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迷宮のドールズ  作者: オグリ
二章
28/88

決意

 体が重い。腰が痛い。それにとても寒い。

 体の下がぐっしょり濡れている。もしやとうとう寝小便を……と思ったら、異様に生臭い。そうか、血だ。怪我をして、血を流しているのだ。

 そうだ、戦っていたのだと、国重は思い出した。

 久しぶりの激しい戦闘に、以前ほど体は言うことを動かず、踏ん張りがきかないことに驚いた。一族の誰より逞しく、持て余すほどのパワーに漲っていた肉体は、錆びついた機械のように軋んでいた。

 一番の敵は、リザードマンでもワーキャットでも無かった。老いた体とそれをすっかり忘れていた自分自身だった。いつまでも若いつもりで、おのれを過信していた。

 まさか、こんなに衰えておるとはのう。ダンジョン探索も、思ったより堪えた。

 若い頃は建設現場で働く傍らで、冒険者の仕事など休日のピクニック感覚で行ける、ちょっとした小遣い稼ぎだった。どんなダンジョンにも潜ったし、どんなモンスターもぶっ飛ばしてきた。

 ――若かったのう……あの頃が懐かしいわい。

 あんな若造の獣堕ちに遅れを取るとは、ワシも歳を取ったモンじゃ……と寂しく思った。

 ――歳は、取りたくないのう……。


 さっきから、子供が泣いている。はて、何処の子じゃったか。それにしてもよく声の張った泣きっぷりじゃ。この子は、とても逞しいリザードマンになるぞ。

 薄れゆく意識の中、酷く重たかった体が、突然ふっと軽くなった。

 さっきまであんなに苦しかったのに、誰かが体に触れたような気がしたら、急に楽になったのだ。

 誰かが手のひらで、傷ついた体をゆっくり撫でてくれている。すると布団に湯たんぽを入れてもらったように、体が温まっていった。おお、助かるのう。ここのところ冷えると腰に響いてたまらん。ありがたいのう。バアさんかの? いやいや、バアさんはこんなに優しくないぞ。


 ――ああ、そうじゃ、お母ちゃんじゃ。

 夢うつつの中、触れる手のひらの感触とそのぬくもりが、母の手を思わせる。随分昔に看取った母親のことを、国重は久々に思い出した。

 様々な鱗の色を持つリザードマンの中で、非常に珍しい生まれつき金色の鱗を持ったリザードマンだった。

 その温かさと柔らかさに身を委ね、国重はいつしか少年に戻っていた。

 幼いころの国重はやんちゃで、大変な暴れん坊だった。悪さをして帰ってきては、父親に厳しく叱られた。蔵に押し込められメシ抜きにされた後、迎えに来るのは母親の役目だった。泣く国重を、こうして優しく撫でてくれた。


 ――お母ちゃん、柔らかい手じゃのう……。

 誰しも、いつまでも子供のままではない。やんちゃな少年も真面目な青年となり、父について一族の仕事を覚えた。

 その建設現場での作業中、崩れた鉄筋から仲間を庇って、父は死んだ。まだ若衆でしか無かった国重が、早々にその跡を継ぐこととなったが、当然、上手くいかないことも多かった。元々うっかり者なので、たくさん失敗もした。

 そんな国重に、踏ん張れ踏ん張れと声をかけてくれたのが、母だった。いよいよくじけてしまいそうなときには、誰も見ていないところでいつまでも子供のように撫でてもらったものだ。

 やっぱりこれは、お母ちゃんの手に似ておる。ちいと小さい気もするが、死んだときのお母ちゃんはずいぶん小さくなっておったからのう……。

 どれだけ歳を取っても、母親には弱い。国重は泣きたくなった。妹尾のリザードマンを束ねる親分では無く、一人の男になっていた。


 やがて体だけではなく、周囲までぽかぽかと暖かくなってきた。

 まどろみの中、国重は自分が柔らかい土と、クッションのような植物の上に横になっているのだと気付いた。

 これは、甘い蜜の匂いだのう。それに、風が優しい。春だ。

 国重はそっと瞼を開いた。


 ――おお、ここは!

 懐かしい、子供の頃によく遊んだ場所ではないか。

 幼い頃には珍しくなかった、どこまでも広がる田んぼの風景。田起こし前には一面にれんげが咲き、花畑になるのだ。

 じゅうたんのように広がる白とピンクのれんげの中で、国重は大の字になって寝転がっていた。青い空に白い雲が流れている。

 そう、友達といつもここで遊んでいた。おなごたちは花を詰んだり花輪を作っておった。初恋の女の子にそっと近づいて、背中に蛙を置くイタズラをすると、きゃーと逃げ回るどころか力強い尾でぶっ叩かれた。リザードマンは女子のほうが気が強い。

 今はもう潰されてマンションが建っているが、思い出の場所にまた来られるとは思わなかった。


 ――ああ……そうじゃ、ここは、ワシが子供のころ遊んでいた、そして青年になって、バアさんにプロポーズした場所じゃ。

 静音は東北で苦労して育ち、家族に仕送りをする為、出稼ぎにやってきた娘だった。女だてらに鉱山でつるはしを振るう逞しさとけなげさに惚れた。今でこそ高級な着物とごついエメラルドの指輪で姉御然と決めているが、あの頃は贅沢を嫌い、金のかかったプレゼントなど逆効果で、こんな花畑に連れてきてやるほうがよほど喜んだ。半端無く気の強い娘だったが、穏やかな母親と気が合った。あいつも年老いた母ちゃんを、最後までよう面倒看てくれた。

(あたし、正直言って、国重さんはぜんぜん好みではありません)

 若くきりっとした声が、花を揺らす風に乗って届く。

(国重さんは、優し過ぎます。それにまったくドジ過ぎて、目が離せませんわ)

 あのときはフラれたと思ったのう。俯いて涙を懸命に堪える国重の手を、静音が優しく取った。

(だから、国重さんとではなく、妹尾一族と結婚するつもりで、嫁ぎます。国重さんが出来ないことは、あたしがやりますから)

 まったく、バアさんの言う通りじゃった。

 ワシはお母ちゃんと一緒で、誰かを叱るのがどうにも苦手じゃ。ドジで馬鹿で短絡的で、父のような親分の器では、本当は無かったのだ。

 それにしても、懐かしい風景というのは、どうしてこうも胸を揺さぶるのだろう。あの花畑で、もう一度こうしていられるとは。


 このまま、ずっと、ずうっと、ここにおりたいのう……。

 だって、こうしておると、ここはまるで……。


 ――ヤバい! これは絶対、天国じゃな!

 いきなり我に返り、国重はガバッと起き上がった。慌てて花を搔きむしり、土を掘り出す。

 ――なにが、懐かしい花畑じゃ! んなわけあるかい! いかん、いかんぞい! ワシには残してきたモンがいっぱいある!

 一族の皆。怒りっぽいバアさんに、息子たち。嫁いでくれた義娘たち。まだまだ教えることのある若い衆。身重の娘らに、可愛い孫やひ孫。手塩にかけて育てた盆栽。庭に棲みついてしまった犬猫。そしてなにより、なによりワシの黄々ちゃん!


 ――待っておれ、黄々ちゃん! 妹尾国重、今より現世に舞い戻る!

