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迷宮のドールズ  作者: オグリ
二章
31/88

キメラ捕獲作戦

「すまんなぁ、急に呼び出させてもろて」

 冒険者の保養所となっている山小屋に入るなり、先に待っていた探求士スカウトがそう言った。

「君、小野原くんやろ?」

「はい。小野原シオンです」

 丁寧な挨拶を心がけつつ、シオンは冒険者カードを見せた。

「よろしくお願いします」

「ほい、よろしく。昨日連絡させてもろた、香坂こうさかです」

 香坂と名乗る豚亜人グリンブルの男は、特徴的な鼻の頭にうっすらと汗を浮かべていた。それを首にかけたタオルで拭う。

 短めの頭髪の中で、短い耳が動く。

 ほとんどのグリンブルがそうであるように、大柄である。リザードマンやミノタウロスと違うのは、身長よりも恰幅の良さが目立つことだ。胴回りだけでシオンの二倍以上はある。

 彼らは亜人種族の中で最も平和的な性質であると言われている。しかし他の大型亜人種がそうであるように、ひとたび戦いとなれば勇猛な戦士となる。

 だが基本的に争いを好まないので、リザードマンやミノタウロスのように戦闘専門の冒険者は少ない。勉強好きな種族としても知られ、一つの分野を極める探求士スカウトになる者も多い。

「いやぁ、そのレベルで、思ってたより若いなぁ。えらいモンや。礼儀正しいし」

 穏やかそうな目を細め、シオンのカードと本人とを見比べて、感嘆の声を漏らす。

「いえ……」

 今までのシオンは、まったく礼儀正しくなかった。年上でも同業者やセンターの職員にも平然とタメ口を叩いていた。

 久しぶりに会った父親に「大人の人とちゃんと話せてるかい?」と言われ、話すだけなら出来ているが、「ちゃんと」の意味が「礼儀正しく」ということなら、出来ていないな、と思った。

 そのときは、そう思っただけだった。しかしそんな自分を正そうと、改めて感じたのは、キキの存在が大きい。

 キキと接するようになって、シオンは自分の態度を反省した。彼女を注意出来る立場かと言われれば、そうでは無いと気付いた。自分が冒険者になった十四歳の頃を振り返れば、年上の冒険者に敬語を使った記憶など無い。いや、今でもちゃんと使っていないのだから、使っていたわけがない。

 キキに注意するのに、自分が出来ていませんでは話にならない。まずは自分がちゃんとしようと心がけている。

「ほい、ボクのカード。ちゃんと、本人やからね」

 香坂は作業着姿である。そのずんぐりした腹の下に埋もれたポーチからカードケースを取り出し、冒険者カードを見せてくれた。

「最近また太ってなぁ……腹キツいわ。ええと、なんやっけ。今日は、急に呼び出して、悪かったなぁ」

 カードを仕舞いながら、さっきすでに言ったことを繰り返す。

「こういう仕事のやり方やから、協力者も中々捕まらへんのよ。助かるわ」

「いえ。待機有りの依頼だってのは、承知してるんで」

「せやねん。一度捕獲し損ねた野生のキメラはなぁ、えらい用心深うなるねん。色んな捕獲屋がおるけど、ボクの場合はな、成功率を上げるために、もうええやろってほど準備させてもろとる。そのうえで、今日はやっぱりあかんなーってこともあるわな。そら一週間前に予定立てて、きっちりその日に捕獲開始出来たら一番やけどなぁ、そうそう事は巧く運ばへんのよ。こういう山は天候も変わりやすいしな。せやから他の冒険者に手伝いを頼むときは広く声かけとくねん。せやないと急に明日来てくれ言うても、捕まらんことも多いからな」

「はあ……なるほど」

「ま、そのぶん謝礼は弾むから、堪忍やで。来てくれてうれしいわ。今日は気張ってや」

 ぽんぽんと肉厚の手で肩を叩かれる。

「はい」

「ほんま助かるわ。仲間まで集めてもろて」

 と、香坂がシオンの背後に目をやる。

「お仲間さんも、頼んます」

 そこには、キキと蒼兵衛が立っていた。

「おう! 任せな!」

 キキが偉そうに胸を張る。まずシオンが自己紹介をし、それ以降は喋っていいと言ってある。

 今日のキキは胸に〈妹尾組〉と刺繍の入ったつなぎを着ている。頭にはリボン。腰にはベルトを巻き、魔銃を下げている。ウエストバッグにはパンパンに弾が詰まっているようだが、背には大きな銃では無く、国重を思わせる槍を背負っていた。なるべく軽装で、とシオンが指示したからだろう。それは香坂からの指示でもある。

「よろしくお願いしますだろ」

「ん。よろしくねっ!」

 キキは腰を手を当て、ふんぞり返った。

 蒼兵衛は相変わらずロングコートを羽織り、ポケットに手を突っ込んだまま、腰にはやはり日本刀を差している。

「みんな、しっかりね!」

 お前がリーダーかよ、とシオンは突っ込みたくなったが、香坂は軽く笑い飛ばした。

「ははは。元気がええね。声も大きいし。妹尾やから、リザードやね」

「ん。おっちゃん、キキでいいよ」

「こら、キキ」

「おっちゃんでええ、ええ。実際おっちゃんやし。ほんならキキさん……キキちゃんでええか?」

「おうっ!」

 キキは機嫌良さげだ。

「よく、あたしがリザードマンって判ったね! 人間でも妹尾なんて名字いるのにさ」

 どうやらすぐにリザードマンと判ってもらえたのが嬉しかったようだ。まあ、たしかにリザードマンに多い名字だとは言っても、まず彼女がそうだろうとは普通は思わないだろう。

「その歳で、人間の冒険者ってことはそう無いからね。やったら亜人やって分かるし、妹尾言うたらまずリザードマンやからね。声も大きいし、姿勢がええしね」

「姿勢?」

 とシオンが思わず尋ねる。

「リザードはな、意識せんと、やや前傾姿勢になってまうんよ。もちろん彼らにとっては本来、自然なことやで。顔が大きいし、尻尾が太いやろ?」

 香坂は少し頭を前に突き出しつつ言った。

「せやから親が子供のうちに姿勢を正すことを意識させる。リザード居住区やったらともかく、人間ばかりの場所では本来の歩き方で不便なときもあるからね。公共の乗り物の中とか」

