援軍
シオンの目の前でリノの鋭い爪が宙を切る。
(躊躇が無い……!)
ネイルでコーティングされた爪は的確に目を狙ってきた。
本気だ。
これは本気の殺意だ。
「リノっ……!」
「があああああっ!」
身の軽さを生かした攻撃は予想外に速い。だが、戦闘訓練を受けていない少女が、身体能力だけで戦っているだけだ。
シオンはリノの攻撃を躱し、背後に回ると、やすやすとその両腕を取った。しかし少女は細く関節の柔らかい腕を、するりと片方だけ逃した。
つなぎの内ポケットに手を入れ、取り出したのは携帯用の小さなスプレー缶だった。
「うわっ!」
護身用スプレーを勢いよく顔に噴射され、掴んだ腕を離しこそしなかったものの、煙をまともに受けた。
「くっ……!」
「ガァッ!」
リノが上半身をねじり、反動をつけて爪を伸ばしてきた。咄嗟によけたが尖った爪先が頬を掠め、皮が抉れる。
再び腕を引き、今度は首を狙ってきた。急所への躊躇の無い連続攻撃。力は無いが素早く、手数が多い。ワーキャットの身体能力の高さも相まって、訓練すればそれなりの戦士になるだろう。さらに紅子がかけた精神魔法が、彼女の能力を普段より引き出している。
だがそれは、シオンも同じだ。純粋な戦闘で、同じ種族の少女に負けるわけがない。
首を狙ってきた腕を手首のところで掴み、足を払う。
「ぐあっ……!」
瓦礫の中に倒れたリノは、どこかに体をぶつけたのか苦痛の声を上げた。
「悪い」
少女であっても、本気で襲いかかってくる相手に下手に加減など出来ない。倒れたリノの上にのしかかり、ウエストポーチからロープを取り出す。
「ちくしょおおっ! 離せぇ!」
後ろ手に拘束され、散らばった瓦礫やガラスの破片で体が傷つくのも構わず、リノが身悶えて叫ぶ。
「あの女が悪いんだ! あたしたちを裏切った! あたしのお兄ちゃんを騙して、あたしのことも裏切った!」
「落ち着け」
と言っても無駄だろうと思いつつ、ロープで足首も縛る。
「許さない! あたしたちを捨てたソウジュも、裏切ったシリンも! あたしを見てくれないセイヤも! みんな、みんな、許さない!」
縛られてもリノは叫び、暴れている。
「リノ……」
「許さない! 許さない! 許さない!」
その目は怒りに燃えているのに、どこか虚ろだった。目の焦点が合っていない。
正気じゃない。でなければこんな少女が、あんなに鋭い、本気の殺意を持てるわけがない。
(……魔法で操られてる……? いや)
「憎いっ……寂しいっ……許さないっ……ゆる、サ、ナイッ……」
叫ぶリノの声に、違う声が混ざって聴こえた。
(――憑依霊か?)
無機物や知能の低い獣にとり憑くゴーストモンスターだ。
「離せっ……離せぇぇぇっ!」
叫ぶリノの目から涙が流れていた。ポゼッションに憑依されると精神をひどく消耗する。弱った心はポゼッションにとってより心地好い依り代となる。
ただ、人間や亜人のように自我の強い生物にとり憑くことは稀なのだが。
「んッ、んぐっ……!」
興奮し過ぎて舌を噛んでしまわないよう、口に布を噛ませ、抱きかかえた。
「んーっ、んー!」
「悪いけど、少し待っててくれ」
部屋の中央にあるベッドの上に転がす。埃まみれだが床よりマシだろう。
「あとで絶対に助けてやるから」
いまはどうしてやることも出来ない。シオンでは憑依霊を取り除けない。彼女を救うのは無理だ。
(でも、いつとり憑かれたんだ? ここに来てからじゃない……)
無機物や動物ならともかく、知性の高い生物が憑依霊にとり憑かれることはまず無い。心身をひどく消耗させた自殺志願者が、自殺の名所で憑かれるということはあるようだが。
一つ考えられるのは、強制的に憑依させられた可能性だ。
それが出来るのは、高レベルのシャーマンの力が必要になる。シオンの脳裏に昼間に会った女シャーマンの姿が思い浮かんだ。ヒュウガの母親に雇われていると言っていたが。
(もしかして、ヒュウガがあの女に命じて……?)
意図的に憑依霊をとり憑かせるにはいくつかの条件が必要となる。術者の能力の高さももちろんだが、降霊の際には魔素の濃い――それこそダンジョン化するような場所で行わなければならない。さらに憑依させる対象とゴーストの相性、対象者の心身状態が酷く消耗していること……そこに思いあたって、シオンは息を呑んだ。
おそらくリノはセイヤたちのために、ストライブの動きを監視していたに違いない。そのときにシリンがヒュウガに会っている姿も見たのだ。
リノはヒュウガたちに近づき過ぎていた。気づかれて――襲われた。拉致され、この場所に連れて来られて、それで――。
ストライブのやり口は、敵対チームの男をリンチし、女は……。
リノはまだベッドの上でのたうち回っている。その目には涙が溢れ、怒りと悔しさに燃える瞳がシオンを睨みつけた。
彼女がヒュウガに酷い目に遭わされたのだとしたら……こんな少女を襲ったのだとしたら、許せない。
腰のポーチから折り畳みナイフを取り出し、片手に持つ。
さっきリノが吹いた笛は敵を呼び寄せる合図に違いない。すでに外に何かが迫っているのをシオンの耳は聴き分けている。人間でもワーキャットでもない。足音が軽い。
(大型の犬が三匹……)
扉を蹴り開けると、直後に黒い犬が飛びかかってきた。
(魔犬が三匹、背後にレイス……!)
レイスは見える範囲だけで五、六体はいるが、いずれも様子を伺っているだけだ。そういう連中なのだ。彼らは戦いで死者が出るのを待ちかねている。哀れな仲間が新たに増えることを。
(ふざけんなよ!)
大型犬サイズの黒い魔犬が、牙を剥き出しにして飛びかかってきた。シオンは逆に腕を突き出し、顔面に拳を叩き込んだ。
足を狙ってきた一匹を蹴飛ばし、胴を喰い破ろうと飛びかかってきたものは、ナイフで首を薙ぎ払う。鮮血がほとばしると、レイスが声を上げて笑った。
神経を逆撫でされるような声だ。だが気を取られてはいけない。シオンは息を短く吐き、向かってくるブラックドッグをまた一匹、もう一匹と仕留めた。
たしかに喉を裂いた魔犬は即座に立ち上がり、喉から鮮血をほとばしらせながら、怒気をはらんだ唸り声を上げた。
「マジかよ……」
息を吐き出しながら、シオンは呟いた。
ブラックドッグの死体に憑依霊がとり憑き、死んだと同時にゾンビドッグとして蘇ったのだ。
ただの不良の溜まり場と、少しタカを括っていたことを反省した。
(これだけモンスターが出れば、普通のダンジョンだな……)
アンデッド化したモンスターの処理は厄介だ。どれほど斬っても、殴っても、痛みを感じない。疲労も無く、生きている者への敵意をみなぎらせ、襲いかかってくる。
ナイフで斬っても突いても、ゾンビドッグは怯むことなく向かってきた。レイスが金切り声を上げ、精神を揺さぶろうとするが、紅子がかけた〈勇猛〉の効果はいまだ残っている。
蘇った死体は厄介だ。元来の俊敏さ、強靭さに加え、耐久力が高く、疲れを知らず、痛みも恐怖も感じないので、執拗に襲ってくる。
だが、脅威は感じない。サクラや蒼兵衛に修業をつけられるほうがずっと命の危険を感じた。
(遅い!)
