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迷宮のドールズ  作者: オグリ
一章
19/88

帰路

 透哉が家に戻ると、母の茶和がダイニングの椅子に腰かけていた。

 食事の準備をしているふうも無いのに、エプロン姿のまま、俯いている。うたた寝をしているのかと思って近づくと、テーブルをじっと見つめていた。

「ただいま、母さん。具合でも悪いのか?」

「……あら、早いのね。透哉」

 声をかけると、幽鬼のように生気の無い顔を上げる。

「カーテン、閉めてるのか」

 ただでさえ日当たりの悪いダイニングは、カーテンを閉めきっている所為で、まるで日が落ちたように暗い。

「開けないで。眩しいの」

 まるで、太陽の光を浴びると体が溶けてしまうかのようだ。呻くような声。

「アンデッドじゃあるまいし。暗いところにいるほうが体に悪い」

 構わずカーテンを開けた。元々日当たりが悪いので、部屋のほとんどは陰の中に沈んでいたが、それでも眩しいと感じるのか、茶和は顔をしかめた。

「……仕事、もう終わったの?」

「まあ、適当に切り上げてきたよ。母さんの具合悪そうだったからね。今日は土曜だし。僕もここ二週間、ほとんど休んでないから。後でこっこを迎えに行きたいし」

「ああ、そう……そうだったわね」

 茶和は掠れた声で呟き、僅かな光の漏れるガラス戸を見上げ、虚ろな目を宙に彷徨わせた。その下には深いくまが浮いている。

「……こっこちゃん、冒険者になったのね……」

「そうだよ。今日が初仕事だ」

「……そういえば、あの子ったら、一体いくつおにぎり持って行ったのかしら。お米、かなり減ってたわ。買って来ないと……」

「あとで僕が買って来るよ。母さん、寝てないんだろ。横になれよ」

 コートを脱ぎ、椅子の背もたれにかけると、茶和が眉をひそめた。

「ちゃんとハンガーにかけて」

「やるよ。母さんを布団まで運んだらね」

「いいわよ、病人扱いしないで。……お父さんは?」

「まだ工場。じきに帰るだろ」

「仕事が無いのに、忙しいのね」

「だからだよ。人も減ったんだから、仕方無い」

 息子の言葉に、母親はふうと深い溜息をついた。

 テーブルに両肘をつき、手のひらで顔を覆う。

「お茶でも淹れるよ」

 と、透哉がやかんに手を伸ばしたとき、ぽつりと言葉が漏れた。

「こっこちゃん……あの子、どうして冒険者になんてなったのかしら」

 透哉は母親を振り返った。

 かつて明るく美しかった顔はやつれ、特に目の下にくっきりと浮かんだくまが、そこだけ不自然に濃いメイクを施したように、異様に浮かび上がってみえた。それは彼女が、酷い不眠状態にあることを示していた。

 だが、さっきまで重たげだった瞼が、今はしっかりと持ち上がっている。

「冒険者なんて、危ないわ」

 茫然とした様子は失せ、小さくだが、はっきりと声を上げた。

「急に、どうしたんだ。母さんたちが、それを望んだんじゃないか」

 透哉は母親の傍らに寄り添い、その肩に手を置いた。

「私が?」

 表情をきょとんとさせ、茶和は額を手で押さえた。

「そうだったかしら……? 変ね……私が?」

「やっぱり、横になれよ。布団敷くから」

 それには答えず、茶和は額に手を当てたまま、じっと白いテーブルの上を見つめた。

「私、冒険者は怖いわ……みんな、死んでしまったから」

「そうだったね。じいさんも、伯父さんも、茜も、みんなダンジョンに行って、亡くなったから」

 透哉は哀しく微笑みながら、茶和の背を擦った。

「ええ。他にも、誰か死んだわ……」

「そうだな。たくさんの人が亡くなったよ、いままで。……こっこも、浅羽一族の魔道士だから、責任を感じてるんだろうな。特に、あの子は直系だから。伯父さんたちがあんな死に方をしたというのもあるし」

「こっこちゃん……大丈夫かしら」

「大丈夫だよ。山菜を採りに行っただけだ。それより、自分の心配をしたほうがいいよ。具合はどうだい? 大丈夫?」

「そうね。さっきよりは……私、変かしら?」

「いつもは。少しね」

「そう……私、迷惑をかけてるかしら? あなたや、こっこちゃんに」

「そんなことは無いよ」

「さっきまで、頭にもやがかかってるみたいだった……。嫌な気分よ。何もかも、怖いの。夢と現実が逆になったようで。現実が悪い夢みたいで……。これで眠っても、また悪夢を見たらどうしようと思って、眠れないのよ」