「ああ、そうか」

「特に女性は、子供んときから厳しく躾けるからね。そら綺麗に歩くもんやで。衣服を着て生活するのに、尻尾が暴れると格好つかんやろ? せやから普段尻尾は、着物やスカートの下で常にすっと下がっとる」

 そういえば、とシオンは妹尾家に招かれたときのことを思い出した。

 妹尾家の女性たちは、キキの祖母・静音を始め、綺麗に着物を着こなしていたように思う。その体にあるはずの尻尾の印象は薄い。

「尻尾を下ろして真っ直ぐ立つ。これはな、生まれつき出来ることではないんよ。必ずしもちゃうけど、姿勢良く立てるということは、野生種やないことの証明でもあるわな。リザード女性の立ち方はほんまに美しいで。今どきの人間女性よりよっぽどしゃんとしとるわ」

「えっへん」

 とキキがわざわざ口に出して威張る。

「分かってるじゃん、ブルのおっちゃん」

「香坂さんだろ」

「ええよ、ええよ。それにしても、リザードハーフで人間寄りの子は珍しいなぁ。てことはお母さんが人間やね」

「そうだよ!」

「そんなことも分かるのか?」

 すっかり敬語も忘れ、シオンは尋ねた。

「ん? そら、お母さんが人間なら、人間の姿やないと産みづらいやろ?」

「そうなのか?」

「そら産道を通るときに……」

「なあ、小野原。君が保健体育の授業をまともに受けていないというのは分かったが、そんなことは後で自分で調べたらどうだ?」

 それまで黙っていた蒼兵衛が口を挟んだ。

「それとも今日の仕事というのは、他種族の生態を学ぶ勉強会だったのか?」

 つっけんどんな物言いに、キキの顔がムッとしかめられたが、来る前に「喧嘩をしたらもう絶対に連れて行かない」と約束したからか、黙ってごくごく喉を鳴らしている。

 当の蒼兵衛も、待たされて苛立っているというわけではない。このままシオンの疑問に香坂が答えていれば、時間が押すばかりだと言いたいのだろう。ただその言い方が悪いだけで。

「ああ、すまんなぁ。好きな話になると、ボクもつい」

「柊だ。よろしく」

 とポケットからカードを取り出し、香坂に見せる。そこには『侍』という手書き文字があるはずだが、香坂はにこにこと笑ってスルーした。

「柊蒼兵衛くんやね。こらまた男ぶりがええなあ。今日は若い子が多うて楽しいわ。じゃあ、小野原くん、柊くん、キキちゃん、ぼちぼち行こか」




 昨晩、紅子とキキが帰った後、香坂から電話があった。彼からはセンターにいるときに連絡をもらっていたので、すぐに明日の仕事の話だと分かった。

 また延期だろうかと思ったら、こう尋ねられた。

〈ああ、小野原くん? 急にすまんけど、他に声かけられる仲間おれへん?〉

 紅子は学校だから無理だ。

 他に仲間はいない。そう答えようとしたが、電話越しにもその声に焦りが滲み、困っているのが分かった。

〈準備も天候もばっちりで、いよいよチャンスやっちゅーのに、待機続きでみんな予定入れてもうてるんや。まあ手が空いてれば手伝い自体は初心者でもええねんけど、場所がなぁ、最近オーガの目撃情報もあって、出来たら自分で身を守れて、戦闘出来るモンがええねん。誰かおらんかなぁ? 戦える人〉

 そう言われ、まずキキが思い浮かんだ。

 戦える冒険者ではあるが、実績はレベル1の子供でもいいのか? と尋ねると、まったく構わないと言われた。

〈捕獲作業自体は、初心者でも子供でも手伝えることはいっぱいあるからね。冒険者の認定貰えるなら亜人やろ? 戦えん大人より戦える子供のがええわ。というより、小柄で目立たんほうがええくらいやから大歓迎やで。あとは、出来たら強い人、おれへん?〉

