リザードマンの姫
妹尾黄々は、リザードマンの父と、人間の母の間に産まれた。
異種族交配で産まれる可能性の低かった彼女の誕生は、父母ならず一族皆が待ち望んだものだった。
父は、有力な一族の長男として生まれながら、何故か役者に憧れた、亜人の俳優だった。
母は、人間の女性でありながら、亜人の力強さに惹かれ、冒険者の世界に身を投じた。
時代や場所によっては、変わり者扱いされ、障害の多い恋となっただろう。
だが、人間との共生を重んじる妹尾一族は、長男の嫁を温かく迎えた。それは夫婦の人柄もあった。明るく優しい二人は、周囲に祝福され、幸福な結婚生活を送った。
ただ、誰もが待望した子供には、一向に恵まれなかった。
妹尾国重は、長男と、人間の身でありながら息子を愛し嫁いだ義娘が、どれほど子を望んだか、その大変な苦労を痛いほど知っていた。末孫が誕生したのは、彼らの結婚から二十年近くも経ってのことだった。もう年齢的にも厳しくなろうというときに、娘が産まれた。
誰もがその誕生を待ち望んだ子は、まるで母親の産道に負担をかけまいとしたかのように、人間に近い、とても小さな体で産まれてきた。
産まれてすぐに保育器に入った娘は、それでも立派な大声で鳴いた。その体には父の特徴もしっかり受け継いでいた。
国重が手のひらでおそるおそる包んだ孫娘は、小さな宝石のようだった。
彼は泣いた。国重があまりに泣くものだから、息子夫婦が泣けずに笑ってしまうほどだった。医師も看護師も笑う中、怒った妻につまみ出されても、ずっと泣いていた。
それは、家族にとって一番幸せな日となった。
そして、それからの人生の残りの幸福をすべて、我が子の誕生に使い果たしたかのように、娘が一歳の誕生日を迎える前に、父母は死んだ。
娘の定期健診で、病院から戻る途中のことだった。歩道を歩いている黄々たち家族に、飲酒運転の車が突っ込んだのだ。
凄まじいスピードで突っ込んできた車は、咄嗟に盾となった父親を押し潰した。
いかなる大型モンスターの一撃にも打ち負けない体躯も、制御を失って暴走し加速した鉄の塊には致命傷を負わされた。車と壁の間で全身を強打し、その父親と壁の間に押し潰された母親も、死亡した。
しかし、強靭なリザードマンの体がクッションとなり、その衝撃は和らいでいた。父親はあえて、車から逃げずにぶつかったのである。その後ろで母親は体を丸め、赤ん坊を抱き込んだ。潰された父と母の体の内側で、子供だけは無傷で助かった。
長男夫妻の不幸な死に、国重は泣いた。激しく、いつまでも慟哭した。暴走車に立ちはだかった息子の遺体は酷く損傷していた。その体と壁の間で、いつも快活に笑っていた義娘の顔と頭は潰れていた。ただ娘を抱いた腕と腹だけを守ることを考え、自分の首から上など、気にもかけなかったのだろう。
通夜の間も、葬儀の間も、喪主であることなど構わず、誰よりも泣き喚き、喪主としての挨拶も次男が代わって務めたほどだった。とうとう妻に蹴飛ばされ、一族の若い娘たちに混じって、赤ん坊の黄々の面倒を見た。
産まれて一年近く経っても、とても小さい孫娘は、両親が死んだことなど知るよしも無いのに、母親の不在が判るのか、抱いてもあやしてもよく泣いた。リザードマンたちの「たかい、たかい」にだって、いつもは怯えず笑うのに、ちっともご機嫌にならない。
娘たちには葬儀の手伝いもあったので、追い出された国重が、つきっきりで世話をした。
一族の長である彼が、初めて赤ん坊のおしめを換えた。タイミングを間違えて、顔におしっこをかけられた。ミルクを作って飲ませるも、げっぷさせるのを忘れ、ミルクを吐き出させてしまった。大きな体を丸めて雑巾がけをし、また泣き出す彼女を優しく抱いて、いつまでもゆらゆらと揺らし続けた。
ただでさえ大きな手で、ただでさえ小さな人間の赤ん坊だ。おしめを換えるのも酷く苦労したが、苦労のあとの彼女の笑い顔が、なんと愛らしいことだろう。
こんなに、こんなに可愛い娘を遺して、あいつらは死んでしまった。
