傷ついたサムライ
可愛い人や、綺麗な人は、街にもたくさんいる。
そもそも女性の印象など、髪型や化粧や服装でそれなりに変わってしまうのだ。
紅子の周りには化粧をしている友人もいるが、紅子はしていない。しかし、身なりに気を遣っていないわけではない。
彼女も、かつて成長期のニキビに苦しみ、治癒をかけたら治らないかな? と考え、美容サイトで発見したニキビ除去魔法というものを試したら、かえって顔がパンパンに腫れたという苦い思い出もある。
泣いて透哉に訴えると、「皮膚を活性化しようとした? 毛穴に詰まった油まで活性化させたんじゃないの」と爆笑された。
今でも吹き出物一つを気にして、毎朝毎晩と皮膚を洗顔責めにしている。
貧しいなりに、服装だって、髪型だって、少しでも可愛く見られたいという思いはある。安物の服をかき集めてコーディネートし、まったく努力していないことなんてない。
そんな努力は、隣にいる好きな男の子は知るよしも無いし、知らなくていいことであるが。
それにしても、と紅子はその少年を見やる。小野原くんは過酷な仕事をしているのに、肌がちっとも荒れていない。男の子だから毎日死に物狂いでスキンケアをしてるってことは無いだろうし、不公平だ。
「ソウちゃんはいま、どこで何してるんでしょう?」
小首を傾げ、シリンと名乗った女性が、可愛らしく微笑む。
「今どこで……と言われたら、分からないですけど……」
明らかにどぎまぎしながら、シオンが答える。
彼は多分、本人が思っているより純朴で、素直だ。だから、すぐに感情が顔が出る。肌荒れの無い頬が、ほんの少し赤い。
「その人とは昨日、一緒に仕事をしたばかりで……」
「わぁ、そうなの?」
シリンが喜びの声を上げる。可愛い人は声まで可愛い。
「よかったぁ、今日来て。あなたがワーキャットだったから、なんとなく気になって、声かけてみたんだけど」
笑うと目尻が優しく下がり、つんと突き出た小さな唇が、綺麗な形で微笑まれる。肌も綺麗だ。
「ね、お願い。あなた、ソウちゃんと連絡が取れるなら、彼を呼んでもらえるかな?」
「え……ああ……」
胸の前で手を合わせる女性に、シオンは人見知りする子供のように目を逸らしている。その様子に、紅子は心臓がぎゅうと縮むような感覚を覚えた。
何かの本に書いてあった。ワーキャットの人は、子供時代であればあるほど、直感で、衝動的に、人を好きになることが多いって。
つまり、一目惚れというやつだ。
いっそ、この場で気絶したい。そう紅子は思った。でも、こんなことで失神できるほど、精神は脆くなかった。
美女を見て赤面している少年を見ているくらいなら、こっちが穴が開くほど美女を見ているほうがマシだ。と思い、シリンを見つめる。
そう、可愛い人、綺麗な人――そんな人は、街にだってたくさんいる。テレビや雑誌を眺めていれば、もっといる。そんな女の子たちをかき集めて戦わせても、彼女は明らかに女優やアイドルと戦えるレベルだ。並大抵のレベルの美女など、一撃で倒せる高レベル美女だ。センター内の男性など、彼女が近くを歩いただけで戦闘不能にされている。
と、何故か戦いで例えてしまうのが、自分も冒険者じみてきたなぁ……と紅子は遠い目で思った。
シリンの長い髪から覗く耳と、ぴったりとしたパンツから伸びる尻尾が、小さく動いている。
人間の男性にもこういうワーキャットの女性は人気らしい。人間に近い外見は親しみがあり、自分たちには無い耳や尻尾が可愛く見えてたまらないと、紅子は深夜のバラエティ番組で観たことがある。一緒に観ていた透哉に「お兄ちゃんもこういうのグッとくる?」と尋ねて、返事の代わりに蔑むような視線を貰った。
お兄ちゃんもそうだったら、ワーキャット好き同士語り合えると思えたのに。そうがっかりした、のん気な自分を叱りたい。将来のために、もっと可愛くなる努力をしておけと言いたい。
ああ、ワーキャットが嫌いになりそう……。
「ね、ソウちゃんの連絡先、知ってる? あ、でもあの子、携帯持ってないか……」
「あ、それは持ってた」
「そうなんだ! とうとう買ったのね」
「でも、オレが勝手に教えるのは、どうかな。蒼兵衛さんがあなたに会いたいと思ってるからは、分からないし……」
さすがにシオンも、出会ったばかりの女性にデレデレと、蒼兵衛の連絡先を教えるということはしなかった。
するとシリンは、驚いたようだった。大きな目を見開く。
「え……ソウちゃん、そんなこと言ってたの? わたしに、会いたくないって? ソウちゃんが、そう言っていたの?」
「何も知らないんですか?」
「何もって……? あなたこそ、何か知ってるの? ソウちゃんが急に、わたしたちのパーティーを抜けて、居なくなっちゃった理由」
「どうして、パーティーの人たちが分からないんですか?」
そもそも、原因はそっちにあるはずだと、シオンは思った。ワーキャットに裏切られたと、蒼兵衛が言っていたのだから。
「だって、何の相談も無く、急にいなくなってしまって、一緒に登録した地元のセンターも移動してしまったんだもの」
シリンが白い耳を、しょんぼりと下げる。
可愛い……と紅子は思った。これは、本当に可愛い。尻尾も悲しげに下がっている。守ってあげたいとは、こんな女性に言うことなのだろう。目を伏せ、唇を子供のようにきゅっと結び、睫毛を濡らしてさえいる。
女の紅子でさえ、細い肩を抱き締め、慰めてあげたくなった。
「ソウちゃん……どうしちゃったの……。本当に、わたしたちが傷つけてしまったのかな……」
細い指で、目許に溜まった涙をそっと拭う。すん、と小さく鼻を啜り、耳がますます伏せられた。
「……昔から、黙って一人で何でも決めてしまう人だったの。立派なおうちなのに継がないって、わたしたちと一緒に、冒険者になりたいって言ってくれた……優しい人なの……」
周囲でちらちら様子を伺っている男性冒険者たちも、息を呑んで彼女の様子を見ていた。シオンなんて、つられて自分の耳まで下がっている。
「お願い、ソウちゃんに会わせて。会って、またお話したい……」
シリンはとうとう、ぽろぽろと涙を流した。
「……わたしたち、ずっと一緒だったのに……」
「あの、ちょっと待ってください。話すなら、場所を変えたほうがいい」
シオンがそう提案する。彼女は周囲の視線を集めてしまっているし、また騒いでいると思われて、職員に怒られるのも困る。
しかし紅子と目が合って、肝心なことを思い出した。
「……あ、いや、仕事探ししなきゃな。せっかく来たんだし」
レベルがそれなりの冒険者パーティーは、真面目に仕事探しをしなければならない。紅子も困ったように眉を下げた。
「そ、そうだね、順番、そんなに遠くないし……」
握り締めていた番号札を見やる。八番。窓口も三つは空いている。きっともうすぐ順番は回ってくるだろう。
さっきまで、自分で自分にかけられる精神魔法は無いだろうか、失恋の痛みを和らげるようなやつを……と考えていた紅子は、少しだけ気を取り直していた。
突然現れた美女の涙に負けて、紅子との仕事なんて放り出してしまうのかと思ったが、そんなことは無かったからだ。
「ごめんなさい……わたし、自分の都合ばかりね」
シリンは慌てた様子で顔を上げ、涙に濡れた目許をごしごしと手の甲で擦った。
「良かったら、後でもう一度、会ってもらえますか? わたし、待ってます。外で……このビルのすぐそばにいますから」
「いいですか?」
シオンが尋ねると、にこりと微笑んで頷く。シオンがまた顔を赤くするのを、紅子は見なかったことにした。
「大丈夫。いくらでも待てるから。だって、ようやくソウちゃんに会えるかもしれないんだもの」
胸に手を当て、心からの笑みを浮かべる。その喜びようが嘘だとは、シオンにはとても思えなかった。
本当にこの人が、蒼兵衛を裏切ったのだろうか?
