魔獣の森
森の草木のそこかしこに、炎が燃え移っている。
「降って、降ってー」
相変わらず単純な呪文を唱え、紅子が杖を振り上げると、一帯にさあっと小雨のようにシャワーが降り注いだ。
あんなのでも発動するのか、とシオンは感心しつつ、その光景を見ていた。
「ゆっくり、降ってねー」
雨乞いの巫女のように、紅子はピンクの杖を掲げている。その体はしっとりと濡れ、泥で汚れたウィンドブレーカーの背中、ポニーテールが張り付いていた。
「ゆっくり……ああー、ダメ、強くなっちゃ!」
本人は魔法の雨を優しく降らせたいようだったが、時折、スコールのようにどしゃ降りになった。離れて見ていたシオンまで、濡れた。
「あああ、ごめん!」
紅子が慌てて謝る。どうやら出力を抑えるのが苦手なようだ。
「いや、大丈夫……」
耳や尻尾が濡れるので、シオンは雨が苦手だ。だが、紅子がこんな魔法を使えるおかげで、山火事にならずに済みそうだった。
その後も何度か水をかぶった。どうせ濡れてしまったので、紅子が雨を降らせている間、シオンは身を軽くするために咄嗟に捨てたダガーホルダーとウエストバッグを探した。
見つかったのはいいが、泥水にまみれていた。水を含んで重たくなったそれを、腰に装着する。
鬼熊に突き刺し、手放してしまったダガーも一本見つけたので、それも回収した。
消火を終え、シャワーが止むと、シオンはぶるっと身を震わせた。たっぷり水を含んだ毛と髪から雫が飛ぶ。
「はぁー……」
紅子は疲れたのか、老人のように杖を支えに立ち、ふわあと深く息をついた。
その様子に、力を使い果たした彼女がばったり倒れてしまうかと思い、シオンはばしゃばしゃと音を立てて水にぬかるんだ森の中を走り、駆け寄った。
「大丈夫か?」
背中を支えると、紅子は少し顔を赤らめつつ、微笑んだ。
「えへへ、だ、大丈夫。なんか、気が抜けちゃっただけ……」
「あれだけ魔法使ったんだ。無理するなよ」
「そうだね。たしかに、少しお腹が空いたかなぁ……おにぎり、もっと食べておけば良かった……」
と紅子は疲れたように呟く。本当のところは、魔力の使いすぎではなく、単に慣れない戦闘が続き、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだ。
「ああ、そうだ。これ」
シオンは濡れたウエストバッグから、いつも入れているキャラメルを取り出した。一粒ずつビニールの包みに入っているので、外側が濡れていても中身に支障は無いだろう。腹の足しにはならないだろうが。
「食うか?」
「ありがとう……小野原くん、キャラメル好きなの?」
「いや、別に。あとこれ、滋養強壮剤。マズいけど」
「……マズいんだね」
「マズい。でも、飲んどけよ」
「うん……」
紅子は顔をしかめながら、頷いた。
離れたところに、鬼熊の死体と、傍らに蒼兵衛が斬り落とした首と腕が置いてある。
首の無い鬼熊の胴の上に、何故か蒼兵衛は自分のコートを脱いで掛けてやった。かと思えば、無言で何処かに行ってしまった。
変わった男だ。密猟者は縛って転がして来たのに、倒したモンスターの死骸を、まるで人間の遺体にそうするように扱う。
普通、これほどのモンスターを倒せば、その部位を持ち帰るために必死で解体し、少しでも多く持って帰りたいと思うところだ。
冒険者らしい欲深さを感じない。中にはただの戦闘好きもいるが、それでいてモンスターの遺骸に敬意を払ったりする。
「帰って来ないね、蒼兵衛さん」
鬼熊の突進で折れた倒木の上に腰かけ、二人は待っていた。
「もしかして、迷子になってるんじゃ……」
紅子が、心配そうに呟く。
「そうだな……」
この深い森の中だ。少し歩いただけですぐに方向感覚がおかしくなる。もう少し待って帰らなければ探しに行こうとシオンが思ったところで、蒼兵衛が戻ってきた。
「――おい、ちょっといいか?」
片手で茂みを掻き分け、やって来る。どうしたのか、もう片手で頬を押さえている。
「顔、どうかしたのか?」
シオンが尋ねると、ああ、と蒼兵衛は眉をしかめた。
「これか。蚊に食われてな」
「……そう」
「あー、私のリュックに、虫除けスプレーもかゆみ止めも入ってるんだけどなあ。置いて来ちゃった。そういえば、おにぎりもそのまんま……」
「獣に食べられてるかも」
「そんなぁ」