さぞ、無念だったろう。
凄惨な事故から奇跡的に生き延びた末孫を、母に似た人間の姿を持った少女を、死んだ両親のぶんと合わせて、三人分――いや、それ以上に可愛がろう。
そう誓った。
ドラゴンが突っ込んでこようとも、戦車が突っ込んでこようとも、今度はワシが盾になる。
誓ったは良いが、あまりに猫可愛がりし過ぎるので、「アンタがそんなふうだと、黄々が将来苦労する」と厳しい老妻に叱られることもしばしばだった。
だが、自分とは似ても似つかない孫が、国重には可愛くて仕方がなかった。
可哀相だからというだけではない。
ただ、ただ、可愛いかったのだ。
自分たちに比べれば、小さく、か弱い体だ。指なんて豆粒のようだ。
けれど、こんなに一生懸命生きている。なんとけなげな生き物なのだろう。
こんなにか細い子が、母親の腹の中でがんばって、自分たちの血を受け継いだのだ。
父母が居なくとも、姿形の違う自分たちの中で、朗らかに笑っているではないか。
やがて言葉を喋るようになった孫娘が、初めて呼んだのは「じいじ」という自分のことだった。
威厳ある長であるべき立場でありながら、またも人目憚らず泣き喚いた国重は、妻に張り倒された。
嬉しくて、嬉しくて、泣いた。
目的のダンジョンは、埼玉県の秩父市にあった。
そこは、かつて魔石が大量に採掘された鉱山を中心に、施設や関係者が住む住居で構成された集落が広がっている。
魔石を採り尽くした鉱山は閉鎖され、かつての大規模集落も、現在は廃村となっている。
こうした鉱山廃墟群は、日本各地にある。多くの魔石が埋まっていた鉱山は、今でも濃い魔素で満たされているため、廃墟群のいたるところがダンジョン化し、モンスターが棲みついているのだ。訪れる者も少ないので、不法侵入者も後を絶たない。
「ここは、そんな廃墟群のひとつだ」
とシオンがパーティーメンバーに説明する。
今日のメンバーは、紅子とキキ、それからキキの祖父・妹尾国重である。
国重がシオンの説明を捕捉する。
「ここで採れる魔石は種類も豊富でのう、当時の人は全部ひっくるめて《精霊石》と呼んでおったんじゃ。精霊さんが宿る石じゃとな。精霊さんの宿る魔石が、自分たちの暮らしを豊かにしてくれるとのう。それで、《精霊鉱山》と呼ばれておった」
「なんだか、可愛い名前ですね」
紅子の言葉に、国重はウムと頷いた。
「しかしのう、名前ほど綺麗な仕事では無かった。かつて人々の暮らしを支えた魔石採掘も、鉱山での危険で過酷な作業で、多くの鉱夫が命を落としたり、体を壊して重篤な病気になったんじゃ。じゃから、感謝を込めて魔石を掘れば、石に宿る優しい精霊さんが、無事に鉱夫を家に帰してくれる。そんな願いもこもっているんじゃ」
国重は今日は着流しでは無く、つなぎの作業服を着ている。胸には『妹尾組』という刺繍が入っていた。彼らが営む建設会社の屋号であるようだ。
この格好をしていると、完全に現場の親方である。その片手には、槍を手にしている。
リザードマンの冒険者がよく使用する武器は、大鉈か大槌である。いずれも彼らの剛力があるからこそ真価を発揮する、重量のある武器だ。
だが、国重は老体だ。年々腰痛が酷くなっているので、若いころ愛用したハンマーは置いていくようにと、妻であるキキの祖母に咎められたのである。
「当時は冒険者なんて仕事は確立しておらんかったからの。そうした仕事には、体の大きなリザードマンやミノタウロス、豚亜人がよう従事しておった。村のほうに、家や集合住宅があったじゃろ?」
そう言い、来るときに通り過ぎてきた、寂れた廃墟の方角を指差す。
「今みたいに、大きなワシら向きの大きな住居なんて、労働者の為にいちいち用意してはおれん、人間用の住居を少しばかり改良したような家に、亜人の労働者一家がたくさん、ぎゅうぎゅうに暮らしておったんじゃ。もちろん、貧しい人間の労働者も沢山のう。もっと狭かったじゃろうのう」
若者にとっては昔の話でも、国重はこの鉱山が稼動していた時代を知っているのだ。彼の一族の中にも、労働者として働いていた者が大勢居た。
