雨の日の再会
雨の日は、街にも人が少ない。
それはそうだ。こんな湿度の高い不快な日に、目的も無く外をブラブラしている者なんてそういない。目的を持つ者も、一目散にその場所に向かう。飲食店も、アパレルショップも、コンビニですらどこもガラガラだ。
こういうときは冒険者センターもいつも空いている。週の半ばだと余計に。
シオンも雨は嫌いだが、混雑はもっと嫌いなので、仕事の無い雨の日はセンターに足を運ぶようにしている。
「あたし、雨の日って好きー」
ソファを広々と使って座り、叩きつけるような激しい雨音の鳴る窓ガラスを眺めながら、キキが言った。
新宿冒険者センター内。いつも冒険者でひしめき合っているこの場所も、やはり今日は空いている。そのぶん気持ちが急かされることもないので、じっくりと仕事を選ぶ者が多いようだ。
それも気にせず、シオンはのんびり待っていた。
「シオンってやっぱワーキャットなのに変わってるよね。雨の日にわざわざ出かけるなんてさ」
「オレも雨は嫌いだぞ」
「でも外に出てるじゃん。こんな日に」
「こんな日だからだよ。空いてるだろ」
シオンが駅に降りたとき、雨と共に横なぐりの風に晒された。しかも運の悪いことに、強い風でビニール傘の骨がぽっきり折れた。
白いTシャツの肩や背中が濡れ、肌にべったりと張り付いている。除湿運転しているエアコンの微風ですら寒い。耳と尻尾の毛が濡れそぼり、いつもより濃い色に変わっていた。ぶるっと肩を震わせる。
「寒いな……。ジャージ着てくれば良かった」
「えー? そう? あたしはちょうどいいけどね」
それはそうだろう。キキは相変わらず長袖のブラウスにハイウエストスカート、季節感を無視したタイツにブーツを履いた足をブラブラと揺らし、ミルクティー色のおかっぱ頭(ボブカットと本人は言う)にはお嬢様然としたベレー帽を被っている。
実際お嬢様で、中学校を絶賛不登校中の彼女は、川崎の自宅から暇そうな妹尾組の若衆を捕まえ、新宿まで車で送らせたので、雨の辛さを味わうどころか、快適な車内から弾丸のように降ってくる強雨をスナック菓子を食べつつ眺めていただけだ。シオンのように雨の不快さなど一切味わっていない。
「ていうか、普段着もジャージかよ」
思わず蓮っ葉な口調になりながら、キキは傍らの少年に呆れた顔を向けた。
「そういやシオンって、私服はいつもTシャツにジーンズだよね。もっと他の服無いの?」
「お前もいつも同じ格好してるようにオレには見えるんだけど……」
「微妙に違うよ。このブラウス、袖がひらひらしてて可愛いっしょ? まあシオンには分かんないか」
「うん」
「ねー、今度服買いに行こーよー。原宿に」
「なんで原宿?」
「スカウトが多いんだよ。渋谷でもいいよ」
アイドル冒険者になると言っていたのは、本気のようだ。
「悪いけど、オレは人が多いところは好きじゃない。服なんて近所のスーパーの二階でも売ってるし」
「えっ! ウソ! スーパーで服買ってんのっ!?」
「買うときもある」
「ひええ……!」
信じられない、とキキは頬に両手を当て、大げさに肩を竦めた。
「あとは仕事用のジャージ買うとこでも売ってるしな。ワゴンに安いのがいっぱい入ってるんだ」
「それ売れ残りだよ! スーパーの服か、売れ残りの服しか持ってないのかよ!」
「あれは売れ残りなのか」
「そうだよ! 誰も買わなかった服の末路だよ!」
「ふうん。そうだったのか。買ってやってよかったな」
「よくねえぇぇっ!」
「店の人は喜ぶだろ。オレは仕事ですぐダメにするからどれでもいいし」
服装など、動きやすければ何でもいい。だが、キキにはそうでは無いらしい。拳を握って訴えてくる。
「絶っ対! 服、買うべきだよ! 原宿で! 渋谷でもいいけど!」
「それはお前が行きたいだけだろ」
「いつもTシャツにジーンズじゃ、一緒に歩いてて紅子も可哀相じゃん」
「え」
とシオンは目をしばたたかせた。
「オレ、浅羽に恥かかせてるか?」
「は? なにそのマジな顔。そこまで言ってないでしょ……」
「もしかして、臭いのか?」
成長臭は無くなったはずだしもう大丈夫だと思っていたが、やはりどこか獣臭いのだろうかと、シオンは自分のTシャツの襟をつまみ、くんくんと嗅いだ。が、自分ではよく分からず、キキに尋ねる。
「なあ、臭うか?」
「え、別に……」
服装には頓着無いくせに、体臭をいやに気にし、しつこく鼻を鳴らしている姿に、キキは自分が彼の地雷を踏み抜いたのだと気付き、冷や汗をかいた。何があったのか知らないが、今後こいつの前で体臭の話はするまい。
「なあ、このぐらいの距離にいたら、やっぱり臭いか?」
「や……全然臭くないよ。大丈夫……ほんとに……マジで……」
そう言っても、まだ服や腕を嗅いでいる。人間になにか言われたんだろうなぁ、とキキは同情した。自分もそうだが、思春期のトラウマは根深い。それで気が済むなら嗅ぎたいだけ嗅げよ……と生温かく見守った。
「なあ、どのへんから臭う?」
「臭くねえっつってんだろぉぉぉっ!」
長くは見守れず、キキが怒鳴る。小さな体から発する大音量に、周囲の冒険者が驚いて見やったが、シオンだけはほっとしたような顔をした。
「そうか? ほんとに、臭ってないか?」
「くどいわ! 臭ってないし、そもそも臭いの話じゃねぇよ! カレシはカッコいいほうが嬉しいって話だよ! まったく!」
キキはふんと鼻を鳴らし、胸の前で腕を組んだ。
「紅子はバカだけど身なりはきちっとしてるし、顔はまあ可愛いほうじゃん? 緊張感の無いタヌキみたいで」
「バカとか言うなよ。それにタヌキって……」
「似てない?」
市街地で野良猫を見かける以外に、稀少な野生動物を目にする機会は少ないが、タヌキなら山で何度か見たことがある。マナーの悪い冒険者や登山者が置いて行った弁当のゴミを漁り、おにぎりを頬張るタヌキの姿をシオンは思い出した。キキは別にそんなリアルなタヌキの話はしていないのだが。
シオンの濡れたTシャツの裾を摘み、キキはしつこくファッションチェックをしている。
「Tシャツでもさぁ、もっと自分に合った丈とか、着た時のシルエットとかちゃんと考えるだけで、けっこー違うんだよ。これとか安物だから、襟のとこすぐよたっちゃうよ」
「はあ……」
「アクセも服に合わせて変えたりさぁ。ジーンズなんて同じように見えても安物とそうでないかなんてすぐ分かっちゃうんだよ? あとウエストポーチほんとやめて。せめてヒップバッグにしなよ」
「オレは、浅羽の彼氏じゃないぞ」
「遅せーよ! 話のテンポ合わせてよ! えっ? ていうか、アンタら付き合ってんじゃないのっ!?」
「お前もうちの父さんと一緒だな。なんで男女でパーティー組んでたらすぐ付き合ってることになるんだ」
「思うでしょ、フツー。なんかアンタらベタベタしてるじゃん」
「え? そうか?」
「うん」
「そうか……そう見えるのか。浅羽に悪いことしたな」
