対立
剥離液によって浮いた塗料を、タワシでこすりながら、『斬牙参上!』の文字を消していく。
「たしかに斬牙のメンバーが、斬牙のメンバーの家に、こんなこと書くわけないよな……」
「当たり前じゃない!」
シオンの呟きに、塀を削り取る勢いでデッキブラシをこすりつけながら、リノが答えた。
「そもそもあたしたちは落書きなんてしないよ」
「だよなぁ。それにしても酷いな。なんでこんなことを……」
「意味なんてあるわけないじゃん。バカで低俗で陰険でヒマなだけよ」
セイヤがため息まじりに言った。
「オレが言うのもなんだが、元々ガラのいい連中じゃなかった。万引き、引ったくり、恐喝、コンビニ強盗や、年寄り相手の詐欺なんかもやらかしてる。最近は特に酷いみてーだな」
「そんなことしたら、捕まるじゃないか」
「いや、ヘタ打って捕まるのは下っ端だけだ。玉座でふんぞり返ってる王様は痛くも痒くもねえ」
「悪の組織よ。もしくは悪のブラック企業」
「へえ。不良のチームにも色々あるんだな」
「一緒にしないでってば」
リノが頬を膨らませる。
「ストライブも最初は小さいチームだったんだがな。リーダーのヒュウガは、強さはまあまあってとこだが、ズル賢い奴だ。武闘派を集めて、力のある奴は新入りでもすぐ幹部にすえてやる。自分と同じ甘い汁を吸わせて、そいつらと力でチームを支配する。血の気の多い連中で、他のチームを次々に潰して無理やり傘下にしていった。逆らう奴は徹底的にやられてな」
「ヒュウガはホントにイカレてるけど、強いのは他にゴロゴロいるの。特に、突撃隊長の黒瀬兄弟。コイツらは人間なんだけど、二人揃って凶暴よ」
「突撃隊長……」
「ちょっと、なに笑い堪えてんのよ。マジメに聞いてよね」
リノが冷たい目を向ける。
「黒瀬兄弟ってのは去年東京から来て、武闘派ぞろいのストライブであっという間に幹部になったの。どっちも身長が二メートル超えてて、オーガとの間に生まれたってウワサもあるんだから」
「えー……無いって。それは無い」
「笑うなってば」
笑いを噛み殺しながら言うシオンに、リノは深く眉をしかめた。気の強さがよく表れた眉ときつい目つきが、やはりセイヤに似ている。
「ゴブリンの頭を片手で握り潰したらしいわよ」
「ぶっ……それは、戦国時代に行くのとどっちがすごいんだ?」
「ちょっと、笑い過ぎでしょ!」
顔を赤らめたリノが、シオンの尻尾をぐいと引っ張る。
「いてて……」
「おい、リノ。人の尻尾に気安く触るなっていつも言ってるだろ」
セイヤが顔をしかめ、妹を咎める。リノはシオンの尻尾から手を離し、ぺろっと舌を出した。
「悪いな、手の早い奴で。――もちろんそんなのは全部、噂に過ぎねえよ。けど、身長二メートルは本当だな。見た目は双子のオーガだよ、ほんとに。あれと素手で戦うのは骨が折れる」
「そうか。オーガなら武器を使って倒してもいいけど、人間とのケンカじゃ首を掻っ切るわけにいかないもんな」
「ちょっと……シオン、真面目な顔でそんなこと言わないでよ。怖いんだけど」
「そりゃ、真面目に冒険者やってるお前には、チンピラなんて怖くもなんともねーな」
セイヤが笑ってシオンを見やる。気安げな笑みは、地元一の不良チームの元ボスというよりは、近所の気の良い青年という雰囲気だ。
「最初に見たときから、お前はちゃんとした奴だって分かったよ。真剣に冒険者やってきた奴は、根性ある奴が多いしな。自分で培ってきた強さがあるから、自信を持って堂々と振舞える。お前にもそういう雰囲気があった」
「オレはそれほど強くないよ。リザードマンやミノタウロスに比べたら……」
「誰が冒険者としての腕っ節の話してんだ。強いってのは、腕っ節でも、年齢でもねえよ。自分を持ってるってことだろ。自分で自分を信じられる奴は、誰かにはたかれても、なじられても、何回だって自分の力で立ち上がれる。強いってのはそういうことだとオレは思ってる」
セイヤは肩にかけたタオルで額を拭うと、タワシに洗剤を付け、壁にこすりつけた。どれだけの時間、ここで落書きを消していたのだろうか。日焼けした腕に汗がびっしりと浮かんでいた。
「……この辺りでヒマ持て余してるワーキャットのガキのほとんどは、家庭に問題を持ってる奴ばっかでな。たいていは親からしてクズだ。毎日殴られてる奴、メシもろくに貰えねえ奴、学校にも行かせてもらえねえ奴。物心ついたときから、つまづいちまってるんだ。だから、立ち上がりかたも分からねえ」
塀をこすり、スプレー文字を少しずつ落としていく。
「それでもなんとか這い上がりてえって奴もいりゃ、自分のカラに閉じこもっちまう奴もいるし、親と同じ道を辿る奴もいる。そいつらを見捨てていくのは簡単だけど、それじゃこの町のワーキャットはいつまでも変わらねえ。同じ種族の奴が手を差し伸べてやらねーと。オレたちワーキャットは他の種族に比べて個人主義っつーかさ、自分さえ良けりゃいいってとこが強いだろ。でも、それじゃダメだ」
世間がそうだと決め付けているワーキャットのイメージと遠い男は、強い口調でそう言った。
「オレとシリンには、種族が違っても助けてくれた人たちがいたんだ。この柊道場――蒼樹の家族は、種族が違うオレたちに、いつも親身になってくれた。そうじゃなきゃオレだって、クソ親みてーになってただろーな」
そう言って、彼は長い話を切った。
「悪いな、オレの話ばっかりしちまって。お前のほうが、オレに話があったんだろ?」
「あ、……ああ」
セイヤとリノに両側からじっと見つめられ、シオンは落ち着き無く尻尾を動かした。
「どうしたの? 言いにくいこと?」
「あ、……えーと……」
ストライブのリーダーとシリンが繋がっていると聞いた後で、シリンが一人でシングルマザー講座に来ていたなんて話は、さすがにしづらい。それは彼女がセイヤを裏切った負い目から、彼の許を去っていこうとしているように、シオンでさえ思う。
こんな話になれば、リノも絶対に黙ってはいないだろう。シリンの裏切りを告発するはずだ。
おいそれと話せることじゃない。そう悩んで黙り込んでいると、セイヤが口を開いた。
「ソウのことだろ。アイツ、元気か? 一緒にパーティー組んでるんだってな。やっぱりムリだって、音を上げたくなったのかよ?」
ちょっと皮肉っぽい笑みで言う。そうやって、わざと話を変えてくれたように思えた。シオンもその助け舟に乗った。
「あ、いや……まだ大丈夫だ。けど、アンタの言う通りだったよ。あの人は変わってるし、たしかに誰とも巧くやれる人じゃないな」
セイヤたちと離れたあとの蒼兵衛がどうしていたかを、シオンは語った。
怪しいパーティーに勧誘され、犯罪の片棒を担ぎかけたが、それに気づいて相手を過剰にボコボコにしてしまったこと。それで逆に加害者になってしまい、レベルダウンをしていたことを話すと、セイヤは特に驚きもせず言った。
「そうか。アイツは常識が欠けてるから、お前も苦労してるだろ」
素直にシオンは頷いた。