かつての賑やかな光景が目に映っているかのように、国重は懐かしげに目を細める。
「ワシら亜人と人間の労働者が力を合わせて、栄えていったんじゃ。どの種族もかつては互いにいがみ合った時代もあった。他の国とも戦争して、大勢の亜人と人間が死んだ。幾らワシらが丈夫でも、上から飛行機で爆弾を落とされたらリザードマンも人間も関係無い。ワシのじいさんは大きくて強い人じゃったが、戦車には勝てなかったんじゃ……」
目許を潤ませながら、その目線が孫娘に移る。
それにつられて、シオンと紅子もキキを見た。
全員に見つめられて、キキは狼狽した。
「な、なによ?」
「だからのう、こうして小さな黄々ちゃんが、お仕事を選べるのは、とっても恵まれたことなんじゃよ」
国重の言葉に、キキは顔をしかめ、頬を膨らませた。
「わ……分かってるって! なによ、結局、お説教だったわけっ?」
ぷい、と顔を背けるキキに、国重がしょんぼりとした顔をした。妹尾一族の長も形無しである。こうやって顔に出すから、キキも祖父を舐めてしまうのだろう。
「キキ。今日の依頼の内容、分かってるか?」
シオンが声をかけると、キキは不機嫌そうな顔のままで答えた。
「分かってるもん」
「なら、言ってみろ」
促すと、キキは小声でブツブツ文句を言った。
「なんか今日のシオン、エラそう……」
「聴こえてるぞ」
些細な音も拾って動くシオンの耳を、キキは忌々しげに見た。
「依頼内容を再確認するだけだ。オレたちに説明するようにな」
「がんばれー、キキちゃん!」
「よっ、待ってました!」
発表会じゃあるまいし、ダンジョンの入り口でぱちぱちと手を叩く紅子と国重に、キキは顔を引き攣らせた。凄まじい内輪ノリである。
だがシオンを見ると、一人だけめちゃくちゃ真剣な顔をしている。早くしろ、と言わんばかりに、じっと見つめている。
そのプレッシャーに負け、キキはしぶしぶ口を開いた。
腰に両手を当て、薄い胸を張る。
「えっと、今日はね、《精霊鉱山》の《第三坑道入り口》から内部に進入して、最深部を目指すんだよ。目的は、最深部の宝箱に入ってる《翠玉の指輪》の捜索で……」
言葉を切り、キキは全員の顔を見やる。皆しごく真面目に聞いているが、キキは依頼内容を口にすればするほど、顔を赤らめていく。
「所有者であり、い……依頼者の妹尾静音さんに、遺失物を届けること……って、それってうちのおばーちゃんがいつもしてるエメラルドの指輪のことだよねっ? そもそも依頼人、うちのおばあちゃんじゃん!」
あまりの仕込み感に耐えられず、キキはキーキーと喚き出した。
だが、あくまでシオンは真面目な顔で言う。
「そうだ。依頼者の隙を狙って、誰かが盗み出したらしい。そして、この鉱山内に隠した」
「隠す意味分かんないし! それに、それだけ分かってんなら、もう犯人捕まってるよね!」
「かもな。それは当人たちと警察の問題だ」
「真面目に返すなぁ!」
「オレたちは頼まれた物を探せばいい。受けた仕事をこなすだけだ」
「なんか企んでるんでしょ、アンタたち!」
あくまで冒険者然とした態度で自分を見下ろすシオンに、キキはすっかり元気になって噛み付いていた。
それまでは、不機嫌というより、緊張していたのだろう。
妹尾邸で、一緒にダンジョンに行こうとシオンが告げて以来、キキは強がりながらも不安げだった。
キノコ採りは嫌だの何だのと言っても、怖いことは怖いのだろう。まあ、根拠も無く怖くないと思うよりマシだ。そのほうが慎重になる。
しっかりバレている通り、この依頼は完全に仕込みである。
ダンジョンも事前に一族の者が一通り探索している。ある程度の安全は確保されているし、置いてきた宝箱までのルートも事前に知らされている。
だからと言って、完全に安全とは言えない。モンスターはいつ何時でも入り込むし、事故が起こる可能性もある。
仕込みだと分かった上で気楽にやって来て、無鉄砲に突っ込んでいくようだったら、その時点でキキに冒険者失格の烙印を押すつもりだった。
