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迷宮のドールズ  作者: オグリ
二章
22/88

一族の問題

「……こういう、スライムが発生しやすいダンジョンで休むときは、乾いた場所を探して休めばいい」

 そうシオンが説明する、その足許に、小さな水溜りがあった。

 それは、水にしてはどろりとしていて、僅かに動いていた。紅子と大学生たちが、気味の悪いものを見る目で見守っている。

 スライムだ。

 謎の多い生態で、水気と魔素の多いダンジョンでよく見かけられる。

 湿度の高いところでは強いが、高温と乾燥にはめっぽう弱く、魔素の薄い街には生息しないため、見ない人間は一生見なかったりもする。

「あんまり怖がる必要はない。乾燥した場所には嫌がって来ないし、積極的に襲ってきたりもしない。どうしても寄って来そうで、気になるってときは……」

 と、シオンは背負ってきたリュックの中から、ずしりと重い袋を取り出した。

「えっ!」

 その場に居た全員が、ざわめく。

 シオンの手にある袋のパッケージと、シオンの姿をつい見比べていた。

 パッケージには、可愛らしい猫のイラストと共に、こんな商品名が付いている。『猫のおしっこラクラク吸収! すぐに固まるキャットサンド』――いわゆる猫のトイレ砂であった。


 ……なんか、誤解を受けている気がする。


「これは、こう使うんだ」

 そう言い、手にした猫砂の袋の端を、ダガーの刃で切る。

 シオンが口の開けた袋を、スライムの上で逆さまにすると、ザラザラッと音を立てて、粒の大きな砂が降り注ぐ。

 吸水性の高い砂は、たちまちスライムの水気を吸ってしまう。

「おおー」

「スライムって、こうやって倒せるのか」

 数人の大学生たちは感心し、メモを取りまくっている。

 自分でやっておいてなんだが、こんなので本当に、卒論とやらの参考になるのだろうか?

 シオンは不安に駆られつつ、彼らが熱心にメモを取る姿を見守っていた。

 そして、ぽかんと口を開けたまま動かない紅子に、言いたくなかったが弁明した。

「……浅羽。これは、オレが普段使ってるわけじゃないから」

 猫砂の袋を手にしたシオンを、紅子がはっとして見返す。

「えっ? そっ、そっ……そんなの、判ってるよ?」

 魔法が解けたかのように、急に慌てて騒ぎ出す。固まったままの笑いを浮かべながら、ランタンを持った手をガチャガチャと振った。

「やだなぁ、小野原くんったら!」

 そう言い、てへへっと頭を掻く。その笑いは、やや引き攣っていた。


 ……お前、絶対誤解しただろう。

 と心の中でシオンは思ったが、仕事中なのでそれ以上突っ込まなかった。


 今日は、卒論の資料集めをしている数名の大学生の護衛で、朝から幾つかのダンジョンに潜っている。

 あらかじめ依頼者たちが一日のタイムスケジュールを組んでおり、シオンと紅子はそれに従って移動しているだけだ。無理の無いスケジュールで、モンスターも大して現れていない。今のところは。

 有名私立大学に通っているという学生たちは、紅子のようなトレッキング姿に、リュックサックを背負っている。

 シオンは相変わらずのジャージ姿に、首にスカーフを巻き、手にグローブを嵌めている。いつもの姿である。そしてウエストバッグ、武器はナイフだけ……だが、今日は彼もリュックサックを背負っていた。

 依頼者たちがダンジョン探索について色々と学びたいようなので、猫砂を始め、色々と持ってきたのだ。

 今日もトレッキング姿の紅子は、まだ新しい装備を買う金が貯まっていない。運が悪いのかモンスター遭遇率の高い彼女だが、後衛なので彼女の身に危険が及ぶことはそう無く、今日も危険なダンジョンに行く予定は無かった。

 もちろんいずれは装備を整えるべきだが。

 シオンも先日実家に戻った際、かつて桜が買いあさっただけで気が済み、物置に仕舞われたままの防具を引っ張り出してはみたが、考えてみれば女性の装備なんて、何がどういいのか判らなかった。サイズもあるだろうし。

 思案するシオンに、父親は好奇心丸出しの笑顔で「家にお友達を連れて来なさい」と言ったが、いまいち気が乗らない。

 とはいえ、本格的にダンジョン探索を始めれば、危険なモンスターに遭遇する可能性は高くなる。父親に女友達を紹介するのが恥ずかしいとも言っていられない。

 彼女の愛用の杖は、背負ったリュックに括り付けている。

 いつも魔法で光を作っていなくても、ランタンで済むならそうしたほうがいいと、シオンが言ったのだ。

 手にしているランタンは買ったばかりの新品で、女性冒険者に人気だという小型のピンク色である。

 紅子と冒険をするようになって、こんな商品があるのかと驚くことが多い。柄がピンク色のツールナイフや、リップスティック型のスタンガンなど、女性冒険者も少なくは無いのでこういう商売も成り立つのだろう。

「スライムは、基本的には倒さなくていい。倒すなら、燃やす、乾かす、そのあたりが定番だ。ドライヤーでだって倒せる」

 ころんと転がった猫砂の塊を、シオンは見やった。

 大学生がメモを取りながら、真面目に話を聞いている。

 彼らは冒険者志望では無く、あくまで卒論の資料集めにきているからか、以前やった、新人冒険者の引率とはずいぶん雰囲気が違う。

「でも、全部倒してるとキリが無いからな。簡単な休憩くらいなら、ただ渇いた場所を探せばいい。猫砂を自分が休む周りに撒いておくと、知らない間に寄って来るってことが無い。だから行くダンジョンにスライムが多いって分かってると、持ち込む冒険者もいる。ただ、問題もあるけどな」