「気分は悪くない?」

 まるで医者と患者のようなやり取りをしながら、茶和は少しずつ、口調をはっきりさせていく。

「ええ、今は……」

 頷く女の顔を覗き込むと、このところずっと澱んでいた目が、いつになく澄んでいた。

 まだ少し光が眩しいのか、彼女が瞼を閉じる。

 透哉はその閉ざされた瞼に、目線を合わせた。

「……僕が、分かるかい?」

 再び、瞼が開かれる。

 透哉の顔を見て、茶和が目を見開いた。

「あら、……あなた、帰ってきてたの?」

「ああ。さっきね」

「そう。無事だったのね。良かったわ……」

 ほっとしたように息をつく、ほっそりと痩せた女の背に、透哉はいたわるように手を置いた。

「僕のこと、分かるんだね?」

「分かるわ。もちろんよ。……ああ、でも、義兄さんは、戻って来られなかったのね」

 うなだれ、震える薄い背を、透哉は撫でた。やがて茶和はうっと声をつまらせ、手で顔を覆ってしまった。

「義兄さんも、あの子も……戻って来なかったのね……」

 啜り泣く。その背を、透哉は撫で続けた。子供をあやすように、優しく。その耳許で、静かに告げる。

「僕は戻って来たよ、母さん」

 顔を覆う手を掴むと、涙に濡れた顔を上げる、女の表情は子供のようなあどけなさで、目をぱちぱちと見開き、瞳を覗く青年の姿を映した。

「僕のこと、分かるね? 透哉だよ、あなたの息子の」

「……透哉? あなたは、透哉なの?」

「そうだよ。浅羽透哉。あなたの息子で、僕は生きてる」

「あなたは、生きてる……」

「そう、生きてる。ほら、ここに。母さん」

 彼女の手を掴み、テーブルの上に下ろす。指まで痩せて結婚指輪の緩くなった手を、護るように手のひらで包み込み、透哉は傍らで跪いたまま、真っ直ぐに彼女の目を見た。

「もう、なにもかも、昔の話なんだよ。伯父さんと茜は死んだ。ずいぶん前のことだ。母さんが責任を感じる必要は無い。僕も、父さんも、こっこも傍にいる。彼らは、仕方なかった。誰も助けられなかったんだよ」

 茶和は遠くを見るような瞳に、息子の姿を映し、涙を溢れさせた。夢見るような目に、透哉は語りかけた。

「透哉、あなたなの? あなた、生きているの?」

「生きてるよ。失礼だな。ほら」

 小さく笑い、証明するように、重ねた手を、そっと握る。

「母さん、魔法を使ったんだな。また、何か視たの?」

「……なにか? なにかしら。ああ、そうだわ、私、こっこちゃんの」

 ぶるっと、茶和の手が痙攣するように、強く震えた。

 遠視ヴィジョン

 古い時代――まだ魔道士がまじない師と呼ばれ、魔法が呪いと呼ばれたころ、同じ遣い手でも生まれや育ちによって、託宣者として尊ばれる者もあれば、魔人と呼ばれ忌み嫌われる者もいた。

 茶和は嫁いできた身だが、浅羽家と同じように魔力を持つ家の生まれだ。しかし大した魔法は扱えず、操作コントロールも不得手で、遠視魔法ヴィジョンという使い手の稀有な魔法を、本人も意識しないところで発現させることがあった。

 ここ数年、落ち着いていたのだが。昔可愛がっていた姪の紅子が冒険者になったことで、精神が不安定に大きく揺れたのだろう。

「紅子が、どうした?」

「そう、そうよ。……私、視たわ。こっこちゃんがね、なにか、恐ろしいモンスターと戦ってたわ……」

 ひとときは穏やかだった茶和が、激しく肩を震わせる。

「ああ、あんなモンスター……嘘よ……嘘よね? あれはただの、夢よね……」

 子供のように繰り返し問いかける茶和の手を、透哉は握り込んだ。女は頭を振り、その手を振り解こうとした。それを力で抑える。

「夢だよ。母さん」

「夢じゃないわ、視たのよ。こっこちゃんが、戦ってるのを!」

 言葉の最後は、泣き声のような悲鳴となっていた。魔力の制御しきれない魔道士によくある恐慌状態だ。

 彼女の実家は、古くは優れた巫女を何人も輩出した歴史を持つ一族だが、いまは普通の一般家庭だ。彼女自身も稀有な能力を持つがが、それを意識して扱えない以上、魔道士としては大成しなかった。

「落ち着いて、母さん。僕の目を見てごらん」

 茶和の目が見開かれる。その目を、透哉は覗き込んだ。頭を振る茶和の肩を、無理に掴んで、暴れかける体を椅子に押さえつける。

「こっこちゃんが、危ないわ。あのときみたいに、なってしまうわ。ああ、あのとき、どうして義兄さんを止めなかったのかしら……!」

「いいんだ。母さん。あなたが悪いんじゃない。あのときのことは、悪いのは、あなたじゃない」

 ヴィジョンはあまり知られる魔法ではなく、使い手も少ない。居ても茶和のように自在に使いこなせなかったり、霊媒士シャーマンたちはこれを魔法ではなく霊感だとし、第六感だとか、虫の知らせだとかで片付けている。

 だが、ヴィジョンは予感などという曖昧なものではない。発動したとき、遣い手が視ているものは、そのとき遠い場所で起こっている、事実だ。

「視えたところで、何も出来ない。仕方無いんだ。あのときのことは、伯父さんと茜がやったことだ。あなたは悪くない。それに、あれはもう、昔のことだ」

「でも、今度は、こっこちゃんが……!」

 頭を抱え、再び嗚咽を漏らす。

「大丈夫だよ。あの子は」

 紅子が行った先で、危険なモンスターと遭遇したというのは、間違いないだろう。錯乱気味でも茶和が遠視を違えることは無い。

 それでも透哉はそう不安を感じてはいなかった。

 紅子に魔法を教えたのは彼だが、彼女は教えるまでもなく、自分流の魔法を自由に編み出していった。肉体強化など苦手な分野に関しては、浅羽家に伝わる詠唱を丸暗記していったが、彼女の本領は、でたらめな魔力と、天性の才能を持った本人にしか扱えない、彼女固有の大型攻撃魔法だ。

 それだけの力を持って生まれてきた人間の存在には、意味がある。

 ここで死ぬような娘ではない。

「ああ、どうしてみんな、魔石なんて、求めるの! 義兄さんも、茜くんも、おじいさまも……!」

 すすり泣く茶和の顔を上げさせ、その目を覗き込む。

「もういい。母さん、それは終わったことだよ。こっこも、大丈夫だ。あの子はとっくにじいさんの上を行ってる。経験はともかく、能力ではもう誰も勝てない。だから……もういいんだ。もう、眠りなさい」