シオンは、自分だけに告げられた今回の依頼内容を思い返していた――。
「シオンさん。もうご存知だと思いますが、黄々は散々甘やかされて育ちました。これは、我々家族の落ち度でもあります」
威厳溢れる雰囲気を醸し出しながら、慇懃に頭を下げたのは、国重の妻であるリザードマンの老婦人、静音だった。
リザードマンの美醜はシオンにはよく分からないが、他のリザードマンに比べれば、幾分ほっそりし、目付きがいっそう鋭い。美人……なのかもしれない。
やはり年齢を重ねると色が薄くなるのか、その皮膚は黄色がかった白燐であった。リザードマン女性の髪は男性より多いらしく、それを伸ばしてまとめ、かんざしを飾っている。豪奢な柄の着物を身に着け、指には大きなエメラルドの指輪をはめていた。
リザードマンの老夫婦は、シオンの前に並んで座し、老体とは思えぬほどしっかりと、背筋を伸ばしていた。窮屈そうな着物の下で、太い尾がしっかりとその身を支えている。
「あの娘は、赤ん坊のときに両親を事故で亡くしております。人間であった母親に似たあの姿で、我々リザードマンばかりの中で育ちました。しかし、だからと言って他の孫と分け隔てる必要はありません。たった一人、人間に似ていても、妹尾の子には変わりありません。だというのに、この人はあの子が不憫だ可哀相だと、何でも言うことを聞き、何でも買い与え、際限なく甘やかして、甘やかして、甘やかして、ここまで育ててしまった」
「ばあさん、それは、言い過ぎじゃないかのう……?」
「黙れジジイ!」
国重は大きな体を竦め、小さな声で妻に訴えたが、静音は鋭い目つきで夫を睨みつけ、グガァッ! と吼えた。国重も若者たちも、反射的にヒィ、と身を竦ませた。一族の者は皆、血気盛んな幼いころ、彼女に尻を張り飛ばされている。
キキの口が悪いのは、どうやら祖母譲りらしい。
「……とまあ、このバカジジイに甘やかされ、家族に可愛がられ、地域の皆さんにちやほやしていただいて、地元の小学校に通っている時分までは、問題ありませんでした。ですがそのように、可愛がられることしか知らない子です。それまでお嬢だ姫だのと構われていたのが、人間のお嬢さん方が通う私立中学に行くと言い出し、そこで世間というものを知って、逃げ帰りました」
「それはでものう、ばあさん、黄々ちゃんだけが悪いわけじゃ……」
「まだしのごの抜かすか、このジジイは! 叩き潰してやろうか!」
「お、奥様!」
着物の裾をはだかせ、グアッと静音が立ち上がる。袖を捲くり上げ夫に殴りかかろうとしたところを、若者たちが慌てて止めに入った。
何度か国重を蹴りつけてから、静音は着物を正し、シオンの前にきちんと座り直した。
「失礼、シオンさん」
「あ、はあ……」
耳を下げながら、シオンは唖然と呟いた。老女とはいえリザードマンの蹴りの迫力は、シオンなど一発で骨折しそうだった。リザードマンの獣堕ちとはまだ会ったことは無いが、戦いたくないと思った。
「誰が悪い、悪くないの問題じゃありません。嫌なこと一つあったくらいで尻尾を巻いて逃げ帰り、そりゃリザードマンの子が亜人慣れしてない人間の子ばかりの中に入れば、少しはそんなこともあるでしょう」
何だか自分の胸まで痛くなったが、シオンは黙って老婦人の話を聴いた。
「ならば地元の中学に編入するように言っても、プライドが邪魔していまさら亜人たちの中に戻ることも出来ない。それで逃げ道としてあの子が言い出したのが、冒険者です」
それも自分と一緒だ。シオンにはキキの気持ちが分かる。亜人だから、学校なんて行かなくてもいい、冒険者になればいいと安易に思った。
でも実際一人で冒険者になったら、失敗ばかりだった。
「冒険者になるというのなら、なれば良いでしょう。ですが、他の若い衆のように扱うことは、この人にゃあ出来やしません」
「そ、そりゃそうじゃ! 黄々ちゃんは、まだあんなに小さくて、可愛いんじゃ。冒険者なんて、危ないじゃろが!」
「あんたが押し切られたんじゃねえか!」