シオンの言葉に、紅子は残念そうな顔をした。
そういえば、おにぎりを食べている最中に、蒼兵衛と出会ったのだとシオンは思い出した。それがずいぶん前のことのような気がする。
「それで、見つけたって、何を?」
蒼兵衛に尋ねると、彼は蚊に嚙まれて赤くなったところを指で掻きながら、答えた。
「鬼熊の仔」
日本に昔からいるといっても、鬼熊の生態はあまり知られていない。というより、多くのモンスターの生態には未だ謎が多いのだ。
鬼熊ともなると個体数も少なく、そもそもモンスターの自然な姿を間近に観察するのは危険過ぎる行為だ。それでもモンスターのありのままの生態を研究している人間は、命をかけてでもその探究心を満たしたいと思うようで、命がけで残した観察記録はいくつか残されている。
「森の中に穴を掘って、そこが巣穴になっていた」
そう言い、背の高い草の生い茂る中、先頭に立った蒼兵衛が手にした刀で茂みを掻き分け、進んでいく。
「足許に気をつけろよ。たまに穴が空いてるからな。さっき私もハマった」
「ハマったのか……」
シオンが呟く。あれだけの戦闘が出来て、穴につまづくとは。やっぱりよく分からない人だ。
「研究者は喜ぶだろうな。この山に、鬼熊が生きていたなどと知ったら」
先を進みながら、蒼兵衛が言う。
「本州では鬼熊は絶滅していると言われていて、実際、ここ数年は北海道でかろうじて目撃されたくらいだからな」
「モンスターが近くに居て、嬉しいのか」
「そりゃ、色々な奴がいるからな。貪欲な探究心が無ければ、人間はこれほど栄えなかっただろうな。モンスターを飼い慣らそうとする人間もいれば、モンスターのために人間を殺す人間もいる。日本の魔獣は減ってるから、生息していると知ったら喜ぶ奴もいるだろ。私のかつての仲間にも、冒険者やってるうちに、モンスターのほうに興味持ってしまった奴がいたし」
「モンスターと魔獣って違うんですか?」
紅子が尋ねる。シオンが答えた。
「一緒だよ。魔獣は熊とか狼とか動物っぽいやつのことをそう呼ぶってだけ。そうじゃないゴブリンとかアンデッドとかも、全部ひっくるめて魔物って呼ぶ」
「はっきりした定義は無い。人間にとって恐ろしい、異質だと認識されれば、多くの場合魔物になる」
蒼兵衛が付け加える。
「君もいずれは、獣墜ちと呼ばれる魔物に出会うだろうが、彼らは体の造りは、その彼と同じ亜人だ。同じ亜人でも、人を襲う者は獣墜ちという魔物と呼ばれる。人間と違って犯罪者とすら呼ばれない」
淡々とした蒼兵衛の言葉に、紅子がシオンを気遣うように、そっと視線を向けたのに気付いてはいたが、シオンは気付かないふりをした。
そんなことは、この世界では当たり前のことで、今更傷つくようなことでもない。だから、父親もシオンが物心ついてすぐに、シオンの生い立ちを教えてくれたのだろう。結果として、感謝している。後でおのずと知るより、そのほうがよっぽど良い。
亜人差別や排斥を唱える人間にも、事情のある者がいるのは分かる。
自分の家族や友人が、獣墜ちに殺された。そういう人間に会ったこともある。彼らのやり場の無い怒りや憎しみは、シオンにも分かる。
シオンもそうやって、大事な人を失くしたのだから。
自分が人間だったら、もっと素直に憎めたのかもしれない。
紅子の気遣うような視線がかえって辛く、シオンは自分から話を替えた。
「蒼兵衛さん」
「なんだ」
「アンタって、魔法付与型の魔法戦士だったんだな」
「侍だ」
「……あ……うん……。珍しいよな」
「侍がか?」
「……それもだけど、魔法付与ってのが。ルーンファイターって大体、肉体強化で戦うと思ってたから」
「柊魔刀流とは、剣と己自身を一体とする剣技だ。開祖・一代目柊蒼兵衛は、魔力とはすなわち身体のうちにある魔素を高め、気に変えることだ」
「ようは……魔法ってことですよね?」
蒼兵衛の言い方の周りくどさに戸惑いながら、紅子が言った。
「気だ」
「あ、はい。ごめんなさい」
「練り上げた気を、己が魂の刀に込める。心技魔刀一体。何一つ欠けても完成しない。それが柊魔刀流だ」
魂の刀を棒のように使いながら、茂みを掻き分けていく。
「そういう意味では、魔道士は『魔』のみだろう。術者の保有魔力量に大きく左右される。大きければ威力も大きくなるというような、単純な力比べに過ぎん。そこには才能の有無しかない」
「えっ、そんなこと……ある……かな?」
