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迷宮のドールズ  作者: オグリ
一章
5/88

紅子

「浅羽?」

 シオンは顔をしかめた。


「うん。憶えてないかな? 中学のとき同じクラスだった、一年のときに、一学期の初めに隣の席だった、浅羽です」

 と言い、ちょこんと頭を下げる。

 長い髪が揺れ、ふわりと花のような匂いが漂う。


 中学一年のとき。一学期の初め。しかも隣の席。

 そこまで限定されれば、さすがに分かる。

 顔を上げ、にこりと屈託無く笑った少女の、その笑みを見て、ようやく思い出した。

「あー……」

「憶えてた?」

 嬉しそうに少女が言う。

 黒目の大きな瞳がきゅっと細くなって、目尻が優しく下がった。

 白い頬はちょっとしたことでも赤くなるのだろう、うっすら桃色になっている。

 その笑顔だけで、彼女が表情で見せる感情表現がとても豊かだということが分かる。

 本当に、心から嬉しい! というような顔だった。


 シオンは昔の同級生の顔を、実はあまり憶えていない。

 そもそも中学に通っていたのは、二年の途中までだ。夏休みに入る前に退学した。一年半にも満たない学校生活で、知っている同級生なんていくらも居ない。

 それに、在学時代のことは、なるべく思い残さないようにつとめてもいたのだ。

 それでも浅羽紅子と名乗った女子のことは、言われてからだが、思い出せた。

「たしか、出席番号が……」

「そうそう!」

 言い終わらないうちに、紅子が元気よく頷いた。

「私が女子の二番で、小野原くんは男子の二番だったよね! 懐かしいなあ。出席番号が早かったから、入学してすぐ日直して、プリントが色々いっぱいあって、でも小野原くんが、職員室から全部運んでくれたの」

「……そうだっけ?」

 あったかもしれないが、些細なこと過ぎて憶えていない。

「ごめん。あんまり憶えてない」

 正直に答えたシオンに、紅子は気に障る様子もなく、にこにこと頷いた。

「うん、だよね。でも、そういうちょっとしたとこが、小野原くん優しかったから、私はすっごく憶えてるなあ。あの頃って、小野原くんみたいな男の子、あんまりいなかったから」

