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迷宮のドールズ  作者: オグリ
二章
45/88

告白

 駅を挟み、二つの不良チームの縄張りは分かれている。南は〈斬牙〉、北が〈ストライブ〉。

 リョータたち斬牙のメンバーが駅の南側で待機し、仕事に行ったヒロも車で町中をうろうろ流しているから何かあったら連絡をくれ、と言ってくれた。

 北口から出た町は、駅前からすでに荒んでいた。路上にゴミや煙草の吸殻が散乱し、駅や案内板には落書きだらけだ。

 こういう町は他にもある。魔素が濃いのだろう。体調に支障をきたすほどではなくとも、魔素濃度が高い場所を人間は嫌う。土地の値段が下がり、自然と貧しい者ばかりが集まる。

 それでいて、そういう場所に限って大きな歓楽街や風俗街があり、賑わっているから不思議だ。

 とはいえ、昼の歓楽街は静かだ。夜の喧噪の名残のなのか、空のビール缶やコンビニの袋が道のいたるところに転がっている。道の両側にはシャッターの閉じた飲み屋が立ち並び、商売人たちが自分の店先だけはきっちりと掃除している。

「ほとんどの店は閉まってるな」

 電気のついていないスナックやバーの看板を見ながら、シオンは呟いた。

「の、飲み屋さんだもん……開くのは夜だよ」

 後ろから小さな声が答える。

「そっか。ラブホテル街はもっと先だな」

「ヒィッ」

 背中から変な声が上がり、シオンは振り返った。さっきから『ラブホテル』という単語だけで悲鳴を上げている彼女は、シオンの三メートルほど後ろを歩いていた。

「あのさ、浅羽……」

「う、うんっ!」

「……もう少し近く歩かないか?」

「あっ、そ、そうですねっ!」

 頷きつつ、近づいてこない紅子は、それどころか余計に離れていく。

 シオンも『このあたりによくいる不良ワーキャット』風の変装をリノに施されたが、紅子も彼女の手によっていつもと違う髪型と服装をしていた。

 緩くウェーブさせた髪をサイドでポニーテールにし、大きく肩を出したカットソー、フリルの付いたミニスカートを履いている。

「二人とも、少し化粧するからね。あんまり若く見えるとマズいでしょ」

 とリノに言われ、まさか自分まで顔に粉をはたかれ、目尻に線を引かれるとは思わなかったが、仕方が無いと諦めた。

 シオンは髪や耳や尻尾の色まで変えたというのに、女子はいつもと少し違う服装をしただけでずいぶん違って見える。冒険者をやっているとはとても思えない、可愛い女の子なんだと改めて思った。

 道の端で座り込んでいる初老のワーキャットが、横を通りすぎる紅子の姿をじろじろと見ていた。カップ酒を手にし、顔を赤らめたホームレスのワーキャットは、すすけた毛色に白髪がまだらに交じっている。堂々を首を伸ばし、紅子のスカートの中を思いきり覗き込もうとしていた。

 そんなことにも気づかずもたもたと歩く紅子に、シオンは思わず言った。

「手、繋いでいいか?」

「えええっ!」

 紅子の声にさっきのホームレスがぎょっとしてそそくさを目を背けた。

「いや、なんか一人で歩いてるように見えると、危ないかと思って。なんか、どんどん離れてくし」

「おっ、お構いなくっ!」

「……じゃあ、オレも気をつけて歩くよ」

「す、すみませんっ」

「あのさ」

「なっ、なんでございましょう!?」

「普通に喋ってくれ……」

「はひ……」

 手を繋ぐチャンスを自らふいにした紅子だったが、いまそれをやってしまうと全身から魔力が吹き出る危険性がある。

 一方シオンも内心で反省していた。恋人のふりをして風俗街にやって来たとはいえ、手を繋ぐなんて女子にとっては嫌だろう。もしかしたら人間には不快な臭いがしているかもしれないし……と、学生時代のトラウマが刺激されていた。

 それぞれがそっとため息をついたことに、もちろん互いに気づいてもいない。シオンは話題を変えることにした。

「浅羽さ、今日もしかして調子悪いのか?」

 間にキキ一人ぶんの距離を空けて歩きながら、紅子に尋ねた。

「えっ、ど、どうしてっ?」

「どうしてって、その声……というか、魔力か? 浅羽が叫ぶたびに、《轟声バジング》みたいなの出るだろ。それも魔法なのか?」

「ああっ、こ、これはね、コントロールをしなきゃって、意識しないようにしてて、ずっと抑えなきゃ抑えなきゃってって思ってたの。でもどうせ抑えられないから、やめたの」

「やめた? 力を抑えるのを?」

「私、小さいころ、魔力のコントロールぜんぜん出来なかったの。嫌なことがあるとすぐに大声で泣いてたんだって。それで周りに迷惑かけてたの」

 話しながら、紅子の表情が暗くなる。

「……鬱陶しがられてたなぁ、死んだお兄ちゃんに……」

「子供のころの記憶だろ? きっとそんなことないよ」

「あるよぉ……仲良くしてもらったことなんて一度も無かったもん……。お兄ちゃんは頭が良くて、真面目で、子供のときから難しい魔法使えてさ。こっことぜんぜん違うの」

「へえ」

 苦手だった兄の話をしながら、まるで透哉と話すときのように気安い口調になったことがシオンには嬉しかった。もっと気を抜いて話してくれたら、何か力になれることがあるかもしれない。いや、魔法のことについてはからっきしなのだが。愚痴くらいは聞ける……はずだ。

「でも、浅羽は俺が見てきた中で一番すごいソーサラーだよ」

「それはソーサラーが少ないからじゃないかなぁ……。うちは家族がみんな魔法使えるし、透哉お兄ちゃんはよく言ってるよ、『すごい魔法が使えることが良い魔道士なわけじゃない。人に迷惑をかけない魔道士が良い魔道士だ』って」