 強い人、と強調され、その日さんざん話に出た蒼兵衛のことが思い浮かばないはずはなかった。その強さから、声をかけてみようかと思った人物だ。

 毎日暇していると言っていた。声をかける機会かもしれない。そう思って、シオンは咄嗟に答えた。

「声、かけてみます」


 そして、登録したばかりの番号を呼び出した。

 自分から誰かを仕事に誘うのは初めてで、緊張しつつ呼び出し音を聴いた。

 繋がりはしたものの、返事が無かったので、間違ったかな? と不安に思いつつ、声をかけた。

「もしもし、小野原です」

 繋がってはいるようだが、やはり返事は無い。

「あの、もしもし。えーと、小野原シオンですけど。分かりますか?」

 また無言。

「あの……」

 どうしたものかと思っていると、ややあって、返答があった。

〈よく番号まで嗅ぎつけたな。だがこの番号は現在使われていない。二度とかけてくるな〉

「え?」

 声は間違い無く、蒼兵衛のものだ。嗅ぎつけたも何も、今日本人から教えてもらった番号だ。

「あの、小野原です」

〈知ってるよ。シノハラだろ〉

「じゃなくて、小野原です。小野原シオンです」

〈なんだよ、他人行儀に。怒ってるのか。そんないわれは無いぞ〉

 苛々とした声が返ってくる。

「いや、怒ってないですけど……」

〈君、風邪引いてるのか?〉

「は?」

〈男みたいな声になってるぞ〉

「男だけど……」

〈相変わらず冗談が下手だな〉

「あの……誰かと間違えてないか?」

〈間違うもんか。シリンだろ〉

「……シリン?」

 思いっきり間違えている。自分の発音が悪いのだろうかと、シオンは大きめの声で言った。

「いや、オレの名前は小野原シオンだって。今日、センターで会ったじゃないか」

〈……今日?〉

「柊蒼兵衛さん……だよな?」

〈ああ〉

 訝しげな声が返ってくる。シオンはため息をつきたくなるのを堪えて、はっきりとした声で言った。

「今日、センターで会った小野原だよ。前に、一緒に鬼熊と戦った……」

 しばらく沈黙があった後、「ああ!」と声が上がった。

〈なんだ……猫少年か〉

「ね、猫少年……?」

 この人はこういう人なのだ、と自分に言い聞かせる。発言をいちいち気にしていたら話にならない気がする。

「そうです」

 はあ、と向こうで息をついたのが分かった。

〈紛らわしい名前するなよ……びっくりした〉

 勝手に間違えたのはアンタだ、と心の中でだけ思っておいた。男と女の声を間違うほうが難しいと思うのだが。しかも知り合いの。

〈大体、なぜ君がこの番号を知っている?〉

「教えてもらったから」

〈なるほど。言われてみれば教えた気がする。すまんな。細かいことはいちいち覚えないことにしてるから〉

 だろうな……と思った。だが、気にしたら負けだ。

〈で、何の用だ? 暇だからかけたのか?〉

「いや……」

〈いいぞ、私も暇だからいくらでも話すといい。内容によっては途中で寝るが〉

「ヒマなんですか?」

〈ああ。暇も暇だ。夢も希望も予定も無い〉

 投げやりに言う。この人の場合どこまで冗談なのか分からないが、暇には違いなさそうだ。

〈ところで、急に堅苦しい喋り方をするのはやめろ。ワーキャットに敬語使われるとこう、毛穴という毛穴がムズムズするんだよ。気持ち悪くて。異端児か君は〉

「へ? ああ……いや、これからちゃんとしようと思って」

〈ワーキャットにしては感心な少年だな。しかし遠慮するな。私と君の仲じゃないか〉

 自分はこっちの電話番号登録してなかったくせに……と思わず内心で突っ込んでしまう。

「じゃあ、遠慮なく……」

〈ああ。ワーキャットが遠慮とかするな。調子狂うから。君たちらしくチャラチャラ頼む〉

「チャラチャラ……どんな?」

 すると、急に違うトーンの声が聴こえてきた。

〈『チーッス、あ、ソウさんー? ちょっといいっすかー? オレらいま新宿の奴らに絡まれてるんすけどぉー、ちょいメンドい奴がいてぇー、格闘やってるとかでー、オレらじゃヤバいっつーかぁ、てなわけでソウさん、フルコンボ決めちゃってくれませんー?』〉

「え? ちょ……え? え?」

 違う人間がいきなり電話に出たのかとシオンは思った。そしてまた、トーンが淡々としたものに戻る。

〈……というような感じだ〉

「は、はぁ……。ええと、そういう奴と知り合いだったのか?」

〈というか、ワーキャットの若者なんて大体こんなものだろう〉

「えっ、そんなことは……」

 無い、と思いたい。ごく一部にちょっと多いというだけだ。多分。

〈冗談だ。君はそういうタイプじゃないんだろう。で、なんの話だったかな? 人生相談なら聞くが、恋愛相談は絶対にするなよ〉

「いや、しないけど……」

 だんだんシオン自身も何の話をしようとしていたのか、本題を忘れかけるところだった。

「ええと……あ、そうだ。明日もし予定が空いてたら、仕事の話があるんだけど」

〈ふうん。どこのチームと揉めてるんだ? 相手はどんな格闘技を齧ってるんだ? ボクサーか? レスラーか? キックか?〉

「違う……オレは冒険者だ……」

 とうとうシオンはうなだれ、疲れた声を上げた。

〈もしかして、冒険者の仕事か?〉

「ちゃんと、冒険者の仕事だよ……。アンタ、またセンターに行って仕事を探すって言ってたから、もし予定が合えばと思って……」

〈いいよ〉

 内容を言う前に、即答された。思わずシオンは尋ね返した。

「え? まだ何の仕事かも言ってないのに……」

〈ああ。別になんでもいい〉

「いいのか? でも一応説明を……」

〈いい。めんどくさい。気に入らなければその場で帰るから〉

「なっ――なんでそうなるんだ!? なんでもよくないじゃないか! その場で帰るくらいなら、ここで話を聞いて、嫌ならこの場で断ればいいだろ!」

 思わず声を荒げてしまった後で、しまった、と我に返ったが、電話の向こうで、蒼兵衛は特に気にしたふうも無く、いつもの平淡な口調で言った。

〈冗談だ〉


 その後も何とか仕事の話を続けて、電話を終えた。

 ただし、シオンが賢明に説明したことが、どこまで通じたのかは定かでは無い。

 たった一回の電話をかけただけで畳に突っ伏してしまったのは、自分が緊張していた所為なのか、相手が彼だったからなのかは分からない。

 彼との会話は、スライムに効かない攻撃を繰り返しているようにも思われた。

 明日になったら普通に忘れていて、待ち合わせ場所に来ないんじゃないか? と不安に思った。

 たしかに強い。けれど、相当に変わり者には違いない。

 今までどんなパーティーに居て、どうして抜けたのかは分からないが、キキの言うように、円満脱退では無いのかもしれない。

 声をかけて良かったのだろうか……とシオンは自らの人を見る目に、さっそく自信を無くしかけた。




「えー、キメラっちゅーのは、幼獣でも一日でかなりの距離を移動するんや。警戒心が強くなるとなおさらでな。そうなると困るっちゅーことで、この山を縄張りやと認識してもらうまでは、監視と生態観察程度にとどめてきた。もちろんそれが口で言うほど簡単やないっちゅーことは、分かってほしいとこやね」

 森の中を歩きながら、香坂が説明する。最後のほうは冗談めかして笑いを交えた。

「で、親やけど、この山におる様子は無い。おそらく日本アルプスから、はぐれた子供だけこっちまで流れてきたんやろな。観察したところ、三ヶ月から五ヶ月くらいの雌の個体や。以後、キメ子と呼ぶ」

 何故キメ子……とシオンは思ったが、こういうとき一番に突っ込むと思われたキキが、ふむ、としたり顔で頷いた。

「キメ子か。いい名前じゃん」

「えっ」

「せやろー? ま、無事捕獲して魔獣園に行ったら、お名前募集とかするやろから、仮名やけどな」

「えー。キメ子がいいのに!」

「せやったら、募集あったらキキちゃん応募してみいや。あんがい安直な名前のが選ばれるもんやで。捕獲したら遊びに来たらええ。多摩幻魔獣公園、知っとるやろ? ボクはあっこの名誉職員やねん。園内におるときもあるで」

