泥の町のワーキャット
歩いていると、ワーキャットの姿が目につく。
リザードマンやミノタウロスのような大柄な亜人、マーマンやケンタウロスのように生活範囲が限られている亜人は、それぞれの居住区で暮らしているが、彼らに比べ、ワーキャットの暮らしは人間とほぼ変わりない。それでも同じ種族で寄り添い合って、この地に根付いた。
ここはそんな、ワーキャットの多い町なのだ。
シオンが歩いていても、それほど視線を感じることが無い。そういう意味では居心地は悪くない。
ただ、いたるところに不良少年や少女の姿が目に付く。
マイペース、不真面目、目先のことしか考えない、といったレッテルを貼られがちなワーキャットだが、こういう様子を見ると無理もないなと感じる。冒険者の中にも素行の悪い者が多いのは事実だ。
が、今回に限っては、コンビニ前や公園、街の至る場所でたむろっている若者が多いことが、聞き込みには都合が良かった。
ただ、彼らはあまり好意的とは言えなかったが。
「ちょっと、いいか?」
古いゲームセンターの入り口に、我が物顔でたむろっていた少年たちに近づき、声をかける。
「セイヤさんってワーキャットを探してるんだけど」
「セイヤって、三崎誠也?」
若者の顔がさっと変わる。ただでさえ見知らぬワーキャットを警戒していたのが、明らかな敵意へと。コンビニ前で声をかけたジュンヤという少年と同じだ。
「テメー、セイヤの仲間か? よそから来たのか?」
「知り合いだよ。オレは東京から来たんだ」
少年たちが険しい顔を見合わせた。
「斬牙が解散したなんて、やっぱウソかよ」
「ソウジュがいなくなったから、東京のチームに声かけて仲間集めてるって話、あれホントなんじゃねえのか」
少しつついただけで、勝手に情報を喋ってくれる。
「おい、テメエ、東京のどこのチームだ?」
と、コンビニ前と同じように、また胸倉を掴まれた。このまま聞き込みを続けると、このTシャツの襟は伸びきってしまうかもしれない。
ワーキャットの少年たちに凄まれても、シオンは臆することなく答えた。
「オレはそのチームとかいうのとは無関係だよ。ただの冒険者だ。セイヤさんともそれで知り合ったんだ。近くまで来たから、会って行こうと思って……」
「見え透いたウソついてんじゃねえよ!」
用意していた理由を語っていると、掴まれた胸倉を乱暴に揺すられた。
「ウソじゃない。本当にただの冒険者だよ。さっき言ってた、ソウジュって奴、そいつとも友達なんだ」
途端、いまにも掴みかかってきそうな顔をしていた連中が、一様に顔を引きつらせた。
「……ソウジュが、帰ってきたのか?」
胸倉を掴んでいた少年が、青い顔で言いながら、シオンから手を離した。
「帰るも何も、地元だろ?」
「じゃあ、あれは……デマか? フランスの傭兵部隊にスカウトされたって」
シオンは首を傾げた。
「なんでフランス?」
「知らねえよ……オレはそう聞いてたんだ。外国で傭兵になって超危険種と戦ってるって……。なあ、それじゃ、ソウジュはまだ日本に居るのか?」
「東京に居るけど」
そう答えると、彼らは耳と尻尾を激しく立てた。
「東京!? めちゃくちゃ近いじゃねーか!」
「オレたちは、斬牙には手ぇ出してねーからな!」
急に怯え出した少年たちは、そう言い残し、そそくさと去って行った。
「……何なんだ?」
独りごち、シオンは再び首を傾げた。
それからも、不良っぽいワーキャットを見つけては、同じように聞き込みを続けた。セイヤの名を出すと少年たちはいきり立ち、ソウジュの名を出すと怯えだす。
あまりにも同じ反応なので、シオンも少し楽しんでしまった。そんなにわか探偵でも、分かったことはあった。
この辺りの不良少年と少女は、ワーキャットを中心とし、いくつかのチームを作り、いがみ合っている。
中でも、大きな二つのチームが、激しく対立していた。
一つは、〈斬牙〉。セイヤと蒼兵衛が少年のころに作ったチームだ。この辺りでは一番大きなチームだったが、リーダーであったセイヤの引退と共に、メンバーのほとんどが更正の道を選んだ。元斬牙のメンバーは、シオンが話を聞こうとしても、関わりたくないという態度であまり取り合ってくれなかった。
斬牙は百人を超えるチームだったが、解散に反発する者は少なく、すんなりと受け入れ、真面目に仕事を始めたり、学校に戻ったようだ。
それが、それほど簡単なことではないと、シオンにも分かる。シオンやキキのように、人間ばかりの社会で馴染めなかった亜人は、差別される者の意識が強くなってしまう。だから、そう簡単に戻れない。戻る勇気が出ない。
そうして一度は不良グループに入った者たちが、セイヤの背中を追って、再び社会に戻る決意をしたのだ。
シオンはセイヤという男を見直した。
斬牙はケンカや暴力を楽しむことはなく、シオンが想像する不良チームというものとはまったく違っていた。聞き込みをすればするほど、凶暴そうな名前とは裏腹に、セイヤを慕って集まった不良たちの仲良しサークルのように思えてきた。実際そうなのかもしれない。寄り合い所のようなイメージだ。
もう一つのチーム、〈ストライブ〉は、まさにシオンが想像していたような不良チームだ。それも、かなり過激な部類の。
斬牙より後に出来たチームで、彼らと馬の合わない者たちが集まり、斬牙――というより、セイヤに対抗意識を燃やしている。
対立しているというよりは、ストライブが執拗に絡んでくるのだと、話を聞いた元斬牙のメンバーが鬱陶しげに零していた。
相当な武闘派チームで、不良同士のケンカにも武器を平然と持ち出して来る過激な連中だ。いくつもの傷害事件を起こし、少年院送りになった者もいる。
最初に降りた駅では、どうやら降り口を間違えたようだ。線路を挟んだ南と北が、それぞれのチームの縄張りのようになっていて、シオンはたまたまストライブの側に出てしまった。だから、セイヤの名を出すと少年たちはいきり立った。ストライブ、もしくはその傘下に取り込まれたチームのメンバーばかりだったのだろう。
平和的な〈斬牙〉と好戦的な〈ストライブ〉、対照的な二チームだが、斬牙のメンバーにも腕っ節の強い奴は何人もいる。そうでなければとっくにストライブは斬牙を潰している。セイヤもかなり強いが(でなければ冒険者など出来ない)、もっとも恐れられたのは、その親友だ。
当時の名前は、柊蒼樹。とにかく「強い」。彼の話は、「強い」しか出てこない。
その伝説も凄まじかった。あるとき、凶器を持った大勢のストライブのメンバーに囲まれ、逆に全員を血祭りに上げた――までは、まだいいが、命乞いする者の全身を斬り刻み、女子供さえも惨殺したという。いつの時代だ。そんな奴ならいまごろシオンのアパートに居ない。