「だって、あのままじゃ、黄々ちゃんが引きこもりになってしまうじゃろ……! せめて……せめて、気晴らしに外にと思って……!」
「ええい、泣くな! ジジイが! 気持ち悪い!」
見た目は似ても似つかなくとも、キキが怒りっぽいのは、絶対に祖母の血だと、轟音のような声に耳を伏せながら、シオンは思った。
「ともかく、あんたとキノコを採ってるうちは、あの性根は治らねえ! 一族のモンとパーティーを組みたくないというんなら、ちょうどいいじゃねえか」
と、静音はすっかり置いていかれているシオンを、きっと見た。
そして、がばっと頭を下げた。
「シオンさん、どうか、このバカジジイとバカ孫に、世間を教えてやってくだせえ!」
「え、オレが……?」
「レベル11の厳しい目で、うちの黄々が冒険者として充分にやっていける能力を持っているか、判断してやってくだせえ! そうでないときは、きっぱり引導を渡してやってござぁさい!」
顔を上げ、静音がキキと同じ緑色の目を向ける。
「いつまでもボケジジイのお守りつきでキノコを採ってたところで、また飛び出して他人様にご迷惑かけるのがオチでございます」
「ボ、ボケジジイとはなんじゃ」
国重を無視し、両手をしっかり畳に付けたまま、静音は続ける。
「こうなったら、シオンさんにはご迷惑おかけついで、厚かましいことは重々承知の上でございます。どうかお頼み申し上げます。私共からの依頼を一つ、お受けいただきたいのです。もちろん報酬はお支払いいたします」
そう言って、再び深々と頭を下げる。いつの間にか、他のリザードマンたちも同じように頭を下げている。
そんな状況で、断れる筈も無い。
そうして冒険者センターをわざわざ通してまで、こんな大掛かりな仕事を作るのだから、彼女だって充分にキキのことを気にかけている。
祖母の静音は、実際にダンジョンに行くとなれば、甘ったれの孫娘がビビッて泣き出すと思っている。
そして、キキが認めた冒険者であるシオンに、はっきりとキキに冒険者失格のレッテルを貼ってほしいと頼んでいるのだ。
迷惑料込みの報酬も、ただの付き添いとしては破格だ。これは金が必要な紅子には嬉しい。シオンにだって、もちろんありがたい。
キキはいずれ冒険者も辞めさせられそうだが、その前に一度、一緒に仕事をしても良いと思った。必死に強がる彼女は、昔の自分を見ているようだ。これきりというのも何だか寂しい。
紅子と行く仕事の予定はまだ決まっていなかったし、断る理由は無かった。
「ていうか、シオンなんでジャージで来てんのっ? ダサッ!」
緊張がほぐれ、すっかり元気を取り戻したようで、キキはシオンの装備にあれこれ文句を付け出した。
「オレはいつもこの格好だ」
腕組みをしているシオンの手の先を見て、顔をしかめる。
「うわっ、指抜きグローブじゃん、ダサッ!」
「指の先が出てたほうがオレは好きだ」
「ジャージのくせに、ブーツだけゴツいのがまたダサいんだけど!」
「靴は丈夫じゃないと危ないだろ」
「ジャージ着てる奴が安全語るなぁ! 紅子もこれ、注意したほうがいいよ!」
とシオンを指差しながら、紅子に向かって叫ぶ。
「でも、小野原くんらしいし、私は、か、カッコいいと思うけどな……」
きゃっ、と照れながら頬に手を当てる女を、キキは白けた目で見た。
「この女、大丈夫なの?」
とキキが尋ねるのに、シオンは頷いた。
「大丈夫だ。お前と同じ新人だけど、腕の良いソーサラーだ。仕事もけっこうこなしてるし、戦闘経験もある」
「ほんとにー?」
疑わしげに、キキが紅子を見る。
紅子の装備はというと、今日はトレッキング姿では無い。シオンが実家から持って着た女性用の胸当てを身に着けている。
革製だからさほど重くも無い。胴体をぐるりと覆い、背中で紐を結ぶので、サイズも調整出来る。悲しいほど胸の薄かった桜のものだが「これなら誰でも着れるから」と父の竜胆が見つけておいてくれた。
下半身はショートパンツに、タイツとブーツを身に着けている。ブーツと魔糸製のタイツとグローブも、すべてシオンの実家にあったものだ。
