ごはんはみんなで
「原宿……渋谷……」
「行かん」
口を尖らせ呟くキキに、シオンは素っ気無く返した。
「何でよおー!」
ガラガラに空いている《オデュッセイア》の店内に、キキがバンバンとテーブルを叩く音が響く。
勤務中にも関わらず、店内で欠伸をしていたウェイトレスのミサホが、びくりと肩を竦ませた。
「行く行く行く行く行く行く行くもん!」
バンバンバンバン! とキキがテーブルを叩くたびに、紅子を待っている間に頼んだコーヒーの残りが、シオンの前でゆらゆらと波打つ。
本当は味も匂いも苦手で普段は飲まないのだが、口やかましいキキの前でココアやミルクなど頼みづらかったのだ。が、やっぱり半分以上残してしまった。寒かったので温かいものが飲みたかったのだが。
「うるさい」
「せっかく紅子も誘ったのに、いつもと同じ場所で悪いと思わないのっ?」
「お前が勝手に呼んだんだろうが!」
シオンが怒鳴ると、紅子が向かいで薄ら笑いを浮かべた。
「……勝手に呼ばれてごめんなさい……ちっとも空気読めなくて……」
へへ、と自虐的に笑う。
「あ、いや、来て悪いとは言ってない。ただ、お前学校もあるし雨だし……」
彼女を責めたつもりは無い。シオンは慌てて弁解した。
さっき来たばかりの紅子は、どこかで転びでもしたのか、珍しく履いている長いスカートのあちこちに、泥が付いていた。
「そんなの、全然平気だよー」
紅子はぱっと顔を輝かせた。
シオンからごく自然に『お前』と呼ばれたことに親しみを感じ、ひそかに喜びを憶える紅子だった。
「じゃあ、たまにはセンター以外の場所でメシでも食うか」
「わーい」
「いつもセンターなのかよ」
キキが呆れた顔をする。
別に原宿や渋谷じゃなくても、十六歳の男女が二人で、冒険者センター内ですべての用事を済ませて別れるなんて、いくらシオンにその気が無くても紅子が可哀相だ。当の紅子はシオンに会えるだけで嬉しそうだが。
二人とも、まだまだ子供だね……とキキは内心で独りごちた。
紅子が明らかにシオンに恋してるのは、誰が見ても分かる。
しかしシオンのほうが恋愛感情を抱いている様子はさっぱり無い。
パニックを起こした紅子を、抱き締めて落ち着かせたりしていたから、そういう距離感なんだとキキは思っていた。
そうではなかった。恋愛感情が無いからこそ、平然とそういうことが出来るのだ。歳の近い姉に構い倒されて育ったシオンは、紅子とも仲の良い兄妹のようにじゃれているだけなのだ。
こういうタイプはきっと、好きになった女に対しては、かえって何も出来ないに違いない。紅子とは気安い女友達という感じか。
だがまあ、それでは紅子が哀れだ。この二人といる限り、あたしが気を遣っていかないと。空気を読めてしまうって辛い。ここは自分が取り持ってやろう! とキキは考えていた。
「それじゃ、シオンのうち行こうよ!」
「はぁ? なんでそうなるんだ」
「お、小野原くんのおうちっ!?」
紅子が素っ頓狂な声を上げる。
「何も無いぞ」
こんなに分かりやすい紅子の態度を、シオンは何一つ気にかけることも無い。鈍感を通り越してもはや無関心である。
「何も無くはないでしょ。家あるでしょ」
「へりくつ言うな」
「最悪、屋根と床があればいいわよ。ダベるだけなんだから。シオンのうち、こっから近いでしょ?」
「遠くは無いけど、電車で二十分はかかるぞ」
「近いじゃん」
「もう夕方だぞ。駅からも歩くし。移動ばっかさせてたら浅羽も疲れるだろ。帰りも遅くなるし」
「あ、あたしは大丈夫だよ」
「浅羽、あんまりキキに振り回されないほうがいいぞ」
「小野原くんが言うと重みがあるね」
「どういう意味よっ! それじゃあたしがシオンを振り回してるみたいじゃない!」
「違うのか?」
シオンの言葉は無視して、キキはふんと鼻を鳴らした。
「そうと決まれば、早く行こうよ」
「決まってないぞ」
「時間がもったいないなら、タクシー使えばいいじゃん。タク代くらいあたしが出すからさ」
「待て。お前じゃなくて国重さんのカードから出るんだろうが」
立ち上がろうとしたキキを、シオンがたしなめる。
「失礼ね。現金だって持ってるよ」
「貰った小遣いだろ。大事に使えよ」
「ちゃんと自分で山菜採りしたお金だもん!」
ぷうとキキが頬を膨らませる。
けっこう小野原くん叱るんだなぁ、将来お父さんになったら、子供には案外厳しいタイプなのかも……と紅子は二人のやり取りを眺め、にこにこと微笑んでいた。
二人ともすっかり仲良しさんだ。昼間、紅子だけ学校に行っているのは少し寂しいが、二人が親しくなっていく様は微笑ましい。シオンもキキも学校で辛い目に遭ったから、彼らが学校に行かなくても楽しそうにしているのが嬉しい。
「どうせ小遣いも貰ってるんだろ」
「貰えるモンを貰って悪いの!?」
「悪いとは言ってない。国重さんたちに感謝の気持ちを持ってれば、もっと大事に使おうって思うだろ。そんな簡単に『タク代くらい』なんて言わないはずだ」
「う、ウゼえ……!」
それに、未来のお父さん小野原くん妄想もはかどる。子供ポジションにされているキキは怒りそうだろうが、しょせん紅子の妄想上の産物なので問題無い。
自分も母親になったような温かい気持ちで、紅子はキキに声をかけた。
「えらいなあ、キキちゃん」
「やかましいっ! なんでアンタに子供扱いされないといけないのよっ!」
「へっ? あ、ハイ……すみません……」
しょんぼりと紅子が肩を落とす。まだまだ、素敵なお母さんには遠そうだ。
「浅羽に八つ当たりするな。いいか、金をそんなに湯水のように使ってたらあっという間に……」
「うるさーいっ! うちのおばあちゃんか、アンタはっ! 電車で行けばいいんでしょ、電車でっ! で、帰りはうちのモンが迎えに来てくれるから、紅子も一緒に送ったげるし、そんなに遅くまで遊ばないから、それならいいでしょ!」
「それならいい」