むしろ、母を亡くした鬼熊の子供を庇ったり、キキと手を繋いで帰って来てやったりと、小さいものを慈しむ気持ちは持っている男だ。幼いころから幼馴染に一途に恋をし続け、だからこそ失恋して首を斬ろうとするほどショックを受けた、繊細な部分もある。いつも顔色を変えないので、何を考えているのか分かり辛いが、彼の本性は子供のように素直なのだ。
柊蒼樹がこの町から消えた。そのことは敵対チームの間にも広がっていたが、その理由というのがてんでバラバラで、街頭インタビューでも思わぬ珍回答が続出した。
「ソウジュ……? あ、あいつ帰って来たのか? モンゴルで馬賊になったんじゃなかったのかよ」
「なんだよ、ヤマタノオロチと戦って死んだんじゃなかったのかよ!」
「え? 戦国時代にタイムスリップしたんだろ……?」
という具合だ。
なにより驚くのは、冗談みたいな噂をやはり本気で信じる者がけっこういることだった。戦国時代にタイムスリップしたとしても、それを彼らが知るすべは無いと思うのだが……。彼らが単にバカなのか、それだけ蒼樹が恐れられていたのか。おそらく両方だろう。
一人の青年が消えたということが、これだけ大きく広まるのだ。斬牙にしろストライブにしろ、不良少年たちの間での彼の存在感の大きさがよく分かる。そして、彼が居たころの斬牙というチームも。
多くの不良少年に慕われたセイヤと、凶暴な敵対チームにさえ恐怖を抱かせる蒼樹。二人が作った斬牙はあっという間に、百人以上の若者が集う、大きなチームになった。
だが、彼らはもう少年では無い。蒼樹は去り、セイヤは斬牙を一代限りで解散させた。誰もがいつまでも、子供のままではいられないのだ。
「セイヤさんのことを聞き回ってるワーキャットって、アンタ?」
水を買いにコンビニに入り、出たところで、ワーキャットの集団に声をかけられた。
五人いる。全員ワーキャットで、少年が四人と、少女が一人。少年たちはシオンと同じ、十五~十七歳といったところ。少女はもう少し幼い。大人びた髪型と服装で、きっちり化粧をしてはいるが、おそらく中学生だろう。
この町の少年たちは、我が物顔で歩いているのに、こうしてひとかたまりに寄り添い、どこか怯えているようにも見えた。すさんだ目つきで、いつも緊張しているように耳を立てている。
「そうだけど」
片手にペットボトルを持ち、シオンは正直に答えた。
「アンタ、目立ってるよ。セイヤさんの名前、あちこちで出さないでほしいんだけど」
一人の少年が、金髪から突き出した耳を動かしながら、言った。
ぶっきらぼうな口調と態度に、警戒心は感じるが、敵意は感じられない。斬牙とストライブのメンバーの雰囲気は分かるようになってきた。彼らは斬牙だ。
話が聞けるかもしれないとシオンは思い、答えた。
「セイヤさんとは知り合いなんだ。用があってさ」
少年たちは答えなかった。全員が胡散臭げにシオンを睨みつけている。話術は得意では無いが、とにかく彼らの警戒を解こうと、シオンは笑みを浮かべた。
「近くまで来たから、会いたいなと思って。それで人に聞いてたんだ。半日うろついただけなのに、情報早いんだな」
「狭い町だし、いま、ちょっとピリピリしてっから……」
金髪の少年が、口ごもりながら言った。
「……アンタがどこのチームの奴か知らねーけど、もう斬牙はねーから。セイヤさんは引退したし、そっとしておいてほしいんだ」
ため息をつきながら、ワックスで整えた髪をかき上げる。その腕にはアクセサリーをジャラジャラと身に着けており、それがなんとなくセイヤを思わせた。意識して、セイヤに似せたファッションにしているのだろう。しかし顔つきがまだ幼く、体も育ちきっていないので、いくぶん背伸びして見えた。
「……あのさ。ソウさんが帰って来たっての、アンタが言い回ってんだろ」
「そんなことは言ってない。オレは柊蒼樹の友達だって言っただけだ」
「本当か? もしカタってんなら、ただじゃ済まねーぞ」
少年はいまにも唸り声を上げそうに声を低くしたが、胸倉を掴まれることは無かった。
「嘘じゃねーけど、迷惑ならもう言わないよ。とにかくオレは敵じゃない。アンタらは斬牙のメンバーなんだろ?」
その問いに、少年が素直に頷く。
「だったら、セイヤさんに取り次いでくれないか? オレは小野原シオンっていうんだ。どこのチームにも入ってないし、ケンカを売りにきたわけでもない。冒険者だ。柊さんとはそれで知り合って、いま一緒に仕事もしてる」
「ソウさんと?」
身元を証明するため、シオンは冒険者カードを見せた。少年たちは代わる代わるにそのカードを眺め、顔を見合わせた。
「……たしかに。アンタの歳で、そのレベルなら本気でやってる奴だな」
それが分かるということは、彼も冒険者なのかもしれない。
「まあ、一応それで食ってるから。これで、オレの身元は分かってもらえたよな。セイヤさんにも、オレの名前を言ってくれれば分かると思う」
少年は黙り込み、背後の少女を振り返った。少女が小さく頷くと、再びシオンに向き直った。
「分かった。伝えとく。でも、セイヤさんは今日は仕事だ。すぐには会えない」
「いつなら会える?」
「それは……どうする? リノちゃん」
再び少年が振り返ると、リノと呼ばれた少女がぶっきらぼうに答えた。
「明日、またここに来て。同じ時間」
シオンは頷いた。
「ああ。分かった。約束してくれるんだな?」
「オレたちは約束を破らない。斬牙時代からの鉄則だ。じゃあ、これを渡しとくよ。オレの名刺」
少年がダメージだらけのジーンズのポケットから財布を取り出すと、中から名刺を抜き、シオンに手渡す。自分と変わらない歳くらいの少年が名刺を持っていることに驚いた。
不良グループでも名刺って作るのか? などと思ったら、どうやらちゃんとした会社の名刺らしい。
「〈バックアップサービス・ニコねこ屋〉……?」
そう口にすると、ちょっと照れくさそうに、少年は頷いた。
「会社の名前だよ。〈斬牙〉じゃ客つかないだろ。オレたちは〈ニコねこ屋〉の社員なんだ」
バックアップチームは、その名の通り、ダンジョンに入る冒険者のサポートをするチームだ。先行しての偵察や、荷物運び、討伐したモンスターの遺骸の回収など、雇っていれば非常に便利だ。
改めて名刺を見る。少年の名は、八島亮太というようだ。それで気づいたが、三崎に四ノ原など、このあたりのワーキャットの名字は数字が付くことが多いようだ。
名刺の端に、イラストが入っていた。猫のマスコットキャラクターが大きな荷物を背負って走っている。ダンジョンに入るときのキキばりの荷物だ。ニコニコ顔の猫に吹き出しを付け、「何でも承ります」というアピールまでぬかりない。