 やんわり告げるとともに、彼女の目の前を、手のひらで覆う。

「遊んでおいで。まどろみの中に。誰も追ってはこない、あなただけの逃げ場所。いつわりの夜の訪れ。誰も侵せはしない、あなたの魂のしとね。――さあ……おやすみ」

 睡眠スリープの魔法が完成する。

 取り乱していた茶和の体が、ふっと糸の切れた人形のように崩れた。その体を抱き止め、透哉は子供をあやすように、彼女の頭を撫でた。すでに寝息を立てている。

 その寝顔には、脂汗が浮かんでいた。肌に張り付いた髪を、透哉は指で剥がしてやった。

 あまり良い状態では無い。体を抱えると、子供のように軽かった。不眠に、拒食。あまり長引くと、命に関わる。

 夫は、妻の一貫性の取れない言葉が聞くに耐えないのか、仕事場に入り浸っている。

 歪な家庭の中で、彼らの娘でもない紅子だけが、一生懸命バランスを取ろうとしていた。

「大丈夫だよ。……母さん」

 布団に運び、憔悴した顔で眠っている茶和を安堵させるように、遠哉はその傍らで呟いた。

「紅子は死なない。あの子はきっと、これまでの浅羽一族で、最強の魔道士だ」






 鬼熊を仕留めたことを、管理小屋に連絡した蒼兵衛は、このまま捕らえた密猟者たちのところへ戻ると言った。

「後の始末はしておく。君たちは好きにするといい」

 蒼兵衛がそう言ってくれた。面倒ごとから遠ざけてくれたのだ。

 このまま蒼兵衛についていけば、駆けつけた警察からの事情聴取が始まるだろう。密猟も、モンスターの襲撃も、山では珍しくも無い。業務的というだけならまだしも、いかにも面倒くさげな様子の警官がやって来て、形通りの事情聴取をされたうえ、名前やら年齢やら住所やら延々と聴かれるのは嫌だし、正直助かった。

「ありがとう」

「こっちのセリフだ。思ったより事は早く済んだしな」

 鬼熊の仔たちは、包んでいた衣服ごと、巣穴に押し込めてきた。

 その中に親が貯蔵していた餌があれば良いが、無かったとしても雑食性の彼らは辛い狩りをしなくとも生きていけるだろう。

 それでも大きくなる前に、別のモンスターに狩られることもあるかもしれないが、それはもうシオンたちの関知するところではない。

 これまでもそうしてひそやかに、この山で鬼熊たちは生きていたのだろうから。

「私は契約の範囲内の仕事をしたが、君たちはボランティアだ。鬼熊の死体は、そのままでいいのか? 何も要らないのか? 牙とか爪とか毛皮とか、いまならこっそり持って行けるぞ」

「持ってってどうすんだよ、そんなの」

「売るとか、家に飾るとか」

「あんな大きな死体の解体なんて出来ねーし、売りさばくあても無いよ。大体、勝手に稀少レアモンスターの素材なんて売ったら捕まるだろ。アンタらに任せる」

「そうか。まあ、研究所にでも譲渡されるだろうな」

 あっさりと、蒼兵衛が言った。

「アンタこそ、埋めるとか言い出すかと思った」

「土に還るのが自然なんだろうが、これだけの騒ぎになっているからな。そうもいかないだろう。研究用になるか、剥製になるか。どちらにせよ、魂はもう森に還っている」

 なかなか真顔では言えないセリフも、彼自体が浮き世離れしているので、あまり気にならない。というか、突っ込むところは他にも色々あったはずだが、それももうすっかり慣れてしまっていた。

 出会い方は最悪だったが、自称サムライの警備員は、その強さも含めて不思議な人物だった。

 彼なりのお洒落だったのだろうが、どうにも野暮ったかったコートを脱いだ蒼兵衛は、下にタートルネックのシャツ一枚で、シルエットがすっきりとしたぶん、かえって若々しく見えた。手足の長さが目立つ。刀を手にしているのも様になっていた。二十代半ばくらいに見えていたが、もっと若いかもしれない。

「君は、ワーキャットらしくないな」

 そう言いながら、蒼兵衛が右手を差し出した。シオンも手を差し出し、握手を交わした。

「そう言えばアンタ、ワーキャットが嫌いなんだっけ」

「ああ。私の知っているワーキャットは、いい加減で、勝手で、人の気持ちなんて少しも考えない奴らだった。だが、少し考えを改めよう」

「オレは、人間に育てられたから、他のワーキャットはほとんど知らない。らしくないと言えば、そうかも」

「そうだったな。小野原、か」

「ああ」

「やはり、訊き憶えがある気がするんだが。……姉がいると言ったな。名前は?」

「小野原桜」

「おのはら、さくら……。おのはら……」

 蒼兵衛は芝居がかった仕草で顎に手を当て、考えるそぶりを見せる。

 しばらくして、ぱっと顔を上げた。

「もしかして、姉は人間か?」

「へ? あ、ああ。オレを育ててくれた人の娘だ。家族でワーキャットなのはオレだけで……」

「気性は?」

「あー……気は強かったよ。活発で、誰とでもよく喋って、けっこう人の印象に残る奴だと思う。目立ちたがりだったし。口が悪くて、喧嘩っ早くて、凶暴で、暴力的で、凶暴だった」

