表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
迷宮のドールズ  作者: オグリ
二章
44/88

誓約

 淡褐色の瞳が、濁った街を映す。

 視界に映る多くの魂は、肉体という器におさまり、溶け合っている。生きているということを意識することなく、ただそこにある。人間も亜人もその他の動物もそのことに変わりはない。

 雑踏の中、彼は意識を切り替えた。視力の弱い人間が眼鏡やコンタクトレンズの矯正でその視界がクリアになるように、はっきりと、まったく違う世界が映る。

 人間、亜人、そしてすでに器を失った哀れな魂の残滓。それにも強弱がある。放っておいてもこの世から消えそうな、弱々しく揺らめく発光体はほぼ無害である。心霊写真などによく映り込み、オーブと呼ばれるものがこれだ。魔素の濃い場所では霊感の乏しい者にも見える。視界にちらつき鬱陶しいがそれだけだ。

 強いものははっきりとした輪郭で、生前とさほど変わらない姿すらしている。血まみれであったり、体の一部がおかしな方向に折れ曲がっていたりもするが。

 生まれついて霊感の強い者は、自らの霊感知能力をオン・オフと切り替えられることを身につけなければならない。そうでなければ煩わしく、日常生活を送っていられなくなる。

 それだけ出来れば霊媒士シャーマンになれるというわけではない。アンデッドの除霊、浄霊となると、それなりの修業を積む必要がある。

 磁場の悪い場所だ。いずれ悪霊モンスターと成り果てるかもしれない怨念を持つゴーストも見かけたが、特に気にせず駅を出て交差点を歩く。除霊屋の仕事を減らすのは可哀相だし、こんな力を持つ者の中にはそれ自体に使命感を持ち、無償で除霊にいそしんでいる者もいるから放っておけばいいだろう。

 向かっているのは、後発性都市型ダンジョン《ピンクシャトー》。駆け出し時代から仕事の事前調査を欠かしたことは無い。事前に調べた情報は頭の中に叩き込んでいる。ダンジョン化する前はラブホテルで、所有者は七川美玲という人間の女性。五十六歳。埼玉を中心に幾つもの風俗店を経営。業界では知られた顔だが、十八年前に愛人上がりである現在の夫と結婚。夫の七川はワーキャット、現在は四十二歳。夫との間にワーキャットハーフの息子が一人。名前は彪雅。結婚した同年に出産した。十八歳。地元で不良を集めて何度も警察沙汰を起こしている。

 目当てのダンジョン《ピンクシャトー》はそのドラ息子が不良チームのたまり場にしているようだ。

 ホテルはずいぶん前に潰れたが、穢れがどんどん酷くなっていて、何度除霊をしてもゴーストが集まってきて心配だと、所有者の七川美玲から依頼を受けた。コストがかかりすぎるので手放したいが、売却前するには完全に除霊しなければならず、莫大な費用がかかる。そのうえ、息子が不良仲間と一緒に占拠している。

 子供のときから金を与え、甘やかして育ててしまったせいで、親の言うことなど聞かない。昔から暴力事件を多く起こし、そのたびに金で解決してきたが、いつか大きな事件を起こすだろう。ここ数年、ことさらに狂暴化した息子が何を考えているのか分からない。ゴーストのせいかもしれない。せめてダンジョンを清めてほしい。年齢は初老と言っていいが、見た目はじゅうぶん若々しく見える依頼者の涙は、自らと我が子の愚かさを悔いてというよりは、この後に及んで息子の身を案じているように映った。

 馬鹿な子を持った親が哀れなのか、馬鹿な親を持った子が哀れなのか。なんにせよ、依頼人の事情に興味は無い。くだらないと軽蔑するほどの感情がその親子にわいてこない。

 どうでもいい。金になればそれで。贅沢が好きなわけではないが、金はあって困るものではない。ただ生きているだけでは退屈だから、仕事をやめられないだけだ。

 かといって死にたいと思ったこともない。

 この命はすでに自分の信じた人に捧げたものだから、彼女以外の者にどうこうされたくはなかった。それがたとえ、己自身であっても。


 ――ねえ……。


 彼女は傍若無人で、理不尽で、朝も夜もなく呼びつけられた。その命令は自分たちにとって喜びだった。彼女に頼られ、選ばれた。それは誇りだった。

 自分たちの王は、誰よりも強かった。

 そして、誰よりも情が深く、寂しがりだった。一人になるということが何よりも嫌いだった。だから、よくこんなことを言った。


 ――アンタたち、あたしのいないところで死んじゃダメよ。


 分かってるよ、桜。

 王からの最期の命令。その言葉は永遠の呪縛となった。




「ゆっくりして行ってね」

 蒼兵衛の母・ソフィーがにこにこと告げる。柊道場では昔から斬牙のメンバーに飯を食べさせてやっていただけあって、そこにシオンとキキが加わっても気にも留めなかった。

 斬牙とストライブの問題が片付くまで、シオンとキキも柊道場で寝泊りすることになった。が、それまで偉そうだったキキが、柊家に来る前からシオンの後ろにちょろちょろと隠れ出した。

「やっぱあたし、帰ろっかな……それか、埼玉の国尾組に……」

 そういえばコイツは人間に苦手意識があったのだと思い出した。

「やっぱリザードマンはリザードマン同士……」

 シオンの腕にぎゅうとしがみつき、ボソボソと呟くキキに、やっぱり心の傷は残ってるんだなと思い、ぽんぽんと頭を撫でる。

「お前が帰りたいなら、俺も一緒に帰るよ」

「ほんと?」

 ぱっとキキが嬉しそうに顔を上げた。が、すぐにはっと表情を引き締める。

「いやいやダメでしょ、敵陣の目の前まで来たら、簡単に帰れないよっ!」

「そうか? 別にいいぞ。また明日来ればいいんだし」

「よくない! シオンはリーダーなんだから、しっかりしてよね!」

「分かった」

「よろしい」

 腕から離れ、ふんぞり返って頷くキキに、シオンは小さく笑った。いつも通りのキキだ。リザードマンの身内の中にばかりいたから、人間の家族と触れ合うことに緊張しているのだろう。シオンもずっと人間の友達が出来ず、冒険者を始める前はいまよりさらに人見知りだったからその気持ちは分かる。

