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迷宮のドールズ  作者: オグリ
一章
20/88

紫苑

 小野原家代々の墓は、父の故郷にある。

 父の実家は長崎にあり、祖父母は今も健在だが、桜とシオンにとっては馴染みの深い土地ではない。そんなに遠くては可哀相だからと父は言って、家に一番近い霊園に、桜だけの墓を作った。

 それでもそこに、桜の魂があるとは思えない。ただ石に名前が刻まれているだけ。そう思う場所に、シオンは毎月訪れる。わざわざ月命日と違う日を選ぶのは、父親と鉢合わせしないためにだ。


 時間はいつも夕方を選ぶ。

 人気の無い霊園を、シオンは近くの生花店で買った花束を手に、歩いた。

 黄昏どきの霊園は寂しかった。

 立ち並ぶ墓石の間を、まっすぐに進む。

 まめに手入れされ、美しく夕日を照り返らせているものもあれば、訪れるものが少ないのか、表面がうっすら埃かぶっているものもあった。

 桜の墓はまだ新しく、いつ訪れても花が備えてあった。父だろう。桜の友人もまだ何人か訪れてくれているのかもしれない。

 供えてあった花がしおれていたので、シオンは自分が持って来たものと取り替えた。仏花なんて供えたら「辛気くさい」と桜に祟られそうなので、なるべく華やかな花を買うことにしている。和風の墓石にまったく似合わないが、彼女は薔薇が好きだった。

 花の女王のような顔をして、花屋の一番目立つ場所に飾られていた薔薇の中で、せめて控えめな白を店員が選んでくれた。毎月来る所為か、すっかり憶えられている。理由は多分、自分が猫亜人ワーキャットだからだ。

 閑静な住宅街。数十年前に、子育てのしやすいのびのびとした環境をうたって開発されたニュータウンだが、人間にとって住みやすい街に、かえって亜人は少ない。

 育った街ではあるが、シオンもどちらかというと、もう少しごちゃごちゃとした街のほうが住みやすい。

 こういう場所では、シオンはどうしても目立つ。姉の死をきっかけに街を離れたことは、そういう意味でも良かった。

 最後のほうの記憶は、姉が死んだことと、その前に中学を不登校になったことだ。街を歩いていて、昔の同級生にばったり会うのも嫌だった。紅子のように良い奴もいたと思うが、大抵、悪い思い出のほうが印象深く残る。中学校の前なんて通りたくもなかった。


 花を取り替えたあと、貸し出し自由の桶に汲んできた水と持参したタオルで、墓石を磨いた。

 誰かが、霊園の中を歩いてくる。石の道を歩く足音に、耳の良いシオンは当然気付いていた。

 こんな時間でも、シオン以外に墓参りに来る者も当然いる。そう思って気に留めていなかった。

 このあと、家に帰ることに、緊張していたのかもしれない。不安な気持ちを振り払うように、黙々と墓石磨きに徹してしまっていた。

 足音が、シオンに近づいてきた。真後ろで止まる。


「いつも、そうしてるのか。ありがとう」

 手を止め、振り返ると、父が立っていた。

 小野原竜胆おのはらりんどう。桜の実父で、シオンを育ててくれた養父。

 西日を背に受けて、翳った顔に浮かぶ微笑みも、シオンの記憶の中にある優しい眼差しも、何一つ変わらない。

 ひょろりとした長身も、少し猫背なところも、十歳くらい若く見られる童顔も、まったく垢抜けない黒縁の眼鏡も、起きたときのままのようなぼさぼさの頭も、シオンと同じで身なりに気を遣わない――いや、もっと酷い、よれたTシャツと、古ぼけたジーンズ、それにサンダル履きの姿も、すべて思い出から抜け出してきたかのようだった。

「久しぶり。紫苑しおん

「……父さん」

 それしか言う言葉が無く、シオンは墓を磨く姿勢のまま、呟いた。

「元気かい? 大きくなっ……て無い、みたいだね。あまり」

 嘘のつけない父親は、そう言って、はは、と笑った。

 手には花束を携えている。

「でも、体つきはしっかりしたかな」

 安心したように言う。最後に別れたときの息子の姿が、不健康に痩せ細った、酷いものだったから、無理も無い。

 シオンは色々と言葉を探し、いくつも噛み殺し、口にしたのは結局、照れ隠しの悪態だった。

「……父さんは、もっと老けてるかと思った」

「そんなすぐには老けないよ」

 彼は気を悪くしたふうも無く、しっかり反論はした。

「最近運動もしてるから、引き締まって、ツヤツヤしてるよ。そりゃ、君からしたらジジイかもしれないけど、冒険者も四十代からが盛りって言うし……」

「そんなの、聞いたこと無い」

 話し出すと長くなる父親の言葉を、シオンは笑って遮った。笑顔を絶やさない父につられてか、自然と笑みが零れた。

「そりゃあ、本当に若い子に対して、わざわざそんなこと言う奴は居ない」

 自分に向き直った息子の姿を、竜胆は改めて見やり、目を細めた。

「ああ、でも、こうして見ると、やっぱり大きくなったな。目線が違うや」

「少しは。でも、もう伸びないかも」

 シオンからすれば、見下ろされているということに変わりない。

「息子としては、親父の背を抜かしたかったんだけど」

「まだ子供のくせに。なにをもう成長期が終わったみたいなこと言ってるんだ? これからだよ。父さんなんて二十歳過ぎてまだ伸びてたんだ。でも父さんも、自分の父さんの背を抜かせなかったけどね。じいさんは身長185センチもあって、亜人の血が入ってるってよく言われてたんだ。で、栄養のあるもの食べて、ちゃんと寝てるのかい? 紫苑」

