオンに、紅子は気に障る様子もなく、にこにこと頷いた。
「うん、だよね。でも、そういうちょっとしたとこが、小野原くん優しかったから、私はすっごく憶えてるなあ。あの頃って、小野原くんみたいな男の子、あんまりいなかったから」
「それは、まあ、そうかもしれないけど」
亜人的な意味でかと思ったら、紅子ははっと慌てたような顔をした。
「あ、大人っぽかったってことだよ! 私ね、男の子ってちょっと苦手だったけど、隣が小野原くんで良かったなあって思ってたの」
それは、勝気な姉にレディーファーストという名目で、言うことを何でも聞くように叩き込まれていたからだ。
おかげで他の女子に対しても、意地悪をしてやろうとか、スカートをめくってやろうなんて考えたこともない。
「一緒に日直したときも、掃除とか黒板消しとか、ふざけないで、ちゃんと黙々とやってて、いい人だなあって」
「そう……ありがとう」
中学の同級生から、こんなに真っ直ぐ褒められたことはなかったので、シオンは少し返答に困ったが、一応、礼を言った。
「――番号札、二十六番の方、おられませんか?」
「あ」
受付嬢の機械的な声に、シオンは顔を上げた。
手許の番号札を見やる。
「では、お次の二十七番の番号札をお持ちの方、ご案内いたします」
ポーン、と無情な電子音が響く。
「しまった。抜かされた」
「あ、ごめんなさい。もしかして、呼ばれてたの?」
紅子が窓口を振り返る。
彼女もシオンも、一時間近く待ってようやく順番が回ってきた。このまま飛ばされては、いままで待った時間が無駄になる。
そうしている間にも、ポーンと耳慣れた電子音が響いた。
「それでは、二十七番の番号札をお持ちの方……」
「よし、オレだ!」
二十七番の番号札を掲げた冒険者が、歓喜の声を上げる。
「センター内は走らないでください」
もう絶対に譲らんとばかりに走って窓口に向かう冒険者を、受付嬢がマイクで嗜めている。
「ええっ! うそ! あのっ、すみません! 二十六番います!」
「あ、いや、いいよ」
慌てて声を上げた紅子を、シオンが引き止める。
「別に、オレは急いでねーから」
「え、でも、小野原くんの番……!」
「どうせ、大した用で来たわけじゃねーから」
「で、でも、でも、ずっと待ってたんでしょう? これ、お仕事だよね? 大事だよね?」
「そうだけど、急いでねーから。金、困ってないし」
それは本当だ。急いでいないのも、本当だ。
まったく急いではいないが、わざわざ混みあっているこの日に来たのには、理由がある。
週初めの月曜日は、センターに来た仕事の依頼が更新されるのだ。
お行儀の良い連中が多いとは言えない冒険者が、何時間も並んでまで待つのは、少しでも条件の良い仕事を先取りしたいからだ。シオンもそのつもりだった。
先日依頼をこなしたばかりなので、今週は休んでも良いくらいだ。しかし休んだところでヒマだし、腕が鈍るような気がしたので、ブラブラと仕事を探しにきたというだけだ。
だからいますぐに仕事を探したいわけではない、とシオンは紅子に説明した。
「こないだ、ダンジョンに潜ったばっかだから」
「へえー、すごい」
ダンジョンと聞いてか、紅子は感嘆の声を上げた。
素直過ぎるほどの、羨望と尊敬のまなざしを向けられる。
「いいなあ、ダンジョン」
「いいか?」
「うん。羨ましいな」
「お前、冒険者志望なのか?」
「うん……」
頷く彼女の表情が、ふいに、ぼんやりしたものになった。
「浅羽?」
「え?」
声をかけると、ぱちくりと目を見開き、紅子はシオンを見た。
「あ、うん。そうなの、私、冒険者になりたいんだ」
「学校は?」