「迷惑?」

「迷惑でしょ? コントロール出来ずにただ垂れ流れてる魔力なんて騒音と変わらないってお兄ちゃん言ってるもん。あ、これは透哉お兄ちゃんが」

「さっきみたいな声か」

 肩を落とし、こくんと頷く。

「私って、元々コントロールが下手なんだ……。いまはどうせコントロール出来ないんなら、下手に抑えようとしなくていいって、師匠もお兄ちゃんも」

「大丈夫なのか?」

「うん。集中も詠唱も無い、垂れ流しの魔力にたいした力は無いの。《不死者の叫びアンデッドスクリーム》って小野原くん知ってる?」

「ゴースト系のモンスターが出すやつだろ」

「そうそう、怖くなったり不快になったりするやつ。リザードマンの《轟声バジング》よりは、そっちに近いかなぁ。ガラスに爪立ててキーキー引っ掻く音って耳障りだよね、あんなかんじ。精神がぞわぞわするような声をゴーストが出すのは、精神体だから。器が無いから物理的な干渉は出来ないけど、精神には強く干渉出来る。だからゴーストには魔法がよく通るんだけど」

「うん」

「ゴーストって魔力の塊みたいなものでしょう。魔力の強過ぎる子供の泣き声って、アンデッドスクリームみたいになっちゃうんだ。でもゴーストみたいに怨念が無いから、それほど攻撃的でもなくって。《魔法使いの慟哭ソーサラーズウェイル》って言って、たいていは成長するにつれて落ち着くの。大人になると無意識に力をコントロール出来るようになるから、かえって出せなくなっちゃうんだって」

「そうなのか」

 シオンはゴーストの出るダンジョンをいままで避けてきた。精神力の弱いワーキャットに、アンデッドスクリームはてきめんに効くからだ。さっき紅子の叫び声にリノたちが耳を押さえ苦しんでいたのもそういうことだ。人間の蒼兵衛やリザードマンのキキにはさほど効いていなかった。

 シオンはそれほど不快に感じなかったのは、冒険者として場数を踏んでいることもあるが、桜の魔石のおかげでもあるだろう。思っているよりもかなり質の良い石なのかもしれない。いまも豹柄ストールの下に身に着けている。普段は気にしていなくても、こういうときに強く恩恵を感じるから、魔石も立派な装備品と言えるだろう。以前セイヤにアドバイスされたように、他の魔石も購入して身に着けておこうかと思った。

「魔力のコントロールの基本は、『恐れ』を知ることからだって、師匠が言ってた。知性と理性がつけば無意識に制御セーブをかけるようになるの」

「なんとなく分かる」

「自らの炎が自らを焼くかもしれない、その恐れが、自然と力を弱めるんだって」

「この前までの浅羽の状態って、それなんじゃないか?」

「うん。そうなの」

 話しているうちに、いつもの紅子になっていた。動揺しやすいが落ち着くのも早いよな、とシオンは思い、これからはこういうパーティーメンバーそれぞれの性格をしっかり把握しておかなきゃなと、とリーダーらしく考えた。

「じゃあ、いまは治ったのか?」

「ううん、治ってないけど……ただ、魔法使わないことにしたの。使わなければ失敗することもないから。炎を出さなければ燃やしちゃうこともないし……それで、もうコントロールしなくていいんだって思ったら、今度はいきなり緩んじゃって……」

「……なんか、大変そうだけど……無理はするなよ」

「うん……しばらくゆるゆるだったらごめんね……でも、荷物持ちとかするし、私けっこう力あるから……」

「いいよ。そもそも浅羽の役割は魔法だけじゃないだろ」

「えっ? そうだっけ?」

「うん。それに足りないところを助け合うからパーティーなんだろ。たとえば、また鬼熊みたいな大型モンスターと戦うときがあったら、オレは蒼兵衛や浅羽のサポートするしか出来ない。でもそのときはそれがオレの役割なんだと思う」

「私、魔法の他になにか出来てる?」

「こうして一緒に下調べしてるだろ。女の浅羽がいるほうがやっぱり目立たないし。それに浅羽のおにぎり美味いし、キキの面倒みてくれるし、他の冒険者と会ったときも浅羽が相手だとだいたい気を許してくれる気がする」

「そ、そうかな……」

「ソロのときよりやりやすいな」

「ほ、ほんと? ……おにぎり、美味しい?」

「うん」

「そっかぁ。また作るね」

「うん。ありがとう」

「えへへ……また作るね」

「うん」

 同じことを何度も言い、紅子が満面の笑みを浮かべる。少しは元気になったのなら良かったとシオンは思った。

 彼女と出会ってから、一人で冒険者をやっていたときより、ずっと楽しい。ただ生きていくためのものではなくなったから。冒険者になって、紅子と出会えて、良かった。それは本心だった。



 風俗街に入っても、やはり人気は少なかった。

「他の場所より魔素が濃いね」

 ソーサラーらしく紅子が言った。

 昼間なのにスーツを着た男性が一人で歩いていたり、親子ほども歳の差がありそうな中年と若い女性が腕を組んで歩いていたりもしている。シオンたちのような若いカップルもいる。

 道端には何人かの女性が立っていて、人間もワーキャットもいた。外国人までいる。いずれも退屈そうに、通行人を品定めするように見つめていたが、紅子を連れているシオンには一瞥をくれるだけだ。

 ワーキャットの女が、歩いているスーツを着た若い人間男性に声をかけている。女の化粧は濃いが、歳はシオンらとさほど変わらなさそうに見える。しばらく話した後、女は男の腕に細い腕を絡め、更に奥のほうへ向かって行った。