「えっ、なんでそうなんの? 紅子はどっちかっていうと……」
シオンのこと好きじゃん、と言おうとして、キキははっと口をつぐんだ。傍から見ればバレバレだが、当のシオンは分かっていないようなので、それを第三者から告げるのは、いかに紅子が能天気でも可哀相だ。
あたしは空気を読む女だ、とキキは二人を気遣える自分に満足したが、シオンは的外れなことを言った。
「オレみたいなワーキャットと付き合ってるなんて思われたら、悪いだろ。浅羽はいい奴だし、人間だから」
「はぁ? 意味わっかんない。シオンって、ネガ系亜人?」
「なんだそれ」
「ネガティブな亜人。オレなんて亜人だからダメダメだ……って酔っちゃうタイプ。大体さ、シオンみたいなワーキャットって、一番得じゃん」
「トク?」
「だって、顔まで猫よりマシじゃん?」
「おい、そういうこと言うな」
キキの声があまりに大きいので、近くに全頭のワーキャットが居ないか、シオンは慌てて辺りを見回した。人間、犬亜人、兎亜人、猿亜人……ワーキャットは雨嫌いが多いからか、シオンの他には一人も居ない。
リザードマンやミノタウロスは、こんな日のほうがよく見かける。混み合わない日には大型の亜人種は訪れやすいのだろう。
「でも、フルヘッドは強いからなぁ……ガタイもちょっといいし」
「そう?」
リザードマン種のキキからすれば、元より小柄なワーキャットの個体差などどうでも良いのだろう。
「じゃあアンタ、自分がフルヘッドのが良かったって言うの?」
「うん」
「ええー……?」
獣の特徴が大きければ大きいほど、身体能力も高くなる。しかしキキは猫頭のシオンを想像し、眉をしかめながら言った。
「いや、シオンはシオンでいいよ……。ワーウルフなら分かるんだけどさぁ。ワーウルフはフルヘッドのほうが同種族だけじゃなくて人間の女にもモテるって、《non-non》の『女子がグッとくる亜人男子特集』に載ってたもんね。女子は猫系がモテるけど、男は犬系のがモテるんだって。しかもフルヘッドのほうが耳と尻尾だけの半獣より人間の女子には人気あんの」
「へえ……」
キキの話を聞き流しながら、シオンは適当に頷いた。
こうして改めてセンター内を眺めていると、色んな冒険者が居るなあと、今更ながらに思う。
「でもね、ワーキャットの男子は、だんっぜん、ライトなほうがモテるんだって」
「そうなのか」
シオンは窓口に立っている、ミノタウロスの親子を見ていた。若いミノタウロスが父親に連れられている。キキに比べれば大きいが、歳はそう変わらないだろう。
「シオンもちゃんとしてたら、絶対モテるんだからさぁ。そこらへんのライト・ワーキャット見てみなよ? 真面目に冒険者なんてやってないじゃん。チャラチャラしたカッコで、昼間っからブラブラしてる奴なんていっぱいいるよ」
キキは見かけが人間の子供のようだから浮いて見えるだけで、リザードマンとしては一人前だと主張するのは、たしかに間違いでは無い。大型の亜人なら、ああして早々に冒険者になる子供も居る。シオンと同じ十六歳でも、リザードマンやミノタウロス、豚亜人の若者はずいぶん大人っぽい。
「そんなのより、絶対シオンのがイケるから。やっぱりね、顔に出るんだよね。ワーキャットって軽薄そうな顔してるもん。シオンはその日暮らしって言っても、ちゃんと日銭稼いで生活してるから、顔つきはマシだと思うの」
やっぱりミノタウロスは強そうだな、とシオンはミノタウロスの親子を見ながら思った。子供は冒険者になりたてのようだが、体つきはしっかりしていて、腕力はシオンよりありそうだ。隣の父親の逞しい体など、ポロシャツ越しにも腕や背中が筋割れているのが分かる。
「なんならこれから原宿で、一緒にスカウト待ちしてもいいよ?」
「スカウトか……」
久々に口を開いたシオンに、キキはソファの上でぴょこんと跳びはねた。
「えっ? 興味あんの!?」
「ああ……」
これからダンジョン攻略パーティーを作るなら、様々な人材が必要になってくる。力の強いリザードマンかミノタウロスが居るといいだろうな、と思った。桜のお気に入りパーティーにも鯛介というリザードマンがいた。
キキの親戚でもあるという彼は、すでに長期の仕事から戻って来ているそうだが、シオンのほうが体調を崩していたのでまだ会えていない。
「でもさぁ、ワーキャットのアイドルって増えたよね。男も女も」
キキたちと行った精霊鉱山での戦闘の際、使った『薬』の副作用は酷く、幻覚と幻聴は一晩で収まったが、頭痛と倦怠感にはしばらく苦しむ羽目になった。危機は脱したとはいえ、あれには参った。
「いいよねー、ワーキャットは。顔まあまあでも耳と尻尾付いてるし、ニャンニャン言ってりゃウケるもんね。ほんとはニャンとか言わないくせに」
受けていた仕事を二つもキャンセルしてしまったので、残っている未消化の仕事は以前受けたキメラの捕獲だけだ。この仕事のほうも向こうで準備が色々あるということで、延び延びになっている。
「でも、シオンもアイドルにはちょっとは興味あんのね。意外だけど」
「ん……まあな」
はしゃぐキキの言葉に、やはり適当に相槌を打って、シオンは物思いにふけった。
今は仕事が欲しい。妹尾組から報酬が入ったので、すぐに生活に困るということは無いが、ようやく元気になったのだ。とにかく今は働きたい。
嬉しそうにキキが手を叩く。
「意外過ぎるけど……全然いいよ! ならこの後、原宿だね!」
「そうだな……」
「でもシオン、この前よりちょっとやつれたね。毛づやもいまいち……」
そう言い、ソファの背もたれの間から飛び出している尻尾を掴む。嫌がってバタバタと暴れた。尻尾を触られるのは嫌いだが、子供のやることなのでシオンは気に留めない。
「おお……動いてる……」
シオンに会うまで、ワーキャットの尻尾を間近に見たことのなかったキキは、先っぽだけを残して掴み、生き物の頭のようにプルプルと動く様を、獲物を見るような目で見つめた。
そうだ、体調を崩している間に体重が落ちたのは不味かった。軽すぎると動きのキレが悪くなるし、攻撃も軽くなる。キツい仕事のほうが報酬は高いのだが、本調子じゃないしなあ、と尻尾をいじくり倒されながら、ぼんやり考えた。
「やっぱり、金だな……」
「えっ……金目当てっ!?」
キキは尻尾を掴んだまま、ぐいっと引っ張ってしまった。
「痛い!」
「あっ、ごめん」
神経が集まる敏感な急所なのに、他種族にはそれが分かっていない。軽く謝られた。
「お前な……」
「だって、いきなり金とか言い出すから……」
「ああ」
とシオンは改めて強く頷く。パーティーメンバーもだが、やはり金だ。これから、確実に金が要る。
「金目当てのアイドルって……いくらなんでも意外過ぎるよ……」
「まあ、これはどうしたって体で稼ぐしか無いよな」
「か、カラダぁっ!?」