紅子は一瞬心外そうに反論しかけたが、結局そう言った。
「まあ、どんぐりの背比べのような者たちなら、工夫次第で頭一つ抜けるくらいは出来るだろうが、そこにこの娘が入れば、どんぐりの喧嘩にドラゴンが入ってくるようなものだ」
「なんか、ひどい例え……」
「力の差がそれくらいあるということだ。魔道士というのは、元々の才能の差がえげつないほどその力を左右する。それは、努力などでは決して覆せない。魔力バカと魔力でぶつかりあうくらいなら、詠唱中を狙って殴ったほうが早い」
「たしかに」
シオンは妙に納得して頷いてしまった。
「一代目柊蒼兵衛は凄まじい剣の達人だったが、それ以上に閃きの人だった。彼は達人ゆえに、その技を誰もそっくり学び取ることは出来なかった。それはそうだ。誰にも真似できないから天才だ。……君のような」
と、蒼兵衛は紅子のほうを振り返った。紅子は目をぱちくりとさせている。
「だが、天才の子まで天才とは限らない。その子孫もな。――そして、純粋な剣の腕だけで人や魔物相手に無双できた時代も、いつかは終わりを告げるだろうということも、一代目は分かっていた」
蒼兵衛は色素の薄い灰色がかった瞳で、何処か遠くを見た。
「天才の技を持ってしても、しょせんはただの剣士。普通の刀で普通に斬ったところで、斬れないものは斬れない。下手な剣士が持つ魔刀もどきのほうが、よほど効果があった。魔物には鉄より硬い外皮を持つものも、人の何十倍もの身の丈を持つものもいる。人にしても、いつまでも薄い鎧だけを着て戦うばかりではないだろう。同じ時代に鉄の鎧と火器で戦う西洋人がいると知り、一代目は衝撃を受けたそうだ。そして何よりも、西洋で魔道士という存在が、多いに受け入れられているということもな。日本ではそのころ、魔道士はどちらかというと呪い師のように見られていたからな」
「あ、うちの一族もそうです。古い時代は呪術師として、すごく力を持ってた時期もあったけど、それでものすごく調子に乗って、世間でとっても嫌がられてた一族だったって!」
「浅羽……それ、明るく言うことじゃないような……」
「君の魔力を見れば、それなりの一族だったというのは頷ける。君くらいの力があれば、調子にも乗っても仕方無い」
「えっ、私、調子に乗ってる……?」
「大丈夫だと思うよ」
地味にショックを受けている紅子を、一応シオンは慰めた。無視し、蒼兵衛は続ける。
「才能とはそういうものだ。多くの者が得たくても得られないから、才能というんだろう。だが、才能という言葉は残酷だ。それだけで人を殺すこともある」
蒼兵衛は遠い目を、さらに遠くに向けた。
「一代目は己の人生のみならず、侍のはるか未来を見据えていた。これからは、刀も銃も魔法も、人も亜人も魔物も、入り乱れ栄えていく国になると。そのとき、侍は古きものになっているだろうとな。その時代ですら、戦で武功を立てる亜人は、その身一つで何人もの武士と渡り合い、数多の魔物を討伐した。その手柄を正統に評価されずとも、真実を知らぬ者などいなかった」
それほどの昔なら、亜人はもっと生きにくい世の中だったという。その力と姿を怖れられ、迫害もされた。人間の傲慢さに嫌気が差し、対立した亜人も少なくない。亜人たちの反乱は、歴史上何度も起こっている。
そのたび先頭で戦っていたのは、普段は忌み嫌われている亜人と魔道士たちだった。
手下や使い魔と罵られても、人間と共存する道を選び、不遇に耐えた亜人たちのお陰で、いま繁栄した人間の世界で暮らしていける。すべて人間たちと同じと言わないまでも、それなりの立場は守られている。
「人そのものは弱い。一代目はそれを認めた。ならば人と刀、どちらも普通以上のものにしよう。天才で無くても戦える剣術を編み出そうとな。弱い人である自分の子孫が、後の世でも戦えるように。そうして編み出されたのが、柊魔刀流だ。一代目は類稀なる天才剣士でありながら、己の剣を捨て、子孫のために一生を捧げたのだ。そのためにわざわざ西洋の魔道士と結婚し、子孫に魔力を残そうとしたほどだ。……まあこれは、本人の女の好みも入ってるかもしれんが」
「そ、それは言わなくて良かったんじゃ……」
紅子が残念そうに言うが、蒼兵衛は意に介していない。
「剣の天才でも無くてもいい。魔法の天才で無くてもいい。八割の努力と、一割の魔力と、一割のその他色々でまかなえる。それが柊魔刀流だ」