それから、いくつかの手ごろな仕事を選び、まだ仕事の決まっていない、空いている日程に組み込んだ。
キキや蒼兵衛を誘えそうな仕事もある。しかしキキはともかく、蒼兵衛は今後どうなるか分からないな、とシオンは思った。
「浅羽、これからどうする?」
「え?」
センターを出たときに、シオンに尋ねられ、紅子は目をきょとんとさせた。
「どうって? 下で、さっきの人……シリンさんが待ってるんだよね?」
「でも、帰らなくていいのか?」
「今日はバイト無いから、大丈夫だけど」
「遅くなったら家の人が心配するんじゃないか? お前、家遠いし」
たしかに、ばったりシオンと会うなんて思わなかったから、今日は仕事を選んだらさっさと帰るつもりだった。
シリンにどぎまぎするシオンを見ているのも辛いが、このまま一人で帰ってしまうと、電車の中で悪い妄想が膨らみ、変な魔法を出してしまいそうだ。
「大丈夫! 連絡するから。……お兄ちゃんに」
「大丈夫か?」
「お兄ちゃんにメールするから大丈夫。お兄ちゃんならやってくれる!」
「何をだ?」
上手な言い訳を、である。しかし紅子はそれをシオンには言わず、誤魔化すように笑った。
紅子が冒険者になって以来、ますます叔母の具合が悪くなって、すっかり臥せってしまったので、叔父の機嫌もあまり良くない。魔石の呪いだと、ノイローゼのように呟いている。そんなわけないだろう、と透哉は言うけれど、紅子は本当にそうなんじゃないかと思っている。
だって、叔父さんと叔母さんは、本当に良い人だったのに。こんなに人って、変わってしまうものだろうか?
すべてはあのとき、お父さんとお兄ちゃんが死んだときからだ。
家族が、壊れてしまったのは。
「……とにかく、メールしちゃうね。ちょっと待ってて」
憂鬱な気分をシオンに気取られないよう、紅子は笑って言った。いつもなら、シオンと居るだけで元気が充電されるのに、今日はそんな気分になれない。
昨日、仕事から戻ってきたシオンに、土産の釜めし弁当を貰ったのが、もう遠い昔のことのようだ。釜めし記念日だなんて浮かれていたら、次の日が失恋記念日になってしまった。
そうだ。叔父さんと叔母さんが大変なときに、自分にはやるべきことがあるのに、恋愛にうつつを抜かしていた罰が当たったのかもしれない。
「……はぁ」
メールを打ちながら、無意識にため息を漏らした。
「どうしたんだ? 疲れたのか?」
彼の優しい声が、今日はどことなく残酷に響く。空虚な気持ちを抱えつつ、透哉に『遅くなります。なんとかしてね』と手短なメールを送った。受け取った従兄はさぞ嫌な顔をしているだろう。
「やっぱり、帰ったら……」
「帰りません」
気遣うシオンの言葉を遮り、ぴしゃりと紅子は言い放った。
「そ、そうか……?」
紅子のいつにない迫力に、シオンは戸惑ったように頷いた。
ビルを出て、すぐにシリンの姿を見つけられなかった。
「まぁ、そうなんですか?」
夕方の雑踏の中に紛れ、鈴の鳴るようなその声がシオンの耳に届いた。ワーキャットの聴力は、複数の音を同時に聴き分ける。人間だったら、街の騒がしさに紛れ、聴き逃していただろう。紅子はシリンの姿を見つけきれずにきょろきょろしていたが、シオンはすぐに声がしたほうを向く。
若い男たちが壁際に集まっている。その隙間からシリンの姿が見えた。小柄な彼女は、四人の人間の男たちに囲まれていた。
「オレたち色んな冒険者知ってるからさ、たぶん、力になれるよ」
「そうそう、なんでも相談とか乗るし」
「わぁ、ありがとう。でも、もうなんとかなりそうなの」
のんびりとした声で、シリンが答える。
「や、でも情報はいっぱいあったほうがいいじゃん。すぐそこに、仲間の冒険者が集まる店があるから、おいでよ」
「そうそう。ソウちゃんも来てるかも」
聴かなかったことにしたいくらいの、しょうもないナンパに、シオンは顔をひきつらせた。こんなのが同じ冒険者なんて、情けなくなる。
とにかく助けようと、シオンは駆け出した。
「シリンさん、いた?」
慌てて紅子もついてくる。
だが、シオンたちが声をかけるより早く、シリンと男たちに近づいていく男の姿があった。ナンパ仲間かと思ったら、よく見ればワーキャットだった。
「おい、オレの連れが、何かしたか?」
ワーキャットの男は、シオンより少し背が高いくらいで、そう大柄とは言えないが、堂々とした態度で人間の男たちに割って入った。
「あ、セイちゃん」
シリンの声はやはりのんびりとし、対して男の声は、苛立っていた。
「なにしてんだ、シリン。なんで勝手にこんなとこに来た」
男はワーキャットらしく若く見えるが、シオンよりは年上だろう。くっきりとした目尻の、きつい目つきが印象的な青年だった。
赤茶けた耳を立たせ、途中で切れたように短い尻尾を大きく一度振る。我慢しているが、苛ついていることがシオンには分かる。
「アンタら、悪いが、行ってくれ」
人間の男たちにそう告げる。体は大きくないが、その口調には有無を言わせない強さがある。しっかり体を鍛えたワーキャット男性の多くがそうであるように、無駄な肉を削ぎ落とした胴回りは細い。決して華奢では無く、俊敏さを生かすのに最適な体つきだ。青年は間違いなく体術に長けたワーキャットだ。
それが男たちも分かったようで、曖昧な笑いを浮かべながら、すぐに去って行った。
「あれ? あの人って……この前の」
シオンの後ろで、紅子が声を上げた。その先を言う前に、青年がシリンの二の腕を掴んだ。
「帰るぞ」
「あ、待ってよ、セイちゃん。わたし、ソウちゃんのね……」
「分かってる。けど、わざわざお前が来ることはねーだろ。アイツのことはオレたちが探してる。お前は黙って待ってろ」
「でもね、セイちゃんたちがゾロゾロ行って探してたら、ソウちゃんだって気付いて逃げちゃうんじゃないかなぁ」
「別にゾロゾロしたくてしてるんじゃねえ。アイツらが勝手について来んだよ。今日だって巻いてきたんだ」
「それでね、わたし、ソウちゃんのお友達に会って……あ! あの子たちだよ、ソウちゃんのお友達!」
シリンが、立ち尽くしているシオンたちに気付き、手を振った。
「……蒼樹の?」
ワーキャットの青年が訝しげに、シオンたちを見やった。くっきりとしたつり目で、睨みつけるようにシオンを見る。そしてシオンがワーキャットだからか、少し驚いたような顔をした。
だが、すぐに頭を振った。
「まさか。アイツにそう簡単にダチが出来るわけねーだろ」
「ほんとだよ。おーい!」
こっち、こっち、と小さな体をぴょんぴょんと跳ねさせるシリンを、青年がぎょっとした顔をして止めた。
「バッ、バカ! 跳ぶな!」
「平気だよー。大げさなんだから」
目をぱちくりさせ、シリンが掴まれた肩を竦める。
「やっぱり。あの人、この前会った人だ」
ワーキャットの男を凝視しながら、紅子が言った。
「え?」
「あの男の人。新宿駅で会ったの」
そう言うと、シリンと一緒に近づいてきた青年に、紅子はぺこりと頭を下げた。
「あの、この前はありがとうございます。私、新宿駅で、お友達とご一緒のところで会った……」
「……どっかで会ったか?」