戦闘用ではない華奢なナイフで、ゾンビドッグの体を薙ぎ払う。ゾンビドッグは痛みを感じず怯むことはないが、その動きは短調だ。ジャンプして上からの攻撃と、地を走ってくる下からの攻撃。
二体が同時に地面を蹴る。上からと下からだ。シオンは姿勢を低くし、ジャンプして顔を狙ってきた一体の体の下に潜り込み、真下からナイフを突き上げた。
腹が裂け、血が降り注ぐ。刺したモンスターごとナイフを振り下ろし、向かってくる別の一体に叩きつけた。
その間に残った一体がシオンの背後から飛びつき、肩に喰いついた。が、構わず倒れた二体にとどめを刺した。
アンデッドを倒すなら、胴と頭を斬り離すか、叩き潰さなければならない。近くの瓦礫を掴んで何度も振り下ろし、頭を潰す。まだ動いている四肢も同じように潰した。
二体のゾンビドッグの動きが止まると、肩に喰いついていた最後の一体を引き剥がし、鼻面を掴んで地面に叩きつける。素早くナイフを振り下ろし、首を掻き斬った。動きが鈍ったところで頭を潰す。
顔を上げると、数体のレイスがにたりと笑って見ていた。
肩から血を流し、傷を負ったシオンを嘲笑っている。もっと傷つけ、苦しめとでも言いたげに。どうせ倒せないし、あっちも手を出せないと分かっていても苛立つ。
チッとシオンが舌打ちしたときだった。
「――迷い子よ、閉じない環から外れた魂よ、恐れるな。死は誕生。死は眠り」
静かだが、凛と透き通った声が、フロアに響いた。
詠唱だ。それも魔道士のものではない。
「永遠を循環する魂は、ひとときの安寧ののち、また此処で、産声を上げるだろう」
〈即時除霊〉。
霊媒士が扱う霊術だ。
ソーサラーが使う〈退魔〉はゴーストを滅する、いわば攻撃魔法だが、シャーマンの〈即時除霊〉は攻撃ではない。魂の罪を濯ぎ、昇華させる術だ。
「……すごい……」
いやらしい笑いを浮かべていたレイスたちが、すべて霧散し、消えた。
気づけば、フロアのどこにもレイスはいなかった。
〈即時除霊〉の使い手を見るのは初めてではない。だが、こんなにも多くのレイスを一気に昇華させたのは見たことがない。
シオンは体の前でナイフを構えながら、声のしたほうを見た。
階段の奥から姿を現したのは、黒い戦闘服を着た、短髪の男だった。
中世的な顔だちで、髪も瞳の色も色素が薄い。
どこかで見覚えがある気がするのだが、思い出せない。
「……誰だっけ」
思わず呟くと、男は冷たい目を向けた。透き通った硝子玉のような瞳だ。
「別に憶えなくてけっこう。僕は君を憶えているけどね。小野原紫苑」
「え?」
片手に持っていた教鞭のような短杖を伸縮させ、腰に下げたホルダーに仕舞う。
「葬儀の日にも会っているよ。君は憶えていないだろうけど」
「葬儀……?」
「君の姉さん。小野原桜の」
目を見開いたシオンから視線を外し、男はその目線をシオンの左肩に向けた。ゾンビドッグに衣服ごと皮膚を喰い破られ、血で染まっている。男は小さく息をついた。
「雑な戦い方をする。リビングデッドを一体ずつ、確実にとどめを刺していくのは正しい倒し方ではあるけどね。わざと肩を喰わせただろう」
「……そのほうが早いと思って……」
「それが雑だと言うんだよ。低ランク冒険者にありがちだ。長丁場の戦いを経験していないんだろうけど。ずっとそんな戦い方をしてきたのなら、今後改めるといい」
「はぁ……」
自分を知っているふうな男に、シオンは戸惑っていた。
「……あの、姉の知り合いですか?」
「まあね」
男は黒い戦闘ジャケットの胸ポケットからカードケースを取り出し、一枚のカードをシオンに向けた。
冒険者証だ。
「僕は空代灰児。名前で分かるかな」
「え……」
その名は知っている。姉のパーティーにいたというシャーマンだ。
彼は無感情そうな、冷たくも見える目を向けた。
「こんなところで会うなんてって顔をしているけど、こっちの台詞だよ。昼間よりはマシな恰好をしてるみたいだけど」
「昼間……?」
「女の子とチャラチャラ歩いていた姿を見たときは、なんだこの馬鹿と思ったけどね」
「え?」
怪訝な顔をするシオンに、彼はやはり表情を変えず、声色だけを変えた。
「まだ気づかない? まぁいいわ」
急に女言葉になって驚いたが、その口調と声音で思い出した。
「あっ、あのときの、女の人か!」
「なんであんな恰好をって言うんなら、依頼によって使い分けてるだけ」
訊いてもいないのにそう答え、瓦礫の中をすたすたと進んできた。
「あの……空代さん」
「ハイジでいい。名字であまり呼ばないでくれ。そこに憑依霊がいるんだろ」
「あっ……そうなんだ! 仲間がとり憑かれてる、シャーマンだったら助けられないか!」
「いいけど高いよ」
ハイジはシオンを素通りし、リノを置いてきた部屋に入った。縛られ口に布を噛まされたリノは、埃だらけのベッドの上で、まだのたうち回って暴れていた。
「金は払うから助けてくれ!」
除霊に法外な値段を取るシャーマンもいると聞く。どれだけふんだくられるか分からないが、そんなことを心配している場合ではない。最悪……父親に借りよう。
「冗談だよ。報酬は三崎誠也に払ってもらう。この子の兄だろ」
ベッドに近づいたハイジは、口を塞がれたリノを見下ろし、無表情に告げた。
「うーっ、んぐーっ!」
「……まだ元気そうだね。これなら除霊に耐えるだろう」
「セイヤさんを知ってるのか?」
「ああ。僕の依頼主だ」
「へ?」
「七川彪雅の調査を依頼された。根城にしているダンジョンにゴーストが溢れかえっていることで、彼にはゴーストを操る力があるんじゃないかと思ったようだ。ちょうどその後、七川の母親からも依頼があってね。狭い業界だから僕くらい腕が良いと依頼には困らないんだ」
「はぁ……」
聞いてないことまで色々教えてくれる。物静かそうな見た目によらずけっこう饒舌だ。
「ちょっと面白そうな案件だったからね、もう一つの姿と名前でそっちも受けた。不良息子が何か恐ろしいことをするんじゃないかと、その前に止めてくれとね。まあ、もうけっこうやらかしてるみたいだけど」
リノを見つめ、それからシオンを見た。