怒鳴り散らしてぜえはあと息を切らすキキに、シオンは頷いた。
電車の中で、シオンは紅子にセンターでの出来事を話した。
「ええっ、サムライさんに会ったの?」
「ああ。最近、新宿に登録を移したんだって」
「ヘンな奴だったね。あたし、アイツ嫌ーい」
キキが不機嫌そうに口を尖らせる。
「大人げ無いし、失礼だし、やな奴。きっとなんかやらかして、新宿にきたんだよ」
「そんな人じゃない」
とシオンは言ったものの、レベルを下げられるくらいだからそうかもしれない。それでも彼がそれほど悪い人間だとは思えなかった。
「でも、あたしも最初会ったときは、ちょっとヤな人かもって思ったなあ」
紅子までそんなことを言う。
「やっぱり? ヘンだよね」
「誤解されるタイプだよね。口が悪いっていうか」
「ほら! アンタが思うくらいなら相当じゃないの」
「お前が言うなよ」
ついシオンは口を挟んだ。
「だけど、ちょっと変わってるけど、悪い人じゃないよ。センベエさんは」
「浅羽、名前が違う」
「あっ、そ、そうだっけっ?」
あはは、と紅子が肩を竦ませて笑う。
シオンは携帯電話を取り出し、その中に加わったばかりの名前を呼び出した。連絡先を教えてほしいと言ったら、あっさり教えてくれたのだ。
「ちゃんとフルネームで登録しておけ」と念を押された、《柊蒼兵衛》という正しい名がディスプレイに表示される。それを紅子に見せた。
「ああ、そうだ。蒼兵衛さんだったね。番号、教えてもらったんだ?」
「うん。これから、ちゃんと知り合い作っておこうと思って。オレ、仕事で一緒になった人でも、自分から声かけたこと無かったから」
「そっかぁ」
「ソロやってるとその場限りの付き合いが多いんだけどな。たまに連絡先訊いてくる人もいて、それでまた次の仕事に誘われるときもあった。オレ、自分ではそういうのやってこなかったんだけど」
「うんうん」
「こうやって、とりあえず連絡先を交換したりすればいいんだよな。ソロでも顔が広い人はそうやって自分で人脈作ってたんだと思って」
「そうだね。うん。いいと思うよー」
シオンがそういう気持ちを持っていることが、紅子は嬉しかった。再会したころの彼は、誰かと関わり合うことを避けていたように思う。
「連絡先教えてくれるってことは、また仕事してもいいって思ってくれてるのかもだし」
「うん。そうだな」
「えー。あの男はあたしはヤダ!」
ぷくうと餅のように頬を膨らませるキキに、シオンは目をやった。
「強くっても人間性がアレじゃね。もしアイツと一緒に仕事するんなら、あたしは抜けるよっ」
「そうか。しょうがないな」
「こらあっ! あたしを抜かそうとするなっ……ムグッ!」
「電車では静かにしろ」
シオンがキキの口を塞ぐ。シオンと紅子の間で、キキが足をばたつかせる。
「大人しくしろ。次の駅で放り出すぞ」
「ムグッ!」
「蒼兵衛さんは、今もソロなのかな? 前に、パーティー組んでたようなことは言ってたよね」
「ああ、今もソロだってさ」
「ムグムグー!」
「まだあの山の警備員さんしてるのかな?」
「やってないって言ってた。他の冒険者と揉めたらしい」
「あー……なるほど」
紅子が苦笑する。
「ムググ! ムググッ!」
口を塞がれたキキに、シオンは言った。
「ごっくんしろ。したら離す」
「……ンッグン!」
「よし」
キキがイライラを飲み込むと、シオンは頷き、手を離した。
そのやり取りに、紅子はさっきマイブームになったばかりの『小野原くんお父さん妄想』を密かに楽しんだ。
「なぁに、ごっくんって?」
「感情をコントロールする訓練だ」
紅子の質問に、シオンにそう簡単に答えると、キキに言った。
「お前はすぐに怒るから良くない。けどな、怒ることが悪いわけじゃないんだ。いいか。どうせなら腹の中に溜めておいて、必要なときに瞬間的に爆発させるんだ」
「よし。最後はぶっ放していいんだな」
「違う」
拳をぎゅっと握るキキに、シオンは顔をしかめる。
「キキちゃん、お父さ……小野原くんが言ってるのは、戦いのときの話だよ」
シオンの言葉足らずな部分を、紅子が補う。あやうく自分の妄想もぶっ放されるところだったが、シオンは気付いておらず、紅子はほっとした。
「あー、うん。そういうことだ。普段は爆発しちゃダメだけど、正しい怒り方さえ心得れば、戦いでは強い力になるときもある」
怪我の痛みに耐え切れず、シオンが薬に頼ったのとは違い、キキはあのとき自分の怒りだけで、痛みも忘れて戦った。
今のキキは、ただのわがままな子供だ。だが、その腹の底に、煮えたぎる闘争心を持っている。もっとも危機的状況で一番頼りになるのは、技でも力でも無く、最後まで戦う力だ。
絶望的な状況を打破するのは、案外キキみたいな戦士なのかもしれない。
「お前の病気だって、たしかに日常では持て余すかもしれない。けど、戦士にとっては、強力な武器になるかもな」
「ほんとっ?」
「ああ」
キキが明るい顔で、シオンを見上げた。
悪い病気じゃないと励まされたことはあっても、病気にも使い道があるなんて言われたことは無かった。
シオンには何気無い言葉だったかもしれないが、やっぱり冒険者になろう、とキキは改めて自信を持った。
「うん、キキちゃん強いもんね」
「だよねっ!」
紅子にもおだてられ、二人の間でキキはすっかり機嫌を良くした。
家に行く前に買い物をしようと紅子に言われ、駅前の商店街に寄った。
シオンは普段立ち寄らない場所だ。人通りの多い場所には極力近寄らないようにしている。必要なものは途中のコンビニで買っている。
「おっ、コロッケ安い」
立ち並ぶ店を覗きながら、紅子が肉屋の前で足を止めた。
「からあげも美味しそう……ね、買って行かない?」
「ここで?」
シオンが尋ねると、紅子が頷いた。
「どっかに食べに行くより色々食べられるし、時間ももったいないもん。ね、キキちゃん、からあげとコロッケどっちも好き?」