「うん」

「そうか。良かった」

 竜胆はそう言って深く笑い、シオンの肩をぽんと叩くと、自分も墓に花を供えた。桜が見たら怒りそうな地味で小さな黄色い花を、白い薔薇に添えるように飾ると、引き立て役を得た大輪の花の女王は、夕陽を花弁に受けて燃えるように咲き誇った。

「そこの花屋で、薔薇を買おうと思ったんだ。そしたら、ついさっきワーキャットの男の子も、薔薇を買って行ったって言うからね。かぶるから、これにした」

 どうりで、桜好みで無い花だ。だが墓が薔薇まみれになるよりずっと良い。

 桜の墓の前に屈み、竜胆はしばらく手を合わせた。

 それから顔を上げると、濡れたタオルを持ったままのシオンに、告げた。

「じゃあ、掃除して、帰ろう」




 シオンが家に帰ろうと思ったころ、竜胆もそろそろシオンが戻って来るような気がしていた、と言った。

「もう、じきに二年も経つんだ。その間も紫苑が、毎月この街に戻って来て、桜の墓を参ってることは、気付いてた。あの子が大きな薔薇の花が好きだってことを知っていて、必ず墓を綺麗にしてくれてる。そんな律儀なのは僕の息子くらいだよ。育て方が良かったんだな」

 霊園からの帰り道で、竜胆が言った。

「……それに、いつも月命日の少し前にちゃんと来てるのが、なんかいじらしかったなぁ。月命日には僕がやって来るのを分かってて、ちゃんと来てるぞって教えてくれてるみたいでさ」

 と言って微笑む父親に、シオンは気恥ずかしくなり、顔をしかめた。

「別に……そういうわけじゃねーけど」

「本当に、良い子に育ったなーって、思えば思うほど、お前に悪いことをしたなって思った」

 高台にある墓地からの坂道を下りながら、彼はぽつぽつと語った。

 少し離れて、シオンは父親は並んで歩いた。

「親が子供を守らないといけないのに、投げ出してしまった。あのとき僕は君に、一生苦しんで生きろなんて、酷い言葉を言ってしまったな」

 日が暮れかかり、オレンジと黒の入り混じった空が、眼下に広がる街を覆っている。

 シオンは父の横顔を見た。

「あれは、オレがメシも食わずにいたから……父さんには、迷惑かけたと思ってる。父さんだって……父さんのほうが辛くて、大変だったのに、オレは父さんのこと何も助けなかった」

 桜の死は、ただの死ではなかった。哀しみに浸る暇も無く、葬儀の準備をして、その最中にも、テレビや新聞や週刊誌の記者が取材に来た。

 テレビと新聞は淡白なもので、いち冒険者の事故死として簡単に報道しただけで、あっさり別のニュースに押し流されていった。逆に、一部の週刊誌はこの話題に執心した。

 冒険者の死など珍しくは無いが、将来を嘱望された若く美しい少女が、遺体も残さず喰われるという凄惨な死を遂げた。下手な創作よりもセンセーショナルな事件は、しばらくネタの種になると踏んだのだろう。どこから持ち出されたのか桜の勝ち気な笑顔の写真の横に、『美少女冒険者の怪死』なんてオカルトな見出しを付けられて、不愉快でない遺族なんていない。

 近所の誰がペラペラと語ってくれたのか、父親はそれなりの経歴を持つ元冒険者で、とっくに離婚した母親は、葬儀にすら顔を見せない。亜人の子供を拾って育てており、その子供は不登校。掘れば掘るほど週刊誌が好みそうなネタが、あることないことを折り混ぜ、書き並べられた。その裏に、父や冒険者に対するバッシングが見え隠れするものだったようだ。シオンはとても読む気になれなかったが、父の友人からそう教えられた。

「……あのとき、オレは何の助けにもならなかったから……父さんのほうが、色々あって疲れてたのに」

 話しながら、上手く言葉が続けられなくなって、歯噛みした。うなだれるシオンを、竜胆は案外明るく、笑い飛ばした。

「そんなこと、すべて親がやるのは当たり前だよ。君より父さんのほうが大人なんだ。十四歳でお姉ちゃんを亡くした君が塞ぎ込んで、何が悪いものか。そんなことを後悔しなくていい。僕は君が思ってるよりは強いよ。ほら、そんなに尻尾下げるなよ」

「尻尾は関係無い……」

 小さくシオンが反抗すると、竜胆はまた笑った。

「もう少し、あのときの話をしていいかい?」

「うん」

「紫苑があんな状態で、かえって気を張ってたのもあるんだよ。残されたこの子だけは守らないといけない。親として誰にも、弱いところを見せたくなかった。それがむしろ良かったと思う。少なくとも葬儀まではしゃんとしていられたからね。草間にしばらく君を預かることを提案されたときも、最初は突っぱねたんだよ。そのときは桜が死んで悲しいということより、君まで手放して、男の片親だからどちらも育てられなかったっていう、レッテルを張られるようで嫌だったんだ。何だろうな。意地だったんだろう。実は、君を育てようと決めたとき、色んな人から反対されたからね」