「小野原くん、凶暴って二回言ってる……」

 紅子が思わず突っ込む。

「剣士か?」

「アンタと同じ、ルーンファイター」

「私は侍だ。……なるほど。失礼だが、小柄で、色気の無いかんじの?」

「ほ、ほんとに失礼だよ……!」

「でも合ってる。サクラを知ってるのか?」

 紅子が抗議の声を上げ、シオンが頷くと、蒼兵衛は長く解けなかった謎々がようやく解けたように、表情を変えた。

「ああ、そうだ、思い出した!」

 それまでの飄々とした彼らしからぬ大声に、シオンも紅子も驚いて蒼兵衛を見た。

「君の姉と言うから、てっきりワーキャットだと思っていて、思い当たらなかった。そうか、君は、小野原の弟だったのか」

「ああ……。アンタ、サクラの知り合いだったのか?」

 と尋ね返したが、同時に姉の破天荒な性格から、その評判が良いものばかりで無いことを、シオンは思い出した。

 彼が、姉から何らかの被害を受けた人間で無いことを願いつつ、それでも姉の話を聞いてみたい気持ちのほうが強かった。

「ああ。忘れるわけも無い。高校の同級生だ」

「え?」

「ええっ!」

 思わぬ答えに、紅子のほうが大声を上げて驚いていた。

「私は幼いころから冒険者になろうと決めていてな。だから、ちょっとは役に立つかと思ってな、冒険者を育成するコースがあるという高校を選んで、進学した」

「高校って……あの」

 あの、桜が馬鹿にしてすぐ辞めた高校か、と言いそうになって、シオンは口をつぐんだ。

 いや、そもそも、驚くべきところはそこじゃない。

「てことは、アンタまだ十八歳……?」

「ええー!」

 再びシオンより大声で驚いたのは、紅子だった。

「わ、私たちと、ふ、二つしか変わらないの?」

「そんなに、驚くようなことか?」

 蒼兵衛が眉をひそめる。紅子は慌てて笑顔を作り、かぶりを振った。

「あ、いえ、そんなことないですっ! ただ、ちょっと、見えないなー……と」

「大体、出会ったときにカードを見せただろうが」

「生年月日なんて、そんなに見ないし……あはは」

 どちらかというと、マジックで書き換えられた〈侍〉というクラス表記のほうが気になった。

 誤魔化すように笑う紅子を変な目で見て、蒼兵衛はシオンのほうに視線を映した。

「懐かしいな。クラスは違ったが、合同授業で何度か手合わせした。そうか、あの小野原か。退学したと聞いたが……」

 あまり表情を変えない彼が、まるで旧友に会ったかのような笑みを見せた。

「冒険者の学校とやらに入学したはいいが、思っていたものとずいぶん違っていてな。幼少のころから鍛錬を重ねた者ばかりかと思えば、それどころか同級生のほとんどは、初めて剣を握るような者ばかりだった」

「なんか、アイツもそんなこと言ってたな……」

 ただ、マシなのも居るとも言っていた。蒼兵衛のことだったのだろう。

「しかし、入学してしまったものは仕方無い。腰の引けた同級生ばかりだと思っていたら、一人だけ鬼みたいに強い女子が居た。軽い打ち合いの予定が、勝手に五本勝負しようと言ってきて」

 桜のやりそうなことだ。ただ話を聞くだけでも、シオンの知らない生前の桜が、生き生きと思い起こされた。

「授業なんて真面目にやる気も無くて、気性の強い女だと思ったら、それだけじゃなくて、本当に強かった。私が三本取られた。私もまだ青かったが、同じ剣士に心底負けたと思ったのは、初めてだったな」

「すごいな。あのころ、サクラから二本も取る人なんて、居なかったよ」

 シオンからすれば、それだけでも充分驚く。自分なんて百回戦って、百回負けていた。

「それに、アイツ……卑怯だろ」

「試合ならな。だが、勝負としか彼女は言わなかったし、私の負けだ。私は純粋に剣の勝負だと思い過ぎていたが、彼女は喧嘩が強いというのか、実戦的だった。蹴る、殴る、頭突き……全て女子に食らったのは初めてだったな。まさか授業で平然と顔や股間を狙われると思わなかった」

「それは……ごめん」

 想像に難くない。シオンは何故か代わりに謝ってしまった。

「いや、彼女が正しかった。授業としては間違いでも、戦士としてはな」

「アンタがホントに強かったからだよ。明らかに勝てる相手にはそこまでしない。アンタが強かったら、意地でも勝ちにいったんだ。アイツ、負けず嫌いだから」

「おかげで、私も勉強になった。女だからと侮っていた部分もあった、当時の私には良い薬になった。だが、いつの間にか学校を辞めていて、残念だったな。冒険者をしていれば、いつか会うだろうと思っていたが、なるほど、大成しているようだな」

 蒼兵衛は嬉しそうに言ったが、シオンは目を伏せた。

「いまも元気か?」

 首を小さく横に振り、否定する。

「死んだ。冒険者になって、一年くらいで」

 シオンが蒼兵衛の顔を見ると、笑みが消えていた。

「彼女が?」

 とても信じられないという表情だった。

 シオンも同じ気持ちだった。彼女の死を知ったとき、誰しも同じ顔をし、同じ気持ちになった。

 彼女が死ぬなんて、信じられない。

 多くの人間にそう思われた、姉は大した女だったのだ。

 それも、こんな強い男に、惜しまれるほどに。

「うん。オレもまだ、信じられないけど」

 蒼兵衛を気遣って、シオンは小さく笑った。

「でも、サクラのことを、そんなふうに語ってくれる人が居て、良かった。アイツ、高校のときの話、あんまりしなかったから。つまんないって、すぐ辞めたしさ。でも強い奴も居たって、言ってた。アンタのことだったんだな」

「そうか……残念だ」

 本当に残念そうに、蒼兵衛は言った。刀をぎゅっと握る。その仕草に、無念さが込められているようだった。

「今なら、彼女から三本取れると思うんだがな」

 呟きとともに、ふわりと風が吹き抜けた。魔素の濃い森で死者の話をすると、精霊が悪戯に風を起こし、驚かせてくるという。蒼兵衛は額や頬にかかる自分の髪を、鬱陶しげに払っていた。