「何でも食べるわよ、あたしは」
お嬢様ぶっているキキは、こんな店先の食べ物なんて、などと不満を言うかと思ったら、案外優等生な答えが返ってくる。
「えらいねー。キキちゃん。すみませーん」
「あいよ」
紅子が笑顔で声をかけると、肉屋の主人が愛想の良い笑みを返す。
「この牛肉コロッケと、からあげとー、あと、なんかオススメを!」
「トンカツが揚げたてだよ」
「んじゃそれ!」
満面の笑みで紅子が答える。
「お姉ちゃん元気いいねー。おまけしとくよ」
「わぁ! やったぁ! ありがとうございます! キキちゃん、やったね! おまけだよ!」
「ちょっと、はしゃぐのやめてよ……」
ピースサインを向ける紅子に、キキが顔をしかめる。
「妹さんちっこいから、たくさん食べなよー」
「わーい。よかったねー、キキちゃん!」
「誰が妹だ……」
紅子がトートバッグから財布を出そうとしたので、シオンはそれを遮って代金を支払った。
「いいよ、小野原くんいつも」
「払うよ。ダンジョンにおにぎり持ってきてもらってるから」
「そんなのいいのに」
長いポニーテールを揺らし、紅子が肩を竦める。
「おっ。お姉ちゃん可愛いけど、カレもいい男だねー」
「えっ、いやいや……」
商売人のおだてに、紅子は頬を赤らめた。
「いえ、友達です」
きっちりとシオンが否定する。
そういや昼間センターで、恋人同士に見られるのは紅子に悪いなんて、変なこと気にしてたもんなーとキキは思ったが、そんなことは知らない紅子はふっと遠い目をした。
「ええ、ほんとただの友達です……」
浮かれてすいませんという感じで、紅子が薄く笑った。前途多難そう……と二人の背後でキキは思った。
彼女から熱烈な想いを寄せられている鈍感男はというと、肉屋の袋を手に自分でもあまり訪れたことのない地元の商店街を、物珍しげに眺めている。
「色んな店があるんだな」
「自分が住んでるとこでしょーが」
キキが呆れ声を出した。
「そうだけど、ここ通らないからな」
人が多いだろうというだけで避けていたが、色々揃っていそうだし、安そうだ。
「他にもなんか色々買って行くか」
「う、うん! そうだね!」
気を取り直し、紅子が元気良く頷く。
それから、シオンの胴回りをじっと見つめた。
「小野原くん、こないだから痩せたよね。たくさん食べなきゃね!」
「あんまりたくさんは、急には無理だ……」
シオンが暮らすアパートの間取りは、六畳の部屋と狭い台所、トイレと風呂は小さいもののちゃんと別々にある。
「なにこれー。四畳くらいしか無いじゃん」
キキには、想像していたより狭かったようだ。入っていきなりそう言った。リザードマン規格ならそうだろう。彼らの使う畳は大きい。
アパートの外でも「ボロい、小さい」とキキは煩かった。
「うちのお風呂場より狭いや」
好き勝手なことを言い、キキは脱いだブーツを玄関に放り出すと、ズカズカと部屋の中に入ってきた。
その後から紅子が、自分の靴と一緒にキキの靴も揃えて入ってきた。
「おじゃましまーす……」
「何にも無いじゃん。よく暮らせるねー」
部屋も、中にあるものも、父の友人の草間が用意してくれた。かかる費用は父が出していただろうが。
「オレにはこれで充分だ」
とシオンは言い、部屋の隅に置いている小さなテーブルを真ん中に引き寄せた。
それ以外に家具は無い。衣服は押入れの中のダンボールに突っ込んである。家電は台所に小さな冷蔵庫がぽつんとあるだけだ。
この家に住む前、常に気難しげに顔をしかめた魔道士に「必要な物は?」と尋ねられ、布団と冷蔵庫と食事に使うテーブルだけ買ってもらった。それから、何も増えていない。
「アハハハ! 同じジャージがいっぱいある!」
「おい、勝手に開けるなよ」
キキは入るなりくつろぎ、押し入れを開けている。
「布団うすっぺらーい。寿命じゃない? 買い換えてないの?」
「ほんとうるさいな、お前は」
「紅子っ、見て見て。冷蔵庫の中、すごいよっ、ウケる! キャラメル入ってる! でも他は水とお茶しか入ってないや。あ、牛乳。こんなのでもう背伸びないよ」
「ほっとけよ」
「お風呂どんなのっ?」
バタバタと風呂場を覗きに行く。中に入ってまた「狭ーい!」とゲラゲラ笑っている。
「ギャハハハ! 毛ヅヤが良くなるシャンプーだって!」
「うるさい! 安かったんだよ!」
たまりかねてシオンが怒鳴る。紅子が商店街の買った食品が入った袋を手に、所在無さげに部屋の隅に立っている。目が合うと、彼女はへらっと笑った。
「小野原くんも、毛づやとか気にするんだね」
「……いや、ほんとに安かっただけだから……ホームセンターで……」
亜人用をターゲットにした商品のキャンペーンで、入り口に立っていた販売員に捕まって半ば押し売りされたのだ。
気恥ずかしそうにしているシオンに、紅子がにこにこと笑って尋ねた。
「ホームセンターとか行くの?」
「まあ、仕事に必要なもん買うのに、たまに」
「あ、そっか。そうだよね」
「浅羽、適当に座れよ」
「あ、うん」
ロングスカートの裾を抱えながら、よいしょ、と畳の上に腰を下ろす。一人で暮らしていると気にならないが、そこに女子を座らせると思うと、色褪せた畳の色が急に気になってくる。
「ごめん。座布団とかねーけど」
「全然、大丈夫だよー」
テーブルの上に、紅子が食べ物を並べていく。
「皆でつついちゃっていいよね」
「ああ」
「あー、お腹空いたぁ。もう七時過ぎてるね」
携帯電話を取り出し、紅子が言う。
「食おうか。飲み物、ペットボトルでいいか? コップ無いんだ」
「あ、うん。大丈夫。ごめんね、ほんと押しかけちゃって」
水と茶だけなら冷蔵庫に買い溜めしてある。緑茶を三本取り出して、テーブルの上に置く。
「おい、キキ。いつまでやってんだ」
まだ風呂場で遊んでいるキキが静かなので、何をしてるのかと思って覗くと、何故か空の湯船に膝を抱えて入っていた。なんだか悲しそうな顔をしている。