「金が無くて、今はオレの部屋に泊めてるんだけど、マイペースっていうか……夜はすごく早く寝て、まだ暗いうちから起きてきて、それはいいけどオレまでランニングに付き合わせようとするし、家の中で筋トレするし、生活費は全部オレに頼ってるし、料理は一切しないくせに出来合いものは嫌だって言うし、人が作ったものに文句付けるし、家に居ても体を鍛えてる以外のことは何もしないんだ。風呂に入るのに風呂掃除してくれたことないし、ほこりが落ちてるってうるさいくせに、絶対掃除しないし、ゴミ出しすら行ってくれないし……」
一度口に出すと、ブツブツと文句が出てきた。吐き出しながらタワシで塀をこすり続けるシオンを、リノが気の毒そうな目で見つめる。
「イヤならイヤって言ったほうがいいんじゃない……?」
「うん……でも、あの人の強さは必要だから。面倒で、寂しがりで、勝手で、ワガママで、愚痴っぽいけど、そういうのも強いから許せる」
「我慢してるの?」
「妥協してるんだろーな」
顔を見合わせ、ワーキャットの兄妹が呟く。
「えらそうなこと言ったけど、オレも結局、あの人を利用してる。あの人が強くなかったら、オレは絶対面倒なんてみてない。でもアンタは、そんな損とか得とか抜きで、親友だったんだろ。すごいと思う」
「うーん、そんな大層なモンでも……くされ縁だからなぁ。アイツはガキの頃からあんなだし……」
「オレは何も知らないのに、えらそうなこと言った」
シオンは作業する手を止め、タワシを握り締めたまま、セイヤに向き直って頭を下げた。
「すみませんでした」
詫びるシオンに、セイヤはきょとんとした顔をした後、笑った。
「んなこと気にしてたのか。別にいいよ。絡んだのはオレだ。お前はホント、正直な奴だな。ソウが気に入るのは分かるよ。アイツはバカで心は狭いが、曲がったことは嫌いだ。だから、お前は本当に嘘の無い、いい奴なんだろうな」
「そんなことない。蒼兵衛には毎日イライラしてるし」
「もっと怒っていいくらいじゃない? ていうか、よく追い出さないね」
リノが息をつきながら言う。
「セイヤさん、もう……蒼兵衛を捜さないのか?」
「ああ。元々、連れ戻す気は無かった。ただ、アイツがフラフラして、変なことに巻き込まれてたり、口の巧い奴におだてられて犯罪の片棒でも担いでないか心配だっただけだよ」
まったくセイヤの危惧した通りの行動をしていたわけだ。セイヤは蒼兵衛のことをよく知ったうえで、本当に彼を心配していただけで、彼の強さを利用しているんじゃないかと言った自分の浅はかさを、シオンは恥ずかしく思った。
が、セイヤはそんなシオンを思いやるように言った。
「お前さ、蒼樹を悪く言うオレに、真剣にキレたよな。いい奴だと思ったよ。ソウも多分お前を気に入ってるだろうと思ったから、もう捜す必要も無くなった。独りじゃいられねー奴だから、気に入った奴がいりゃ自分から仲間になりたがるだろうしな。それがお前となら安心だ。お前は大変だろうけど」
「いや……あの人に付き合うことで、あの強さを買ってるんだと思えば、我慢できるよ……我慢しないと……強いから……」
「シオン、なんか病んでない……? 大丈夫?」
タワシを握り締めてまたぶつぶつと言い出したシオンを、リノが心配げに覗き込む。セイヤが苦笑いを浮かべ、シオンの肩を叩いた。
「本当に辛くなったら、オレに連絡しろよ。家に戻るように、なんとか説得してみる」
「アニキ、また汚れた手でシオンの肩触ってるけど?」
「あ……すまん」
と言って、その汚れた手で無意識に自分の頭まで触っている。そんな兄を、リノが呆れたように見やる。
「ホント抜けてる。ソウくんのことばっかり言ってられないんじゃない? しっかりしてよね」
そして、シオンにも言った。
「シオンもだよ。ソウくんのワガママに本気で付き合ってたらキリないよ? 言うこと全部聞いちゃダメ。叱るところは叱らないと。あの人。体は大きいけど考えてることは子供と一緒なんだから」
「たしかに、パーティーにもう一人、バカでワガママなのがいるんだけど、そいつとケンカばっかりしてるな」
「ああ、小さい子か。ピピとかいう」
「キキだけど。知ってるのか?」
するとセイヤは気恥ずかしげに、チッと軽く舌打ちをした。
「シリンの奴……人の名前くらい覚えろよ……。センターでソウと一緒に居たって聞いてるよ。アイツ、こりもせず新宿に行ったみてーだな。もうソウのことは捜すなって言ったのによ。オレに黙って新宿行って、ソウを捜してるときに、ワケのわかんねー勉強会覗いてきて、その帰りにソウを見つけたってよ。アイツ、そういうカンはいいんだよな。でも結局ソウには逃げられて、目をパンパンに腫らして帰ってきたよ」
セイヤがシリンの話をするとき、リノはずっと不機嫌そうだった。壁に残った落書きをじっと睨み付けている。
「……勉強会って?」
知らないふりをして、シオンは尋ねた。本当はセイヤの口から勉強会という言葉が出たとき、耳が跳ね上がりそうなほど驚いたが、ぐっと堪えた。
探偵ごっこはここまでにしておきたい。
シリンがセイヤに何もかも話しているのなら、やましいことなんて本当に無いはずだ。本当に、ただ勉強をしに行ったというだけなら。そうであってほしいと願った。
「あー、なんだったっけな。女冒険者向けの講座だったか、聞いたときなんでそんなの習う必要あるんだよって思ったんだが……」
うーん、とセイヤが首をひねる。
「ああ、そうそう、ダンジョンですぐに作れるカレーの作り方だったな。ダンジョンでカレーとか訳分からん。匂いがヤバいだろ。なぁ?」
呆れたように笑いつつ、セイヤが無邪気に同意を求めたが、シオンは答えられず、リノはただ嫌な顔をしていた。
何をどう告げたらいいのか、分からなくなって、シオンはただ耳をへたりと寝かせていた。
シリンは、セイヤに嘘をついている。
「どうしたのよ? シオン」
怪訝そうな顔でリノが尋ねる。
シオンが口ごもっていると、新たな助け舟が現れた。
「セイヤさん、お母さんがそろそろ中に入ったらって……ああ、リノちゃんも来てたの」
道場の裏手に、見知らぬ少年がやって来たのだ。いや、その顔は、見知らぬというほどでもなかった。
彼はシオンを見て、ぺこりと軽く頭を下げた。
「その人は知らないな。こんにちは」
顔つきと声は幼いが、シオンより背が高い。ブレザーの制服を着て、眼鏡をかけている。そのけだるげな顔が、蒼兵衛そっくりだった。
「ああ、ありがとな、蒼星。もう帰って来たのか。早いな」
セイヤが声をかける。
「テストだったから。リノちゃんとそちらの知らない方も、よかったらどうぞ。麦茶とおにぎり、母が作ったものですけど」
セイヤとリノはどことなく似ている程度だが、こっちは男兄弟だからか、本当に似ている。髪は蒼兵衛より短く、学生らしく切り揃えている。背はいくぶん低く、体つきもまだしっかりしていないので、瓜二つというよりは、蒼兵衛をそのまま少年にしたというほうが正しいだろう。
「なにか?」
じっと見つめるシオンに、蒼兵衛の弟は兄そっくりの無表情で尋ねた。