 周辺の山々にも避難勧告が出されている。登山道のほうでは緊急車両が行きかい、警察や自警団の誘導で、登山客が次々と下山している。

「私たちも、山を下りたほうがいいんですか?」

 紅子が蒼兵衛に尋ねた。

「勧告だからな。強制じゃない。好きにするといい。だが、密猟者も鬼熊も倒したが、まるきり安全というわけじゃないからな。何かあったら小屋に連絡しろ。帰るときにも、必ず小屋に寄って、下山の報告をしていけよ」

 現代のサムライは最後に警備員らしきことを言い、そこで別れた。




 それからシオンと紅子は、採った山菜や荷物、そして紅子のおにぎりを置いてきた場所まで戻った。

 そして、大体想像できていた有り様を目にして、紅子が崩れ落ちた。

「あああ……!」

 残っていたおにぎりとおかずが、野獣かカラスだろうが、喰い散らかされ、採った山菜を集めた袋もついでのように中を漁られていた。

 シオンはそれらの被害状況を確認した。派手に荒らされてはいるが、おにぎりとおかずのお陰で山菜の被害は少ない。

「まあ、仕方無い。約束の時間までに、持っていけるだけ持っていこう。足りないかもしれないけど、事情は分かってくれるはずだ」

 時計を確認する。15時少し過ぎ。体感より時間は過ぎていない。

「業者の車が山菜を引き取りに来てくれるのが、17時だったよな?」

「う、うん」

「頼まれた量は納品出来ないかもしれない。でも、事情を話せば分かってもらえるから」

 管理人も口添えしてくれるだろう。

 そういえば、いつの間にかサイレンが止んでいる。

「大丈夫かな……?」

「大丈夫」

 紅子の傍らに行き、シオンはその肩をぽんと叩いた。

「まだ時間はあるし、無責任に投げ出したわけじゃない。あと少しがんばろう。疲れてたら、浅羽は少し休んでからでいいぞ」

 そう言うと、紅子は慌てて体を起こした。

「だ、大丈夫! 私、がんばるよ!」

「そうか」

 まずは食い散らかされた食べ物を片付け、紅子が持って来ていたゴミ袋に放り込むと、散らかった山菜を再び拾い集め、山菜採りを再開した。

 戦いのあとだというのに、すんなりと山菜採りの作業に戻れたのは、精神はむしろ昂ぶっていて、それを沈めるのに単調な作業がかえって良かった。紅子もそうだったようだ。疲れた体に鞭打ちつつも、黙々と山菜を摘むことで、非現実から現実に少しずつ戻っていくようだった。

 グローブをはめた手に山菜を摘みながら、紅子が呟いた。

「さっき戦ってたのに、変なかんじ……」

「そうだな」

「まだ、ドキドキしてる」

 そう言いながらも、山菜を採る手は止めない。彼女はシオンが当初思っていたより、気丈だ。

 女は強いな、とシオンは思った。姉だけが特別かと思っていたが、紅子の魔法にも驚いた。あの鬼熊も、そういえば母親だ。モンスターにも子の為に戦う奴はいるのだと、シオンは今更ながらに気付いた。

「オレも、最初はそうだったよ」

「小野原くんも、最初は怖かったの?」

「ああ。でも、お前に比べたら、全然弱かったよ。初仕事で鬼熊と戦うなんて、普通はしないよ」

「そ……そう?」

 二人は少し離れたところで背中を向け合い、作業しながら、気を紛らわせるように話をした。

「駆け出しで、一人で仕事をするのにも慣れてきたころにさ、山でゴブリンを駆除する仕事をしたんだ。でも事前の調査がずさんで、ゴブリンだけって聞いてたら、他にオーガが三体もいた」

「オーガって、大きい、人間みたいなのだよね?」

「そう。ゴブリンとは違う、大型の人型のモンスター」

「ええと、鬼だよね?」

「そう呼ぶのは、古風だな」

 日本では鬼とも呼ばれるが、現在はオーガと呼ぶほうが通りが良い。

 総じて二メートルほどの巨体で、手足が長く太い。武器を使う器用さもあるが、素手でも軽く人間の頭を潰せる腕力を持つ。警戒心が無く人を見れば即座に襲ってくるので、魔獣より厄介だ。

 もっと厄介なのは、ぱっと見で人と間違う者がいるということだ。ダンジョンから出てきたばかりの冒険者かと思い、不用意に近づいた者が殺される事件もある。

 知性が低く、言語を解しない。ゴブリンのように人に執着して襲ってくるが、その理由は単純に食糧と見てだ。昔から食人鬼と怖れられている。

「オーガって……人間を食べちゃうんだよね? うう……」

 紅子は恐ろしげに声を震わせた。

「いや、鬼熊ならオーガを一撃で叩き潰すと思うけど……」

 今日は、紅子と蒼兵衛という規格外の二人が居たから、良かったのだ。と言っても、紅子に実感は無いだろう。

「あのときは、オレみたいな日雇いの、しかも駆け出しばかりが雇われてて、何人か逃げたけど、何人か死んだ。戦い慣れしてる奴がいて、落ち着いて対処出来れば、被害はもっと少なかったはずだ。でも不慣れな奴ばっかりで、寄せ集めだった。首を折られて、頭が潰されて、喰い千切られて……何人も死んだ。オレはずっとサクラに鍛えられてたから、ちょっとは冷静に戦えたんだ」

 硬い山菜の茎に、ダガーの刃を当て、ぷつりと掻き切る。

「三体とも、オレがナイフで首を掻き切った。口にしたら簡単だけど、もっとめちゃくちゃに刺したり斬ったりしたと思う。戦ったときよりそのあとのほうが、帰っても寝られないくらい興奮してた。落ち着くまで外を歩いて、気がついたら夜明けになってたよ」