 咆哮を上げ、思い出のれんげ畑に土を撒き散らしながら穴を掘っていると、そこに一つだけ紛れ込んだ、黄色い花に気付き、はっと手を止める。


 ――これは……。

 たくさんのピンクと白の中で、ぽつんと咲いた黄色い花は、紛れ込んでしまった小さなたんぽぽだ。その花が、国重にまた別の思い出を蘇らせた。

 ……黄々ちゃんが、人間の学校に行きたいと言ったのは、当然じゃろうのう。母は、人間だったのだから。

 キキの母は、お義父さんお義父さんと慕ってくれた、可愛い義娘だった。

 かつてバレーボールの選手だった人間の女性で、190センチと非常に長身だった。人間の男などほとんど見下ろしてしまう。

(あたしね、子供時代からそうだったの。デカ女だったからね、自然と大柄な亜人の男の人が好きになっちゃった)

 そう言って笑っていたが、年頃の娘には辛かっただろう。実業団を引退後、美しかった彼女はモデルに転向したが、華やかな世界は肌に合わずかねてから憧れていた冒険者の世界に飛び込んだ。

 今より人間の女性冒険者が少なく、彼女たちには厳しい時代だった。だが、偏見に耐える力と、スポーツ選手上がりの体力とガッツを持っていた。

 数年も経つと同業者は彼女を認めるようになっていた。《クイック撃ちの由美ちゃん》といえば、川崎センターに通う中年冒険者なら今も覚えている者も多いだろう。

 積極的で行動的な彼女は、恋にも情熱的だった。とりわけリザードマンの男性は、彼女の目にとても魅力的に映った。

 国重の長男・国彦はリザードマンなのに映画俳優になるという夢を持ち、家を飛び出した。本当に俳優になったものの、リザードマン役者の仕事の幅など知れていた。戦争で死ぬリザードマン兵士や、仲間の壁になって死ぬリザードマン冒険者の役はもう飽きたと、あっさり数年で実家に戻ってきた。

 すでに跡目は真面目な次男と決めていたが、遊ばせておくわけにもいかないので、現場で仕事をさせたり、ダンジョンに潜らせていた。

 そこで、運命の二人は出会った。それぞれの種族で風変わりな生き方をしてきた彼らは、互いに親近感を抱き、たちまち恋に落ち、結ばれた。


 ――あのときは、幸せじゃったのう……。

 白無垢姿の人間の花嫁さんが、本当に愛らしかった。外国人のように背が高くべっぴんさんだった由美ちゃんは、何を着ても似合っておった。いつしか国重の中で、義娘の花嫁姿は、いずれ見届ける未来の黄々の姿になっていた。 

 ――そうじゃ、黄々ちゃんをお嫁に出すまで、ワシは死ねんのじゃ!


(子供が出来たら、お義父さんに名前を付けてほしいなぁ)

 そう言ってくれた義娘だが、それから十五年もの間、子を授かることはなかった。

 異種族間で、子供が出来にくいのは仕方無い。そう言ってはいたが、種族は違っても、たとえ低い確率でも、子は出来るのだという事実に、かえって彼女に母になるという夢を諦めさせなかった。他のリザードマンの子供たちを我が子のように腕に抱きながら、義娘は待ち続けていた。

 リザードマンの種が彼女の胎内に定着することは難しかった。形も成さないうちに何度も子が流れ、その哀しみと命に対する罪悪感は、いかほどだったか。国重に分かるはずもない。ただ出来ることは、家族として彼女を強く支えることだ。夫も、家族も、一族の皆も同様の思いだった。苦難の日々が、一族をより強く結び付けた。彼女の子は、生まれる前から皆の愛児だった。

 ようやく女の子を授かったのは、結婚から十五年を過ぎてだった。

 人間の母が産み落としたのは、小さな小さな赤ん坊だった。背中がうっすら金色に輝き、お尻におできがあると思ったら、尻尾だった。

 小さな孫娘の誕生に、国重は誰よりも泣いて喜んだ。

 異なる種族の血を上手に受け継いだと、医者から太鼓判を押された。体は小さいが、よく泣き、恐ろしく元気だった。

 保育器から出てきた娘を抱いた義娘は、それまでで一番美しかった。

(鱗の色は、おばあちゃん。おめめは、お義母さん。泣き方は、お義父さんそっくりでしょう?)

 たしかに、小さいが、よう泣く子じゃ。強い娘になるのう。

 国重が鋭い牙を見せて笑うと、機嫌良く笑う。人間の子供なら一発で泣いてしまうのに、やっぱりリザードマンだ。

(お義父さん、お願いがあるの。やっぱり、大好きなお義父さんに、名前を付けてほしいな。お義父さんみたいに、強くて優しい子になってほしいから)

 よしきた! と引き受けたが、あまりたくさんの名前は考えられなかった。

 この世で一番可愛い名前を、と懸命に考え、あまりハードルを上げるなと静音にたしなめられながらも、毎日赤ん坊の顔を眺め考えた。

 穴が開くほど見つめても飽きない。見れば見るほど愛情が溢れてくるようだった。なにより嬉しいのは、愛孫の背中を護る金色の鱗と、可愛い尻尾だ。これは妹尾家の一族である証、そしてリザードマンと人間を繋ぐ証でもある。

 そうだ。あの無くなってしまったれんげ畑に、時々咲く黄色い花。ピンクと白の中で堂々と花を咲かせていた、強い草花。あんなふうに、二つの種族の中で力強く根を張って生きてほしい。そして、大きなひまわりのようなお母さんに似て、周囲を明るくし、大らかに育ってほしい。

 そう願い、黄々と名付けた。

(男だったら、黄太郎かよ)

 そう馬鹿笑いした息子にだけは似ないように願った。いや、リザードマンらしからぬこの息子くらい適当にあっけらかんとしていれば、黄々の学校生活も違ったものになっただろうか。

 一心不乱に穴を掘る国重の横で、応援するように小さいたんぽぽが風に揺れている。


 ――まだまだ小さい黄々ちゃんを残して、ワシは死なんぞ!

 両親を亡くした黄々と過ごした時間もまた、国重にとってはかけがえの無い時間だった。いや、それまで以上に、輝いていた。

 小さなもみじのような手。大きな哺乳瓶から一生懸命ミルクを飲んでいた姿。初めて「じいじ」と呼んでくれた可愛い声。

 息子夫婦の死も、母の死も、全ての悲しい出来事を、小さな黄々の存在が支え、老いゆく自分を奮い立たせてくれた。

 ――黄々ちゃんは、ワシの宝物じゃ!

 可愛がり過ぎるほどに可愛がり、何でも言うことを聞いた。あまりにわがまま放題にし過ぎて、静音に叱られることも多かった。

 小学校の卒業式では、生徒すら泣いていないのに国重だけ号泣した。

 亜人の友達とも仲良くしていたが、黄々と彼らの姿はあまりに違い過ぎた。中学は人間の学校に行きたいと言い出したとき、いずれそんな日も来ると思っていた。

 未知の世界に臆せず飛び込んだ両親の子だ。人間の少女たちと過ごす時も、彼女のかけがえの無い財産になるだろう。

(おじいちゃん、見て見て!)

 私立の女子中学の制服がとても似合っていた。小さ過ぎて全然中学生に見えないね、と口の減らないバアさんは言ったが、国重は赤ん坊だった黄々を初めて腕に抱いたときのことまで思い出し、それまでの日々を噛み締めていた。

(お友達、いっぱい作ってくるよ!)

 その意気じゃ!