「蒼兵衛にそっくりだと思って」
「そうですね。外見だけは、兄弟ですからやむなく。あなたは冒険者ですか?」
「そうよ」
シオンの代わりに、リノが答える。
「よく見ただけで、冒険者って分かるね」
「分かるよ。斬牙の新入りだったら、兄さんのことを蒼兵衛なんて呼ばないだろ。兄のお知り合いですか?」
「あ……はい」
「気の毒に。兄がさぞご迷惑をかけていることと思います。俺は柊蒼星と言います」
丁寧に頭を下げられ、シオンも慌てて頭を下げた。
「小野原シオンです。蒼兵衛……さんとは、一緒にパーティーを組ませてもらってます」
「え。マジで?」
それまで無表情だった少年が、顔を引きつらせた。
「へ?」
「……アイツ、ヤマタノオロチに喰われて死んだんじゃなかったのかよ……クソヤンキーどもがテキトーな噂こきやがって……ちょっとは期待したのに……」
「き、期待?」
思わず尋ね返したシオンを、蒼星が真剣に見返す。
「小野原さん。駄目ですよ、ああいう人にははっきり言わないと。迷惑だから消えてくれって」
「え、いや、別に消えてほしいほど迷惑では……」
「でも迷惑なことはするでしょう。しないわけがない。兄は昔からそうでした。自分本位で、唯我独尊で、空気が読めない人ですから。十年以上も仲良くしてくれたセイヤさんたちが結婚したというのに、祝福しこそすれ拗ねて出て行くような男です。その程度の人間性で新しいパーティーに加わったところで、どうせそこでも勝手気ままに振舞って、迷惑をかけているんでしょう。なるほど、本日は苦情を言いに来られたんですね。分かりました、まずは警察に被害届を。我々も兄の逮捕に全面的に協力します」
「えーと……違うんだけど……」
淡々と一気に喋るところが、兄にそっくりだとシオンは思った。
「蒼星。シオンは蒼樹の様子を伝えに来てくれただけだ。元気にやってるみたいだぜ」
「クソ……一番聞きたくない言葉だった……」
セイヤの言葉に、蒼星は顔をしかめながら呟いた。しかし、すぐに気を取り直して顔を上げる。
「ところで、小野原さんはかなりお若いようですけど、失礼でなければお歳を伺ってもいいですか?」
「え? ああ、十六歳……」
「学年でいうと、中三? 高一?」
「高一……学校は行ってないけど」
「なんだ、一応年上か……」
「い、一応?」
「堅苦しくなんなくていいですよ。俺、中三ですから」
シオンより背の高い少年は、目線を下げながら言う。人を見下ろすときのちょっと白けたような目つきが、とりわけ兄にそっくりだった。
「もしタメだったらタメ口きこうと思ったんですけど、残念です」
「は、はぁ……」
この少年も蒼兵衛の弟だけあって、少し変わっているような気がする。
「小野原さん、お人好しそうですね。セイヤさんのように兄に付きまとわれないように気をつけてください。結婚の報告をするときは慎重に。奴の人間としての器はペットボトルのキャップくらいあればいいかな? 程度です。他人の幸せでダメージを受けるネガティブモンスターですから。もはや今頃は嫉妬に狂って正気を失い、目に映るカップルを無差別に辻斬りしたいとでも思っていることでしょうね」
「おいおい」
セイヤが苦笑を向ける。が、蒼星の言うことがまったく大げさでも無いというのがすごい。
「おばさんに言って、着替えとか持たせてやったらどうだ。ソウはいま、シオンのとこに世話になってんだってよ」
「えっ……なんて馬鹿な真似を……あんな汚物、捨てておけばいいのものを。これだからワーキャットはチョロいな……だから付け込まれるんだよ、あのクソニートに……」
ぼそりと小声で呟き、チッと舌打ちする。それから感情の読めない目でシオンを見つめた。
「いいですか、小野原さん。兄は寝ていても強いですが、飲み物にアルコールを混ぜればすぐに潰せます。チャンスはそこですよ」
「何の?」
「しかし潰しただけでは油断は禁物です。口では死ぬ死ぬ言ってても生き汚い男ですから、必ず復活してきます。とどめはしっかりと。首を落とせばさすがに死ぬでしょう。なんだったら俺に連絡ください。平時の兄には千回戦っても勝てませんが、昏倒していればただの酔っ払いですから、きっちり仕留めて必ず下克上を果たします」
「な……何の話なんだ……?」
「蒼星、やめてやれ。シオンが付いていけてねーから。コイツは本当に善意でソウの面倒みてるんだよ」
セイヤが止めてくれた。蒼星は信じられないものを見るような目で、シオンを見つめた。
「そうですか。なんか早死にしそうな人ですね。……まあ、立ち話もなんですから、中にどうぞ。道場のほうに母が麦茶とおにぎり用意してますから」
蒼星はズボンのポケットに手を突っ込み、はあ、とため息を吐き、スタスタと歩いて行った。去っていくときに、ぼそりとまた呟く。
「……あー、マジで戦国時代でもどこでもいいから行ってくれよ……」
「じ、実の兄だろ……?」
呆気に取られるシオンに、後ろからリノが告げた。
「ソウくんがお兄さんで、色々苦労したのよ。ほら、顔も似てるから、すぐ身内だって分かるし。たまに間違われることもあってさ」
「そうか……大変なんだな……きっと大変なんだろうな……」
しみじみとシオンは呟いた。
道場に案内され、しばらく待っていると、均一な形のおにぎりが並んだ皿を抱えた女性がやって来た。
「あらあら、リノちゃんも来てたの」
「こんにちはー、おばちゃん」
リノがにこりと笑って、軽く手を振る。
蒼兵衛の母は、大柄な中年の女性だった。背も高いが、恰幅もかなり良い。
灰がかった髪を一つに結ってまとめている。目も灰がかった青色だ。彫りの深い顔だちは、日本人のものとはあきらかに違っていた。
「蒼星ちゃん、母屋に行って麦茶持ってきて。氷入れてね」
「はいはい」
「テストどうだった?」
背中にかかる母親の声には無言で、蒼星がそそくさと去っていく。
「眼鏡かけてるのに、どうして頭が悪いのかしらねえ」
と言って、ころころと笑う。息子たちと違って、表情の豊かな女性だ。
「もう、セイちゃんすごい汗よ。ごめんなさいね、おばさんがずっと婦人会の集まりという名目のお茶会なんてしてたから。とってもお話が弾んじゃって。早く呼びに行けばよかったわね。やあねぇ、曇ってたのに、いつの間にか暑くなっちゃってて」
と、セイヤが首にかけているタオルを手に取る。
「もうもう、タオルもびっしょりじゃないの。着替え用意しましょうね」
「ああ。ありがとう、おばさん。いいよ、後で一回、家に帰るから」
「そう? こっちの子は、初めてね。紹介してもらってもいいかしら? 新しい斬牙の子? あ、今はニコねこ屋さんだったわね」
着物に割烹着姿の女性は、シオンを見てふっくらとした顔ににこやかな笑みを浮かべた。息子たちがよく喋るのは、彼女の血だろうか。
「シオン、蒼樹のおふくろさんだ」
セイヤがシオンに告げた。
「おばさん、こいつはシオンつって、冒険者だ。ソウの新しいパーティーの仲間で、ソウの面倒をみてくれてるんだ」