「それは、まあ、そうかもしれないけど」

 亜人的な意味でかと思ったら、紅子ははっと慌てたような顔をした。

「あ、大人っぽかったってことだよ! 私ね、男の子ってちょっと苦手だったけど、隣が小野原くんで良かったなあって思ってたの」

 それは、勝気な姉にレディーファーストという名目で、言うことを何でも聞くように叩き込まれていたからだ。

 おかげで他の女子に対しても、意地悪をしてやろうとか、スカートをめくってやろうなんて考えたこともない。

「一緒に日直したときも、掃除とか黒板消しとか、ふざけないで、ちゃんと黙々とやってて、いい人だなあって」

「そう……ありがとう」

 中学の同級生から、こんなに真っ直ぐ褒められたことはなかったので、シオンは少し返答に困ったが、一応、礼を言った。



「――番号札、二十六番の方、おられませんか?」

「あ」

 受付嬢の機械的な声に、シオンは顔を上げた。

 手許の番号札を見やる。

「では、お次の二十七番の番号札をお持ちの方、ご案内いたします」

 ポーン、と無情な電子音が響く。


「しまった。抜かされた」

「あ、ごめんなさい。もしかして、呼ばれてたの?」

 紅子が窓口を振り返る。

 彼女もシオンも、一時間近く待ってようやく順番が回ってきた。このまま飛ばされては、いままで待った時間が無駄になる。

 そうしている間にも、ポーンと耳慣れた電子音が響いた。

「それでは、二十七番の番号札をお持ちの方……」

「よし、オレだ!」

 二十七番の番号札を掲げた冒険者が、歓喜の声を上げる。

「センター内は走らないでください」

 もう絶対に譲らんとばかりに走って窓口に向かう冒険者を、受付嬢がマイクで嗜めている。

「ええっ! うそ! あのっ、すみません! 二十六番います!」

「あ、いや、いいよ」

 慌てて声を上げた紅子を、シオンが引き止める。

「別に、オレは急いでねーから」

「え、でも、小野原くんの番……!」

「どうせ、大した用で来たわけじゃねーから」

「で、でも、でも、ずっと待ってたんでしょう? これ、お仕事だよね? 大事だよね?」

「そうだけど、急いでねーから。金、困ってないし」

 それは本当だ。急いでいないのも、本当だ。

 まったく急いではいないが、わざわざ混みあっているこの日に来たのには、理由がある。

 週初めの月曜日は、センターに来た仕事の依頼が更新されるのだ。

 お行儀の良い連中が多いとは言えない冒険者が、何時間も並んでまで待つのは、少しでも条件の良い仕事を先取りしたいからだ。シオンもそのつもりだった。

 先日依頼をこなしたばかりなので、今週は休んでも良いくらいだ。しかし休んだところでヒマだし、腕が鈍るような気がしたので、ブラブラと仕事を探しにきたというだけだ。


 だからいますぐに仕事を探したいわけではない、とシオンは紅子に説明した。

「こないだ、ダンジョンに潜ったばっかだから」

「へえー、すごい」

 ダンジョンと聞いてか、紅子は感嘆の声を上げた。

 素直過ぎるほどの、羨望と尊敬のまなざしを向けられる。

「いいなあ、ダンジョン」

「いいか?」

「うん。羨ましいな」

「お前、冒険者志望なのか?」

「うん……」

 頷く彼女の表情が、ふいに、ぼんやりしたものになった。