紅子の目的は、報酬など出ないトレジャーハンティングだ。しかも関東のダンジョンを手当たり次第に潜る必要があるのなら、あまり悠長にしてもいられない。あるかも解からない宝を、何年、何十年と探し続けている冒険者もいるくらいだ。
「あっ、あたしっ、そういう手段でアイドルになるのはちょっと……! お、おじいちゃんが泣くだろうしっ! あ、あたしはムリかなぁ、そういうの……!」
「オレはやる」
「えっ、ええーっ!?」
より多くのダンジョンを探索する為に、レベルアップももちろんだが、人員の確保と資金が必要だ。このまま二人で攻略を続けることは厳しい。
そうなると他にもダンジョンに潜るメンバーが必要になるわけだが、その時々で雇うとなると、金が要る。この前の妹尾組のように外で待機してもらうバックアップチームが不可欠な場面もあるだろう。
トレジャーハンティングを本気でやろうと思ったら、どう考えても金がかかるのだ。
何から手を付けたら良いのか、やるべきことはたくさんあるが、とりあえず紅子が学校に行く間、シオンはひたすら資金を貯める。
「ところでお前、さっきからうるさいぞ」
やたらと喚いているキキに、とうとうシオンは注意した。彼女は妙にあたふたとしている。
「シ、シオン考え直したほうが……アンタだってお父さん居るんでしょ?」
「父さん? 父さんには頼れないよ。オレはもう家を出てるからな。これはオレの問題だ」
「いやいやいや、シオンだけの問題じゃないよ……。紅子だって悲しむよ? たとえ付き合ってなくてもさぁ……」
「浅羽か……」
紅子は強いが、それはあくまで魔力に関してだ。その他の部分は、まだまだ未熟なのは仕方無い。
「でも、浅羽だけじゃ足りない」
「え……そ、そうなの……?」
きっぱりと言い放つシオンに、キキがなにやら複雑そうな顔をした。
「真面目なワーキャットだと思ってたけど、やっぱりワーキャットなんだ……。足りないって……そりゃ紅子は女としての色気には欠けるかもしれないけど、そんな言い方ってさ……。やっぱりシオンも、そういうとこは軽薄なんだね……」
シオンには友達はおろか知り合いさえも少ない。冒険者になって二年目だが、誰かと組んだときもその場限りの付き合いが多かった。知り合いにしても、それぞれの生活がある中、時間を割いて無償で手伝ってくれとは言いづらい。
同じ目的で動いてくれるパーティーが理想だが、シオンのように紅子の力になりたいから、という理由で動いてくれるものだろうか。
センターの冒険者たちを眺めながら、シオンはふうと息をついた。人間も亜人も男も女もみんな強く頼もしげに見えてくる。
「シオンは……好きな子のタイプとか、あるの?」
「リザードマン、ミノタウロス……やっぱり、いいな」
「ええっ!? そんな趣味がっ?」
キキの叫び声に、周囲の者たちが目を向ける。
シオンは気付かず、こんなに居るなら何人か手伝ってくれないものだろうか、と思った。
しかし、リザードマンやミノタウロスのような大柄で頼もしい戦士は魅力的だが、ダンジョンによってはその巨体が不自由になる場面もあるだろう。
「ああ、そうだ」
とシオンは顔を上げた。
「サクラはでかくなかったな。強かったけど」
「お、大きい人が好きなの……? 意外ね……」
「でかい奴もいいけどな……」
パワーファイターは戦闘で頼りになる。が、探索メインだと小回りが利くタイプのほうが良い。
その両立は難しいかと思ったが、桜のように小柄ながらパワータイプの戦士もいる。彼女は肉体強化魔法を駆使し、大剣を振り回していた。そうだ。なにも大型の亜人で無くとも、魔法戦士なら、俊敏さと力強さを両立出来るのだ。
贅沢を言えば、魔法系がもう一人欲しいから、剣も魔法もそこそこ使えるバランス型のルーンファイターでも可だ。
他に、ダンジョン探索に欠かせないスキルは何だろう。
「あとは……やっぱり、アンデッドだよなぁ……」
「ア、アンデッドぉっ!? それはいくらなんでも趣味広過ぎだろ!」
アンデッド対策。これは必須だ。
ある程度以上のレベルのダンジョンになると、絶対に多数のアンデッドが出てくる。霊媒士も欲しいが、実力を持ったまともなシャーマンは稀少だから、仲間にするどころか出会うのさえ難しい。でも、シャーマンは雇うと高いんだよな……とシオンは顔をしかめた。
「ゾンビはスケルトンは別にいいんだけどなぁ。アイツらはやりやすい」
「ゾッ……!? ムリッ! ムリムリムリムリっ!」
ぶんぶんぶんっ! とキキが手と首を振る。
「アレは臭いよっ!? ていうか死体だよっ!」
「アレならまだ、オレでもいける」
「いやいやいやいや!」
ゾンビやスケルトンは耐久力が高く倒しにくいとはいえ、物理攻撃が効く。しかし実体の無い幽霊系はファイターではお手上げだ。
「そっちにはいかないでよっ!? いっちゃったらあたし、シオンとは絶交だからねっ!?」
シャーマンがいればもちろん楽だが、ゴースト系に有効な退魔を紅子に覚えてもらえば、押しきれるか? 扱えるものは少ない高度な魔法だと聞くが、紅子なら何とかなるだろうか。
「いや、そうなると、浅羽の負担が大きくなるな」
「負担が大きいなんてもんじゃないよっ! 大きな心の傷を負うよっ!」
そこまでやらせると、高レベルダンジョンでの紅子の負担が高くなりすぎる。かといってソーサラーをもう一人、というのも難しい。ソーサラーはどこのパーティーでも引っ張りだこだ。もちろん雇えば高い。
ガンナーの退魔弾もあるが、あれは一発がすごく高いらしいから、コストがかかり過ぎる。よっぽどの金持ちじゃないと、手持ちでそんな弾を気前良くバンバンとは使ってくれないだろう。となると、結局こっちが金で用意することになる。
「あ」
そうだ、とシオンはまた顔を上げた。
これも、退魔剣を武器付与出来るルーンファイターなら、一回魔法をかければローコストで斬り放題だ……が、ルーンファイターは圧倒的にエンハンサーが多くて、エンチャンターは少ない……。
「やっぱり、人脈か……」
がくっとシオンはうな垂れた。
姉の何が凄かったのか、シオンは真に痛感した。短い冒険者生活であっても、彼女は本当に友人が多かった。彼女に心から力を貸しても良いと思ってくれる仲間が、たくさん居た。
シオンには、居ない。それは仕方がない。そうしようとしてこなかったのだから。
「シオン、さっきから何をぶつぶつ言ってんの?」
途中から心の声が漏れていたのか、キキが不気味そうな顔でシオンを見ていた。
「仲間が、欲しいんだ……」
「はぁ? 仲間の話だったの?」
顔をしかめながら、ほっとしたようにキキが声を上げた。
「ああ。やっぱり、パーティーを組みたくて」
他に金がかかりそうなぶん、メインパーティーは固定メンバーだと助かる。
強くて、予定を空けてくれて、何の得にもならないダンジョン探索に付き合ってくれる、そんなメンバーが。
……そうそう居るわけは無いかと、シオンはまた息をついた。