「その他色々って?」
「色々だ。仲間に頼るとか。騙し打ちするとか」
「だ、騙し打ち? それが、教えなんですか?」
「そうだ。戦いになりふりを構ってどうする。魔道士の戦い方も基本は隠れてこっそり詠唱してからの奇襲だろうが」
「うう、そうですけど……なんか、もっと言い方が……」
蒼兵衛の言うことは間違っていない。試合や決闘と、戦闘は違う。蒼兵衛の剣は実戦的だ。
「才が無くとも努力でなんとかなる。それは私のような凡人には、何よりも支えとなる教えだった。天才でなくても努力なら出来るし、努力というものには達成感がある。当時にしてはアナーキーだった一代目は、見抜いていたのだ。剣が主流の時代がいずれ終りを告げ、子孫が自分のように剣豪を目指しても、遠距離から銃や魔法を撃たれ、勝負の決まる時代になれば、どうせバカらしくなって刀を捨てるとな。……才能が無ければ、なおさらだ」
一理あるが、身も蓋も無い言い方だ。
「でも、アンタが強い理由は分かったよ」
シオンは言った。実戦での強さは、才能だけで培われるものでは無い。
「ゴブリンを倒したときには、魔法を使ってる様子は無かったな」
「一割の魔力と言っただろう。実際、私には大して魔力があるわけではない。あれぐらいなら普通に斬って捨てたほうが早い」
その普通が、すでに並みの剣士では無いのだが。
「鬼熊を一刀両断するほどの気を練り上げるのにも、かなり時間がかかった。君たちが時間を稼いでくれたから、気のこもった一撃が放てた。私一人なら、ああいう戦いは出来なかったな」
どうりで最初のうちはまったく攻撃に参加して来ないと思った。しかし、役割としてはそれで良かっただろうと、シオンは思った。
自分は、大きな敵や硬い敵に対し、決定的な一撃を与える力に欠け、紅子の魔法は強いが、周囲にまで被害を与えるので、使いどころが限られる。そのうえ、本人が狙われると危ない。
「パーティーで戦うなんて久しぶりだった」
そう蒼兵衛が呟いた。
「いまは、ソロなのか?」
普段は他人の事情にあまり口を挟まないシオンだったが、今は蒼兵衛からなんとなく訊いてほしそうな雰囲気を感じ取ったので、尋ねた。
蒼兵衛は感情を感じさせない、平坦な声で答えた。
「ああ。かつては私にも、信じられる仲間が居た。だが、裏切られた」
「そいつが、ワーキャットだったのか?」
「……そうだ。だが、ひとときだが、君たちとともに戦って、久々に気付いたな」
「パーティーの良さに?」
紅子が嬉しそうに言う。
「ああ。囮になってくれる奴がいると、めちゃくちゃ楽だった」
「その言い方はどうかと思うんですけど……」
歯に衣着せない蒼兵衛に、紅子が呆れた顔をした。たしかに彼は、衣服すらほとんど汚れていないが、シオンは攻撃こそ喰らっていないものの、汗と泥と返り血にまみれている。シオンにしてみれば、自分の戦いはいつもこんなものだが。
「おかげで、君たちには借りが出来たな」
まるで、いつか返してくれるかのような口ぶりだった。
鬼熊の巣穴は、想像していたより小さかった。
「本当に、ここにいるの?」
紅子が巣穴を見て言った。
入り口は、直径一メートルくらいで、大人が入るには身を屈めなければならない。奥のほうが広いかもしれない。
「覗き込まないほうがいいぞ。仔でも攻撃してきたら、その顔抉れるからな」
巣穴の前をうろうろする紅子に、蒼兵衛が注意した。紅子が慌てて入り口から離れる。
「親だけは外で暮らす。仔だけを小さな穴に押し込めて育てるというのを、聞いたことがある。仔は体が大きくなると、自分で巣の中を掘って広げる。親は穴の外で寝る。そうして外敵から仔を守るんだろうな」
「じゃあ、いまはこの穴を通れるくらいの大きさなのかな?」
「結構育ってるな」
穴の前に来て、シオンが呟く。
「そうだな。自分で狩りも出来るようになってるかもしれない。子供というのは人間でも魔物でも好奇心が強い。覚えたての狩りをしようとして、はぐれたのかもな」
「そっか……それで、あの人たちに」
紅子は哀しげに顔を伏せた。モンスターとはいえ、密猟者が森にやって来なければ親子で静かに暮らしていたかもしれない。その親を殺したばかりなのだ。
「親が食料を取ってきて、中に穴を掘って埋める、親が居なくてもしばらく飢えることは無さそうだな」