「……なんか、ずいぶん可愛い会社だな」
不良グループの面影は微塵も無い。
「社員はワーキャットばっかで、分かりやすいから、これでいいってセイヤさんが。名前考えたのはシリンさんだけど……」
リョータはやはり恥ずかしげに、尻尾を動かしながら言うと、後ろに立っていた少女が、リョータの尻尾を掴んで引っ張った。
「いてっ」
「余計なこと言わなくていい。あたしたちは、この人に用件だけ言えばいいの」
赤茶けた髪を、ウェーブのかかったボブカットにし、同じ毛色の耳を覗かせている。小さく出来た胸の谷間とへそを見せ付けるようなインナーに、だぶついたパーカーを羽織り、ポケットに両手を突っ込んでいる。
ショートパンツからは、すらりと細い脚と尻尾が伸びていた。
「ごめん、リノちゃん」
明らかに年下だろうに、頭が上がらない様子で、リョータが詫びる。
化粧を施した顔は少しもけばけばしくならず、少女の幼い顔に自然に馴染んでいた。自分でやったのならメイクアップの才能がありそうだ。顔だちそのものも整っている。着ているものをドレスに変えれば、アイドルでも通用しそうだ。
彼女はヒールの高い革のブーツを踏み出し、ずいと一番前に出ると、シオンを値踏みするようにじろじろと見つめた。
「……ワーキャットだけど、たしかに、ただの不良とは違うみたい」
気の強そうなつり目を、より強調するようなくっきりとしたアイラインを引いている。その目が誰かに似ている気がした。
「だから違うって。ただの冒険者だよ」
シオンが答えると、オレンジ色に近い赤茶色の耳を、少女がぴくぴくと動かしながら、すっと離れた。
「そうみたい。あたしたちと同じ奴って、見ただけで大体分かるから。おにーさんさ、目立つのはしょうがないよ。このへんの連中とは、顔つきが違うもん。真面目そうなワーキャットっていないからさ」
「はぁ……」
何と答えていいか分からず、シオンは曖昧に返した。
「そんなに真面目でもないけど……中卒だし」
「別にガッコは関係無いでしょ。真面目に冒険者やってんじゃないの? あたしなんて小学校もほとんど行ってないけど、ちゃんと働いてるよ。斬牙は解散して、別のチームに行っちゃった奴もいるけど、ほとんどはセイヤの言うこと聞いて、学校に戻ったりフリーターやってたり、ニコねこ屋でバックアップの仕事してるんだ」
淡いオレンジ色の瞳が、シオンを見上げた。他の少年たちと同様、その目はまだ警戒を解いていない。というより、迷惑げだ。
「だから、あんまり波風立ててほしくないの。なんとなく分かるでしょ。この町の雰囲気。不良同士がしつこく睨み合ってて、大人だって手を出さない。しょっちゅうグループ同士がケンカして、大怪我したり、死人が出たことだってある。もうずっと昔から、そーゆーとこなの、ここは」
少女――リノは、小さく息をついた。
「とにかく、あたしたちはケンカしたいわけでも、関東統一したいわけでも、全国制覇したいわけでもないの。ただ真面目に働いて、ちゃんと生活したいだけ。ようやく不良から足を洗って、働き出したばっかのコだってたくさんいるし、水をささないでほしいの」
「そんなつもりは無いよ」
「そんなつもりは無くても、アンタ目立ってるんだってば。それでセイヤとソウジュの名前出されまくってちゃたまんない。斬牙のこと快く思ってない連中も多いし、ソウジュがいなくなってから、調子づいてる奴もいる。セイヤにはムリでも、弱いメンバーとか、一人でいるメンバーにちょっかいかけてくるの。こっちが仕事してるから、手を出せないのをいいことに、何人も絡まれてボコボコにされたり、拉致られて乱暴された女のコだっているの」
そこまで言って、リノは悔しげに吐き捨てた。
「あたしたちも、他人に迷惑かけたこともあるし、真っ当だったとは言わない。けど、今は心を入れ替えて、頑張ろうって思ってるの。アンタ、本当にソウジュの友達?」
まだ疑うような目で、小柄な少女がシオンを睨みつける。
「ああ」
「だったら、ソウジュを連れて来てよ。あの、裏切り者。斬牙を――セイヤを裏切ったくせに、何もせずにフラフラしてるんでしょう」
「ずいぶんな言い方だな。斬牙は解散したんだろ? だったら、何をしてても自由じゃないのか?」
シオンが言うと、リノは強気な瞳を向けたまま、負けじと言い返した。
「自由? 甘えてるだけでしょ。帰る家も、力もあるくせに。この町で好き勝手に過ごしておいて、今更自分だけが自由なんて笑わせるよ。アニキは斬牙を作った責任を果たしてる。でもソウくん……ソウジュはどうなの」
少女の言葉に、シオンはぴくりと耳を動かした。
「アニキ?」
「セイヤはあたしの兄よ」
誰かに似ていると思ったら、セイヤの妹だったのだ。
「あ、似てるな」
「そう?」
リノが少し恥ずかしげに、小首を傾げる。
「でも、ソウジュに会って、何をしたいんだ? やっぱりチームに戻って来てほしいのか?」
「別に。出て行くなら勝手に出ていけば。でもあたしが個人的に、一発殴りたいだけ」
「そうか。すぐには無理かもしれないけど、伝えとくよ」
「すぐ伝えてよ」
「あいつには内緒で来たんだ。セイヤさんだけに話したいことがあって」
リノが怪訝そうな顔をする。
「……あいつ、何かやらかしたの?」
「というより、まだ傷が癒えていないというか……」
失恋で失踪したことを、彼に告げていいのか分からなかったので、シオンはそう言葉を濁した。
リノはふんと鼻を鳴らし、言った。
「バッカみたい。あんな女に失恋したぐらいで」
「あんな女って……シリンさんのことか?」
「他に誰がいるの」
「自分の義姉さんだろ。そんな言い方はよくないんじゃないか」
「義姉さんになってくれなんて、あたしが頼んだわけじゃないもの」
「失恋のこと、アンタたちは知っているのか?」
そう訊くと、リノは鼻で笑った。
「当たり前よ。バレバレじゃん。ソウジュがあの女を好きだってこと、斬牙で知らない奴はいないよ。あの女以外はね」
「だったら、いつかこうなるってことは、分かってたんじゃないか。ずっと好きだった人にフラれて傷つくって、そんなに悪いことか?」
彼が失恋で失踪したとセイヤに聞いたとき、シオンも馬鹿馬鹿しいと思った。けれど、彼は本気でシリンが好きだったのだ。仲良し三人組だったのに、一人ぼっちになってしまって、本当に寂しいのだ。それが今は分かるから、あのとき「強くても人間だ」と言ったセイヤの言葉と、同じことをシオンは口にしていた。
「強くても、それ以外は普通の人だろ。誰かを好きになったり、傷ついたりもするだろ。仲間だったんなら、そんな言い方するなよ」
リノが顔をしかめる。
「それ以外は、普通?」
「……え、あ……うーん……半分くらいは。普通っぽいところもあるよ」