「人脈って、どうやって手に入るんだ……? 仲間を作るって、どうしたらいいんだろうな……」
同じ大変でも、金を稼ぐほうがシンプルでよほどやりやすい。
「そんなの、紅子がいるじゃん。それにあたしだってさぁ」
ふふん、と無い胸を張るキキに、シオンはゆっくりと首を振った。
「ダメだ。浅羽だけじゃ負担がかかり過ぎる……」
「オイこらぁぁっ! あたしをスルーしてんじゃねええええ!」
シオンのTシャツの胸を掴み、ガクガクと揺する。
「こら、やめろキキ……イテッ、イテッ! あっ……」
見かけによらず力の強いキキに激しく上半身を揺らされ、なにかに後頭部がガンガン当たっていると思ったら、真後ろに居る者の頭だと気付き、シオンは慌ててキキを引き剥がそうとした。
「わっ、悪いっ……いや、すみませっ……!」
「……痛い」
呟きが返ってきて、シオンはキキを叱った。
「オイ、こらっ! キキ、いい加減にしろ!」
「ウガアァァッ! あたしをパーティーに入れろー!」
「お前な……! ちょっと黙れ!」
「ふぎゃっ」
シオンのTシャツをぐいぐい掴み、恫喝してくるキキの額に、シオンはデコピンをした。
が、キキは軽く声を上げた程度で、その額の骨は硬かった。
「い、痛ってえっ!」
キキよりも大きな声を上げ、シオンは指を押さえた。指の骨が折れるかと思った。苦しむシオンの傍らで、キキが横髪を搔き上げ、憎たらしい笑いを浮かべた。
「ふん、ワーキャット殺しのキキちゃんをナメんなよ!」
「……恐ろしい二つ名だな」
背後から、静かな声がした。さっきから自分が頭をぶつけていた人物だとシオンは思い出して立ち上がり、振り返って頭を下げた。
「あっ……あの、すみませんでした!」
「いや、構わない。私と君の仲だ」
「え?」
「久しぶりだな、少年」
シオンが顔を上げ、目を見開いた。
「謝るなら周りにしたらどうだ? そのクソガキ、さっきから騒々しすぎる」
「あっ……!」
涼しい面立ちに、無造作に伸びたような髪。襟足がコートにかかり、後頭部を乱れさせている。
相変わらずの面倒くさげな顔つき。冷たく不躾に感じられる視線。
けれど、口ほど悪い人物では無いのを、シオンは知っている。
「サムライさん……!」
数少ない知り合いの名を、シオンはさっぱり思い出せなかった。
「君……私の名前、憶えてないだろう」
と白けた顔で言いつつ、さして気にした様子も無い。
「――誰がクソガキだぁぁぁ!」
ソファの背もたれに手をかけ、キキが身を乗り出す。掴みかかろうとしたその額に、サムライは先ほどのシオンと同じように、びしっ、と素早くデコピンした。
速い。相変わらず素早く遠慮の無い一撃に、シオンは感心した。
「痛いな、本当に!」
そして、やっぱりシオンと同じように指を押さえた。
ふーふーと息を吹きかける。
「マジで折れたかと思ったぞ……! どんな骨密度だ」
こんなに取り乱すサムライさんは初めてだ……とシオンはまたも感心した。キキの頭の硬さに。
「ぬりぃよ、ザコが。つーか、これがサムライなのぉ?」
キキは初対面の相手に思いきり顔をしかめ、じろじろと見つめた。自分の体を抱き、ぶるぶると頭を振った。
「いい大人じゃん……それでサムライとか……うわあ……さぶっ!」
好き放題言われている本人はいまだ指を撫でつつも、とりあえず気を取り直したようだった。口許に笑みさえ浮かべている。
「ふ……地元で最強のデコピニストと称えられた、私の指のほうが破壊しかけるとは、なんという石頭……いや、鉄頭か……」
「んな指壊れるほど本気のデコピン、大人が子供にかますんじゃねえよっ!」
グガァッ! と吼えるキキを指差し、シオンに尋ねた。
「これは、君の新しい武器か何かか? 生物兵器?」
「いや……コイツは」
「待ちな、シオン! 自分で名乗るよっ!」
キキはぴょんとソファから飛び降り、腰に両手を当て、足を大きく開いてふんぞり返った。
「おうおう、どうでえっ! リザードマンの名門・妹尾一族が生んだ世紀のアイドル・キキちゃんの頭蓋骨の味はよぉ! んな眠そうなツラしたドサンピン風情が勝てると思うなよ! 分かったら、とっととシマから出ていかねぇかっ!」
「誰のシマだ……」
すっかり周囲の目線が集まる中、盛大に啖呵を切って満足そうなキキに、シオンは思わず突っ込んだ。
「それは全然アイドルっぽくないぞ。減点100だ」
「言わせてやれ。可哀相な子なんだろう。その強靭な頭蓋骨と引き換えに、脳みその容量を犠牲にしたのだから……」
「テメエらぁぁぁぁ!」
――ポ、ポポポポポポポポポポーン!
突如、異様な電子音が響いた。いつもの呼び出し音が大音量で連打され、センター内の注目が一斉に窓口に注がれる。
耳の良いシオンやワーラビットなどは一斉に耳を塞ぎ、窓口近くに居た者たちは飛び上がった。
目の前のサムライ男に飛びかかろうとしたキキも、ぴたりと動きを止めた。
「センター内で騒ぎを起こすことは、周囲への迷惑行為にあたります」
連打していたのは、シオンにはお馴染みの静かなる受付嬢、岩永舞香だ。
すっと立ち上がり、シオンたち――特にキキを静かに見据える。
「ここに来れば、子供も大人も関係無く、皆一様に冒険者社会の一員です」
その言葉に、罪も無いミノタウロスの子供が慌てて姿勢を正した。
「突然の再会に喜ぶこともあるでしょう。パーティー内で揉めることもあるでしょう。滅多に見ない可愛らしい子が居たら思わず声をかけることもあるでしょう」
その言葉に、何人かの男冒険者が、さっと顔を伏せてしまった。それがよく紅子に気安く声をかけている男たちだとシオンは気付いた。
「ですが、何事にも限度はあります」
びしっとひっつめた髪に鋭い目つきが、人間ながらに厳格な祖母を思い起こさせ、キキも思わず息を呑んだ。
「今後、大人しく出来ますね?」
綺麗に爪の切り揃えられた指先で、眼鏡を押し上げる。その間、誰の声も無く、雨音だけが響くセンター内に、突然稲妻の光が煌いた。
「それとも……レベル、下がりますか?」
思わずその場に居た全員が、ふるふると首を横に振った。
その後、シオンたちだけが別室に連れて行かれた。
事務所内にある来客室で、岩永と、センターで催されるイベント以外ではあまり見かけないセンター長に、説教をされた。
「小野原くんも、一応ね。保護者の責任もあるということで」
白髪混じりの初老のセンター長が、にこにこと告げる。
「前にも、浅羽さんと騒いでたそうだし」
「はい……すみませんでした」
身に憶えのあるシオンは頭を下げながら、キキの頭を手で掴むと、一緒に下げさせた。
「ほら、お前も」
「うぐ……」
シオンはキキの祖母・静音の気持ちが少し分かった。
「や、悪気が無いのは分かってるよ。他の皆も、煩いといえば煩いしね。でも、一応ね?」
「はい。気をつけます」
「うん。分かってもらえればいいんだよ、ね。岩永さん」
「ええ」
眼鏡を押し上げながら、部屋の隅で姿勢良く立っている岩永が、頷く。