「ほんと? 良かったぁ」
ほっとしたように言うが、その顔は浮かない。
よく見れば、穴の周りの草の上に、血の塊が点々と落ちている。
シオンは穴の入り口から、中を見た。先までは見えない。だが中に生き物の気配がする。
ウエストバッグから、手の中に収まるほどの、小さな懐中電灯を取り出すと、穴の中を照らしながら腰を屈め、身を潜らせた。
「小野原くん?」
紅子が声をかける。
「か、顔が抉れるよ……!」
「大丈夫」
シオンは膝を突き、中に潜って行った。
右手に持った懐中電灯で照らした奥で、魔物の仔が蠢いている。そのうち、一番手前でぐったりと動いていない個体に向かって、左手を伸ばす。
すると伸ばした腕に噛み付かれた。他の仔だ。喰いつかれ、仔とはいえその力は強く、激痛が走った。シオンは威嚇の唸りを上げ、ひるんだ隙に振り払った。その一瞬の間に、動かない一頭だけを引きずり出した。
仔を連れて出てきたシオンを見て、紅子が声を上げた。
「小野原くん、腕、血が出てる!」
「嚙まれた」
牙の痕がくっきり残り、太い血管でも傷付けたのか、そこから血がだらだらと落ちた。骨まで達したかもしれない。火が付いたように痛む。嚙まれたのが指だったら千切られていたところだ。小さな仔でも、ゴブリンぐらい噛み殺すだろう。
「な、治って、治って!」
と紅子が慌てて腕を掴んだことが、実は嚙まれたときより痛かった。
しかしすぐに血が止まり、傷が塞がる。痛みまでは消えない。そう感じているだけなのかもしれないが。
「ありがとう。浅羽」
「びっくりしたぁ」
そう言い、紅子は息をついたが、すぐにシオンが巣穴から出した仔熊に目をやった。
「わあ、この仔も怪我してる」
すでに大型犬くらいの大きさだ。腹から血を流し、ぐったりと動かない鬼熊の仔に、紅子は躊躇鳴く触れた。
「こいつは多分、密猟者の罠にかかったやつだ。まだ生きてたんだ」
「えっ、生きてたの」
「仔でも生命力は並じゃないからな」
蒼兵衛が言う。
「だが、もう虫の息だ。見つけるのが遅ければ、危なかったな」
「な、治さなきゃ……!」
シオンが抱えている鬼熊の仔に、紅子が両手をそっと当てる。湿った赤い毛はひんやりと冷たい。
詠唱をしようとする紅子を、シオンは手で制した。
そして、腰からダガーを抜いた。
「え、どうしたの?」
シオンの行動を、何も疑っていない紅子は、目をきょとんとさせていた。
無言でダガーを振り上げた。それを、蒼兵衛が鞘に収めたままの刀を素早く振り上げ、弾き跳ばした。
「えっ、えっ?」
その動きを、紅子は目で追うことも出来なかったが、シオンには見えていた。
見えていたのに、やすやすと武器を弾き飛ばされ、目を見開いた。戦おうと思ったわけではないが、反射的に別のダガーに手を伸ばし、抜いていた。
だが蒼兵衛はもう、手を下ろしていた。それで我に返った。
ダガーを弾き飛ばしただけで、蒼兵衛はそれ以上の攻撃を加えなかったが、もし彼が敵だったなら、次にダガーを抜いている間に、シオンは斬られていた。それがいとも容易く想像出来た。
左手に嚙まれた痛みは残っていたが、怪我をしていない利き手で、目では動きさえ捉えていた。桜以外に、武器を弾かれたのは、久々だった。腕に当てられていたら、それこそ骨が折れていた。それをダガーだけを狙って打ったのだ。
迅く、正確な、まさに必殺の一撃だ。
それも、ほとんど殺気が立たない。それにシオンも反応が遅れた。
シオンの高い回避力は、反応速度だけでなく、ある程度勘を働かせ、相手の動きを予測するから出来ることだ。
それが蒼兵衛は読みにくい。殺気の無いところからの、苛烈な一撃に、まったく反応出来なかった。
才能が無いと言っていたが、どれほどの努力を積み重ねれば、あれだけの一撃が繰り出せるのだろう。
シオンがひたすら素早さと身のこなしだけを磨いてきたように、おそらく彼もこれだけを磨いてきたのだ。たしかにそれは才能と片付られるものではなく、ただただ、努力で磨いてきたものだった。
それこそ、血の滲むような鍛錬を重ねたに違いない。
だが、それはシオンだってそうしてきたつもりだった。だが、一切の小細工無く、真正面からぶつかって、負けた。これまで培ってきた努力を、それ以上の努力で覆されたのだ。
じんと痺れる手を、シオンは下ろした。
そんなシオンと、地面に落ちているダガーを、紅子は交互に見た。