「それにしても、こんなところで桜の弟に会うとは思わなかった。彼女はトラブルに首を突っ込むのが好きだったけど、君も同じなのか?」
初めてハイジは少しだけ笑みを浮かべた。
「え……いや、たまたまっていうか……。それよりも、さっきゴーストを操るって、ヒュウガはシャーマンなのか?」
「というより死霊魔道士だね。霊力も魔力も高い資質を持っている。しかも独学でここまで身に着けた」
ハイジの顔からまた表情が消える。
「稀有な素質だよ。性根さえまともなら素晴らしい使い手になっただろうけど、そればかりは生まれ直さないとどうしようもなさそうね」
「え?」
「……キャラが混ざった」
きょとんとするシオンに、ハイジはぼそっと呟いた。
「依頼主もまさか、自分の妹が手先にされてるとは思わなかっただろう。術者の支配下でなければ、普段と変わらない振る舞いをするからね。だが、ヒュウガの支配が及ぶ範囲なら、いつでも彼に忠実な操り人形になる」
「やっぱりリノは、ストライブに襲われたのか……」
スパイが自分自身だったなんて、リノはひどく傷つくだろう。
歯噛みするシオンに、ハイジは静かに告げた。
「ああ。でも、肉体的にはそれほど酷いことはされてないと思うよ。僕が感じた七川の性格の通りならね。彼は非常に野性に近いワーキャットだ」
「どういうことだ?」
「君もワーキャットだろ」
「オレは人間の中で育ってるから……」
「三崎誠也はこのあたりの若いワーキャットたちの頂点にいた、ヒュウガにとっては追い出したいボスだった。野生のワーキャットが他の群れを襲い、縄張りを拡大するときのやり方を知っているかい?」
「……いや」
「敵対する群れのボスが屈服したら、その目の前で家族や仲間をいたぶるんだ。敗北者の烙印を押し、威厳を地に落とす。ボスが排除され、取り込まれた群れの者は新しい群れの奴隷になりさがる。だから、彼の妻や妹が凌辱されるとしたら、彼を倒した後だ。……すまないが、彼女を抑えててくれ」
「あ、ああ」
シオンは悶えるリノの頭と肩をしっかりと押さえた。
「三崎も七川のそういう性質をよく分かっていたからこそ、妹のことはさほど気にかけなかったんだろう。かけられなかった、と言うべきか。ただでさえ仲間が立て続けに襲われ、仕事も軌道に乗り出したところだったようだからね」
「……リノは、セイヤさんや斬牙のみんなが大好きで、なんとかしたかったんだ。仲間を傷つけられて、きっと焦ってた。それに、寂しかったんだ……」
セイヤにリノをないがしろにしたつもりはなかったかもしれない。彼は群れのボスとしてやるべきことがたくさんあった。リノだけの彼ではなかった。そうと分かっていても、リノはまだ子供だ。家にも学校にも身の置き所が無く、兄だけが頼れる存在だったのだ。
「元々、子供の未熟な精神にはとり憑きやすいからね、特にこのぐらいの年頃の娘には」
今度は杖ではなく、ジャケットの下から石のついたペンダントを取り出した。
「浄化の魔石だ」
ペンダントを首から外し、仰向けにしたリノの左胸――心臓の位置だろう、その上に置く。
「んんーっ! んううううっ!」
「息が詰まるかもしれない。僕が詠唱を始めたら、口を外してやってくれ」
ハイジの言葉にシオンは頷いた。
「拠るべなき虚ろな魂よ、その器は此処に無く、仮初めの安寧は無い」
静かだが、凛とした声が、静かになったフロアに響く。
魔法と霊術は使えない人間からすれば同じように思えるが、必要な素養が違う。両方の素養を持つものもおり、死霊魔道士と呼ばれる者たちもそうだ。
「あああああああ!」
口を解放すると、リノが怒りの声を上げた。目を血走らせ、牙を剥き、ハイジを睨みつけている。シオンは彼女の頭を掴んで押さえた。
「縋るもの、魂の在り処を求め、嘆くもの。生は呪縛。死は解放」
「あああっアアアアアアッああああっ!」
絶叫するリノは、怒りではなく苦悶していた。リノの中のゴーストたちが抵抗し、苦しんでいる。依り代を手放すまいとしているのだ。
「現世に囚われしものよ。惑うことなく、円環にて眠りにつけ」
「い、やァッ……うわあアアあアァァァア……ッ!」
少女の目が白目を剥いた。口からは何重もの別人の声が絶叫している。
「もう一度唱える。しっかり押さえていてくれ」
リノの左胸に魔石を押し当てながら、ハイジが告げた。
「拠るべなき虚ろな魂よ、その器は此処に無く、仮初めの安寧は無い。縋るもの、魂の在り処を求め嘆くもの。生は呪縛。死は解放」
ハイジは根気良く除霊の呪文を繰り返し唱え続けた。
「現世に囚われしものよ。惑うことなく、円環にて眠りにつけ」
どれほど同じ呪文を唱えただろうか。激しく暴れていたリノがだんだんと力を失い、とうとうか細い悲鳴しか漏らさなくなった。
「……う、ぁ……お、にいちゃん……」
ぼんやりと焦点の合わない瞳に、かすかな光が宿った。
「……おにぃ……、ど、こ……?」
幼い子供のようにぐずる声は、たしかにリノのものだった。
「よし、もう抑えなくていい。代わりに手を握ったり、頭を撫でたり、落ち着かせてあげてくれ。この子の兄さんになったような気持ちで、慰めてやるんだ」
「あ……ああ」
シオンは頷き、リノの頭を撫でたり、手を強く握った。再び繰り返される詠唱の合間に、ハイジが告げる。
「声をかけて。励ますんだ。この器は彼女のものだと知覚させるんだ。彼女が自らの存在と魂を強く知覚することで、彼女は器の支配権を取り戻す」
シオンはリノの手を両手で握った。
「リノ、しっかりしろ。大丈夫だ、ここにいるから」
「お……にい……」
掠れた声で、リノが喘ぐ。しっかりと目が合って、シオンは頷いた。
「そうだ、リノ」
「おにいちゃ……い、いかないで……あ、たし、わるいこ、だけど……」
「大丈夫だ。行かない。誰もお前を置いて行かない」
「……う……」
ぼんやりとした目を上げ、リノが子供のように泣きじゃくる。
「……ごめん、なさっ……き、きらいに、ならないでっ……!」
「ならない。好きだよ。お前は……オレの大事な妹だ」