思い出せないらしく、男は少し困ったように眉をしかめた。隣でシリンが微笑む。
「セイちゃん、忘れっぽいから」
「うるせえ。……つーか、頭下げられてると、余計思い出せねえ」
「あ、はい」
と紅子が慌てて頭を上げると、男はようやく気付いたようだった。
「ああ、リョータとぶつかった……こないだの雨の日のか」
「あ、そうです、そうです!」
嬉しげに声を上げる紅子と、ワーキャットの青年を、シオンは交互に見た。人物関係が複雑になってきて、猫頭が混乱してきた。
「あんときは悪かったな」
「いえいえ」
「まぁ、ソウちゃんのお友達と、セイちゃんはもうとっくに会ってたのに、何も知らずにバイバイしちゃったんだね」
口許に手を当て、シリンがくすくすと笑う。
「セイちゃんって、そういう面白いところ、あるよね」
「うるせえ」
仏頂面の男に、シリンはシオンたちを紹介した。
「この子たち、ソウちゃんと一緒にお仕事してるんですって。だから、お話を聴こうと思って、待ってたの。ねえ、ようやく、ソウちゃんに会えそうだね」
シリンが嬉しそうに笑顔を浮かべたのに対し、「セイちゃん」と呼ばれる男性はあまり嬉しそうでは無かった。
「彼は、セイヤって言うの。ソウちゃん……蒼樹と、わたしたち三人は、小さいころからの幼なじみで、一緒にパーティーを組んでるの」
「元、だろ」
セイヤが冷たく言うと、シリンは悲しげな顔をした。
「もう、素直じゃないんだから。ソウちゃんが抜けたなんて、認めてないくせに」
「勝手に出て行ったんだろ。それは好きにすりゃいい」
シリンは肩を竦め、シオンたちに言った。
「ごめんなさい。彼はひねくれてるの。というか、拗ねてるのね」
「誰がだ!」
牙を覗かせながら、セイヤが怒鳴る。
どこから話に混ざっていいのか分からないシオンと紅子に、セイヤは改めて自己紹介をした。
「悪いな。コイツが面倒かけたみたいで。オレは三崎誠也」
と、シオンに手を差し出す。前に紅子が言っていたように、腕に魔石のブレスレットがたくさんぶら下がっている。
「あ、小野原シオンです。こっちは、仲間の浅羽」
「浅羽紅子です」
「ん」
とセイヤはそれだけ言い、紅子とも握手を交わした。そして、シリンのほうを見て言った。
「お前は?」
「わたしは、さっき自己紹介したよ」
と言いつつ、シオンたちに向かって、可愛らしく微笑む。
「ね、シリンです、よろしくね」
きっとまたシオンは、ぼんやりした顔で彼女を見つめているんだろうな……と紅子は分かっていたので、そっちはあえて見ない。
しかし、ワーキャットの男女の距離感はかなり近いように見えた。そう思っていると、シリンが傍らのセイヤの腕に、白い腕をそっと絡ませた。ごく自然な動作だった。そして、今まで気付かなかったが、それぞれの指に、揃いの指輪が輝いていた。
それに気付いた紅子が、尋ねた。
「もしかして、お二人って……ご結婚されてるんですか?」
「えっ」
驚いた声を上げたのは、シオンだった。
「ええ。そうなの」
にこにことシリンが答える。
「この人は一応、わたしのダンナさんなの」
「一応ってなんだ」
セイヤが顔をしかめ、呟いた。
思わず隣を見やった紅子は、シオンの耳が無くなったのかと思った。小野原くんが人間になってる! と驚き、よく見ると、彼の耳は癖のついた柔らかそうな髪の中で、ぺったりと寝てしまっていた。
「お、おのはら、くん?」
あまりにも彼が呆然としているので、立ったまま気絶しているのかと、紅子はシオンの顔の前を手でパタパタと仰いだ。金色の目は見開かれたまま、しばらくまばたきもしない。
他人の初恋が、始まってすぐに終わるさまを、紅子はまざまざと見てしまったのだった。
《オデュッセイア》に場所を移し、シオンと紅子は若いワーキャット夫婦の話を聞いた。
「何でも頼めよ」
とセイヤは言ったが、シオンは空腹では無かったし、食事よりも彼らの話が気になる。
「オレはいいです」
「腹減ってねえのか? オレもメシはいいや。シリン、お前は?」
「わたしも、飲み物だけでいいかな。ね、オレンジジュースとかある?」
「オレンジジュースが無い店って、オレは未だに見たことねーわ」
セイヤがメニューを開き、シリンが横から覗き込む姿は、仲睦まじげだ。
「オレもそれにするか」
「でも、果汁百パーセントって書いてるよ。すっぱいよ? セイちゃん飲めるの?」
「飲めねえ。ならコーラでいい」
どうでも良さげにセイヤは呟き、向かいに座っているシオンと紅子を見やった。
「アンタらは? どうする?」
「オレもジュースでいいかな……」
セイヤとシリンが先にジュースを頼んだので、キキの前で失敗したように気張って苦手なコーヒーを頼むことなく、シオンもオレンジジュースを頼んだ。
「浅羽は食うだろ? いつもの大盛りだよな」
「うう、小野原くんやめて……」
悪意の無い少年の優しさに、紅子は頬を赤らめた。細身なワーキャットたちに囲まれて、一人でばくばく山盛りの食事を平らげる若い人間の女……想像すると流石の紅子も恥ずかしくなる。
しかし、無情にも腹はグーグーと音を出して訴える。
「ああ……」
紅子はがっくりとうな垂れた。飲食店に足を踏み入れただけで空腹を訴えだす、素直な体が憎い。
「やっぱり、わたしも食べようかな。なんだか、お腹空いたみたい」
シリンがセイヤの手からメニューを取り、言った。
「食えんのか?」
「食べるよ。最近、お腹減るんだもの」
にこりと微笑む。明らかにフォローだった。男たちの前で、紅子だけに恥をかかせないための。
可愛くて、心まで綺麗だなんて……いや、嫌な人だったら良かったなんてことは無い。ただ、なんとなく敗北感を覚えるだけだ。勝手に負けながら、紅子はちらりと傍らのシオンを見やった。
彼はもう、シリンを見て顔を赤らめたり、ぼーっとしている様子は無い。
人妻だと分かった途端、あっさり夢から醒めたようだった。その変わりように、紅子は戸惑った。でも、大事にいたらなくて良かった。人妻相手に不毛な片想いをする展開は無さそうだ。小野原くんには悪いけど、彼の恋を応援しよう! なんて思えるほど観音菩薩では無い。そうなったら、シオンとパーティーを組むのも辛い。無意識に相手の顔を腫らす魔法をかけてしまいそうだ。もちろん、そんな自分は嫌だ。シリンは良い人そうなので、なおさら。
結局、シリンがグラタンを頼んだので、紅子も開き直って、いつも通りのセットメニューを頼んだ。パンとご飯とサラダが大盛りのセットを、シオンが心得たようにウェイトレスのミサホに頼むと、セイヤは少し驚いたようだった。
「すげーな。アンタが全部食うのか?」
「へへ……」
はっきりと言われ、紅子は薄笑いを返した。
「まあ、誘ったんだから食ってもらったほうが気持ちいいけどよ」
悪気は無いらしく、正直な性格らしい。
片手で頬杖をつき、セイヤはさっさと本題を切り出した。
「オレたちが探してるのは、アンタらも知ってる男だ。柊蒼樹……今は、蒼兵衛か」
「やっぱり、本当の名前は蒼兵衛さんじゃないんだね」
「当たり前だろ。いつの時代に付ける名前だよ。アイツは柊魔刀流っつー、ワケの分かんねー道場の息子でな。蒼兵衛ってのは、その流派と一緒に受け継がれる名前だ」