「……何してんだ?」
「こんな狭いお風呂初めて見たんだもん。足も伸ばせないね。どんな気持ちで入ってるんだろうと思って……」
「うるさい」
ドアを閉め、シオンは紅子のほうを振り返った。
「ほっといて先に食おう。時間、大丈夫か?」
「うん。今日は小野原くんに会うって、ちゃんと言ってあるから」
紅子は叔父と叔母にシオンのことは話しているようだ。厳しいと聞いているので、同じ歳の男と遅くまで会って怒られないかと心配したが、仕事仲間なら構わないのだろうか。
「待っててねー、並べちゃうから。お皿、ある?」
「無い」
「そっか。じゃ、このままでいっか」
トンカツが入っていた大きめの透明パックを広げ、蓋の裏側にも別の惣菜を移し、綺麗に並べていく。バラバラの容器に入っていた惣菜が、ちゃんと盛られたように見える。
サラダや白飯も並べると、ちょっとした夕飯の食卓になった。
「ご飯は一人ずつちゃんとあるからね」
「ああ、ありがとう」
紅子はてきぱきと、要らない透明パックやトレイを袋にまとめた。
「ゴミ、どうしたらいい? 分別とかどうなってるの? トレイとか洗ったほうがいい?」
「そこらへんに置いといてくれれば、後で捨てとくよ」
「ゴミ箱は無いんだね。いつもどうしてるの?」
「袋に入れといて、たまったらゴミ捨て場に持ってく。ゴミ袋やコンビニの袋なら、台所のシンクの下の開きに入ってる」
「一応、洗っとくね」
「いいよ、別に。後でオレが……」
立ち上がろうとした紅子を引きとめようと、シオンは紅子の手を掴んだ。柔らかい指の感触がして、この前、リザードマンの車の中で、彼女に手を握ってもらっていたことをシオンは思い出した。
紅子の白い頬がうっすらと赤みを帯びてくる。それに気付いて、シオンはぱっと手を離した。
いつもベタベタしている、とキキに言われたことも、思い出した。
「あ、ごめん」
「あ……ううん!」
紅子は笑って許してくれたが、気をつけようとシオンは思った。ちょっと距離が近いのかもしれない。明らかに年下であるキキとは違うのだから。
「じゃあ、ゴミはとりあえず置いとくね。食べたら片付けようかな」
照れているのか、ぎくしゃくとした動きで、ゴミをまとめた袋を台所に置く。それから、風呂場に向かって声をかけた。
「キキちゃん、まだ遊んでるのかな? おーい、キキちゃーん、用意出来たよー」
「ほっとけよ」
そう言い、シオンは自分の首筋に手を当てた。赤くなっているのか、熱かった。
いくらパーティーでも、女子に気安く触るのは良くないよな、と改めて反省する。キキへのデコピンは別として。あれも自分の指が痛いだけなのでもうしないが。
「食いながら、仕事の話してもいいか?」
「あ、もちろん」
気を取り直し、シオンがそう言うと、紅子はまだ少し顔を赤くしたまま、再び畳の上に腰を下ろした。
シオンはずっと気になっていたことを、紅子に尋ねた。
「……スカート、汚れてるよな。転んだのか?」
「あー、転んだっていうか、転ばせたというか……」
「お前が?」
「うん。駅の中でね、傘引っかけちゃったの。ワーキャットの男の子に」
「ワーキャット?」
「そう!」
と紅子は表情を明るくした。
「五人くらいでね、歩いてたの。でね、一人を私が転ばせちゃって、そのときに慌ててしゃがんだときに、スカート汚したみたい。それでね、それでね、なんかボスっぽい人がいてね。その人がすごい優しかったの」
「へえ」
「ぱっと見は不良っぽいっていうか、怖そうだったけど、親切だったよ。センターの冒険者かなぁ?」
「どうかな。そんなたくさんのワーキャットは今日来てなかったけど……冒険者じゃないだろ。ブラブラしてるだけとか」
すると紅子が自分の手首を掴みながら、言った。
「んーと、その人がね、手にいっぱい魔石のアクセサリー付けてたの。だから、なんかの対策かと思って。精神安定とか、精神攻撃防御とか」
たしかにワーキャットの冒険者なら、魔石は絶対身に付ける。それにかこつけたファッションという場合もあるが。
「ふうん。オレたちが出た後かな」
センターで騒いで怒られた後、また並び直して、それからは《オデュッセイア》で時間を潰していた。
そういえば蒼兵衛は、並び直さずに帰ってしまった。仕事を受けないのかと尋ねたら、「気が削がれたから、また次にする」とマイペースなことを言っていた。「どうせ今は毎日ヒマしてるから」と。
「ワーキャットの冒険者は、同族同士でつるんでることが多いからな」
「そうなの?」
「他の種族と合わないらしい。マイペースな奴が多いから、すぐにトラブルを起すしな。全員が全員そうじゃないけど。男は特にな。カッとなりやすくて、ケンカっ早い」
「小野原くんはそんな感じじゃないのに」
「全員が全員そうってわけじゃないから。育った環境にもよるだろうし。オレはワーキャットの知り合い居ないし、付き合ったことも無いからよく分かんねーけど、あんまり評判良くないかな」
実はシオンもあまり同族の冒険者が好きではない。ほとんど接する機会は無いが、大勢でつるむ者ほど騒がしい者が多いとは思う。やたら人懐こいワーウルフのほうがマシだ。ワーキャットは他者を気にかけず、勝手気ままに振舞い、集団になると気が大きくなってはしゃぎ出す。責任感に欠け、仕事を放り投げる者も多いと聞く。
そういう素行が悪い者のお陰で、自分まで「ワーキャットか……」という忌避の目を向けられるのだ。とんだとばっちりだ。
「飽きたー」
ようやくキキが風呂場から出てきた。
「よく飽きなかったな、今まで」
「シオンってズボラっぽいし風呂場も毛だらけかと思ったけど、けっこう綺麗にしてんじゃん。掃除機もちゃんとかけてんの?」
「掃除機は無い。ほうきでやってる」
「うちのおばあちゃんかよ」
「あと、床をコロコロしてゴミ取るやつ。あれは便利だ」