「え……なんで? 小野原くん、ナイフを?」
紅子の問いには答えず、シオンは蒼兵衛を見据えた。
その目つきは険しい。
「どういうつもりだよ」
「私はあの鬼熊の戦いぶりに、応えると約束した」
「何の話だよ」
「仔の命は助ける。そのために奴は命をかけた。私はそれに応える。それだけだ」
シオンの手から、蒼兵衛は鬼熊の仔を奪い、紅子に託した。紅子は仔を連れ、シオンから距離を取るように離れた。なんとなく、シオンから離したほうが良いと思ってしまった。
「どうせ助からない」
「この娘ならそれが出来ると、分かっているだろう」
「そういう意味じゃない。そいつはモンスターだ。生きてても仕方無い」
「そうだな。鬼熊が人を傷付けた以上、鬼熊の恐怖から解放されるまで、人はこの森を荒らすだろう。だから奴は、私たちと命の限り正々堂々と戦い、果てた。親の死体を持って行けば、ひとまず収まる。だから奴は命をかけた」
「何を言ってるんだ。まるで、モンスターが人間みたいに……」
「モンスターだろうと人間だろうと、関係無い。ただ死に際の奴に、私は誓った。その想いに報いるとな。だから、奴の仔を殺そうとするなら、私が相手になる」
脅すように、蒼兵衛が刀の柄に手をかける。
シオンは顔をしかめた。
この男と正面から戦えば、勝ち目が無いのは分かっている。
「殺すって……この仔、殺しちゃうの?」
冷たくなっていく仔熊の体に手を触れながら、紅子はその命が尽きかけていることを感じながらも、戸惑ってシオンを見た。
助けるためにシオンがこの仔熊を、穴から出したと思った。傷ついた命を、密猟者にそうしたように、紅子も当たり前のように癒そうとした。
だが今は、二人の言うことの、どちらが正しいのか、分からない。
気付くと、巣穴から、他の仔熊が、おそるおそる顔を出していた。怯えた様子だが、傷ついた兄弟を気にしている。
「ど、どうして? 小野原くん、この仔たち、何にもしてないよ」
「モンスターだからだよ」
声を震わせる紅子に、シオンは答えた。
「いまは子供でも、いずれ成獣になる。鬼熊は人間にとって脅威だ。さっきの奴みたいに」
「で、でも、さっきの鬼熊だって、この仔が殺されたと思って……」
「そうだな。人間はそうやって、この山に今後もやって来る。そうしたら、また犠牲者が出るかもしれない。こいつらが大きくなったら」
「そ、そうかもしれないけど……でも」
「危険なんだよ」
初めて冷たく聞こえるシオンの言葉に、紅子も納得出来ないわけではなかった。 けれど、そうだね、といつものように気楽に頷くことも出来なかった。そうしている間にも、傷ついた仔熊は死にかけている。
さっき対峙した鬼熊は、たしかに恐ろしかった。ゴブリンも怖かった。けれど、冒険者として足を踏み入れた山で、戦いも起こるかもしれないと、頭では覚悟していた。実際には想像していたよりずっと生々しく、みっともなく悲鳴を上げたり震えたりもした。
けれど、人間の嫌なところも見た。それだって恐ろしいと思ったし、せっかく助けたのに、という思いも、無くはなかった。だからと言って、死ねば良かったとも思えない。
鬼熊が罪の無い登山客や他の人間を襲っていたらと思うと、倒すべきだと思って、蒼兵衛について行ったのだ。
だが、ボロボロになって死んだ鬼熊が、この仔たちを護るために戦っていたのだと思うと、やはり胸が痛む。
どちらも間違いでは無いと分かっている。だから、紅子には答えが出せなかった。それまでは頼りになる二人について来れば良かった。その二人の意見が割れてしまっている。
紅子のような駆け出し冒険者が、口を出していいのかも分からなかった。
蒼兵衛がシオンを見て、言った。
「君は亜人なのに、人間社会主義者か」
「別に、違う。オレが亜人ってことも関係無い」
「いま、イラッとしただろう。尻尾が動いたぞ。腹が立ったときの動きだ。ワーキャットって、判り易いんだよな」
「うるさい」
シオンは顔をしかめた。蒼兵衛が煽るような笑みを浮かべた。
「君たちは、駆け引きが下手だな。本心を隠しても顔……じゃなくて、尻尾に出てるぞ。嘘発見器みたいだな。そうか、君は人間至上主義か。亜人なのに。ま、亜人と言っても見た目は人間っぽいしな。尻尾あるけど」
「うるせえって言ってんだよ!」