「有名なんですか?」
紅子が尋ねると、セイヤは白けた目を向けた。
「ネットで調べてみな。一応ホームページらしきものがあっから。何年もほったらかされてるやつがな。門下生なんてほとんど見たことねえよ。刀使いで、しかも武器付与魔法なんて、流行んねーからな。それに、あんな変な奴に誰が剣を習いたいと思うよ?」
「そうなのか? あんなに強いのに……」
セイヤの言葉に、シオンは首を傾げた。自分は剣は使わないが、蒼兵衛はあれだけの剣士だ。もし自分が剣士なら、師事したいと思うだろう。
するとセイヤは思いきり顔をしかめた。
「お前、シオンつったか?」
「はい」
「小学生みてーな奴だな。疑えよ、アイツの強さじゃなくて、人間性を」
「人間性?」
「そうだ。ちょっとでも一緒に居たなら、アイツの性格は嫌ってほど分かるだろ。アイツは人に教えるとか、向いてねえ。つーか、人付き合い自体、向いてねえ。変人で、気まぐれで、大雑把で、訳分からん。オレはガキの頃からの付き合いだが、未だにアイツの考えてることの半分以上分からん」
気まぐれの代表格のように言われるワーキャットに、ここまで言われる人間もそういないだろう。
「たしかに変な人だけど……」
パーティーを組んでいた仲間なのに、ずいぶん冷たいことを言うんだな、とシオンが思っていると、見透かしたようにセイヤが睨んだ。
「オレを、冷たいと思ったか?」
「え?」
「顔に出てる。『コイツ、ホントにダチなのか?』ってな。お前、精神魔法にかかりやすい口だな。思ってることを他人に読まれやすいやつは、かかりやすい」
そういえば、初対面の透哉に精神魔法をかけられたこともあった。紅子が気付いて解除してくれたが、当のシオンは本当に魔法をかけられていたのかさえ、結局よく分からなかった。
「安モンでいいから、こういうのいっぱい付けとけ」
と、ブレスレットだらけの自分の腕を見せた。
「オレもそうだ。種族的にも魔法耐性が弱い上、体質的にかかりやすい。だからこうやって対策してる。やんないよりいいからな」
「一つ付けてるけど」
「その一つが無くなったら、無防備になるぞ。後天的に耐性を付けようと思ったら、わざと魔法にかかりまくって克服するしかない。それでもある程度までしか治んねーからな」
「でも、精神魔法って、そんなに日常でかけられるものでもないような……」
ソーサラーの紅子が口を挟む。
「かけるのが難しいし。かけたら犯罪になっちゃうし」
「まあな。軽犯罪とは言われるが、問答無用でブチ込まれるな。そのリスクを負ってまで、強力な暗示がかけられるってわけでもないからな」
「精神魔法かけるより、脅して言うこと聞かせたほうが早いよって、お兄ちゃん言ってた」
「それはそうかも」
ソーサラーの発言としてはどうかと思うが、シオンが納得したように頷く。
「だからって安心するなよ。冒険者やってるなら分かるだろうが、おかしな奴はいくらでもいるからな」
「セイちゃん、心配性だから」
シリンがのんびりと言った。
「うるせえ」
言葉はぶっきらぼうだが、彼なりに同種族のシオンを心配してくれたのだろう。
「ライト・ワーキャットはあんまり強くねえからな……駆け出しで冒険者になっても、ナメられてすぐパシリにされちまう。逆らえなくて、そっからズルズル流されちまう奴も多いしよ」
セイヤが神妙に呟き、シオンは気まずくなった。そんな典型的な駆け出し時代を過ごした冒険者が、まさにここに居る。
「……ま、それはいい。蒼樹の話だ。アイツから何を聞いてるか知らないが、オレはアイツを嫌ってるわけじゃねえし、パーティーから追い出したわけでもない」
「というより、心配してるよね」
「してねえよ。してもムダだろ、んなモン」
不機嫌そうにセイヤが言う。
彼の性格上、変に気を遣うより、はっきり訊いたほうが良さそうだと思い、シオンは尋ねた。
「どうして、蒼兵衛さんはパーティーを抜けたんですか? パーティーの人たちに裏切られたって言ってたけど」
そう言うと、驚いたのはシリンだった。
「えっ……ソウちゃんが、そう言ってたの? ねえ、やっぱり、わたしたち何かしたんじゃない?」
「してねえよ」
慌てるシリンに、セイヤがあっさり答える。だが、彼もたしかに顔に出やすいタイプのようだ。シオンの言葉に、一瞬顔をしかめた。その気まずそうな表情で、シオンは分かった。彼には、思い当たるふしがあるようだ。
彼と蒼兵衛の間にあった何かが、裏切りと関係あるのだろう。それを妻のシリンにさえ隠している。
だとしたらこの場で、そのことは言わないはずだ。そう思い、シオンはそれ以上裏切りについて言及しなかった。
「アイツは、パーティーを抜けるとだけ言って、出て行った。理由も言わずな」
「いきなり居なくなってしまったの。おうちにも帰ってないし」
「でも、流派を継いだから、蒼兵衛さんって名乗ってるんですよね? おうちの人が知らないってあるのかな?」
紅子がもっともな疑問を口にする。
「勝手に名乗ってんだろ。そういう奴だ。アイツは次男だが、親はアイツに継がせたかってたから、それでいいんだろ。どうせ門下生もほとんど居ないんだし」
「そっかぁ。そういう道場って、お弟子さんからの月謝が無いと、運営していけないよね……。もしかして、おうちが苦しいから冒険者をしてるのかな?」
「いや、アイツの親父さんと兄貴は真っ当に会社勤めしてる。いくつかアパート持ってるって言ってたし、家賃収入とかあるんだろ。赤字道場を補填しても釣りがくる」
「詳しいんだな」
シオンの言葉に、シリンが微笑みながら答えた。
「だって、長い付き合いだもの。子供のときは、ソウちゃんのおうちの道場で、よく遊んだよね。色々言ってるけど、この人だって門下生募集のチラシ、一緒に配ったりしたもんね」
「うるせえ」
食事が運ばれてきた。
「はーい、こっこちゃんスペシャルですよぉ~」
ミサホがそう告げながら、紅子の前に圧倒的なボリュームの食事を次々と置いていく。《レディース冒険者応援ハンバーグセット》、別名《こっこちゃんスペシャル》は、女性冒険者限定メニューだ。肉は増量、ライスも大盛り、パンも大盛り、サラダも大盛り、スープ付き。ライスとパンとスープはお代わり自由。
ミサホが言うには、紅子の食べっぷりをマスターが気に入って、考案されたという。そのメニューが出来て、他の女性冒険者も《オデュッセイア》によく足を運んでくれるようなったらしい。
ちなみにソーサラーの冒険者カードを見せたら、更に割引してくれる。勤労女子高生の紅子には嬉しいメニューである。
「わあ、美味しそう」
とシリンが無邪気に言い、セイヤが促した。
「遠慮せず食えよ。それで足りるか?」
「た、足ります……」
パンとご飯のお代わりは今日だけ我慢しよう……と紅子は思った。
「わたしたちは、どっちもおうちが貧乏だったの」
温かく湯気の出る食事を見つめ、シリンが微笑みながら呟いた。