 それはそうだろう。だがそれを、父の口から聴くのは初めてだった。

「そこで君を投げ出してしまったら、ほら、やっぱり、って言われるような気がしてさ。君のことより、桜のことより、自分の見栄に拘ってしまった。そんな意地になってる場合かって草間に叱られてさ。プライドに拘って、全然息子のことを見てないだろって。まあ、正直そのときは、お前みたいに独り身を楽しんでる奴に何が分かるんだって、八つ当たりしたけどね。でも、その通りだったよ。いくら意地張ってみても、君にどうやってご飯食べさせて、風呂に入れさせて、眠らせられるのか、ちっとも分からなかった」

「ごめん」

「謝らなくていいさ。こっちこそ、今更グチグチと申し訳ない。とにかく、君が重荷なんてわけじゃなかったんだ。僕のつまらない意地で、僕自身、しっかり桜の死と向き合えていなかったのに。そんな僕も、君をケア出来るほどの精神状態でもなかったんだ。草間が思わず提案したくなるほど、酷かったのかな、傍目に見て。それでとりあえず、落ち着くまで離れて暮らせって提案したんだろう。それもなんか乱暴だけどさ。女性だったら、もっと違う方法を思いついたのかなーとも思うけど。でも、草間のことは信頼出来たから、任せられた」

 シオンは頷いた。

「うん。良くしてもらったよ。あの人、口は悪いけど」

「口は悪いな。神経質だし」

「でも、適当に構ってくれたし、適当に放っておいてもらえた。父さんにだと、オレもいつまでも甘えてたんじゃないかな」

「うーん。結果的に、親離れの時期が早くなったのは寂しい」

 冗談かと思ったら真面目に残念そうな顔をしていたので、シオンは呆れて笑った。

「男だし」

「そんなもんかな? お姉ちゃんもさっぱりしてたからなぁ。姉弟が仲良くてありがたかったけど、桜は君のこと、弟以上に大事にしてたから」

 その言葉に、シオンは体を強張らせた。だが竜胆は、そんなシオンの様子を知ってか知らずか、言葉を続けた。

「お姉ちゃんでもあって、紫苑の母親の役割もやりたがってたからね。男の子みたいな子ではあったけどさ。だから桜が死んだことが、君にとっては姉と母が同時に死んだぐらい辛かっただろうなと思うよ。本当に、それが可哀相だった」

 ゆっくり、シオンは首を横に振った。足が止まった息子を、少し先まで歩いた父親が振り返る。

 夕暮れの中で少年は顔を俯かせ、叱られた子供のように、哀しげな顔をしていた。

「可哀相なのは、サクラだ。オレじゃない」

 竜胆は息子の前まで歩いて戻り、片方の肩をぽんと叩いた。

「ああ。みんな辛かったな。そうやって、誰のほうがとか、誰が一番とか、比べられるものじゃない。みんな桜が好きだった。だから彼女が死んで、とても辛かった。紫苑も、僕も」

 シオンは再び、首を横に振った。父親の言葉の何を否定したいのか分からなかったが、顔を上げられなかった。

「ごめんな、紫苑」

 大きくゴツゴツした手が、まだ少年らしさの残る薄い肩を擦る。

「二年やそこらで吹っ切るなんて、無理だよな。家族を失った哀しみに、終わりなんて無いよ。でも、いますぐに理解しようとしなくていいから、これだけは分かっていてほしいんだ。君が気に病むことなんて、一つも無い。それだけは、父さんが保証する」

 父親の手が、子供のときよくそうされたように、シオンの頭を撫でた。シオンは俯いたまま、やはり子供のように、父親の手のひらの感触を懐かしく感じた。そうされているうちに、少しだけ心が軽くなって、ようやくかすかに頷いた。




 坂道を下りきるころには、ほとんど日が暮れていた。街の中を歩くのに辺りが暗いのは、シオンにとっては良かった。たとえ知り合いに会っても、互いの顔がよく分からない。

「紫苑。今日は、家に泊まって行くだろう?」

「んー……」

 墓参りをして、父に会うという目的は果たした。二年近く帰って居ない実家に、あれほど戻りたいと思ったのに、実際にそう言われると、これ以上何か話すことがあるのだろうかとも思ってしまった。もはや他人の家を訪ねる気分だ。

 シオンの葛藤を見透かすように、父は笑って言った。

「紫苑に訊くのが間違いだな。遠慮することは無いよ。泊まりなさい。一回戻っておけば、また自分の家っていう気がするから。何食べたい? 何食える?」

「今は、何でも……多分食える」

「普段、何食ってるんだ。外食?」

 シオンは正直に頷いた。

「それか、コンビニのとか。ラーメンとか」

「草間め。食事の作り方くらい教えてくれなかったのか」

「いや、少しなら分かるけど。なんか、面倒で……」

「父さんが腕をふるってやりたいところだが、実はうちにも何も無い。買い物して準備までしてると、遅くなるから、何か買って帰るか。弁当でいいか?」

「うん」

 家に帰る前に、近所にいつの間にか出来ていた弁当屋で、弁当を二つ買った。

 馴染みの商店街を通らなかったのは、未だ地元に苦手意識を持つ息子に対する、父の配慮だろう。

「ここ、最近出来たんだ」

 と真新しさを感じるチェーンの弁当屋を出て、竜胆が言った。

「ここが出来ちゃって、ついよく世話になってる。実は、父さんも弁当ばっかりなんだ。最近、仕事が終わると疲れてね」

 竜胆は以前、子育てのために家で出来る仕事がしたいと、冒険者時代のつてを活かして、いくつかの小さな雑誌にコラムを書いたりしていた。一つ一つは大した収入にはならなかったが、その人の良さから、コネで仕事を貰えていたようだった。足りないぶんは冒険者時代の貯金を切り崩したり、知り合いの編集者がたまったコラムをまとめて本にしてくれ、印税が入ることもあった。