「うん。……何となく、分かるかも。私も、ずっと興奮してる」

「あのときのオレより、浅羽のほうが、ずっと強いよ」

「そうかなぁ。私、小野原くんみたいに、モンスターの近くで戦うなんて、無理だよ。だから、ソーサラーって図太いんだって、透哉お兄ちゃんが言ってた。遠くで魔法撃つだけで、同じ敵を倒すのでも、戦士の人が武器を使って戦うのとは違うって。ソーサラーの冒険者って、いつまでも子供の遊びみたいな感覚の人が多いって言ってたよ」

「けっこう、キツいこと言うんだな」

「お兄ちゃん、魔法については厳しいって、言わなかったっけ」

「言ってたな」

「ソーサラーは、傷つける痛みも、傷つけられる痛みもなかなか分からないって。でも、いまはちょっと分かる気がする。小野原くんや蒼兵衛さん見てて、小野原くんのお姉さんの話聞いて、そうだなって、思ったよ。お兄ちゃんが言うように、私は痛いのが分からないし、それに、怪我するの、やっぱり怖いし……」

「それは、誰だって怖いよ。魔法で戦えるんなら、そのほうがいい。無理に傷つく必要なんて無いだろ。魔法で相手を倒しても、剣で倒しても、同じだよ」

「そうなのかな」

「それに大事なのは、倒すってことじゃなくて、生き延びるってことだと思う。誰が倒したとか、倒し方とかさ、どうでもいいんだよ」

 確かに、一瞬にして複数の敵を葬れる大魔法が使えれば、感覚もおかしくなるかもしれない。

 紅子がそれだけの魔力を持つからこそ、透哉は厳しいのだろう。

「でも、透哉さんの言ってることは分かるよ。真っ当だと思う」

「うん。私も、そう思う」

 透哉の人の良さそうな笑顔を、シオンは思い出した。

 彼にはもう一度会っておきたい。というか、会う必要がある。

 紅子の言う《たからもの》の話は、あまりに抽象的過ぎる。おそらくあの人のほうが、浅羽家の《たからもの》について、詳しいはずだ。叔父叔母よりは、紅子に甘いようだし。

「ところで、小野原くん。話変わるけど」

「ん?」

「寒くない?」

 そう言う彼女も、せっかく買ったばかりのウィンドブレーカーを、鬼熊の巣に置いてきている。

「浅羽は?」

「私は下にフリースと、肌着二枚重ねてきたから」

「暑そうだな」

「一番下のは汗をしっかり吸ってくれてね、その上のは保温性が高いの。けっこう高かったけど。山は寒いってお兄ちゃんが言うから。でもちょっと暑かったから、上脱いでちょうどいいかな。小野原くんこそ、寒いでしょ? それも、魔糸製?」

 シオンはTシャツ一枚だった。スカーフも怪我をした鬼熊に巻き付けたままだ。いずれ包帯と一緒に彼らの玩具となり、びりびりに引き裂かれるだろう。

「いや、これは、三千円くらい……」

 言って恥ずかしくなった。スカーフのほうが高いくらいだ。

「でも、別に、大丈夫だよ。ダンジョンには寒い場所なんていくらでもあるし、大体、ダンジョンって湿っぽい場所が多いし」

「そうなの?」

「というか、日本のダンジョンが。湿度高いだろ。半分くらい水に沈んでるとこもあるしな」

 下半身を水に浸しながら数時間も這い回るなんてこともザラだ。

 ましてシオンの年齢でソロがやりたければ、人が嫌がることも率先してやるしかない。多少のきつい目には慣れている。

「でも、私のはともかく、小野原くんの服は、置いてきちゃって良かったの? スカーフまで。魔糸製なら、高いんじゃない?」

「いいよ。別に」

 とは言ったが、ついこの前にも一着駄目にしているので、平日の間に別の仕事を入れないとな、と内心考えていた。

 これから先、土日は紅子との仕事のために空けておきたい。生活費は別の日に稼ぐ。紅子の《たからもの》を探すなら、資金も要るかもしれない。

 いや、要る。まずは紅子に、ちゃんとした装備が必要だ。

「あのさ、浅羽」

「なぁに?」

「今度、装備買いに行こうか。オレがついてってもいいか?」

「えっ? ついて来てくれるの?」

 弾んだ声に、シオンの耳が動く。シオンは後ろを向いたままで、頷いた。

「ああ。知ってる範囲だけど、多少安く買える店とか、分かるし……。あと、今度実家で、なんか使えそうなの探してくるよ。重いのは無理だろうけど、軽い胸当てくらいなら、家にあった気がする」

「え、小野原くんのおうちに?」

「うん。サクラのだけど」

「お姉さんの? いいの?」

 さすがに紅子が振り返る。

 途端に遠慮がちになった口調には、遺品なのに、という意味が込められているのだろう。

「いいよ。アイツ、無駄遣いが多くて、店先とか通販でとりあえず気に入ったの買って、サイズ合わなくてそのまま使わずに倉庫行きとか、けっこうあってさ。本人が愛用してたとかならともかく、そうじゃないのまで全部取っとくわけにもいかないから、そのうち処分するって父さんも言ってたし……あ、そうか、とっくに処分してたら、ごめん」

「ううん、そんな、無くて元々なのに……。でも、本当に、いいの? そんなわざわざ」

「いいよ。そろそろ、帰ってみようと思ってたから」

「おうちに?」

「ああ。もうずっと、帰ってないから。そろそろ、帰りたいと思って」

「あっ、あの、じゃあ! い、頂けるなら、すごく嬉しい、です」

「なんだよ、あらたまって」

 妙にかしこまる紅子に、シオンも振り返って笑った。

「だって、なんか、小野原くんのお姉さんが、お話聞いてるだけだけど、私の中でどんどんすごい人みたいになってるの」

「オレ、そんなふうに話してたか?」

「それに、さっき蒼兵衛さんの話聞いてても、やっぱりすごいんだなって。強い女の人って、いいなぁ。カッコいいよ……」

 女子というのは力そのものは男に劣るせいか、強い同性には特別惹かれるらしい。桜も女性からいやに好かれていて、ファンもいたらしい。紅子もどうやら話で聴くだけの彼女にすっかり憧れてしまったようだ。