少し腹の出たセンター長が、よいしょ、とキキの前に屈み込むと、顔を覗きながら優しく告げる。
「よぉし、お兄ちゃんは約束してくれたから、キキちゃんも、もうしないって、お約束出来るかなぁ?」
「ぐうぅ……子供扱いしやがって……」
「キキ」
シオンはたしなめ、ぐいと頭を深く下げさせる。キキも素直に従った。
「ご、ごめんなさい……もう、しないよ……」
「うん。分かってもらえればいいんだよ。じゃないと、ここに来るときはいつもおじいちゃんになっちゃうからね。気をつけようね」
「ううう……!」
孫に甘い国重の笑顔をシオンとキキは同時に思い浮かべた。祖父は大好きだが、またリザードマンパーティーに戻るのはごめんだ。
「レベル下げるっていうのは、大げさだけどね」
「それは、困る」
シオンは真面目に呟いた。これから色々なダンジョンに行くなら、レベル上げは必須だ。キキも慌てる。
「あ、あたし、レベル1なのに、下がったらどうなるんだよ!」
「〈レベル・すごい〉になります」
岩永がさらっと答える。キキが甲高い声を上げる。
「〈レベル・すごい〉って何っ!?」
「夏休みの時期に、『冒険者センターを覗いてみよう』という子供向けの見学イベントをやっています」
電気の光を眼鏡のレンズに反射させながら、岩永はクールに言った。
「特に面白くは無いセンター内部を冒険し、センター長の長い話を聴き終えたチビっ子冒険者たちに、帰りにお土産として個別に渡すカードと、同じものを妹尾様にはお渡しします。そのレベルは〈すごい〉です」
「いやだぁぁぁぁ!」
シオンはぷっと吹き出してしまったが、キキは手足をジタバタとさせた。
「はは、いいじゃないか。〈レベル・すごい〉。貰っておけばいい」
一緒に呼ばれたサムライが、壁に背に預け、口元を歪めている。煽られて、キキはいっそう激しく地団駄を踏んだ。
「そんなの欲しくないぃぃぃ!」
「柊くんも、小さい子を煽るのは良くないよ。ね?」
人の良さげなセンター長が、やんわりとたしなめる。
「せっかく、新宿センターに登録を移してくれたばかりだし、皆で仲良くやってほしいなぁ。最近うちのセンターの雰囲気も良くなってるしねえ」
「はぁ」
とサムライは気の無い返事をした。
「私はそもそも後頭部をゴツゴツされた被害者だが……」
「それは、すみません」
保護者としてシオンはすかさず謝っておいた。
「ま……留意しよう」
「ありがとう。留意してね。柊くんもね、次にレベルが下がったら、最悪、冒険者活動停止だからね」
「えっ!? ほんとにレベル下がったのか!?」
「やっぱり下がるのぉぉっ!?」
シオンは驚愕に満ちた表情で、目の前の青年の顔を見上げた。キキは泣きべそをかいている。
「〈レベル・すごい〉はヤだぁぁぁぁ!」
「そんなことって、あるんだ……」
レベルダウンなんて、本当にあるのかとシオンは驚いた。よくある真偽のほどは分からない冒険者の噂の一つだと思っていた。
「無くはないよ」
とセンター長がにこやかに言うが、にこやかな話でも無い。何か違反を犯したという証だ。
だが、当の本人は平然としている。
「ああ、ペナルティでな。株価みたいに上がったり下がったりして、今結局レベル幾つだったかな……20くらいかな?」
「上がったり下がったりする人がそんなに高いわけありません」
岩永が答える。
「あ、そう」
この二人、どちらもほとんど無表情なので、喋っているだけで変な威圧感があるな、とシオンは思った。
たしか、彼のレベルは8じゃなかったか、とシオンは名前は憶えていないのに、そのレベルだけはすんなり思い出せた。あんなに強いのに、と思ったからだ。
もっとも、強さとレベルは比例しない。強くても仕事をあまり受けない者もいるだろう。そうなると単純に仕事評価であるレベルは上がらない。しかし、あまり仕事しないのに強い、というのは珍しくもある。冒険者の強さはやはり実戦――仕事の中で培われるのだ。
だから、変わっているとは思った。一体、どんな生活をしているのだろう。
「まあいい。とにかく、そういうことだ」
彼は本当に、まったく気にしていないようである。
この人も自分のレベルに興味は無いタイプのようだが、シオンより酷い。
「でも、レベル下がるほどのペナルティって、一体……?」
よほどのことをすれば、レベルダウンよりも資格剥奪となる。だから、彼は犯罪を犯したわけではないはずだ。
「つまらん奴とは組めん。それだけだ」
シオンの疑問に、そう簡潔に答えた。まったく答えにはなっていないが、仲間割れの類だとすると、考えられるのは危険な状況での置き去りだ。
それも一度では無く、何度も通報されないと、レベルダウンまでは至らないだろうが。
確かに彼は変わった感覚の持ち主で、独特の美学があった。シオンもそれに反発したりもした。
だが、意見は違っても、彼の筋は通っていた。
態度も口も悪いが、内面には弱者に対する優しさを持っていた。驚くほど強いが、自分以外の生き物に対する敬意があった。
変わり者だが、悪い人じゃない。そうシオンは彼を評価している。
たとえ短い間でも、互いの命を預け合って分かることがある。それには過ごした時間の長さなど関係無い。紅子とだって、キキとだってそうだ。
シオンの好き嫌いでしかないかと言えば、そうなのかもしれない。だが、根拠は無くとも、シオンは彼は良い奴だと思った。
あのときの戦いで、彼はたしかに心強い味方だった。
「……な、長かった……!」
廊下に出たキキが、げんなりした顔で呟く。
それから、センター長が語る『冒険者の心得』をたっぷり小一時間聴いて、三人はようやく解放された。
「ね、それで、あ、悪党なの? コイツ……」
レベルダウンの話を聴いてから、キキは謎のサムライ男を警戒しているようだ。シオンの腕を抱き込みながら、リザードマン丸出しでガーガーと唸っている。
シオンはキキの頭にぽんと手を置き、すぐに否定した。
「そんな人じゃない」
「当然だ」
シオンの言葉に彼は頷いたが、何をしでかしたまでは言わなかった。
強い冒険者には、弱い者を見下す者も多いが、少なくとも彼は相手が弱いという理由では切り捨てる人じゃない。そうシオンは思った。そんな人につまらないと言わせるのだから、おそらく相手は本当につまらない、筋の通っていないことをしたのだろう。あのときの密猟者たちのように。
「キキも、あんまり噛みつくなよ。この人は別に悪い人じゃないし、先に騒いで頭をぶつけたのは、オレたちだろ?」
「ま、まあそうかもしんないけど……」
「ちゃんと謝れ」
「う……」
キキはちら、とサムライを見た。腕を組んでキキを思いきり見下ろしている。身長差があり過ぎるので仕方無いが、見下されているような気がした。
「キキ」
シオンが強い口調で言う。シャクだが、キキはむすっとした顔で、軽く頭を下げた。
「……ごめんねっ!」
どう見ても拗ねた謝り方の子供を、サムライは白けた目で見やった。