「アンタ……いや、香坂さんは、魔獣園の職員だったのか」

 と言っても、兼業の冒険者は珍しくない。

 いやいや、と香坂は手を振った。

「手伝いだけや。飼育や展示の相談に乗ったりな。常時勤務しとるわけちゃうし、こういう依頼以外では金も貰ろてないよ。こういう仕事でちょくちょく出向くうちに、園長や職員の人らと仲良うなって、色々お節介するうちに名誉職員ってことにしてくれるっちゅーてな。もちろん名前だけの役職やけど、園内はどこでも出入り自由やし、入場はフリーパスや」

「いいですね」

 とシオンは相槌を打ちつつ、紅子を連れて行ってやったら喜ぶだろうと思った。今は週末を仕事に費やしているから無理だが。

「遊び来るときは言うてくれよ。タダで入れてもらえるよう園長に頼んどくで」

「はい。お願いします」

「さて、キメ子の捕獲やけど、ま、さっきも話したけど、やり方自体は簡単や。行動パターンはばっちり観察させてもろたからな。大勢で追い込む。そんだけや。今、ボクの仲間が準備しとる」

 山小屋で大体の作戦は説明されていて、このあと、それぞれの待機ポイントに振り分けられることになっている。

「キメラは地面に穴を作って棲みつく。幼獣は穴を掘れへんけど、このへんは元から巣穴になるような穴がぎょうさんあるから、足を取られんよう気ぃつけててな」

 深く茂った草を掻き分け、進む。植物が活気付く季節に、背の高い野草が青々と茂っている。キキなど顔まで隠れてしまっていた。

「キメ子は猫山羊双頭タイプのキメラや。猫頭は山猫に近い。そんなに大きくはなれへんやつや。でも、スタンダードな奴やね」

「スタンダードっていうと、獅子山羊双頭の、尾が蛇のやつか?」

 蒼兵衛が言った。

「それは、ギリシャ神話に出てくるやつやね。一番有名なキメラかもしれへんけど、そうはおらんよ。三獣混合体は稀少種やからね。ましてや尾に頭があるゆうんは、それこそ神話上の存在やねえ」

「でも、映画に出てたよ。『キメラ、森に帰る』ってやつで」

「おっ、キキちゃんはえらい古い映画知っとるな。そうやで。でもあれは、尻尾の蛇は合成やねん」

「なーんだ」

「せやけど名作やね。ボクは子供のころに、小さいシネコンのリバイバル上映で観た。あの映画が好きで、魔獣に興味を持ったんや」

 香坂が嬉しそうに頷く。

「リメイクもあったけど、オリジナルが断然良かった。主演女優も美しかったなぁ、アデール・ボドリヤール。知っとる?」

「へ? いや……」

 急に話を振られ、シオンは慌てて首を振った。映画などほとんど観ないシオンが、古い映画や女優など知るはずも無い。父親は好きだから知ってるかもしれない。

「ボクは好きやったねぇ。鳥亜人ガルーダの血が入ってるだけあって、ああいう人を透明感があるっていうんやろなあ。白黒映画やのに、瞳の美しさがよう分かるねん。デビュー作でまだ十代前半やったのに、独特の存在感やったね。その後は作品にも恵まれんと、早逝してもうてんけどね」

「あたし、知ってるよ。恋人とお酒いっぱい飲んで車乗って、事故って死んじゃったんだよね」

「ほんまに詳しいなぁ、キキちゃん」

「えっへん」

 香坂に褒められて、キキはすっかりいい気になっている。香坂の人の好さもあるだろうが、おだてられてやる気を出すタイプだということを見抜かれているような気もする。彼はプロの観察者なのだ。

「でも、自殺説も他殺説もあるんだよねっ」

「そう。ガルーダは、繊細な人が多い印象のある種族やから、いずれも真実味はあるねぇ。本人もどこか浮世離れしとったようやし。謎めいた死を遂げたことでも、今日まで心に残り続けとるんやろうなぁ。ありし日のアデールが観られるだけでもオリジナルに価値があるわ」

「それほど撮影環境の良くない中で、さほど人に懐いていないキメラを懐かせたのは、彼女の霊的な力が大きかったというな」

「ほう、兄さんも若いのになかなか詳しいな」

 古い映画談義に、まさかの蒼兵衛まで加わった。

「前に映画をやっていたからな。冒頭の解説で言っていた。映画は筋トレしながら観られるからな。吹き替えに限るが」

「アンタも筋トレとかするのか」

 それまで黙っていたシオンがつい口にすると、呆れた声が返ってきた。

「するに決まってるだろう。まさか私が生まれつき強いとでも思ってるのか」

 それはそうなのだが、いつも気だるそうにしており、戦うときも覇気を感じさせないので、あまりイメージが出来ない。

「それと、あの作品は映画が有名やけど、原作小説も名作やねんで。……あー、また話逸れてしもたな。どこまで話したっけ?」

「キメ子は猫山羊双頭だってところまでです」

「あ、せやせや」

 シオンの言葉に、香坂がうんうんと頷いた。

「猫科の頭があると、気性が荒くなりやすいね。せやけど幼獣のうちから育てれば懐くし、非常に甘えん坊になる。懐けば可愛いで」

「モフモフ出来る?」

 キキが尋ねる。

「おう。出来るで。毛はあんまり長くないけど、栄養たっぷり採れば毛並みはツヤツヤになるで」

「でも、こう草が深いと、すぐに見失いそうだな」

 草をかき分けながら、シオンは呟いた。

「逃げ足も速いけど、木登りもするからな。当たり前やけど成獣ほどやないが、まだ小さいぶん見失いやすい。まだ6、7キログラムってところか。普通の猫とそう変わらんくらいや。観察で得たキメ子の行動パターンは、山小屋で説明した通りや。作戦と一緒にしっかり頭に叩き込んどいてくれ」