「あ、えーと……」
「サボったのか?」
「えへ……」
半笑いで目をそらす。嘘をつけない性格らしい。
平日の昼間だというのに、学校をサボってまで冒険者になりに来るなんて、そんなエキセントリックなタイプには見えない。かつては真面目な少女だったし、今もそうだろう。
なにか、事情でもあるのかもしれない。
ぼんやりした彼女の表情が、いやに印象に残った。
それまで好奇心に満ちた大きな瞳は、きらきらと輝いてみえたのに。急に光を失ったような気がしたのだ。
気のせいかもしれないが、それがシオンの心に引っかかった。
紅子は申し訳無さげな顔で、何度も窓口を振り返っている。
その様子に、不審なところはない。
「ごめんなさい、小野原くん」
シオンが向かうはずだったカウンターでは、すでに他の冒険者が仕事を探せと受付嬢に急かしていた。
「ああ、ほんとにいいんだよ。どうせ、もうちょいしたら空く。依頼は減ってるかもしんねーけど、金に切羽詰ってるわけじゃないし。こないだ、まとまった金をもらったから、しばらくでかい仕事する気はないんだ」
「へえ……なんか、すごい」
と紅子は息をついた。
「何が?」
「小野原くん、ほんとに冒険者なんだなあって」
「ああ」
「でも、小野原くんなら出来そうだね」
「そうか?」
まあ、実際にやっているわけだが。
「うん。小野原くん、中学のときもしっかりしてたし。大人っぽかったから」
「そうだったかな」
クラスメイトにそんなふうに思われていたとは意外だ。
「変わってないね、小野原くん。でも、背が高くなったね」
「そうかな」
当時に比べれば、それはそうだろう。クラスの中でも小さいほうだった。
大柄な者が多い亜人にしては、ワーキャットは小柄なほうだ。しかも細身だからか、実際より小さく見られがちだ。
目の前の少女のほうが、当時と少し印象が違う気がする。
少なくともあの頃は、そんなに目立った美人という印象はなかった。
たしか、大人しい少女だった。言葉を交わすとき、やたらともじもじしていた気がする。
「浅羽か。ちょっと思い出した」
シオンの言葉に、少女の顔がぱっと華やぐ。
同年代の男子なら、その瞬間に彼女に恋するかもしれない。そのくらい天真爛漫な笑顔だった。
「ほんと? よかったぁ。でもほんと、一年の最初のとき、隣の席だったってくらいだもんね。私、喋るの下手だったし。ごめんね、急に声かけちゃって」
へへ、と少し恥ずかしげに言う。
「いいよ。オレも思い出せて、良かったよ」
「そっかあ。良かった。あ、小野原くんだ! って思ったから、何も考えずに声かけちゃって。ああ、ドキドキしちゃった」
とセーラー服の胸に手を当てた。
中学の制服も、セーラー服だったっけ、とシオンは思い出した。
そういえば。
彼女と、夕暮れの教室に居た。そんなことを思い出した。
放課後、二人で教壇を拭き、ほうきで床を掃き、黒板の日付けを書き換え、その下に明日の日直になるクラスメイトの名前を書いて、黒板消しをクリーナーにかけて、日誌を書いた。
(……次の出席番号の奴って、誰だっけ)
チョークを手に、黒板に向かいながら、シオンはクラスメイトの少女に尋ねた。
日誌にペンを走らせていた少女が、ぱっと顔を上げた。
(あ、えっとね、江崎さんと……佐々木くん)
肩下まで伸びた髪をきっちり三つ編みに束ねた、見るからに真面目な女子生徒だ。
(え? 男子っていきなり小野原から佐々木まで飛ぶのか?)
(うん。確かそうだよ。うちのクラス、名字がか行の男の子、いなかったと思う)
(へー。そうだっけ……)
(小野原くん、自分の席の後ろの人、覚えてないの?)