シオンが苦笑すると、リノはぷいと顔を背け、マスカラが綺麗に乗った睫毛を伏せた。年下の少女に本気で言い返してしまったと、シオンは反省した。口達者な少女は何か言い返してくるかと思ったが、何も言わずにグロスで光った唇を引き結んでいる。
拗ねたような顔は歳相応に幼く見えた。兄のセイヤを慕っているようだが、同様にその親友であるソウジュに懐いていたのかもしれない。
そう思ったのは、目の端が少し濡れていたからだ。口調はしっかりしているが、背伸びした見た目ほどには、クールに振舞いきれていない。けれど彼女の名誉を傷つけないよう、知らないふりをしておいた。
「あっ、おのたん。おっかえり~。チュッ」
アパートに戻ったシオンを、管理人のワーウルフが投げキッス付きで出迎えた。
本当に飛んでくるわけではないが、つい手で払う仕草をしたら、西沢が手にした竹ぼうきでガサガサと地面を掃いた。
「ちょっと! オレっちのキッスが地面に落ちたじゃん! せっかく掃除したのに、落とさないでくんない!?」
「ごめん……ちょっと意味が分からないや……。夕方なのに掃除なんてしてるのか」
遠目から見ていると、せっせとアパート前の道路を掃いていた。
このチャラチャラとしたワーウルフは、意味無く外をぶらつくことはあっても、掃除なんてしているところは見たことが無い。シオンは感心した。
「えらいな。まるで管理人みたいだな」
「まーねー。ていうか、いちお、管理人だからね」
レトリーバー系の顔はまぐろを思い出させるが、こちらはずっと表情豊かで、ウインクをしながら舌をぺろりと出した。
「なーんてね。おのたんのお友達に怒られちゃったのよ。ホラ、こないだ死んだ人」
「蒼兵衛のことか? 死んでないぞ」
「そう、その人、どん兵衛さんがさ、今日ここで犬のウンコ踏んじゃって、オレっちが怒られちゃったよ。『管理人が住居の顔とも言える玄関口に、よりによって糞尿を垂れ流すとは言語道断の振る舞い。いいか、今後鳥の糞一つでも落ちていたら家賃返還を要求する。さもなくば斬る』なーんて据わった目で、くどくど文句言われたから、怖くって。まさかの『さもなくば斬る』宣言だよ? 普通に生きてて『さもなくば斬る』とか言われること無いよ? あの人、絶対人殺したことあるよね?」
「……うん」
げんなりと、シオンは適当に頷いた。西沢がのけぞる。
「げええっ! やっぱり!?」
埼玉の不良が恐れる伝説の男は、こんなところで犬の糞を踏んで、ワーウルフにキレている。
リノが怒る気持ちも、ちょっと分からないでもない。
二階へ上がろうとするシオンの背中に、西沢が声をかける。
「あのさぁ、おのたん。犬のウンコは、別にオレっちがしたわけじゃないって、ちゃんと説明しといてくれる?」
「分かった……」
はあ、とため息をつきながら、シオンは階段を上がった。
やっぱり、探偵には向いていない。人の話を聞くのは、とても疲れる。
「やあ、おかえり」
「グギャー! こいつ、ぶっ殺す!」
扉を開けると、蒼兵衛が涼しい顔でキキを足蹴にしていた。
……いや、本当は扉を開ける前から、気づいていた。中でドスンバタンと音がしていることには。
扉を閉めてどこかに去ってしまいたい気持ちを抑え、シオンは呟いた。
「……なんだ、これ」
どうしていつもいつも、人のうちで遊んでいるのだろう? こいつらは。
キキが叫ぶ。
「うわーん! 加勢して、シオン!」
「しない。……このアパート、天井も壁も薄いんだからやめてくれよ。どういう遊びなんだ、それは」
靴を脱ぎながら尋ねる。
蒼兵衛が闘犬のように飛びかかってくるキキを足だけで上手にさばき、ころころと転がしながら、無表情で答えた。
「なに、躾けだ。なけなしの金をはたいて買った私のプリンを、一啜りで食べたことに対するな」
「なによ! プリン一つでケチくせえな!」
「私はな、気を抜くとものすごく太りやすい体質なんだ。だから、糖分は決められたぶんしか取らない。その一口一口が生きる喜びそのもの、砂漠の街でオアシスに感謝を捧げる民のごとくだ。お前のように日々エンゲル係数を食い荒らしている大食漢種族とは、たった一つのプリンに対しても払う敬意からしてすでに違うのだ。分かったら、両手をついて私に詫びろ。オラ、もっと転がすぞ」
「うぎぎー! 絶対謝らないもんね!」
ころころ転がされ、立ち上がったところを、また手足を払われて転がされる。そんなキキの姿を見ながら、あまり歳が変わらないだろうリノとえらい違いだな、とシオンは頭を抱えた。こいつが目指すアイドルって一体……。
そして、プリン一つで本気で子供を転がす、伝説の元不良に、シオンは声をかけた。
「そのぐらいにしろよ。プリンぐらいで……」
自分より年上の男に、そんなセリフは口にしたくもなかったが、このままだとどっちも折れそうにないので、言った。
「……後で、買ってやるから」
「そうか。なら、許そう。おい、お兄ちゃんに感謝しろよ」
と言って、飛びかかってきたキキを避け、蒼兵衛がその尻を蹴飛ばすと、彼女はごろごろと転がってふすまに激突した。
「ギャー!」
「ああ、穴が……」
シオンは半ば諦めつつも、耳を下げながら呟いた。
セイヤがどうやってこの男とチームをまとめ、多くの不良少年少女の心を掴んだのか、会ったら秘訣を聞いてみようかな……とかなり本気で思った。
「いつも、お嬢が遊んでいただいて、ありがとうございます!」
いつものようにキキを回収に来た妹尾組のリザードマンは、まだ蒼兵衛に一矢報いようと暴れているキキを、さっさと小脇に抱えて、大きな車の中にポイと放り込むと、シオンにペコペコと頭を下げた。
「あ、これ、うちのオヤジからっす」
と、ずっしりと重い紙袋を手渡される。受け取りながら、シオンは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いやいや、お嬢と遊んでもらってるばかりか、しっかり仕事にも使ってもらえて、オヤジも姐さんもシオンさんには大感謝してますよ。シオンさんのパーティーはお嬢と本気で付き合ってくれる、いい人たちばっかりですね。これ、蒼兵衛さんと食ってください。冒険者は、体力勝負っすから!」
気の良いリザードマンの若者が、大柄な体を揺すりながら告げる。最強の亜人なのに、ワーキャットのシオンにも腰が低い。
キキや妹尾組と出会ってリザードマンと接する機会が多くなると、同じように見えていた彼らの個人差もだいぶ分かってくる。キキを迎えに来た彼は、若衆の中でも二十歳手前くらいだろう。蒼兵衛と変わらないくらいなのに、かなりしっかりしている。厳しい規律の中で生きているリザードマンは、誰も彼もが礼儀正しい。