「ふむ。まあ、いいだろう。ガキのすることだ」
しれっとした態度の男に、自分もその子供を本気で相手したくせに……とキキも内心では思いながら、これ以上シオンに叱られたくないので、口をつぐんだ。
「少し落ち着きを持てよ。じゃないと今後、国重さんたち以外の他人とパーティーを組むのは難しいぞ」
「う、わ、分かってるよ……!」
「まずは辛抱強くなれ。すぐにとは言わないから。カッとなったら、一回ごっくんしろ」
「なに? ごっくんって」
「父さんに習ったんだ。オレも小さい頃は、かんしゃく起こすことがよくあったらしい。だから、腹が立つことがあったら、まず一度落ち着く為にそうしろってな。何も食べてなくてもごっくんして、怒りを飲み込むんだ。今度からやってみろ」
「ええー……あたしはそんなに子供じゃないもん」
ぷうと頬を膨らませ、バタバタと腕を振る。その幼い仕草に、シオンは小さく息をついた。
「ま、憶えておいて、次やってみろよ」
その様子を見ていたサムライが、ふむ、と一人で頷いた。
「君、ちょっと雰囲気変わったな」
「え? そうかな」
「前に一緒だった爆発娘はもう連れてないのか? 女を変えるのが早いのは、さすがワーキャットと言うべきか。にしても小学生を連れてるのは、ちょっとどうだろう」
「ごっくん」
キキが黙って何かを飲み込んでいた。
よしよし、とシオンはその頭を撫でると、笑って言った。
「浅羽は学校だよ。コイツは友達だ。それから、オレと浅羽も友達だから」
「紅子がここに居なくて良かったって思うよ……」
あまりにも爽やかな友達宣言に、紅子のことを哀れに思ったキキは、怒りさえも忘れた。
「でも、こんなとこでサムライさんと会うなんて思わなかった」
「そうだな」
と肩を竦め、いい加減暑苦しそうなモッズコートのポケットに手を突っ込む。
「私はセンターに入って、すぐに君に気付いたぞ。これは驚かせてやろうと思って、後ろに座ってワクワクして待っていたんだが、全然気付いてくれなかったな」
「そうだったのか。ごめん」
「シオン、これは謝るとこじゃなくて、ツッコんであげるべきとこだと思う」
キキがシオンのTシャツの裾を引っ張り、小声で言う。
「そうだな。ここはツッコんでくれないと、私がちょっと気持ち悪い人になってしまう」
「気持ち悪いけどね」
うんうんとキキが頷く。そこは華麗にスルーして、サムライはシオンを見やった。
「サムライさんも、新宿センターだったのか」
「いや……登録を移したんだ。最近な。ところで、少年」
「ん?」
「やっぱり私の名前、忘れているよな?」
「……いや、そんなことは……」
シオンの背中に冷たい汗が流れた。乾いた笑いを浮かべながら、何となくぼんやり浮かんでくる似たような名を、脳裏に浮かべては消す。たしか、侍っぽい名前ではあった。ゴエモン、シンエモン、ソウジロウ、センベエ……。
「あ」
シオンははっと顔を上げ、呟いた。今のあたり、かなり近かった。
「ま、ワーキャットだからな。何も不思議じゃない。人の名前を憶えても忘れる。昨日食べたものも忘れる。外出時に家の戸締りをしてきたかも忘れる。大事な約束でも忘れる。君らは、そういう奴らだからな……」
そう言ったとき、無感情に見える顔が、少し翳った。
「そんなこと無いよ。オレ、アンタのことはよく思い出してた」
キキが二人の話に入れず、退屈そうにシオンの尻尾を掴んだり引っ張ったりしている。
「ほんとに、強かったから」
親猫が仔猫にするように、尻尾を動かしてキキと遊んでやりながら、シオンは言った。
今までプロと思える冒険者たちを何人も見てきたが、単純な戦闘力でいうなら、彼は出会った戦士たちの中でトップクラスの強さだと断言出来る。
あの巨大な鬼熊を一刀両断し、高校時代には桜と拮抗する力を持っていた。強さに厳しい彼女がその腕を認めていたのだ。それほどの剣士だ。
それに――忘れるわけはない。自分だって、腕に自信が無いわけではないのだ。
特に、速さで人間に遅れは取らないはずだった。そんな自負があった。にも関わらず、一瞬でダガーを弾かれたときのショックを、シオンはちゃんと憶えている。
「本当に、久しぶりだな、ゴンベエさん」
「ああ」
と彼はかすかに頷き、ふっと笑った。
「……そんなに露骨に名前思い出せて嬉しいって顔されると、違うって言いにくいんだが……」
――すっかり、遅くなっちゃった……!
学校でキキからのメールを受け取った紅子は、新宿に向かっていた。
シオンとセンターに居たらしい。合流したら原宿か渋谷に出て遊ぼう、という誘いに、どうして原宿か渋谷? と思ったが、ちょうどアルバイトも無いし、シオンとキキと会えるのなら、場所はどこでもいい。
学校で友達と過ごすのも楽しいが、冒険者仲間と会うのは、また違う楽しさがある。ワクワクすると言ったら、彼らは命や生活がかかっているのに不謹慎かもしれないが、なんだか放課後のサークル活動みたいだ。
この前は死にかけたのに、こんなこと考えるのって、ダメかなぁ……。
先日の獣堕ちとの戦闘のことを、軽く考えているわけではない。真剣さが足りないからそうなるのだと透哉にも叱られた。
だから、あれから魔法の練習もしている。詠唱式も少し覚えた。ただ、《浅羽式詠唱法》と書かれた祖父のノートに残された詠唱式は、どうにも長過ぎる気がする。安定した出力は出せるけど、もっと速く発動したほうが、実戦的じゃないかなあ……と紅子は思った。透哉お兄ちゃんは、自分は才能が無いから、下手に教えて変な癖を付けたくないと言い、あんまり教えてくれないし。
魔法塾とかゼミとか、たまに見かけるけど高いんだろうな……。
そんなことを考えながら電車に揺られていると、あっという間に新宿に着いてしまった。
紅子はバッグと傘を手に電車を降りた。
地元からあまり出ない紅子に、新宿駅は広い。いつもきょろきょろしながら歩いてしまう。せっかく来たついでにブラブラしてみようとしては、よく迷っていた。そう言ったら、シオンが改札まで送ってくれた。地元は同じなのに、小野原くんはもうすっかり都会の人なんだね……と遠い目で思ったものだ。
昼の新宿は酷い豪雨だったようだが、夕方になって小振りになっているようだ。それでも濡れそぼった者たちが大勢行き交うので、どこもかしこも湿気がすごい。
「あー、マジだりーわ」
「わざわざ出て来てこんなヒデー雨になるとかよ」
「つーか駅広すぎ。ダンジョン過ぎ」
構内でわいわいガヤガヤと話す一団とすれ違い、紅子の目が釘付けになる。
一言で言うと、チャラチャラしたヤンキー風の若者たちである。それ自体は珍しくも無いが、全員その頭にぴょっこりと猫耳が生え、ジーンズやジャージのズボンからプラプラと動く尻尾を覗かせていた。
ワーキャット軍団だぁ……と紅子はつい彼らを見つめてしまった。
初恋の男子がワーキャットだった紅子は、以来その影を追うように、ついワーキャットの男性アイドルにハマってしまったこともあった。