セイヤのこともリノのことも、深くは知らない。だが、セイヤならこう言うんじゃないかと思って、シオンはリノの手を強く握り、何度もその頭を撫でた。
「オレはお前のことを心配してる。だからもう、危ないことはしないでくれ。戻ってきれてくれ、リノ……頼む……」
「ふ、……うぐっ…………うんっ……おにいちゃんっ……!」
リノが大きく頷いたとき、ハイジがそれまでとは違う詠唱を口にした。
「迷い子よ、閉じない環から外れた魂よ、恐れるな。死は誕生。死は眠り。永遠を循環する魂は、ひとときの安寧ののち、また此処で、産声を上げるだろう」
「……ぁっ……!」
即時除霊の名のごとく、リノにとり憑いていた憑依霊が取り除かれ、昇華した。
それまで泣きじゃくっていたリノはぐったりとし、気を失っていた。
「……ゴーストは抜けたのか……?」
「抜けたよ」
ハイジがふうと息をつく。
こんな短時間で憑依霊を取り除いてしまうとは、かなり腕利きのシャーマンだ。
ハイジはにこりともせずに言った。
「良い兄ぶりだったよ。ナイス演技……って、どうして涙ぐんでいるんだ?」
「……あ」
シオンは小さく鼻を啜った。
「なんか……声かけてるうちにだんだん、ほんとにオレの妹みたいな気がしてきて……」
「……ああ、そう。単純だね」
「良かった……」
「いや、良くはないよ。親玉を叩かないと何も解決しない」
「あっ、そうだ! 浅羽たちや蒼兵衛もこのダンジョンにいるんだ!」
蒼兵衛はともかく、紅子とキキは心配だ。特に紅子はアンデッドとの戦いを経験したことがない。
「ハイジさん! 悪いけどリノを頼むっ……」
「待て。単純なうえに短絡的だな」
駆けだそうとしたところを、ハイジが静かだが強い口調で止める。
「冷静になれよ。いまこのダンジョンで動くなら、君程度のファイターじゃなくて、高レベルのシャーマンである僕だ」
「でも、オレの仲間が」
「僕は三崎誠也に雇われたと言っただろう。敵じゃない。どちらにしても君は僕を信用するしかない。そんな僕に彼女を簡単に預けようとしているじゃないか」
「……う」
「君がリーダーなら、誰よりも冷静に戦況を分析しろ。瞬時に、感情を挟まずに。君の姉さんは君と同じ歳で、それが出来た」
「それは……」
「仲間を信じているなら、君はここで彼女を守れ。アンデッドは僕の専門だ。心配するな、僕は冒険者として君より場数を踏んでる。貰った報酬のぶんだけしっかり働くさ」
ハイジの言うことは間違っていない。やんわりとだが、彼はきっぱりとシオンを突き放した。
それはこの場で、自分は戦力外だと言われたも同然だった。
「ぐあぁぁぁぁ!」
咆哮を上げ、オーガと見紛わんばかりの大男が太い腕を振り回す。
「うわわっ!」
キキが咄嗟にかがむと、頭上で腕が空を切った。ブンッという音が耳につく。腕というより、棍棒を振り回しているようだ。
(デカいのに速いよぉ!)
もう少し背が高かったら避けきれず顔面が潰れていた。チビで良かった。
(ほんとに人間っ!? オーガのハーフなんじゃないの!?)
目もイッてるし、動きの素早さもタフさも人間を超えている。何発も魔弾を撃ち込んだのに、まったく効いていない。
効いていないのではなく、痛みを感じていないのだ。衝撃を受けようが、火傷を負おうが、動きを止めないどころか、怯みもしない。
意思を感じさせない瞳は獣堕ちの亜人を思わせるが、獣堕ちだって大きな傷を負えば戦意を失くすのに。
少し前、上階から笛の音が聴こえたと思ったら、たちまちフロア内にモンスターが溢れた。それが、戦闘の合図であったかのように。
キキたちが部屋を飛び出し、廊下に出ると、ブラックドッグと遭遇した。倒したが、すぐにゾンビドッグとして蘇ってしまった。中々死なないゾンビドックとの戦闘中に、今度はオーガが二体現れた――と思ったら人間だった。
最初は人間だと思っていなかったのだが。
「あ、黒瀬兄弟だ」
と蒼星が言った。ストライブの幹部の人間らしく、人間離れした体躯と怪力を持つ双子の兄弟だという。
「でも、もっと普通の人間っぽかったけどな……」
ドラッグでも使ったのか、その様子は明らかにまともではなかった。目は血走り、スキンヘッドにくっきりと血管が浮き上がっていた。
とはいえ、モンスターではない。紅子に彼らを魔法で焼き払えとは言えない。ただでさえ、紅子はスランプなのだ。攻撃魔法はまだ使えない。
キキは二人に告げた。
「こいつらはあたしが倒すから、シオンたちを援護して!」
そう大見栄を切ると、紅子と蒼星はあっさり頷いた。
「分かりました、じゃあ、頑張ってくださいね」
「お願いね、キキちゃん!」
――そんなあっさり行くんかいっ!
と思ったが、言いだしたのは自分だ。
兄と同じく薄情そうな蒼星はともかく、紅子にまでさっさと置いて行かれるとは思わなかったが。
もっとも、魔法を使えない紅子がいても戦力にならない。蒼星は男なので自分の身くらいなんとかしろと思うが、紅子を守りながら戦うのは厳しい。
(あたしが戦わなきゃ! シオンにも頼まれたんだもん!)
「があぁぁぁっ!」
「おわっ!」
咆哮を上げながら腕を振り回す大男をかいくぐると、もう一人、そっくりの大男が待ち構えていたようにキキを捕えようとする。
「あわわわっ」
咄嗟に這いつくばって、素早く股下をくぐり抜ける。
当たったら終わりだ。一発で頭蓋が割れ、首が折れる。人間よりは丈夫なつもりだが、試してみる気はない。
四方から伸びてくるように思える四本の腕をかいくぐり、逃げ回る。小柄な体で地を這うように動くキキに、男たちも戦いづらさを感じているようだ。
廃墟ダンジョンの瓦礫は男たちの足を取り動きを鈍らせるが、キキにとっては戦いやすいフィールドだった。
(足場が悪いとこなら、鉱山ダンジョンにおじいちゃんたちと行き慣れてるもんね!)
それに、リザードマンに囲まれて育ったキキは、男たちの巨躯に臆することもない。昔から大きなみんなにじゃれついて遊んでいたのだ。こんなデカブツ怖くもなんともないのだが――。
「銃を撃つヒマがねえっ!」
だが、逃げてばかりではらちがあかない。反撃をしなくては、いずれやられる。
――こんな人間ごときに!
「うがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
〈轟声〉を上げ、キキは自身を鼓舞した。
オーガ男たちの筋肉でコーティングされた肉体に、キキの小さい拳や蹴りを入れたところで、大したダメージは受けないだろう。いつものダンジョン探索なら、ハンマーや槍を背負っているのに。いまは身一つと、魔銃だけ。
それならそれで、戦い方はある。
かつてシオンが、獣堕ちリザードマンの急所を貫いた姿を思い出した。あんなふうに。
「鍛えられないとこあんだろぉぉぉぉっ!」
どっちが兄だか弟だか知らないが、突っ込んできた男の拳を避け、逆に懐に飛び込む。そのまま二メートルはあろうかという巨体に張り付き、壁を這うトカゲのようにスルスルスルと素早く男の背中に這い上がる。拳を当てられない真後ろから、男の肩まで一瞬でよじ登り、スキンヘッドの頭をがっしり掴み、片方の耳に噛みついた。
「ふんがっ!」
「ぐあああっ!」
耳を噛み千切られた男の側頭部から血が吹き出した。戦闘で動き回ってるせいか勢いよく血が出た。すぐさまもう一方の耳も噛み千切る。
「うおあぁぁぁぁぁぁっ!」
初めてダメージらしいダメージを与えられたようだ。もう一人がキキの首根っこを掴んで引きずり下ろそうとしたが、すんでのところで飛び退く。
「こっ……の、クソガキがぁぁぁぁっ!」
「うっそ! 喋れたのっ!?」
両耳が半分千切れてぶら下がっている男が、怒りに血走った目を向ける。闘争心が削がれるどころか、ますますいきり立っていた。
「人間風情がリザードマンに喧嘩売るほうが悪いんだよっ!」
ぺっとキキは血を吐き出した。
「出っ張ってるとこぜんぶ噛み千切ってやらぁ!」
ガチガチと歯を鳴らして威嚇するキキに、男たちは今度はむやみに手を出してこなくなった。
(ええー!? 冷静になんなよぉ! もっとキレて向かって来いよぉ!)
そのほうが付け入る隙が増えるのに。
(ええと、なんかすごい腹立つような悪口あるかな……ハゲ?)
男たちを興奮させる方法を考えていると、彼らは急にブツブツと呟き出した。
「……クソガキ……殺してやる……こっちに引きずり込んでやる……」
「は?」
「生きている……憎い……若くて、羨ましい……コドモ……」
ボソボソと呟く男たちの声が、何重にも重なって聴こえた。
「ん? んー……? よく分からん! あと誰がクソガキだっ!」
深く考えることが嫌いなキキは、腰のホルダーから魔銃を取り出し、衝撃弾を撃つ。オーガ男たちの手足を狙い、その皮膚と肉を確実に抉っているのに、やはり怯まない。
「どんだけヤバいクスリ決めてんの……」
「ぐぉあぁぁぁぁぁ!」
男の一人が突進してきた。俊敏な巨漢での体当たりは、キックやパンチより厄介だ。しかも挟みうちするかのように、二人同時に。
(自滅しろ!)
すぐにしゃがみ、地を這って逃げようとすると、そこに血まみれの女の顔が浮かんでいた。
「おぎゃぁぁぁぁぁぁっ!?」
レイスは驚くキキを見て、にやっと笑って消えた。驚いて尻もちをついたキキは、完全に逃げるタイミングを逃し、すでに男たちの巨体が迫っていた。
「しまっ……」
やべ。これミンチだ。と思うと同時に、脳裏に大好きなおじいちゃんとおばあちゃんの顔が浮かんだ。いつもキキを可愛がってくれたゲロ甘なおじいちゃん、おばあちゃんの鉄拳制裁パンチ、頭が割れるほど痛かった……。
(ってこれ走馬灯じゃん!?)
冗談じゃないと思うキキの体は、次の瞬間吹き飛んでいた。
「キキちゃん、吹っ飛んで!」
間の抜けた声と同時に。
「――えっ!?」
宙に放り出されたキキは、廊下の端に逃げたはずの女魔道士がいるのを見て、目を見開いた。
「紅子!」
オーガ男たちはそのまま互いに突っ込み、ぶつかり合って自滅した。間にキキを挟んだとしても、互いの身も無事では済まない捨て身の突進だ。死も、自分の身も顧みない攻撃に、キキもぞっとした。
(ただの不良のケンカじゃないの……?)
人間が、何をそこまでして戦うのだろう。
(――って、あたしもやべえっ!)
瓦礫の上にそのまま落ちそうになり、慌てて受け身を取ろうとしたら、ものすごい勢いで走ってきた少年にキャッチされた。
「あがっ!」
「いってえぇっ!」
助けてくれた蒼星の頭に、落下してきたキキの頭がぶつかり、蒼星が大きな悲鳴を上げ、キキを放り出して頭を抱えた。
「ぐぁぁぁっ、すごい鉄頭ぁぁ!」
「あっ、お前は薄情者の弟! 逃げたんじゃなかったの?」
しばらく蒼星はのたうち回って、ヨロヨロと立ち上がった。落ちた眼鏡を拾ってかけ直し、涙目で言う。
「……逃げたかったけど、紅子さんが逃げるフリして隙を伺おうって言うから……人の好さそうな顔して、平然と仲間を囮にしたりするんですね、あの人……」
「紅子が?」
そういうタイプじゃないはずだけど……と思いつつ、紅子のほうを見る。
紅子は短杖を構え、詠唱を開始している。
「世界を循環する魂よ、あるべき姿を取り戻せ」
オーガ男のうちの一人が、顔面を血まみれにしながらもフラフラと立ち上がった。
「……あぁ……生きている人間……綺麗な、娘……大きな、魔力……」
紅子に向き直ったその目は、執着に満ちていた。それが彼らを突き動かしている。
「絶えることなき生死の円環を外れし邪道の魂よ。留まるな。流れよ。抗うな。息絶えよ」
「……むす、め……わかイ……おンな……」
男の顔面は血に濡れ、鼻はひしゃげ、目は血走っている。異様な姿にも、紅子は顔色一つ変えず、詠唱を続けた。
「器無き魂にこの世の安息は訪れず、彷徨い続けるは永遠の牢獄」
「あぁ……憎たラ……しイ、殺……ス……!」
オーガ男の口から漏れているのは、何重にも重なった、複数の女の声だった。
あっとキキは叫んだ。
「憑依霊だったんだ! コイツら、憑かれてやがる!」
慌てて魔銃に、退魔弾を詰め直した。
「喰らえっ!」
連続して撃ち込むが、そのへんの低級レイスと違って、憑依霊は簡単に滅しない。
「……んなもん……効かねえよぉ、クソガキ……」
ひひっ、と男の声が混ざる。器の持ち主の声だろう。
「……うひ……ヒュウガさん……強く……して……くれ、もっと……」
血走った目がぐるんと白目を向き、今度は女の声になる。