シオンが紅子に装備を譲りたいと言ったので、竜胆は桜の遺品を整理してくれたのだ。タグが付けっぱなしのものや袋に入ったままの新品の物も多く、そのまま紅子に譲ると感動しつつ恐縮していたが、小野原家もようやくそれらの品を処分出来て助かった。
ほったらかしだった未使用品まで遺品扱いしていたら、永遠に片付かない。かと言って父親も中々捨てきれず、使ってもらえるなら嬉しいと言っていた。
腰にはウエストバッグと携帯用のランタンを下げ、背には相変わらずリュックサックを背負っている。そこには大量のおにぎりが入っていることをシオンは知っている。
髪はひとまとめに結い上げていて、前にしていたポニーテールよりすっきりしている。
首にはシオンを真似てか、スカーフを巻いている。
そうしていつものピンクの杖を持つと、すっかり彼女は冒険者らしく見えた。
「紅子は、ちゃんと魔法使えるの? レベルはいくつなわけ?」
とキキが偉そうに尋ねると、紅子は腰に下げた猫の顔の形をしたぬいぐるみポーチから、冒険者カードを取り出して見せた。
「じゃーん! レベル1です!」
「どこが『じゃーん』よ」
自分だってレベル1のくせに、キキが呆れ顔をする。
「でも、経験は浅羽のほうが積んでるからな」
完全に紅子を下に見ているキキを、シオンはそう嗜めた。
「戦えんの? この人」
「がんばるよ! ちょっとおたおたしちゃうけど」
「長々詠唱して何も出ないとかやめてよ」
どちらかというと、紅子は逆だ。詠唱が短いのは優秀だが、時に加減を間違う。
「がんばります!」
「浅羽、がんばり過ぎなくていい。落ち着いてやればいいから」
「あっ、はい!」
「こないだオレが言ったこと、憶えてるか?」
「うん! パニックになったら、落ち着いて深呼吸。落ち着かなかったら、落ち着くまで深呼吸、だね!」
胸の前で拳を握って、紅子が力強く言う。うん、とシオンは頷いた。
「たとえオレが目の前でモンスターに喰われてても?」
「ううっ……小野原くんが、た、食べられてる隙に、し、深呼吸して落ち着きます!」
「よし」
「うううっ……その後はきっと、助けて治すからね……!」
一体どんな光景を想像したのか、紅子は苦悶の表情で、くっと唇を噛み締めた。
「どんなよ……」
キキは心底馬鹿にした目で、そんな二人を見ていた。
だが、キキは知らなくとも、紅子はレベル1でも、そのレベルで出来る仕事以上の戦闘経験を積んでいる。幸か不幸か、モンスターにやたらと遭遇してきたお陰だ。
これでレベルが上がれば、もっと幅広い仕事が出来る。岩永が言った、この短期間で1から5までのレベル飛ばしが現実的な話だというなら、それはソーサラーというクラスの稀少性もあるだろう。協会としても、高レベルのソーサラーに任せたい仕事は沢山あるということだ。
「そうじゃぞ、黄々ちゃん。ソーサラーがパーティーに居ると、また違うぞ」
そう国重も言い聞かせた。リザードマンの多くは魔力に乏しい。
「ふん。あたしだって、ゴブリンくらいはいっぱい倒してるんだから」
キキはぷんと顔を背けた。頭にはベレー帽の代わりに、大きなリボンを結んでいて、頭を振るたびにそのリボンが揺れた。
両腰には魔法銃を下げ、背中にも大きな銃を背負っている。
リザードマンの射撃士とは珍しいが、彼女は見た目通り、能力的にもリザードマンと同じというわけにはいかないのだろう。離れて攻撃出来るガンナーは、接近戦をするよりは安全だ。
魔力が乏しくても魔法を撃てる、魔力消耗を気にしなくて良いのが、魔法銃――通称・魔銃を使うメリットである。射手にも引き金を引くための魔力が必要となるが、それはほんの少量で済む。
リザードマンは魔力の乏しい亜人であるが、キキは人間の母が魔力を持っていた。母親は冒険者でガンナーをやっていたという。彼女譲りの魔力がほんの少しだけあるということだ。