もちろん、小野原くんが一番だけど……と思いながら、自然と彼らを微笑ましく見てしまう。耳と尻尾が無ければただのチンピラ風の男たちなのだが、容姿はそれなりに整った者が多い。一様に細身で、背はあまり高くないが、小顔で手足がすらりと長い為、いやにスタイルが良く見える。
紅子の他にも視線を送っている女性がいる。これは、仕方無いよね……そう思いながら、あまり不躾にじっと見過ぎないよう、紅子はさりげなく目の保養にいそしんだ。男の子だってスタイルが良くて、美人な人をついつい見てしまうのと、一緒だと思うの。見るのはタダだし。
「あー、尻尾濡れちまった」
「こーゆーの、なんだっけ。骨折り損のクソまみれ?」
「ちげーよ。きったねーな、バカ。ダンジョンの奥で死ね」
うーん……見かけは素敵なんだけどなぁ……と、紅子は微笑ましく見つめつつも、会話はそっとシャットアウトした。
ワーキャットと言っても、シオンとはずいぶん違う。
ゲラゲラと笑う一団は、見た目は良くても近寄りがたい。もったいないなぁ。どうして男の子はああいうのがカッコいいって思うのかな? ヤンキーの先輩がカッコよく見えたのは中学くらいまでだ。突っ張ってても雨の日にそっと小犬に傘を置いていくような不良少年は、漫画の中にしかいないのだ。なので現実的な女子のほうが早く醒めてしまう。
彼らももっと振舞いが爽やかだったら、アイドルみたいなのに。やっぱり、小野原くんは大人っぽいよね、と彼がキキとセンターで騒いで説教されたばかりだと知るよしも無い紅子は、心の中でそう締めくくった。
「テメーら、あんまはしゃぐなよ」
中の一人が、ぶっきらぼうに言うと、笑いが止まった。
――そうそう、小野原くんもよく知らなかったらぶっきらぼうに見えるかもしれないけど、本当はシャイなだけで、とっても優しいもんね。そもそも、私のワーキャット好きのきっかけは小野原くんだ。その本人と一緒に居られる今となっては、他のワーキャット男子を見ても前ほどときめかない。見るけど。
彼らとすれ違うとき、一人のワーキャットの足が、紅子が持っていた傘に引っかかった。濡れて滑り安い床に、サンダルを履いた男がすてんと転んだ。
「いってえ!」
「ぎゃはははははは! 何してんだ、リョータ!」
「マジダッセえ!」
「ああっ、ごめんなさい、ごめんなさい!」
一団がまたゲラゲラと大声で笑い出す。その周囲を、人々はあまり関わり合いにならないよう、円を描いて通り過ぎていく。
転んだ少年が顔をしかめ、尻尾を激しく振りながら、パンツが見えそうなほど緩いジャージを履いた薄い尻を、痛そうに撫でる。
周囲がゲラゲラと笑う中、紅子は転んだ少年の傍らに跪いた。明るい茶髪に、つり目の可愛い小顔の少年だった。おっ、ちょっと小野原くんっぽいね! と条件反射的に思ってしまうワーキャットマニアの紅子を見て、彼はぱちくりと瞬きをすると、それからまた顔をしかめて大げさに痛がりだした。
「ああー、いってえ! マジいってえ! ケツが割れた!」
「えええええっ!?」
と紅子はびっくりして口許を手で覆った。
「わ、割れたんですかっ? た、大変っ!」
「いや、そいつのケツは元々二つに割れてっから……」
別のワーキャットが突っ込む。が、リョータと呼ばれたワーキャットは、尻を擦って痛がった。
「ヤベえッ……割れたらもうクソも出来ねえ……!」
「割れてねーと出来ねーよ」
「あわわわわ! す、すみません! と、とりあえず治さなきゃ!」
紅子はあたふたと彼のジャージに手をかけ、思いきり下ろそうとした。
細いウエストにユルユルのジャージは、公衆の面前で簡単にずるりと剥け、下着ごと彼は割れ目を晒す羽目になった。
「わー! 何すんだ!」
「患部を見たほうが治しやすいからです!」
力強く、紅子が答える。その勢いに、ワーキャットの少年は尻を半分出しながら、紅子から逃れようと床を這って逃れようとした。
「逃げないでください! 割れたところをくっつけますから!」
「バッ、バカ! 冗談だよ、冗談! ケツくっついたら困るよ!」
「ハハハッ、なんかおもしれーぞ」
「ちょっと、助けてくださいよ! なんだ、この女!」
慌てるリョータを、助けるどころか周囲はにやついて見守っている。
「良かったなー、お前、この子のことナンパしよーとしてたんだろ?」
「いやでも、この女なんかヘンっすよ!」
紅子にジャージを剥かれながら、リョータが叫ぶ。他は腹を抱えて笑った。
その騒ぎを止めたのは、一人だけまったく笑っていないワーキャットだった。
「オイ、はしゃぐなっつってんだろーが」
さっきぶっきらぼうな様子で、仲間を注意していた男だ。
赤茶けた髪に、同じ毛色の耳。ワーキャットは耳とのバランスを考えてか、髪を長めに整えていることが多い気がする。シオンも癖のあるミディアムヘアだが、彼はそれより少し短めだ。
高校生くらいに見えるが、若く見えがちなワーキャットの実年齢は、若者なら見た目からプラス二歳くらいで考えればちょうど良い、と何かで知ったので、おそらく二十歳前後だろう。童顔だが精悍な顔だち。印象的なのは、くっきりとつり上がった眉と、それに合わせたかのように目尻の上がった目だ。色はシオンの金目よりも少し濃い、明るい茶色。
他の者と同様に細身だが、明らかに体つきが違う。Tシャツを着た肩幅は案外広い。そして腰がとても細い。しなやかで俊敏そうだ。紅子は格闘技は詳しくないが、小柄なボクサーみたいだと思った。小野原くんは時々すごく痩せているときがあるから心配だけど。
目線からいって、背はシオンより少しだけ高い。
――もはやワーキャットと見れば、自然にシオンと比べてしまう紅子であった。
「こんなとこまで来て、恥晒してんじゃねえぞ」
男は一層低い声で告げた。
その一喝で、仲間たちは再び大人しくなった。
険しい顔つきのまま、ジャージのズボンを尻の下まで下げられた仲間を、冷たい目で見下ろす。
「リョータ、テメーはいつまでそこでくつろいでんだ? ここはテメーんちかよ?」
「す、スイマセン!」
リョータは慌ててジャージをずり上げながら、濡れたサンダルでまた滑りそうになりながらも、素早く立ち上がった。
「あのー、大丈夫ですか?」
と尋ねる紅子に、不機嫌そうなワーキャットが代わりに言った。
「気にすんな。あんなモン履いて歩いてるほうが悪い」
やや小柄だが、ボス猫……もといボスワーキャットの貫禄を持っている。彼がこの群れのリーダーなのだ、と紅子もすぐに分かった。
背丈は他の者たちもそうだが、シオンより少し高いくらいか、あまり変わらない。ライトと呼ばれるシオンのようなワーキャットたちは、より猫らしい全頭より小柄な傾向にあるという。
「アンタも立ちな。んなトコ座り込むと、汚ねえぞ」
そう言い、紅子が助け起こしてくれた。見た目や口調から想像つかない親切さに、古い少女漫画に登場する、不良だけど実は心優しいヒーローを思わせた。一時期ハマって、納屋で叔母さんの蔵書を読みあさっていたのだ。