 スカートを翻してはしゃぐ孫と一緒に国重もはしゃぎ、飾っていた壷を割って静音に蹴飛ばされた。

 これから人間のお友達もいっぱい出来る。祖父も孫も、信じて疑っていなかった。

 ――そうじゃ、あの日の朝まで、黄々ちゃんは元気だったんじゃ……。

 国重も袴姿で、人間ばかりの入学式に列席した。

 人間の父兄に用意された椅子には当然座れず、邪魔にならないよう後ろで一人立っていた。当然、会場中の誰より目立っていた。

 生徒の中には一人もリザードマンらしき少女は居ないのに、誰の保護者だろうかと生徒たちが噂しているのを、彼は知らなかった。

 ――学校に通い始めた黄々ちゃんは、だんだん暗い顔になっていったんじゃ……。

 あんなに楽しみにしていたのに、学校の話をすると嫌がる。

 ずっと亜人の中に居たから、上手く友達が出来ないんじゃないか。そう皆で心配したが、あまりしつこく聞くと怒って暴れる。

 まだ始まって一ヶ月も経ってないじゃないか、と静音が不安がる国重たちを叱り飛ばした。放っておけと言われたが、国重は毎日、神棚の前で祈った。黄々が学校に行っている間中、気が気で無かった。今日こそ、黄々ちゃんが笑顔で帰ってきますように。お友達を連れてきますように。

 それからしばらくして、国重は学校に呼ばれた。

 黄々が教室で突然暴れだし、机を投げつけたというのだ。

 体育の時間に、黄々がこそこそと着替えをしているのを不審に思ったクラスメイトが、体操着を捲くったらしい。

 悪戯半分にやった生徒たちは、黄々の背中に広がる鱗を見て、悲鳴を上げ大騒ぎした。

 生徒たちは単に驚いただけでしょう、と担任の女教師は申し訳無さげに言った。だが、怖がられ逃げられた黄々は、カッとなって吼えた。

 生まれつき、怒ると手が付けられなくなる。近くにあった机を持ち上げ、その場に叩きつけた。

 怪我人は出なかったものの、原因は相手にあっても、黄々はやり過ぎた。威嚇のつもりだったにしても、一歩間違えれば大怪我だ。

 生徒たちと保護者の前で、国重は本気で黄々を叱りつけた。そして、膝を突いて頭を下げた。

 黄々は、傷ついた顔をしていた。下げたがらない黄々の頭を掴み、無理やり下げさせた。それでも孫娘は自分の非を絶対に認めようとしなかった。

 家に帰っても、黄々は悔しがって泣いていた。

(おじいちゃんは、人間にいい格好してるだけじゃん!)

 そう言った直後、静音に張り飛ばされた黄々は、ますます頑なになってしまった。


(あたし、人間なんて、大っ嫌い!)


 なんという悲しい叫びだ。だが、それは違う。この子は、人間を嫌いなんかではないのだ。

 失望したのだ。期待したぶん、たった一度の出来事が、辛かったのだ。

 同情するばかりの国重に、この子はあまりに打たれ弱いと、静音が言った。それまで大事にされ過ぎたからだ、自分たちにも責任があると。

 そうかもしれない。だが国重には、それ以上の後悔があった。

 もし、入学式のとき、リザードマンの国重が姿を現さなければ。

 生徒たちはリザードマンかもしれない同級生探しに、興味を持たなかったかもしれない。

 そりゃリザードマンなのは事実なんだから仕方無いだろうと、とんだジジ馬鹿だと静音は呆れてしまったが、当の国重は後悔してもしやまないのだ。

 だから、冒険者をやりたいと言っても、静音の反対を押しきり、自分が付き添う形で許した。

 たとえジジ馬鹿でも、いまは黄々のわがままを聞いてやりたい。

 傷が癒えたら、きっとまた人間とも仲良く出来るだろう。

 半分は人間である彼女が、たった一度の出来事で人間を嫌ってしまうのは、あまりに悲しい。

 亜人にも良い者と悪い者がいるように、良い人間も悪い人間もいる。

 その中で、かけがえの無い友達が出来るかもしれない。

 色んな場所で、色んな出会いがある。それが学校でなくても良いと思う。

 人間の学校が嫌なら、転校して地元の学校に行けばいい。そう静音は言うが、黄々は学校そのものを恐れてしまっていた。いまさら仲の良かった亜人の友達にも、顔を合わせづらいのだ。新しい学校で失敗してしまった事実は、どうしたって付きまとう。周りが気にしなくても、プライドの高い黄々は気になるのだ。

 そんなにすぐ冒険者を辞めさせることもないだろう。

 子供にだって、ゆっくり心を癒す時間があっても、良いのではないか。

 これもちょっとした、課外授業じゃ。そんなふうに思ったのは――やはり、甘かったんじゃろうか?


 ――……しっかし、掘っても、掘っても、地上は見えんのう……。

 天国が空にあるというのは安直な想像でしか無いが、とりあえず下を目指し、穴を掘り続けた。

 美しい花畑から、泥だらけの穴ぐらへ。まったく、炭鉱夫にでもなった気分じゃのう。どれ、どれぐらい掘り進んだんじゃろう。仕事の成果を確かめようと、国重は手を止め、上を見上げた。

 想像以上の深さに感心した。自分の大きな体が、すっかり穴に埋まってしまっている。

 これはもしや……と、国重は気付いた。

 自分で掘っている、この穴。これは……。


 ――なんか……墓穴っぽいのう。

 そのとき頭上が暗くなり、見上げると穴の上から、黒光りするリザードマンがぬっと顔を出した。


 ――いかん!


 慌てて穴を這い上がろうとしたところを、待ち構えていた黒いリザードマンが襲いかかってきた。

 ――ワシ、天国でも死ぬんかい!

 だが、その背後から大振りのハンマーが振り下ろされ、リザードマンを打ちのめした。よろめくその背中にたちまち無数の魔弾が炸裂する。

 リザードマンが崩れ落ち、国重の代わりに穴に落ちてきた。その体を踏みつけ、慌てて穴から這い出ると、そこに懐かしい者たちが立っていた。


 ――お、お前たちは……!

 まるで、映画のクライマックスシーンのようだった。リザードマンのくせに俳優になると言って家を飛び出した馬鹿息子は、やはりどう見てもハンマーのほうが似合い過ぎているし、人間にしては非常に大柄で背の高い女性は、魔銃を構える姿が凛々しい。

 成長したら黄々も、きっとこんなふうに堂々とした美しい女性になるだろう。

(親父、えらくジジイになったなあ)

 寄り添った夫婦が微笑む。話したいことはたくさんある。黄々も、もう十二歳になった。とっても可愛い娘になった。

(お義父さん。いつも、ありがとね)

 懐かしい朗らかな笑みが、国重をねぎらった。たちまち国重の目が潤む。

(いつも、いつも、黄々が迷惑をかけてしまって、ごめんなさい)

 ――違うんじゃ、違うんじゃよ……。

 礼を言われ、国重はしょんぼりと肩を落とした。

 ワシは、ダメなジジイじゃ。良かれと思ってすることが、全部裏目に出てしまうのだ。

 学校でもダンジョンでも黄々は酷い目に遭ってばかりだ。あれから黄々ちゃんはどうなっただろう。シオンさんは、紅子さんは、無事ダンジョンから脱出出来ただろうか。こんなに歳を取っても、ワシのやることは失敗ばっかりじゃ……。とうとう国重は花畑の中に崩れ落ち、うおおおん、と泣いていた。

(まあ、いいじゃん、親父。アンタらしいよ)

 ――お前はリザードマンのくせに、相変わらず軽いのう。

 息子は欧米種がよくやるように、大げさに肩を竦めてみせた。

(親父には、悪いことしたと思ってるよ。俺たちなんて大失敗だ。子供を育てられずに、死んじまったからな)

(お義父さんには、ご迷惑をおかけします)

 気立ての良い嫁が、そっと膝をつき、国重の肩を擦った。

 ――うう……相変わらず、由美ちゃんは優しいのう。

 お前たちが生きていたら、我が家はもっとずっと賑やかだっただろうに。こんな両親のことを、黄々は少しも知らないのだ。

 おんおんと泣く国重に、美しい嫁が言った。

(お義父さん。これからも黄々を、お願いしますね)

 ――しかし、ワシでは……。いつもバアさんに叱られておるし……。

(おふくろは厳しい人だから、親父が甘いくらいで、ちょうどいいだろ?)