「あっちがラブホテル街だ」

 とシオンが言うと、紅子は顔を赤くして小さく頷いた。また足取りが遅くなっている。シオンは立ち止まり、尋ねた。

「無理にとは言わないけど、やっぱり手繋いでもいいか? 皆そうしてるし、自然だと思う」

「そっ……そそそそっ!」

「そ?」

「そ、うだね……」

 叫び声を上げかけた紅子だったが、なんとか抑えて俯き、こくんと頷いた。

 一瞬、ビリッと空気が震えるような、だが実際は精神に直接響く力なのだろう、紅子の放つ垂れ流しの魔力を間近で感じた。

「なんか、ごめん……」

 謝りながら、シオンは紅子の手を取った。

「あ、汗かいてるかもっ……」

「大丈夫」

 握った紅子の手は、シオンが思っていたよりも小さかった。自分まで汗をかいているような気がしてきた。

「……オレも汗かいてるかも……」

「だ、大丈夫……」

「不自然じゃないよな? オレたち……」

「だ、大丈夫だよ……たぶん」

 付き合いたての恋人同士のように、二人はおずおずと手を握り、ぎこちなく笑い合って、再び歩き出した。



 ホテル街を三分も歩かないうちに違和感を覚えたシオンは、紅子の耳許に口を寄せ、囁いた。

「動揺しないでくれよ」

「え?」

「誰か付けてきてる」

「へっ……」

 紅子は小さく声を上げかけ、慌てて口をつぐんだ。

「構わずに行こう。もっとオレにくっついててくれ。そのほうが恋人らしく見える」

「う、うん」

 紅子も照れている場合ではないと思ったのだろう、シオンの腕をしっかりと掴んだ。緩くウェーブのかかった髪からふわりと柔らかい匂いが漂った。

 風俗店が立ち並んでいた場所からずっと、数メートルすぐ後ろを歩いてくる者がいる。ためしに路地に入ってみたが、やはり後を付けてきた。下手な尾行だ。それとも、知られていても構わないのか。

 ストライブだろうか。彼らはよそ者への警戒心が強いとシリンが言っていた。それにしても、このタイミングでシオンたちの偵察がバレているのなら、いくらなんでも情報が入るのが早過ぎる。

 一人ならどんな状況でも切り抜ける自信がある。だが、紅子を危険な目に遭わせたくはない。

「相手は一人だ。話かけてみる」

「えっ……わ、わかった!」

 路地を抜けたところで、シオンは紅子にそう告げ、立ち止まった。振り返る前に相手から声をかけられた。

「そっちに行っても、休むところはないわ。廃墟だけ」

 静かで澄んだ声だ。不良の若者ではない、落ち着いた大人の口調だ。

「ストライブのリーダーは、メンバー全員の顔を覚えているそうよ」

 振り返ると、長身で細身の女性が立っていた。一番に印象深かったのは目だった。銅に緑を強引に混ぜたような淡褐色の瞳はガラス玉のように透き通っている。色素が薄いのか、縁取る睫毛は見事なグレーだった。

 髪も同じ色だ。瞳のようにやや緑がかったアッシュ。黒いハイネックの袖無しニットから晒した肩に、カールした毛先がふんわりとかかっている。

 手足がすらりと細く長いが、華奢という印象は無い。黒い光沢のあるロングスカートを履き、腕が出ていなければ喪服のようだ。

 黒い服から出た肌は白い。化粧を施している顔のほうがまだ色づいているくらいだ。透明感のある瞳は冷たい印象を与えた。

「そのストライブってチームに興味があって」

 シオンはそう口にした。

「奴隷志願者? それとも、喧嘩を売りに?」

 女が尋ねる。そして、紅子をちらと見た。

「その子は連れて行かないほうがいい。好戦的なワーキャットの中で、ソーサラーズウェイルを垂れ流すつもり?」

「えっ」

 紅子が声を上げた。そして目を見開く。

「あっ、この人、魔法使い……」

 魔力を感知したのか、紅子が呟く。女は無表情で答えた。

「いいえ。私は霊媒士シャーマン。仕事で近々このあたりを除霊するつもりのね。それだけ。不良の抗争には無関係だから、別に言うことを聞けとは言わないけれど」

 静かに告げながら、女が手持ち無沙汰げに髪をかき上げる。小さな耳に小指の先ほどの宝石がついたピアスをしていた。魔石だろうか、不思議な光沢の涙型の石が揺れた。

 彼女はシオンを見て、淡々と言った。

「変わった彼女ね」

「そうすか? ずっと一緒にいるから分かんないす」

 斬牙のメンバーの口調を真似て、シオンはとぼけた。

「オレらと違って、人間は魔力ある奴って珍しくないし。あってもオレには分かんないから、気にしたことなかったな」

「これから気にしなさい。その子は魔力のコントロールが出来ていないようだから。相談出来る親がいないなら学校に、学校が嫌いなら役所に行きなさい。ボランティアを紹介してくれるから。魔力のコントロールくらい無償で教えてくれるわ」

「マジすか。どうもすいません」

「そういう喋り方、好きじゃないわ」

 冷たく言って、女性は踵を返した。

「……どうする?」

 紅子が小声で言い、シオンを見る。

「せっかくここまで来たんだし、廃墟でも見て行こーぜ」

 まだ女性がいたので、軽い口調でシオンはそう返した。

「そだね。写真撮って友達に見せたい」

 紅子も頷き、合わせてきた。頭の悪そうなカップルだと思ったのか、女性はそれ以上何も言わず、去っていった。

 その後で、紅子が再び尋ねた。

「……ほんとに行く?」

「ああ。ダンジョンを外からでも見たい」

「分かった。叫ばないようにするね。もうけっこう落ち着いてきたし」

 と言って、シオンの腕にしっかり捕まった。彼女の柔らかい二の腕や胸の感触を今度はシオンのほうが意識してしまったが、考えないようにした。

「さっきの人、七川はメンバー全員の顔を覚えてるって言ってたな」

「言ってたね」

「ストライブは百人以上いるんだよな。下っ端とか新入りまで分かるのかな。だとしたら、意外に頭が良い奴なのか」

「頭良くなくても、人の顔を覚えるのは得意な人ってはいるかも」

「そうだな」

 歩いていると、ホテル街の奥はたしかに廃墟しかなかった。〈ピンクシャトー〉だけが廃墟なのだと思ったら、その並び一帯の建物がことごとく潰れ、放置されたまま、通り一帯が廃墟群と化しているのだ。