「仕事って、いまも何か書いてんの?」

「いや、桜が死んでからは、あまり。桜の記事を書きたい記者が、未だにしつこくてさ。そういう仕事から遠ざかりたかったのもあるけど、あの程度の話を書ける元冒険者なんていくらでもいるからね。ずっと休んでたら、さすがに干されたり、その間に連載してた雑誌がいくつか休刊してた。まあ、ネタも尽きてきてたしね。ほぼ休業。桜のことを本にしないかとは言われるけど。もちろん断ってるよ」

 うんざりしたように竜胆が言う。

「じゃあ、何してんだ?」

「実を言うと、また冒険者をやってる。復帰したんだ」

 返ってきた言葉に、シオンは目を見開いた。

「父さんが?」

「ああ。半年くらい前からね。腹がちょっと出て来てたんだけど、お陰で一気に痩せたよ。バリバリじゃないけどね。おもに人間の中高年の間でさ、週末冒険会とかウィークエンドパーティーとか言って流行ってるの、知ってる?」

「知らない。人間の若い奴は多いけど」

「ようは、仕事をしながら休日だけ冒険者やったり、定年後に冒険者始めたりとか、中高年の趣味として、冒険者の人気があるんだよ。若いころに出来なかったことを、金と時間に余裕が出来てから、やり出したってことかな」

「ふーん」

「そういう人たちの引率とかしてる。冒険者の手ほどきっていうか、ガイドっていうか、インストラクターって言うのかな」

「キツそう」

 一度だけやった引率のことを思い出し、シオンは思わず呟いた。

 竜胆はあっさり言った。

「そうでもない。けっこう楽しいよ。楽だし」

 たしかに、人当たりの良い父には、向いているかもしれない。

「小さな旅行会社が、そういう部門を設けてね。日帰り冒険者ツアーってね。もちろん参加者には冒険者の資格を取らせる。本格的なのじゃなくて、みんなでワイワイやって、サークルのノリで参加したいって人もいるんだよ。簡単な探索して、終わったら飲み会。ていうか、そっちがメインかもね」

 シオンにはあまり分からない世界だ。相槌しか打てず、話を聞く。

「父さんの冒険者時代の知り合いが始めたんだ。良い商売だと思う。で、僕にインストラクターをしてくれないかって誘われてね。けっこう楽しくやってる」

 父が楽しいのなら良かった。シオンがそうほっとしていると、彼は何を思い出したのか、笑いを堪えながら言った。

「いやあ、こう言っちゃ悪いけど、笑えるトラブルとかあるんだよね。若い人と違って体力は落ちてるし、腹がつかえる人が多いから、潜るダンジョンの通路の幅とか考慮しながら、スタッフと打ち合わせしてるよ。六十過ぎて初めて魔法の才能がそこそこあるのが分かった人がいたりね。父さんなんてノリノリで自作のしおりまで作って配ってるよ」

 こういうことに好奇心が強く、悪く言えばちょっとふざけたところのある父には、天職かもしれない。桜の社交性の高さも、竜胆から受け継いだものだ。

「それに、未練がましいかもしれないけど、桜を探してる」

「サクラを?」

「いや、あの子が生きてるって意味じゃない。頭では判ってるよ。でも、遺体が見つからない以上、どこかで期待してしまうんだよ。いつか、どこかで会うかもしれないってね。それと自分が冒険者をやることで、その影を追ってるのかな。あの子と一緒に生きている気になっているのかもしれない」

 そう話す竜胆は、少しの痛々しさもシオンに感じさせなかった。彼なりに心の整理はついているのだろう。それでも、親は子の姿を探してしまうというだけだ。永遠に。

 それに哀しさを感じさせないのは、もう一人の残った子供に、心配をかけないためだろう。あっけらかんとそれを言う。

「ま、父さんは楽しくやってる。紫苑に心配されるようなことは何も無いよ。君こそどう? 困ったことは無い?」

「オレも楽しくやってる」

 胸の痛みを抑えながら、シオンは短く答えた。

 父はシオンを見て、にこにこと笑っている。

「そうかー。君の苦労話は、あとでゆっくり聴かせてもらおうかな」

「いや、メシ食ったら寝たい……」

「何言ってるんだ。寝かせるか。父さんだって積もる話はあるんだ。三日くらい泊まっていけよ」

「いや、明日帰るよ。オレも仕事しないと」

「うちから通えばいいじゃないか。新宿センターだろ?」

「うん……まあ、また来るから」

「うーん、息子ってドライだな。あ、うちは娘もだったか」

 父が手に提げた弁当の袋が、ガサガサと音を立てる。

 本気で寂しがっているわけでは無いだろうが、シオンは言った。

「ほんとに、また来るよ。これからは、たまに顔出す」

「嬉しいね」

 久しぶりに会っても、父はやっぱり父だった。離れて過ごした時間は、シオンが思っていたよりも、簡単に埋まってしまった。それ以上の長い時間を、自分たちはちゃんと親子として過ごしたのだ。