「困ったことがあったら、何でも仰ってくださいと、オヤジが。それから、お嬢が何かやらかしたら、遠慮なく仰ってくださいと、これは姐さんが」
「ああ、大丈夫です」
穴の開いたふすまのことは黙っておいた。あれは蒼兵衛も悪いし、キキの祖母・静音のゲンコツは、頭でスイカ割りが出来るキキが泣いて謝るほどらしい。ふすまの穴ぐらいでそんな目に遭うのは可哀相か、と思うシオンは、まだ甘かった。
「それじゃ、失礼します!」
きっちりお辞儀をして、リザードマンの若者は車に乗り込み、去って行った。
真面目だ……とシオンはしみじみ感心した。
リザードマンは最強の亜人にして、人柄も良い。
その見た目で、かつて世界中で迫害を受けてきたが、それでも他種族と共存の道を選び、耐がたきを耐え忍んで、今の彼らがある。
だから、ちょっとやそっとのことで、いきなり胸倉を掴んで「ぶっ殺す」とは言わない(キキ以外は)。
同じ大型亜人のミノタウロスやグリンブルも似たようなものだ。冒険者としても戦闘力が高く、一流の戦士揃い。それでいて穏和な性格で、どのパーティーでも引く手数多だ。
一方、冒険者としても人気が無いのが、もはや当然というか、例にも漏れずというか、ワーキャットである。
小柄なので、個人の戦闘力は低い。感覚が鋭く、すばしっこいが、持久力は低く、非力で、魔力も乏しい。そのうえ不真面目なイメージがある。
同じくすばしっこいだけならワーラビットもいるし、むしろ感覚の鋭さと魔力の有無では劣る。
そして、ワーキャットという種族全体の悪いイメージだ。他の種族との決定的な違いがそこにある。全員が不真面目ではないけれど、レッテルとはそういうものだ。
シオンもワーキャットでありながら、どこか彼らを遠くに感じている。
一日彼らの町を探索し、改めて思った。何をするでもなくブラブラして、他者に対し無闇に攻撃的になる。そういう連中はどうも好きになれない。
でも、きっかけさえあれば、変われることもある。少なくとも、斬牙のメンバーは変わろうとしている。
そんな彼らを潰そうとしているストライブ。彼らが何に拘って、足を洗った斬牙に執拗に絡むのかは分からない。意味無くコンビニやゲームセンター前にたむろするのと同じように、特に理由なんて無いのかもしれない。
アパートには戻らず、シオンはそのまま近くのコンビニに向かった。蒼兵衛に約束したプリンを買いに行くためだ。
自分の部屋を振り返り、彼のことを考えた。未だに、何を考えているのがいまいち分からない、甘党の元不良。
生まれ故郷で起こっている若者たちの戦いを、彼は知っているのだろうか。
「ちゃんと来たね」
コンビニの駐車場で待っていたシオンに、少女が声をかけた。
リノは昨日とあまり変わらない服装で、ペラペラの薄いタンクトップにだぶついたパーカーを羽織っていた。短いタンクトップからくびれた胴とへそを惜しげも無く晒し、ショートパンツからは、ほっそりした足とオレンジの尻尾が伸びている。
露出は多いが、大体のワーキャット女性がそうであるように、細身で色気に欠ける体つきはどちらかというと少年のようで、下品さは無く、むしろ快活そうに見える。
銜えていた棒つきキャンディーを口から離し、ゴミ箱に捨てる。
「今日は一人なのか?」
「いつもゾロゾロ連れ立ってるわけじゃないよ。みんな、仕事もあるしね」
シオンの隣にやって来て、顔を見上げる。相変わらず化粧ばっちりだが、近くで見るとやはり幼いと感じた。
「仕事って、バックアップか?」
「色々。昨日一緒にいたリョータくんたちは、ニコねこ屋でバックアップの仕事覚えながら、バイトもしてる。会社のほうはまだぜんぜん軌道に乗ってないからね。会社のキャパ以上に従業員がいて、ギリギリの稼ぎでやってるから」
リノは躊躇無くシオンの腕を取り、歩き出す。
「歩きながら話そう。けっこう近くだから」
「どこに行くんだ?」
「柊道場」
「柊道場って……」
シオンは驚いてリノを見た。
「ソウジュんちだよ。セイヤ、そこにいるからさ」
「なんでセイヤさんが、蒼兵衛の実家に?」
「一応門下生だし。って言っても、子供のとき入り浸ってただけみたいだけど。月謝払ってたわけでもないし。かなり世話になったみたいだから、今もたまに顔出して、道場の掃除したりしてるんだよ」
「へえ。律儀なんだな」
「セイヤにとっては、自分の親より大事なんじゃないの。子供のときから、親の代わりにご飯食べさせてもらってんだもん」
シオンの隣を歩くリノが、まるで他人事のように言う。
「聞いてない? セイヤの親は、典型的な虐待親なの。子供にろくにご飯も食べさせないで、イライラしたら子供を蹴っ飛ばすような」
そういえば、セイヤの腕に焼け跡のような痣がたくさんあった。何度も煙草の火を押し付けられた跡だ。
「だから、小学校んときにソウジュと友達になってから、柊道場にはよくしてもらってたみたいでさ。入り浸ってたんだって。ご飯食べさせてもらったり、お風呂入れてもらったり、柊道場が無かったら、今の自分たちは無いって、言ったよ」
「それなら、お前もそうなんじゃないのか?」
「ううん。あたしは違う」
リノは首を振った。
「あたしの名前は伊勢崎莉乃。セイヤとは父親違いの兄妹なの」
「あ」
とシオンはつい声を上げると、リノが不思議そうな顔をした。
「なに?」
「いや、名字に数字付いてないなと思って……」
「なによ、それ」
リノは呆れた顔を向けた。
「たしかにこのへんじゃ多いけど、全員そんなわけないじゃない。それにあたし、このへんの出身じゃないんだ。家は大宮なの。アニキ……セイヤと会ってるってことも、親にはナイショだもん。バレたらまた修羅場だよ」
「また?」
「あたしが小学校入ったくらいのときだったかな、パパが浮気して、ママと大喧嘩したんだ。パパは逆ギレして出て行って、ママは飲んで酔っ払って、勢いでそのことを喋ったの。『前の男との子供を捨ててまで一緒になったのに』って。それまで自分に兄さんがいるなんて知らなかった」
パーカーのポケットに手を突っ込んで歩きながら、リノは小さく目を伏せた。
「あたしが住んでるあたりは、このへんと違って亜人は少ないほうなんだよね。で、小学校三年のとき、いきなりめっちゃイジめられた。それまではフツーだったんだけどさ。ほら、あるじゃん、クラスが変わったら友達関係とか全然変わっちゃったりすること」
「ああ、……うん」
シオンにも覚えがある。
「今思えば、ワーキャットとか関係無かったのかも。――いない? クラスでちょっと目立つ子をターゲットにして、すっごくいじめる奴。あたしはワーキャットってのもあるけど、そのころはすっごく活発だったから。で、そういう陰険な女と一緒のクラスになっちゃってさ。色々と嫌がらせされたの。最初は無視ってたんだけど、そいつ、中学生のアニキがいてさ。……学校が終わったら、そのアニキと仲間が待ち構えてて」