声を上げたシオンに、蒼兵衛は動じる様子も無い。それまではほとんど無表情だったのに、今だけ嘲るように笑われているのが、シオンの癪に障った。良い奴だと思っていたのに。
「オレは、人間の家族に育てられた。亜人だから人間が嫌いだとか、そんな考えはくだらないって思ってるだけだ」
「そうか、人間の中で育ったのか。君は」
嫌な笑みを消し、蒼兵衛は急に、優しげな口調で言った。
それが余計に見下されているようで、哀れみを向けられているようで、腹が立った。思わず、声を荒げていた。
「何なんだよ、だから! そうだよ、人間に育ててもらった! 周りは人間ばっかだった! ここは、人間のほうが多い、人間の世界じゃねーか! 父さんが人間でたまたまオレを拾ってくれたから、オレは生きてたってだけだ! 人間が助けてくれなかったら、どうせ人間に殺されてたんだ!」
吐露したあと、シオンは自分でも驚いた。そんなふうに思っていたのか。いや、分かっていて、割りきっているつもりだった。でも。
ふと紅子を見ると、彼女は驚いた顔をしていた。いきなり怒り出したのだから、当然だ。鬼熊の仔を大切そうに抱える彼女から、目を逸らした。
「……そいつらだって、いつか人を襲う……人間を殺すのが、モンスターだろ……じゃなかったら、モンスターの基準って、何なんだよ……」
搾り出すような声で、シオンはそう漏らした。
けれど、もうシオンの価値観は、すっかり揺らいでいた。
そう口にしてしまったときに、気付いたからだ。
自分もそうやって、モンスターの親から引き離されて、父親に救ってもらった。
親や群れは人を喰い殺し続けた末に、討伐されたが、シオンだけは、まだ幼獣だから、見逃してもらった。
結果、モンスターにはならなかった。
人間に恩があり、人間の中で育って、人間が好きになった。
だから、今の自分はモンスターじゃない。そう信じていた。
でも、人間の世界に馴染んでいたわけじゃない。シオンが護りたいほど好きな人間も、結局、家族だけだったのだ。
その家族を――桜を、モンスターが喰い殺した。
だから、許せなかった。モンスターも。人間になった気でいた自分も。
「……治って、治ってね……」
紅子が傷ついた鬼熊の仔に、治癒魔法をかけていた。
「浅羽……」
シオンは彼女のほうを見た。
「治って、がんばって、元気になって、生きてね」
相変わらず、変な詠唱だった。
彼女は泣きそうな顔で、ひたすら呪文を唱えている。
詠唱中で、シオンに自分の考えを言うことは出来ないが、その行動こそが紅子の出した答えだった。
二人の意見のどちらかに味方するのではなく、自分で決めた。
治してから、考える。それでいいと思った。二人の言い争いより、冷たくなっていく魔獣の体に触れていて、もうこれ以上は待てなかった。
「君にとっては、それがモンスターの基準でいいんじゃないか」
蒼兵衛は簡単に言った。
「だが、私は違う。それだけのことだ。私は人間だが、人間の中にも生きる価値の無いクズがいる。そのクズ基準も私が決めたことだ。モンスターであろうと、強かったとか潔かったとか可愛いからとか、そんな理由で見逃したりする。それも私の気分でしかない。今は私の考えと、君の考えがぶつかっているが、引く気は無い。君が彼らを殺すなら、戦うが」
「……アンタと戦っても、疲れるだけだ」
力無く、シオンは呟いた。力では負ける。蒼兵衛の考えは変わらないだろう。
言いたいことを言うと、興奮が少し収まって、弁の立つ蒼兵衛に反論するのも、疲れてきた。
ひどく、疲れてしまった。元来ワーキャットは、あまり深く物を考えたくない種族なのだ。
「そうだな。君と戦ったら、疲れそうだ」
紅子の魔法で、鬼熊の仔の傷が塞がっていく。離れたところで、別の仔がじっと見ていた。紅子が兄弟を助けていると分かるのか、大人しく見守っていた。
家族を労わる姿は、魔獣も人間も変わらない。そんなことは分かっている。
「魔物にも魔物の領分があると、君は言っていた。本当は、優しいのにな、君は」
「そんなんじゃない……」
シオンは項垂れ、力無く首を振った。
「でも……この鬼熊たちが、でかくなって、人を襲ったら」
「襲わないかもしれない。元々、好戦的な種でも無いし、この山は食料が豊富だ。大体、成獣になる前に死ぬかもしれんしな。このへんはゴブリンだけじゃなくてオークやトロルも出るし」
「生き延びるかもしれない。これだけ育ってたら……」