「囚われるな。その生はすでに此処に無し。その死も此処に無し」
「……ね、ぇ……こん、なからだ、より、そのからだを、ちょうだい……」
女の声で喋る不気味な大男が、紅子に向かってゆらりと手を伸ばす。
「ああ、憑依霊って女性の怨念が多いって言いますよね」
「のんびり言うなっ! 紅子ぉっ! いま助けてやっ……」
「――受け入れろ」
キキが駆け出そうとしたとき、紅子が魔法を完成させた。
「その逡巡を断ち切る、二度目の刃を!」
「アガアァァァぁあああああっ……!」
オーガ男が身悶え、その口から男と女両方の悲鳴が上がった。倒れている男のほうも同様だ。
「ああアァあがあああっ……イヤ、だ、きえたく、なッ……ぁ……」
「消えて!」
紅子が強い口調で命じ、杖を突き出す。男たちの体が大きく跳ねた。
「――消えろ!」
オーガ男たちが瓦礫の上をゴロゴロとのたうち回る。が、徐々にその動きも鈍くなる。
「退魔……精神魔法といい、あんな高等な魔法まで使えるなんて、すごいな……しかもさっきの詠唱、森塔式だ」
蒼星が呟いた。同じ呪文でも詠唱によって威力が違う。詠唱式には作成者の名が入る。森塔式はかなり高等な詠唱式で有名だ。難しいぶん、発動すれば威力は絶大だ。
紅子はすでに次の魔法を準備していた。
「敵対者よ、屈服しろ。肉体よ、魂よ、我が支配に下れ。我が魔力よ、縛鎖となれ!」
「〈拘束〉! あんなのも使えるんだ、紅子!」
キキも思わず声を上げた。
紅子の束縛魔法の力は強く、圧倒的な魔力の前に、男たちが完全に動きを封じられた。
「あんなすごい魔道士が、どうして兄なんかとパーティー組んでるんですか?」
「え?」
蒼星の言葉に、キキは目をしばたたかせた。
「たしかに兄は腕は立ちますけど、まともじゃないし。普通に強くてもっとまともな冒険者とパーティー組めるでしょう。あんなすごいソーサラーなら、高レベルパーティーにだって求められるんじゃないですか」
キキはきょとんとした。
たしかに、紅子の魔力はすごい。かつて、死にかけた国重を救ったほどだ。
魔力はすごい。でも、あのときだってずっとパニクってた。
いつも初心者冒険者丸出しで、初めてのダンジョンやモンスターに驚いたり、戸惑ったり、戦闘ではおろおろして焦ってばかりだ。
荷物には食べ物ばかりパンパンに詰めて、動きものろのろと遅くて、魔法でシオンを焼いたりもした。
自分は足を引っ張ってばかりだと、気落ちしてばかりの紅子。とうとう、スランプにまでなってしまった。
だから、紅子を守ってやらなければとキキは思ったし、シオンも同じだろう。
だって、あたしたちが冒険者の先輩なんだもん。
――ずっとそう思っていた。
「……紅子……」
強力な魔法を連発した紅子は、いつの間にかポニーテールが解け、長い黒髪が魔力の奔流でふわりと浮き上がり、その瞳は赤く色づいているように見えた。
手には簡素な携帯用の短杖を持っていたが、はめ込まれた魔石の部分が砕けていた。注ぎ込まれる紅子の魔力に耐えきれなかったのだろう。
(なんか、紅子じゃないみたい……)
いつも表情豊かで、明るい紅子が、なんだか魂の無い人形みたいに見える。
ちゃんとした詠唱の魔法だからだろうか、唱えているとき、どこか冷たく感じられたのだ。
おじいちゃんを助けてくれたときは、すごくあったかい、優しい魔力に溢れてたように思うのに……。
「まぁいいや。いまのうちに黒瀬兄弟をふんじばりましょう」
「あっ……お、おうっ!」
蒼星の言葉に、キキはハッとした。慌てて荷物を取りに行く。
「う、うまくいったぁ~……!」
緊張の糸が切れたのか、ぺたんと紅子がその場にへたり込む。
「ちゃ、ちゃんと唱えられたよぉ~……おじいちゃんの魔法しか使ったことなかったから、不安だったぁ~……」
良かったぁと何度も言って息を吐く紅子は、いつもの紅子だった。
「このロープは、リザードマンだって千切れないよっ!」
〈拘束〉が効いているうちに、特製のロープでオーガ男たちの手足と胴体を縛り上げる。
「うわ、耳が千切れてる……一体どんな戦い方を……」
「この人たち、後でちゃんと除霊しないと、私、退魔は得意じゃないから……」
「ま、後でねっ」
不安げな紅子に、キキは軽く告げた。その背中をぽんぽんと叩く。
「つーかスランプ脱出じゃん! バリバリ魔法使ってかっこよかったよ!」
「あ……ごめんね、キキちゃん、逃げたフリして……。怪我、治すね」
「いいのいいの、キキちゃんはそんなにダメージ受けてないよっ! 温存しとこっ」
「俺の頭蓋のほうがダメージすごいです」
「紅子にしては考えて戦ったじゃん! まさかこのキキちゃんを囮にするとはね……まあ許しちゃるけど」
「ご、ごめんね……魔道士なりの戦い方を、お兄ちゃんに習って。お兄ちゃんも戦闘魔道士の訓練を受けたことがあるんだって。でも、そんなに強くなれなかったから、強くない魔道士なりの戦い方を身に着けたって……」
「へー。どんなの?」
「逃げたふりして隠れて魔法を使うとか、怪我したふりして油断させて魔法を使うとか、土下座して降参するふりして魔法を使うとか……」
「卑怯系か」
「そういやキキちゃんは透哉お兄ちゃんに会ったことなかったね。今度紹介するね」
紅子がにこりと笑う。キキはその顔をじっと見た。
「キ、キキちゃん……?」
「で、スランプ治ったの?」
「あ……どうだろ。攻撃魔法以外なら大丈夫……かな?」
「ふーん……あっ、そうだ。なんであんときキキちゃん吹っ飛ばしたの? アイツら吹っ飛ばせば良かったんじゃない?」
「軽いから吹っ飛びやすいかと思って……」
「おい」
「それに攻撃は自信無かったけど、キキちゃんを助けるって気持ちでなら上手くいくと思ったの。蒼星くんがキャッチしてくれるって言ってくれたし……」
「やるんじゃなかったとは思ってます」
「誰かを攻撃するよりはと思って、咄嗟に……」
「まぁいいけどさ」
「ごめんね……」
「いいよ。あたしは寛大な女だからねっ」
「ほんとにごめんね、囮にしちゃって……」
「いいよいいよっ! それってあたしが強いから、任せたってことでしょ!」
キキが胸をどんと叩く。
「うん……。前に、小野原くんを変に援護しようとして、燃やしちゃったでしょう……? それは私が小野原くんの強さを信じて無かったから……」
「うんうん」