「浅羽?」

「え?」

 声をかけると、ぱちくりと目を見開き、紅子はシオンを見た。

「あ、うん。そうなの、私、冒険者になりたいんだ」

「学校は?」

「あ、えーと……」

「サボったのか?」

「えへ……」

 半笑いで目をそらす。嘘をつけない性格らしい。

 平日の昼間だというのに、学校をサボってまで冒険者になりに来るなんて、そんなエキセントリックなタイプには見えない。かつては真面目な少女だったし、今もそうだろう。


 なにか、事情でもあるのかもしれない。

 ぼんやりした彼女の表情が、いやに印象に残った。

 それまで好奇心に満ちた大きな瞳は、きらきらと輝いてみえたのに。急に光を失ったような気がしたのだ。

 気のせいかもしれないが、それがシオンの心に引っかかった。


 紅子は申し訳無さげな顔で、何度も窓口を振り返っている。

 その様子に、不審なところはない。

「ごめんなさい、小野原くん」

 シオンが向かうはずだったカウンターでは、すでに他の冒険者が仕事を探せと受付嬢に急かしていた。

「ああ、ほんとにいいんだよ。どうせ、もうちょいしたら空く。依頼は減ってるかもしんねーけど、金に切羽詰ってるわけじゃないし。こないだ、まとまった金をもらったから、しばらくでかい仕事する気はないんだ」

「へえ……なんか、すごい」

 と紅子は息をついた。

「何が?」

「小野原くん、ほんとに冒険者なんだなあって」

「ああ」

「でも、小野原くんなら出来そうだね」

「そうか?」

 まあ、実際にやっているわけだが。

「うん。小野原くん、中学のときもしっかりしてたし。大人っぽかったから」

「そうだったかな」

 クラスメイトにそんなふうに思われていたとは意外だ。

「変わってないね、小野原くん。でも、背が高くなったね」

「そうかな」

 当時に比べれば、それはそうだろう。クラスの中でも小さいほうだった。

 大柄な者が多い亜人にしては、ワーキャットは小柄なほうだ。しかも細身だからか、実際より小さく見られがちだ。

 目の前の少女のほうが、当時と少し印象が違う気がする。

 少なくともあの頃は、そんなに目立った美人という印象はなかった。

 たしか、大人しい少女だった。言葉を交わすとき、やたらともじもじしていた気がする。


「浅羽か。ちょっと思い出した」

 シオンの言葉に、少女の顔がぱっと華やぐ。

 同年代の男子なら、その瞬間に彼女に恋するかもしれない。そのくらい天真爛漫な笑顔だった。

「ほんと? よかったぁ。でもほんと、一年の最初のとき、隣の席だったってくらいだもんね。私、喋るの下手だったし。ごめんね、急に声かけちゃって」

 へへ、と少し恥ずかしげに言う。

「いいよ。オレも思い出せて、良かったよ」

「そっかあ。良かった。あ、小野原くんだ! って思ったから、何も考えずに声かけちゃって。ああ、ドキドキしちゃった」

 とセーラー服の胸に手を当てた。

 中学の制服も、セーラー服だったっけ、とシオンは思い出した。


 そういえば。

 彼女と、夕暮れの教室に居た。そんなことを思い出した。

 放課後、二人で教壇を拭き、ほうきで床を掃き、黒板の日付けを書き換え、その下に明日の日直になるクラスメイトの名前を書いて、黒板消しをクリーナーにかけて、日誌を書いた。