ひたすら床の埃を取るのは、何もすることが無いときの暇つぶしにもちょうどいい。
「せっかくの一人暮らしなのに、地味な生活送ってんね。なんかインテリアとかもっと凝ったら? ギター飾る? うちの若い奴らが何人か持ってるよ。リザードマン用だからでかいけど」
言いながら、ドスンと畳の上に腰を下ろし、いきなり箸を手に取る。
「食べよっ。いただきまーす」
コロッケを掴み、口に放り込む。人が待っていたというのに、これだ。シオンは顔をしかめた。今まで他人の振る舞いなどさほど気になったことの無いシオンだが、奔放なキキにはわがままな妹に手を焼いているような気分になる。コイツのほうがワーキャットじゃないのかとすら思う。
「私たちも食べようよ」
と紅子が促し、食事を始めた。
「いただきます!」
「……いただきます」
シオンは自分の前に置かれた白飯の上に、コロッケとトンカツを一つ取って乗せ、食べ始めた。
「キキちゃん、おじいちゃんは元気?」
紅子が尋ねる。先日の仕事で重傷を負い、紅子に傷を癒してもらった国重だが、高齢であり、出血量が多かったため、大事を取って入院したのだ。
「元気、元気。元気過ぎて病院追い出されちゃったくらい元気だよ」
口をモグモグと動かしながら、キキが答える。
「そっかぁ、良かった」
「どっちかっつーと、ヤバいのは怪我より腰痛のほう。今は冒険者すんのもおばあちゃんに禁止されちゃった。でも、早くシオンたちを呼んでご飯したいって言ってたよ。あ、そういや、シオン」
「ん?」
「タイスケんとこ行かないの? 今帰ってきてるけど、アイツまた仕事行っちゃうよ。一回行くと長いよ」
「ああ、連絡するつもりだけど」
「ええと、タイスケさんって、小野原くんのお姉さんのお友達だよね」
紅子が言う。
「ああ。いつもパーティー組んでた人だよ」
「長いって、冒険者のお仕事? 遠征とかあるの?」
「うちの連中は、冒険者をメインでやってる奴は少ないの。基本的に土建屋だしね。でもアイツは冒険者のほうバリバリやってて、レベルも高いからね。頼まれる仕事も多いし難度が高いから、わりと足伸ばして長期の仕事入れたりするんだ」
「はぁ、レベルが……」
感心したように紅子が呟く。
「レベルが高いと、色んなダンジョン行くんだろうねえ」
「そりゃそうよ」
何故かキキが胸を張る。
「よく憶えてないけど、今のタイスケで40以上あると思うよ」
「40!」
紅子が驚きの声を上げる。シオンが言った。
「サクラが一年で30まで上がったんだ。一緒に仕事をしていた仲間なら、かなりレベルは高いと思う。今も続けてるなら、なおさらだろうな」
「一年で30って……すごいんだよね?」
数字の大きさに圧倒されつつも、ピンときていない様子で紅子が呟く。
「単純に強さじゃないけど、強くないと任されない仕事が来るレベルだよ」
「一年でそのくらい上がるものなの?」
「あまり無いと思う。初心者はまず仕事が回ってくることのほうが少ない」
言いながら、トンカツを頬張る。ゆっくり飲み込んでから、シオンは答えた。
「この仕事は、上のレベルに行くほど人が減って、初心者は相当に多いと思っていい。高レベル冒険者は常に人材不足だけど、低レベルは職にあぶれてる」
「だから、いつもたくさん並んでるんだね」
「そうだよ。高レベルなら家に居たってセンターのほうから電話かかってくるぐらいだけど、低レベルはえり好みなんて出来ないし、仕事の奪い合いになる。簡単に思える山菜採りにしたって、すぐに枠が埋まって取れない。それだけに一回の失敗とかすっぽかしとかで、ものすごく評価が下がる。代わりはいくらでもいるからな」
「そうだったんだ……もしかして私やキキちゃんが山菜採りのお仕事出来てるのは、小野原くんやおじいさんの恩恵なのかな?」
「ちょっと、あたしまで巻き込まないでよ」
とキキが口を尖らせたが、その通りである。シオンは頷いた。
「そういうことだな。レベルがそこそこある冒険者は評価を簡単に下げたくない。センターもそれを分かってるから、レベル10以上の冒険者には信頼感を持ってる。だからレベルが上がるほど仕事が取りやすい」
「ふむふむ」
「一定までレベルを上げるのは大変だけど、二年頑張ればそこそこ仕事がもらえるようになって、五年続けば安定して仕事をもらえるようになるって言うな。そこに行くまでに辞める奴は多いけど。低レベルのうちは強さじゃなくて、根気かな」
「はー……そんなこととは知らず……」
紅子は箸を置き、シオンにぺこりと頭を下げた。
「いつもお世話になっております」
「あ、うん……まあ、それはいいんだけど」
シオンは小さく笑った。
「サクラも、最初から難しい仕事を任されたわけじゃない。初心者時代に、すでに高レベルだった人と仲間になって、一緒に難しい仕事をこなしたって聞いてる」
「あ、なるほど」
「そこからガンガンレベル上げていったんだ。もちろんそのぐらいレベル高い人が初心者と組んでくれるってことが、稀だとは思うんだけどな」
「それが、タイスケさんなんだね」
「違う違う」
とこれにはキキが答えた。
「タイスケはそのときレベル大したことなかったもん。いま二十一、二歳だったと思うから……二年くらい前だっけ? そんとき十九、二十でしょ。アイツは高校中退で冒険者になって、ファイター系はレベル上がりにくいし、せいぜい10くらいだったと思う」
さすがに身内だけあって、シオンも知らない個人情報だった。
「それに、あの女……サクラと会ったときには、もう誰かパーティーの仲間がいたんだよ。アイツ、人生に迷っていきなり高校中退して冒険者になったはいいけど、やっぱり目標も無くてくすぶってるときだったからね。すごい人たちに誘われたって、めちゃくちゃ喜んでたもん。すっごい憶えてる」
「なるほど」
シオンもいつの間にか事情を聴く側になっている。
「自分のほうが年上のくせに、サクラのこと姐さんって呼んでて、引いたもん」