「でも、キキちゃんがすごく強いってこと、知ってるから……今度はちゃんと信じようと思ったの」
「うんうん!」
キキが嬉しげに、大きく頷く。
紅子も笑って頷いていたが、本当は動悸が激しく、止まらなかった。
上手くいったけれど、魔法が発動していなかったら……コントロールを間違っていたらと思うと恐ろしい。
だけど。
(やらなきゃ……)
実戦で学んでいくということは、それだけ仲間に盾になってもらうということだ。
「あっ、おじいちゃん取ってこなきゃ!」
キキは戦闘前に下ろしたリュックを取りに、慌てて部屋に戻った。戻って来たとき、背にはリュックを、腕にリザードマンのぬいぐるみをぎゅっと抱えていた。
「いや、それしまっときましょうよ。汚れるんじゃないかな」
蒼星が冷静に突っ込むが、キキはぬいぐるみに顔を埋め、真顔で答えた。
「いま、キキちゃんはおじいちゃんを補給中だから……」
「ガ、ガチのジジコン……」
「おじいちゃん、キキがんばった。強かったよ」
「しかも自分で言う……」
話しかけながらぎゅうぎゅうとぬいぐるみを抱くキキを、蒼星は顔をしかめながら、紅子は微笑みながら見つめていたが、頭の中では別のことを考えていた。
――魔法は反射で使え。瞬時にスイッチを入れろ。
師である草間の言葉だ。
紅子は思考せずに魔法を使うタイプだと彼は教えてくれた。
――感性タイプの強みを発揮するには、単純であること。中途半端に複雑化させるくらいなら、徹底的に思考を捨て去れ。感情で魔法を使うのではなく、人形になりきれ。
人形になりきる。
スイッチを入れる。
何度も頭の中で反芻する。
(……瞬時にスイッチを入れる……思考を捨てる……人形になる……)
言葉を話すよりも容易く魔法を使えていた、そんな子供のころの記憶が、おぼろげにだがある。魔法は怖いものじゃない。光を灯し、体を癒し、怖いものから守ってくれたもの。
あのときは、きっと何も難しいことは考えていなかった。ただ感じるがままに、好きに魔法が使えていた。
じゃあ、いまの私は?
どんなふうに、魔法を使いたいの?
心から自分が望んだ、魔法のあり方。
それを、ずっとずっと考えていた。
(小野原くんや、みんなを守りたい……)
敵を倒すためではなく、仲間を守るために。
それならきっと、臆さずに使える。
そうだ。
(みんなを守るためになら……私は、魔法を使える……)
二人の男が蒼兵衛に向かってきた。一人は細身のすらりとした肉体で、素早く間合いを詰めてきて、もう一人は鍛え上げた巨体でタックルしてきた。気合いの声の代わりにオオオオと低い唸り声を上げている。アンデッドの唸りのようだ。
「憑依か……陰気な死霊魔術だな」
ヒュウガに忠実に従う男たちは、その器に低級な霊を憑依させられている状態なのだろう。自我のある人間に霊を憑依させるのは、並みのシャーマンではまず無理だ。かなり下準備が必要だし、高等な魔術と霊術を駆使しなければならない。
「有能なシャーマンになれただろうに。その才能を別のところで使えていたら、シオンが仲間にしたがっただろうな」
巨漢の男が掴みかかってきたと同時に、もう一人が拳撃を繰り出してきた。レスラータイプとボクサータイプのようだが、いずれも動きは素早い。それを蒼兵衛は極少の動きで避け、木刀を振り抜いた。
一瞬でトロルを突き殺す素早さで、男たちの足を打ち据える。
「抑えろ! そいつらはアンデッドと変わらん! どれだけ痛めつけても同じだ。俺が倒したらすぐに抑え込め!」
仲間たちに向かって蒼兵衛が叫ぶ。
骨が折れる感触があったにもかかわらず、男たちは砕けた足でよろよろと立ち上がった。皮パンツのポケットから折り畳みナイフを取り出す。
「……紅子はこっちに貰えば良かったな」
アンデッドはどれほど傷ついても痛みを感じず、首を切り離してさえ動く者もいる。それほどのしぶとさを彼らが持っているとなると、これはアンデッドを相手にするより厄介だ。アンデッドなら肉片になるまで叩き潰せば良いが、生きている人間なら殺すわけにいかない。
動きを止める〈拘束〉の魔法で自由を奪うのが手っ取り早い。
「だが、いないものは仕方ない。全員、足を折る」
襲いかかってくるストライブのメンバーを、蒼兵衛は雑魚モンスターを屠るように倒して行く。動きが鈍ったところを斬牙のメンバーが縛っていく。
「ソウさん! ブラックドッグが!」
「殺すなよ。ネクロマンサーにゾンビドッグにされるのがオチだ」
憑依された男たちに、ブラックドッグ。だんだんと蒼兵衛一人では処理出来なくなり、ホテルの前から道路にまでなだれ出ての乱戦になった。
「よくこんなに潜ませてたな、あいつは……。ダンジョン経営でも始めるつもりか……」
ホテル中から響くアンデッドスクリームが、斬牙のワーキャットたちの動きを鈍らせている。逆に、アンデッドと化したストライブの連中は、疲れも恐れも痛みも覚えず向かってくる。
「ソウさん!」
近くにいたリョータが叫んだ。二人の男を相手にしながら、蒼兵衛に声をかける。
「オレたちはいいんで、ヒュウガを……がっ!」
突如飛んできた魔弾に、リョータの体が跳ね飛ばされる。
「魔弾だ!」
誰かが叫んだ。建物内に消えたヒュウガが、どこからか撃ってきたのだろう。魔銃は威力で本物の銃にも魔法にも劣るが、魔法で風を操りながら撃てば射程距離を伸ばせる。高等な技ではあるが。
蒼兵衛は建物を見上げたが、窓からこちらを見つめるレイスと目が合っただけだった。
「ここで奴を探しても一緒か……!」
蒼兵衛は舌打ちし、仲間の援護に切り替えた。不意を突かれ倒れたリョータに、たちまち敵が殺到する。
「我よ刃となれ、刃よ我となれ!」
〈硬化〉を武器付与された木刀が、ぼんやりと青い光を纏う。
リョータの許に集まった敵をまとめて薙ぎ払う。リョータも素早く起き上がり、襲ってきたブラックドックを蹴り返す。
「ソウさん、すいません!」
「俺に女を紹介するまでくたばるな」
と言って、飛びかかってきたブラックドッグの頭を木刀で咄嗟に砕く。
「あ、しまった。倒してしまった」
「殺したらゾンビドッグになりますよ!」
「分かっているが、この状況で手加減なんて出来るか!」
「自分で言ったのに!?」
「ゴースト付きの兵隊に、モンスターまで飼っていやがったとは……完全に悪の総帥だ」