 だが、その心配もすぐになくなった。

「久々にみんなが来てくれて、おばさんとっても嬉しいわ!」

「ちぃーっす」

「お久しぶりでーす」

 ワーキャットの若者たちは勝手知ったる様子で柊家に入っていく。ソフィーも蒼兵衛も気にした様子は無い。本当に昔からこんなかんじなのだろう。

 斬牙の面々はもちろん、シオンもすでに彼女とは面識があるが、初対面のキキを見たときにはハリウッド映画の登場人物のように「ワァオ!」と大げさに喜んだ。

「なんてキュートなお嬢さん! シオンくんの妹さん?」

「いや、コイツはパーティーの仲間です。キキっていう」

「まあ、キキちゃん、美人さんねぇ」

「び、美人?」

 再びこそこそとシオンの後ろに隠れながらも、褒め言葉にはしっかり反応するキキだった。

「テレビに出る子役さんみたいよ!」

「おばさん、それ昔あたしにも言ってたね」

 リノが言い、ポケットから棒つきキャンディーを取り出し、包み紙を取った。

「ね、この子、リザードマンなんだって。すっごく面白いの。見てて」

 とキキの目の前にキャンディーを差し出すと、素早くキキが齧り付き、硬いキャンディーを即座にゴリゴリと噛み砕いた。

「ハッ、しまった! つい習性で……!」

「嫌な習性だな」

 蒼兵衛が静かに突っ込む。

「やだもう、たまんない、可愛い~!」

「まぁ! すごいわ! リザードマンなの! 可愛くて強いのねぇ」

「そ、それほどでもあるけど……」

 リノとソフィーにベタベタに褒められあっという間に機嫌を良くしたキキは、棒をくわえたまま無い胸を張った。

「えへん! まあね! 最強のリザードマンの中でも最強可愛いサラブレッドのキキちゃんだからね!」

「まったくチョロい奴だな。珍種コレクターに誘拐されないように気を付けろよ」

 蒼兵衛が白けた目で女性陣を見やる。

 その輪に一人だけ入っていないシリンは、微笑んではいるがやや遠巻きだ。リノと不仲であるせいかもしれないが、その表情は笑っていてもどこか浮かないのはシオンにも見て取れた。

 そんなシリンに、ソフィーが優しく声をかける。

「シリンちゃんも、もっと来ていいんだからね?」

「うん、ありがとう。おばさん」

「体調どう?」

「だいじょうぶ」

「痩せたんじゃないの? 食べたくないものとかあったらちゃんと言うのよ?」

「うん」

 娘に接するようなソフィーに、シリンも母親に返すように気安く答える。ふとシオンが蒼兵衛を見ると、誰よりも離れたところに立ち、斬牙コートのポケットに両手を突っ込み、この家の息子なのにまるで不審者のようだった。

「皆も立派になったからって、遠慮しなくていいんだからね? ここは斬牙のみんなのおうちなんだから」

「私の家だが」

 息子の突っ込みはスルーし、ソフィーはふくよかで優しげな顔を綻ばせっぱなしだ。ずっと家を出ていた次男が戻って来たことより、大勢の来客が来たことのほうが嬉しげだ。

「みんなが大きくなって、立派に働くようになったのは嬉しいけど、おばさんちょっと寂しかったのよね」

 家は狭いからと、道場に食事を運んでもらった。

 斬牙の連中が、斬牙を大切にする気持ちは何となく分かる。他人同士が家族のように寄り添い合っている。彼らがセイヤについて真っ当な道を選んだのも、この温かさと絆があったからだ。

 シオンは部活をしたことはないが、合宿ってこんなかんじなんだろうかと、上手くいかなかった学生生活のことを思った。蒼兵衛とセイヤのように親友でもいれば我慢が出来ただろうか。

 それほどの友達と二度と会えないなんて、それはやはり寂しいんじゃないかと思う。恋愛で壊れた友情は、そう簡単に元に戻らないのだろうか。さっき、自分の母親とシリンが話しているのを見ている蒼兵衛は、まだ少し寂しそうだった。

「とりあえず、オレがストライブの本拠地を偵察しようと思うんだけど……」

 シオンが提案すると、真っ先に口を開いたのはシリンだった。

「……危険じゃないかしら。ストライブは特に、よそ者への警戒心が強いから……」

 するとリノがちらりとシリンを見た。まだ彼女を裏切り者だと疑っている敵意の目だ。

 この場にはシオン、キキ、蒼兵衛の他に、シリンとリノ、それから斬牙の古参メンバーが数名。全員信頼出来ると蒼兵衛は言っていたがリノがそう思っていないのは明白だ。

「オレは顔もほとんど割れてないし、この町はワーキャット多いから大丈夫だろう」

「服とかあたし見繕ってあげるよ」

 とリノが嬉しそうに言った。嫌な予感がしたシオンだったが、この場は頷いておいた。

「頼む」

 こういうときに自分も行くと煩いキキは、夕食が終わってしばらくははしゃいでいたが、眠くなったから寝る、と勝手に言ってぐうぐう眠ってしまった。リノはよほどキキが気に入ったのか、膝枕をしてやりながらその頬を引っ張ったり唇をむいとめくってみていた。