口からキスフライの尻尾をはみ出させながら、キキが顔をしかめた。そのまま尻尾までボリボリと完食する。
はあ、と紅子がため息をつく。
「慕われてたんだねぇ、小野原くんのお姉さん」
「んー……みたいだな。家では普通の姉貴だったけど」
「そういえば、蒼兵衛さんって、小野原くんのお姉さんと同じ学校行ってたんだよね」
「ああ、言ってたな。サクラはすぐ辞めたけど」
蒼兵衛から学校時代の桜の話を聞いて、知らない姉の姿を知ったことが嬉しかった。姉の後を再び追おうと思ったのも、あのときからだ。
「お姉さんもすごいけど、そんなに強くて、人脈もあって、一年でレベル30になっちゃうような人と、互角だったってのも、すごいよねえ」
紅子の前には、大盛りの白飯の他に、まるでおかずのような顔をしておにぎりが並んでいた。何個めかのおにぎりに紅子が手を伸ばす。
「そうだな」
桜はシオンの知るうちで、一番強い戦士だ。そうすると、今シオンが知っている冒険者で一番強いのは彼ということになる。
「そんなに強いふうには見えないけどねー。バカだし」
キキが不服そうに言う。
「でも、一気に評価を上げようと思ったら、仕事の質もそうなんだけど、それだけ難しい内容をこなす必要がある。それほどの仕事を受けるまでも大変だけど、受けて失敗したら意味無いからな。だから、強い人はいたほうがいい」
「キキがいるじゃん」
自信満々なキキには答えず、シオンは惣菜屋で買った卵焼きをつまんだ。
「おいこらぁっ! 無視すんなぁ!」
「あくまで、オレたちの目的はダンジョン探索だ。けど、より多くのダンジョンに潜ろうと思ったら、結局レベル上げは必須になる」
「ぐぬぬ……」
更に無視されたキキは憤怒をあらわにしつつも、何度もごっくんと怒りを飲み込んで唸った。
「でも、浅羽はソーサラーだから、ファイターよりレベルは上がりやすい」
「ほんと?」
「ああ。レベルが上がったら、積極的に難度の高い仕事を選んでいこう。その合間に行けるダンジョンには行ってみる。難しい仕事はそれだけ稼ぎもいいから、ダンジョン探索の資金にもなるしな」
「はあ……そっかあ。小野原くん、色々考えてくれてたんだね……。私、魔法練習しなきゃってことばっか考えて、そういうこと考えてなかったよ……」
申し訳なさげに肩を落とす。
「いや、浅羽は魔法の練習をしてくれたらいい。浅羽の魔法は浅羽が思ってるよりすごいし、高レベルダンジョンの攻略には欠かせない」
「そ、そうなのかな……」
「そうだよ」
紅子は半信半疑だが、シオンは迷い無く頷いた。
彼女は高度な治癒魔法が使える。照光魔法でサポートしながら、別の魔法を使うことも出来る。
この前のようなパニックを起こさなければ、高レベルパーティーに入ることも出来るだろう。だが、それを勧めることはしたくない。彼女は人が好過ぎる。シオンはレベル11の中級冒険者でしかないが、少なくとも紅子を裏切ったりはしない。
ソーサラーの不幸は、その力を本人よりも周囲が求め過ぎることだ。
紅子は食事の手をすっかり止めてしまってた。その横で、キキがおにぎりを頬張っている。
「でも、魔法の練習、やればやるほど、これでいいのかなって思っちゃう。結局イメージと集中しかないって透哉お兄ちゃんは言うけど、そんなボヤボヤした教え方じゃ、自分がやってるイメージと集中が合ってるのかも分かんないよ……」
俯き、ふう、と息をつく。どうやら行き詰っているらしい。
「その、透哉お兄ちゃんってのは、教えんの下手なの? ソーサラー一家なんでしょ?」
キキが尋ねる。
「お兄ちゃんは、自分はソーサラーの才能は無いから、変なクセ付けたくないんだって。そもそも、私があんまりダンジョン行くのも賛成してくれてないから……。協力はしてはくれるけど、あくまでこっこがやりたいならって感じ。手は出さないよ、って言ってたし」
「それは仕方無い。理解してくれてるし、送り迎えしてくれるだけいいだろ」
そうシオンはフォローを入れたが、紅子はキキのように口を尖らせた。
「そうなんだけど……意地が悪いよ、お兄ちゃんは……そのくせ、教えだすと厳しいし……」
珍しく不平を漏らす紅子だが、それだけ透哉には懐いていて、気を許せるのだ。叔父叔母が厳しく、家では気詰まりなこともあるだろうが、透哉が傍に居てくれるだけでずいぶん違うはずだ。
「昔はもっともっと優しかったんだけどなぁ」
「それは浅羽が成長したからだろ。小さい頃って、周りがすごく大人に見えるし」
「まあ、そうなんだろうけど。死んだお兄ちゃんと比較してたからかも」
「比較?」
「最近、ちょっとだけお兄ちゃんのこと思い出すんだ。死んだ私のお兄ちゃん」
「ああ……」
とシオンは以前紅子が言っていたことを思い起こした。それから透哉に教えてもらったことも。
彼女はダンジョンで、父親と兄と同時に亡くした。彼らは命を賭けてまで、一族の〈たからもの〉を求め、禁忌ダンジョンに侵入さえした。
失いかけた命の力を使い、最高難度とされる転移魔法を発動させた実兄は、紅子の前で息絶えた。
紅子は幼く、そして相当にショックだったのだろう。彼らの顔さえも、あまり思い出せないと言っていた。
「私、お兄ちゃんのことあんまり好きじゃなかったから……。話しかけても面倒くさそうだったし、こっこはバカだって何回も言われたし」
暗い顔をする紅子に、キキさえも声をかけられず、気まずそうに黙って食事をしていた。
「自分が魔法使えるのは知ってたけど、ちっちゃい頃の私はケーキ屋さんになりたかったから……魔法の練習しろよってお兄ちゃんに言われたけど、言うこと聞かなかった。お兄ちゃんは、魔法の勉強いっぱいしてたから……あのとき、もっと魔法教えてもらえば良かったって、すごく後悔してる」
「それは浅羽が悪いわけじゃない。子供のときなんてそんなもんだし、大事な人が居なくなったら、ああすれば良かったとか、もっとこうしておけば良かったって、誰だって後悔するんだよ」