「ああ、重いですよね」

 メモを取りながら、大学生の一人が言う。

「それもあるけど……環境問題っていうのか? どっかのダンジョンで、どこもかしこもスライムが多いってんで、冒険者が巻きまくった猫砂だらけになってるってとこがあるらしい」

「ああー、なるほど、なるほど。そのダンジョンも行ってみたいな」

「そうね。『ダンジョンの環境問題』ってテーマは、いいかも」

 真面目そうな学生たちが、喜々として意見を交換している。

 シオンはまだ砂の残った袋の口を縛り、リュックに仕舞った。足許ではスライムの水気をすっかり吸い取った砂の塊が転がっている。

「ね、スライムって、ほんとに人を食べちゃうの?」

 紅子がおそるおそる尋ねる。

「食べることもあるらしいけど、珍しい死因じゃないか、それは。スライムって動きが遅いし好戦的でも無いから、大抵逃げられるし、食われてる間に気づきそうだけど」

「寝てる間に食べられちゃうんでしょ?」

「よく聞くウワサだな。けど、そんなドジな奴いるのかな」

 シオンは持ってきたコンビニのレジ袋に、スライムを固めた猫砂を放り込みながら答えた。

 レジ袋の口をきゅっと結び、リュックに放り込む。

 大学生の一人が尋ねる。

「やっぱりそれ、回収しないと駄目ですか?」 

「……ダンジョン内は、ゴミ捨て禁止だ」

 そもそも、いつもはこんな砂は持って来ない。

「スライムっていうと、いつの間にか忍び寄ってきて、体を溶かされるってビクビクする人も居るけど、実際はこんな動きの遅いやつに襲われるなんてことは無いよ」

 寝てる間に溶かされたなんて、多分都市伝説だ。

「大体、自分が溶けてたら途中で気付くだろ」

「たしかに」

「それと、湿ってるのが好きなわりに、水の中には入って来ない。水や寒いのに強い亜人ならいっそ水に入っちまうのも、アリかもしれないけど……」

「水に強い亜人っていうと、魚亜人マーマンや、蛇亜人ナーガとかですか?」

 学生が尋ねる。が、シオンもそれらの亜人族には会ったことも無い。

「オレもあんまり知らないけど……マーマンやナーガの冒険者って、多分あんまり居ないんじゃないかな」

「そうなんだ。冒険者さんで見たことない?」

 と尋ねる紅子に、シオンは頷いた。

「オレは無いけど、マーマンの冒険者は海や湖で活動してるって聞くな。他の亜人のことは、オレはよく分からないから……」

 人間には勘違いしている者も多いが、同じ亜人だからと、他の種族のことまで尋ねられても分からないのだ。どうも人間とそれ以外という括りにされがちだが、それぞれの生態など、それこそネットででも調べたほうが早いだろう。

「亜人冒険者で多いのは、リザードマン、ワーウルフ、ミノタウロスだろうな。頼りになるし、特に他種族がリザードマンやミノタウロスと組めたら、すごく心強いんじゃないか」

「うん。強そうだもんねー」

 紅子ののん気な声が、ダンジョン内に響く。

「小野原さんは、他の冒険者さんとも一緒に仕事されたりするんですか?」

 大学生の一人が尋ねた。

「ああ」

「種族間の違いって、やっぱりありますか? 有利不利とか。冒険者をやるにあたって」

馬亜人ケンタウロスは、ほとんどのダンジョンに入れないから、冒険者は無理じゃないか。下半分馬だから。マーマンも水中ダンジョン限定になるし」

「あ、まあ、そうですね……いえ、そういうのは置いておいて……今まで一緒にやった感想とかで、いいんですけど」

「んー……種族の違いよりも、結局は経験とか、腕じゃないか。それと、魔法が使えるかとか霊力があるかとか。人間のことを弱いって言うやつもいるけど、ちゃんと強い人もいるし。亜人だと、リザードマンとミノタウロスは、どの人もやっぱり頼もしいな。力も体力もオレたちとは全然違うし、丈夫だし。性格も優しいかんじだし……」

「あー。分かる!」

 と紅子が口を挟む。

「この前ねー、私もセンターでリザードマンの人に思いっきりぶつかっちゃったとき、すごく謝ってもらって、怪我の心配してもらったよ~。私の頭のほうがその人の顎にぶつかっちゃったのに」

 そんな話でさえ、依頼者たちは熱心にメモしている。

 こうして雑談しながらダンジョンを回り、戦闘らしい戦闘も無く、依頼者たちは真面目に話を聞いてくれる。

 はっきり言って、簡単な仕事だ。

 楽過ぎてかえって不安になり、シオンは尋ねた。

「……あの、こんな話で、参考になるのか?」

「え? もちろん、なりますよ。そりゃ、ネットで調べれば分かることもありますけど、ネットなんて嘘も本当も入り混じってますからね。資料は自分で探したほうが安心出来ますよ」