リノは弾丸のように言葉を吐き出していたが、そこで一度言葉を切った。青い顔をしている。
「中学生の男子が何人も、小学三年の女子を囲むんだよ。公園連れてかれて、最初は調子こくなとか、そういうこと言われててたけど、だんだん押さえつけようとしてきたり、スカートめくろうとしてきてさ。マジでヤバいと思ったから、なんとか必死で逃げた。あたし、ワーキャットで良かったよ。足は超速かったから。でも、明日学校行って、またそいつらが待ってたらどうしようと思ったら、もう行けなくなった」
淡々と話していても、未だに強い恐怖の記憶になっているのだろう。ポケットの中で拳を強く握っているのがシオンにも分かった。
「怖かったけど、それより悔しかった。イジメすんのにアニキの力借りるなんてセコいし、そのアニキも友達連れて何年も下の女子小学生襲うとか、マジでクズだよ。怖くて、悔しくて、ママにも先生にも言えなくて、グズグズ泣いた。泣きながら、こんなときあたしにも頼りになるお兄ちゃんがいればって思った。それで、思い出したんだ。あたしにもお兄ちゃんがいるってこと」
リノは顔を上げ、空を仰いだ。雨がきそうな、薄暗い曇天だ。
「この町、荒んでるでしょ。ここのワーキャットは、お金無くて、頭悪くて、生活も最低で、そんな親から生まれた子供も、親とおんなじ。学校も仕事も行かずにブラブラして、早いうちに子供作って、最低の親になる。それが当たり前だから、そっから抜け出そうともしない」
「セイヤさんもそんなこと言ってたな。バカとバカが、バカの子供産むって」
「マジでそうだよ。ほんと、泥沼ってそういうことを言うんだよね。その中で産まれた時点で、人生なんてもう半分決まってる。そっからの這い上がり方なんて分かんないし、自分の力だけで抜け出すのは難しいよ。泥の中に沈んでるみたいな町だよ。セイヤが言ってた」
近道だと路地裏に入る。飲食店の裏のゴミ箱に、昼間から顔を突っ込んでいる老いたワーキャットがいたが、リノは慣れているのか気にも留めない。
東京にも、他の場所にも、こういう町はいくらでもある。ただ、シオンは気にせず通り過ぎるだけだ。
「見ての通り治安は悪いけど、同じワーキャットばっかりだから、あたしにはちょっと居心地がいいよ。うちのママ、外ヅラはいいけど実は軽くアル中でさ。酔っ払うと何でも愚痴るし記憶も無くなるから、アニキの名前も住んでる場所も簡単に聞けたんだ」
小遣いを握り締め、リノは電車に乗って、この町を訪れた。一度も会ったことは無いけれど、この世でたった一人、血を分けた兄を探しに。会ってどうしようか考えたわけではない。ただ、自分が居る場所から逃げ出す口実が欲しかった。小さな冒険を、彼女はそう語った。
「この町に来るの、最初は怖かったけどね。駅の北口を出てずーっと歩くと、風俗のお店とかがたくさんある小さな歓楽街がある。そっちはほんとに治安最低だから。そこからまたちょっと離れてるとこに、景気がいいときに建った、でっかいお城みたいなラブホテルがある。でも潰れちゃって、魔素が吹き出してダンジョン化してるんだ。そこで力の強いシャーマンが愛人に殺されたとか、そのシャーマンのゴーストがモンスターを呼び寄せてるってウワサのある心霊スポットなんだけどね」
「ふーん。そんなダンジョンがあったのか」
「別にあるってだけで、何も無いもん。冒険者なんて来ないよ。ゴーストがたまにうろついてるぐらいで、他にモンスターもいないし。逆に、悪い奴らの溜まり場になってて、そのほうが怖いから。誰も近寄んない」
「そっち側はたしか、ストライブの縄張りだよな」
「縄張りって、別に誰が決めたわけでもないけどね。ま、でもそう。あっちの風俗街で働いてる子は、特に奴らに絡まれることが多くって、アニキもほんと頭抱えてんだ。どうしてもそーゆーとこで働くしかない奴もいるからね」
そう言ったとき、リノはまた暗い顔になった。
「リノは、セイヤさんのことを好きなんだな」
シオンの言葉に、リノは白い頬を、頬紅を差したように赤くさせた。
「別に、ちょっとえらいなーと思ってるだけよ。あんなナリだけど、性格は全然不良じゃないし。どっちかっていうと真面目だね。不良を集めて暴れるわけじゃなくて、話聞いてやってさ。腹空かせてる奴には、自分もお金無いくせに、メシ食わせてやって。ドラマに出てくる熱血先生みたいな奴だよ。あたしが会いに行ったときも、全然嫌がらなかった。『オレに妹が出来てたのか』くらいでさ。『親と仲良くしてるか?』なんて言った。お人好しなの。自分はクソ親のせいで、父親や継母に殴られて育ったのにさ」
飲食街の薄暗い路地裏を抜けると、今度はのどかな田園風景が広がった。同じ町でずいぶん様子が違う。重たい雲に覆われていた空もいつの間にか晴れ、太陽が顔を覗かせていた。
「晴れてきたね」
リノが呟いた。そして、小さく微笑む。
「……あのとき、何かに縋りたくてこの町に来たあたしは、アニキに拒絶されてたら、もうどこにも行き場が無かったと思う」
「そうか。いい人なんだ」
「うん。ちょっと損してるくらいにはね。サスペンスドラマだと、最初のほうで殺されてるタイプよ」
「そういうこと言うなよ……」
「なんか、アンタも同じタイプな気がするよ」
リノが悪戯っぽく笑い、シオンの腕に自分の手を絡めてきた。大人っぽい格好をしていても、キキと似たようなものだ。別に気にならない。
「だって、ソウくんと友達になれたくらいだしね。一緒に仕事してるって、昨日言ってたよね。ホント?」
「ホントだよ。でも、あの人は誰とでも友達になるだろ」
「なっても続かないのよ、フツーは」
あははっ、とリノが声を上げて笑った。半分しか血が繋がっていなくても、笑うと人懐こい顔になるところがセイヤに似ていた。
セイヤに関して、最初の印象は悪かったが、今ではシオンも彼の懐の深さが分かる。なにせ、あの蒼兵衛の親友だったのだ。それだけで純粋に尊敬する。
「ね、どうして友達になろうと思ったの?」
「別になろうと思ってなったわけじゃないけど……。たしかにワガママだし、変わってるし、子供とでも本気でケンカするような人だけど」
「やっぱり」
「でも、冒険者として初めて会ったとき、筋は通ってると思った。冒険者はいつでも命をかけてる。初めて会う奴と協力したり、敵対したり、色んなことがあるから、そいつを信用するかどうか、すぐに判断しなきゃいけない。だから、ああいう分かりやすい人は好きだよ」
「ふーん」
「それに、本当に強かったからな。オレ、強い奴はけっこう好きなんだ」