「分かった」

 うっかり敬語を忘れつつ、シオンは頷いた。

「早いうちに親とはぐれたもんで、警戒心が薄いのが幸いや。しかし、この山で生きるのは厳しい。幼獣が無事に育つには天敵が多いからな。親に敵や狩りを教えてもらえんかったキメ子は、それだけ無防備っちゅーことや。大人になる前に狒々かゴブに喰われてまうやろな。それにキメ子がここにおるゆう情報もとうに漏れ出しとる。密猟者が入り込んだ報告が警備員ガードから入っとるからな」

「大変だね! 早く助けなきゃ!」

「ん。助けるってのとは、ちょい違うかもしれへんなぁ……自然で死ぬのも生物にとっては自然なことやし、ボクらに捕獲されて魔獣園に行くんも、密猟者が捕まえてどっかでペットになるんも、キメ子にとってはそう違いは無いかもしれへん」

「でも、密猟は悪いことだよっ。捕まえていじめたり、標本にしちゃう奴もいるかも!」

「まあなぁ、そらあかんわ。でも、害獣とされるゴブやオーガも、自然に生きてるには違いないからね」

「でも、ほっといたらアイツらは増えまくるよ。人食べるし」

「貴方は仕事で一緒になった冒険者に、いつもそういう説教臭いことを言うのか?」

 蒼兵衛の言葉にシオンはぎょっとしたが、香坂は先頭を草を掻き分けて進みながら、気分を害した様子も無い声で答えた。

「ああ、ごめんな。うん、ちょっとな。皆がそうちゃうけど、冒険者になってモンスターを倒していくうちに、平気で残酷なことをするようになる奴もおってな。ボクもゴブリン駆除はやるで。けど、ゴブリンやから、害獣やから、虐め殺していい。そういうのは違うと思うねん」

「虐め殺す?」

 シオンの問いに、香坂が前を向いたまま頷いた。

「そういう人もおるね。虐待みたいな殺し方や。ゴブリンも獲物をいたぶるような殺し方をするから、そうしていいと思うんか、ゴブリンをどんなふうに殺しても怒る奴がおらんからなんか。ただ、ゴブリンはそういう習性や。殺すことを楽しいと思うのは、複雑な感情を持つ生き物だけや」

 そう言われ、シオンは少しどきりとした。もっと戦ってみたいと思ったことが、自分にもあるからだ。

 すると蒼兵衛が言った。

「ここらにはモンスターが多くて、討伐戦が発生するかもしれないんだろう。惑わすようなことを言うのは、終わってから打ち上げのときにでもしてくれないか」

「ああ、そうや。ほんまやね。すまん。ちょっと、ボクも考え過ぎや。ほんまにごめんな」

 香坂が振り返り、頭を下げる。 

「前に一緒になった子らが、そういう子らやってん。追い払うだけでいい魔獣を執拗に追いつめて殺して、ゴブリンをいたぶるように殺した。レベル5、6くらいの、そろそろ初心者を卒業するくらいの冒険者や。なんかなぁ、と思ったんや。注意しても聞かんから、ちょい脅かしたんや」

 グリンブルは鈍重そうに見えるが、そんなことは無い。作業着に覆われた肉厚の背中を揺らす香坂のレベルは、カードで見たところ26だった。専門職としての高さもあるが、戦闘能力も高いはずだ。

「そんときは、ビビって謝ってきよったけど、後でボクのほうが協会に通報されてしもたんや。仕事中に、脅かされたってな」

「なにそれ、腹立つなっ! おっちゃん、気にすんなよっ」

「はは、ありがとな、キキちゃん。ま、これはいやらしい話やけど、ボクのほうがそら信頼度は上やからね。逆に正確な報告しといたから、彼らのほうが仕事は減ったと思うで」

「そっかぁ。いい気味だね!」

「そこは安心しろ。変に勘ぐらなくても、私におかしな性癖や嗜好は無い」

「ありそうだけどね」

 ぼそっとキキが言ったが、蒼兵衛は無視をした。それからいつものやる気があるのか無いのか分からない、投げやりな口調で言った。

「言われれば倒すだけだ。どうせ、それしか出来ないからな」

「たしかに兄ちゃんは、めっちゃ強そうや。討伐専門かいな?」

「別に、特に希望の仕事は無いな。冒険者になったのも成り行きだ。そのうち辞める。道場もあるしな」

 辞める、という言葉に、シオンは面食らった。あんなに強いのに、この仕事にそれほど執着は無いのか。彼の力を欲しがる者はもっといるだろうに。危険な仕事ではあるが、その強さを生かせる仕事ではあると思う。

「なんや、どこぞの剣術道場の先生なんか。そらえらいもんや」

「興味があったら〈柊魔刀流道場〉で検索するといい。一番上にホームページがヒットする。三年以上更新されていないから、掲示板が荒れているのは気にするな。入門希望なら連絡先に直接メールしてくれ」

「ははは。面白いなぁ。覗かせてもらうわ」

「とっと閉じなよ、そんなサイト。入った途端にウイルスに感染しそう」

 キキがぼそっと呟く。

「閉め方が分からん。父親が地元の公民館で無償で開かれていたパソコン教室に通いながら作ったんだ。パスワードも何もかも忘れたらしい」

「絶対ダメな道場だろ……」

「ダメなのはもうやる気の無い父であって私では無い。私もあのキーボードというやつが嫌いでな、あれで何か操作をしろと言われただけで叩き斬りたくなる」

「うちのおばあちゃんみたいなこと言ってるし……」

 キキは白けた目を向けたが、香坂は愉快げに笑った。

「見た感じは普通の男前かと思ったら、なんや、ほんまにサムライさんなんやなあ」

「ただの機械オンチじゃん」

「頼りにしとるで。ボクの仲間は戦闘は不得手な奴らばっかりやからな」

 と香坂は笑いながら言った。




 シオンたちは、香坂の指示されたポイントでそれぞれ待機することになった。

 やることは簡単だ。全員で追い込み、逃げ場を狭くして捕まえる。香坂の仲間には感覚が鋭敏な兎亜人ワーラビットや、麻痺弾を撃てるガンナーもいた。

 魔獣を捕まえる手段はごく単純で、大事なのは捕獲前の、地味で根気のいる観察らしい。縄張りと認識した場所で、魔獣は一定の行動パターンを取る。それらを彼らは完全に把握しているようだ。