 そんなことも忘れてしまっていた。




 家は少しも変わっていなかった。元々が古くて、どこか壊れるたびに竜胆が手入れしていた。変わったことといえば、整っていた庭のそこかしこに雑草が生え放題になっていた。

 門扉を通って、視界の端に入った庭を見やるシオンに、竜胆は恥ずかしげに言った。

「あー。雑草、抜いてないんだよね」

「忙しいのか?」

「いや、面倒なだけだね。時間に余裕はあるはずなんだけど、何となく手を付ける気にならなくて、腰が重い。どうせ誰も見ないしね」

 それでも花壇には花が咲いていた。秋には相変わらず紫苑の花が咲くのだろうか。

 明日、帰る前に雑草だけ抜いてやろうとシオンは思った。

「はい、ただいま」

 と、今どき防犯に問題のありそうな引き戸を開き、父が先に家に入る。

 シオンもその後ろをついて家に入った。

 途端に、古い家屋独特の匂いがした。ああ、この家だ、とシオンは思った。自分が育った場所。思い出のつまった場所。

 普段は一人の家に帰るだけなので、口にするのも久しぶりの言葉を、ぎこちなく呟く。

「……ただいま」

「はい、おかえり。紫苑」

 先に入った父が、笑顔でそう返してくれた。父らしい気遣いに嬉しさを憶え、同時に気恥ずかしさをこらえて、シオンは家に上がった。




 弁当を食べたあとには、風呂の用意をしてくれた。

 いつもはアパートの狭い浴室でさっとシャワーを浴びるだけなので、久々に足を伸ばして湯船に浸かった。

 真新しいタオルと、着替えも用意してくれた。衣服は以前自分が着ていたものだ。二年前のものだが、それほどサイズも変わらない。竜胆にあまり大きくなっていないと言われても仕方が無い。

 肩にバスタオルを引っかけたまま、浴室を出たシオンは、家のどこかにいる父親にそう声をかけた。

「父さん。オレもう、風呂使ったから」

「あー、うん」

 と声が返ってきた。シオンの部屋のほうだ。寝床の用意をしてくれているのだろう。

 濡れた髪を拭きながら、昔よくそうしていたように、縁側に向かった。

 縁側に座って、昼でも夜でも庭を眺めた。庭の風景が特別好きというわけでは無かったが、父親が少しでも楽しい家にしようと一生懸命作った場所だ。古い家も小さな庭も、家族への愛情の表れという気がした。そこが今、眺める者もいなくて荒れてしまっているのは、少し寂しい気がした。

 竜胆が慌てて、虫除けの線香を持って来た。

「草が多いから、虫が多いよ」

 煙の匂いがシオンの鼻をつく。

「暗いし、荒れてるから、見てもあまり面白く無いと思うけど。中に入ったら?」

「うん。でも、ここでいい」

「変わらないなぁ、君は」

 そう言って竜胆は一度その場を去り、すでに飲み物を片手に戻って来た。

「ほら、紫苑」

 コップに入った冷たい麦茶をシオンに手渡す。

「ありがとう」

「こっちでもいいけど」

 と、自分は缶ビールを持って来ていた。シオンは頭を振った。

「いや、いい」

「酒はやらない?」

「やったらダメだろ。オレの歳、忘れたのか」

「憶えてる。今年で十七だよ。といっても、その歳で冒険者なんてやってたら、周りが悪いこと誘ってくるだろ?」

「多少は」

「付き合いで飲まされたりしてないか?」

「してない。付き合わない」

「真面目な子だな。安心したよ。じゃなきゃ一人暮らしなんて、草間がさせないか」

「うん」

 髪を拭いていたタオルが湿って不快になってきたので、床に置いた。シオンは麦茶に口を付けた。

「とにかく、あまり人を信用しないように言われた。相手に誠実に接することと、馬鹿正直に騙されることは違うって、教えてもらった」

「草間が? あいつらしい」

 竜胆は苦笑して、缶ビールを開けた。巧そうに一口飲む。

「父さん、風呂は?」

「ん? 入るよ。これ飲んだら」

「飲んで入ったら危ねーぞ」

 竜胆は酒好きだ。ひそかにアルコールに溺れていないか、離れてからシオンは心配していた。

「一本だけだから大丈夫。いまは一日一本って決めてるんだ。それに、仕事の前の日は飲まないし。大事な息子を人に預けておいて、自分だけ酒に逃げないよ。いまの仕事に差し支えるし」

 と竜胆はシオンの心配を覆すように言った。

「仕事は、どう? 草間から聞いたけど、ずっとソロでやってるんだって?」

「うん」

「楽じゃないだろう?」

「そうでもない」

 シオンは強がって答えた。ここまでやって来るのに、大変だった。音を上げようとしたことも、何度かある。けれど、そうしていくしか、選択肢が無かった。

「ごめん、一度も父さんに連絡しないで」

「草間から聞いてるから大丈夫だよ」

 父との連絡は、シオンを預かってくれた父の友人が引き受けてくれていた。


 草間くさま青藍せいらんという名の魔道士とは、桜の葬儀で会ったのが最初だった。父からすれば信頼出来る相手でも、いきなり見知らぬ人間に、精神が不安定な息子を預けるということに、意地を抜きにしても竜胆は抵抗感を覚えた。

 草間だけでなく、桜の葬儀に長崎からやって来た竜胆の両親や親戚も、そうすることを勧めた。祖父母が預かるという案は、竜胆が断固として却下した。単純に遠過ぎる。なら、友人に預けるほうが良いと。シオンを預けた途端、竜胆はようやく気が抜け、一週間ほど貪るように眠ったという。老いた祖母が時折様子を見に来ていたようだ。

 そういう話もすべて、シオンは草間から聞いた。他人だからか、彼はシオンに哀しむ猶予を充分に与えながら、頃合を見て回復を促していった。

(これからどうする? 高校に通うのか? それともずっとブラブラしているつもりか?)