「すごい卑怯って話も入ってたけどな」

「でも、小野原くんだって、とってもお姉さんを尊敬してるよね」

「まあ、してるけど……」

「すっごい強いもんね、お姉さん」

「まあな……」

 紅子の前で姉の話をするのは、さっきの蒼兵衛との会話を含めても、二、三回程度で、それほど熱く語った憶えもない。

 首を傾げるシオンに、紅子がにこにこと笑って、言った。

「だって小野原くん、お姉さんのお話するとき、こう……えっと、なんていうのかな」

「な……なんだよ?」

 一体自分はどんな顔して桜の話をしてるんだと、シオンは顔をしかめた。

「あのね、小さい子が、テレビとかに出てくる、ヒーローの話するみたい?」

「なんだそれ……」

 はっきり言われたら言われたで、とてつもなく気恥ずかしい答えに、シオンはますます顔をしかめた。

 だが、蒼兵衛から思いがけず桜の話を聴いて、嬉しかったのは事実だ。強い蒼兵衛に、桜が強かったと認められたことも。

 それにしても頬が少し熱いのが、自分でも分かる。しかも、背を向いて表情を隠そうにも、尻尾から感情がだだ漏れだ。

「小野原くん、尻尾パタパタ……」

 昔、叔母さんが飼っていた猫のトラタのことを、紅子はつい思い出していた。

 猫とまったく同じ感情では無いだろうが、珍しく顔を赤くしたシオンが、いまとても気まずくて、困っているというのは、分かった。

 なので、彼女のほうから、強引に話を誤魔化した。

「浅羽紅子、仕事に戻ります!」

 にこにこと笑ったまま、ぱっと敬礼をして、くるりと背中を向けた。

 シオンはしばらく顔を赤くしたまま、彼女の細い小さな背中を見ていたが、泥で汚れて乱れたポニーテールの後姿が、最期に見た桜の背中を思い出させた。

 去って行く姉の背中は、いつも遠かった。あんなに頼もしく見えたのに、いまになって鮮明に思い出せる彼女の背中は、小さかった。当たり前だ。シオンは死んだときの彼女と、もう同じ歳になる。


 数時間の戦いで、充分に分かった。

 紅子は多分、この世界に数百人も居ないかもしれない魔道士だ。特別な才能を持っている。

 そういう人間は、その能力の所為か、運命に用意でもされているのか、いやおうなく厄介ごとに引き込まれる。信じられないような苦難に遭う。そんなことを昔、父親が言っていた。

 今思えば、だから父は、桜が冒険者になるのを止めなかった。娘が可愛いというだけでなく、特別な才能を持った彼女が、遅かれ早かれそういう人生を歩むと、諦めていたのかもしれない。

 そういう人間に、損得抜きで協力してやれる者も必要だ。

 

「小野原くん」

 紅子が、後ろを向いたままで、尋ねた。

「あ、そのまま聴いてくれて、いいからね」

「うん」

「私も、もう手は止めないから。ちゃんとこの仕事、終わらせる」

 疲れを感じさせない、強い声で紅子が言った。

「だから、来週もまた一緒に、仕事してくれる?」

「行くよ。どこでも」

 シオンも、背中を向けたまま、答えた。

「浅羽のしたいこと、オレは協力する。だから、浅羽も、協力してほしい」

「私が?」

「うん。今までオレには、何も無かった。目的も、何も」

 山菜を採る手は止めず、シオンは呟いた。単調な作業とはいえ動いていれば、薄着でも充分暑い。泥のついた頬に、汗が流れ落ちた。

「でもこれから、オレがしたいことも、あるかもしれない。そのときは、浅羽にも手伝ってほしい」

「手伝う! 私、手伝うよ!」

 と声を上げた紅子は、きっと一瞬手を止めただろうな、とシオンは見なくても分かって、笑った。

「うん。オレたちはもう、パーティーだから。どこまでも、一緒に行こう」




 紅子は相当に疲れたようで、電車の中で眠りこけていた。いつもならシオンも眠るところだが、紅子が居る所為か、かえって目が冴えた。紅子が起きたとき、ぐうぐう寝ている姿を見せるのが、恥ずかしかったというのもある。

 採った山菜の量は、約束には足りなかったが、引き取りに来た業者は、この騒動の中でよくこれだけ採ってくれたと、労ってくれた。管理者が事情をよく伝えてくれたようだった。その管理人も、シオンたちに深く感謝していた。

 蒼兵衛が良く話してくれたのだろう。下山のとき、彼には会わなかった。山で登山客の避難を助けていると、管理人から訊いた。

 最後にもう一度、会って別れを言いたかったが、彼にも仕事がある。


 シオンにとって、彼に会えたことは大きかった。

 自分が知らない姉の姿を、思わぬ形で聴くことが出来た。

 桜が死んで以来、他人の口から語られる彼女の話を、意外にもすんなりと自分が聴けるようになっていることに、驚いた。


 紅子と出会ってから、頼りなく見えた彼女の心配ばかりして、考えることが増えた。悪い夢ばかりを見なくなった。

 桜の話をして、辛いと感じるよりも、紅子の言うように、誇らしかったのだ。桜の強さを知っている蒼兵衛と話をして、僅かでも、嬉しかった。




 遺体の無い、形ばかりの桜の葬儀が終わったあと、シオンは放心して、何も出来なかった。

 何も考えたくなかった。心が無くても、父親を手伝ったり、葬儀に来た人に挨拶をしたり、出来るものだなぁと思った。

 ただの儀式が終わって、それが桜との別れだと言われても、実感なんて無い。墓の前に立ってみても、そこに桜の魂が眠っているとも思えない。


 ずっと、彼女を一人で死なせたような気がしていた。

 彼女は、血の繋がらない弟に、異性としての好意を抱いていた。それを知っていて、シオンは彼女に姉であることを求めた。

 強くて、いつも、どんどん先に行ってしまう。でも、シオンが立ち止まりそうになると、その手を強く引いてくれる。

 姉はたしかに、シオンのヒーローだった。

 魔物の仔として産まれて、人間の中で育った。存在の不確かな自分に、はっきりと見える光だった。いつだって、姉についていけば、大丈夫だった。何も怖くなかった。


(――大丈夫よ)