 昼間だというのに、五階以上の建物が立ち並んでいるせいで暗い。バブル期に争うように建てられたホテル群はいずれも傾いた看板もそのままに、すべての窓は暗い。その奥からゴーストが見つめていても不思議ではない雰囲気だ。

「そりゃ治安も悪くなっちゃうね……」

 怯えたように紅子が言う。女性冒険者に珍しくないが、紅子も例に洩れずゴーストが得意ではないらしい。

「都市型ダンジョンがある場所には珍しくない。こういう場所はいくらでもある。オレも行くことは滅多にないけど」

「でも、ダンジョンが不良の溜まり場になっちゃっていいの?」

「良くはねーけど、協会も全部のダンジョンをきっちり管理してるわけじゃないからな。特に、都市型ダンジョンは所有者がいることが多い。入るにはまず持ち主の許可が必要だから、探索申請出してもほとんど通らないし、大半はただの廃墟だからな。冒険者としても探索するメリットが無いんだよ」

「モンスターは出ないんだよね?」

「さすがに街中じゃ、ゴーストくらいだな。よっぽど上級のアンデッドが出たとかなら、討伐隊を出して封鎖するだろうけど」

「ゴーストかぁ……さっきの人、早く除霊してくれないかな」

「あまり人間っぽくない雰囲気の人だったな」

「えっ、もしかしてゴースト!?」

 紅子が顔を引きつらせる。

「まさか。それならお前のほうが感知出来るだろ。じゃなくて、亜人かなと思って」

「え? そんなふうに見えなかったけど」

 体に亜人らしい特徴は無かった。

「キキみたいなハーフか、種族としての血が薄いか」

「ああ、そっか。そういうこともあるよね」

「それとも、種族としての特徴を切り離したか」

「どういうこと? えっ、もしかして、尻尾を切っちゃったりするってこと?」

「普通はしないけど、鳥亜人ガルーダだけは生まれてすぐに羽を斬り落とすんだ」

「ひぇっ」

「あっても邪魔なだけなんだってさ。飛べるわけじゃないし」

「昔、そういうドキュメンタリー見たことあるかも……『少数種族が誕生する貴重な瞬間!』みたいなの……」

 途中、ストライブのメンバーだろうという連中と何度かすれ違った。廃墟前にたむろって、退屈そうに煙草をふかしている者もいた。暇なら冒険者でもやればいいのに、とシオンは思った。彼らは一様にじろじろと自分たちの縄張りに入って来たワーキャットを見ていた。

「て、敵意バリバリってかんじだね」

「そうだな」

 紅子が息を飲み、シオンの腕にしがみつく。こんな不良連中やゴーストよりもっと恐ろしいモンスターと対峙してきた紅子のほうが、彼らよりずっと強いのになとシオンは思った。ソーサラーには高慢な者も多い。そんな月並みなソーサラーたちよりも、紅子はずっと高い魔力を持っているのに。

 そんなことを考えていると、目の前を塞ぐように六、七人の男たちが立ちはだかった。 

 小柄なワーキャットの群れに、大柄な人間が二人混ざっていた。

「お前ら、見ない顔だな」

 一人のワーキャットが口を開いた。

 黒髪にところどころ銀色のメッシュが入っている。耳と尻尾にも銀メッシュのワーキャットは、かなり整った顔だちをしていた。テレビに出ていても不思議ではないくらいだ。

「この先、何があるのか知ってんのか?」

「廃墟だろ。ダンジョン化した」

 シオンが答える。

「どっかのチームの偵察か?」

「ただの観光だよ。東京からきたんだ。このへん面白いって聞いてさ」

「バカか。失せろ。長くうろついてると後悔するぞ」

 大柄な人間の一人が口を開いた。よく見ればもう一人の人間と顔がそっくりだ。兄弟だろう。いずれもスキンヘッドにミノタウロスのような巨躯だった。でかい人間が頭を剃るとまるでオーガだなとシオンは思い、前にもそんな人間の話をどこかでしたような気がしたが、思い出せなかった。