「うん……」
シオンも同様の想いをしているのだ。それが紅子も分かっているから、小さく頷いた。
「そうだね。ほんと、そうだよね」
えへへ、と紅子は笑うと、ぱっと顔を上げた。
「ごめんね! しんみりしちゃって!」
「いや、今からでも浅羽が魔法を覚えたら、兄さんもきっと喜ぶぞ」
「そうかも。でも、こないだみたいな私を、天国のお兄ちゃんが見てたら、きっと怒ってるだろうな」
「厳しい人だったんだな」
「ていうか、意地悪だった。でも、もっと喋っておけば良かったな」
紅子はまだ少し寂しそうに微笑んだ。
「透哉お兄ちゃんのほうが好きだったから、透哉お兄ちゃんの妹になりたかったとか、叔父さんと叔母さんの子供が良かったってばっかり言ってたから。私も、お父さんやお兄ちゃんに意地悪してたのかもしれない」
忘れられないのも辛いけれど、忘れてしまうのも辛いだろうと、シオンは思った。それを少しずつ思い出していくことも。
キキもこういうときだけは空気を読むのか、大人しく三つめのキスフライを食べていた。普通三人居て三つのキスフライがあったら、それは一つずつだろうと思いはしたが、まあ好物なのだろう。
ふと、シオンは思いついた。
「そうだ、浅羽。魔法を教えてほしいんだったら、教えてくれる人がいるかもしれない」
「えっ? ほんと?」
「父さんの友達で、オレが世話になった人間のソーサラーなんだ。元冒険者で、たまに子供に魔法を教えたりしてる」
「あ、でもお金は私あんまり……。あ、ううん、でもおやつ代を切り詰めれば少しなら……!」
「紅子、おやつ無しで生きていけんの?」
黙っていたキキが思わず声を上げた。
「い、生きていけるよ! つ、強くなるためだもん!」
紅子は胸の前で拳を握り、力強く言った。
「この前の戦いで、小野原くんたちを見てて、思ったの。私ももっと覚悟とか、我慢とか、しないといけないって。おやつくらい我慢出来なくちゃ、強いソーサラーにはなれないよ」
「いや、おやつは別に我慢しなくても……」
そう言いながら、シオンは自分の知っているソーサラーのことを思い起こした。
草間になら、安心して紅子を紹介出来る。信頼の置ける人間ではあるが、その性格が紅子と合うかは分からない。ただ、腕は間違いない。
「その人は金は取らないんだ。教えたいときに、教えたい奴に、教えてるだけだって言ってたから。基本的には子供相手で、初心者にしか教えないみたいなんだけど……」
どうも人間のソーサラーは変わり者が多い気がする。紅子も草間も、まともそうに見える透哉だって、どこかずれている。
親切な人ではあったが、その優しさが分かり辛くもあった。だからシオンも、世話になっていたものの、早く自立しようと思ったのだ。彼の生活のペースを乱しては悪い気がした。
「父さんが言ってた。器用なタイプのソーサラーで、力よりも技でパーティーを助けてくれたって」
「紅子と逆じゃん」
「だからいいんじゃないかな。浅羽は強いから、もしかしたら興味を持ってくれるかもしれない。一度、会ってみたらいい。紹介するから」
「う、うん! 会いたい!」
暗闇の中に光を見つけたように、紅子は希望に顔を輝かせた。
「ぜひ、よろしくお願いします! 痛ぁっ!」
土下座せんばかりの勢いで頭を下げ過ぎて、テーブルの角に頭をぶつけてしまった。
「ドジだなぁ。紅子は。すぐ慌てるんだから」
エビフライの尻尾を口から覗かせながら、キキが言う。
「うう、そうだね。気をつけます……」
いたた……と呟き、額を擦りながら、シオンと目が合った紅子は、へらっと笑った。シオンは思わずぷっと吹き出して笑ってしまった。
「うう……」
顔を赤くしながら、普段人の失敗で笑わないシオンを笑わせるほどのドジに、紅子は恥じ入って俯いた。シオンも悪いとは思ったが、彼女のそういうところが可愛いと思ったのだ。
「あ、小野原くん、下まで降りなくていいよ」
二人を見送るため、近所履き用のサンダルを履こうとしたシオンに、紅子がやんわりと言った。
「ここで大丈夫。今日はありがとう。楽しかったです」
と、かしこまって頭を下げる。
「ごめんね、散らかしちゃって」
「いや、別にそんなことないだろ。ゴミはちゃんと片付けてくれたし」
「ごちそうさまでした。いつもごめんね。でも、次からはワリカンでいいからね」
「いいって。気になるなら、またおにぎり作ってくれれば」
「うん! いっぱい作るね!」
「いや、いっぱいはいいんだけど……」
キキは外の手すりに手をかけ、鉄棒で遊ぶように飛び上がっている。
「危ないぞ。古いから」
「最強キキちゃんは、こんなとこから落ちたくらいで死なないもーん」
「死ななくても痛いぞ。泣くだろ」
「紅子に治してもらうもーん」
「でも泣くだろ……」
手すりに腹を預け、足をぶらぶらとさせている。洗濯物かお前は、とシオンは思いつつ、ため息をついた。
紅子がもう一度、頭を下げる。
「あと、お師匠さんのこと、よろしくお願いします」
一瞬何のことかと思ったが、草間を紹介するという話だと気付き、シオンは頷いた。
「ああ、うん。連絡してみる。教えてくれるかは分からないけど、それでもアドバイスくらいはしてくれると思うから」
「うん。本当にありがとう。でも、一人でも練習がんばるね」
「ああ。また連絡する」
「うん」
笑って頷いた紅子が、シオンを見て言った。
「あのね、小野原くん。私たちって、パーティーだよね」
「ん? ああ……どうしたんだよ、急に」
「私、いっつも小野原くんに任せっ放しで、自分のことなのに、自分の目的のことも全然分かんなくて……小野原くんに付いてくばっかりで、今日も悩んでた魔法のこと、小野原くんに頼っちゃったし」
「別にいいよ。そんなの。オレだってしたくてやってるんだし」