「わ、歯が鋭い」

「気をつけろ。喰いついたら離れんぞ」

 キキは寝間着代わりに子供用の道着を着ていた。いつもの服はソフィーが洗ってくれている。

「ほんっと、こんなに小さいのにリザードマンなんて不思議だねー。尻尾触っていいかな?」

「鈍感だから大丈夫だ」

 勝手なことを蒼兵衛が言う。

「情報を整理していいか? ストライブが根城にしてるっていうダンジョンなんだが」

「《ピンクシャトー》っていう、後発型ダンジョンです」

 シオンの言葉に、ストライブのメンバーが答えた。あきらかにシオンより年上だろうが、彼らの中ではいくぶんか丁寧な物腰だ。

「ヒロアキです。ヒロでいいっすよ。セイヤさんと一緒にバックアップやってます。それだけじゃ苦しいんで、別の仕事もやってますけど」

「まだバックアップだけじゃ苦しいんだよね。ヒロくんは斬牙の古参メンバーなんだ」

 リノが付け加えた。

 見たことがあると思ったら、レンという少年が襲撃されたときに駆け付けたホスト風のワーキャットだった。いまは他のメンバーと同じラフなジャージ姿だ。

「えっと……何て名前のダンジョンでしたっけ?」

「《ピンクシャトー》です」

「……変な名前だな」

「元々ラブホですから。モンスターも出ないし。でもけっこうでかいですよ。バブル期に建ったやつで、内装とかも何億って金がかかってて、ぱっと見は普通のホテルみたいに見えますよ。どっちみちいまは廃墟同然ですけど」

「普通のホテルじゃないのか?」

「えっ」

 その場にいるワーキャット全員の視線がシオンに集まった。

「シオン、マジなの……ラブホテル知らないの?」

「そんなワーキャットがいるなんて……」

「冒険者以外のことに関してはからっきしなんだ、こいつは」

 蒼兵衛が口を挟む。

「ベッドシーンの意味も分からなかったんだぞ」

「うっそ!」

「なんて貴重な……!」

「奇跡だ……」

「なんでだよ! なんとなくは分かるよ!」

 シオンが顔を赤くして怒鳴る。

「ただ、普通のホテルとの違いがよく分かんねーんだよ、行ったことないから!」

「そんなもの私だって宿代わりに使ったことしかないぞ。冒険者カードを出したらカップルじゃなくても泊めてくれるうえに支援割してくれるところもあるからな」

「へー、便利だな」

「本来の目的で使ったことは無いがな」

 良いことを聞いたとシオンは思ったが、斬牙のメンバーは悲しげな声を出した。

「ソウさん……」

「今度合コンしましょうね……」

「ま、それはいい」

 当の蒼兵衛はまったく気にしたふうもなく、話を続ける。

「《ピンクシャトー》はたまにゴーストが出る以外にはモンスターもいない。個人が所有しているから協会を通じて探索も出来ない。というか依頼が無い」

「所有者はストライブのリーダー・七川の母親なんです」

 ヒロが説明を挟む。バックアップの仕事をしているだけあって、説明は流暢だった。

「定期的にシャーマンを雇い、ゴーストの住処にならないよう除霊もされています。管理の義務は果たしていれば、ダンジョン化した建物の個人所有は認められますからね」

「そのおかげで、息子のお気に入りの遊び場は維持出来ているわけだ」

 別のワーキャットが口を挟んだ。最初にリノと一緒にいた少年だ。たしかリョータとか言っていた。

「奴らはいままで対立してきたグループのメンバーを攫って、男はリンチ、女はレイプされて、写真や動画を撮って脅すんです。リーダー格は徹底的に痛めつけられて、ヘッドのオンナは仲間の目の前でマワされる。その一部始終をぜんぶ記録されて、二度と逆らえないようにして奴隷にするんです」

「どうして警察に言わないんだ?」

「え? んなこと、出来るわけないじゃないっすか。抗争に負けたうえ、サツに泣きつくなんて」

 素朴な疑問を口にしたシオンに、リョータが怪訝そうに返す。

「そんなもんなのか?」

「不良同士のケンカといえばそれまでだからな」

 蒼兵衛が静かな声で言う。

「泣きついて相手が逮捕されたとしても、その後には他のメンバーから報復を受ける」

「いままで襲撃を受けたうちのメンバーも、警察からは話を簡単に聞かれただけだよ。またかってかんじだろうしね」

 リノが憤慨しつつ吐き捨てた。

「周りからすれば、ストライブもあたしたちも変わらないんだ。まっとうになったって同じ。だったら、あたしたちは斬牙のままで良かったじゃない」

 そう言って、シリンを見やる。義妹の言葉に、彼女は困ったように笑うだけだった。ふん、と顔をそむけたリノに、ヒロが慰めるように言った。

「それはもう言いっこなしだよ、リノちゃん。斬牙が解散するとき、オレたちは納得したんだ。ボスの言うことは間違ってなかった。耳が痛くて離れていった奴もいるけどさ、いつまでもアウトローしてられないよ」