(……まあ、まだ入学したばっかだし)
窓から差し込む夕日に、彼女の笑顔が溶け込んだ。
(私の名前も、覚えてなかったりする?)
(浅羽だろ。今日、何回か呼んだだろ)
(そっか。そうだよね)
(もう覚えた)
(ほんと? 良かったあ)
そうだ。大人しい奴だったけれど、あのときから、笑った顔がいやに可愛い奴だった。
「なんか、だんだん思い出してきた」
「ほんと?」
「うん。日直のこととか。最初に一緒に日直やったとき、お前、次の日直の奴の名前、間違っただろ」
「あ、あれは……!」
紅子の顔が笑ったまま固まる。
「一人飛ばしたよな。か行で始まる男子はクラスに居ないって言って、北村のこと飛ばしただろ」
「北田くんだよ! で、でも、そもそも、同じ男子で後ろの人のこと覚えてない小野原くんも、どうかと思うんだけど……!」
「でもお前、自信満々で、か行はいないって……」
「もー、その話はいいから!」
紅子は学生鞄の持ち手を握り締め、顔を真っ赤にして怒った。
そんな彼女を見て、シオンも小さく笑った。
「笑わないでよー。もう、久しぶりに小野原くんと話せたのに、ヘンなこと思い出さなくていいのに……」
ふくれ面で紅子が訴える。
「いや、面白いと思うけど」
「いいの、そんなの! もー、私は小野原くんに会えてすっごい嬉しかったのに!」
「そんなに?」
「あ、え? ……う、うん」
勢いで口走ったことに真顔で返され、紅子は見る見る顔を赤くさせた。
「ほ、ほら。中学のときって、なんか、あるじゃない? クラスで、人気ある子って、いたでしょ?」
「いたっけ」
「いたよー。女子ならチィちゃん……近田さんとか!」
「え、誰だっけ……」
「ほら、髪とかふわふわで、細くって、ほんわりしてて……」
「……分からない……」
「あとね、吉川さんとかも人気あったよー、美人で。あとユリナちゃんとか……」
シオンは顔をしかめつつ、思い出す努力はしてみた。懸命に説明してくれる紅子には悪いが、彼女以外の女子は一人も思い出せなかった。
思えば、可愛い女子に憧れるというような、男子としてはごく健全な思い出が一つも無い。
姉が強烈だったからかもしれない。
もし、好きな女子が出来たら絶対に報告しろと、常日頃から言われていて、そろそろ好きな女子は出来たのかと、三日おきに尋ねられていた。
家庭内がそんな環境で、好きな女子を作ろうなんて、思うはずもない。
すると紅子が、思いもよらなかったことを口にした。
「小野原くんは、女の子の間で人気あったんだよ」
「オレが?」
「私と比べたら小野原くん、目立ってたから」
「だろうな」
と答えると、またも紅子ははっとした顔をした。
その目線の先には、シオンの耳がある。
「あ。違うの! 耳とか尻尾のことじゃなくて! って、ああ、ごめんなさい!」
紅子がまたぺこぺこと頭を下げた。忙しい。
いつの間にか、周囲の冒険者も二人のやり取りに見入っている。
「じゃなくてね、小野原くんが亜人さんだからとかじゃなくて、昔から、すっごくカッコよかったから、だから!」
「ああ……うん」
胸の前でこぶしを握り、力説する紅子にひたすら気圧されながら、シオンはとりあえず頷いた。
亜人の自分が人間のこんな美少女に褒められても、むず痒いだけだが。
「分かった……ありがとう」
「ん? あれ? 小野原くん、信じてない?」
今度は怪訝そうな顔になる。
「何が?」
「小野原くんがカッコよくて、クラスの女子はみんな小野原くんのこと好きだったって話」
「広がってないか?」
それにその話だと、浅羽お前もその中に入るぞ、と思ったが、そう言えばまた慌てふためくだろうと思ったので、黙っておいた。