(お義父さんとお義母さんになら、安心して黄々を任せられます)

 ――違う! ワシじゃあ、駄目なんじゃ!

 やはり黄々には、自分より両親が必要だ。

(お義父さんが、黄々のおじいちゃんで、良かった)

 黄々によく似た顔で、そう言って微笑む。

(そろそろ、行くな)

 と息子が粋な口笛を鳴らすと、どこからか花畑に似つかわしくないジープが乗り込んできた。運転しているのはサングラスをかけ葉巻を咥えたやたらでかいリザードマンで、なんというファンキーな……と思ったら、かなり昔に戦車に轢かれて死んだじいさんだった。

 いや待て。とっくに死んだじいさんが迎えに来たということは、息子夫婦もまた、死者の国に帰ってしまうのか?

 ――駄目じゃ! お前たち!

 にこやかに手を振った二人が、ジープのほうに近づいていく。

(お義父さぁん、元気でね!)

(アンタやかましいから、まだこっち来んなよ)

 ――駄目じゃ、駄目じゃあっ……!

  ジープは息子夫妻を乗せると、さっさと走り去ってしまった。追いすがるような咆哮を上げ、国重は花畑を走り出した。

 ――後生じゃ! 二人を帰してくれ! じいさん、ワシを代わりに連れて行ってくれて構わん!

(おい、国重。長たるお前が、自ら死にたいとは何事だ)

 厳格な父の声まで聴こえた。ええい、親父こそ、めちゃくちゃ早く死んでおいて何を言う! バカでも間抜けでも、ワシはせめて長生きして一族を支えようと頑張ったんじゃい! 必死で走るが、ジープがどんどん小さくなってゆく花畑は地平の果てまで続いているようだった。いくら思い出の場所と言っても、こんなに広かったらありがたみがないわい!

 ぜえぜえと息を切らし、天国のくせに苦しいとはどういうことだと、国重は思った。老体には堪える。

(あらあら、国重さん。そんなに慌てては転びますよ)

 優しい母の声がやんわり届く。だが、お母ちゃん、今走らんでいつ走るんじゃ!

 ――戻ってきてくれっ……! お前たち、行かんでくれっ……!

 さっきまで心地よかった花畑が、ぬかるんだ泥の海に変わっていた。母の忠告むなしく滑って転んだ国重は、黒い土の中でのた打ち回りながら、必死で腕を伸ばしていた。

 嫌だ、嫌だ!

 駄々をこねる子供のように、国重は泣き叫んだ。


 ――ワシじゃあ、駄目なんじゃ! ワシじゃあ、お前たちの代わりにならんのじゃ! だから、だから、ワシの命と引きかえに、お前たちが……!




「おっ、お前たちいいいいいいいっ!」

「は、はいいいっ!」

 国重がかっと目を見開き、腕を宙に突き上げていると、ぎょっとした顔で紅子も叫び返し、何故か手を上げた。

「紅子、なんで手ぇ上げてんの?」

「つ、つい……」

 キキに突っ込まれ、紅子がそのまま頭を掻く。

 風がそよいでいる。ダンジョンの中にも空気の流れはあるが、この開放感はまるで違う。

 ……これは、外の空気じゃ。

 国重は体を起こした。軽い風邪を引いたような倦怠感はあるが、そんなもの戦闘後の状態に比べればどうということもない。

 はて。血が流れまくって、あのまま死ぬかと思ったんじゃがのう……。

「おじいちゃん、皆が外に運んでくれたよ。獣堕ちも全部やっつけてくれたから、もう大丈夫だよ」

 顔を覗き込んでくるキキの後ろに、妹尾組の若者たちも立っている。

 そのうちの一人が、笑いながら言う。

「オヤジぃ、重かったぜ」

「ム……」

 彼らが車を取りに行くまで、ダンジョンの外に寝かされていたようだ。

 つなぎは血まみれだが、大きな傷は塞がっている。相当な怪我をしたはずだ。特に、首と肩口の傷は不味かった。死をも覚悟したのだが。

「おじいちゃん、大丈夫?」

 心配げなキキに、国重はいまだ夢心地であるかのように、ぼんやり頷いた。

「うむ……大丈夫なことにかえって驚いておる。なにせ、天国まで行きかけたからのう……」

「ちょっとおおおお! やめてよお、そういうの!」

 キキが叫び、国重の肩をガクガクと揺すぶる。

「お父さんとお母さんに会ったとか、言わないでよねっ!」

「おお、会ったぞ! おじいちゃんのお父ちゃんとお母ちゃんの声も聴こえたのう。黄々ちゃんのひいじいとひいばあじゃぞ。それから、ひいひいじいも、イカすジープに乗って迎えにきたぞ」

「思いっきり迎えに来られてんじゃねーか!」

「いや、それがのう、ワシだけ置いていかれたんじゃ。じいさん、えらくハイカラになっておったのう。大きなサングラスに葉巻吸って、一体あの世で何の影響を受けたのか……」

「イカしてねええええ! どんな人だよ!」

「思い出の花畑でのう。小さい頃や青年の頃や、由美ちゃんがお嫁にきたときのことを、次々と思い出してのう。黄々ちゃんが生まれて、大きくなって……」

「そっ、走馬灯じゃん! それ!」

 ガハハハ、と笑う国重に、キキは思う存分突っ込んだ。

「まるで人生をまるっともう一回やり直してきたみたいじゃのう。なんだか、楽しい夢を見ておったようじゃ」

「楽しくねーよ! こののんきジジイ!」

 叫び、がばっと国重の首筋に抱きつく。キキは祖父のざらざらの頬に自分の頬をこすりつけた。

「ほんと、心配したんだよ!」

「おお……キキちゃんがすりすりしてくれるのは、久しぶりじゃのう……。キキちゃんこそ、大丈夫じゃったか?」

 国重はじんわりと目許を潤ませた。小さなぬくもりを、しっかりと腕に抱き締める。

「ぜんっぜん、大丈夫!」

 そうは言うが、衣服は無残に背中が破れ、尻尾まで丸出しだ。妹尾組のつなぎを羽織っている。しかし鱗に負った傷は無く、顔の半分をワーキャットの爪で裂かれた顔も、元通りになっている。