「あら、まあ。まだ子供じゃないの。こんな小っちゃな子に、ちい兄ちゃんったらお世話になってるの?」
口許に手を当て、蒼兵衛の母親が大げさに驚く。セイヤが耳打ちした。
「気にするな。この人には、日本のワーキャットはすげえ子供に見えるんだ。外国じゃワーキャットもでけえから……」
シオンよりも背の大きな女性が、大きな手でシオンの手を取った。
「私は、柊ソフィアよ。ソフィーおばちゃんって呼んでね。斬牙の子たちはみんなそう呼んでるから」
「はい。小野原シオンです」
「シオンちゃんね。セイちゃんの小さい頃を思い出すわぁ。おにぎりいっぱい食べて大きくなるのよ。セイちゃんもシリンちゃんも、斬牙の子たちはほとんどみんな、おばさんのおにぎりで大きくなったんだから」
「は、はぁ……」
大きな手で、ぐりぐりと頭を撫でられる。
「さ、セイちゃんもリノちゃんも、おにぎり食べなさい。シャケもおかかもいーっぱい入れたからね。まだちょっと熱いから、気をつけてね」
まだ湯気の立ち込めている皿に、海苔の巻かれたおにぎりが並んでいる。そういえば朝から何も食べていないので、食べ物を前にして急に腹が減ってきた。
「シオンちゃん、ちょっと毛づやが悪いわね。ワーキャットの子は食が細いのよねえ。おかずもあったほうが良かったかしら? しっかり食べてね。遠慮しちゃ駄目よ。セイちゃん、シリンちゃんは具合どう?」
「ああ、先週からつわりが酷くて。一人で寝てる」
おにぎりを頬張りながら、セイヤが答えた。その横では、同じくおにぎりを手にしたリノがそっぽを向いている。
「あらまぁ、ずいぶん長いことつわりが続くわねえ。もう五ヶ月くらいでしょう」
「六ヶ月。そういうもんなの?」
「大体つわりが酷いのは妊娠初期だけど、長い人は最後まで続く人もいるらしいからね。可哀相ねえ、シリンちゃん。初産だし、体もちっちゃいものね。不安でしょう」
「でも、オレがあんまり構うと嫌がるんだよ。具合が悪いつっても、気持ち悪いだけだからって。仕方ないからってよ」
「気を張ってるのよ。おばさんも様子見に行くわね。おにぎり持って行くつもりだったから。セイちゃんたちも落書き消しはもういいから。お仕事もあるんだし。あとはお父さんとお兄ちゃんにやってもらうからね」
「でも、あんなのじいちゃんが見たら怒るんじゃねーか」
「おじいちゃんは、怒るわねえ。寝ずの番をするとか言い出すわね。大丈夫よ、見せなきゃいいんだから。今日もおばあちゃんがさっさと連れ出してくれたし。おじいちゃんは句会に行ったら一日ご機嫌だから。でも、別にあのままでもいいわね。斬牙の子がたくさん出入りしてるから、『斬牙参上!』も間違ってはないもの」
そう言って、蒼兵衛の母は大きな体を揺すり、声を上げて笑った。
「ところで、セイちゃん。妊娠中くらい、シリンちゃん連れてうちに来ててもいいのよ? いま、大変なんでしょう? 抗争っていうの、やってるんですってねえ」
「抗争っていうか……」
セイヤが困ったように笑う。不良少年たちのトップも、この女性の前では子供扱いだ。本当の母子のような空気感だった。
「絡まれてるだけだよ。あたしたち、ケンカは絶対に買わないって決めたんだから」
リノが抗議し、おにぎりに齧りつく。
「婦人会でも話してたのよ。最近このへんで落書きとか多いでしょう? でも斬牙の子はそんなことしないわよねって。南町の子たちがよくこっちに来てるみたいだから、子供を遊ばせるのも怖いわねって。おとつい横井さんとこのお姉ちゃんが帰宅中に絡まれたんですって。そのとき、自分たちは斬牙って名乗ってたらしいの」
その話に、セイヤの顔が一瞬険しくなる。
「もちろん、斬牙の子たちじゃないって分かってるから。だからリノちゃんも一人で歩いちゃ駄目よ。皆で固まって行動して、夜道や路地裏は避けなきゃ駄目よ? 奇襲はいつだって暗闇で起こるのよ」
よく喋る主婦はそう言って、ふっくらとした頬に手を当てた。
「それにしても、ちぃ兄ちゃんも、いつまで拗ねてるのかしらねえ。昔からセイちゃんとシリンちゃんとは仲良しで、大好きだったからねえ。一人だけクラスが離れちゃったときもそうだったわよねえ。小学校三年生のときだったかしら?」
「五年生」
「そうそう。五年生にもなって、体はもうけっこう大きかったのに、駄々こねてたわねえ。一人で校長先生に直談判に行ったりしてね」
「クラス替えぐらいで……?」
シオンが思わず呟くと、蒼兵衛の母が笑いながら、背中をどんどんと叩いた。
「そおなのよお。ちぃ兄ちゃんったら気に入らないことがあったら、我慢できない子でねえ。あの頃はまだ門下生も居て忙しかったし、次男でしょう、私たちもついほったらかしちゃったのよ。それで気がついたら変に我の強い子になっちゃって。学校に通ってる間、お友達はとうとうセイちゃんとシリンちゃんしか居なかったわぁ」
「そうだったんですか……」
背中をどつかれながら、シオンは頷いた。
「オレらも、他に友達は居なかったよ」
道場の畳の上にあぐらをかき、セイヤは手の中の食べかけたおにぎりを見つめ、小さく笑った。
「ずっと三人でいるのか当たり前だったから、別に他に友達なんていなくて良かったんだ。そんなふうに一緒にいる時間が続くんだって、オレもけっこう最近まで思ってたよ」
そう呟く彼は、どことなく寂しげだった。
「シオン、本当はさ。アニキに他に話したいことがあったんじゃないの?」
駅まで送って行くと強引について来たリノが、尋ねる。
「ホント、ウソつけないタイプだね。なんか隠してるのバレバレだよ」
「そんなことないけど……」
シリンの様子を見に行くという蒼兵衛の母に、セイヤも付いて一緒に家に戻って行った。夜にはバックアップの仕事が入っているらしい。メインパーティーがダンジョンに入るのは早朝からだが、その前にバックアップチームが突入の準備を整えておくのだ。
バックアップを頼むくらいだから、それなりの難度の仕事だろうし、探索には数日かかるだろう。しばらくはセイヤも帰れないかもしれない。
身重のシリンは寂しく心細いだろう。
「ね、ホントは何話しに来たの?」
「やっぱり蒼樹兄さんのことで苦情を言いたいんじゃないですか? 無理しなくていいですよ。殺りましょうよ、一緒に」
二人の背後から、蒼星がついて来ている。彼は母親に兄の着替えとおにぎりの入った風呂敷包みを持たされていた。
「一人では万に一つも勝機は無いですが、奴を憎む二人の力が合わされば、5パーセントくらいは勝てる可能性が」
「いや、別に憎んでは……」
「勝率5パーセントなら挑まないほうがマシだと思うけど。ていうか、ホシくん、勝手に話入ってこないでよ。話し出すと長いんだから」
「その呼び方止めてくれないかな……目から炎出して魔球とか投げそう」
「なによ、それ。マンガ? だって、ソウもセイもいるし」
「蒼星くんでいいんじゃないかな。まあ……もし俺と蒼雲兄さんの名前が逆だったら、ウンくんになって危険極まりないことになるところだったから、まだマシか……」