 彼らとシオンの慎重は三十センチ近くも違う。だがシオンは物怖じせず見返した。

「アンタたち、ストライブか?」

 男たちの顔が強張った。

「知ってて、わざわざケンカ売ってんのか?」

 気の短そうな人間たちが足を踏み出す。

 どこか気さくな斬牙の連中より血の気が多そうで、いまにも殴りかかってきそうだ。シオンは紅子を背中に隠すように立った。

「よせって。女連れで後に引けなくなってんだろ」

 銀メッシュのワーキャットが仲間たちを制した。少しはまともな奴がいるのかと思ったが、違った。男はアイドルのように可愛らしい顔だちをにやつかせた。

「女を置いていけば、お前は見逃してやるぜ」

「ひぇっ」

 と紅子がシオンの後ろで小さく声を上げた。

「置いてったらどうなるんだ?」

「こっちで可愛がってやるよ。二度とは会えねーかもしれねーけどな」

「それって犯罪じゃないのか?」

「まさか。可愛がってやるって言ってるだろ。俺たちと仲良しになるってだけだ」

 口を歪めて笑いながら、紅子を見やる。が、実際はそれほど興味もなさげにすぐ視線を外した。

「どうする?」

「二人で一緒に帰るよ。オレたち、ただ観光してるだけだから。気が済んだら出てくよ」

「イキがんなよ、ガキ!」

 オーガ男の一人が吠えるようにすごんできたが、銀メッシュのワーキャットが制した。

「オレが話してんだ。黙ってろよ」

 相変わらず男は笑っているが、他の男たちは真面目な顔で黙りこくった。巨漢の人間たちでさえこの小柄なワーキャットに従っている。

 シオンと紅子を見て、ははっと笑った。

「うそうそ。犯罪じゃんそんなの。お前、マジでこのへんの奴じゃねーな。このへんでバカやってる奴で、オレが知らねえ奴はいねーからよ。東京のチームじゃねーのか?」

 男はさっきまでの下卑た笑みではなく、今度はいやに人懐こい笑みを向けてきた。近づいてきて、シオンの肩にぽんと手を乗せる。腕につけたシルバーアクセサリーが重そうな金属音を鳴らした。

「お前さ、不良じゃねーだろ?」

「冒険者だよ」

 正直に告げた。そのほうが怪しまれないだろうと思ったし、こっちの身許がはっきりしていれば下手に手も出せないだろう。

「へえ。廃墟ダンジョンを見に来たのか? ゴースト退治?」

「観光だよ」

「それとも銀華さんの仲間?」

「ギンカ?」

「このへんの除霊をしてくれるっつー、シャーマンだよ。要らないけどな。ゴーストくらい居たほうがらしいだろ?」

 さっき会った女性のことだろう。

「知らないな。休みだから遊びに来ただけの冒険者だよ」

「ふうん。ま、いいけど。冒険者って、そんなに楽しいのか?」

 男がシオンの目を覗き込む。整った顔だちと大きな目が彼を幼く見せたが、シオンよりは年上だろう。茶色い瞳が好奇心いっぱいにシオンを映す。

「オレの知ってる奴も最近、冒険者の仕事に夢中みたいでさ。つまんねーよ。ずっと一緒に遊んで来たのに」

 男は親しい友達にそうするように、馴れ馴れしくシオンの肩に腕を回してきた。警戒心の強いワーキャットにしては人懐こい。もちろん性格に個人差はあるが、珍しいタイプだ。

 幼い子供のようにニコニコと笑いながら、気安く顔を覗き込んでくる。他の連中のようにピリピリした空気は微塵もない。

 ぐっとジャケットの裾を紅子が引っ張ってきた。帰ろうとでも言いたげだ。

「仕事、楽しい?」

「まあ、それなりに」

「へぇ。そんなに楽しいなら、俺も冒険者になろっかなぁ。なぁ?」

 仲間たちを振り返り、男がにっと笑う。仲間たちは曖昧な笑みを浮かべた。ワーキャットの不良など蹴散らせそうなオーガ兄弟が、彼には頭が上がらないようだ。

 オーガ兄弟、やっぱりそんな言葉を最近聞いた気がする。ふとそばの廃墟ホテルの落書が目に入った。そうだ、リノとセイヤと、柊道場の壁の落書きを消したときだ。ストライブにやたらと強い人間の兄弟がいると言っていた。

「な、冒険者って、どうやってなれんの? オレ、中学もろくに行ってねーんだけど、大丈夫かな? ああでも、セイヤも中卒だったしな」

 友達の話をするようにセイヤの名前が出てきて、シオンは動揺を顔に出さないようにした。紅子もそうしてくれたようだ。ただ、ジャケットを掴む手には力がこもっている。

 もし、彼が思っている相手なら――ずっと想像していた人物像と、まるで違っていた。

「……アンタ、どういう人なんだ?」

 シオンが尋ねると、童顔の男は気安く笑いながら、存外あっさり答えた。

「オレ? オレはヒュウガっていうんだ。さっきお前が言ってた〈ストライブ〉の頭だよ」




 蒼兵衛が様子を見に行くと、シリンは布団から身を起こしていた。

「寝てなくていいのか?」

「病気じゃないのよ」

 と上半身だけ起こしてシリンは微笑んだ。寝巻きの浴衣を身に着け、腹を守るように手を置いている。

「貧血だって?」

「もっと栄養あるもの食べなさいって、おばさんに言われちゃった。セイちゃん忙しいからあんまり家にいなくて、自分一人だと、食べるのも面倒になっちゃう」

「腹の子もいるんだぞ」

 布団の横にあぐらをかいて座り、まるで父か兄のように告げる。

「君はそういうことに昔から無頓着だ」

「うん。気をつける」

「セイヤがいないなら、リノに来させればいい。ああみえて面倒見はいい奴だから、一緒にメシを食えばいいだろ。どうせ家出娘だし」

「リノちゃんは、いまはわたしとは一緒にいたくないのよ」

 シリンは微笑みながら目を伏せる。

「それが分からん。まあ、あいつは重度のブラコンだから、兄を取られて拗ねているのはあるだろうが、君のほうもわざと誤解を解いていない気がする。私がいない間に何があったんだ」

「なんにもないよ。セイちゃんは仕事が忙しくて、ソウちゃんもいなくて、わたしもリノちゃんも寂しくなっちゃっただけ。それから、ストライブはあんなかんじだし……」

「ヒュウガはセイヤの後をチョロチョロついて回ってたときは、それなりに可愛いげのある奴だったがな」

「そうだよね。ほんとは悪い子じゃないと思うのに、どうしてこんなふうになっちゃのかな……」

 悲しげに言うシリンに、蒼兵衛は白けた目で言った。

「どうだろうな。逆じゃないか。ほんとは悪い子だったのかもしれないぞ」

「ヒュウガくんが?」

「セイを慕ってその後を追いかけながら、顔は人懐こく笑っていても、心のどこかで小馬鹿にしてたんじゃないか。セイはケンカにもルールを決めていた。相手から仕掛けた抗争であっても無抵抗になった奴には手を出すな、女は絶対に傷つけるな、だが、ストライブのリーダーになったあいつはセイと真逆なことをしている。好きでやってるというよりも、煽ってるような気がするな」