 他の大学生たちも頷く。

「そつろんって、大変なんだな……」

 シオンの呟きに、別の学生が答えた。

「卒論も大変だけど、将来のために学びたいっていうのもありますよ。コイツなんかは、ゼネコンに就職内定してるんで。な?」

 と、そのうちの一人に話を振る。話を振られた青年は、メモから顔を上げ、頷いた。

「はい。現場でリザードマンの方にお会いする機会が、多くなると思うんです。現場でよく働いていらっしゃるんで。リザードマン族は、人間と同じ学校に通うこともほとんど無いですし、僕らは普段触れ合う機会が少ないですから。同じところに住んでいても外国人みたいなもんです」

「怖くないとは聴くけど、居住区まで行って話を聴くのも、やっぱりちょっと気が引けるしね」

 うんうん、と紅子も頷く。

「でも、実際話してみると、良い人が多いよね」

 前に冒険した鷲尾も、面倒見が良く、大らかだった。彼のような性格こそ、典型的なリザードマンというのだろう。

 個性の違う亜人だらけのパーティーで、怒りっぽい猿亜人アルマスを宥めたり、おしゃべりな犬亜人ワーウルフを構ったり、彼はよく間に入ってバランスを取っていた。

「そういえば、リザードマンの人ってけっこうセンターで見かけるかも」

「リザードマンは、実際冒険者やってる人が多い。居住区で大勢で暮らしてて、大人が早いうちから子供を鍛える。それで、わりと早い時期から冒険者をやってるんだ。身許のしっかりしたリザードマン一族が後見人だから、センターも信頼してる。だから若くても経験積んでる人が多い」

 そう話していて、先日出会ったリザードマン娘・キキのことを思い出した。

 全然リザードマンらしくない。見た目もだが、性格も、穏やかな気性の持ち主が多いリザードマン族にしては短気だった。

 彼女からすれば、シオンはワーキャットらしくないワーキャットだったようだが。

「小野原くん、なんか可笑しいことあった?」

「あ、いや……」

 顔に出ていたのか、どうやら笑っていたらしい。紅子が光るランタンをシオンの顔に近づけ、不思議そうに覗き込んできた。

「浅羽、まぶしい……」

「そのランタン、可愛いですよね」

 と女子学生の一人が、紅子のランタンを指差して、言った。

「私の父が、冒険者向けのアウトドアグッズとか作ってて。その影響で、私も冒険者関係の仕事に就きたくて、冒険者協会で働きたいんです。だから、卒論のテーマもダンジョンとか冒険者関係にしようと思って」

「わぁ、すごい! 私の叔父さんとイトコのお兄ちゃんも、工場で魔法銃の弾丸とか作ってるんですよ。私も弾に魔法を込めるバイトを時々やってるんです!」

「浅羽、そんなことしてるのか……」

 というか、そんなバイトもあるのか、と感心した。自分が縁遠いので考えたことも無かったが、魔弾の魔法は人力で詰めていたなんて初めて知った。

「そうなんですか。私の父は冒険者に憧れていて、でも体力的に難しくて、諦めて、結局会社員になったんです。それでも冒険者の人が使えるような道具を作りたいって、アウトドアグッズの会社で働いていて、そんな父の話を聞いて育ったので、私も冒険者の人を助けられる仕事がしたいなと思って」

「こういう、ランタンとか作ってるんですね!」

 と紅子がランタンを掲げる。

「あ、そうです。これはメーカー違いますけど、このランタン売れてますよね。軽いし、女の人でも持ちやすいっていうのは、他にもあるんですけど、デザインとか色まで可愛いっていうのは、あんまり無いから」

「そうそう、そうなんですよ! せっかくだから、可愛いの使いたいし。柄とか色々あってもいいと思うんですよね~。こう、シマ模様とかあって、顔とかあって、耳がぴょこっと飛び出してて、にゃんこ型ランタンとか!」

 それはあんまり持って欲しくない……とシオンは思ったが、他の女子学生も含め、女性たちは盛り上がっていた。

「武器も、鞘とかもっと可愛いのあるといいよね」

「あっ、分かります! イラスト付きのは見たことあるけど、種類が少ないなって」

 紅子が嬉しそうに話に乗る。シオンは道具など使いやすければ見た目はどうでもいいが、女子は違うようだ。

 そういうことを桜も言っていた。ただ姉の場合は、いくら鞘が可愛かろうが、中から鉄板みたいに太い刃が出てきたら、余計怖いだけだと思ったが。

「女性冒険者からはそういう要望はやっぱり来るらしいんですけど、購入者が少ないと、作って販売までいくのは難しいんですよね」

「そうなんだ~。出たらちょっと高くても、お金貯めて買うのになあ」

「でも、女性冒険者も多くなってきたから、女性向けの商品も以前よりは多く作られるようになったんですよ。私は、憧れるけどやっぱりちょっと怖いから、冒険は無理ですけど……だから、女性冒険者さんには特にがんばってほしくて。浅羽さんもがんばってくださいね」