彼女とパーティーを組むようになって、ただ仕事をしているだけのときより考えることが増えた。そのぶん、やりがいや達成感もある。目的があることで、仕事にも身が入る。
「うん。それも分かってる。だから、甘えてもいいときは、そうする。でも、小野原くんも、私に何でも言ってね。してもらうばっかりじゃ、仲間って言えないもの」
「してもらってるぞ」
「ありがとう。そう思ってくれるなら、嬉しい」
本人からすれば制御しきれていない魔法でも、充分役に立つ能力だ。それに、魔法だけでは無い。彼女自身の明るさや気遣いに救われることもあった。
「はい」
と紅子が軽く手を上げる。
「仲間として、小野原くんに一つ意見してもいい?」
「え? ああ。いいけど」
「パーティーのこと。小野原くんは、良い人だし、自分のことじゃなくても一生懸命、力になってくれようとするでしょ。だから、絶対力になってくれる人は、たくさんいると思う」
「うん。あたしもー」
手すりに腰かけたキキが、口を挟んだ。
「パーティーの斬り込み隊長はキキちゃんに、バックアップは妹尾組に任せな!」
「おい、ふんぞり返ったら落ちるぞ」
バックアップだけ魅力的だ……とシオンは思ったが、壁の薄いアパートで夜に騒がれてはたまらないので、言わなかった。
「あのね、小野原くんが選んだ人なら、私はどんな人とでも仲良くやっていけるよ。その人に足手まといだって思われないように、がんばるし!」
紅子が胸の前に拳を作る。
「だから、気に入った人がいたら、思いきって声かけてみなよ!」
「気に入った人か……」
「うん。それでね、あのサムライさん……ええと、蒼兵衛さんに、声かけてみたらどう?」
「うげえ!」
とキキが声を上げる。
「あの人か……。オレ、気になってたのかな?」
そう言われても、シオンが分からないことは、紅子にも分からないだろうし、訊かれても困るだろう。だが、紅子は笑って答えた。
「小野原くん、人のことちゃんと見てるから。あの人の良いところも、きっと見えたんだと思う」
「無いよー! そんなの無いよー!」
キキが喚いているが、紅子も慣れた様子で流している。
「あの人の強さって、私にはよく分かんないよ。私は剣やナイフで戦えないからさ。小野原くんもあの人も強いんだなーとは思うけど、冒険者の中でどのくらいって言われたら、全然分かんないもん。でも、小野原くんには分かるんだよね?」
「まあ……単純に言えば、オレよりは強いよ、あの人は」
「せっかく、番号交換したんでしょ? だったら、声かけてみたら? 好きでソロしてるわけじゃないのかもしれないし」
「ヤダーイヤダー」
キキが手すりの上で足をばたつかせながら、投げやりな声を上げる。
「あと、強いからって、どんなパーティーにも引っ張りだこってわけじゃないと思うの」
「そりゃそうだよっ! あんな奴っ!」
「だから、遠慮しなくていいと思うよ。声かけられたら、蒼兵衛さんも案外嬉しいかも」
「そうかな」
「ヤダヤダヤダヤダー!」
「キキ、夜だから静かにしろ。もう呼ばないぞ」
「ごっくんごっくん!」
紅子に言われるまで、彼を仲間にしたいとまで思っていなかった。
でも、気になっていたと言われれば、そうだ。
強いファイターがもう一人欲しいと、思っていた。そして、あの人は今ソロだ。連絡先だって交換したし、彼も自分を嫌っている様子は無い気がする。
「そうか、あの人、強いし、小回りも利くよな」
長身だが、すらりとしている。動きを邪魔する筋肉はなく、締まっているのだ。そのぶん大柄な戦士より身軽で持久力もあるだろう。ダンジョン探索向きだ。
「そうだね、背は高いけど、大きな亜人さんよりは」
「たしか魔法戦士だし、それに武器付与型だったよな」
突進してくる鬼熊の前に平然と立ちはだかる胆力と、巨体を両断した魔法剣技。
「うん。あんまり魔法は得意そうじゃなかったけど。でも、魔法無しでも強かったよね?」
「ああ。充分強いよ」
ルーンファイターには魔法と体技、どちらつかずの中途半端な者が多いのも事実だが、その力を存分に発揮できる者は、例外なく強力な戦士である。
蒼兵衛は素の状態でも強い。その上、足りない部分を武器付与魔法で補うことも出来る。
「オレ、一回声かけてみるよ」
「フギャー!」
変な声を上げ、後ろにひっくり返りかけたキキが、慌てて手すりから下りる。
「おいこらっ、変な話するから落ちそうになったよ!」
「お前が勝手に……」
「ごめんね、キキちゃん。そろそろ行こうか」
紅子が手を差し出すと、キキが素っ気無く返した。
「えー、手なんか繋がないよっ! 子供じゃないんだからさ」
「子供だろ」
しかし紅子は気にしたふうも無く、笑った。
「ごめんごめん。じゃあ、行こう。もう妹尾組の人が来てくれてるかも」
「おうっ!」
キキが電話し、妹尾組の若者が車で迎えに来てくれることになっている。アパート前には大きな車は入れないので、大通りまで出ていかなければならない。
「じゃあ、小野原くん。また」
「シオン、明日ねー!」
「えっ、明日も……?」
「イヤなのかよ!」
去りかけたキキが戻ってきて、シオンの尻尾を握って引っ張る。
「いてて……明日は仕事だ」
「あ、そうなんだ。ごめんね、今日は遅くまで」
「いや、ダンジョンじゃないし、そんなに疲れないと思うから。ほら、この前受けたキメラの仕事」
「あっ、キメラの子供っ? がんばってね!」
「ああ。天気が悪くて延期になってたけど、明日から本格的にやるって。センターにいるとき、スカウトの人からちょうど電話があった」
「あたしも行くー!」
「なんでそうなる」
ぱっとキキが手を上げたのを、シオンがその手を掴んで下げさせる。ぶうーとキキが不満げな声を上げた。
「ほらほら、もう行くよ、キキちゃん。小野原くん明日お仕事だって」
キキの手を引き、紅子が手を振る。
「がんばってね、小野原くん! おやすみっ!」
「ああ」
頷き、シオンも小さく手を振り返した。