 シリンもどこか分かっていたかのように、小さく頷いた。

「……そうかもしれないね」

「俺は、あいつのことはいけ好かなかった」

「え? そうだったんだ。知らなかったよ」

「だって言えば俺だけ悪者みたいになるし……」

 子供が拗ねるように、蒼兵衛が顔をしかめる。シリンはくすりと笑った。

「ごめんね」

「まあ、好き嫌いは俺個人の話だ。あいつは斬牙をすぐに抜けたし、そのことを知ってる奴は少ないし、他の奴に教える必要もない。いまの仲間を大事にするべきだ。セイもそう思ってるんだろ」

「……セイちゃんには言わないでね。わたし、ヒュウガくんに会ったんだ」

 シリンの言葉に、蒼兵衛が目を見開く。それから怒りを隠さない口調で言った。

「馬鹿なことを……」

「ごめんなさい。斬牙にはもう手を出さないでって、お願いしたかったの。お願いするしかないと思ったの」

 はあ、と蒼兵衛は息をつき、ぐしゃぐしゃと髪をかき上げた。

「変な汗かいた……。わざわざ奴らの縄張りに? よく無事だったな」

「ヒュウガくん、わたしには手を出さないと思ったの」

「何を根拠に」

「あの子はきっとソウちゃんのことは怖いのよ。ソウちゃんみたいな強い人がセイちゃんやわたしと仲良くしてくれるのがどうしてなのか、きっと分からないんだと思う。お金とか、脅しとかじゃなくて」

「だからあいつには友達が出来ないんだ……。だがもう、そんな憶測なんかで動かないでくれ。君は斬牙の頭の女なんだぞ」

「拉致されてなにをされたとしても、別に良かったんだ。殺されたら事件だし、そうじゃなくても事件だし。そしたら訴えようかなって。わたし、他の女の子みたいに黙ってたりしないよ。写真撮られても動画撮られても平気」

 あっけらかんとシリンが言う。蒼兵衛は息をついた。

「こっちが平気じゃない。どうして女っていうのは、時々大胆なんだ」

「どうして男の子はすぐケンカするの? ヒュウガくんはどうしてそこまでセイヤを嫌うの?」

「縄張り意識だろ。ただの。同じ場所に自分より力を持ったオスがいたら排除したくなる。ヒュウガにとってセイと斬牙はずっと目の上のたんこぶだったんだろ」

「そんなことで、ここまで争うの?」

「そんなことに拘るのが男なんだよ。それにしても、ヒュウガは君に会ってどんな反応したんだ?」

「もう斬牙には手を出さないでってお願いしたら、ただ笑ってたわ。『セイヤのために死んでもいいの?』って言われて、『いいよ』ってわたし答えたの。『わたし、いまからストライブの縄張りに行くって警察に電話してきたから、帰って来なかったら事件になるよ』って」

「……それで?」

「大笑いされちゃった」

「……まあ、無事だったなら、良かった」

 どんなモンスターと対峙するより背筋が寒くなった。蒼兵衛の知っているヒュウガは大胆かつ狡猾な手段で、あっという間にストライブを大きくした。シリンを拉致して傷つけては、セイヤ以上に蒼兵衛が黙っていないと分かっている。斬牙で一番恐ろしいのは蒼兵衛だ。蒼兵衛が戻ってきたと知ったいま、彼はもう闇雲に斬牙を襲撃しないだろう。

 だが蒼兵衛も、ずっとこの町にとどまっていられるわけではない。

「ヒュウガくん、ぜんぜん変わってなかった。シリンさん、って昔みたいに呼んでくれて、ストライブのリーダーだなんて嘘みたい」

「生まれつきどうしようもなく壊れてる奴ってのはいるんだ。笑いながら人を殺して感触を楽しめる奴もな。もう頼むから北側には行かないでくれ。君はセイヤの妻なんだ」

 蒼兵衛は心からそう頼んだ。

「シオンくんたち、大丈夫かしら」

「偵察くらいであいつは下手を踏む男じゃない。信頼している」

「わたしも、抜け道とかいっぱい知ってるんだよ。もともとあっちには詳しいから」

「もともと?」

「うん……」

 シリンは顔を伏せ、しばらく黙った。何かを言いたげだったが、上手く言葉にならないようだった。蒼兵衛は黙って待った。やがて、意を決したように言った。

「……あのね、中学に入る少し前くらいから……は、働いてたの……」

 布団をぎゅっと掴む、華奢な手が震えていた。口を開こうとして小さく声を詰まらせ、息を吐き出す。

「……おばさんやおじさんたちに、言わないでね。うちの親……おばさんたちが怒ってくれたから、わたしのことあんまりぶたなくなったの。おばさんたちはそれからもずっと心配してくれたよね。何かあったら言いなさいって。でもわたしは、お母さんとお義父さんに叩かれなくなって、それだけで良かったの。ずっといっぱい痛かったから」

 蒼兵衛の記憶の中で、彼女はいつもにこにこと笑っていた。衣服が汚れていても、腹を空かせていても、痣があっても、笑みを絶やさなかった。強い子だなと思っていた。子供だったからただそう思った。だが、本当は笑うことしか出来なかったのだ。