リノはシオンの腕にしがみ付いたまま、何故か嬉しそうににんまりと笑った。
「シオンだっけ? そういうとこは、アニキと全然違うね。アニキは、人のこと簡単に好きとか言わないもん。照れ屋っていうか、昔の男みたいなタイプだから。あたしにもケバい化粧はやめろとかウルサイよ。ね、ケバい?」
と、真剣な顔で覗き込んでくる。
「いや? 化粧は詳しくないけど、似合うんじゃないか」
「だよね。あたし、メイク得意だもん。お金貯めてメイクの専門学校行きたいんだ」
「ふーん。よく分かんないけど、オレは上手だと思うよ。テレビに出てる奴ぐらい可愛いし」
「ホント?」
リノは頬を赤らめながら、嬉しそうに笑った。
「意外とそういうこと、さらっと言うタイプなんだ」
「なにが?」
「アンタみたいな奴に褒められると、なんか嬉しいよ。自分の顔は別にどうでもいいけど、メイクを褒められるのはすっごく嬉しい。アニキは『ケバい』だし、ソウくんなんて『お前の毛穴がもし言葉を喋れたなら、いまごろ窒息すると泣き喚いてることだろうな』なんて言うんだよ」
リノが蒼兵衛の口調を真似しながら言う。子供に対して全力でからかいにかかる癖は、昔からのようだ。リノもすっかりシオンに気を許したのか、蒼兵衛の呼び名が「ソウジュ」から「ソウくん」になっていた。
キキのようにからかわれながらも、懐いていたのだろう。大人びていても寂しがりらしい少女は、蒼兵衛が出て行って傷ついたのだろう。そう簡単に嫌うことは出来ないから、裏切り者と罵り、恨むしかなかった。
「あたし、ホントはけっこう人見知りなんだけどさ」
シオンにくっついて歩き、説得力の無い様子でリノが言う。
「シオンは、話しやすいね。正直っぽいし、嘘つかないでしょ?」
「ついても下手なんだよ。嘘が下手な人に育てられたからな」
「へー。いい親なんだ」
「いや、今のは姉さんの話」
「お姉さんに育てられたの?」
「父さんもいるけど、姉さんに育ててもらったって気はするな。強くて、正直で、ワガママで、思い込みが激しくて、賑やかで。そういう人とずっと一緒だったんだ」
リノが耳を動かしながら、じっとシオンの顔を見つめる。
「シオンって、わりとシスコン?」
「え? そ、そうなのか……?」
「お姉さんの話しながら、すっごいニヤニヤしてたよ?」
「え。うそだろ……」
ぱっと片手を顔を抑えるシオンを見て、リノがくすくすと笑った。
「大好きなんだ。ね。お姉さんって、いくつ?」
「十九だけど……」
死んだと言うと、リノに気を遣わせそうなので、シオンはそう答えた。それにシオン自身、彼女が死んだと思いたくなくなっていた。
「結婚してる?」
「してないよ。まだ早いだろ」
「そう? うちのアニキも今年で十九だけど、もうしてるよ」
「ああ、そっか」
シオンが頷くと、リノは横を向き、綺麗に整えられた眉をしかめた。なんだか拗ねたような顔つきで、少し黙ってから、呟いた。
「あのさ、その大好きなお姉さんが結婚したら、シオンはどう思う?」
「どうって、相手が気の毒……あ、いや、めでたいんじゃないか。多分」
姉の嫁入り。想像したことも無いが、きっと相手はシオンのように彼女に小突き回されることだろう。
田畑に囲まれた道路を歩いていると、目指す先に、ぐるりとブロック塀に囲まれた、古めかしい日本家屋が見えた。
あれが柊道場だろうか。
そう訊こうと思ってリノを見やると、彼女はまだ膨れ面をしていた。
「リノ?」
「……じゃあさ。もし、お姉さんの結婚相手のこと、信じられなかったら?」
「え?」
またしばらく黙ってから、言葉の続きを口にした。
「ごめん。今の全部、あたしの話。あたしが、信じられないの。アニキのお嫁さん……シリンのこと」
「シリンさんが?」
小さく、リノが頷く。
「あの人、妊娠してるの」
「ああ、知ってるよ」
「アニキの子供じゃないかもしれない」
ぎゅっと、シオンの腕を強く掴む。ネイルで光る尖った爪が皮膚に食い込んだが、シオンは咎めず、黙って好きにさせた。
「あの女は、ストライブと繋がってる。セイヤの他に、男がいるの」
「お、男?」
素っ頓狂な声を上げたシオンに、リノはまた頷き、顔を上げた。夕日のようなオレンジの瞳は、怒りに燃えるような色をしていた。
「ストライブのリーダーの、七川彪雅って奴」
「ひゅーが? なんか、言いにくいな」
などと間の抜けた返事をしてしまったが、内心これはとんでもない展開じゃないか……とシオンは息を呑んだ。
一人の女を巡った三角関係が四角関係になり、しかも彼女は妊娠している。
「……でも、そんな人には見えなかったけど」
嬉しそうに育児の本を買っていたシリンの姿を思い出す。同時に、シングルマザー講座に来るなんて不自然だと言った、紅子と透哉の指摘も思い出した。
「まさか……そんな。嘘だろ?」
「斬牙で嘘はご法度よ。裏切りもね。あの女が七川と付き合ってるのはたしか。狭い町だもん。すぐバレるのに、バカな女。その情報は、アニキにまでは伝わらないように、仲間たちには言ってある。でも、時間の問題」
柊道場が近づいて来る。そこにセイヤもいるというのに、どんな顔をして彼を話したらいいのだろう。シオンは帰りたくなった。
「あたし、あの女のこと、絶対に許さない」
そんなシオンの腕をリノはがっしりと掴み、ブーツのヒールがアスファルトを穿つ高い音を響かせながら、ずんずんと柊道場へと近づいて行った。
道場というからには、もっと人が沢山居て、賑わっているものだと想像していた。
だが、柊魔刀流道場は、寂れている、という言葉があまりにも似合っていた。
門のすぐ近くに道場がある、奥に家屋がある。家族はあそこに住んでいるのだろう。
道場が開いている時間なら、稽古の声とかが聴こえてきそうなものだが、シオンが耳を動かしても、そんな音は一切無かった。
それにしても、想像より大きな家だった。というより、道場込みで土地が広い。代々続く魔剣士の家だけはある。
だが、その敷地の広さが、余計に寂しさを演出している。
塀の向こうに、葉の無い枝だけの木が沢山並んでいるのも寂しい。
その塀に、門下生募集中と筆文字で書かれた紙が貼られているが、スーパーの広告チラシの裏に書かれていることに、一切のやる気を感じられない。
やる気があってこれだとしたら、問題がある。
でも、あの蒼兵衛の道場だから、本気でこれなのかもしれない……と思っていると、リノは中に入らず、道場の裏手にシオンを引っ張って行った。
「アニキ!」
リノが声をかけると、塀の傍に屈み込んでいる男が、顔を上げた。一瞬人間かと思ったのは、頭にバンダナのようにタオルを巻いていたからだった。立ち上がりながらそれを取ると、オレンジに違い赤茶の髪からぴょこりと耳が飛び出した。