「はい! がんばります!」

 紅子が元気良く手を上げる。

 色々な人が居るんだな、とシオンは感心した。

 女性冒険者なんて危ないばかりだと思っていたが、その活躍を自分のことのように喜ぶ人もいるのだ。

 桜のファンは多かったが、それは冒険者の間だけでは無かった。防具を作っている小さな会社の社長が、オーダーメイドで作ったアーマーをプレゼントしてくれたこともあった。

 葬儀のとき、シオンは自分の哀しみに暮れてばかりだったが、そうやって彼女を愛してくれた人たちに、弟としてちゃんと挨拶しておけば良かったと、今になって思う。

 最近よく思うのは、後からなら、いくらでも後悔が出てくるということだ。

 でも、そんなことを悔いて、もう立ち止まるのは止めようと決めた。

 今しか出来ないこともある。もし桜が、思い悩むシオンの姿を見たら、きっとそんなふうに背中を叩いてくれただろう。

 もうそれをしてくれる人は居なくなってしまったのだとばかり、ずっと思っていた。

 けれど、シオンにだって仲間は作れるはずだ。紅子が仲間になってくれたように。今までたくさんの人が、手を貸してくれたように。




 帰りは、紅子の従兄の透哉が、車で迎えに来てくれた。

 もちろん紅子を迎えに来るのだが、ついでにシオンも家まで送ってくれる。

「すまないね。小野原くん、狭くて」

 運転しながら、透哉が後部座席のシオンに声をかける。

 紅子は助手席で、最初はよく喋っていたが、車が動き出して十分ほどで突然寝息を立て始めた。

 突然充電が切れたようにこてんと眠ってしまうので、最初は驚いたシオンも、一緒にいるうちに慣れた。

 疲れているので乗せてもらって当然助かるのだが、車内には芳香剤と煙草の入り混じった臭いがして、シオンには少し居心地が悪くもあった。

「そのへん適当にどかしちゃって構わないから。大事な荷物なんて無いし」

「大丈夫……です」

 シオンの横には、透哉が仕事に持って行く鞄や、汚れた作業着の入った紙袋が置いてあった。

 紅子の従兄だけあって、整った顔立ちをした青年は、シオンには羨ましい長身で、手足もすらりと長い。物腰は柔らかで、シオンにもいつも親切だ。紅子をからかいながらも、その目は優しく微笑んでいる。

 シオンが見るときはスーツ姿で、大人のファッション雑誌から抜け出てきたかのようなのに、実際は作業着を着て小さな町工場で働いているというのが、本人から受ける印象とはかけ離れている。

「いつもありがとう、小野原くん。今日も、こっこが世話かけたんじゃないかな」

「いや、こっちこそ、いつも送ってもらって……」

「それは、この子を連れて帰るついでだから。この子の面倒を見て疲れてるだろう?」

 そう言って、助手席で眠りこけている紅子を見やる。

「しかも、いつも一人で寝ちゃうしね。ごめんね、本当に」

 紅子は帰りの電車でも眠りこけていたが、車に乗ってまた眠っている。

「冒険者の仕事は疲れるだろうから。浅羽は普段学校やバイトに行ってて、週末にはオレと仕事して、大変だと思う……ます」

 ぎこちないシオンの言葉に、透哉が笑う。

「小野原くん、敬語苦手だろ。別に、普段通り喋ってくれていいよ」

「あ、いや……」

「紅子の面倒まで見てくれて、この子はツイてるな。こんなに若いうちから冒険者になるって、本当はそんなに簡単なことじゃないだろうに。小野原くんが居てくれるから、この子も楽しくやれてる」

「大したことはしてないです」

 窓の外を見ると、日はすっかり暮れている。横を通り過ぎる自動車のヘッドライトが眩しく、シオンは目を細めた。

「……今日も、安全だと思ってたのに、ダンジョン出たところで、ゴブリンが出て。浅羽の魔法に助けてもらいました」

「まさか。どうせ燃やしすぎたり、コントロール外したりしたんだろう? 加減を間違えて、森を焼いてしまわないかのほうが心配だよ」

「いや、少し延焼しただけです」

 とは言ったが、ひやりとする場面もあった。依頼者を狙おうとしたゴブリンに慌てて魔法を向け、その火力の強さで依頼者を巻き込みかけた。

 依頼者らは助けたことを感謝してくれたが、一歩間違えれば少しの延焼では済まない。

 シオン自身にも問題はあった。紅子の魔法が加わることで早く片付いたが、護衛対象の依頼者たちと、詠唱する紅子、護る対象が別々だったことで動きにぎこちなさが出てしまった。

 一人ソロのときも、他の冒険者と組んだときも、今までは素早さと手数を生かして攻める戦い方を主流としてきた。紅子と二人だけのときは、彼女を後ろに護り、彼女が攻撃魔法を唱えた。

 それに今回護衛対象が加わって、紅子が自由な動きをするのに合わせられなくなった。正直、少し邪魔になってしまったのだ。

 紅子のほうもやりにくさを感じただろう。シオンが迅速な敵の殲滅を優先し、なるべく自分だけで倒そうとしたからだ。結果、しっかり指示を出さなかったからだ。

「でも、浅羽は、カンがいいです」

「へえ、そうなの」

「はい。一回の仕事、一回の戦闘ごとに、ちゃんと成長してる。力の加減を間違うことはあるけど……最初にゴブリンを倒したときは、震えてたのに、次の戦闘ではもう立ち直ってた」

 今はもう、モンスターが現われても、取り乱したりしない。

「……強い、というか、強くなると思う」

 彼女は吸収が早い。初めての出来事に焦るのは、初心者なら当たり前だ。だけど一度学べば、きちんと対処するようになる。

 だからこそ、あまり焦ってほしくはない。短期間でレベル30を超えたほどの桜でさえ、死んだのだ。今思えば、姉は生き急いでいたと思う。本人にそんなつもりが無くとも。

「強くなる素質があっても、まだ浅羽は経験が浅い。子供だし」

「それは君もだろ?」

 シオンはかぶりを振った。

「オレは亜人で、男だから、浅羽とは違う。ダンジョンは男にだってキツい。亜人でも死ぬ。浅羽に魔力や素質があっても、どうしようもないときもある。でも経験を重ねていけば、死ぬ確率だって下がっていく。焦ると、慎重さが無くなるから、オレは浅羽にはゆっくり、強くなってほしい……です」