三人兄弟だと言っていたから、きっと一番上の兄さんのことだろう。
「もう、邪魔しないでよ。あたしいま、シオンと大事な話してるの」
と、リノがまたシオンの腕にくっついて来る。が、蒼星はなおも話しかけた。
「しつこいよなぁ、リノちゃんは。話は終わったんだろ」
「まだ終わってない。シオン、何か隠してるもん。そうでしょ?」
「いや、別に……」
「ほら、目え逸らした! あるんでしょ? 言いなさい!」
リノがシオンの腕をぐいぐいと引っ張る。
「仮に隠しごとをしてたとしてもさ、そんな直球でズケズケ訊いて来られたら、誰も答えないよ。リノちゃんは噂話とかほんと好きだよね……将来うちの母さんみたいになりそう」
「別に噂好きじゃないわ。情報収集よ。どんな些細なことでも、掴んでるにこしたことはないでしょ」
「女スパイでも目指してんの? でも、好奇心で猫は死ぬらしいからさ、あんまり危ない橋渡らないようにしなよ。兄さんがいた頃とは違うんだから。セイヤさんも引退したんだし」
「だから、斬牙はあったほうが良かったのよ。そうしたら、アイツらだってここまで調子に乗ってなかったんだから」
「調子に乗る奴ってどうやっても乗ると思うけど。セイヤさんは正しいよ。若気の至りは若いから許されるのであって、ヤンキーが若くなくなったら、それってもうただのチンピラだからさ。そうなる前にやめたってことだろ。元々セイヤさんと兄さんがいたから人が集まったわけだし、その二人がいなくなったら二代目三代目って続けていくものでもないと思うよ。歌舞伎の世界じゃないんだから」
「でも、斬牙は悪いことをしてたわけじゃないわ。家にも学校にも居場所が無い皆で、寄り添ってただけよ。斬牙があったからストライブの連中みたいにならずに真面目になった人もいるのよ」
「それは否定しないけど、悪いことしてた人もいるんじゃない? 名前自体はどう考えてもただの不良チームだしさ。有名になり過ぎちゃって、最後のほうは色んな奴が斬牙名乗ってたんだろ。セイヤさんの志がどんなに高くても、集まってくる全員がそうとは限らないわけで。俺の学校でも居るよ、自分は斬牙だって名乗ってるバカヤンキーが」
「なによ、そんな奴シメといてよ」
「なんで俺が。『テメーなに勝手に斬牙名乗ってんだよコラァ!』なんて古典的なセリフ吐くくらいなら、とびっきりの笑顔で『君も柊魔刀流の門下生になって一緒にいい汗流さないか!』って勧誘するほうがマシだよ。だいたい俺、斬牙じゃないし」
「ちょっと。それって、ときどき駅前で道場のチラシ配ってるあたしへのイヤミなわけ?」
「え? 『そこのお兄さん、柊道場で一緒にいい汗流しましょう!』なんて言ってるの? リノちゃんが?」
「そこまでは言ってないわよ。でも笑顔は浮かべてるけど」
リノが恥ずかしげに顔を赤らめた。
「気をつけないと、別のバイトと間違えられるよ。へー、リノちゃんが笑顔でチラシ配りしてるのか。今度見に行くよ」
「だって、おじいちゃんが生きてるうちに賑わってる道場を見たいって言うから! 配りなさいよね、アンタも! 道場の息子でしょ!」
「遠慮しとく。受験生だし……それに、じいちゃんがあと千年生きても柊魔刀流が流行ることは無いよ。未来永劫」
「せめてあのほったらかしのホームページなんとかしなさいよ! あたしこないだたまってた業者からのメールとか掲示板の書き込みとか全部削除したわよ!」
「ホームページ自体消してくれてよかったのに」
振り返って怒鳴るリノに、蒼星が無表情で返す。そんな二人の姿に、キキをからかって遊んでいる蒼兵衛のことをシオンは思い出していた。やっぱり兄弟なんだな、と思いつつ、まだ会っていない一番上の兄さんまでこんな人だったら、それはちょっとくどいな……と思った。
「シオン、ごめん、ちょっと来て」
駅までやってきたリノが、そう言ってシオンの腕を引っ張った。リノが向かう先には、数人の人間たちも遠巻きに視線を送っている。そこには線路の高架橋があった。
高架下の短いトンネルは、落書きだらけだ。『斬牙』の文字の上に×印が付けられ、『潰す』とか『殺す』とか物騒なメッセージが殴り書きされてある。
そこに、ワーキャットの少年少女が十人ほど集まっていた。
リノが近寄って行くと、輪を作っていた少年少女の中で、一人の少年だけが蹲っていた。
ワーキャットの少年たちは細身で、全員子供のように見える。中でも蹲っている少年はとりわけ小柄で、筋肉はしっかり付いているものの、狙われたらひとたまりもないように見えた。顔半分を酷く腫らし、鼻血を擦ったのか顔中が血で染まっていた。
「どうしたの?」
「ヤラれたんだよ。ストライブの連中に」
一人だけ大人びた男がいて、そう答えた。
「こっちに来てたの?」
「最近はしょっちゅうだ。下っ端の奴らまで、完全に我が物顔だよ。セイヤさんやソウさんが手を出さないって、完全に分かってるからな。立てるか?」
「……すいません……ヒロさん」
ヒロさん、と呼ばれた男が、顔を血だらけにした少年に肩を貸してやる。
「わざわざ来てもらって。仕事中なのに……」
「気にすんな。営業ってわりと自由きくからよ」
さらさらとした茶髪の襟足を伸ばしたホスト風の男は、派手な顔立ちにあまり似合わない地味なスーツを着ていた。
「一人で行動してたのか?」
「バイト帰りだったんで……向こうの道路にバン停まって……背後からいきなりヤラれて……」
答える少年はほとんどのワーキャットがそうであるように幼さの残る整った顔だちをしていたが、いまは顔半分だけを1・5倍くらいに膨れ上がらせていた。片足も引きずっていて、痛々しい。他の少年たちも手を貸したが、立ち上がるときには苦痛の呻きを上げた。
「膝の曲がり方がおかしいぞ。早く病院に行ったほうがいい」
とシオンが言うと、ヒロが頷いた。
「車回すから、表まで我慢出来るか? そのほうが救急車より早い」
ボコボコにされた少年が、痛みに耐えながら頷き、掠れた声で言った。
「……オレのバッグ、ありますか? 今日、初めてバイト代もらったんすけど……盗られたかな……」
喋ると顔が痛むのだろう。口の端が切れていた。
「こいつのバッグ、あるか?」
ヒロが尋ねると、他の少年少女たちは気まずそうに首を振った。
「……じゃあ、病院は、ちょっと……金、無いから……」
「んなもん、気にすんな」
「そうだよ、レンくん。とにかく病院行こ」
ヒロとリノが励ますように声をかけると、少年は痛みに顔をしかめながら俯いた。
「……クソ、アイツら調子くれやがって……。こっちが手え出せねーのをいいことに……あんな下っ端まで、いきなりデカい顔しやがって……」
睨み付けるような少年の目から、涙が一筋零れた。
「せっかく始めた仕事だって、もうこれで……」
「大丈夫だよ、レンくん。事情話して、休職すればいいじゃない」
リノが一生懸命声をかけるが、少年は答えなかった。バイトを始めたての不良少年が、対立グループの襲撃にあって大怪我をしたので長期休職します、なんて通じないだろう。職場としてもすぐに人員を補充しなければならないし、彼が復帰するころには居場所は無い。そんなことはシオンにも分かる。