「分かった。ありがとう、浅羽。もういいよ」
むう、と紅子は顔をしかめた。
「お世辞とかじゃないよ? ほんとに。小野原くんのことカッコいいって、女の子けっこう言ってたんだよ」
「女子に?」
まったく身に憶えが無い。
「うん。私、出席番号一緒でいいなーってよく言われたもん」
「亜人は臭いって言われたことしかねーけど」
「え、なに、それ」
紅子の顔が凍りつく。
シオンにとっては昔の話だが、いま知った紅子は、突然頭を殴りつけられたかのように、ぽかんと口を開けたまま固まった。
「……ほんとに?」
「ああ」
わざわざこんな嘘はつかない。
「ヒドい」
一瞬紅子は怒ったように唇をきゅっと引き結んだが、すぐにしょんぼりとうなだれた。
「……ごめんなさい。私、はしゃいじゃって」
「いや、いいけど。昔のことだし」
別に気にしていない。それよりもころころ変わる紅子の百面相が面白く、つい見入ってしまっていた。
性格は全然違うが、姉を思い出した。
姉の桜も喜怒哀楽が激しく、しかも感情表現がストレートで、有無を言わせないパワーがあった。黙っていれば可愛らしい容姿が、苛烈な性格をより際立たせた。
でも、それが彼女の魅力だった。どうしようもなく強く、わがままで、素直で、周囲は振り回されながらも、彼女を愛した。遠慮なくその魅力を撒き散らす彼女に、誰も逆らえなかった。
そういう女だった。
紅子の雰囲気は、もっと柔らかい。穏やかで、優しくて、無邪気だ。
だから今も、シオンの過去を掘り出してしまい、素直に傷ついているのだろう。
「浅羽が謝るようなことじゃねーよ。それに一年のときじゃなくて、二年のときの話だから。オレこそ、悪いな。なんか、変なこと言ったみたいで」
「ううん……私、何にも知らなくて。小野原くんと、一年のとき同じクラスだったってだけなのに」
シオンが二年のときに突然学校を辞めた、その理由に彼女は思い当たったのだろう。
その頃、彼女は他のクラスで、何も知らずに穏やかに過ごしていたのだ。
それはそれで良いことだ。
しかし、場は一気に暗くなった。シオンは気にしていないが、紅子のほうは思いきり気にしている。
「オイ、空気悪いぞー」
「ボウズ、なんか言ってやれ!」
周囲で盗み聞きしていた冒険者まで、口を挟み始めた。
「バカ、そこで慰めるんだよ」
「肩抱くチャンスだろ」
「キスしろー」
何でだ。
好き勝手にはやし立てる大人どもを無視して、シオンは紅子に声をかけた。
肩は抱かないが。
「浅羽。別に、気にしなくていいから。一年のときは、そういえば楽しかった気がする。なんか忘れてたけど」
そう言うと、紅子は少し顔を上げた。
だが、屈託ない笑顔はすっかり陰をひそめ、太陽を隠されたひまわりのように悲しげだ。
「……ごめんなさい」
「いいよ。いいことも思い出したから」
「でも」
「お世辞じゃねーよ。オレも、二年のときのことばっか憶えてたから。でも、今日もし浅羽に会わなかったら、一年はそんなに悪くなかったってことも、忘れてたと思うし」
「……うん」
「だから、気にすんなよ。もう、昔のことだしな」
紅子はしばらく黙っていたが、やがて、こくんと小さく頷いた。
「小野原くんは、すごいね。やっぱり、すごく大人だなあ」
「そうでもねーけど」
「でも、やっぱり変わってないね。前から、優しかったもん。イジワルとか絶対しなくて、言わなくて、真面目で」
「普通だろ」
「でも、普通のことって、けっこう出来ないと思う」
ようやく、紅子は少し笑った。
「だから、小野原くんはすごいなあって思ってた」
彼女が笑うと、花が咲いたようだ。
表情が豊かなのは、彼女の心も豊かなのだろう。