「普通に喋っていいってば」

 透哉が笑う。紅子に似た、人の良さそうな笑顔だ。

「君が、そういう子で良かった。本当にそう思うよ。冒険者で生計を立てるのは大変だっていうのは、重々承知してる。ダンジョンやモンスターの危険さもね。けど、そうやってこっこと同じ歳なのに、小野原くんはずっと一人で仕事してきて、自分で生計立ててるんだもんなぁ。えらいよ」

 紅子のことを話していたはずが、いつの間にか自分が絶賛されていて、シオンは顔を赤くした。

「それは、オレが単に……学校が苦手だっていうだけで」

「学校ね。僕もあんまり行ってないよ」

「そうなんですか?」

 意外な答えにシオンは驚いた。頭も人当たりも良く、問題無く通えそうな人なのに。

「昔は魔法の勉強に傾倒していた。学校なんて行くのも馬鹿馬鹿しくてさ。結局、決定的に魔力が足りなくて、物にはならなかったんだけどね」

 桜が高校をあっさり退学し、冒険者になったようなものだろうか。

「冒険者にはならなかったんですか?」

「ああ。途中で、僕には決定的に才能が無いって気付いてね。それに、冒険者になりたかったわけじゃない。魔法を使える者は、やはり一度はその道での自分の才能に期待するんじゃないかな。だが、浅羽家の魔道士とかいっても、魔力が強くてちやほやされたのは昔の話だ。僕なんてその他、凡百のソーサラーの一人だよ。その道において特別な存在では無かった」

「でも、この前、精神魔法をかけられたの、オレは気付かなかった」

 そう言いながら、シオンはスカーフの下に身に着けた魔石を指で触っていた。

 あれ以来、どうも透哉が長く喋っていると、身構えてしまう。

「ああ、あれは、ごめんね」

 透哉が申し訳無さげに笑う。

「ワーキャットは魔法にかかりやすいっていうから、試してみたというか……それと、君が身に着けている魔石の護符アミュレットが、どれくらいしっかりしてるか、気になってね」

「普通に喋ってるのに、それが詠唱なんて、全然分からなかったし……」

「うん。精神魔法ってね、コツなんだよ。魔力の多さ、強さはあまり関係無い。どんな魔法をかけたいかによっても難しさは変わる。ただペラペラと詠唱してかければいいわけじゃない。だから、魔力が強くてもこの子は苦手みたいだね」

 と言いながら、透哉が寝ている紅子を見やる。

「特に、人を騙す、従属させるタイプの魔法は、この子には向いてない。どうやって相手を引き込んで、落とし込むか。相手への接し方、話し方、説得力、信頼度や親密度、支配関係の有無、相手の精神状況……様々な要素を利用するんだ。この前の魔法は、そういうタイプ。別に小野原くんを操ろうってわけじゃなかったけど、ああいう感覚を覚えておくといいよ。悪い人に騙されないように」

「はぁ……」

 と返事はしたものの、この前のようにかけられたら、気付かないだろうなと思う。

 透哉は基本的に良い人だと思うが、ソーサラーはやはり変わっている。

「でもね、それでもいきなり『死ね』なんて命令をしても、応えてくれるわけじゃない。それだけの魔法には、必ず相手の精神も抵抗レジストしてくる。そこでさっき言ったような要素と、魔力の強さが重要になってくる」

「そうなんですか」

「うん。散々言っておいてなんだけど、あんまり怖がらなくてもいい。そんな魔法をかけるのはもちろん犯罪だしね。人に向かって害意のある魔法をかけるってことは、刃物を向けるのと同じだ。特に、魔法を使える者に対する罰はそれなりに厳しい。リスクを抱えてまで、高度な精神魔法をかける者はそういないよ。魔法で死ねと命令するより、ナイフで刺したほうがずっと早く、簡単に死んでしまうんだから」

 たしかに魔法は並外れた力だが、料理に使う包丁も使いどころによって誰かを傷つける凶器にもなる。でもそれは包丁の所為ではない。

 ようはそれを、何の為に使ったかということだろう。

「ただね。だからこそ、信頼し、心を許した者にこそ、より強い精神魔法をかけることが可能になる」

 信号待ちで停車し、透哉は隣で眠る紅子の耳許に、顔を寄せた。 

「――深くお眠り」

 そう呟き、また前を向く。

 その行動の意味を、シオンは尋ねた。

「あの、今のは?」

「魔法だよ」

 さらっと言い放つ。シオンはぎょっとしたが、透哉はこともなげに言った。

「元々眠ってる者を、より深い眠りに導いただけだよ。――小野原くん、この子に兄さんが居たって話、聞いてるんだよね?」

「あ、はい」

 突然話が変わり、シオンは慌てて頷いた。

「浅羽に、聴かせたくないような話なんですか? その、お兄さんの話は」

「過ぎたことだし、思い出させるのも可哀相だからね」

 信号が変わり、透哉はゆっくりアクセルを踏みながら、話し始めた。

「茜といって、僕の二つ下でね。生きてたら二十六歳か。歳はほとんど変わらないし、家も近かったから、兄弟みたいに育った。ソーサラーの家系なんかに生まれて、将来は一緒にソーサラーになろうなんて約束してね」