「ヒロくん、あたしも病院ついてく。シオン、ごめんね。今日はここで。また遊びに来てね!」
そう言って、リノは負傷した仲間に付き添って行った。兄に似て仲間思いで、面倒見の良い少女だ。
残されたシオンに、風呂敷包みを手にした蒼星が無表情で尋ねた。
「……また遊びに来ます? こんな町に」
「あっ、おのたん。おかえリザードマン! なに、そのイカすスタイル! すっげクラシカルなよそおいじゃん!」
風呂敷包みを抱えて帰宅したシオンに、最近いつも夕方にはほうきを手にしている西沢が、いつものテンションで尋ねる。
痛ましい事件を目にした後で、あまり付き合う気分になれない。
「ただいま」
それだけ言って、シオンは彼の横を通り過ぎようとした。
「あっ、ちょい待っち! なんかおのたんの部屋で、ギシギシ変な音がしててさぁ、『ふっふっふっ』て男の息遣いがかれこれ一時間以上も……」
「蒼兵衛が腕立て伏せしてるんだろ。いい加減慣れてくれよ」
階段を上がりながら、シオンはそっけなく答えた。西沢はキュウンと大げさに悲しい声を出した。
「ひどいよー、おのたん! 管理人からの苦情に、住人が取り合ってくれないなんて……ていうか、腕立てって一時間もするものなの?」
「分かったよ。もう止めるように言うから……」
シオンはため息をつきつつ、階段を上がった。
蒼兵衛の地元では、彼の親友や仲間たちが大変な目に遭っている。彼の実家まで被害に遭っているのだ。そんな現状を目の当たりにすると、自分は蒼兵衛に仲間になってもらって良かった、と喜んでいられなくなった。
「ただいま……」
部屋の扉を開ける前から、たしかに激しい息遣いは聴こえていた。蒼兵衛と暮らすようになって、本当に壁薄いなここ……と最近とみに思うようになった。
扉を開けると、汗の臭いが漂ってきて、上半身裸の蒼兵衛が腕立て伏せをしていた。一時間もやっているというわりには、肘をしっかり深く曲げ、一回一回ゆっくりと負荷をかけている。
「おらー、しゃっきりせんかー」
蒼兵衛の背中の上で、キキが偉そうにあぐらをかき、時折ベシベシと尻を叩いている。
「千回までもう少しだぞー、気張ってけー、九百九十九かーい、九百九十九かーい、九百九十九かーい……」
カウントするキキの後ろまで行って、シオンはその頭にゲンコツを喰らわせた。この石頭は殴ったほうが痛いのだが。
「なにすんの、シオン!」
「それじゃ永遠に終わらないだろ。鬼かお前は!」
「違うもん! 普通の腕立てじゃ面白くないから乗れって言ったのはコイツだもん!」
「カウントの仕方だ! なんでずっと九百九十九回なんだ!」
「ラクには終わらせてやらんぞと思って……」
「いつまでもこんなことしてるから、管理人から苦情が来るんだよ! 蒼兵衛ももうやめろ、もうとっくに千回過ぎてるだろ!」
キキを持ち上げて下ろす。蒼兵衛の顎から汗が滴り落ち、畳に水溜りを作っていた。
それまでシオンが戻って来たことにも気づかないほど没頭していた蒼兵衛が、急に軽くなったからか、ぴたりと動きを止め、そのままの姿勢で顔だけを振り向かせた。
「……おお、君か。ちょうど良かった。負荷が物足りないなと思っていたんだ。君も乗らないか?」
「乗らん! もうやめろ! なんかすごく部屋が汗臭いし、なんだこの湯気!」
怒鳴りつけると、蒼兵衛はようやく体を起こした。湯気は彼の体からもうもうと立ち上っていた。
蒼兵衛の息は上がっていたが、表情は平然としていた。一人だけサウナにいるように全身に汗をかいている。こういうところは単純に凄いと思うが、なんとなく尊敬出来ないのは何故だろう。
「クソガキ、タオルだ」
「誰がクソガキじゃあ! ほらよっ!」
と、キキは言いつつも、ちゃんとタオルを投げてやっていた。と思ったら、それは雑巾だった。しかもトイレ掃除に使っているやつだ。蒼兵衛は気づかずに受け取り、顔を拭いていた。キキがニヤニヤと笑ってそれを見ている。こいつ、どんどん悪くなっていくな……とシオンは国重と静音に申し訳なく思い、それは雑巾だと教えるとまた低レベルのケンカが始まるので、いっそ黙っておいた。知らなければいいこともあるだろう。
汗を拭いながら、蒼兵衛がシオンの手許に視線を止めた。シオンは片手に風呂敷包みを持っていた。
「……それは、私の母が愛用しているものだ」
あまり驚いた様子も無く、蒼兵衛が呟いた。
「私の家を訪ねたのか?」
「お前んちって、へんてこ流の道場?」
キキが首を傾げる。
「シオン、そんなとこ行ってたの? どうだった? 廃れてた?」
キキの質問は無視して、シオンは電車の中で考えていた言い訳を口にした。
「着替えはあったほうがいいと思って。それに、居場所を知らせておくくらいしておいたほうがいいだろ。相談も無しで悪かったけど、リーダーとしてそう判断させてもらった。冒険者なんて、いつどうなるか分からない仕事なんだから」
「……君って、嘘が下手だな」
「目がすごく泳ぐよね。尻尾がめちゃくちゃ不自然に動いてるし」
蒼兵衛とキキが白けた目を向けてくる。やっぱり探偵は出来ないようだ。
黙り込んでしまったシオンが落ち込んだと二人は思ったらしい。
「まあまあ、座んなよ。お茶でも飲んでさ」
キキが端に避けていたちゃぶ台を抱えてきて、部屋の真ん中に戻した。
「そうだぞ。パーティー間で隠し事は良くない。お茶でも飲みながらゆっくり話すといい」
そう言いつつ、二人が動く気配はいっさい無い。こいつらの「お茶でも飲もうと」は、「お茶を入れろ」ということなのだ。とっくに諦めているシオンは、冷蔵庫からペットボトルの緑茶と、三人分のコップを持ってきた。
その間に、蒼兵衛が風呂敷包みを開けた。キキが横から覗き込む。
「浴衣しか入ってないじゃん」
「部屋着と寝巻きだ」
「おお、サムライっぽいじゃん」
「侍だが」
裸の上半身に浴衣を羽織り、前を合わせて帯を締める。そして汗で汚れたズボンも脱ぎ、キキに投げつけた。
「ギャー! 乙女の顔になんてモン投げてんのよ!」
「この家、洗濯機無いからな。なんか袋に入れといてくれ」
「あたしの顔に投げる必要あった!?」
キキは怒りながら、ズボンを足許に叩き付けた。シオンはそれを拾って、後でコインランドリーに持って行く用のかごに入れた。
「あ、おにぎりももらったぞ」
お茶とおにぎりをテーブルに並べると、早速キキが頬張り出した。
「お。塩がなかなかきいてるじゃん」
「道場だからな。汗を流した後にはいつも、この塩辛いおにぎりと決まっている」
腹が減っていたのか、がつがつとおにぎりを食べる二人のコップに、シオンは緑茶を注いでやった。
「で、私の地元なんかに行って、どんな大冒険をしてきたんだ?」
コップを手に、蒼兵衛が少し笑いながら尋ねた。普段笑わない奴がこういうときに笑うと、薄気味悪いものがある。
どうせ下手だから、嘘をつくのはやめよう、とシオンは腹をくくった。