時折放たれる魔弾は、混戦の中で的確に斬牙のワーキャットたちを撃ち抜いた。
「がっ!」
魔法に弱いワーキャットに、魔弾は相性が悪い。一人が二人以上を相手にしている状態で、ブラックドッグの奇襲も受けている。
仲間の援護をしながら、何体かのブラックドッグを思わず倒してしまい、もっと厄介なゾンビドッグに変貌する。
「完全に待ち伏せされていたな。俺たちが今晩この場に来ることが分かっていた奴というとかなり限られるんだが……リョータ、お前じゃないよな?」
「なんてこと言うんすかっ!?」
「冗談だ」
「でも、兵隊を倒しても、これじゃ拘束してるヒマがないっすね……。ソウさんはヒュウガをヤッてきてください!」
「で、戻ってきたらお前らが全員ゾンビ化してるんだろ……」
「やなこと言わないでくださいよ! まぁヤラれてるかもしれないですけど!」
「戦力差がエグいな……しかもハンデ戦だ」
敵は痛みも恐怖も感じず、ナイフや警棒まで使い、殺す気で向かってくる。一方斬牙側は相手を殺せない。ブラックドッグにゾンビドッグ、レイスのアンデッドスクリーム、そのうえ、どこから飛んでくるか分からない魔弾。数も斬牙は十人ほど、ストライブは三十人を超えている。まだ建物の中に潜んでいる可能性もある。
「殺せるだけモンスターのほうが楽だな……!」
蒼兵衛が呟いたとき、建物から魔弾が放たれた。近くのストライブメンバーの首根っこを掴み、盾にした。
「〈柊魔刀流奥義・身代わり御免〉!」
「その技、いま作りませんでした!?」
盾にされた男は魔弾の衝撃を受け、直後に蒼兵衛の木刀で足を砕かれ、倒れた。
「ソウさん、車が近づいてるっ……!」
耳をピンと立たせながらリョータが叫んだ。
「新手か。俺はともかくお前らは終わったな……」
「だからやなこと言わないでくださいよ!」
ホテル前に車が何台も停まり、ヒュウガの兵隊たちが新たにやって来たと、斬牙のメンバーは誰もが思った。
停まったミニバンやワゴンからバタバタと男たちが降りてきた。いずれもワーキャットで、揃いの作業着を着ている。
最初に下りて来たワーキャットの男が、大きな声で告げた。
「兵隊は憑依霊に憑かれてる、狙うのは足だ! 倒したらすぐに拘束しろ! 犬どもには捕獲用ネットを使えよ!」
「セイヤさん!」
「ボスだ!」
戦っていた斬牙のメンバーたちから歓声が上がった。
「……呼んでねーよ」
蒼兵衛は小さく呟き、同時に襲いかかってきたストライブとブラックドッグの足を的確に突き砕いた。傍目には一発突いただけに見える高速の突きだ。
はぁ、と息をつき、乱れた髪をぐしゃぐしゃと掻く。
「俺のほうが助けられる形になったじゃねーか、クソ……」
「いや、んなこと拘ってねーから」
近づいてきたセイヤが苦笑いで言った。彼が仲間を連れてやって来たことで、戦況は一変した。バックアップの仕事に使っている車の中には、対モンスターに使う道具が積んである。ワーキャットたちはそれぞれ役割を分担し、素早く動いた。
見る見る敵が捕らえられていき、蒼兵衛も木刀を下ろした。
親友が笑って言った。
「お前、帰ってきて早々にケンカかよ。ぜんぜん変わってねーな」
「……俺がいない間に、ずいぶんいいようにされてたみたいだな」
「まぁな」
「仲間もずいぶんヤラれたらしいな」
「ああ。はらわたが煮えくり返るみてーだったぜ。けど、もう、ケンカで済む問題じゃねーからな。どーしたらいーのか、煮詰まってたよ、正直。会社のために耐え続けるか、でもそれでみんなが仕事出来なくなるんじゃ、会社を作った意味もねーんじゃねーかとかさ……」
セイヤは自嘲気味に言い、蒼兵衛を見た。
「相談する奴もいねーしよ」
それは多くの若者をまとめるボスとして、誰にも言えなかった本音に違いない。ようやく吐露出来て、セイヤはすっとしたような顔をした。
彼は大勢の仲間から尊敬の目を向けられていた。斬牙の皆も、シリンも、リノも、誰もが精神的に彼に頼っていた。そんなセイヤが軽口を叩ける相手は、自分しかいなかったのだと、いまになって蒼兵衛は気づいた。
当たり前過ぎて、そんなことに思い当らなかった。
自分にとってはセイヤはボスでもなんでもなく、普通の男で、ただの友達だった。
「お前にとっても、俺は大事な親友だったんだな……」
「そういうの、自分で言うセリフじゃねーよ。まぁ……でも、まぁな。そうだよ、親友だ」
「大事な」
「……だ、大事な親友だよ」
セイヤは顔を引きつらせながら、照れくさそうにポリポリと耳の裏を掻いた。蒼兵衛は真顔で、どこか満足そうに頷いた。
「そうか、親友。やっぱり俺がいないと駄目みたいだな、親友」
「もうやめろ……。でも、そーだな。お前が動いてくれたから、オレも腹を括れた」
「……やっぱ仕事に支障出るよな?」
「出る。けど、これで良かったんだ。決着をつけなかったのはオレの責任だ。ありがとな、蒼樹。お前が戻ってきてくれて、良かった」
「もっと感謝してくれていいぞ、親友」
「ありがとう、蒼樹。戻ってきてくれて」
「……やっぱ気持ち悪いな、やめよう」
「そーだろ」
セイヤは黒いカットソーにミリタリーパンツという軽装に、腰に武器を下げていた。なるべく身軽に、ワーキャットの特性を生かす戦いをするための装備だ。
それを見て、蒼兵衛は言った。
「いい加減腹立つから、ヒュウガをぶっ倒すぞ。会社はもういいんだな?」
「ああ。ダメになっても、また一からやりゃいいさ」
「本当に本当にいいんだな?」
「いいって」
「……後になってお前のせいだとかグチグチ言うなよ?」
「お前じゃあるまいし、オレがグチグチ言ったことあるかよ」
「『だからお前はシリンにフラれるんだよ』っていま思っただろ!?」
「思ってねーよ……お前、マジでなんも変わってねーな……その被害妄想……。仲間の苦労がうかがい知れるぜ……」
「何を言う。ガキどもは俺を慕ってやまんぞ。強い侍さんは大人気だ」
「どうだかなー」
セイヤは呆れたように息をついて、笑った。その肩を、拳でトンと突く。
「変わってなくて安心した。本当に、ありがとな」
今回登場した灰児は外伝にも出てきます。
「デストラクション・ガール ―迷宮のドールズ外伝―」
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