「いざとなったらこれを使うが、俺にその仕事をほとんどさせたことが無いのが、香坂くんの凄いとこだな」

 シオンと一緒に待機しているガンナーが言った。ライフル魔銃を担いだ老齢の人間で、徳丸という名なので「徳さんと呼んでくれ」と言われた。

 長年銃を担いで害獣駆除をしていたそうだが、歳を取って視力が落ちたので、誤射が怖くなった、と語った。今は駆除の仕事を減らし、香坂に誘われて麻痺弾を使った野獣や魔獣の捕獲を手伝っているという。

「そうなんですか」

「うむ。香坂くんは地道で根気強い観察のもと、対象の行動パターンを状況によって幾通りも予測している。香坂くんが行けると思ったら、それはただのカンでは無いんだよ」

 二人は茂みの中に伏せ、徳丸はじっと魔銃を構えている。シオンのナイフは今日は出番が無い。キメ子は無傷で捕まえなければならない。

「はあ……すごいんですね」

「凄いよ。彼の目の下のクマを見ただろう」

「気付きませんでした……」

 グリンブルにもクマが出来るのか……とシオンは初めて知った。

「昼も夜も無くキメ子の観察をしているんだ。更に彼は捕獲対象を前に、殺気はおろか……生物としての気配も完全に消してしまう」

「え、それはすごい」

「見てみろ」

 徳丸が目配せした先に、香坂が居る。

 彼を中心に、捕獲チームはそれぞれのポイントでいつでも動けるように待機している。

 広大な森の中で、行動パターンが読みにくい魔獣の、ましてや姿を隠すのが巧い幼獣の、姿を見つけるだけでも大変なことだ。気配に感づかれればすぐに逃げられ、下手すると別の森や山に移動してしまう。キメラの行動範囲は、幼獣であっても広いのだ。そうなると、計画は一瞬にして水泡に帰す。

 その餌場を発見するに至るまででも、香坂の努力がうかがえる。

「俺たちじゃ、近づけてこの距離がせいぜいだ。キメ子が姿を現してから行動を起こしても、俊敏なキメ子には簡単に逃げられてしまうだろう。だがな、香坂くんは違う」

 せっかく発見した餌場だ。待ち伏せに気付かれないよう、捕獲チームは警戒し近づいてこない。それどころか、二度とこの餌場には訪れないかもしれない。

 香坂が陣取っているのはまさに、キメ子のお気に入りの餌場だった。

「……本当だ。すごい……」

 シオンは思わず呟いた。

 徳丸の言う通り、彼はまさに自然に溶け込んでいた。キメ子の大好物の魔草の周りに、小さな魔獣も集まっている。

 香坂は彼らが体を預ける樹木の一つであるかのように、その場に腰を下ろし、微動だにしていない。

 殺気を感じさせないその姿は、衣服も装備も無く、生まれたままの姿――ようは、素っ裸だった。

「ああしてると、まるで生まれながらにこの森に棲むブタだろ?」

「はい。野生のブタにしては、ちょっとでかいですけど……」

 生半可な技では無い。彼はたしかに凄いと思うが、紅子を連れて来なくて良かったとシオンは心から思った。

 キメ子捕獲作戦の説明をされたときには、まさかリーダーの彼自身がおとりを買って出るとは思っていなかった。

 正直、おとりは裸でやる、と言われたときは耳を疑った。そしてそんな役回りはきっと狩り出された自分たちの誰かだろうな……と思い、誘った手前自分がやるしかないと腹を括った。

(んじゃ、そのおとり役をやる奴やけど……)

 その香坂の言葉を、シオンは死刑宣告のように聞いていた。の、だが。

(ボクや)

 ビシッと親指で自分を指すなり、香坂はいきなり作業着の前をばっとはだけたのだった。


「……完璧だな。今日の香坂くんは」

「それまでを知らないけど……完璧だと思います」

 徳丸が感嘆の声を漏らす。シオンも同じ気持ちで頷いた。

 知的で思慮深そうだった香坂が、今はたるんだ腹と四肢を投げ出し、ぼけーっとくつろいでいる。

 さっきまで好きな話を饒舌に語っていたのに、今は彼と言葉が通じる気がしない。シオンが野生のワーキャットなら、獲物と間違えて飛びついてしまうだろう。

「幼キメラの捕獲……難しい仕事だが、香坂くんは今日この日に賭けてる」

 聞いたときには心底本気だろうかと疑った作戦だが、実際目の当たりにすると神業としか言いようがない。

 野生のブタどころか、そこにそよぐ風ていどの存在感で、その場に溶け込んでいるのだ。

 たしかにこれは彼以外には務まらない。

「キメ子の行動パターン、縄張り巡回ルートは完璧に把握した。天候、メンバー、この上なく最高の条件だ」

「はい」

「いいか。俺たちはあくまで補助。まずは香坂くんに任せるんだ。時がくれば、キメ子は現れる」

「はい」

「よし、そろそろ時間だ。俺たちもなるべく気配を消して、キメ子が来るまで何時間でも待つんだ。辛いぞ。頑張れるか?」

 徳丸の言葉に、シオンは身を伏せたまま、こくりと頷いた。

 ふと、同じように周辺で待機している仲間たちはどうしているだろうかと、心配になった。

 このままキキは大人しく待てるだろうか。蒼兵衛は香坂チームの人に変なことを言って戸惑わせていないだろうか。

 二人とも戦いになれば心強いが、こういう状況で我慢出来るかまでは考えていなかった。

 老ガンナーと共に、地面に伏してじっと息を潜める。

 大木と若木が混じり合う森は、いつかの鬼熊の森を思わせた。

 晴れた空は木々の葉に覆い隠され、地上はベールに包まれたように薄暗い。

 多種多様な生物が息づくこの森は、特別保護区域に指定され、一般客の入山は許されていない。

 静かだ。少し音を立てただけで、餌場に集う小動物を警戒させてしまいそうだ。

 シオンは黙って、耳だけを澄ませた。木々のそよぎや、獣の足音。香坂ほどではないが、彼の仲間たちも上手く気配を殺している。それは彼らが戦士ではないからなのか。

 魔獣も食する魔草が豊富に茂る場所で、裸の香坂が獣のように体を丸め、眠るような態勢を取っている。

 本当に、ただのブタのように見えてきた……ちょっと大きいけど。彼は役者にもなれるんじゃないだろうか。大型の魔獣なら、本当に彼を獲物と思って近づいてくるんじゃないだろうか。