「紅子が全部治してくれたもん」

「紅子さんが……」

 キキを抱き締めたまま、国重は紅子に礼を言った。

「大変な窮地を救っていただき、ありがとうございました。この礼は、必ず……」

「いえっ、いえ! あ、あたしは、一番迷惑かけちゃって……!」

 慌てて、紅子が顔の前で手を振る。ずいぶん泣いたのか、瞼がうっすら腫れ、目が真っ赤だ。薄く笑いながら俯き、肩を震わせる。

「ほんと、ぜんぜん、ダメで……その、ごめんなさい……」

 ぽたぽたと涙を零し、またしくしくと泣いてしまった。

「こっ、紅子さんっ?」

「おじいちゃん、そんぐらいにしといてやってよ。紅子、また思い出しちゃうからさ」

 慌てふためく国重に、キキが言った。

 国重はすぐに理解した。結果として助かりはしたが、国重の血が流れきるまでに魔法が使えず、国重が死んでいたら、紅子は大きな心の傷を負っただろう。

 それは紅子の所為では無い。あの傷を治せるソーサラーがおり、すぐさま治療してもらえただけ助かったというものだ。

「うっ……ううっ……ご、ごめんなさい……」

 シオンのチョーカーを片手に握り締め、紅子は目許を擦った。そのシオンも、紅子の後ろで横になっていた。

「シ、シオンさん!」

「声が大きいよ、おじいちゃん。シオンも大丈夫。怪我は紅子が治したけど、なんか具合悪そうだったから、紅子が魔法で寝かせたの。ワーキャットって精神魔法に弱いっていうけど、ホント、ころっと引っかかっちゃうんだ」

 鎮痛剤という名目の粗悪なドラッグに酔ってしまったシオンは、治まらない眩暈と吐き気に苦しんでいた。

 薬を使ったことは、誰にも言わなかった。言えば心配され、病院に連れて行かれるかもしれない。そこで治療を受けたとして、その後に一発逮捕である。だからシオンはただ、痛みのあまりに気分が悪くなったとだけ告げていた。

 足を治しても苦しそうな彼を、紅子はひとまず魔法で眠らせた。精神魔法は苦手な紅子でも、魔石を持っていないシオンは、詠唱の途中でも眠ってしまうほどに容易かった。

「でも、一番酷かったのは、おじいちゃんだからね。血がいっぱい出たんだから。絶対、絶対、安静だからね」

「黄々ちゃん……」

 キキの顔を見ていて、国重は声を詰まらせた。その小さな重みとぬくもりに、自分は生き延びたのだとようやく実感した。同時に、別の想いがせり上がってくる。

「……ワシは、駄目なおじいちゃんじゃ……」

 片手で顔を覆った国重を、キキが不安げに問いかけた。

「おじいちゃん……何言ってんの?」

「……ワシは全然、大丈夫じゃ。黄々ちゃんが受けた傷に比べれば、こんなモン……おじいちゃんは、ちっとも辛くないんじゃ……」

「でも、泣いてるじゃん」

「おじいちゃんは、黄々ちゃんに酷い仕打ちを……」

 ワーキャットの攻撃から、見捨てたのだ。

 あのときの、ショックを受けたキキの顔が忘れられない。シオンが助けなければ、キキは死んでいたかもしれない。

 キキも目を潤ませ、首を振った。

「そんなの、いいの。あたしは、妹尾の戦士だもん。おじいちゃんは、間違ってないよ。紅子が無傷で残ったから、助かったんだしね。そういうことでしょ? だから、いいんだよ。キキがマジで強いってこと、おじいちゃんは信じてくれたんだ」

「……いや、おじいちゃんは……」

「いいの! たまたまでも。たまたまあたしの病気が出て、シオンが死ぬほど頑張ってくれて、おじいちゃんはガチで死にかけたけど、最後には紅子が治してくれた。終わっちゃえば、これでいいんだよ」

「黄々ちゃん……」

 それでも、冒険者を続けていれば、次は死ぬかもしれない。

 冒険者とは、そういうものだ。キキは少しだけ分かった気がした。

 格好良くも、夢に溢れているだけでもない。

 地味で、危険で、疲れて、泥だらけになって――すごく怖かった。誰かが死ぬかもしれないことが、とても怖かった。

 でも、それだけじゃなかった。上手く言葉に出来ないけど。

「もー、いいってば! いい年寄りがウジウジすんな!」

 べそべそと涙を流す国重の顔を、キキは両手で掴んだ。

「歳取ると、涙もろくなるんじゃよ……」

「若い頃から涙もろいって、おばあちゃん言ってたよ! もう、気にしないでよね」

 鼻を啜る国重の頭を、キキはぐしゃぐしゃと撫でる。祖父の白いたてがみが乱れた。その太い首に、もう一度ぎゅっと抱きつく。

「……おじいちゃんは……キキの大事なおじいちゃんなんだから……」

 血だらけのつなぎに顔を埋める。そこに涙の染みが拡がっていく。おじいちゃん、あったかい。でも、死ぬかと思った。わんわんとキキは泣いた。

 中学の入学式に現れた国重を、クラスメイトたちが気味悪がっていたのを知っていた。優しく強い国重は、地元では慕われていたのに。キキは衝撃を受け、そして自分こそがリザードマンの子であることを、隠そうとした。

 本当は、少しも恥ずかしくなんか無いのに。でも、大好きなおじいちゃんが笑われたみたいに、あたしも笑われたらどうしよう。そう思って、ビクビクしていた。

「おじいちゃん、おじいちゃん……大好きだよ……」

 あたしは、バカだ。たとえ人間にどれだけ笑われても、キキのおじいちゃんはすごいおじいちゃんだし、キキは妹尾のリザードマンだ。

「これからも、いっぱい、長生きしてよね……」

「ウオオオオッ……! キキちゃあん!」

 国重もキキを抱き締め、泣いた。

 ふと見ると、紅子が泣きながら二人の様子を見守っていた。

 あの少女が、全部治してくれたんじゃのう。混乱を起こしておったようじゃが、よう立ち直った。

 冒険中、錯乱状態になったソーサラーは他にも見たことがある。魔法を撃つのは彼らの精神力と集中力だ。絶対に発動する保障なんて無い、不確かなもので、不発なんてよくあることだ。そこから立ち直れないままのソーサラーもいた。

 結果として、三人の傷を治した。何も泣くことは無いと、国重は思った。よくやった。彼女の優しい魔法の力を、国重は憶えている。

 切なくも心地の良い夢の世界だった。お陰で戻ってくるのがつい寂しくなるほどに。

 でも、戻って来て良かったと、心から思う。

 美しい風景の中で、優しく懐かしい声を、たしかに聴いた。


(ーーお義父さん。黄々を、お願いね)




 妹尾邸に戻ると、門扉の前に静音が立っていた。

「ひい……」

 路上に停車した車の中から、キキはまず窓越しにちらっと様子を伺い、戦慄した。ある意味、獣堕ちより怖い。

 鉱山ダンジョンに獣堕ちが出たということを、同行の若衆から連絡を受け、彼女の耳に入っている。激しい戦闘や怪我を負ったことも、おそらく。

「……お、おばあちゃんに、怒られるかなぁ……?」

「だ、大丈夫じゃ。おじいちゃんがついておる……」

 いたずらが見つかったかのように、祖父と孫はコソコソと話し合った。

「よぉし、まずおじいちゃんが、いきなり土下座して謝るかのう!」

「オヤジ……」

 運転している若者が、呆れた声を出した。

 病院に向かう別の車には、紅子といまだ眠っているシオンが乗っている。彼は病院に強制連行だ。紅子のほうは怪我も無くすでに落ち着いており、そのまま自宅に送っても良かったのだが、シオンが起きてから一緒に帰りたいと言ったので、国重は聞き入れた。