「子供のときから、ソウちゃんのご家族はとても良くしてくれた。道場に入り込んで遊ばせてくれて、一緒にご飯食べさせてくれて、お正月にはおせちとお餅を食べさせてもらって……。そうじゃなかったら、わたしたち、こんなふうにちゃんと大きくなってたかも分からない」
シリンは話しながら、何度か自分の腹を擦っていた。その目の前に温かなグラタンが置かれたが、彼女はすぐに手を付けなかった。
「猫舌なの」
そうシリンは笑った。
「蒼兵衛さんが居なくなって、ご家族も心配されてますよね」
フォークを手に取りつつ紅子が言うと、セイヤは軽く答えた。
「そんなこと無さそうだけどな。『お兄ちゃんは変わってるから、好きにしたらいい』って全員笑ってたぜ」
「でも、アンタたちは探してるんだな」
すっかり敬語を忘れて、シオンはそう尋ねた。ワーキャット同士、親近感がわいているのかもしれない。
「家族だって探してないんだろ。大体、パーティーから抜けるのは自由じゃないのか?」
「それはそうだな。アイツがパーティーを抜けたことは、好きにすりゃいいと思ってる。アイツはオレらよりずっと強いし、マジに冒険者でやっていきたいんなら、幼なじみ同士で仲良しこよしパーティーやってる必要はねえ」
特に気を悪くした様子も無く、セイヤが答える。
「本気で、そうしたいと思ってるんならな」
「どういう意味だ?」
ワーキャットの青年は、運ばれてきたグラスにささったストローを取り出し、グラスに直接口を付け、コーラを飲んだ。
それから、小さく息をつき、言った。
「オレらは貧乏な亜人のガキだ。高校にも行けなかった。他に大した選択肢も無かったから、冒険者を選んだ。アイツは違う。真っ当な人間のガキで、本当はそこで道が別れるはずだったんだ」
淡々と語るセイヤは、自分たちを卑下しているふうでは無く、むしろ懐かしげだった。
「けど、アイツはオレたちと一緒に冒険者になろうとした。さすがにのん気な親も、中卒の冒険者になることは止めたし、オレたちも止めた。そしたら、冒険者コースのある高校なんてワケの分からんとこに行って、在学してすぐ冒険者の資格を得た。特例だったみたいだけどな」
在学中でも資格が取れるなら、桜もそうすれば良かったのでは、と一瞬シオンは思ったが、それでも良い仲間に恵まれた冒険者生活を送ったのだから、それで良かったのだろう。
「そうやって、アイツはオレらとパーティーを組んだ。オレと、シリンと、同じようなガキが何人か、仕事によって加わった。けど、地元でケンカばっかしてたガキも、ダンジョンでモンスターと戦うのは違う。オレも最初はブルって仕方なかったし、それまでイキがってた奴が、モンスターに囲まれてちびってたからな」
「うう、分かるなぁ」
とハンバーグを頬張りながら、紅子が呟く。
シリンは少し冷めたグラタンをちびちびと口に運んでいたが、食が進まないのか、あまり減っていない。
「食いたくないならムリすんな」
「ん、大丈夫だよ。ちゃんと食べなきゃね」
そうセイヤが声をかけると、シリンが小さく笑いながら頷いた。
セイヤが話を続ける。
「同じ駆け出しでも、蒼樹だけは、違った。平然としてモンスターをぶった斬ってたな。アイツがいなきゃ、死んでたかもしれない場面はいくつもあったな」
「昔からあんなふうなのか」
シオンは呟いた。桜とまったく同じタイプだ。そんな二人が少しの間だけ同じ高校に通っていたことがすごい。模擬戦闘をしたと言っていたが、シオンも見てみたかった。
「そうだな。アイツは変わんねーな。昔からヘンな奴だった。人間のガキの中で、オレたちとばっかつるんで、冒険者にまでなっちまった。それが、急に消えちまったんだ。パーティーを抜けるのはいい。けど、もういっぺんくらい話がしたいと思うのは、普通だろ。ずっとダチで……仲間だったんだ」
セイヤの言葉に、シオンは桜とその仲間たちのことを思い出した。桜が死んだことを引きずっている人たち、今も探し続けている人もいる。
「それが、オレたちの言い分だ。蒼樹の連絡先を知ってるなら、教えてくれねえか。埼玉から何度も出て来て、あちこちのセンターを探し回った。仲間と一緒に聞き込んで、新宿でそれらしい奴を見たって聞いて、ようやくアイツを知ってる奴に会ったんだ」
そこまで言って、セイヤはグラスに半分ほど残っていたコーラを飲み干すと、ため息をついた。
「……それに、ずっと探し回るのもな。ガキのころ、東京のチームとも何度か揉めてよ。あんまり顔出して目立つことしてっと、刺激しちまう。そうなると、地元の若い奴らに迷惑かかるからな」
自分もまだ若いはずなのに、真面目な顔でそんなことを言う。
「チームって、そのあたりの公園とかで同じジャージを着て集まってるワーキャットさんたちのことですか?」
紅子が尋ねると、セイヤは苦笑した。
「まあ……そうだよ。ワーキャットにはバカなガキが多いから、つるんでいきがる。オレもそうだったし。他の亜人に比べたら、あんまりちゃんとしてねー奴が多い。親からしてそうだからな。バカがバカ産んでほったらかして、バカが育つ」
と言ってから、シオンを見る。
「お前のこと言ってるわけじゃねーよ。お前、真面目っぽいしな」
「どうだろ。オレは、人間の親に育ててもらったから、他のワーキャットのことはあまり分からない」
「ああ、そうなのか。いい親だな。お前見てると分かる。どっちかって言うと、ワーキャットだからってレッテル貼られて苦労するタイプだな、お前」
「もう慣れた。それに、ワーキャットだからって、いい加減な奴ばっかじゃないだろ」
少なくとも、目の前の男もいい加減なタイプには見えない。どちらかというと、苦労してそうだ。
「ほんとに、まともな親に育ててもらったんだな」
セイヤは口が悪く、物言いも不躾だが、笑った顔が人懐こい。彼が言うところのバカなワーキャットたちにも、慕われているのだろう。
「お前はどうして、冒険者になったんだ?」
「人間の学校で上手くやれなかったから。でもオレも、どうせ自分がワーキャットだからだって、決めつけてたとこもあったと思う」
それはシオンにとって、ずっと苦々しい思い出だった。少し人と違って目立つというだけで嫌ってくる奴、その尻馬に乗っかって一緒に蔑む奴、面倒ことを避けたがる教師。今も学校というと、嫌な記憶ばかりが蘇る。
けれど、学校に行っていなければ、紅子と仲間になることも無かった。
「亜人とか人間とか、オレのほうがこだわってたのかもしれない。だから浮いてたのかもしれないし、そうじゃなかったら仲良くしてくれた奴もいたかもしれない。そう思うようになったのは、最近だけど」
ふと、隣でハンバーグを食べている紅子を見る。
「え、な、なに?」
と紅子が口をもぐもぐさせながら、慌てて笑顔を作った。彼らが真面目な話をしているときに、思いっきり食べてしまっていた。そんな姿を見られて、ちょっと――いや、かなり気まずい。
「いや、食っててくれ」
「う、うん……」
もしかして、呆れられた? と紅子は焦った。バカの大食い、そんな言葉が頭をよぎった。これ、誰に言われたんだっけ。ああ、そうだ、死んだお兄ちゃんにだ……。
しょんぼりしつつ、しっかりと食事は続ける。大食いだが食べるスピードは遅いので、一生懸命食べないと迷惑がかかる。