 それでもリノは納得出来ないように、黙って唇を尖らせた。

 周囲の大人たちの言うことが分かっていないわけではないのだ。ただ、まだ若いリノは仲間を傷つけられ我慢していることのほうが辛いのだろう。

「じゃあ、報復はお互いさまってことで、ストライブが痛い目に遭うのも、構わないわけだ」

 シオンの言葉に、全員が顔を上げた。

「斬牙に限らず、ストライブに恨みを持ってるチームは多いんだろ? 報復されたって不思議じゃないよな」

「報復って、あたしたちが奴らを倒すの?」

 リノの言葉に、ずっと黙っていたシリンが慌てて口を開いた。

「ダメだよ。暴力に暴力で報復しないって、そうセイヤが決めて、皆でいままでがんばってきたじゃない。じゃないとせっかく始めた会社だって……」

「アンタは黙っててよ! 嘘つきのくせに!」

 カッとなったリノが鋭い声を上げる。斬牙のメンバーは一様に目を見開いたが、シリンは悲しげに微笑んだ。

「なんで笑うの! なにがおかしいの!? アンタなんて……!」

「分かってるさ」

 耳と尻尾を逆立て激昂しかけたリノの言葉を、蒼兵衛の短い言葉が遮った。

「リノ。お前の気持ちも分かっている。何も心配するな」

 静かにそう言っただけで、リノは黙りこくってしまった。義姉には強く出られる少女も、兄の親友には弱いらしい。

「心配するな。俺がそう言って、喧嘩に負けたことはあったか?」

「ソウちゃん! ケンカはダメだって――」

「シリン。お前たちに迷惑はかけない。お前たちはすでに斬牙となんら関わりないんだからな」

「ソウちゃん……」

「ねえ、ソウくん、もしかして一人で奴らのところに乗り込むの? あたしたちに何も手伝わせない気?」

「手伝ってもらう? お前たちが俺を? 勘違いするなよ。足手まといだ」

 淡々と言い放つ蒼兵衛に、斬牙のメンバーは黙りこくった。傷ついたわけでも怒りを覚えたわけでもないだろう。彼らこそが最もよく分かっているからだ。蒼兵衛の比類なき強さを。

「俺が《ピンクシャトー》に乗り込んで、ストライブを制圧する。クソみたいに簡単な仕事だ。ついでに奴らの悪事の証拠品を押さえてくるさ。恐喝用の写真やDVDを警察に持ち込まれれば、親バカ成金でも揉み消せんだろう」

「ストライブって何人ぐらいいるんだ?」

 シオンの言葉に蒼兵衛が答える。

「末端まで含めたら百人以上はいるだろうが、全員がそこにいるわけではない」

「だったら、七川って奴の留守を狙って潜入するか? 悪事の証拠品ってやつだけ押収出来れば……」

「いや、それでは結局は大した刑にもならずに、数年後にのうのうと戻ってくるだけだ。それに《ピンクシャトー》内の部屋は50室はあるだろう。証拠品をどこに隠しているかも分からないのにこっそり侵入して探すのは無理だ」

「ソウちゃん、本気なの?」

 尋ねるシリンに、蒼兵衛は目線を向けた。まっすぐにシリンの目を見て、シリンも蒼兵衛の目を見つめていたが、やがて目を伏せた。

「……セイヤが帰って来るまで、待ってくれない?」

「君はいつもそうだな。セイヤの意見が君の意見だ。アイツがいなくなったらどうしていいか分からない。一緒にダンジョンに行ったときも、セイヤが怪我をしたら大騒ぎだったな」

 淡々と語る蒼兵衛は、決してシリンを責めているふうではない。

「だから、アイツを危険な目に遭わせるな。俺がそうさせない。俺がお前たちを守ってやる」

「……ソウちゃん……」

「何も知らせるな。俺が行ったと知ったらアイツは必ず戻ってくる。アイツはもう斬牙じゃなくて、チンケな会社の社長なんだ」

 チンケな会社、と言うあたりにまだ少しセイヤへの妬みを感じられる気もしたが、知ったら必ず戻ってくるという言葉は、親友のことを誰よりも知っている蒼兵衛が、自然と口にしてしまった言葉に違いなかった。

 かつての仲間たちをわざと突き放すように、蒼兵衛は告げた。

「お前たちだって、せっかく始めた仕事を駄目にしたくないだろ。お前たちはもう斬牙じゃない。ここから先は俺の戦いだ。絶対に手を出すな」




 食事の後、柊家で順番に風呂を借りた。

 風呂に入っているとき、曇りガラス戸で仕切られた脱衣所に、蒼兵衛の母がやってきて、タオルと寝巻きを置いて行ってくれた。

「寝巻き、新しいものは浴衣しかなくって。蒼星のジャージもあるけど」

「あ、浴衣でいいです……」

 父子家庭で育ったシオンは、母親という存在に慣れずに戸惑った。竜胆は優しい父だったが、かいがいしく着替えを用意したりはしなかったので、幼い頃から着る服は自分でタンスから引っ張り出して適当に身に着けていた。

「着方、分かるかしら?」

「なんとなく……」

 子供の頃に祭で着て以来だが、前を合わせて帯を締めたらいいんだろ、と思いつつ、シオンは自分が湯船に浸かっているすぐ外に他所の家の母親がいるということが気恥ずかしく感じられた。

「じゃあ、ゆっくりあったまってね」

「はい……」

 たまに訪れる妹尾家でも手厚く持てなしてくれるが、蒼兵衛の母は人間ということもあって、より『母親』らしかった。優しくてにこにことしている彼女に人間に対し警戒心のあるキキもすぐ懐き、『ソフィーママ』なんて呼んでいた。

 たしかに、理想的な「お母さん」という雰囲気の人だ。優しくて、朗らかで、家庭的で。

 浅羽みたいだな、とシオンは一人だけパーティーから離れて行動している紅子のことを思い出した。

 魔力を戻そうと懸命になっているのだろう。魔法が無ければ自分はパーティーの役に立たないと思っているに違いないし、自分を責めているはずだ。だが、魔法以外でも役に立っている部分はある。彼女がいるだけで雰囲気が明るいし、シオンと蒼兵衛だけではキキの面倒を見きれないときもある。女子の気持ちは女子のほうが分かるし、キキも紅子に懐いている。シオンがキキと蒼兵衛の勝手な行動にイライラしたときも、紅子はその場の空気をとりもってくれた。初心者なりにダンジョンや生息モンスターの下調べをしてきたり、探索中も真面目にマッピングをしたり、弁当やおやつを用意してくれる。