 という現実的な問いかけも、桜が冒険者になることすら止められなかった甘い父親では、とても突きつけられなかっただろう。

 ずっと不登校だったが、シオンは中学三年になっていた。地元を離れた高校に行って、新しい人間関係の中でやり直すという道もある。哀しみに塞ぎ込んでいても時は過ぎていく。入学が遅れれば、また通う気も無くなるだろう。

 答えに窮するシオンに、助け舟のような言葉を、男は言った。

(――それとも、冒険者になるのか?)

 そう言われて、桜が冒険者として死んだというのに、冒険者という仕事にそれほど抵抗感は持っていないことに、シオンは気付いた。

 中学に通わなくなってから、自然と自分は亜人の多くがそうするように、冒険者になるのだと思っていた。だが、桜の死で、父はもうそれを許さないかもしれないとも思った。シオンは草間にそう告げた。

(だったら、お前の意思は小野原に伝えておく)

 自分の父親に比べるとずいぶん老け込んで見える魔道士とは、簡潔な受け答えだけで話が済んだ。

 父親と話したいという気持ちと、まだ話したくないという気持ちと、話さなければならない気持ちの、どれもが本当だったけれど、何が正しいのかは、シオンには分からなかった。そんなシオンに、彼はあえて行動を制限した。

 家には帰るな。父親には会うな。電話もするな。したいことは正直に言え、出来るだけ協力する。

 それでどれだけ気が楽になったか分からない。

 その言葉のとおりに、冒険者になったときも、一人で暮らしたいと言ったときも、彼は協力してくれた。その過程で、シオンは竜胆と言葉を交わすことも無かった。父の様子は草間が教えてくれた。

 シオンと竜胆が再び立ち上がって、生きていく気力を取り戻すまで、二人一緒では駄目だった。第三者が引き離してくれて、良かったのだ。

 二年近く経った今でも、この家には桜が居るような気がする。懐かしくて、哀しくて、寂しい。彼女の匂いの残るこの家では、シオンはきっと立ち直れなかった。


「冒険者になることを、父さんが許してくれるとは思ってなかった」

「正直、抵抗はあったよ。でも、じゃあ紫苑を高校にやってくれなんて、遠くから言える立場でもない」

 ちびちびとビールを飲みながら、竜胆が言う。

「桜にやりたいようにさせたら、桜はあんなに若くして死んでしまった。冒険者になりたいなんて、止めるべきだったんだと、そういう後悔はあった。でも、紫苑にも、紫苑の人生がある。君も冒険者志望だったからね。桜が死ぬ以前から」

「それは、オレが人間と巧くやれなかったからだよ。亜人だから、仕方ないかと思って」

 言いながら、シオンは目を伏せた。

 部屋から光の溢れる縁側の向こうは、暗闇に沈んだ庭だ。転がり落ちたら、そのまま別の世界にでも行ってしまいそうだった。

「学校、行きたくなかったし」

「そうだね。望まないのに人間の学校に通って、中学のときみたいに辛い目に遭ったら……とも思った。紫苑が冒険者になりたいと言っていると草間から聴いて、心配はもちろんあったけれど、桜の死はどうあれ冒険者になること自体は、職業選択の一つに過ぎないからね」

「オレはただ、学校から逃げたくて、冒険者になりたかったんだ。すごくなりたいって、そういうわけじゃなかったのに。ただ、そうしなきゃいけなくて……サクラが先に冒険者になったとき、何してんだって思ったけど、心のどっかで、安心してたのかもしれない」

 シオンは夜の庭を眺めながら、生ぬるい春の夜風を受け、目を細めた。

「オレはいつも、サクラに引っ張ってもらってたから……。ずっとサクラに頼ってた……だから、サクラは、オレのことずっと、放っておけなかったんだ……」

 大分乾いた自分の髪を、くしゃくしゃと乱す。その顔には、悔恨の表情が滲んでいた。

「姉弟なんてそんなもんだよ。僕から見れば、桜のほうが君にべったりだった気がするけどね。君が周りの子供に小さいころからいじめられたり、泣かされたりするたびに、自分が守らなきゃって思ったんだ。でも、だから冒険者になったってわけじゃないと思うよ」

 父親は、ビール缶を片手に、静かに言った。

「強い子だったよな、あの子は。親が言うのもなんだけどさ。冒険者になりたいというよりは、戦うのが好きだったんだ。たとえ冒険者という職業が無くても、何らかの形で戦っていたと思うよ。それも、命を削るようなね。だからあの子が冒険者になったことについては、あまり気にしなくていい」

 半分ほど空になったビール缶を置き、竜胆はシオンの背に手を当てた。優しく、力強く擦る。その力強さに安心して、シオンは力を抜き、背中を丸めた。

「……オレが、弱かったから……学校にすら、ちゃんと行けないような奴だったから……だから、サクラは、いつまでもオレの心配ばっかり……」

 声が詰まった。シオンは片手で目許を覆い、その目尻から温かい水が漏れ出していると思ったら、自分の涙だった。

「お前は、そんなことを、ずっと気にしてたんだな」

 父親の手は、シオンがそのまま縁側から、暗闇に落ちてしまわないように、支えてくれているようだった。

「君のせいじゃない。そうやってずっと、苦しんでたんだな」

 溢れる涙を、最初は手で何度も拭っていたが、追いつかなかった。

 父親の前で泣くのは嫌だったが、多分、父親の前でなければ泣いていない。

 それ以上喋ると、声を出して泣いてしまいそうで、シオンは唇を噛み、黙って涙を拭い続けた。

 声を出せずに泣く息子の頭に、父親は手のひらを当てた。癖のある柔らかい毛のの間に指が埋まる。ほとんど人間の姿なのに、頭蓋の形は少し違っていて、獣の耳が突き出ている。


 幼いころ、それが嫌だと言って、よく泣いていた。父とも姉とも違う耳が。同じ年頃の人間の子供に、本物の耳が無くて気持ち悪いと言われ、泣かされて帰ってきた。

(ぼくの、ほんものの、みみ、どこ?)