(……次の出席番号の奴って、誰だっけ)

 チョークを手に、黒板に向かいながら、シオンはクラスメイトの少女に尋ねた。

 日誌にペンを走らせていた少女が、ぱっと顔を上げた。

(あ、えっとね、江崎さんと……佐々木くん)

 肩下まで伸びた髪をきっちり三つ編みに束ねた、見るからに真面目な女子生徒だ。

(え? 男子っていきなり小野原から佐々木まで飛ぶのか?)

(うん。確かそうだよ。うちのクラス、名字がか行の男の子、いなかったと思う)

(へー。そうだっけ……)

(小野原くん、自分の席の後ろの人、覚えてないの?)

(……まあ、まだ入学したばっかだし)

 窓から差し込む夕日に、彼女の笑顔が溶け込んだ。

(私の名前も、覚えてなかったりする?)

(浅羽だろ。今日、何回か呼んだだろ)

(そっか。そうだよね)

(もう覚えた)

(ほんと? 良かったあ)


 そうだ。大人しい奴だったけれど、あのときから、笑った顔がいやに可愛い奴だった。


「なんか、だんだん思い出してきた」

「ほんと?」

「うん。日直のこととか。最初に一緒に日直やったとき、お前、次の日直の奴の名前、間違っただろ」

「あ、あれは……!」

 紅子の顔が笑ったまま固まる。

「一人飛ばしたよな。か行で始まる男子はクラスに居ないって言って、北村のこと飛ばしただろ」

「北田くんだよ! で、でも、そもそも、同じ男子で後ろの人のこと覚えてない小野原くんも、どうかと思うんだけど……!」

「でもお前、自信満々で、か行はいないって……」

「もー、その話はいいから!」

 紅子は学生鞄の持ち手を握り締め、顔を真っ赤にして怒った。

 そんな彼女を見て、シオンも小さく笑った。

「笑わないでよー。もう、久しぶりに小野原くんと話せたのに、ヘンなこと思い出さなくていいのに……」

 ふくれ面で紅子が訴える。

「いや、面白いと思うけど」

「いいの、そんなの! もー、私は小野原くんに会えてすっごい嬉しかったのに!」

「そんなに?」

「あ、え? ……う、うん」

 勢いで口走ったことに真顔で返され、紅子は見る見る顔を赤くさせた。

「ほ、ほら。中学のときって、なんか、あるじゃない? クラスで、人気ある子って、いたでしょ?」

「いたっけ」

「いたよー。女子ならチィちゃん……近田さんとか!」

「え、誰だっけ……」

「ほら、髪とかふわふわで、細くって、ほんわりしてて……」

「……分からない……」

「あとね、吉川さんとかも人気あったよー、美人で。あとユリナちゃんとか……」

 シオンは顔をしかめつつ、思い出す努力はしてみた。懸命に説明してくれる紅子には悪いが、彼女以外の女子は一人も思い出せなかった。


 思えば、可愛い女子に憧れるというような、男子としてはごく健全な思い出が一つも無い。

 姉が強烈だったからかもしれない。

 もし、好きな女子が出来たら絶対に報告しろと、常日頃から言われていて、そろそろ好きな女子は出来たのかと、三日おきに尋ねられていた。

 家庭内がそんな環境で、好きな女子を作ろうなんて、思うはずもない。


 すると紅子が、思いもよらなかったことを口にした。

「小野原くんは、女の子の間で人気あったんだよ」

「オレが?」

「私と比べたら小野原くん、目立ってたから」

「だろうな」

 と答えると、またも紅子ははっとした顔をした。

 その目線の先には、シオンの耳がある。

「あ。違うの! 耳とか尻尾のことじゃなくて! って、ああ、ごめんなさい!」

 紅子がまたぺこぺこと頭を下げた。忙しい。

 いつの間にか、周囲の冒険者も二人のやり取りに見入っている。

「じゃなくてね、小野原くんが亜人さんだからとかじゃなくて、昔から、すっごくカッコよかったから、だから!」

「ああ……うん」

 胸の前でこぶしを握り、力説する紅子にひたすら気圧されながら、シオンはとりあえず頷いた。

 亜人の自分が人間のこんな美少女に褒められても、むず痒いだけだが。

「分かった……ありがとう」

「ん? あれ? 小野原くん、信じてない?」

 今度は怪訝そうな顔になる。

「何が?」

「小野原くんがカッコよくて、クラスの女子はみんな小野原くんのこと好きだったって話」

「広がってないか?」

 それにその話だと、浅羽お前もその中に入るぞ、と思ったが、そう言えばまた慌てふためくだろうと思ったので、黙っておいた。

「分かった。ありがとう、浅羽。もういいよ」

 むう、と紅子は顔をしかめた。

「お世辞とかじゃないよ? ほんとに。小野原くんのことカッコいいって、女の子けっこう言ってたんだよ」

「女子に?」

 まったく身に憶えが無い。

「うん。私、出席番号一緒でいいなーってよく言われたもん」

「亜人は臭いって言われたことしかねーけど」

「え、なに、それ」

 紅子の顔が凍りつく。

 シオンにとっては昔の話だが、いま知った紅子は、突然頭を殴りつけられたかのように、ぽかんと口を開けたまま固まった。

「……ほんとに?」

「ああ」

 わざわざこんな嘘はつかない。

「ヒドい」

 一瞬紅子は怒ったように唇をきゅっと引き結んだが、すぐにしょんぼりとうなだれた。

「……ごめんなさい。私、はしゃいじゃって」

「いや、いいけど。昔のことだし」

 別に気にしていない。それよりもころころ変わる紅子の百面相が面白く、つい見入ってしまっていた。

 性格は全然違うが、姉を思い出した。

 姉の桜も喜怒哀楽が激しく、しかも感情表現がストレートで、有無を言わせないパワーがあった。黙っていれば可愛らしい容姿が、苛烈な性格をより際立たせた。

 でも、それが彼女の魅力だった。どうしようもなく強く、わがままで、素直で、周囲は振り回されながらも、彼女を愛した。遠慮なくその魅力を撒き散らす彼女に、誰も逆らえなかった。