シオンは安堵したが、周囲で見ていた冒険者からブーイングが起こった。
「なんだよ、それで終わりかよー」
「これだからガキは」
「キスしろよ」
するわけない。
とりあえず無視して、シオンは紅子の顔を見た。
「そういや、お前は、少し変わったよな」
「え?」
紅子がくりっとした目を丸くする。
さらさらと流れる、真っ直ぐな長い黒髪。
彼女のことをすぐに思い出せなかったのは、その印象が違うからだ。
あの頃は、二つに分けてきっちり結んだ三つ編みで、前髪もきっちり止めていた。今も別に派手というわけではないが。
じっと顔を見ていると、紅子は少し頬を赤くした。
「あ、そだね。私、あのときニキビすごかったもんね……」
「そだっけ?」
「うん」
「それは憶えてねーけど……」
そういえば口の悪い男子に、そんなことでからかわれていた気もする。
人間の中で育ったからか、シオンの感性はそれなりに人間寄りだ。少なくとも、自分ではそう思っている。目の前にいる紅子のことも、人間から見て可愛い顔立ちだというのは分かる。当時は、わりと地味な印象だったということも。
といっても、そこまで容姿にこだわりはない。いくら顔が可愛らしくても、亜人というだけで汚い獣を見るような目をする女なら、近づきたいとも思わない。
顔の造形の良し悪しなど、さして重要ではない。当時も、容姿のことで異性をからかうという感覚が分からなかった。
「あ、あの、小野原くん?」
じっと相手の顔を見るシオンに、紅子の白い頬がみるみる赤くなっていく。
成長したからか、紅子の顔にはニキビは見当たらない。そもそもあったかどうかも憶えていないのだが。
「ああ、そっか。その目。憶えてる」
「目?」
「目は変わらないだろ」
子供の頃、人の顔が憶えられないなら、目の印象を憶えるといいと父に言われたことを、シオンはずっと実践している。
二重のくっきりとした大きな瞳。ニキビが多かったかは憶えていないが、目が綺麗だった。大きな黒目が柔らかい印象を与えた。睫毛が長くて、目尻がくっきりしていて、笑うと三日月の形になる。
「お、おにょ、はらくん……?」
一方、人前で、じっと見つめられているほうは堪ったものではない。
そのうえ、紅子にとってはかつて憧れた少年だ。
紅子は水面に顔を出した魚のように、口をぱくぱくさせた。
紅子の心情など露知らず、シオンはワーキャットの悲しい習性で、つい鼻をひくつかせてしまう。
香水とか化粧とかの人工的な匂いではない。彼女はそういったものはつけていなかったし、そんなものをつけなくても、人間の若い女からはとても良い匂いがする。
ある程度離れていても、鼻の良いシオンには、少女の首筋から芳しい匂いがするのが分かる。それは、蜜蜂が花に惹かれるように、たまらなく魅力的な匂いだ。
うらはらに、紅子が悲壮な声を上げた。
「……ま、まさか、私、なんか臭いの……?」
「え?」
「へ、変な臭いでも、するの……? ま、まさか、昨日食べたギョーザが……?」
情けない声を出し、ふるふると震える紅子に、はっとシオンは我に返った。
しまった。やってしまった。
人間に拾われ育てられたシオンは、人間の家庭で、人間と同じように暮らし、人間の常識もそれなりに身につけたつもりではあるが、見た目だけでなく匂いまで駆使して個体識別しようとするのは、嗅覚の発達した種族にとっては、梅干を見たら唾液が出るような、抗えない習性なのだ。
(でもこれ、人間の、特に女の子にやったら、変態だからね)
姉の忠告が脳裏に響く。
その通りだ。しかしもう遅い。