「シオン、連れてきた。いーんでしょ?」
「ああ」
額や首筋の汗を拭ったタオルを首にかける。汗で濡れたTシャツの袖を肩までまくり、外仕事が多い者がそうであるように、皮膚が露出している部分はよく陽に焼けていた。相変わらず、それほど長身では無いが、鋭い体つきをしている。細身のジーンズからシオンの半分ほどの短い尻尾が伸びている。腕にはやはり魔石のブレスレットがジャラジャラと下がっていた。
「よお、久しぶりだな。元気にしてたか?」
セイヤは笑みを浮かべ、親しい友人にそうするかのように、シオンに声をかけてきた。その腕に妹がまとわりついていることには、特に気にしていないようだ。
前にあまり良い別れ方をしなかったが、わだかまりを持っているふうは無い。彼の性格なのか、ワーキャットだからなのか。シオンも別に気にしていない。
「今日は、連れは居ねーのか」
「ああ、浅羽は学校もバイトも仕事も修行もあって、オレより遥かに忙しいから」
「そうか。そりゃ多忙だな」
「ね、それって仲間? 女の子?」
リノが顔を覗き込み、尋ねてくる。セイヤはそんな妹の肩を掴み、シオンからあっさりと引き剥がした。
「ウルセーな、テメーは。オレの代わりに掃除してろ」
「えー」
セイヤが屈んでいた場所には、水の入ったバケツと雑巾、タワシ、洗剤なのかたっぷりの溶剤が入った大きな容器が置いてあり、壁にはデッキブラシが立てかけてあった。
柊道場の塀にはそれまで気づかなかったのが不思議なくらい、スプレーででかでかと、『斬牙参上!』と書かれていた。
「これ……アンタらが?」
「んなわけないじゃん」
「んなわけねーよ」
シオンの問いに、半分しか血の繋がっていない兄妹の声が綺麗に重なった。
「だったとしても、こんな正体バレバレでやるわけねーだろ。イタズラだよ」
セイヤは後ろ頭を掻きながら、ため息まじりに言った。
「ストライブだよ。ふん。武闘派気取ってるくせに、こんな女の腐ったみたいなことする、陰険な奴ら。ねえ、アニキ。やっぱこれ、こんな洗剤じゃ取れないんじゃない?」
「洗剤じゃねーよ。剥離液だ。だいぶ薄くなってきただろーが」
剥離液を塗られた文字からは大量の塗料が流れ落ちてきている。
「なんかいっぱい流れてるけど……かえって汚くない?」
「これでいいんだ。まずは塗料を浮かせて、あとはひたすらこすって消すんだよ」
「はぁーい……気が遠くなりそう」
リノはしぶしぶと、パーカーを脱ぎ出した。
「柊道場の人たちは別に放っておいていいって言ってくれたけどな。でも、そんなわけにいかねーよ。オレたちに関係が無いわけじゃねーからな」
「酷いことするんだな……」
古い塀に汚い字で殴り書きされた文字に、飛び散る血を模したような模様や、意味の分からない記号などを、シオンは顔をしかめながら見つめた。
「前はここまでじゃなかった。奴らも最近、ずいぶんメンバーが増えたみたいだからな。でかくなって、こんなガキっぽいことまでやる奴まで出てきたんだな。オレたちの話は、大体聞いてるんだろ?」
「ああ。不良チーム同士がケンカしてんだろ?」
シオンの言葉に、セイヤが苦笑する。
「はっきりホントのこと言う奴だな。まあ、そうだ。ケンカっつっても、仲が悪いってだけで、メンバー同士で小競り合いはあったが、でかい戦争をやったことはねえ。それに、オレたちのチームはもう無いしな」
「それだけどさ、アニキ。やっぱり斬牙は、誰かに継いでもらったほうが良かったと思う。アニキの跡をちゃんと継いでくれる後輩もたくさん居るじゃん」
脱いだパーカーを腰に巻き、デッキブラシを手にしたリノが、そう訴えた。
「斬牙を離れたコたちだって、やっぱり帰りたい場所は斬牙だと思う。学校や仕事にどうしても行きたくないコだっているし、斬牙が無くなってどこにも行き場が無いんだよ」
「リノ。離れた奴はそれでいい。自分で考えてそうしたんだ。それにもう一度オレらと仕事をしたいって言うんなら、話を聞くつもりはある。けどな、ただ斬牙って名前を名乗って胸を張りてえってワガママは、聞く気はねえよ。……この話は、後でいくらでも付き合ってやる。今は、客が来てるだろ。後にしろ」
リノは口を尖らせたが、素直に言うことを聞いて黙り、デッキブラシに洗剤を付け、ごしごしと壁を掃除し始めた。
セイヤはシオンに向き直った。
「こういう状態だ。呼んでおいて、立ち話させて悪りいけどよ、今日のうちにこの落書きを落としてえんだ。ま、この通り廃れちゃいるが、道場だって客商売だからな。見学者でも来たら、印象悪いからよ」
「だいじょーぶ、来ない来ない」
デッキブラシで壁を擦りながら、リノが茶化す。セイヤと話していると、その態度もずいぶん子供っぽくなるようだ。
紅子と透哉の関係のようだ。正確には兄妹ではないが、彼らのやり取りは見ていて微笑ましく、シオンは好きだった。自分が弟だったから、兄らしく振舞う透哉やセイヤの姿がちょっと羨ましいような気もした。
もし自分に妹や弟がいたら……と一瞬考え、桜とキキに両側から蹴飛ばされ噛み付かれている自分の姿がありありと思い浮かんだ。
「……オイ、なんでそんな青い顔してんだ。気分悪いのか?」
「いや、ちょっと怖いことを考えて……急に背筋が寒く……」
「そうか……ほんと分かりやすい奴だな。耳下がってんぞ」
怪訝そうな顔をしつつも、セイヤは慰めるようにぽんぽんとシオンの肩を叩き、あ、と声を上げた。
「あ、すまん。オレ、手汚れてたわ……弁償するよ」
セイヤがしまったという顔で、シオンのTシャツの肩を見る。洗剤と塗料の入り混じった汚れがかすかについているだけだ。
「ああ、大丈夫だよ。こんなの洗えば取れるし、取れなくても安物だ」
「そうか? ごめんな」
それよりさっきその手で頭を掻いていたのはいいのだろうか、とシオンが思っていると、どうやら癖なのか、セイヤは頭の後ろをまたぐしゃぐしゃと掻いていた。しっかりしているようで、この人もちょっと抜けている。
「ま、つーわけなんで、話はこれ落としながら聞いていいか?」
「ああ」
シオンは頷き、自分もTシャツの袖を肩までまくる。
「オレもやるよ。やるなら三人のほうが早いし。このタワシ、使っていいのかな? こするんだっけ」
「こするだけよ! ただ、ひたすらに!」
と腰を入れてデッキブラシを操るリノの隣で、シオンは地面に転がっていたタワシを拾い上げた。
セイヤがきょとんとした顔で、シオンに尋ねる。
「いいのか?」
「うん。立って話すよりは、体動かしながらのほうがいいや」
「そうか。じゃあ、頼むわ」
また頭をぽりぽりと掻きながら、セイヤもタワシを拾い上げ、二人と並んで落書きを消し始めた。