 なんとなく、彼が『鎮痛剤』を使ったのだろうと国重らは気付いていた。

『鎮痛剤』の名目で冒険者が使うのは、大抵が非合法のドラッグである。そうなると普通の病院に連れて行くわけには行かないが、国重の口利きで訳有り者でも診てくれる医者がいる。

 常習性の無いたった一度の使用であっても、個人差はあるが一日から一週間に及ぶ副作用が出る。シオンのことは彼が嫌がっても知り合いの医者に診てもらうが、治療自体はおそらく彼がひたすら耐えるだけのものになるだろう。

「オヤジ、お嬢。いつまでも路上に車置いておけませんから、そろそろ降りてくだせえよ。近所迷惑になるんで」

 シオンを心配する国重に、運転手が促した。そうだった。自分たちも大ピンチだった。凄まじい威圧感を帯びた恐妻が待っている。

「う……そ、そうじゃな。降りるか、キキちゃん」

「し、仕方ないねっ」

 びくびくと車を降りた二人に、年寄りのくせにいやに姿勢の正しい女リザードマンが、しゃきっと背筋を伸ばして近づいてくる。その目は鋭い。はっきり言って怖い。

 宣言したとおり、国重はアスファルトにスライディングする勢いで両手と頭を擦りつけた。

「バ、バアさんっ! すまん! ちょっとトラブルが……!」

「ええ。分かってますよ。ダンジョンなんだから、そういうこともあるでしょう。戦って悪いなんて、あたしゃ言いましたかね」

 土下座した夫に目もくれず、静音はキキの前に立った。

「あ、あう、あっ、お、おばあちゃん……あのっ、ただいまっ!」

 静音は無言で、キキの姿を見た。大きな妹尾組のつなぎを、マントのように羽織っている。その下の衣服はボロボロで、たくさんの血の染みが付いていた。

「あ、あのっ、お、おばあちゃん! 依頼された、エメラルドの指輪、ほらっ」

 キキは引き攣った顔で、腰のバッグを開けた。

 そこにはちゃんとエメラルドの指輪が煌いていた。大きな指輪を摘み上げ、キキは泥だらけの顔を上げた。

「ちょ、ちょっとだけ戦いになったけど、ちゃんとこれは守ったよっ!」

「……黄々」

 エメラルドと同じ瞳が、キキを見下ろす。

「そ、それとね、ダンジョン行きたいって言ったのはあたしだから、お、おじいちゃんを、怒んないでねっ!」

「黄々」

 キキが考えたのは、このまま静音の言葉を遮り続け、ひたすら弁解をまくし立てる作戦である。

「あのね、おじいちゃんね、すっごく頑張っ……」

 しかし途中で、キキのほうが遮られた。

 静音に抱きしめられたのだ。

「黄々ぃっ! うあぁぁぁあぁぁぁあああぁんっ!」

 いきなり静音が凄まじい声で咆哮した。轟声バジングかと思ったら、いつも厳しい祖母は、泣いていた。

「黄々、黄々っ、良かった、良かったよおっ……!」

「……お、ばあちゃん……?」

 すごい力で抱き締められ、キキは目を丸くした。エメラルドの指輪がかつんとアスファルトの道路に転がった。

 怖いおばあちゃん。厳しいおばあちゃん。キキと同じ泣き虫のおじいちゃんと違って、泣いたところなんて見たことの無いおばあちゃん。

 幼稚園でも小学校でも、キキの描いてきた家族の絵は、いつもおじいちゃんがニコニコ顔で、おばあちゃんはむっつり顔だった。

「黄々っ、黄々、ごめんねえっ……ばあちゃんが、冒険者なんか懲りてしまえばいいなんて思ったからっ……!」

 勢い余って抱え上げられながら、静音の腕の中でキキはぱちくりとまばたきを繰り返した。悲痛な祖母の声を初めて聴いた。

 それは国重も同様だった。道路に膝を突いたまま、驚いて顔を上げた。

 息子夫婦が死んだときでさえ、背筋を伸ばして葬儀を取り仕切っていたのに。

「黄々が死んじまったら、ばあばも生きていけないよぉっ……!」

 キキと同じ色の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。

「ばあちゃっ……おばあちゃんっ……うっ、あああああああぁんっ!」

 静音に頬ずりしながら、キキも泣き出した。高価な着物にしがみつき、ぐしゃぐしゃに掴み、涙と鼻水を擦り付けた。

「ごえんっ……ごえん、なさいっ! しっ、心配かけてっ、ごえんにゃさいっ……!」

「ううっ……ああっ……黄々っ、黄々ぃっ……!」

「ううう……おおおおおん!」

 二人の泣き声に呼応して、国重まで泣き出した。

「オヤジはもう充分泣いたでしょーがっ!」

 三人のリザードマンの号泣に、一体何事かと近所の者が集まってくるのを、運転席から慌てて出てきた若い衆が、ひたすら説明し謝って回った。

「あ、ホント大丈夫っす。感動の再会的なアレなんで……。いや、ほんとスイマセンねえ、三人とも声が凄くて――」




 キキたちが感動を分かち合っているとき、シオンは別の車の中で目を醒ました。

 うっすらと目を開けると、いつの間にか車の中に居た。紅子が隣に座り、べそをかいて顔を覗き込んでいる。

「お、小野原くんっ! あの、小野原くん起きました!」

 紅子が運転手に声をかける。

「シオンさん、今、病院に向かってますから」

「いや、オレは……っ」

 シオンは慌てて頭を上げようとしたが、車の中が酷く歪んで見えて、再びシートにもたれかかった。

 隣に居る紅子が紅子に見えない。不気味に笑うモンスターに見えた。

「何年か前、若い冒険者の中で爆発的に流行ったドラッグがあります。《キラーマシン》っていう、まったくイカす名前ですよね」

 運転しながら、黒い鱗のリザードマンが淡々と告げる。ダンジョンで会った獣堕ちかと錯覚しかけ、シオンは体をびくりと震わせた。

「オレが若い頃は、全盛期でしたよ。激しい痛みを忘れる代わりに、強い副作用がある。それすらもちょっとカッコよく感じるんですよね、バカなガキには。傷みを感じない機械のように戦い続けられる、《殺戮機械キラーマシン》って、いかにもカッコつけたい若者を狙ったネーミングですよね」

 黒いリザードマンが、シオンを嘲るように笑う。そうではないだろうが、薬の所為ですべて悪意に満ちているように感じる。

「当時はあれを、お守り代わりに持ち歩く若い冒険者が絶えなかった。持ってるだけでもカッコいいですし。シオンさんがそういう方じゃないってのは分かりますけど。ああいうものが、戦闘中に命を救うこともあるでしょうけど、戦い以前に、体が拒否反応を起こして死亡する例もありました。オレの知り合いにも、死んだ奴がいましたから」

 シオンは頭を押さえようとして、片手に魔石のチョーカーを握らされていることに気付いた。上から紅子の手がしっかり押さえている。精神を落ち着かせるお守りの石を強く掴むと、少し気分が落ち着いた。

 腕の良い冒険者ほど、そんな薬など不要だと分かっている。戦闘を避けられない職業ではあるが、撤退の勇気も必要だ。薬があるという安心感に頼り、危機感が薄れるほうがよほど怖い。