もちろんシオンは、別に何も思っていない。一生懸命食べている様子は微笑ましい。彼女がいつでも元気に、お腹いっぱい食べている姿を見るのは好きだ。
彼女とパーティーを組んでから、シオンは仕事で出会った人々に対し、その場限りの付き合いだとは思わなくなった。蒼兵衛やキキとの繋がりが出来た。
学校に、バイトに、冒険に、いつでも頑張っている紅子を見ていたら、自分も前を向いて生きたくなったのだ。
「オレは学校では、そんなに頑張ろうとしてなかった。どうせ冒険者になるんだから、人間の中で嫌な思いしなくていいんだって。すぐに諦めたんだ。でも、そんなふうに冒険者になったことも、今では良かったと思ってる」
「……そうか。お前は、自分の境遇を恨まないんだな」
セイヤはぽつりと言って、小さく笑った。
「でも、そんな奴ばっかりじゃない。オレたちはクズで、どうしようもない掃き溜まりでつるんで、つまんねークソ親と、どうにもならない自分の人生を恨んでた」
たくさんのブレスレットが目を引く彼の腕に、よく見るとたくさんの痣があることにシオンは気付いた。
殴られたのとも違う、小さな痕。薄くなっているのは、時間が経っているからだろう。おそらく、幼いころに受けた傷だ。腕や手の甲に不自然に残った特徴的な痣は、間違い無く煙草の火を押し当られた痕だった。
「けど、恨んでも、どうにもなんねー。親は親、オレはオレだ。そう思えたのは……そうだな、ソウのお陰かもしんねーな。ああいう奴が近くにいると、オレはオレでしかねーなって思う」
それは分かる。シオンにとっての桜のようなものだろう。その強さが羨ましい。けど、自分は桜にはなれないし、自分なりに強くなるしかない。
「拗ねて、腐ってるほうがバカらしくなってな。ソウは、ずっと一緒に居ても、何考えてるのか分かんねえ。けど、強かった。いつも堂々としてた」
セイヤが目を細める。それは懐かしさというより、羨望があるようにシオンには思えた。強くて堂々としている男は、味方にいれば心強いかもしれないが、それが同じ歳だったら、素直にすごいとだけは思えないのかもしれない。
「アイツとつるんでると、オレたちまで強くなったように錯覚した。剣だけじゃなくて、ケンカも、半端なく強かったからな」
「ソウちゃん、嫌だったのかな」
美しい顔を俯かせ、シリンはまた目を潤ませた。目の前のグラタンは、三分の一も減っていなかった。
「わたしたちが、甘え過ぎたのかも。いつも頼って、いっぱい戦ってもらって。ソウちゃん、優しいから……わたしたちとずっと一緒に居てくれた。それに、甘え過ぎてたんだよ、きっと」
「んなことねえよ」
ぶっきらぼうに、セイヤが否定した。が、その表情は僅かに悲しげだった。
やはり彼は、まだ何かを隠している。シオンは確信した。
《オデュッセイア》を出た後、セイヤが紅子に尋ねた。
「なあ、このビル、本屋あるか?」
「あ、この先。曲がったとこに」
と紅子は通路の先を指差した。それを聞いて、セイヤはシリンに言った。
「シリン。ちょっと本買って来てくれ」
「セイちゃん、本なんて読まないじゃない」
「マンガだ。電車の中で読むから、なんかテキトーなやつ」
と、ジーンズのポケットから財布を取り出し、押し付けると、今度は紅子に言った。
「悪いが、アンタついて行ってやってくれ。コイツはドジだから、転ぶかもしんねえ」
「あ、はい。いいですけど」
「転ばないよー」
「早く行け」
しっしっ、とセイヤが鬱陶しげに手を振る。彼女を追い払いのだと、シオンも気付いて紅子に言った。
「浅羽、ついて行ってやってくれ」
「うん。分かった。シリンさん、行きましょう」
彼女も意図は分かったらしく、頬を膨らませてふりふりと尻尾を振るシリンを、すぐに連れて行った。
セイヤはシオンを、廊下の隅に連れて行った。
「悪いな。まどろっこしいことして」
「いや……」
赤茶色の髪を手で搔きながら、セイヤは小さく息を吐いた。落ち着かない様子で、耳が小さく動いている。
「……シリンは、分かってねーんだ。なんで、ソウがオレたちのパーティーを抜けたのか」
「セイヤさんは、知ってるんですか?」
「敬語はいい。ムズがゆくなる」
蒼兵衛のようなことを言い、セイヤはまたため息をついた。
「……アイツがパーティーを抜けた理由が分かんねーのは、シリンくらいだよ」
「どういうことだ?」
シオンの問いに、セイヤは拗ねた少年のように、顔をしかめた。
「オレと、シリンが、結婚したから」
「え?」
彼の短い尻尾がせわしなく動く。どうやら自分で言ったことに照れているようだ。こういうとき、感情の隠せないワーキャットは悲しい。女性なら可愛く見えるワーキャットの尻尾も、大人の男には不恰好なアクセサリーのようである。
「ソウは、シリンが好きだった。けど、シリンはオレと結婚した。だからアイツは、ショック受けたんだろ」
「じゃあ、蒼兵衛さんがパーティーを抜けたのって……」
思ってもみなかった事情に、シオンは目を見開いた。
「……失恋が、原因で……!?」
セイヤが頷く。
「そうなるな」
「じゃ、じゃあ、裏切られたっていうのも……」
「オレたちが結婚したことにだろうな」
「あ……あんなに強い人が……? 失恋なんかで、あんなに傷ついてたっていうのか……?」
「は? 強さ関係あるか? 失恋は傷つくだろーが」
「でも、そこまでのことか……?」
「そこまでのことだから、オレたちの前から姿を消したんだろ」
はーと大きくため息をつき、セイヤはぐしゃぐしゃと後ろ髪を搔いた。
「……強くたって、一応アイツも人間だからな」
「そういうものなのか……」
自分を好きと言った桜が、その後あっさりしていたからか、蒼兵衛が思っていたより繊細に感じてしまう。
蒼兵衛は、強い。だから、単純にすごいとシオンは思った。
それまで知る中で、一番強いと思っていた桜を、剣の腕だけなら凌駕する。現に、桜が認めたほどの戦士である。
それほどの男が、ずっと一緒だった仲間や、家族にすらその居場所を告げず、突然消えたのだ。平然としているように見えても、隠しきれていない心の傷があるように思えた。
それが、仲間の裏切りだったと、彼は言った。ワーキャットを嫌うまでになった。よほどの裏切りだと思っていたのだ。
それが……まさか……。
「失恋だったのかよ……」
シオンは近くの壁に手をつき、がっくりとうな垂れた。
「……アイツが、何を言ったのか知らねえが、オレのことを憎んでいても別に驚かねえよ。アイツもシリンが好きだって知ってて、抜け駆けしたのはオレだしな」
「どうして、そんなことを……?」
まだショックから立ち直れないまま、シオンは尋ねた。
「どうしてって……逆に訊くがお前、オレ今から告白するぜ、ってダチに宣言してから、女に結婚申し込むのか?」
「でも、ずっと友達だったんなら……もっと、色々やりようはあったんじゃないか……?」
ついさっき、自分でも知らない間に初恋を終えたシオンは、恋愛のもつれというものが、心底分からなかった。
分からないなりに、蒼兵衛が可哀相な気がした。
「やりようって……そうだな……今思えば、あったかもしんねえが……」