 思い出を語る透哉の声は穏やかではあったが、そこに感慨は無さげで、淡々としていた。もうとっくに過ぎたことを、ただ振り返っているだけだというように。

「君みたいに若くして冒険者になって、幾つものダンジョンに潜っていてね。彼らの父親……僕の伯父さんだが、彼はそこで亡くなった。茜はかろうじて家まで辿り着いたが、そこで死んだ。妹の目の前でね」

「死にかけた人が、どうやって帰ってきたんですか?」

 疑問を素直に口にしたシオンに、透哉は苦笑した。

「すごく現実的な質問をするね」

「あ……すみません」

「いや、怒ってないよ。冷静だなと思って。転移魔法だよ」

「転移魔法……」

 聞いたことはあるが、高度な魔法だ。そうそう使える人間はいない。だが、強い魔力を持つ紅子の兄なら、シオンには信じられた。

「ああ、多分、普段から使いこなしていたわけじゃないと思うよ。ああいうのを、火事場の馬鹿力って言うんだろうね。茜は死ぬ寸前の力をすべて使いきって、家に帰ってきた」

「それは、魔石を探して?」

「そうだね。彼らはダンジョンというダンジョンを探していた。禁忌ダンジョン――分かるよね?」

 こくんとシオンは頷いた。

 歴史的価値があるから。危険過ぎるから。その理由は様々だが、政府によって管理され、一般冒険者は申請してもまず入ることは出来ない、立ち入り禁止ダンジョンのことだ。通称『禁忌ダンジョン』と呼ばれる。

「そういったダンジョンにまで、彼らは侵入していたんだ。そこで何らかのモンスターに襲撃されたのか、罠にかかったのか、分からないけれど。茜は死に、伯父さんは戻ってすら来られなかった」

 透哉の言葉は、シオンには衝撃的だった。

「その……《たからもの》のために、そこまでして?」

 同じものを紅子も探しているのだ。彼女に協力したいと思ってはいたが、無許可で禁忌ダンジョンに入り込む必要があって、彼女もそれを望んだとしたら、シオンは止めるだろう。

「ああ。なにせ、魔石がどこにあるのかも、分からないからね。闇雲に探すうちに、そんなダンジョンにまで行くようになったんだろう」

 そんな簡単に言えることじゃない。

 見つかれば当然罪になるし、入ってはいけない理由があるから『禁忌』なのだ。中には見たことも無いような危険なモンスターが出現するダンジョンも存在する。

 不幸にも亡くなったとはいえ、紅子の父と兄は、犯罪を犯していたということになる。

 その役目を、どうして紅子は引き継ごうとするのだろう。

 単純に分からなかった。魔石の呪いを解くんだと彼女は無邪気に言っていたのに、話はそんな簡単じゃない。

「どうして」

 シオンが呟きかけたとき、深く眠っているはずの紅子が、口を開いた。

「……おのはら、くん」

「浅羽?」

 起きたのかと、シオンは助手席に声をかけた。

「あのね……これも、たべていい……?」

 えへへ、と笑う紅子の瞼は、しっかり閉じている。

「え?」

 状況が飲み込めず、シオンは目をしばたたかせた。

「寝言だね。うちでもいつもこんなかんじだから」

「ああ、なんだ……」

 そういえば、電車でもよくむにゃむにゃと何事か呟いている。

 元気で明るい彼女は、寝ている姿まで平和そうだ。

 そうだ。学校に行って、アルバイトに行って、週末には一緒に仕事して、忙しそうだが、楽しそうにいつも笑っている。

 今はまだ、山菜取りでもいい。時間をかけて、少しずつ色々なことを一緒に覚えていって、ゆっくりレベルを上げていけば、きっと紅子ならいずれ優秀な冒険者になれるだろう。

 そんなに急いで危険なダンジョンを目指す必要なんて、あるのだろうか。

 彼女の大事な人たちは、そこで亡くなったのに。

「浅羽に、同じことをさせるのか?」

 失礼かもしれないが、シオンはそう口にした。

「僕の両親は、させたいようだけど、僕はしなくていいと思ってるよ」

 あっけらかんと透哉は答えた。

「浅羽家は、あの魔石に囚われている。この子も含めてね」

 そう告げ、紅子に目線を向ける。

 シオンにしてみれば、それはおとぎ話として語られただけの、浅羽家の昔話だ。

 禁忌ダンジョンに無断で潜ってまで、人が死んでまで、それでも探したい《たからもの》なのだろうか。

 疑問に思うシオンに、透哉は言った。

「亜人であり冒険者である君には、考えられないだろうね。モンスターは出るといってもこの平和な時代に、恵まれた人間という種族に生まれて、少々仕事は苦しくてもつつましく生きられる。そんな僕たちが、いまも古い魔石なんてものに拘っている。魔石の名前は、聞いたかい?」