あまり他人の匂いを嗅ぐな、特に女性に対してはと、厳しく躾けられたというのに。そんなことを忘れ、本能丸出しで思いきり嗅いでしまった。最近は人間と会う機会も少なかったので、油断していた。
「仕方ねーよ、ワーキャットの兄ちゃん」
「だって、猫だもの」
「もうキスしろ、キス」
いつの間にかギャラリーも戻って来ている。
なんの申し開きも出来ない。
謝るしかないと、シオンは頭を下げた。
「ごめん。悪かった。別に、変な臭いがするとかじゃねーから」
「え? ほ、ほんと? う、うん……なら、良かった」
逆に失礼に取られかねない謝罪だったが、泣きそうな顔から一転、紅子は安堵したような笑みを向けた。
「臭かったら、どうしようかと思った。昨日の晩御飯、ギョーザだったから……」
「いや、大丈夫。それは分からなかった」
「良かったあ」
紅子は胸に手を当て、ほっと息をついた。
どちらかというとあまりに良い匂いだったから、つい本能剥き出しで嗅いでいたなんて、言えるわけもない。
「なんだよ、キスしねーのかよ」
「オレならギョーザごと愛するぜ」
「むしろギョーザになりたい」
耳が良過ぎるのも考えものだとシオンは思ったが、紅子は気にしていないのか聴こえていないのか、まったく意に介していない様子だ。
「ワーキャットのわりにカタいな、アイツ」
「これはもう、姉ちゃんのほうから攻めたほうがいいな」
「お嬢ちゃん、ワーキャットは耳の裏だぞー」
下品な声援に、シオンは顔を引きつらせた。紅子もとうとうギャラリーの温かいアドバイスに気付き、目をしばたたかせた。
「え? なに? 耳の裏?」
「聴かなくていい。……ここじゃ話しにくいし、もう出ないか」
おおっ、と周囲がどよめいた。
そして、温かい拍手と口笛が起こった。
「え? え?」
「出よう」
シオンは耐え切れず、紅子の手を掴んで、外に出た。
「がんばれよー」
「男見せろよ」
背中に嫌な声援を受けながら、シオンは紅子を引っ張るようにして、センターを出た。
紅子は大人しくついてきてくれたが、状況がまったく掴めていないらしく、きょとんとした顔で、シオンの背中に向かって尋ねた。
「耳の裏って?」
「忘れろ」
シオンはもうすっかり、紅子のことを思い出していた。
あまり思い出したくなかった、中学時代の記憶。
子供の残酷さや陰湿さとはまるで無縁のところで、少女が微笑む。
中学に入学したての春。この前まで小学生だったシオンも、まだ幼かった。
休み時間にはいつも、小学校からの友人がシオンの机に周りに集まって、はしゃいでいた。
あの頃はまだ、人間だとか亜人だとか、あまり気にしていなかった。
隣の少女には迷惑だったかもしれない。彼女はよく俯いて、読書をしていた。本で顔を隠すように。
彼女と同じ学校だったらしい男子が時折やってきて、ニキビの多さをからかった。穏やかな彼女は反論もせず、俯いたまま笑っていた。
人間が持つ美醜へのこだわりがシオンには理解出来ず、人間とまるで違う耳や尻尾があることに比べれば、吹き出物のどこがおかしくて、悪いのかが分からない。だから彼女をからかう奴のことも、彼女が自信なさげに顔を隠す理由も、分からなかった。
それでも彼女の笑顔が優しく、朗らかなのは、知っていた。
彼女は大人しく、からかわれても黙って微笑んでいるような少女だったが、決して陰気でも卑屈でもなかった。
そうだ。思い出した。
毎朝、教室で顔を合わせると、そのときばかりはしっかり顔を上げ、おはよう、とシオンに挨拶をしてくれていた。今と同じ、天真爛漫な笑顔で。
(おはよう! 小野原くん)
それはずっと、シオンが中学を辞めるまで。
クラスが変わっても、彼女はシオンとすれ違うたびに、声をかけてくれた。