セイヤは顔をしかめつつ目を閉じ、しばし苦悩したようだった。しかし、答えは見つからなかったようだ。
「……いや……そういう雰囲気になったときに止められるんなら、発情期なんて言わねーよ」
「は、発情期……?」
直接的な言葉に、シオンは顔を赤くしつつ、納得した。
「……そ、そうか。それなら仕方無い……のか?」
年中発情している人間や兎亜人と違い、ワーキャットは発情期を除き、性的に淡白である。だから、人間なら常に当たり前であるはずのその状態が、いやに気恥ずかしく感じるのだ。
最初の発情期は、未熟な思春期に訪れるので、知識が無いと驚く。普段淡白なぶん耐性も低く、薬無しにやり過ごすのはけっこう辛い。
「初めて発情期がきたとき、何も考えずに、オレとシリンはそういうことになった。そのことを、オレたちはいったん無かったことにした」
「無かったこと?」
「ああ。冒険者として身を立てようとしてるときで、付き合ってるヒマなんて無かったしな」
彼らはまともな親に育てられず、ワーキャットが人間社会で生きていく上で、大事な性知識が無かった。
人間ならまだ幼いと言える歳で、彼らは社会に放り出された。必死で生きていく術を探す中、一度きりの関係を持った。でもそれは、発情期の過ちだ。
彼も、幼なじみの少女のことが好きだった。その想いを一度、封印することにした。彼女も、納得してくれた。
そうセイヤは言ったが、付き合っているヒマが無い、というのは、建前のようにシオンには思えた。一途に彼女を想っている友人に対しての気まずさも、多少はあったのではないか。
「オレは、とにかく早く自立して、家を出たかった。オレのとこもだが、シリンのとこはマジで親が終わってたからな」
苦々しげな表情で、セイヤが吐き捨てる。
「けど、ようやく落ち着いた。だから、アイツと一緒になることにした」
髪をかき上げる指に、シンプルな指輪が煌いた。
「じゃあ、シリンさんもアンタと一緒になるのを、待ってたのか?」
「そうみたいだな。結婚したいつったら、喜んでくれた。アイツの夢はずっと、オレと幸せな家庭を作ることだったって」
「……蒼兵衛さんはずっと、何も知らずにシリンさんが好きだったのか?」
「ああ。アイツも、オレも、ずっとガキの頃から、シリンが好きだった。アイツがそれを口にしたことは無かったけどな。シリン以外にはバレバレだったよ」
「シリンさんとのこと、どうして黙ってたんだ?」
「何を言う必要があるんだ? 発情期でつい一回やっちまったけど、無かったことにしたから気にすんなって、わざわざ言うのか?」
淡々と、セイヤが告げる。言っていることは間違っていないかもしれない。
だが、蒼兵衛は彼らの関係を知らず、自分たちが仲の良い幼なじみのパーティーだと信じ、ずっと一緒に居た。
自分も友人も、互いにその女の子のことが好きで、それで蒼兵衛が自分の気持ちを隠し続けていたのなら、そうして過ごした時間が長ければ長いぶんだけ、それはとても残酷なことではないだろうか。
まるで生殺しだ。
それを、この察しの良さそうな男が、分からないとも思えなかった。
「何か言いたそうだな。言えよ」
そう言って、セイヤはきつく眉をしかめると、鋭い目でシオンを見た。シオンも彼を見返した。
「……あの人が強いから、利用したんじゃないか?」
そう口にすると、急に目の前の青年が、姑息で汚い男のように思えてきた。
「アンタたちのことを言えば、蒼兵衛さんがパーティーを抜けるかもしれないから。だから、何も言わずに、パーティーを組んでたんじゃないのか」
違う、とセイヤは反論すると思った。それを期待していた。
しかし彼は、まったく逆のことを口にした。
「……そうだな。自分たちがクソみたいな生活から抜けるために、冒険者として死なないために、アイツの力が必要だった。抜けられるわけには、いかなかった」
あまりに身勝手な言葉に、シオンは唖然とした。
「力も経験もコネもねえ。根性もねえ奴らばっかりの中で、蒼樹がいた。アイツのお陰で、なんとかやっていけた。アイツには、感謝してるよ」
「なんだ、それ……」
ぶっきらぼうでも、良い人だとおもっていた。けれど、蒼兵衛の言う通りだ。彼のしたことは、裏切りだ。
「だったら……もう、話なんてする必要、無いじゃないか。今さら、何を話すんだよ」
「それでも、話したいんだ」
セイヤが、きっぱりと告げる。シオンは彼を睨みつけた。
「裏切ったのに?」
「別に、裏切ったつもりはねえよ。男が女を取り合っただけだろ」
「だったら、蒼兵衛さんとは、オレが連絡を取る。あの人がアンタたちと話したいって思ったら、連絡する。そうじゃないなら、オレは蒼兵衛さんの好きにしたらいいと思う」
「連絡先は、教えないってことか」
「それはあの人に任せる」
「それなら、またこのへんで張り込むだけだ。新宿センターにいるのは分かってるし、アイツもメシ食う金はいるだろ」
セイヤはジーンズのポケットに手を入れ、壁に背をつき、天井を見上げた。はあ、と面倒くさげな息をつき、ぽつりと言う。
「お前、ワーキャットのくせに、面倒くせえ奴だな」
「レッテル貼るなよ。オレはそういうワーキャットだ」
セイヤはシオンを見ず、小さく笑った。嫌な笑いだとシオンは思った。
「……アイツとは、何度か仕事しただけだろ。そんなに肩入れするほど、アイツはお前に親切にしてくれたのか?」
「親切にされなきゃ、肩入れしちゃいけねーのかよ」
「違和感はあるな。無条件に優しい奴は信用ならねえ。強いからか?」
「それは……ある」
強い人間に惹かれるのは、こんな仕事だし当然だ。
だが、それだけじゃない。多分、強い人間に、シオンは桜を重ねている。
強くて、強くて、その強さのせいで、普通の人間の少女になれず、危険な冒険者の仕事の中に自分の生きる場所を見つけて、戦って、戦い続けて、死んだ桜。
こんな世界では、強い人間には、いつも戦いがまとわりつく。
「……強いのは、羨ましい。けど、それだけじゃない。なんか……ほっとけないだけだ」
「ほっとけない? お前が、アイツをか?」
たしかに、紅子やキキに対してならともかく、年上の、自分より強い男性に対して、放っておけなんて思うのも、おかしな話だ。
「お前はガキで、アイツは年上だろ。ほっといても強いから、お前がアイツの心配してやることはねえよ」
「強くても、人付き合いは向いてないって、アンタが言ったんだ」
初めて会ったときも、口が悪くて、印象は最悪だった。鬼熊の仔を助けようとするし、昨日の仕事でも変なミスをしてキメラを逃がした。失礼なことを平然と言ったり、大人気ないし、機械にも弱い。
そうだ、仕事中に寝たキキも大概だが、彼にも言いたいことはあった。慎重さが問われる捕獲任務で、なんでポケットの中に甘酒の缶なんて入れてるんだ! と言いたかった。
強さに惹かれただけじゃない。それ以上に、なんだか放っておけないのだ。キキと同じだ。素直じゃないぶん、キキより酷いかもしれない。
素っ気無いふりをしているくせに、構ってほしそうで、子供みたいだ。
ずっと、思っていた。
――アンタ、絶対、本当は寂しがりだろ!