「いや……《たからもの》としか」

「いつまでも子供のおとぎ話だな」

 透哉が苦笑する。

「一つの大きな魔石を、六つに割った《六柱石》。ま、これもひねりは無い名前だけど」

「六……」

 どこにあるのか分からない石を、六つも探すのか。そう考えると、あまりに途方も無い話だ。

 黙ってしまったシオンを、透哉はミラーを通して見た。

「小野原くん、馬鹿馬鹿しいことだと、思うかい?」

 シオンは首を横に振った。

 馬鹿だとは思わない。ただ、分からないだけだ。それほどまでに浅羽家の人間が生活や命までかける意味を、シオンはまだ知らない。

 それに、透哉が答えた。

「これはね、古い呪いなんかじゃないんだ。茜が死んだときから、彼の呪いに囚われている」

「……呪い? それって、石の呪いじゃなくて?」

「ああ」

 ふと、様子のおかしくなった紅子のことを思い出した。

「あれは、自己暗示だって、浅羽が」

 紅子本人がそう言っていた。透哉がそう言ったのだと。

「僕がそう言った。あの子には、気負いすぎるあまりの自己暗示だと」

「違うんですか?」

 紅子は相変わらず、穏やかな顔で眠っている。

 何も不安なことは無さそうな、安心しきった寝顔だった。

「半分はそうだ。でも、きっかけになる出来事があった。自分の強い魔力に無頓着なあの子が、冒険者になってまで、魔石を探したいと思うきっかけが」

 眠る彼女とは対照的に、透哉の言葉は残酷なものだった。

「死ぬ前に、彼は呪いを残していった。あの子に、魔石を探せ、と」






 月曜日。

 土日続けてダンジョンに行き、今日は仕事を入れていない。朝起きて、またセンターに新しい仕事を探しに行く予定だ。

 紅子との仕事もだが、ソロでやる仕事も探さなければならない。


 透哉の言葉や、魔石のことは引っかかっていたが、「急いで探す必要は無い」と言っていたので、ひとまず置いておくことにした。

 今は紅子のレベル上げと、いつも通り生活費を稼ぐ必要がある。なにより紅子の装備を揃えたい。

 魔石のことは、これからまた調べていけばいい。訊きたいことがあれば何でも答えるし協力すると、透哉は言った。紅子の兄が彼女にかけ、今では彼女が自らにかけているという魔法についても、何度も解こうとはしたようだ。だが、紅子の想いと魔力が強過ぎて、透哉では太刀打ちできないという。

 ソーサラー同士の戦いは、絶対的に魔力が強いものが強いらしい。

 攻撃的な魔法も、より圧倒的な魔力で抑え込める。真に強いソーサラーの前では、魔法で生み出した風や炎も掻き消されてしまう。

 そこには、圧倒的な力量差が存在する。透哉と紅子では、潜在的な魔力量がそれほど違う。

 ただ、彼女には経験が足らず、大きな魔力に振り回されている状態だという。

 力の強い子供のようなものだ。

 鬼熊のような大きなモンスターと戦ったときは頼りになったが、そうそう大きなモンスターも出ない。

 案外、モンスターの討伐依頼のほうが向いているかもしれない。少し前にやったガルムの討伐を思い出した。が、あんな危険で凄惨な現場には行かせたくない。

 そもそも、あんな仕事はセンターからの直接の指名が多く、そう転がってはいないのだが。


 朝、布団の中でまどろんでいたシオンは、携帯電話が鳴っている音に、うっすらと目を開いた。

 誰かは分からないが、思い当たる相手は僅かだ。紅子か父親かセンターか……笹岡からの呑みの誘いか。呑めないと何度も言っているのに。

 寝ぼけまなこのまま、特に相手も確かめず、シオンは電話を取った。

「……はい」

〈あっ、おはよう、シオン! なにその声、寝てたでしょ!〉

 するとキンキンと高く耳に響く声が、いきなりまくし立てた。

〈あのね、これ、大事な電話だから、起きてね! すぐだよ!〉


 いったん電話を離し、シオンは閉じたがる瞼を指で擦った。

 最初は間違い電話かと思ったが、名前を呼ばれた気がする。


「……お前、キキか?」

〈あっ、起きたっ? もう、遅いよ!〉

 ようやく覚醒してきた頭に、キンキン声が鋭く響く。

 寝起きにはキツい。

 電話の向こうで眉をつり上げているだろう少女の姿が、ありありと脳裏に浮かんだ。

〈あのね! すごく、大事なことなの! 大事な電話してるの!〉

「……うん」

 煩いので、電話を離したまま答える。

 午前の陽光が寝起きの目に眩しい。

〈ねえ! なんか、電話遠いんだけど! 離してない? 起きてってば!〉

「起きてるよ……」

 仕方なく、シオンは電話を近づけた。ふあ、と欠伸をすると、聴こえていたらしく怒られた。

〈欠伸するな! あのね、今から、おじいちゃんに替わるから!〉

「……なんで?」

 キノコを一緒に採っているという彼女の祖父のことだろうが、その老リザードマンが、一体シオンに何の用があるというのだろうか。

〈なんでもいいから! それでね、おじいちゃんが何か質問してきたら、全部『はい』って答えるんだよ! 分かった?〉

 分からん。

 とシオンは思ったが、まだ完全に頭は回っていない。

 いや、回っていたとしても、唐突過ぎるこの状況は飲み込めないだろう。

 朝っぱらから何の用で電話をしてきたのか。

 何故、おじいちゃんと喋らなければいけないのか。

 その上、そのおじいちゃんに質問を受け、どうして「はい」しか答えてはいけないのか。

 そして……これらのことを、どこから質問すれば良いのか。すべてよく分からないまま、キキは勝手に喋ったあげく、シオンの意向も聴かず、さっさとおじいちゃんとやらに替わってしまった。