キキは普段着ているような格好だが、衣服の質がずっと良くなっている。布地はすべて最高級の魔糸で織られ、ウエストを覆うコルセットも上等な革製だ。おそらく衣服の下にも薄く丈夫な防刃インナーを身に着けているはずだ。
スカートの下には細身のズボンを履いていた。靴はリボンの付いた編み上げのブーツだ。
そのまま外を歩いていても違和感の無い格好だが、ちゃんとした冒険者用の装備だ。機能も見た目も兼ね備えた女性用、しかも子供用の装備となると、量産されているとは思えない。おそらくすべて特注品だろう。
魔法銃だって魔弾だって高価なものだ。鉛の銃弾と違って、魔法を込めた魔弾は、機械での大量生産が出来ない。すべて手仕事品なので、物にもよるが一発二百円以上はする。魔法によって値段が変わり、一発千円なんてものもある。ガンナーが少ない理由である。コストがかかり過ぎるのだ。五発で千円では、気軽に撃てない。
そのうえ所持と使用に許可が必要だ。
「そういえば、お前それ使えるのか? その銃」
シオンがキキに尋ねると、キキはむすっとした顔で答えた。
「使えるから持ってきてるんだよ」
「年齢制限無かったっけ?」
「ちゃんと訓練して資格取ってれば、競技や仕事での使用目的なら、いいのよ。普段は保護者がきちんと管理してりゃね。ちゃんと届出も出してるし。こんなもの、ソーサラー野放しにしとくより安全だと思うんだけど」
「えへへ」
何故か紅子が照れたように頭を掻く。確かに、ソーサラーは本人自体が魔法銃みたいなものだ。
「訓練してるのか」
「まあ、一応ね」
「ガンナーの元冒険者の先生を雇ってのう、コーチしてもらったんじゃ」
と国重が言う。きっとコネを駆使したのだろう。
シオンは魔法銃をあまり近くで見たことが無いので、キキが持つ銃を見て、尋ねた。
「どうやって使うんだ?」
「カンタンよ。このスイッチ押したら、弾が出るの」
「スイッチ……?」
「ここ」
と、キキは手慣れた様子で、ホルダーから魔銃を取り出すと、引き金に軽く指をかけながら、シオンに見せた。
「それは、引き金じゃないのか……?」
「ああ、それ。とにかくそのスイッチ押せばいいだけだから」
平然とキキが頷く。
先生とは、訓練とは、何なのだろう。
「大丈夫なのか? お前?」
「しっつれいね! 大丈夫だよ! そんなに言うなら、先頭は任せてよ」
キーキーと怒りながら、キキはくるんと器用に手の中で銃を回し、銃身を下に向けると再びホルダーに仕舞った。
「分かった。悪かった」
シオンは、ガンナーに苦手意識がある。
同じ仲間にしても、肩を並べて戦うファイターの動きはある程度読める。だが、いつどこから跳んでくるか分からない弾を気にして戦いたくない。腕の悪い射手なら最悪だ。以前、パニックを起こしたガンナーに、間違って背中を撃たれたことがあった。当たった自分も自分だが、そのガンナーはモンスターとファイターが入り混じる混戦の中で、無理やり撃ってきたのだ。自分も見ているだけでなく、攻撃に参加しようと焦ったのだろうが、誤射で怪我を負うほうはたまったものではない。
麻痺弾だったのでまだ良かったが、動きが止まった直後に、モンスターの攻撃を受けた。近くにいたファイターが気付いて救出してくれなければ、大怪我を負うか、死んでいた。
その後、そのガンナーはその過失でペナルティを受けたはずだ。
あくまで戦闘中の事故なので、別に罪では無い。だからこそ、冒険者同士の目は厳しい。
特に、ソロの連中が集まると、互いの評価はかなり厳しくなる。
命がかかっているのだから、あきらかにパーティーの足を引っ張る行為には誰もが敏感だ。仲間を傷つけた奴に、同じように仕事をこなしたような顔をされ、のうのうと次の仕事をされてはたまらない。シオンがされたことは、明日は我が身である。だから、協会に報告する。
もちろん協会もその様子を見たわけではないので、そんな報告一つですぐにペナルティとはならない。そういった悪評が蓄積していくと、ペナルティが発生するようだ。そのガンナーもおそらく冒険者適正に問題有りとされたのだろう。