「セイヤさんに会って来たんだ。シリンさんのことで、気になることがあったから。でも何も言えずに帰って来たよ」
蒼兵衛が僅かに眉をしかめた。
「あのぶりっこ女かぁ。赤ちゃん、そろそろ産まれたかな?」
わざとらしくキキが言うと、蒼兵衛はひどく暗い顔でコップを握り締めた。なんだかミシミシと不吉な音がしていたので、シオンはフォローしようと明るい声で他愛も無い話題のように言った。
「いや、まだ六ヶ月だって言ってたぞ。つわりが酷いらしい」
「シオン、それフォローしてるつもりだとしたら、まったく逆効果だけど……」
「セイヤさんの妹にも会ったぞ」
「リノか。まだフラフラしてるのか、あの娘。とっとと大宮に帰れと言ったのに」
少し気を取り直したように、蒼兵衛が呟く。
「また女ぁ? その子、可愛い?」
キキが両手で頬杖をつきながら尋ねると、シオンはあっさり頷いた。
「ああ。可愛い子だぞ」
「あーあ。また紅子の影が薄くなっちゃうよ」
「何の話だ。それから、アンタのお母さんと弟にも」
「そうか」
「ねえねえ、コイツの弟、イケメン?」
「この人と同じ顔」
「なんだ……聞くんじゃなかった……」
シオンが蒼兵衛を指差すと、キキが露骨にがっかりした顔をした。
「何を言う。私はけっこう格好いいだろうが。地元じゃモテたんだぞ。私の彼女を名乗る女性がたくさんいたんだからな」
「それって『アタイの男はカタギじゃないんだよ』って言いたいだけの女でしょー」
おにぎりを食べ終えたキキは、いつの間にストックしているのか、押入れからスナック菓子を引っ張り出してきて、両側に引き裂くように袋を開けた。
「失礼な子トカゲめ。私はカタギだ。ちょっとやんちゃな時代があっただけの普通の青年だ。お前のうちなんてガチじゃないか」
「まあまあ、ポテチ食いなよ。あとうちはヤクザじゃないからね」
「でも、アンタ本当に地元で有名なんだな」
「盛大にフラれた男として? ププッ」
キキが笑うと、蒼兵衛は掴んだポテトチップスを手の中で粉々に握り潰した。
「おい、キキ……」
「うるさい何とでも言え。私の青春はもう終わった……最後に彼女に会って、美しい思い出に昇華することが出来たのだ……」
言いながら、蒼兵衛は目を潤ませた。
「出来てるか……?」
シオンは冷たい目を向けながら、小さく息をついた。そんなシオンの態度に、蒼兵衛は過敏に反応した。
「どうした、そのちょっと冷たい感じは。傷ついている青年に、もうちょっと労わりの気持ちを持って欲しいんだが」
「傷ついてるのは分かるけど、お前の地元も大変そうだぞ。今日、斬牙の若い奴が、敵対チームにリンチされてたぞ」
「ちょ、ちょっと待って! いま、何て言った!?」
シオンの言葉に、キキが慌てたように口を挟んだ。
「ざん……何!? 何て!?」
その剣幕にシオンは目をしばたたかせた。
「キキ、知ってるのか? 斬牙のこと」
「ざんがっ!? どういう字!?」
「斬るに牙だ」
蒼兵衛が答えると、キキは腹を抱えて爆笑した。
「ギャハハハハハ! か、かっけえ! 斬! 牙! だって!」
「キキ……いい加減にしろよ……」
「何が可笑しい。格好いいだろうが、〈斬牙〉は。私が名付けたんだぞ」
「あはははははは! ダ、ダッセえ! 斬! 牙!」
「キキ!」
とうとう後ろに転がって、足をバタバタさせながらヒーヒーと笑っている。こんな奴、斬牙の人たちには会わせられない。
「騒ぐなら追い出すぞ! お前だって、アイドル冒険者になることをバカにされたら腹立つだろ!」
「はぁ? アイドル冒険者はバカじゃないもん」
「もういい……」
けろっとした顔で言うキキに、バカじゃないかと言いたかったが、言い争う時間が無駄なので、ため息をつきつつ、首を横に振った。
そして、蒼兵衛に言う。
「斬牙が解散した後に、真面目に働いてた奴が、いきなりボコボコにされたんだぞ。多分、相手は二人三人じゃない。かなり酷い怪我だった。たった一人を大勢でやったんだ」
「襲撃か。珍しいことじゃない。ま、普通のチームなら仲間を集めて即報復だろうが、セイヤはしないだろうな」
「なに涼しい顔してるんだ。ヤラれたのは、アンタの仲間だったんだろ!」
ムッとしてシオンが言うと、蒼兵衛はコップの茶を啜りながら、こともなげに答えた。
「だってもう仲間じゃないしな。どうして君が熱くなるんだ? 斬牙に入ったのか? あ、お茶入れてくれ」
とコップを差し出され、シオンはバンと机を叩いた。
「うお」
キキが驚いたようにのけぞる。
「レンって奴だ。知らないか?」
「知っている。お前と同じ歳で、中一のときから斬牙に入っていた。チビだが素早くて威勢が良くて、よく私に鍛えてほしいと頼んできた。ケンカは同学年の中じゃトップで、他チームの奴とタイマン張って何度も勝ってたから標的にされたんだろう。ヤラれたことのある奴は恨みが深くなるし、強い奴ほど襲撃される」
淡々と話す蒼兵衛に、シオンは信じられない気持ちだった。自分を慕っていた後輩が嬲られたのに、何の感情も無いようだった。
「足が酷く曲がってた。思いきり踏みつけないとあんなふうにならない。それは倒れた相手を更に痛めつけたってことだろ。あれじゃ元に戻そうとしたら、ヒーラーに高い金を払わないといけない」
「払えないだろうな、あいつの家は母子家庭だ。しかも母親はパチンコとホストにどっぷりの貧乏だ。いつもうちの道場でメシを食ってたからな。そんな奴らばっかり集まるおかげで、うちの道場まで貧乏だ」
「腹が立たないのか? 知ってる奴が卑怯な手でやられて。アンタ、強かったんだろ。皆、アンタとセイヤさんを慕ってたんじゃないのか」
蒼兵衛は表情を変えず、答えた。
「意味が分からん。私が強かったら、どうだというんだ? 私とセイヤは斬牙を作ったが、それだけだ。メンバーを募集したわけでも、チームに勧誘したわけでもない。セイヤは来る者拒まずだったからチームはでかくなったが、お前たちの面倒を一生みてやると言ったわけじゃないし、その斬牙も今は無いしな」
冷たい言葉を、シオンは小さく耳を動かしながら聞き、愕然とした。
「それ……本心なのか? アンタの家にだって、酷い落書きされてて、セイヤさんが一生懸命消してたぞ」
「よくやるな、アイツも。どうせ汚い壁なのに。わずかな門下生も近所の腹の出たオッサンたちが運動不足解消のために月一で通ってるだけだ。放っておけばいいものを」
「自分の家だろ? 自分の家が酷い目に遭って、何も感じないのか?」
「流行ってないしな。門下生がいないぶん、父と母はガキの面倒をみるのが楽しみなんだ。好きでガキどもの腹を膨らませてるだけで、もはや私が居なくても勝手に斬牙の連中は集まるだろうし、父母も喜ぶだろう」
「アンタ一応、へんてこ流の何代目とかじゃないの? 運営に無関心でいいの?」
キキが突っ込む。
「私は魔刀流の技は継ぐが、道場で炊き出しをやる父母の趣味まで引き継ぐつもりはない」
「……今度は、落書きで済まないかもしれないぞ。もし、襲撃されたら」