「うちのバカが、悪かったな」
「いえ、こちらこそ、ごめんなさいっ!」
ぺこりと頭を下げる紅子に、男は素っ気無く返した。年上だとは思うが、顔つきはまだ若い。ちょっと不良な先輩、という言葉がしっくりくる。
「気にすることはねーよ。悪いのは、余所見して歩いてたコイツだ」
「てっ!」
拳で頭を小突かれ、リョータが声を上げる。そのまま頭を掴んで、ぐいと下げさせられる。
「オラ、詫びろ」
男の両手首にジャラジャラと巻かれたブレスレットが、紅子の目に入る。すべてに安物の魔石が編みこまれていた。精神魔法対策かな? と思った。同業者かもしれない。
「セイヤさん……ス、スイマセン……」
「オレにじゃねえだろ」
もう一度軽く小突かれ、リョータは紅子に向かって頭を下げた。
「あの、スイマセンでしたっ!」
「いえいえ、私こそ……」
謝罪を受けつつ、怒られた尻尾がしょぼんと垂れてしまうのがとても可愛い。紅子は内心ほっこりしていた。
「でも、お尻は大丈夫ですか? 割れたとこ」
「え? あ、ハイ。大丈夫スけど……」
「ケツは元から割れてるだろ」
とセイヤと呼ばれたワーキャットの言葉に、紅子はぺたぺたと自分のスカートの尻を撫で、ああ! と気付いて声を上げた。
「そういえばそうですね! 私も割れてました!」
あはは、と笑って頭を搔く少女に、ワーキャットの群れは沈黙した。ノリの軽い彼らでも、どう反応していいのか分からなかった。
「良かったぁ。でも、ほんとにごめんなさい」
傘をぶつけたうえ、ボスに怒られてしまったリョータに、紅子はもう一度ぺこりと頭を下げた。彼はこの中でもきっと若いほうだ。怒られて、子供のようにしおらしくなっている。紅子と同じくらいか、年下かもしれない。
「あ、いや。オレのほうこそ。サンダルだし……」
「床、ツルツルだもんね。気をつけてね!」
「あ……はい」
顔を上げた紅子がにこりと笑うと、リョータは顔を赤らめた。
「絡んで悪かったな」
そう詫びたセイヤが、紅子のスカートに目を止めた。ふわりとしたロングスカートは、大勢が行き交う中、泥交じりの雨水で濡れた床にしゃがんだ所為で、あちこち汚れてしまっていた。
彼はジーンズのポケットから札入れを出し、中から千円札を五枚取り出した。
「悪りぃ。こんだけしか持ってねえや。クリーニング代の足しになるか?」
「えっ? こんなの、ぜんぜん大丈夫ですよ。このスカート自体、ニィキュッパですし!」
紅子はピースサイン付きで答えた。
「じゃあ、代わりの買えよ」
「いえいえ、ほんとに大丈夫ですから。いまどきの洗剤のパワーはあなどれないですよ!」
会社の回し者のような言い方する紅子だったが、セイヤは気にかかるようだった。
「けどアンタ、今からどっか出かけるんだろ?」
「ほんとに、ご心配無用です! 服装なんて気にしない気さくな友人たちですから!」
あくまで笑顔で丁重に断る紅子に、セイヤは耳を動かしながら、小さく笑った。
「そか。アンタのダチなら、いい奴らっぽいな」
そう言い、千円札を仕舞う。
「じゃあ、ここは甘えさせてもらうぜ」
「いいえー」
「引き止めて悪かったな。――テメーら、行くぞ」
「あっ、ハイ!」
そう言って背を向けたセイヤのタイトなジーンズから伸びた尻尾を見て、あれ? と紅子は目をぱちくりとさせた。シオンや他の者のように、長い尻尾では無く、途中でぶっつりと切れたように、短かった。
猫は様々な形の尾を持つが、ワーキャットの尻尾はほとんど長い。生まれつき短尾のワーキャットは稀である。なので、尻尾が短い者は、ほとんどが事故で失っていることが多いのだ。
痛々しく感じられる短い尾は、他の者の尻尾ほど豊かに感情を表現しない。むすっと不機嫌そうだった彼の顔と同じように、静かだった。
「さよならー!」
立ち去っていく自分たちに、人間の少女は元気で気持ちの良い挨拶をし、手を振っている。
そして、ポニーテールに結った長い黒髪をふわりと揺らし、外に向かって急いで歩いて行く。その後ろ姿を、リョータだけはぼうっと見送り、その残り香をくんくんと嗅いでいた。
「いまの子、超……いい匂いだったなぁ……」
「あー、そーかよ。ケツまで見てもらえて良かったな。行こーぜ」
「マジでしょーもねーナンパの仕方だったよな。どうりでコイツが突撃隊長だと、女ひっかかんねーわけだよ」
他のワーキャットは口々に言い、先に歩き出した。
「……しっかし、センターの奴らもシケてますよね。登録情報くらい、ちょっくら洗ってくれりゃいいのに」
「だよなー。冒険者はけっこう気軽にカード見せ合ってんのにな」
「仕方ねえだろ。足で探すしかねえなら、そうするまでだ」
一番先を歩くセイヤが、静かに答える。彼がそう言うと、それ以上の軽口は叩きにくい。彼の尻尾は感情を表現しないため、その気分は表情や声で判断するしかない。今はあまり機嫌が良くない。いや、彼が機嫌が良いときなど、ここのところずっと無い。こういうときは、要らないことは言わないに限ると、付き合いの古い者ほど分かっている。
それを心得ている一人が、声をかけた。
「でも、新宿で間違いなさそうですね、セイヤさん」
「ああ」
「あとは、会えるまで待つんですか? またここまで来て?」
「だから、別に来なくていいつってるだろ」
後頭部を手でぐしゃぐしゃと掻き、セイヤが答える。機嫌が悪いときの仕草だった。湿気で髪も耳も濡れている。ワーキャットのほとんどが、こういう天気が嫌いだ。
「オレは勝手にやっから、もうお前らはついて来なくていーぜ」
「いや、オレらも手伝いますよ。ソウさん見つかるまで」
人ごみの中で気ぜわしく動いていた赤茶色の耳が、ぴくりと動きを止めた。一人の男の名を口にした所為だ。
「……ゾロゾロつるんでると目立つんだよ。いいからもう、お前らは地元居ろよ。こっちの奴ら、あんま刺激したくねーし」
「だったら、オレらだけで探しますよ。つーか、あの、今はシリンさんの傍に居てあげたほうが」
「アイツは心配ねえよ。別に病気じゃねえし。昔から、体だけは丈夫だからな」
ふーと息をつき、ジーンズのポケットに手を突っ込む。けだるげな表情の中で、目つきだけが鋭い。耳はしきりに動き、大勢の足音を拾っている。これだけの中にあって、いつも聴いていた男の足運びだけは絶対に聴き分けられる自信があった。
だが、居ない。
眉間に深い皺を刻みながら、チッと舌打ちをした。
「あの野郎……いつまでも、コソコソと逃げ回りやがって……」
ワーキャットの若者らを引き連れた青年が、独り言のように呟く。
苛立ちを含んだ口調に、彼が酷く憤っていると分かる仲間たちは、さっきまでの騒々しさを潜めている。
「ソウの奴、見つけたら、タダじゃおかねえからな」
強い意志を感じさせる瞳には、仲間の誰も気づいていない僅かな翳りがあった。