「わたし……ほんとのお父さんいないでしょう。お母さんは何人も恋人を作って、中にはお義父さんになった人もいたけど、長くは続かなくて。家にはいつもよく知らない男の人がいた。まともな人はほとんどいなかったよ」

 シリンの告白に、心臓を強く掴まれたようだった。何も言葉を返せなかった。

 彼女はにこりと笑い、頬にかかる自分の髪を撫でた。

「……冒険者になったばかりのころ、最初に登録した大宮のセンターにね、知ってる職員さんがいたの」

「ああ」

 彼女の話を邪魔しないように、蒼兵衛はただ頷いた。

「わたし、お義父さんとお母さんに、何度もお金で売られてたの。わたし、体が小さかったから、痛くて痛くて、いつも泣いてたし、本当に死んじゃうって何度も思ったけど、心は逆に平気になってくの。どんどん、本当に物みたいに、自分でも思えるの」

 シリンは微笑みながら、何度も髪をかき上げ、小さく息を吐いた。そうしていないと落ち着かないというように。

「わたしは女の子じゃなくて、こういうことをするための道具なんだって。そう思うとね、体は痛いんだけど、心はとても楽になって、嫌だとか気持ち悪いとか思わなくなった。知らないおじさんに撫でてもらって、ぶたれるよりマシだなぁとか、お布団の上だから、お外に出さるよりあったかいな、とか。わたし、バカだから、自分の都合のいいように考えられたんだ」

「それは……バカなんかじゃないだろ」

「バカだよ。だから、大宮センターで、昔、わたしを何度か買ってくれたおじさんを見つけて、ラッキーなんて思っちゃった。知ってる人だから、こっそりお願いしたら、お仕事回してくれるかなって。でも、しばらくしてセイちゃんには気づかれちゃったけど」

「……そうか」

 蒼兵衛は頷き、少し目を伏せた。

 自分たちは新人にしてはついていた。仕事が途切れなく続き、スムーズにレベルも上がった。セイヤは自立し、シリンも一緒に家を出た。

 自分が強かったからだと思っていた。どんな仕事も仲間のためにこなしてきたつもりだった。

 だが、とんだ思い違いだった。

「……俺は馬鹿だから、いつも気づくのが遅いんだ」

 蒼兵衛は項垂れ、深く息をついた。

 今思えば、中学を卒業したばかりの駆け出し冒険者に、割の良い仕事があんなに回ってくるわけがない。シリンが仕事を取ってきていたのだ。

「……そんなこと、馬鹿なガキだった俺は気づかなかった。考えもしなかった。俺はいつも思い通りにならないと拗ねて」

 自分がふがいなくて、情けなくて、涙が出そうになったが、そんな無様な真似は出来るわけはなかった。当のシリンが笑っているのに。

「セイは、ぜんぶ知ってるんだな」

 シリンが小さく頷く。

「うん。もう全部話した。でも、ソウちゃんには話せなかった。ソウちゃんにはソウちゃんが知ってるシリンだけを見ててほしかったんだ」

「……俺は、君がいつも何かを隠している気がしていた。良い子だが嘘はつくと。君は子供のときから、いつもニコニコしていて、俺は君の笑顔を見てるのが好きだった。でも、本当はいつも頑張って笑っていたんだな。君は」

「笑うの、好きなの。元気になるから。大丈夫だよ、ソウちゃん。わたし、図太いんだよ。早くレベルが上がったら、それだけ早くセイちゃんと一緒に暮らせると思ったんだもん」

 いつもと同じように、彼女は笑う。泣かないのではない。泣けなかったのだ。

「わたしね、自分はいっぱい汚れてるくせに、セイちゃんもいつか他の女の子と同じことをするのかなって考えたら、すごくイヤだった。だからセイちゃんに初めて発情期がきたとき、自分から誘ったんだ。セイちゃんのおうちは貧乏で、薬もお医者もかかれないの知ってたから、わたし、慰めるふりして、手を出させちゃった。ねえ、セイちゃんの尻尾、どうして途中までしか無いか、知ってる?」

「虐待で……親に切られたって聞いた」

「違うの。小さいころ、わたしのお義父さんだった人にされたの。まだソウちゃんと会う前。そのときのお義父さん、すごく怖い人で、お酒飲んだらいっぱい叩く人だったの。わたしがいつもボロボロだったから、セイちゃん歯向かってくれて、たくさん叩かれて、包丁で尻尾斬られたの」

「……そうだったのか。アイツはそんな昔から、君のことを守ろうとしてたんだな」

 だから彼女は笑うのだ。辛いことをおくびにも出さずに笑っていれば、優しい少年に心配をかけることもない。

 母親に新しい男が出来るたび、媚びて取り入ることで、目に見える暴力を受けることは無くなった。成長していくにつれ今度は浅ましい欲望の対象になっても、外では笑顔で振舞った。幼馴染みの少年にだけはもう知られたくはなかった。「今度のお父さんは優しい人だよ」と血を吐くような嘘をつき、笑顔を浮かべて、彼女はずっと戦っていた。

「……でも、わたしはひどいやつだよ。セイちゃんの夢を犠牲にしても、誰にもあげたくなかった。赤ちゃんのときから近所に住んでて、二人ともいつもボロボロで、服が汚くて、公園で遊んでても他の子は暗くなるまでに帰るでしょう? でも、わたしたちはずっと一緒にいた。セイちゃんはわたしのこと、妹みたいに想ってくれてた。きっとセイちゃんはわたしに恋したことなんてないよ。わたしはずっとセイちゃんの妹だったの。でも、わたしはセイちゃんと結婚したかった。好きな人の子供が欲しかった……」

 微笑みながら話すシリンの目尻に、涙が溢れた。緑の瞳がどんどん潤み、シリンは白い手で顔を覆った。

「……でも、でも……ほんとに子供が出来たら、怖くなったの。わたしの汚い体から子供を産んでいいのかなって……ずっと欲しかったセイちゃんの赤ちゃんが、わたしの体の中で、どんどん汚れてくみたいな気がして……わたし……」