 そう言って、顔の横――人間なら耳のある場所を、手で隠すように覆って、竜胆を見上げる。その上で、彼の耳が恥じ入るようにぺったりと寝ていた。

 人間の言葉を話して、人間の言葉に傷ついて、人間と違う自分の姿に違和感を憶える。

 死んでもおかしくなかった獣墜ちの子を、人間の世界に連れて来て、人間に拒絶されることが、正しかったかどうかなんて、答えは無い。竜胆自身が、自信を持って言いきるしかなかった。

(紫苑。君の姿は、全部本物だよ)

 そんな言葉では、まだ自分が受ける理不尽に立ち向かえない、姿形が気持ち悪いと仲間外しにされ、そうでなければ耳と尻尾を引っ張られ、散々玩具にされて帰ってきて泣きじゃくる、血の繋がらない、種族さえも違う息子を、大切に抱き上げる。温かった。生きているものの体温だ。

 何も違わない。人間じぶんと。


 あのとき片手に収まりそうだった小さな背中も、すっかり大きくなった。成長途中の体には、しっかりとした筋肉がついてきていた。

「一人で、がんばってきたんだな。大きくなってないなんて言って、ごめんな。分かるよ。苦労してきたんだろ」

 シオンは腕で顔を覆ったまま、首を横に振った。

「制服着て歩いている子たちとか、コンビニの前とかブラブラ遊んでる子たちとか見てるとさ、君のことを思い出すよ。ああ、紫苑はあの子たちと、同じ歳くらいなんだよなぁ、って。君は一人で厳しい世界に行って、がんばってたんだよな」

 何度も首を振る息子の頭を、竜胆も何度も撫でた。寝ている耳は触るとくすぐったがるので避け、後頭部の毛の上を優しく撫でる。

 シオンは嗚咽を漏らしていた。

「大変だったな。辛かっただろう? びっくりするくらい嫌なこととか、嫌な奴にもあっただろう。死ぬ思いも、したよな。僕だって冒険者だ。分かってる。心配かけようとしなくていい。怖いこともあっただろう。がんばったな。よく、今まで無事に生きていたな」

 ねぎらう竜胆の言葉と共に、ずっと一人で抱えてきた、冒険者としての日々が、シオンの脳裏に思い起こされた。

 シオンは泣きながら、誰にも言えなかったことを、吐露した。

 駆け出しのときは、足許を見られてばかりだった。歳が若くて、経験も浅く、魔法も使えない、小柄な少年の戦士ファイター。レベルの低いうちにソロでやれることは少なく、本格的な探索では、他のパーティーに入れてもらったり、簡易パーティーを組まされた。

 やらされることは、危険な先行役や、囮ばかりだった。同じ冒険者として雇われたのに、荷物持ちとして扱われることもあった。

 明らかにトラップのある場所を先に歩かされ、モンスターの集団に突っ込まされた。体が小さいことで、狭い通路や天井の低い場所のあるダンジョンに連れて行かれ、一人で進んで来いと言われた。一人で苦労して採ったものも、広い場所でのんびり休んでいた大人に取り上げられた。

 明らかに利用されてると分かっていても、出来る仕事には食らいつくしかなかった。報酬を誤魔化され、抗議すると殴られて、チクるなと脅された。一度悪い連中に目を付けられると、何度も利用された。知らずに犯罪の片棒を担ぎかけたこともある。あのままだったら、どうなっていただろう。

「その人たちは、どうなった?」

 父が、静かに尋ねた。シオンは鼻を啜りながら、小声で答えた。

「……死んだ。ダンジョンで、オレだけ、先に行かされてる間に、戻ったら、死んでた。モンスターに、喰われたのかな。びっくりして逃げたから、なんのモンスターだったのかも、分からない」

「紫苑が気に病むことじゃないよ」

「オレはいつも、逃げ足だけ速くて……」

「いいことだよ。君が生きてて良かった」

「誰か、まだ生きてたんだ。下のほう喰われながら、体の上は口からはみ出して、ぶらぶらしてた。でも、生きてた……喰られながら、オレのことを、見てた……助けてほしそうだったけど、オレは……」

「お前は間違って無い。まずは、自分が助からないといけない」

 うなだれる息子の頭を、腕で抱いた。

「父さんも、色々あった。夢ばかり見てた冒険者の仕事だったけれど、実際やってみると、大変だった。嫌なことも多かったし、嫌な人間もいた。恐ろしいモンスターも、モンスターより恐ろしい人間もいた。本気でやってる奴ほど、ヤバい奴も多い。綺麗な世界じゃない。父さんが一度辞めたとき、最後の仕事は、紫苑も知ってるね」