ガンナー、ソーサラーには特に、そういった事故を起こす者が多い。それでもソーサラーがパーティーに居る便利さは、欠点を補って余りある。だが、ガンナーは別に居なくてもいい。そう考える者も多い。
ファイターの陰からこそこそ攻撃するガンナーを、「臆病者」だと揶揄する者もいる。本当の腕利きは、ファイターの動きを読み、的確なフォローをし、状況に応じて魔法弾を素早く入れ替え、ソーサラーの詠唱をしのぐ速度で、攻撃とアシストに優れると聞くが、そんな人物ならどんなパーティーからでも引く手数多だろう。シオンと同レベル帯かそれより下では、そんなガンナーは早々いない。
だがキキの場合は、このクラスであったことにシオンは正直ほっとしていた。
あの小さな体に、大鉈を持って突撃するのかと思っていた。
ガンナーなら、近接戦闘をしなくて済む。ファイターであるシオンと国重が盾になれば、ずいぶん安全に戦える。
国重は老体で、特に腰にガタが来ていると言っても、見た目はまだまだ力強い。
一応、車で送ってくれたリザードマン衆も、外で待機している。
宝箱を置いてきたときに、危険なモンスターが棲みついていないことも確認済みだ。もちろん広いダンジョンなら、一晩でどこからでも侵入してくる可能性はあるが、せいぜいゴブリンか小さな魔獣だろう。ついでに駆除しておいてほしい、とセンターから頼まれている。
ふと、シオンは気付いた。
ぽっかりと開いた坑道の入り口を、紅子がぼんやり見つめていた。
「浅羽? 大丈夫か?」
「ん? なにが?」
気になって声をかけると、紅子がいつもの様子でシオンを振り返った。
特に変わりない彼女だ。
「いや……こういうダンジョンって、初めてだから」
「うん。雰囲気あるよねー」
と緊張した面持ちで頷く。
そして、ふいに穏やかな顔になった。
「でも、思ってたより、怖くないや。この前もそうだったけど、ダンジョンってもっと怖いかなと思ってた。でも、それより、何だか……」
「何?」
坑道の奥の闇を見つめて、紅子が首を傾げる。
「懐かしい気がする」
「懐かしい?」
「わりと魔素が濃いからかな。あんまり、嫌な感じがしない」
魔素の濃度なんて、普通はあまり分からない。ただ、少し不快な気がしたり、感覚の強い者だと、気分が悪くなったりはするらしい。
魔素はすべての生き物に必要なものだが、あまりに濃過ぎるとかえって毒だ。高い魔素濃度の中に生息する生き物は限られている。
そういう場所には、深海の生物のように、未だ解明されていない種が多く存在しているという。
「……でも、ここは違うな。私が行きたいダンジョンは、ここじゃないや」
黒い瞳に鋭い光を宿し、彼女はそうきっぱりと告げた。
そんな、勘のようなもので考えて良いのだろうか?
どうしてもそう思ってしまうシオンに、紅子は確信めいて言った。
「私、きっと分かる」
そうしてシオンの目を見た紅子が、自分の心を簡単に読んだようで、シオンはどきりとした。それは、シオンの心に魔法で触れようとした透哉の目に似ていた。
いや、もっと――もっと深い。彼女の黒い瞳は、目の前にぽっかりと開いた、ダンジョンの入り口と、同じ深淵の色だ。
だからだろうか? シオンは、彼女の瞳をよく見てしまう。
自分も、迷宮の中で生まれたから。そんな憶えてもいない赤子のときの記憶で、あの暗い闇の中に、何度も潜っているのだろうか。怖いと思いながら、今日こそは死ぬかもしれないと思いながら、冒険者を続けているのだろうか。
それとも、あの奥で、いつか姉さんに、会える気がして?
「もー、行こうよ! とっとと! ちゃっちゃと、済ませるよ!」
急かすキキの大声に、シオンはぴくんと耳を跳ね上げ、顔を上げた。
紅子と目が合った。
彼女は、にこりと笑った。
「私の探してるもの、きっと、近くに行けば分かるよ、小野原くん」
彼女にしか分からない答えを得たようで、満足げに微笑んでいたが、これからの仕事はまた別の仕事なので、シオンは軽く頷いただけに留めた。
今はあまり、その話を深く聞く気にはなれなかった。