 魔法のような姉の言葉に、シオンはいつも頼っていた。

(あたしが、護ってあげるから)


 だから桜は、シオンに異性としては求められなくても、より大きな存在として、強くあろうとしたんじゃないか。それが結果として、彼女を早過ぎる死に追いやったんじゃないかと、思っていた。


 勝手な哀しみにふけり、食事もろくに採らず憔悴していく、血の繋がらない息子の姿を、ただでさえ哀しみの底にいた父は、どう見ただろう。


 姉が行方不明になってから葬儀までの間に、父もやつれた。だが彼は、倒れることなく踏ん張っていた。彼はシオンより大人で、父親だった。

 父が、シオンの腕を掴んで、その手におにぎりを持たせる。少女のように細くなってしまった息子の腕を、苦々しげに見つめる。無理に食べさせては、吐いて戻してしまう。

 姉が、獣墜ちの魔物に殺され、その死体まで喰われたと知ってから、物が食べられなくなった。視界の端に映る獣の尾が、自分じゃない魔物に見えた。鏡もガラスも、自分の姿が映るものが見られなくなった。自分の姿が見られないから、一人では風呂も入れなかった。いい加減臭うようになると、ペットでも洗うように風呂場に連れて行かれて、頭からシャワーをかけられた。

 どれだけ迷惑をかけても、父親はシオンを見捨てなかった。彼は娘が死んでも、息子まで殺すわけにはいかなかった。


 しばらくして、シオンは父の友人に預けられることになった。

 そうしたほうがいいと、父は静かに言った。

 互いのためにも。


(あの子は死んだ。楽な死じゃなかっただろう)

 憔悴し、老け込んだ父は、それでも強く、言い聞かせるように、告げた。

 その一言一言を、忘れたことは無い。

(あの子は、苦しんで死んだのに、君は、楽に死のうとしている)

 自分も疲れているだろうに、毎日握ってくれるおにぎりを、その日もシオンは胃におさめようとして、吐き出した。そうして、初めて殴られた。

 口の中に、じわりと血の味がした。ろくに何も口にしなくても、まだ自分の体からは血が出て、しぶとく生きている。

(僕も、桜も、君の死など、望んでいない。それでも君が、君自身を許せないと、そう思っているのなら)

 あんなに強かった桜は死んだのに、こんなに弱くても、自分を生かそうとする人がいる。

 この世にもうたった一人しかいない家族が、シオンを見下ろす。

(一生、苦しんで生きなさい)

 

 姉の死に囚われていたシオンに、父の言葉は、新しい呪縛となった。

 そうか。自分は生きているのだ。

 生きている以上、生き続けるしかない。

 幼いころ生かしてもらった命なのに。シオンまで死んだら、父はどれほど辛いだろう。血の繋がった娘を失ったというのに、助けた亜人の子は、彼を支えるどころか、より深い哀しみに突き落とそうとしている。

 簡単に死ぬことも、怖くなった。


 父の言うことは、すんなり理解出来た。

 二人だけの生活は、桜の不在を、より強く思わせる。

 生まれ育った家には、彼女の匂いが残り過ぎている。

 だから、より辛い。

 ここではシオンは立ち直れない。

 家を出るときが来たのだ。


 獣なら、とっくに親離れしている時期だ。

 長く甘え過ぎた。

 そうして、シオンは家を出た。


 桜の墓には訪れているが、あれから父には一度も会っていない。

 いま、ようやく、父に会って、話がしたいと思える。

 帰ろう。シオンは、自然にそう思った。帰ろう、懐かしい家に。父に会いに行こう。

 桜のことを忘れたことはないけれど、何とかそれなりに生きていると、いまなら話せる。一時期、少しも食べられなかった肉も、食べられるようになった。一人でダンジョンに潜れるようになった。色んな人間にも亜人にも出会った。仕事を失敗したり、騙されたりもした。酷い怪我もした。楽しい仕事も、辛い仕事もあった。パーティーも組んだ。桜の同級生に会った。

 話したいことは、幾らでもあった。

 父に会いたい。

 彼の居る、あの懐かしい家に、帰りたかった。


 ガタンゴトンと電車が音を立て、揺らめくリズムが、眠っている乗客には心地好いのだろう。紅子は無防備に口を開け、眠りこけている。

 他の乗客も、ほとんどが眠っているのか、他に音は無く、静かだ。

 窓の外に広がる風景は、塗りつぶされたように真っ暗だ。昼はのどかな田園が広がっていたが、時間が変わればまるで異世界のように別風景となる。ぽつぽつとした灯りがかえって物寂しい。昼間は我がもの顔の人間も、深い夜の主では無い。


 紅子がなにか、むにゃむにゃと寝言を言った。

 シオンの耳はそれにぴくりと反応したが、夢の世界で彼女が何を言っているのかは分からなかった。ただ、口許が少し笑っていたので、悪い夢では無さそうだ。たまに口が動いているので、何か食べているのかもしれない。

 窓の縁に頬杖をつき、シオンはしばらくその様子を見守ってから、ようやく彼もそっと瞼を閉じた。

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