 ただそれだけのことしか出来ないと紅子は思うだろうが、戦いだけが役割ではない。ダンジョンに長くいることは精神に大きな負荷を与える。長丁場であればあるほどムードメーカーは必要だ。

 風呂から上がって道場へと続く長い廊下を歩いていると、途中で蒼兵衛が待っていた。 

「ちょっといいか? リーダー」

「ああ、うん……。あ、風呂ありがとう」

「私が用意したわけじゃない。一杯どうだ、母が作った冷やし甘酒は美味いぞ」

 と言って、蒼兵衛は中庭を見渡せる縁側に行った。そこにはすでにとっくりに入った冷やし甘酒とおちょこが盆にのせられ用意されていた。

 着流し姿の蒼兵衛が縁側に腰かけ、横に座ったシオンにおちょこを持たせ、とっくりを傾けた。

「ありがとう……」

 甘酒が注がれ、一口飲むとたしかに甘くて美味しかったが、風呂上りは冷たいお茶のほうが良かったと内心思った。

「そういや、弟見ないな」

「蒼星か? あいつは私が家にいる間は部屋に引きこもってるぞ」

「え? なんで」

「何故だろうな。昔からそうだ。実弟なのにまったく懐かなくてな。私はあいつに何の感情も持っていないんだが。好きでも嫌いでもないし」

「だから懐かないんじゃ……」

「私のほうが遥かに強いからだろうか。血を分けた兄弟でありながら、まったく手の届かない天上の存在だからな。賢兄にコンプレックスでもあるのかもしれんな。思春期だし」

「はぁ……」

「私と違って友達の少ない奴なんだ」

「そうか……」

 それはシオンも人のことは言えない。自分の姉も変わっていたが、この人が兄というのも、けっこう大変そうだ。

「それとも昔、稽古をつけてやるつもりで、加減を間違って肋骨を折ってしまったから?」

「それは……」

 自分も同じ境遇で育ったシオンは、蒼星に心から同情した。

「強くなりたいと言ったのはあいつなんだがなぁ。以来、すっかり軟弱になってしまった。私の弟なら絶対強くなると思ったのに……」

「アンタほど強い人って中々……そういえば、兄さんもいるんだよな」

「ああ。じいさんもばあさんも父さんもいるぞ」

「兄さんはどんな人なんだ? 強いのか?」

「社畜だ」

「え?」

「勤め人だ。社会に出てから平日はあまり顔を合わせんな。今日も帰らんだろう」

「大変なんだな……」

「ある意味強いな。心が」

 紅子の兄の透哉もいつも忙しそうだ。会社勤めも大変そうだとシオンは思った。

「私の話はいいだろう。どこにでもいる普通の人間の家族だ」

「けっこう普通じゃないと思うけど……」

 柊魔刀流なんて道場をやっている時点ですでに。

「なあ、リーダー」

「そのリーダーっていうのやめてくれ……」

「君に言っておきたいことと、渡しておきたいものがある」

「なんだ?」

 蒼兵衛はぐいと甘酒をあおると、暗い空にぽっかりと浮かんだ白い月を見上げた。

「いつもここで、早く大人になりたいと話していた」

「セイヤさんたちと?」

「ああ。冒険者になって、日本中、いずれ世界中を旅したいとセイがいつも言っていた。知らない土地に行って、森やダンジョンを探索して、見たこともない生き物やモンスターを見てみたいとな。それはいつしか私たち三人の夢になっていた」

 小さく痩せっぽちだったワーキャットの少年と少女は、あのころ兄妹のようにいつも寄り添っていた。

 強くなりたいと友が言い、では自分はもっと強くなろうと誓った。

 そうして二人を守ってやると。

「セイヤとシリンはいつもうちに入り浸っていた。二人とも親に酷い目に遭わされていてな、虐待親というやつだ。衣服は汚くて、見えないところに痣を作っていた。二人がうちに入り浸るようになって私の親とはかなり揉めてな、それからは人目を気にするようになったのかずいぶん大人しくなったが……それでもセイは早く家を出たがっていた。自分の力で」

 ほとんどの亜人種族は、人間よりも早く一人前として扱われる。冒険者の許可も人間の子供よりはずっと簡単に下りるのだ。セイヤとシリンも中学卒業後すぐに冒険者になったと言っていた。

「私のかつての仲間たち……斬牙は、ただの不良の集まりだ。だが、家族でもある」

「……あ、うん」

 急にそんな話をされるとは思わず、シオンは慌てて頷いた。いままで彼はずっと過去の仲間の話をしたがらなかったからだ。

「メンバーのほとんどは家庭にも社会にも行き場を見つけられず、寄り添い合ってきた。そうして斬牙は大きくなっていったが、敵対グループも増えた。特にストライブは斬牙に対抗するように大きく、より暴力的になっていった。〈斬牙〉は……私とセイヤで作り、終わらせた。そのつもりだった。だが、その前にやっておくべきことがあった。ストライブも潰しておくべきだったんだ」

 着物の合わせに手を入れた蒼兵衛が一枚の紙を取り出す。

「リーダー、今回の仕事は私からの依頼だ。手持ちは無いが、代わりにこれで頼む」

「『英会話教室、生徒募集中……?』」

「裏を読んでくれ」

 畳の上にそっと置かれた広告チラシを、シオンは手に取った。流暢な筆文字に、シオンは顔をしかめた。

「……なんて読むんだ……?」

「『誓約書』だ」

「……なんて書いてるんだ……?」

「『私、十一代目柊蒼兵衛は、以下の約束を遵守することを誓う。貴君らが私の助力を必要とするとき、一切の見返り無く、全身全霊を以って協力すること。なお、この誓約書の有効期限は無期限とする』」