 そういう女だった。


 紅子の雰囲気は、もっと柔らかい。穏やかで、優しくて、無邪気だ。

 だから今も、シオンの過去を掘り出してしまい、素直に傷ついているのだろう。


「浅羽が謝るようなことじゃねーよ。それに一年のときじゃなくて、二年のときの話だから。オレこそ、悪いな。なんか、変なこと言ったみたいで」

「ううん……私、何にも知らなくて。小野原くんと、一年のとき同じクラスだったってだけなのに」

 シオンが二年のときに突然学校を辞めた、その理由に彼女は思い当たったのだろう。

 その頃、彼女は他のクラスで、何も知らずに穏やかに過ごしていたのだ。

 それはそれで良いことだ。


 しかし、場は一気に暗くなった。シオンは気にしていないが、紅子のほうは思いきり気にしている。

「オイ、空気悪いぞー」

「ボウズ、なんか言ってやれ!」

 周囲で盗み聞きしていた冒険者まで、口を挟み始めた。

「バカ、そこで慰めるんだよ」

「肩抱くチャンスだろ」

「キスしろー」

 何でだ。

 好き勝手にはやし立てる大人どもを無視して、シオンは紅子に声をかけた。

 肩は抱かないが。

「浅羽。別に、気にしなくていいから。一年のときは、そういえば楽しかった気がする。なんか忘れてたけど」

 そう言うと、紅子は少し顔を上げた。

 だが、屈託ない笑顔はすっかり陰をひそめ、太陽を隠されたひまわりのように悲しげだ。

「……ごめんなさい」

「いいよ。いいことも思い出したから」

「でも」

「お世辞じゃねーよ。オレも、二年のときのことばっか憶えてたから。でも、今日もし浅羽に会わなかったら、一年はそんなに悪くなかったってことも、忘れてたと思うし」

「……うん」

「だから、気にすんなよ。もう、昔のことだしな」

 紅子はしばらく黙っていたが、やがて、こくんと小さく頷いた。

「小野原くんは、すごいね。やっぱり、すごく大人だなあ」

「そうでもねーけど」

「でも、やっぱり変わってないね。前から、優しかったもん。イジワルとか絶対しなくて、言わなくて、真面目で」

「普通だろ」

「でも、普通のことって、けっこう出来ないと思う」

 ようやく、紅子は少し笑った。

「だから、小野原くんはすごいなあって思ってた」

 彼女が笑うと、花が咲いたようだ。

 表情が豊かなのは、彼女の心も豊かなのだろう。


 シオンは安堵したが、周囲で見ていた冒険者からブーイングが起こった。

「なんだよ、それで終わりかよー」

「これだからガキは」

「キスしろよ」

 するわけない。

 とりあえず無視して、シオンは紅子の顔を見た。

「そういや、お前は、少し変わったよな」

「え?」

 紅子がくりっとした目を丸くする。

 さらさらと流れる、真っ直ぐな長い黒髪。

 彼女のことをすぐに思い出せなかったのは、その印象が違うからだ。

 あの頃は、二つに分けてきっちり結んだ三つ編みで、前髪もきっちり止めていた。今も別に派手というわけではないが。

 じっと顔を見ていると、紅子は少し頬を赤くした。

「あ、そだね。私、あのときニキビすごかったもんね……」

「そだっけ?」

「うん」

「それは憶えてねーけど……」

 そういえば口の悪い男子に、そんなことでからかわれていた気もする。

 人間の中で育ったからか、シオンの感性はそれなりに人間寄りだ。少なくとも、自分ではそう思っている。目の前にいる紅子のことも、人間から見て可愛い顔立ちだというのは分かる。当時は、わりと地味な印象だったということも。

 といっても、そこまで容姿にこだわりはない。いくら顔が可愛らしくても、亜人というだけで汚い獣を見るような目をする女なら、近づきたいとも思わない。

 顔の造形の良し悪しなど、さして重要ではない。当時も、容姿のことで異性をからかうという感覚が分からなかった。


「あ、あの、小野原くん?」

 じっと相手の顔を見るシオンに、紅子の白い頬がみるみる赤くなっていく。

 成長したからか、紅子の顔にはニキビは見当たらない。そもそもあったかどうかも憶えていないのだが。

「ああ、そっか。その目。憶えてる」

「目?」

「目は変わらないだろ」

 子供の頃、人の顔が憶えられないなら、目の印象を憶えるといいと父に言われたことを、シオンはずっと実践している。

 二重のくっきりとした大きな瞳。ニキビが多かったかは憶えていないが、目が綺麗だった。大きな黒目が柔らかい印象を与えた。睫毛が長くて、目尻がくっきりしていて、笑うと三日月の形になる。


「お、おにょ、はらくん……?」

 一方、人前で、じっと見つめられているほうは堪ったものではない。

 そのうえ、紅子にとってはかつて憧れた少年だ。

 紅子は水面に顔を出した魚のように、口をぱくぱくさせた。


 紅子の心情など露知らず、シオンはワーキャットの悲しい習性で、つい鼻をひくつかせてしまう。

 香水とか化粧とかの人工的な匂いではない。彼女はそういったものはつけていなかったし、そんなものをつけなくても、人間の若い女からはとても良い匂いがする。

 ある程度離れていても、鼻の良いシオンには、少女の首筋から芳しい匂いがするのが分かる。それは、蜜蜂が花に惹かれるように、たまらなく魅力的な匂いだ。

 うらはらに、紅子が悲壮な声を上げた。

「……ま、まさか、私、なんか臭いの……?」

「え?」

「へ、変な臭いでも、するの……? ま、まさか、昨日食べたギョーザが……?」

 情けない声を出し、ふるふると震える紅子に、はっとシオンは我に返った。


 しまった。やってしまった。

 人間に拾われ育てられたシオンは、人間の家庭で、人間と同じように暮らし、人間の常識もそれなりに身につけたつもりではあるが、見た目だけでなく匂いまで駆使して個体識別しようとするのは、嗅覚の発達した種族にとっては、梅干を見たら唾液が出るような、抗えない習性なのだ。