 そんなことを考えていると、徳丸に釘を刺された。

「小野原くん、あまり緊張し過ぎないでくれ」

 そうだ、あまり殺気立ってはいけない。シオンは黙って頷き、静かに深呼吸をして落ち着いた。

 徳丸は魔銃を構えていても、その様子はリラックスしていると分かる。餌場のほうをじっと観察し、老年でありながら長時間の集中を切らしていない。

 冒険者にも色々あるが、シオンはやはり戦闘員寄りだ。こんな仕事には慣れていないので、上手く力が抜けない。

 獣が近づく気配がして、シオンは耳をピクリと動かした。

 その足音が四足歩行であるか、まだ分からない。やや遠い。

『何か来ている』という合図を、徳丸にあらかじめ決めておいたハンドサインで示す。その何かが、キメ子であるかは分からない。それもサインで分かるようになっている。徳丸が小さく頷く。

 身を伏せながらも、すぐに動ける姿勢を取る。

 グリンブルも聴覚、嗅覚に優れる種族だ。香坂も気付いているはずだが、彼の様子はまったく変わらない。昼寝をしているのではと思うほどだ。

 キメ子であれば、このまま待機。そうでなければ、シオンの役割は変わる。場合によっては戦闘になる。

 だがいつもと違い、ギリギリまで戦闘の準備は出来ない。緊張し過ぎないよう、落ち着いて呼吸を繰り返した。

 ピク、とシオンの耳が動き、外を向いたまま動きを止める。

「……二足歩行だ」

 シオンは呟き、姿勢を低くしながらゆっくりと腰を上げていった。

「ゴブリンじゃない。中型……オーガじゃないな。トロルか?」

「トロルだと? ったく、空気読めよ……」

 徳丸が忌々しげに舌打ちする。

「クソッ、トロルはたしかにこの森に生息してるがな……今日までこの餌場では観測されなかったのに、なんでこの日にこの時間だよ?」

 ぶつぶつと文句を言いつつも、態勢はまったく変えていない。モンスターが近づいてきているというのに、香坂もさっきから身動きせず、緊張など微塵も感じさせない。

 彼らはあくまでキメ子の捕獲だけを考えている。

 それは、シオンたち戦闘員を信頼してくれているということでもある。

「オレ、行きます」

「小野原くん、なるべくキメ子の縄張りからトロルを遠ざけてくれ。出来るだけ血は流さないでほしいが……無理は言わん。いいか、手に負えないと感じたら、キメ子の捕獲よりも身を護ることを優先するんだ」

 シオンは身を屈めたまま、モンスターが近づいてくるほうを向いた。背中に徳丸の声を受ける。

「頼むぞ」

 トロルは中型の妖精種だ。オーガほど凶暴では無い。外来種の魔妖精の中ではもっとも種類が多く、粗暴な種から大人しい種まで様々だ。大人しいものでも、雑食で肉の味を覚えると、人も襲って食べるようになる。

 だが、もっとも積極的に襲ってくるのは、『寄主きしゅトロル』だ。

 トロルだけに寄生する虫がおり、この虫に体を乗っ取られたトロルは、容貌が変貌し、積極的に他生物を捕食しようとする。本来のトロルより非常に凶暴となる。

 よくホラー映画や冒険映画に出てきて人を襲うトロルは、この寄生トロルの姿であることが多い。その所為で非常に恐ろしいモンスターだと思われがちだが、通常のトロルであれば戦闘せずに追い払う手段はある。

 走りながらダガーを抜こうとして、止めた。この日のために努力した香坂たちの作戦を無駄にしたくはない。

 武器を抜かずにどこまで戦えるかは分からない。

 この位置は餌場に近過ぎる。激しい戦闘をすればキメ子が逃げてしまう。

 血を流さず、静かに、速やかに、倒す。

 凶暴化した寄主トロルが相手なら、難しい。ただ倒すだけなら出来るが、それでは駄目だ。難しくてもなんとかやるしかない。

 あまり音を立てないように動きながら、シオンは周囲の音に気をつけていた。シオンより早く、誰かが向かっているようだ。

 蒼兵衛だ。彼の待機ポイントはこの近くだった。

 モンスターの動きも変わった。人間の存在に気付いたのだ。

「蒼兵衛さん、斬っちゃ駄目だ……!」

 茂みを抜け、シオンがそう声をかけたとき――もう決着はついていた。

 そこにはやはり蒼兵衛が居た。刀を鞘ごと掴み、立っている。その目の前に、トロルが対峙していた。

 だというのに、ロングコートの裾をはためかせる背中からは、殺気も闘気も感じられない。

 だから、シオンも目の当たりにするまで、気付けなかった。

 もうとっくに――戦闘が終わっていることに。

「……え?」

 頭に膨れ上がったコブのあるモンスターが、ゆっくりとその場に倒れた。

「おっと」

 それを、蒼兵衛が支えた。そして、思いきり顔をしかめる。

「気持ち悪いな……おい、何をボサっとしてるんだ。手伝ってくれ」

「あ。ああ……」

 シオンは慌てて駆け寄り、一緒に昏倒したトロルを地面に横たえた。

 寄主トロルの頭が不自然に盛り上がっているのは、そこに寄生虫が取り付いている証だ。

 たるんだ土気色の皮膚はがさがさとした手触りで、裂けたように大きな口や、いびつなコブのような鼻。ゴブリンやオーガ同様、元々見た目の良いモンスターでは無いが、寄主トロルは更に肌がどす黒くなり、膨らんだ頭以外にも顔や体にコブが出来ている。