 達筆過ぎてシオンには読めない文面を、蒼兵衛が代わりに読み上げた。

「この、赤いのは?」

「血判だ」

「けっぱん?」

「決して違わぬ誓いの証だと覚えておけ」

「……分かった。預かっておくよ。でも、依頼なんて気にするなよ。仲間なんだから、困ったときは助け合うのが当然だろ。オレたちもいままで世話になってたし」

「そうだったか?」

 そうでもなかったかもしれないが、シオンは頷いた。

「お前がいると心強いよ」

 シオンの言葉に、蒼兵衛は一瞬顔をしかめ、それからはぁとため息をつき、真っ暗な中庭を見つめた。

「……お前がいると心強い、か……。かつての私はそう言われたくて、強くなった」

「セイヤさんとシリンさんに?」

「今のお前、少しセイに似ていた」

 どう返していいか分からず、シオンは黙って甘酒を飲んだ。美味いが飲み下した後もやはりまとわりつくような甘味が口の中に残った。

「シリンのことは……もし、あいつが何かを隠しているとしても、そっとしておいてやってくれないか。ああ見えて頑固な娘だ。言いたくなったら自分から言うだろう。そのときまで、待ってやりたい」

「ああ、うん……分かった」

「リノもシリンのことを、本心から嫌ってはいないんだ。そしてリノが斬牙を想っているのと同じように、シリンも斬牙のことを大事にしている。私たちを――セイヤを裏切ったりは絶対にしない。それだけは私が保証する」

「お前がそう言うなら、そうなんだろうし、分かったよ。オレは依頼をこなすだけだ」

 と、シオンは手にした誓約書を向けた。

「ありがとう、シオン」

「そんなふうに礼を言われると、なんか不気味だな」

「心から感謝している」

「仕事で返してもらうよ。これから色んなダンジョン行って、俺たちの手に負えないモンスターと戦ってもらうかもしれない」

 シオンが笑いながら言うと、蒼兵衛は小さく頷き、俯いた。

「どうした?」

「そんなふうにお前たちと旅をするのも、悪くないと思えてきた」

 と言いつつ、とても悪くないという顔には見えなかった。

 どちらかといえば、寂しそうだった。

「私は冒険者になりたいわけじゃなかった。そんなもの手段でしかなかった。友人の夢にのっかっただけだ。セイは悪い境遇から這い上がろうともがき、シリンは笑って耐えることでやり過ごそうとしてきた。……それを私は、ずっと助けてやりたいと思っていた。でも本当は、私もそこに居場所が欲しいだけだったんだ。強くなることで、誰かのかけがえのない存在になりたかった」

 誰かのために自らを鍛え、強くなった。だから、その誰かが失われたとき、蒼兵衛は信じていた強さを見失ったのだ。

 何か声をかけてやりたかったが、慰めの言葉も励ましの言葉も思いつかなかった。それほど仲の良い友達なんてシオンにはずっといなかったからだ。

 だが、もしいま急に紅子がいなくなったら。それは考えただけで辛いことだった。考えたくもない喪失を、蒼兵衛は二人ぶん味わったのだ。

 そうだ、かけがえのない姉を失ったとき、誰にどんな声をかけられたとしても、きっと素直に聞き入れることは出来なかっただろう。誰にも自分の気持ちなんて分からないと思ったはずだ。だから、軽はずみな共感はしたくなかった。

 しばらく考えて、結局、ただ言いたいことを言った。

「オレは、アンタの本当の強さが見たいな」

「私の?」

「ああ。蒼兵衛は強いけど、まだきっと迷ってるような気がする。なんつーか、上手く言えねーけど、オレでもそういうのあるからさ。悩んでることとかあったら、調子悪いっていうか。なんていうんだっけな、そういうの」

「切っ先が鈍る、ということか?」

「ああ、そういう感じだ。そりゃ、それでも蒼兵衛の剣は、オレたちとはレベルの違う強さだけどさ。でもなんか、まだ本気じゃない気がする」

 ふむ、と蒼兵衛は自分の右手を見つめ、握ったり開いたりを繰り返した。

「本気か……考えたことはなかった。いつでも真剣に戦っているつもりだが、人間やワーキャット相手の喧嘩くらいでは本気は出せんからな」

「お前が本気を出して戦ったら、不良なんて二度と手ぇ出してこねーよ。そのぐらいガツンとビビらせてやればいいじゃねーか」

「けっこう過激なことを言うな、リーダー」

「そうか?」

「しかし、小野原桜くらいの強者ならいざ知らず、七川ごときではな……病院送りで済めばいいが。最悪、殺してしまうかもしれん」

「そんときは、オレが止めるよ」

「そうか。止めてくれるか」

「ああ」

 止める側が無事で済むかは分からないが、嘘をついたつもりはなかった。

「ならば安心だ。君は仲間想いのリーダーだからな」

 蒼兵衛は好物の甘酒を飲み干しながら、シオンを見て少し笑った。それから再び夜空を見上げた。

 昔のことを思い出しているのだろうかとシオンは思ったが、その横顔は穏やかだった。




「おお、似合うぞ、友よ」

「うんうん、どこに出しても恥ずかしいワーキャットだよ!」

 蒼兵衛とキキが絶賛する。というか、馬鹿にされているのだろう。

「……そうか……」

 言い返すのも疲れた。

「鏡見る?」

「……いい」

 尋ねたリノに、シオンは首を横に振った。

 これから敵地に潜入するというのに、着替えと変装だけで二時間近くもかかってすでに疲れきっていた。

 昨日まで着ていたTシャツとジーンズ姿ではなく、仕事で着るジャージでもない。白いタンクトップの上に黒のレザージャケット、ぴったりとした黒のレザーパンツを履かされ、ブーツは膝下まである。