「でも……病院は……困る」

 シオンは傍らの紅子を見やった。良かった、ちゃんと紅子に見える。

 彼女を置いていくわけにはいかない。

「オレは、ここで逮捕されてる場合じゃないから……」

「え? いや、んなこと言ってないですよ。それにされたとして――シオンさん、まさか常習してないですよね?」

「ああ……昔、痛みを消す薬だって、貰っただけだ……何の薬かも、知らない……ヤバいってのだけは、何となく……」

「だったら多分、不起訴じゃないかな。事情が事情だし。でも大丈夫です。今から行くのは訳有り専門の医者で、口も堅いです。突き出したりしません」

 黒いリザードマンは、優しい口調で言った。

 ぼんやりと話を聴きながら、シオンは少し安堵した。なんだ、捕まってもすぐ刑務所に入るわけじゃないのか。

「こういうのは、素人の魔法で治すのは難しいです。乱暴なこと言うと、常習性が無いならこのまま一人で家に戻っても、ひたすら気分が悪いのを耐えれば、そのうち抜けます。けど、辛いですから」

 その言葉に、シオンの拳を掴む紅子の手に、きつく力がこもった。

「オヤジ、心配してましたよ」

 国重の若い時代にはもっと粗悪な薬が無秩序に蔓延していた。一度、二度と手を出すうちに、冒険者どころかまともな生活も出来なくなった中毒者が、巷にたくさん溢れていたのだ。

「あの人、はっきり言ってすげえジジ馬鹿ですけど、血の繋がりの無いオレらにとっても、大事なオヤジと可愛いお嬢です」

 運転手は、前を見ながら、静かに言った。

「シオンさん。そこまでしてオヤジとキキお嬢を助けてくれて、ありがとうございます。今度また、メシに招待しますって、オヤジが」

 シオンは息をついた。すべて分かっていて、シオンが安心して医者にかかれるよう、彼らはすでに考えてくれていたのだ。

 これは仕事だ。正式な契約を交わして受けたものだし、報酬も貰う。その上で負った怪我もこの状態も、すべてシオンの自己責任だ。国重やキキが責任を負うことは何も無い。でも、感謝した。

「……今日は皆に、助けてもらってばっかだな」

 荒い息の中、ぽつりと呟いたシオンに、紅子が手を強く握ったまま、かぶりを振る。

「小野原くん、言ったよね」

 潤んだ目で、しかし強く言った。

「助けたり、助けてもらったりするのが、冒険者なんでしょ?」

「……言ったっけ?」

「言いました!」

 ぺちっと、ジャージの肩を叩かれた。叩かれた後、紅子がはっとした顔をして、顔を赤らめた。

「あ、ごめんなさい。つい……」

 ふざけて透哉にするように、気安く叩いてしまった。それと、さっきから思いっきり繋いでいた手を、慌てて離した。寝ているときに苦しそうだったので、魔石を握らせていたのだ。

「……あ、えと、なんか辛そうだったから……その、えと」

 茹でられたように真っ赤な顔で弁解し、紅子がしょんぼりと俯く。

「すいません。こーゆーの、セ、セクハラですよね……」

「これ、セクハラって言うのか?」

 変な奴だ。シオンは苦笑した。けれど、彼女と話していて、とても気が紛れた。病院に着くまで、シオンはまだ少し眠ることにして、目を閉じた。

「……あの、小野原くん」

 車の揺らぎに合わせ、溶けていきそうな意識の中で、紅子が小さな声で言った。

「ん?」

「ちゃんと戦えなかった私が言うのも、おかしいかもしれないけど……もう、こういうの、しないでほしいかな……その、心配だから……」

「ああ……うん。しないよ」

 シオンは頷いた。どちらにしろ、まだ家にある薬も処分しないといけない。こんなものに依存するつもりはさらさら無い。

 また泣くかと思ったが、小さくてもしっかりとした声で、紅子は言った。

「私も、もう弱音は吐かない。魔法も、モンスターのこととかも、ちゃんと勉強する。私も、小野原くんを守れるように、なりたいから……」

「……うん」

 いいよ、そんなの。と思ったが、シオンは言わなかった。元気が無かった所為もあるし、いつまでも彼女を守る対象にしていては駄目だと感じていた。




 かかった診療所はとても小さく、ベッドも満床だった。運転手はシオンを気遣い、一晩だけでも入院させてほしいと頼んでくれたが、そもそも薬物治療は専門外で、もっと酷い怪我の患者もいるからと、医者はきっぱり告げた。当然だろうとシオンのほうから辞退した。検査と指導を受け、紅子ともども家に帰った。

 別れ際も紅子は心配していたが、アパートに泊まって看病するなんて、当然出来ない。彼女自身は家に頼んでみると、電話までしようとしていたのでやめさせた。寝てれば治る、と言った。実際、そうするしか無かった。

 帰ってまず、持っていた薬をすべてトイレに流した。後は、我慢するしかない。

 夜になったら酷くなるかもしれないと医者に言われていたように、深夜になって特に酷い幻覚や幻聴に悩まされた。部屋のあちこちから、獣堕ちのワーキャットが沸いてくる。

 そんなものは居ないと布団に潜り込み、強く目を閉じたが、瞼を閉じているのに目が開いているように、映像が広がる。誰かが目に指を突っ込み、瞼をこじ開けられる感覚に、シオンは飛び起きた。

 本当に、ただ格好良いからなんて理由で、こんな薬を使った奴がいるのか。気持ち悪い。なんてものを人に寄こしてくれたんだと、死んだ冒険者たちのことを思い出し、恨んだ。クソ野郎ども、本当は、殺してやろうかと何度も思った。そうだ、アイツらが死んだとき、オレは嬉しかったんじゃないか? モンスターに喰われてるのを見て、おかしくて仕方なかったんじゃないか? そんなことは思っていなかったなんて、本当だったか?

 だって、オレは元々獣堕ちじゃないか。

 いつの間にか、部屋に現れた獣堕ちのワーキャットが、自分の姿になっていた。横になっている自分の腹に、ダガーをゆっくり突き立てていた。

 ――ほら、やっぱり。痛いわけが無いのに、痛かった。腹を裂かれて、内臓を取り出されて、肉を喰われた。無表情に、淡々と肉を食べる、血まみれの自分の顔は、感情の無いけだものだった。

(ほらね、こんなふうに、あたしも死んだのよ)

 シオンの肩にもたれかかる、細い体。サクラ? 掠れた声で口にする。彼女は一糸纏わない姿をしていた。シオンの腕に自分の腕を絡めて笑う。

(喰われて死んだの。アンタみたいな、獣堕ちに)

 さっきシオンがシオンに引き裂かれたように、彼女の腹は裂け、そこから血が溢れ、股の間まで流れていた。部屋いっぱいに赤い血の海が広がっていく。部屋を埋める血の中で、たくさんのワーキャットの首が浮かんでいた。

(ねえ、シオン)

 ゆるい血の海にたゆたいながら、姉は小作りの唇からちろりと舌を覗かせ、シオンの耳を舐め上げる。

(あたしね――アンタが好きよ)

 シオンは頭を抱え、突っ伏した。柔らかく温かい舌が、ぬるりぬるりと耳の穴に入っていく。シオンの体の中を食い荒らすように、体の中で舌が暴れ出すようで、シオンは自分を爪で裂くように搔き毟った。