「なあ……このコブ、私いま触ってしまったんだが……感染うつったりしないよな……? なんか、変な病気とかさ……」

「人間なら大丈夫だ」

「本当か? 信じるぞ……」

 いつも涼しげな表情の蒼兵衛が、心底不安そうに呟いた。

 トロルは長い舌をだらりと出し、血泡を吹いて絶命していた。喉が潰れ、首が不自然な方向に折れていた。

「……斬ってない? 打ったのか?」

「騒がれると困るらしいからな。静かに倒したほうがいいんだろう?」

 そう事も無げに言う。

「それはそうだけど……」

 よくもこう簡単にやってのけるものだ。最初からトロルは死んでいたのでは? と思うほどの速やかさである。

 当の本人はコブを触った手を見つめていた。

「なんか汁付いたぞ……」

 彼はしばらく考えた後、はめていたグローブをぽいと捨てた。

「あ、ゴミ……」

「革だから大丈夫だ。自然に還る。多分」

「そうなのか……?」

 シオンはそう呟きながらも、蒼兵衛の技に感心していた。

 トロルの体長は二メートルを超えるくらいだ。それだけリーチもあり、しかも凶暴な寄主トロルは、動きも俊敏になっている。体躯は逞しく、腕力も相当なものだ。一度捕まえられたら生きながら貪り喰われる。

 それが暴れ出す前に、速やかに、的確に、喉を突き殺したのだ。凄まじい突きのスピードと、長い腕をかいくぐって躊躇無く踏み込むその胆力。

 やっぱり並みの戦士じゃない。それも、彼は魔法を使わずにこれだけのことが出来るのだ。

「他に敵はいないか?」

 蒼兵衛がシオンに尋ねる。トロルの死体を見つめていたシオンは、はっと顔を上げた。

「あ、うん……どうだろ」

「しっかりしろよ。君は私より耳が良いんだからな」

 そう言い、コートのポケットに手を入れると、蒼兵衛は歩き出した。

 さっき戦ったばかりなのに、本当に少しも殺気だったところが無い。力は入れるより抜くほうが大変だ。ましてやこんな緊張する場面で。

「戻らないのか?」

「戻ってどうする。捕獲が始まってたら邪魔になるだけだ。私たちはこのまま周辺を警戒したほうがいいだろう」

 言いながら、ふわぁ、と欠伸をつく。

 言ってることは間違いでは無いのだが、単に待ちくたびれただけなんじゃ……ともシオンは勘ぐった。

「それに、向こうにはチビガキを置いてきた」

「キキのことか?」

「静かに倒すなら私のほうがいいだろうと思ってな。あのガキ、戦うときに唸り声とか上げそうだからな」

 その通りだった。

「それとも、私たちも裸になって自然と一体化して戻るか?」

「いや……無理だ」

「だな」

 蒼兵衛はスタスタと森の中を進んでしまった。あまりにさっさと決断してしまうので、シオンは面食らいつつも、その背中に声をかけた。

「じゃあ、オレはこっちを」

「ああ。気をつけろよ」

 振り返りもせず、去って行く。

 シオンも別の方向に体を向けかけたとき、耳がかすかな異音を捉えた。

「待ってくれ!」

 小声で、シオンは蒼兵衛を呼び止めた。

「どうした?」

「そっちで、足音がした気がする。……動物っぽいんだけど、ちょっと引きずるみたいな」

 と、今まさに蒼兵衛が向かおうとした方向を指差す。

「キメラか?」

「分からない。そんなに大型じゃない獣だと思う。小動物かもしれないけど。ちょっと遠くて、たしかじゃないけど……」

「聴き違いでも構わん。引きずってると言ったな」

 キメラは縄張りを毎日、決まったコースで巡回する習性があるという。深い森の中で慎重に観察を繰り返し、把握したキメ子の散歩コース。だが、どれだけ観察してもシミュレートしても、絶対など無いと香坂は言っていた。だからイレギュラーが生じたときのために、彼は何通りもの計画を立てている。

「確かめたほうがいい。もし何らかの事故が起こり、怪我を負ったとしたら、いつもと行動パターンも変わるだろう」

 蒼兵衛の言葉に、シオンは頷いた。

「姿を確認しよう。この作戦中に、不確定なことは報告出来ない。もし逃げられても、ギリギリまで近づければオレでも捕まえられるかもしれない。そのときはサポートしてくれ」

「だったら、その確認というのは私がやろうか」

「アンタが?」

 蒼兵衛はシオンより十センチほど背が高い。裾の長いロングコートも腰に差した日本刀も、対象にそっと近づくには不向きな気がしたが、彼はごく簡単なことのように言った。

「遠目からでも、それがキメラかどうか分かればいいんだろう?」

「でも、下手に近づいたら、すぐに逃げられるかもしれないぞ」

「別に気付かれてもいいだろ。逃げさえされなければ。ようは、警戒されないように動けばいい。あのグリンブルがやっているみたいにな。まああれほどは無理だが」

「え……じゃあ、裸になるのか?」

「なるわけないだろ、バカ猫が。あれは特殊だ。裸になったくらいで気配が殺せるんなら世の中の達人は皆ヌーディストだ」

 と呆れた声で言われた。

「野獣になりきるのは無理だが、ただ近づくだけなら、少なくとも君よりは私のほうが適任だろう」

「え、そうかな?」

「というか、そんなに緊張していては、奴が逃げてしまう。君はキメラが逃げるのに備えればいい。私は小柄でも無いし、足は君ほど速くないが、奇襲は得意だぞ」

 そういえば、彼の戦い方はいつも淡々としていて、殺気も闘気もほとんど感じられない。さっきもそうだった。

「じゃあ、頼む」

「もし失敗したら、君が頑張って駆けずり回ってくれ」

「分かった。なるべく香坂さんたちのほうに追い込むようにするよ」

 真剣に頷くシオンを見つめ、蒼兵衛はぽつりと呟いた。

「君は、いい奴だな」

「え?」

「今のは、私の知ってるワーキャットのリアクションなら、『何でだよ! テメーも駆けずり回れよ!』とくるところだったからな」

「あ、冗談だったのか……」

「気にするな。君は煩くなくていい。煩い奴は嫌いだ」

 そう言って、蒼兵衛はコートのポケットに手を入れ、再び歩き出した。今から散歩でも行くような気楽さで、大胆に足を踏み出し、さっさと進んで行く。

 唖然としているシオンに、振り返って告げた。

「何しているんだ。早くしろ。私では場所が分からん」

 そうだった。途中までシオンが先行しなくては、彼では足音を追えない。シオンは慌てて彼を追い抜いた。

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