「あ、パンツ引き上げないで。ちゃんと腰履きして」

「なんかケツ見えそうで動きにくいんだけど」

「ローライズだもん。ケツはむしろ見せるくらいでいいの」

「このスカーフ、邪魔なんだけど」

「これはストール」

 首に巻かれた豹柄のストールはやたら長く、だらりと体の前に下がっている。腕にも首にもジャラジャラとシルバーアクセサリーを付けられ、変装だからと髪も耳も尻尾までヘアカラーで黒く染められてしまった。

「これ、ちゃんと落ちるのか?」

 前髪をつまみ、不安になってリノに尋ねる。

「落ちる落ちる。ちゃんと質のイイやつだから。うん、やっぱり髪型もちょっと変えよ」

「え。へ、変なのやだぞ」

「だーいじょーぶ。イケてるかんじにしたげるから」

 顔をひきつらせるシオンを前に、ブラシとヘアワックスを手にしたリノの目は爛々と光っていた。

「この町に溶け込むような立派なチャラ男にしてやってくれ」

「オッケー」

 蒼兵衛の言葉に、リノが嬉しげに頷く。その横でキキがスマートフォンのカメラを向け、連続でシャッターを切った。

「おお、連写機能……」

「撮るな!」

「紅子に見せてあげよーと思ってさ」

「見せるな!」

「あたしたちじゃ顔割れてるからついていってあげられないけど、大丈夫?」

 リノが尋ねると、キキが手を上げた。

「あたしも行く!」

「お前は留守番だ。うるさいから」

「えー、なんでよ!」

「キキは目立つからねー。大人しく待ってなよ。アメあげるから」

 リノが素早くキャンデーを取り出し、顔の前に差し出すと、キキが噛みついてボリボリと噛み砕く。リノが頬に手を当てて喜ぶ。

「あははっ、かわいー!」

「分からん……」

 もうすっかり見飽きた光景に、シオンはげんなりとした。蒼兵衛が言う。

「女の『可愛い』はアテにならんぞ」

 身重のシリンは今日は体調が悪いようで、ソフィーに言われて母屋で休んでいる。ここにいれば安全だと、ヒロは斬牙のメンバー数名を護衛に残し、仕事に行った。

 蒼兵衛の父と祖父は、先代と先々代の柊蒼兵衛であり、兄と弟も魔刀流を修めている。狙われている斬牙のリーダーの妻を匿う場所としては最適だ。

 とりあえず、シリンが狙われることはないだろう。七川と繋がっているとリノは言っていたが、何かの誤解だ。そうシオンは思った。シリンを信じるのではなく、蒼兵衛が彼女を信じているから。

「ところで紅子は?」

「連絡はしてる。土曜日だから来られるって。ここの場所は柊道場のホームページで見たから分かるって」

「やったー! 早く見せたいなー、シオンのデビュー姿を!」

 ぴょんぴょんと跳ね上がってキキが喜ぶ。

「デビューってなんのだよ」

「良いリアクションしてくれそうだな、あの娘は」

「誰? コウコって。シオンのカノジョ?」

「仲間だよ」

「ていうか、ファン?」

 キキが腕組みし、首を傾げる。蒼兵衛がふむと頷く。

「表現としては妥当だな」

「あたしも最初、彼女だと思ってたけどさぁ」

「私もだ」

「なんか違うよね。アイドルの追っかけみたいな」

「かなり熱心な部類のな」

「何をごちゃごちゃ話してるんだ。お前ら、俺が帰って来るまでは頼むから大人しくしといてくれよ」

「ねえ、シオン。パンツ引き上げないでってば」

 これから敵地に乗り込むとは思えない賑やかさに、シオンはふうと息をついた。そのとき、聞き慣れた声が道場の入り口から飛び込んできた。

「たのもう! なんちゃってー」

 えへへ、と一人で照れながら、仲間の少女がやって来た。

「あ、紅子だ。入っていーよ!」

「なになに、どんな子よ」

 自分の家でもないのに、キキが声を上げる。リノの耳がピンと立った。

「はぁーい、お邪魔しまーす! って言っても、もう入って来ちゃってたりして……」

 ぴょこっと顔を出した紅子が、はっと顔をこわばらせる。

「ワ……ワーキャットさんがいっぱい……!」

 突然紅子は胸に手を当て、気持ちを落ち着かせるように深呼吸し始めた。

「あああ、女の子もいるよぅ……可愛い……! やっぱりみんなかっこいい……! どうしよう……ワーキャットが多い町、話には聞くけどこんなに夢のような場所なんて……!」

 すーはーすーはーと呼吸を繰り返す。

「し、しばしお待ちくださいね! た、耐性が無くって……!」

 一度顔を出したのに何故かすぐに引っ込んでしまった紅子に、リノや斬牙の面々が呆気に取られたように見つめる。

「え、なんなの? 大丈夫? あの人間……」

「紅子にとってワーキャットの集まる場所は、オッサンにとってのキャバクラと同じだからね」

 完全に引いているリノに、キキが説明する。

「あたしのママもリザードマンマニアの人間だったからね。牙とウロコの無い男には魅力を感じないって生前良く言ってたらしいよ」

「お前の母親はレベルが高過ぎる」

 蒼兵衛が呟く。

「ふ、ふーん……。でも、けっこう可愛かったじゃん。すっごい挙動不審だけど」

「可愛さを補って余りある不審ぶりだな」

 入って来ようとしてまた引っ込むということを繰り返し、なかなか道場に入って来ない紅子をリノが不可解げに見やる。一人の少年が、あっと声を上げた。

「あっ、あの子、新宿駅で会った子だ!」

「リョータくん知ってんの?」

「前にセイヤさんと新宿に行ったときに会ったんだよ」

「なんでそんなに嬉しそうなわけ?」

「え? だって可愛いから……イイコだったし……」

 やけに嬉しそうなリョータの耳や尻尾がせわしなく動く。シオンにも覚えがある。シリンを見たときあんなふうにそわそわした。人間ばかりの中で育ち、同族の綺麗な女性を見慣れていなかったからだろうと思っていた。彼も人間の女の子を見慣れないのだろうか。