 自分の腹の中が重い。姉の声がそこから聴こえる。助けてと言っている。お前に食べられたから。頭の中に凄まじい笑い声が響いている。シオンは歯を食いしばって耐えた。耐えるしか無いのだ。

 助けを求めるように、シオンは顔を上げた。食卓代わりに使っている小さなテーブルの上に置いた、携帯電話が目に入った。

 慌てて手に取り、震える指で、相手を呼び出した。真夜中だったが、何も考えていなかった。

〈――お、おのはらくんっ?〉

 呼び出し音が鳴ってすぐに、すっかり聴き慣れた声が、受話口から漏れた。こんな時間まで起きていたのだろうか。

〈め、迷惑かと思ったけど、メールしちゃったの。見たっ?〉

 見ていない。けど、彼女らしかった。離れたところで、眠れないほどシオンを心配してくれているのだと思ったら、嬉しかった。シオンは携帯電話を握り締め、膝を抱えた。頬に流れた涙を、血の海から這い出てきた姉が、舌で掬い取った。

 黙って声を殺すシオンを、紅子が小声で気遣う。

〈……もう、大丈夫なの? それとも、今、辛いの……?〉

 彼女の声は聴き取りづらい。布団にでも潜って、小声で話しているのだろう。

 シオンのような一人暮らしでは無く、ましてや彼女は親戚に世話になっている身だ。気付かれれば、叔父や叔母に叱られてしまうのだろう。それでも、電話を切りたくなかった。

〈あのね……小野原くん、話さなくてもいいよ。辛いなら、私、ずっとこうしてるから〉

 シオンは答えず、彼女に見えもしないのに小さく頷いた。桜がシオンの頭を抱き、優しく撫でていた。

〈えっとね、ずっと、一晩中……朝まで……ううん、学校休んで、ずっと喋ってるから……って、それじゃ電話代すごいことになっちゃうかな……ええと、迷惑だったら、遠慮なく切っちゃってね〉

 シオンはやはり返事が出来ないまま、小さく鼻を啜った。紅子は喋り出した。

〈んじゃ、なに話そうかなぁ……えっとね、さっきまで、透哉お兄ちゃんと魔法の練習してたの……ろうそくをいっぱい並べてね、全部をいっぺんに火を少しずつ消してくの。細かいコントロールの練習なんだけど、お兄ちゃんが考えることって地味だよね。あ、魔法でね。でも、つい逆にね、いっぱい燃やしちゃうの〉

 シオンは首許に手をやった。千切れたチョーカーの紐を紅子が結んで繋ぎ直してくれた。姉がくれた魔石は、いつも通りそこにある。 

〈でも、それじゃ、ダメだね。もっと、色んなこと出来るようになりたいな。あ、治癒ヒールもおさらいしたよ。お兄ちゃんのさかむけくらいしか治すもの無かったけど……〉

 紅子の声を聴きながら、シオンは深呼吸を繰り返した。

 畳がスライムのように柔らかく、ズブズブと沈み込むように感じる。頭が痛くて、吐き気がして、部屋は相変わらず血の海で、モンスターやバラバラ死体がそこかしこに浮かび、目の前で姉が笑いながら何度も死んでいく。目を閉じたって同じだ。

 悪夢の中、彼女の声を聴くと、少しだけ気が紛れた。

〈ねえ、ねえ、こんな話、楽しいかな? 私は、楽しく喋っちゃってるけど……〉

「……なん……でも……」

 声を上げようとしたが、口の中が酷く乾いていた。口内に舌が張り付いているのを無理やり剥がすと、痛くて痛くてたまらなかった。

〈うん? なあに?〉

 何でもいいんだ。

 何でもいいから、ずっと。このまま。

「……話し、て……」

 ようやく出せた声は掠れていたが、彼女はちゃんと聴き取ってくれた。

〈うんっ、いつまでだって、大丈夫! 私、ここにいるからね〉

 乾いた目から涙が流れ、血の海に沈み込む。そこでは色んなものが死んでいる。その中で彼女の声だけが本物だ。

〈私ね、喋るだけなら得意だからね。いつも話が長いって、お兄ちゃんや、あーちゃんやまーちゃんに言われてるから〉

 獣堕ちも、人間も、好きな奴も、嫌いな奴も、全部死んでいく。獣のような目をした自分が、姉を引き裂いて殺し、喰っている。

〈あ、ええとね、あーちゃんとまーちゃんは友達なんだけどね、いつもこっこは中身の無いことをずっと喋ってるよねって言われるの。それで、この前もね……〉

 血溜りの中で、シオンは横になった。ゆっくり息を吸って、吐く。紅子の声を頼りにして、この光景はすべて幻なのだと、自分に言い聞かせ続ける。

 元気になって、また彼女とダンジョンに行きたい。それに、国重たちが盛大に食事を振舞ってくれると言っていた。紅子が元気に食べている姿は、見ていて少しも飽きない。あんなふうに賑やかなメシが食いたい。――だから、オレはもう、こんな夢は見ない。これきりにするよ。そう心の中で姉に告げると、彼女の幻はゆっくりと微笑み、そうね、と答えて消えた。


 それからも、暗い部屋の中で、色んなものがグロテスクに死に、また生き返ったりを繰り返していた。死んで、生き返って、また死んで、生き返る。シオンは紅子の声を聴きながら、長い時間を耐えた。


 喋り続けていた紅子が寝ぼけ声になり、やがて電話の向こうで寝息を立て始めた頃、ようやく波を越えたのか、幻覚と幻聴は収まりつつあった。

 そのぶん体の不調が目立ってきた。布団に横になって頭痛と嘔吐感をやり過ごしながら、シオンはこれからのことを考えた。

 パーティーを作ろう。むにゃむにゃと繰り返される紅子の謎の寝言を聴きながら、シオンはそう決めた。

 彼女の目的を果たすため、これからも無数のダンジョンに潜るだろう。まだ何処かも分からないそれらのダンジョンを攻略し、〈たからもの〉を得るためには、実力だけではない、心から信頼出来る仲間が必要だ。

 誰かと深い関係になることをずっと避けていた、そんなシオンが、自分のパーティーを作りたい――作ろうと決めた。

 ずっと一人でいい、パーティーなんて組みたくないと頑なに思っていた心をここまで溶かしてくれたのは、紅子に出会ったからだ。彼女とはこれからも仲間でいたい。そして、彼女以外にも心から信頼し、助け合える仲間が他にも出来たなら――どんな迷宮にだって挑めるし、どんな魔物とも戦ってやる。

 そんな感情が、自分にもあったのだ。ただ日々を生きていくだけの仕事をするのでは無く、未知に向かって踏み出してみたいという好奇心。

 恐ろしいばかりのダンジョンも、襲ってくるモンスターも、いつ死ぬかもしれないことも、今日痛かったことも、今苦しいことも、決して忘れたわけではない。悪い薬に酔って、興奮してるだけかもしれない。

 Tシャツの胸を掴む。その奥が震えて熱い。

 今日は本当に危なかった。死ぬかと思った。全滅するかもしれなかった。皆が死ぬのは嫌だ。思い出すだけで、悪い汗が出る。それなのに。


 もっと、戦ってみたい。


 こんなことを思う奴に、仲間が欲しいと思う資格なんて、無いのかな。まだ芽生えたばかりの感情を持て余しながら、シオンはいやに冴えた頭で、電話越しの紅子の寝息を聴いていた。

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