(でもこれ、人間の、特に女の子にやったら、変態だからね)

 姉の忠告が脳裏に響く。

 その通りだ。しかしもう遅い。

 あまり他人の匂いを嗅ぐな、特に女性に対してはと、厳しく躾けられたというのに。そんなことを忘れ、本能丸出しで思いきり嗅いでしまった。最近は人間と会う機会も少なかったので、油断していた。

「仕方ねーよ、ワーキャットの兄ちゃん」

「だって、猫だもの」

「もうキスしろ、キス」

 いつの間にかギャラリーも戻って来ている。

 なんの申し開きも出来ない。

 謝るしかないと、シオンは頭を下げた。

「ごめん。悪かった。別に、変な臭いがするとかじゃねーから」

「え? ほ、ほんと? う、うん……なら、良かった」

 逆に失礼に取られかねない謝罪だったが、泣きそうな顔から一転、紅子は安堵したような笑みを向けた。

「臭かったら、どうしようかと思った。昨日の晩御飯、ギョーザだったから……」

「いや、大丈夫。それは分からなかった」

「良かったあ」

 紅子は胸に手を当て、ほっと息をついた。

 どちらかというとあまりに良い匂いだったから、つい本能剥き出しで嗅いでいたなんて、言えるわけもない。

「なんだよ、キスしねーのかよ」

「オレならギョーザごと愛するぜ」

「むしろギョーザになりたい」

 耳が良過ぎるのも考えものだとシオンは思ったが、紅子は気にしていないのか聴こえていないのか、まったく意に介していない様子だ。

「ワーキャットのわりにカタいな、アイツ」

「これはもう、姉ちゃんのほうから攻めたほうがいいな」 

「お嬢ちゃん、ワーキャットは耳の裏だぞー」

 下品な声援に、シオンは顔を引きつらせた。紅子もとうとうギャラリーの温かいアドバイスに気付き、目をしばたたかせた。

「え? なに? 耳の裏?」

「聴かなくていい。……ここじゃ話しにくいし、もう出ないか」

 おおっ、と周囲がどよめいた。

 そして、温かい拍手と口笛が起こった。

「え? え?」

「出よう」

 シオンは耐え切れず、紅子の手を掴んで、外に出た。

「がんばれよー」

「男見せろよ」

 背中に嫌な声援を受けながら、シオンは紅子を引っ張るようにして、センターを出た。


 紅子は大人しくついてきてくれたが、状況がまったく掴めていないらしく、きょとんとした顔で、シオンの背中に向かって尋ねた。

「耳の裏って?」

「忘れろ」




 シオンはもうすっかり、紅子のことを思い出していた。

 あまり思い出したくなかった、中学時代の記憶。

 子供の残酷さや陰湿さとはまるで無縁のところで、少女が微笑む。


 中学に入学したての春。この前まで小学生だったシオンも、まだ幼かった。

 休み時間にはいつも、小学校からの友人がシオンの机に周りに集まって、はしゃいでいた。

 あの頃はまだ、人間だとか亜人だとか、あまり気にしていなかった。

 隣の少女には迷惑だったかもしれない。彼女はよく俯いて、読書をしていた。本で顔を隠すように。

 彼女と同じ学校だったらしい男子が時折やってきて、ニキビの多さをからかった。穏やかな彼女は反論もせず、俯いたまま笑っていた。

 人間が持つ美醜へのこだわりがシオンには理解出来ず、人間とまるで違う耳や尻尾があることに比べれば、吹き出物のどこがおかしくて、悪いのかが分からない。だから彼女をからかう奴のことも、彼女が自信なさげに顔を隠す理由も、分からなかった。

 それでも彼女の笑顔が優しく、朗らかなのは、知っていた。

 彼女は大人しく、からかわれても黙って微笑んでいるような少女だったが、決して陰気でも卑屈でもなかった。


 そうだ。思い出した。


 毎朝、教室で顔を合わせると、そのときばかりはしっかり顔を上げ、おはよう、とシオンに挨拶をしてくれていた。今と同じ、天真爛漫な笑顔で。


(おはよう! 小野原くん)


 それはずっと、シオンが中学を辞めるまで。

 クラスが変わっても、彼女はシオンとすれ違うたびに、声をかけてくれた。

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