 父親の言葉に、シオンは小さく頷いた。

「獣墜ちの群れの討伐。――意気揚々と挑んだよ。その群れに、仲間が殺されていたんだ。パーティーみんなで、敵討ちのつもりだった」

 柔らかい風が吹き、庭の草花を揺らす。シオンの耳が小さく動いた。

「そこに、君がいた。まだ赤ん坊だった、ワーキャットが」

 彼自身も、腕の中の子供の存在を確かめるように、その頭を撫でた。

「死んだワーキャットの下から、赤ん坊のワーキャットが、這い出してきたんだ。親が抱えていたのか、たまたまそこに居たのか、分からない。ただ、産まれたばかりだとひと目で分かったよ。なのに一生懸命手足を動かしてた」

 殺すべきか、悩まなかったわけではない。どさくさに殺してしまっても、この状況なら罪悪感も少なく済む。

 パーティー内の雰囲気は、仲間の復讐でぎらついていた。仲間を喰ったモンスターを根絶やしにするのだと誓ったはずだった。

 それがいつの間にか、血の臭いに酔っていた。

「あれは討伐じゃない。復讐だった。冷静さがあったとは思えない。それが、一気に我に返ったのは、君が泣き声を上げたときだった。桜が赤ん坊のころを、思い出したよ。同じ泣き声だった。モンスターの仔が、人間の赤ちゃんとさ、同じように泣いたんだ。人間と変わらない目で、僕を見てた」

 それでもう、彼は赤ん坊を殺せなくなった。

 怒りも、殺意も、泣き声一つで失せてしまった。

 竜胆の穏やかな声が、闇に溶けていく。

「仲間を殺したのは、この子じゃない。あの群れも、生きるために人を喰うしかなかったのかもしれない。この子の親も、生まれたばかりの子を守ろうとしたのかもしれない。――僕も全部を、君に話してはいなかったね。すまない」

 シオンはかぶりを振った。

 再び漏れそうになる嗚咽を堪えながら、シオンは短く、答えた。

「父さんは、悪くない」

 本心だった。竜胆がどれほど強い意思でシオンを救い、自分の子として育てようとしても、彼はそれで自分自身を許したわけではなかっただろう。復讐という大義を掲げ、命を奪う行為に、一瞬でも酔ったことを。

 許しを与えられるのは、シオン以外に居なかった。

 だから、もう一度、言った。

「父さんは悪いことなんてしてない。オレは……いま生きてて、良かったから」




 支えてくれていた父の手から、シオンは自分から体を離した。

 近くに置いてあったバスタオルを手に取り、乱暴に顔を擦る。思っていたより泣いたのか、瞼が重たく、熱を持ってじんじんとした。

「でも――、最初はやるしかないと思ってたけど、冒険者の仕事は、いまは悪くないと思ってる。楽しくやってるっていうのは、嘘じゃない」

 コップに残っていた麦茶を飲み干す。

「うん。父さんも、冒険者の仕事は、やっぱり嫌いじゃない。色々あってもね」

「いまはレベルも上がったし、簡単にヘマもしない。いい人も居たし、いいこともあったし、知り合いも出来た。それにもう、ソロじゃないんだ。いまは、自分のパーティーを組んでる」

「本当かい?」

「うん。ちょっと前に、中学の同級生に会ったんだ。一年のとき、同じクラスだった奴なんだけど、そいつ、冒険者になったんだ。浅羽って奴」

「ああ、紫苑の隣の席だった子?」

「知ってたのか?」

「知ってるっていうか、授業参観行ったし、隣の席の子くらいはなんとなく憶えてるよ。じゃあ、ここらへんの子だね。でも、女の子なのに、冒険者かい? まだ高校生だろうに」

「サクラだってそうだったじゃないか」

「まあ、そうだけど、あの子と比べても……」

「浅羽も特別だよ。家の事情もあるけど、才能もある」

「へえ。紫苑が言うなら、そうなのかな。一度、連れておいでよ」

「そのうち」

「彼女かい?」

「違う」

「なんだ」

 残念そうに笑った竜胆を、シオンは憮然と睨んだ。なおもしつこく、竜胆は詮索してきた。

「その子のこと、好きなのかい?」

「いや、そういうのじゃなくて」

 明らかに面白がる父親から、シオンは顔を背けた。

「ごめん、ごめん」

 と竜胆はすぐに謝ってきた。

「なあ、紫苑」

「……うん」

 からかわれるのかと身構えながら、シオンは返事をした。その目許には泣いた痕がはっきり残り、うっすら赤い。

「君は男の子だから、今更ここで一緒に暮らそうなんて、言わない」

 シオンは父の横顔を見やった。

「君はもう、ちゃんと仕事をして、一人でがんばってる。君の思うように生きるといい。でも、君が本当に帰りたくなったときは、いつでもここに戻っておいで。父さんはいつでもここに居るし、君が困ったときには、力になりたいと思ってる」

 せっかく拭いたのに、また目の奥が熱くなり、涙が溢れかかって、シオンは唇をぐっと引き結んだ。黙って頷く。

 ありがとう、とようやく呟いたのが、ちゃんと声になっていたか分からない。

 今日、何度もそうされたように、父の手がぽんとシオンの背を叩く。

「父さんはずっと、紫苑の味方だ」


 静かな庭に、縁側から零れる光が漏れている。

 雑草が生えっぱなしの暗い庭ばかり見ていたが、竜胆がふと空を見上げたのにつられ、シオンも顔を上げると、大きな月が出ていた。

「今日の月、大きいなぁ。少し上を見れば、明るかったんだな」

 そう言って竜胆は、ぬるくなったビールに口をつけた。

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