「君は汚れてなんていないよ。君自身はそう思えなくても、俺は知ってる。君の笑顔は作り笑顔だったかもしれないけど、俺にとってはいつも本物だった。完璧だった。完璧に騙されたよ。君はいつも自分の辛さを押し隠して、俺に幸せな気持ちだけ与えてくれた。君に恋してる間、俺は幸せだった」

 シリンが顔を覆って泣き出したとき、背中を支えてやりそうになった。頭を撫でて慰めてやりたかった。だがそれは、自分の役目ではないと蒼兵衛は分かっていた。

 だから、素直な気持ちだけを告げた。

「初恋が君で良かった。これから誰か別の女性を好きになったとしても、君に恋したことは永遠に忘れない。俺は本当に、素晴らしい女性を好きになったんだと、年老いてもひ孫にまで語る」

「……ありがとう、ソウちゃん」

 顔を隠しながら、シリンは少し笑ったようだった。

 新宿で再会したとき、泣けない彼女が、蒼兵衛に戻ってきてほしいと泣いてくれた。それだけでもう、長年の恋は報われた気がした。

「君のほうこそ、俺なんかに辛い話をしてくれてありがとう。すまなかった」

「ううん。ソウちゃんに言えて、わたし、ちょっと気持ちが軽くなった気がする」

 鼻をすすり、目をこすりながら、シリンは穏やかな表情で言った。強がりではなく本心だと分かり、蒼兵衛もほっとした。

「俺……私で良ければ、いつでも話くらい聞くさ。二人ぶんの命を抱えているんだからしんどいときもあるだろう。いつでも呼んでくれ。飛んでいく」

「うん……ソウちゃんがそう言ってくれると、ほんとに頼りがいあるね。ソウちゃんは強くて、堂々としてて、わたしの憧れだった。わたしが大好きなセイちゃんが、一番大好きなソウちゃん。ずっと羨ましかったの。素敵なおうちがあって、優しい家族がいて、強い男の子で、ソウちゃんといるときだけは、わたしもセイちゃんも楽しいことだけ考えられた。セイちゃんはね、本当にソウちゃんが大好きなの。わたしはセイちゃんに頼るばかりで、一緒に夢を叶えてあげることは出来ない。あの人、冒険者になって、この町を離れて旅するのが夢だったでしょ? そう言いだしたのはソウちゃんと友達になってからだよ」

「それはもう子供のときの夢だ。あいつだって、やりたいことをもう自分で選んだんだ」

「うん。……あの人は結局、わたしやリノちゃんや斬牙のみんなを置いていけなかった」

「置いていけなかったんじゃない。あいつがそれを選んだんだ。あいつは冒険者で収まる奴なんかじゃない。君や、君との子供や、リノや、他にもたくさんの家族を作って、一族の長になる男だ」

「……一族?」

 シリンの耳がピクンと動く。家族の繋がりさえも希薄だった彼女たちには、ピンとこない言葉かもしれない。元々ワーキャットは種族同士の繋がりも強くない。

「血じゃない繋がりであっても、それ以上の絆は必ず生まれる。斬牙にはどこにも行き場の無いガキが集まった。セイヤは奴らを決して見捨てない。あいつらもそれが分かってるから素直にセイヤについて行った。でも、大変なのはこれからだ。生まれも育ちもバラバラの他人を寄せ集めて、大家族を作ろうっていうんだからな。セイヤを頼るガキはこれからもきっと増えるだろう。あいつを支えてやれるのは、私じゃない。君だけだ。そして家族に父がいるなら、母も必要だろう?」

「本当は、そこにソウちゃんもいてほしい」

「シリン……」

「……でも、ダメだね。セイちゃんもね、言ってた。ソウちゃんは、自分たちと同じ道を選んで終わるような奴じゃないって。ソウちゃんの強さを、たくさんの人が必要とするからって」

 目尻をこすりながら、シリンは諦めたように笑った。

「あの子、シオンくんって、ちょっと昔のセイちゃんに似てるね。真っ直ぐそうで、素直そうで、優しそうで……自分のことを後回しにして、誰かのためにばっかり頑張っちゃいそうな子。ああいう子、応援したくなっちゃうね。セイちゃんがなれなかった立派な冒険者に、なるといいな」

「なるさ。私がついてるからな。いや、私がついていなくても、あいつにはこれからもっと色んな奴が手を貸すだろう。人のために損得勘定無しに動ける奴だ。嘘が無くて我慢強いから、クセのある奴でも飼い慣らすさ」

「ソウちゃんのこと?」

「私のどこにクセがあるんだ。バックのやたら強力なクソガキのことだ」

「ピピちゃん?」

「キキな。あいつの家の力は凄まじいからな。ま、本体もかなり頑丈で凶暴だ。そもそも平気で人の腕を喰い千切ろうという神経が恐ろしく戦士向きだから、いずれ立派な動物兵器になるだろう。それに、スーパー魔道士もいるしな」

「スーパー魔道士……こっこちゃん、そんなにすごいの? あまりそうは見えないけど……」

「本気で命がけの戦いを見たのは一度だけだが、どうしてあんな魔道士がこれまで普通の女子高生をしていたのか、理解に苦しむレベルだ。と言っても、本気を出せるほど鍛錬も積めていないようだし、己の力への恐怖がその解放を邪魔をしているようだが、もしタガが外れたら、あの娘には……」

 言葉を切った蒼兵衛を、シリンが目をしばたたかせながら見つめる。

 戦士としては、あまり言いたいセリフでは無かったのだ。

「あの娘には、誰も勝てない」

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