心の中で叫び、ちょっとすっきりしたところで、セイヤが尋ねた。
「シオン。お前、アイツとはどんだけの付き合いだ?」
「……何回か、会っただけだ」
すると、セイヤは嘲るように笑った。
「笑わせるなよ。それで、相手のことなんてどこまで分かるんだ。アイツが強えーから、憧れてるだけだろ。中坊かよ。一週間でも一緒に居てみろ。アイツがどんな人間か分かるぜ」
「なんで、ダチだって言ってるわりに、そんなこと言うんだよ」
「本当のことだしな。とにかく、強いってだけで人を見るな。アイツを仲間にでもする気か? だったら、よく考えるんだな。アイツの強さなら、どっかのパーティーに誘われないわけがねえんだ。けど、今もソロなのはどうしてだと思う」
「アンタに裏切られて、傷ついてるからだろ。だから、どこのパーティーにも入らないんじゃないのか」
そうシオンが言うと、急にセイヤは声を上げて笑った。
「な、なんで笑うんだ……」
「お前のほうが変な奴のような気がしてきたぜ」
ひとしきり笑った後、セイヤは言った。
「素直に傷ついてるだけだと思うなよ。アイツはな、ああ見えて一人じゃ居られないタイプだ。気取ってるが、人に構ってほしい。誘われたら、どんなパーティーでも入るだろーよ」
この人も、蒼兵衛のことがワケが分からないと言ってるわりに、けっこう分かっている気がする。少しシオンは毒気を抜かれた。
「そんで、そのパーティーからも簡単に抜ける。もしくは、追い出されるかだ。ワガママで、気まぐれだからな。ほっとくと、何しでかすか分からん。だから、話をしとく必要がある」
「なんだそれ……保護者かよ」
「そんなもんだ。オレは、アイツが本気でまっとうな冒険者をやってく気があるっていうんなら、心配はしねえよ。けど、そうじゃない」
急に、セイヤは真顔になった。
「アイツは、傷ついて自暴自棄になってる。これが普通の奴なら、オレもほっとくよ。けど、あんな強くて常識の危うい奴、モンスターを野に放ってるぐらい危ねえだろ」
たしかに、問題を起こしたからレベルダウンしたのだろうし、放っておけないという点ではシオンも同じだ。
なんだか二人して、逃げた飼いモンスターの話をしているような気分になってきた。
「アイツは結局、どこのパーティーでも、上手くやれない。うちのパーティーを抜けてもいい。だが、おかしなパーティーには入ってほしくない」
「なんだよ、そんな……勝手じゃないか」
「ああ、勝手だ。アイツも、お前も、しょせんテメエの勝手でやってるだけだ。これも、オレの勝手な考えだ。勝手でも裏切りでも、オレはアイツを野放しにはしとけねえんだよ」
ワーキャットらしい鋭い目つきで、セイヤがシオンを見やる。大人が子供を見る目だった。
「ガキが思いつきで、仲間にしようと思うな。アイツはやめとけ。苦労するぞ。特にお前みたいな、人の良さそうな奴は、振り回されるだけだ」
バカにされている。父親に、面接ごっこをされたのと同じだ。シオンの考えの浅さを、セイヤは見抜いている。
けど、父さんは言った。自分の味方になってくれそうな人と、パーティーを組んでほしいと。
それにはまず、自分がその人の味方にならなきゃダメだ。
そうじゃないと、相手だってシオンを大事にしてはくれない。
「たしかに、オレはあの人に、親切にした覚えも、された覚えも無い。付き合いも、すごく短い。でも、オレは……やっぱりあの人を、ほっとけない。だって……」
セイヤの目を強く見返し、シオンは口走っていた。
「オレは、あの人に懐かれてる!」
「犬か、アイツは」
冷静に突っ込まれた。
「マンガ買ってきたよー」
紅子の明るい声が廊下に響いた。
二人がやって来る前に、セイヤはシオンに言った。
「懐かれてるから、ほっとけねーって? 人のいい奴だな。けど、犬じゃあるまいし、ただ懐いてきて可愛いってモンでもねーぞ……」
それから少し黙って、小さく息をつく。
「……連絡先はアイツが知ってる。気が向いたらでいいから、連絡してくれ。蒼樹に、そう伝えてくれ」
「分かった。他に言いたいことは?」
「ねえよ」
戻ってきた紅子が、書店の袋を抱え、セイヤに差し出した。
「はい、マンガです!」
「一生懸命選んだよー」
紅子の後ろからついてきたシリンも、にこにこと微笑んだ。
「なにを一生懸命選ぶ必要があるんだよ……」
呆れたように、セイヤが言う。そして、袋を受け取って、顔を引きつらせた。
「……ちょっと待て、オレは電車で読む、つったよな? 普通、雑誌とかだろ。なんだ、このずっしりした重さは……」
「今のセイちゃんに、一番必要かと思って」
シリンが頬に手を当て、はにかんで笑った。人妻と分かっていても、つい見とれてしまう可愛さがある。
幸せなカップルの姿を見れば見るほど、蒼兵衛が可哀相になった。フラれたことよりも、信頼していた友人に隠し事をされていたことが。
シオンも今日、桜の一周忌のことを竜胆が黙っていたことに、腹が立った。実際に声をかけられば、困ったかもしれない。それでも、一周忌のことを聞いて、そんな大事なことを、どうして言ってくれなかったのだろうと、悲しくなった。
だから、シリンとの関係を黙っていたセイヤに、腹が立ったのだ。
「まったく、ちょっと考えて買えよな。こんな分厚い本……」
そう言いながら、袋から本を取り出す。それを見て、セイヤは顔を思いきり引きつらせた。
「あ」
とシオンは本を見て、つい声を上げてしまった。
表紙に、クレヨンで描いたような優しいイラストで、おくるみに包まれた仔猫のイラストがあった。
本のタイトルは、『パパと読むマンガシリーズ・ワーキャット赤ちゃんの育て方』とあった。
あれ、父親の本棚で見たことある奴だ……とシオンは懐かしく思い出し、何故か恥ずかしくなった。
「これね、こっこちゃんが見つけてくれたの。マンガで読むってとこが、セイちゃんにいいと思ったの。ほら、あなたって小さく並んでる文字が、三行以上読めないでしょう?」
「奥付見たらけっこう昔の本だけど、ずっと売れてる本だって店員さんも言ってましたよ! というか、おめでとうございます!」
「これを、電車で読めと……」
紅子に拍手つきで祝福され、セイヤは頷きつつも、本をそっと袋に戻し、脇に挟んだ。
「一緒に、勉強しようね」
ね、とシリンが夫の顔を覗き込む。そして、セイヤの指に、自分の指を絡めた。
「わたしも……これから、がんばるね。ようやく、お母さんになる覚悟が出来たから……」
「とりあえず、服の露出は減らせよ」
「ん。多いつもりは無かったけど、気をつけるね」
シリンはまだあまり膨らんでいない腹に手を当て、自らの体を、慈しむような目で見下ろした。長い柔らかそうな髪が、ノースリーブの肩にふわりとかかる。
「……もっと早く、ソウちゃんにも報告したかったな。きっと、驚くよね……」
白い頬を桃色に染め、シリンが穏やかな声で言った。
失恋で、パーティーを抜けるくらいだ。妊娠なんて知ったら、驚くどころか失神するんじゃ……とシオンは不安になった。