「そうなればもう警察が解決してくれるだろう。それに普段剣を振るう機会も無いから、喜んで応戦するんじゃないか」
「家にはお母さんやおばあさんだって居るんだろ」
「母も祖母も元冒険者で、攻撃魔法の使い手だ。今も鍛錬は欠かしていないし、針の穴を通すコントロールでゴキブリ一匹とて魔法で的確に粉砕する」
「……じゃあ、もし、セイヤさんやシリンさんやリノが、あんなふうに襲撃を受けたら、どうするんだよ」
「セイヤは強い。それに、ストライブとは敵対しているが、他のチームとはそれなりに円満にやっている。セイヤを潰せば斬牙の連中も黙っていないし、他のチームも応援にくるだろう。ストライブは嫌われているからな。セイヤを潰すのがヤバいことぐらい奴らも分かっている。だからネチネチと嫌がらせをするだけだ。調子に乗ってるうちに下手打って幹部も捕まるだろう」
「どうして、そんなに他人事みたいに言うんだ?」
「他人だからな」
「本心かよ」
「私の青春は終わったと言っただろう」
感情が分からない無表情に、シオンは苛々と怒りを募らせていた。ここまで彼の傷が根深く、偏屈だとは思わなかった。
「すぐカッとなるな、ワーキャットは」
と蒼兵衛に小馬鹿にされたように言われ、本当に頭にカッと血が上った。
セイヤと初めて会ったときもそうだった。挑発するようなセイヤに、怒りを爆発させてしまった。何も知らずに。
そのことを思い出し、咄嗟に怒鳴るのを堪えた。
怒りは、思考能力を低下させる。だから、彼らはわざとシオンを怒らせるのではないかと、ふいに思った。
彼らが挑発的な物言いをするのは、本心を誤魔化したいときじゃないのか? 彼らはワーキャットのそういう性質をよく分かっている。感情が素直で、短絡的で、すぐ挑発に乗ってしまう。
そうやってシオンを挑発して、まともに話をさせなくして、自分の本心を悟らせないようにしている。そう思えた。
そうだ。きっと。
素直じゃないのだ、蒼兵衛もセイヤも。
もう一度仲良くする方法が、分からないのだ。
でも、本当は、元に戻りたいんじゃないか?
「……シリンさんが」
気を落ち着かせるために息をつきながら、今日セイヤに言えなかったことを、シオンは告げた。
シリンの名を出すと、やはり蒼兵衛の顔つきが僅かに強張る。この人も感情が表に出にくいが、本当は激情的なタイプだ。
「シングルマザー講座なんて一人で行くのはおかしいって、浅羽が言ったんだ。たしかにそうかもしれないと思って、セイヤさんに相談してみようと思った。けど、リノに会って、言われたんだ。シリンさんはストライブのリーダーと、繋がってるって。証拠があるらしいけど、そのことはまだリノは誰にも言ってない。セイヤさんにも。多分、リノも苦しんでるんだと思う」
「浮気?」
空気の読まないキキが、シオンの顔を覗き込みながら、ちょこんと首を傾げた。
「分からない。けど、リノはウソをつくような奴じゃない。でも、シリンさんがそんなことをする人だともオレには思えない。でも、シリンさんは新宿センターに行った話を、ダンジョンで作るカレー講座に行ったなんてウソをついてた」
「ダンジョンでカレー作ったら、匂いがヤバいじゃん」
「シリンさんもセイヤさんに何か隠してるんだ。それは間違いない」
蒼兵衛は黙っていた。
いつもの表情で、ずっと黙っていた。
そんな彼を、シオンは真っ直ぐ睨みつけた。
「アンタがもう関わりたくないっていうんなら、オレももう何も言わない。勝手ににしろよ。でも、オレには何が正しいのか、誰の話を信じていいのか分からないけど、アンタは分かるだろ。アンタの仲間はあそこにいて、今もアンタのことを待ってる。ずっと一緒に居た仲間って、そんなに簡単に捨てられるのか!?」
最後は声を荒げてしまった。
死んだ桜と、今も彼女を助けられなかったことを悔やみ、捜し続けている仲間たちのことを思い出したのだ。
それに、彼女の強さに追いつけず、家で待っているだけだった自分の弱さも。
強さがあれば、守れたかもしれない。彼女と一緒に、戦うことが出来たかもしれない。
だから、強い奴に憧れた。
蒼兵衛の強さを初めて見たとき、羨ましいと思ったのだ。
「居なくなってからじゃ、絶対後悔するんだよ!」
結局、感情に任せて怒鳴っても、蒼兵衛はやはり感情の無い顔で見返していた。
キキはせっせとテーブルの上に手を伸ばし、ポテトチップスを口に放り込んでいる。
「……シリンは」
抑揚の無い声で、蒼兵衛が呟く。
「……ずっと、セイのことが好きだった。知ってたよ……そんなこと……。でもセイは、シリンのことを妹のように思っていただけだった。だから私は……いつか、あの子も諦めるだろうと思っていた。そして、私のことを見てくれるだろうと……それまで何も、見ないふりをしていた……ただ、待ってたんだ、私は」
「蒼兵衛……」
「でも、あの子は、諦めなかった。それだけだ。あの子は根性があって、私には無かった。私はずっと昔から、木っ端微塵に振られてたんだ……」
「ようやく認めたね。成長したじゃない」
キキがポテトチップスの油が付いた手で、浴衣の背中をぽんぽんと撫でた。そのまま、油を拭く。シオンはそれを見て、顔を引きつらせた。
「お前って奴は……」
そして、キキが勢い良く拳を振り上げる。
「埼玉は最近行ってなかったから、アンタの地元がそんなに荒れ果てた地になってるなんて知らなかったよ。シメちゃおうぜ、そんな奴ら! チーム小野原、埼玉に出陣じゃあっ!」
「……え? ああ……なにが?」
「要らんぞ、お前は。神奈川に帰れ」
二人の食いつきが悪いので、だん! とテーブルに片足を乗せ、キキはもう一度拳を振り上げた。
「――出陣じゃあっ!」
「いや……テーブルに足乗せるなよ……」
「……ふむ、しかし、連中の群れにこの闘犬をけしかけるという手もあるな。撹乱には悪くないか」
顎に手を当て、蒼兵衛が神妙な面持ちで呟く。シオンは慌てた。
「ちょっと待てよ。まさか……抗争する気なのか? それは、マズいんじゃないか?」
そういえばこの男は、地元では伝説の男だった。どこまで本当かは知らないが、向かってきた集団を全員、一人で半殺しにしたという。
武闘派揃いのストライブと伝説の男が戻ってきた斬牙が本気でぶつかったら、さすがに大きな騒ぎになる。下手したら、捕まるんじゃ……とシオンは息を呑んだが、蒼兵衛はさらっと言った。
「このガキの親はリザードマンの親分で、力を持ってるんだろう? きっと多方面に太いパイプがあるはずだ。いざとなったら揉み消してもらう」
「いいよ! キキのおじいちゃんに出来ないことは無いからね!」
「あるだろ!」
無責任な自信で祖父をピンチに陥れようとするキキが、指でピストルの形を作り、すちゃっと構える。
「よーし、チャカ持って行こう」
「冗談だよな!?」
弾丸のような速さで、シオンは素早く突っ込んでいた。
先週、閑話も更新しています。
あまり知られていないようなので一度宣伝しておきます。
懐かしの笹岡さんが出てくるギャグです。