〈はい、おじいちゃん! シオン起きたよ!〉

「……え?」

 ここでいきなり知らない老リザードマンが電話に出てくるのかと、やや人見知り気味なシオンは、一気に目を醒まし、慌てた。

「お、おい、キキ……」

 しかし時はすでに遅く、野太くしわがれた声が、受話口から重厚に響いてきた。

〈あー、もしもし、もしもし?〉

 電話越しでも、重みのある声だった。普段老人と話す機会など無いので、自然と身構えてしまう。

「あ、はい。もしもし……」

〈おお! アンタが、小野原さんですかい〉

「はあ……」

〈うちの孫娘が、まっことに世話になっております。ワシは、妹尾国重と申します。どうぞお見知りおきを〉

「あ……どうも。小野原シオンです」

 声だけで威圧感はあるが、慇懃な挨拶である。

 相手のかしこまった態度に、誰も見ていないのにシオンもつい頭を下げてしまった。

〈ワシは、神奈川県は川崎市に、居を構えておるモンでして、一線からはとうに退いておりますが、そこらの同族モンを纏めております〉

 重低音が、またも受話口から響く。

 そういえば、そんなことをキキが言っていたか。

〈まあ、隠居生活も同然でして。最近じゃ、孫にくっついて行って、年甲斐も無くシルバー冒険者なんぞやっとります。いや、まことにお恥ずかしい〉

 本当に恥ずかしげにそう言い、ガハハと大きな声で笑う。

「あ、はあ」

 布団から這い出し、その上にシオンはあぐらをかく。寝癖のついた頭を掻くと、耳がピクピクと動いた。

 自己紹介を終えると、国重が切り出した。

〈先日、新宿センターで、うちの黄々ききが、大変世話になったとかで!〉

「え? いや、そんなことは……」

〈真っ先に礼をさせていただくところですが、ここまで不義理をいたしまして。まずは、申し訳ありませんでした!〉

 そんなに畏まられることでも無い。シオンはどういう態度を取って良いのか分からず、戸惑った尻尾が布団の上でパタンパタンと動いた。

〈黄々の面倒を見ていただき、ありがとうございます。今後とも、どうぞよろしくお頼み申します〉

「オレ、別に何もしてないですけど」

 割り込みされて、泣かせて、パフェを奢っただけだ。

〈いやいや、とんでもねえ!〉

 国重の声が急に大きくなり、シオンは電話を離した。

〈それはもう、とても良くしていただいたと! それ以来、黄々は小野原さんの話ばっかりで……〉

〈もー、余計なこと言わないでいいから!〉

 後ろから、キキの声が聴こえてくる。

 話していたように、仲の良い祖父と孫なのだろう。

「……それで、わざわざ、礼を?」

〈それも御座いますが、実は、小野原さんに、訊きたいことがありまして。電話で失礼とは承知の上で、ご勘弁いただければ、幾つかよろしいですかい?〉

「あ、はい……」

 何を尋ねられても「はい」と言えと、キキが念押ししたのは、おそらく彼女はシオンに何か口裏を合わせてほしいのだろう。

 内容次第では簡単に「はい」とは頷けないが、出来る限りそうしてやることにした。

〈小野原さんは、ワーキャットの冒険者でいらっしゃるそうで〉

「はい」

〈お若くしてレベル11だとか〉

「はい」

〈おお! いや、まったく素晴らしい!〉

「いや……まあ、はい」

 知らない人にいきなり褒められるとむず痒いが、別に間違いはないので頷く。

 ごほん! と電話の向こうで、咳払いが聴こえる。

〈――では。最後にもう一つ〉

「はい」

〈そのような方が、うちの黄々のような駆け出しとパーティーを組んでなど、おられませんな?〉

「はい」

〈ええーっ! なんでよぉっ!〉

 こくんとシオンが頷き答えると、キキの甲高い怒声が響いた。

〈ちょっとぉ! おじいちゃんズルいよぉ! シオンには『黄々とパーティーを組んでいるのか?』って訊くって、言ってたじゃん! ちゃんとその通りに訊いてよぉ!〉

〈ええい、静かにせんかぁ! 小野原さんに失礼じゃろうが! そんなしょうもないトンチでワシを誤魔化そうたって、そうはいかんのじゃ!〉

 キキの何倍も大きな怒号に、シオンは驚いて電話を手放し、その耳がへたりと伏せられた。

 しばらくして、大きな泣き声が電話の中と外に響き渡った。

〈うっ、うわぁぁぁぁん!〉

〈き、黄々ちゃん! す、すまん! おじいちゃん、つい興奮して……! でも、そもそも黄々ちゃんがウソつくから、いかんのじゃろっ?〉

 急におたおたと慌て出した老人の声と、泣き叫ぶ少女の声が、二重の騒音と化して、シオンの部屋にこだまする。音量設定を間違えたのかと思うほどの騒がしさに、ただでさえ耳の良いシオンは、もう電話を拾う気にもならなかった。

〈ウソつきは泥棒さんの始まりじゃと、おじいちゃんいつも言って……あれっ? 黄々ちゃんっ? どこ行くんじゃっ! いかんぞ、黄々ちゃん! ちょ、ちょっと待ってくだされ小野原さん! き、黄々ちゃんが、飛び出してもうたぁ! だ、誰か、黄々ちゃんを捕まえてくれえ!〉

 布団の上に落ちた電話から、凄まじい喧騒が聴こえてきて、しばらく向こうで複数人の太い声でわーわーと騒ぐ声がした。全員リザードマンなのだろうか。想像するとすごい光景だ。

 そのうち誰もその場に居なくなったのか、静かになった。

 シオンは耳を寝かせたまま、ようやく電話を手に取り、通話を切った。

 そして、ふうと大きな息を吐き出し、思わず一人で呟いた。


「なんだったんだ……?」

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