「でも、ちょっとイタイかんじじゃない?」

「ぜんぜん! オレ、面白いぐらいの子のほうが好みだから」

「よく言うよ。可愛ければいいんでしょ」

「ほう。お前、ああいうのが好みなのか」

 蒼兵衛が尋ねると、リョータはまったくてらいなく答えた。

「めっちゃ好きっす! あとで連絡先交換させてもらおっと」

「ちょっとちょっと、いいの? シオン!」

 キキがレザージャケットの裾をぐいぐいと引っ張る。

「え? なにが?」

「なにが!? いまのチャラ男の発言聞いてた!?」

「浅羽のこと好きなんだろ?」

「なんだその余裕!」

「痛ってえ!」

 キキがシオンの尻尾を思いきり引っ張ると、シオンが声を上げた。

「お、小野原くんっ?」

 紅子がひょっこり顔を出す。が、すぐにきょとんとした顔になった。

 シオンはキキに怒鳴った。

「なにしてんだ!」

「こっちのセリフだよ! キキちゃん知らないからね。女ってさぁ、追いかけてばっかだと疲れちゃうんだよ? 振り向いてくれない男より、言い寄ってくる手近な男で妥協しちゃうときもあるのよね。愛するより愛されたいっていうかさ……」

「……私もこれからは愛するよりも愛されたい……」

 腕を組みうんうんと頷くキキの横で、ボソボソと蒼兵衛が呟く。斬牙の男たちがそっと涙した。

「なに言ってるんだ、お前ら……。なあ、浅羽もいい加減入って来いよ」

「あっ、う、うん!」

 シオンが声をかけると、紅子は反射的に返事をしたが、目が合って固まった。

「え、やっぱり、お、小野原くん……なの?」

「うん」

 と頷いてから、そう言えば自分は変装しているのだったと思い出した。

 紅子は丸い大きな目をめいっぱいに見開いていた。その瞳に映っているのは見慣れたいつもの少年――なのだが、普段の彼とはまったくかけ離れた格好をしている。

「小野原くん……なんだよね……?」

「って言ってるだろ……」

 何度も尋ねる紅子に、恥ずかしくなってシオンはぶっきらぼうに答えると、ふいと目をそむけてしまった。

 いまのは感じ悪かったかな、とすぐに思ったシオンだったが、見ると紅子はその場にへなへなと膝から崩れ落ちていった。

「えっ!? 浅羽っ?」

「……えへへ……」

「えっ、なんで笑ってんだ!?」

「小野原くんが……今日は黒猫……黒猫バージョン……レア……」

「レア?」

「まあ、そっとしといてやりなよ。いつもパンツ履いてた女がスカート履いてそれが意外にも似合って可愛かったらテンション上がるとか男にもあるんじゃないの?」

「はぁ……?」

 キキの言葉を適当に流し、シオンは気を取り直し、紅子の傍まで行った。

「なんでもいいや。思ったより早く来てくれて良かった。いまからオレはこれから戦う敵のアジトに偵察に行くんだけど、浅羽が一緒に来てくれたら助かる。オレ一人でうろついてるより目立たないと思う」

「えっ、わっ、わひゃひとっ?」

「何言ってるんだ?」

「わ、わた、わたしっ」

 紅子が口をぱくぱくとさせた。

「大丈夫だ。危険な目には遭わせない。絶対に守るから。ラブホテルって、カップルで行くところらしいから」

「ひぃぃぃっ!?」

 紅子がそれまで聞いたことの無い声を上げると、道場の窓ガラスがビリビリと震え、その場にいたワーキャットの耳と尻尾がピンと立った。

「えっ、なに、いまの声!? 気持ち悪っ!」

 リノが自分の耳を押さえ、声を上げる。多くの亜人種が持つ威嚇の声にも似ていたが、それよりも精神に直接干渉されたような、なんとも言えない不快感に襲われた。

「大きな魔力を持つ者がその制御を覚える前には、強い感情とともにその力を垂れ流すことはあると言うが……」

「ぜんぜん制御出来てないじゃん。スランプ酷くなってんじゃないの、紅子……」

 冒険者であればモンスターの威嚇の声に耐性もある。精神も図太い蒼兵衛とキキは顔をしかめる程度だった。

 精神に直接干渉してくる魔法は、耐性に個人差がある。ワーキャットは特に精神魔法に耐性が低いと言われているが、対抗の魔石を身に着けているシオンは、もっとも傍にいたもののそれほどショックは受けなかった。

 魔石はなるべく付けておけ、とセイヤが言ったことを思い出す。精神に強くショックを与えてくる咆哮を持つモンスターにはそう会わないが、ダンジョンにゴーストが増えてくればそうも言っていられないだろう。

 やっぱりシャーマンがいれば心強いんだけどなぁ、とシオンは思った。紅子に退魔エクスターミネートを習得してもらうという手もあるが、そうなると彼女の負担ばかり大きくなってしまう。そのうえ、いまはまだスランプだ。

 自分が原因だと思いもよらず、ただ紅子が心配でシオンは声をかけた。

「浅羽、大丈夫か?」

 俯いている紅子の顔を覗き込むと、こくこくと頷いた。首まで真っ赤になっている。熱でもあるのだろうか。

「大丈夫に見えないんだけど……」

「う、うん……大丈夫だよ。て、偵察だよね……ただの……えへへ……ごめんね、動揺しちゃって……って、うわぁぁぁぁ!」

 笑って顔を上げた紅子だったが、間近でシオンと目が合うとまた大きな声を上げ、全員耳を抑える羽目になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