「かもな。だが、あの親があれだけでかくなるまで、この山に隠れていたんだ。そんなふうに一生を終えるかもしれない。大体、仔がいるなら他につがいの片割れも居ただろうし、今もいるのかもな。だが、未だ騒ぎにもなっていない」
「そんなの、これからは分からない」
「そうだな。分からないから、今考えてもしかたない。もし人を襲ったとしても、そのときは、そのときいる人間が何とかする。そういうふうに、人間も自分たちよりはるかに強い生物と戦って、生きてきたんだからな」
あっけらかんと蒼兵衛が言う。
「モンスターは見つけ次第殺せなんて決まりも無い。親の首でも持っていけば、それで終わりだ。仔は密猟者に殺され、その死体は他の魔物に持ち去られていた。私はそう報告する。あれは自らの首を差し出した。人の世に対し、人を殺した罪の代償を、自分で払った。モンスターに罪もクソも無いが、人間風に言うと、子に罪は無い。そうだろう?」
シオンは答えず、それを答えの代わりにした。
蒼兵衛と紅子がいまは鬼熊の仔を生かすというなら、これ以上口出しする気も、邪魔する気も無い。
二体一じゃ分が悪いし、蒼兵衛の言うことも分かる。シオンだって感情で話しているだけだ。
ただ、父のことを思い出した。
殺伐とした戦いの中で、どういう気持ちで、獣墜ちの子を、救おうと思ったのか。結局、訊いたことは無かった。
「治ったのか?」
紅子が詠唱を終え、蒼兵衛が尋ねた。
「うん。傷は塞がったけど、かなり消耗してるから、あとはこの子の体力に任せるしかないですけど……けっこう血が流れちゃってるから」
「肉を塞げるなら、血も再生出来るんじゃないか」
「傷ついて失われていくところを、無理やり足していくのがヒールで、その材料が本人の魔素と私の魔力になるんですけど、なるべく本人の魔素に再生作業させるんです。無理にこっちの魔力を押し込んでしまうと、かえってショック状態になっちゃうから、トンカツに例えると、揚げる前のカツにパン粉付けるための、つなぎの卵みたいなもので……」
「何故トンカツで例える?」
「ヒールは、本人の生命力に、魔法っていう力技で、働きかけるんです。分かりやすく説明すると、丸いホールケーキを人の体だと思ってください。どんどん食べられて無くなりそうになるのを、ケーキ屋さんが新しいケーキをどんどん作って継ぎ足していくってかんじです」
「分かりにくい。なんですぐ食べ物で例えるんだ」
「えっ、そうですか? 私はイトコのお兄ちゃんにこうやって教えてもらったんですけど……。魔道士がケーキ屋さんで」
「ケーキはもういい。君が腕の良いケーキ屋だっていうのは分かるが」
「腕、関係無いですよ。お医者さんじゃないですから。分けて上げられるだけの魔力があれば。あとは、ちょっとしたコツなんですけど」
「コツか」
「治してあげたいって気持ちだって、お兄ちゃんは言ってました。ヒールが得意な人って、気持ちの優しい人が多いんですよ」
「自画自賛か」
「えへへ」
「異論は無いがな」
「私のは、コツ無しの力技ですよ。だから攻撃魔法のほうが得意だし」
紅子は衣服が汚れるのも構わず地べたに座り、膝の上でぐったりとした鬼熊の仔の体をさすっている。
シオンも同感だった。紅子は良い奴だ。シオンにとって、たった一人の友達だ。
成り行きのように組んだパーティーだが、彼女はもうかけがえの無い存在になっている。
彼女が抱いている仔熊は、傷そのものはあらかた癒えていたが、首から腹にかけて毛が抉れ、痕が残っていた。他にも全身に、痛ましい幾つかの傷痕がある。武器でやられたのか、罠で傷ついたのか。
兄弟の仔熊が近寄ってきて、その傍に身を寄せてきた。さっきシオンの腕を嚙んだのに、今は紅子を傷付ける様子も無い。
「あ、そっか。あっためなきゃ! 何してたんだろ、私」
紅子が声を上げた。
「そうだな。といっても、服しか無いが」
と言う蒼兵衛のコートはすでに親の死体に掛けてきている。その下に着ていた衣服まで脱ごうとしたので、紅子が慌てて止めた。
「わわ、いいです、いいです。私、下に厚着してるから」
代わりに紅子が、自分のウィンドブレーカーを脱いだ。
シオンもジャージを脱いで渡した。
「……使えよ。表は濡れてるけど、裏は大丈夫だから」
「あ、ありがとう。小野原くん!」
ぱあっと紅子が顔を明るくした。
「おい。君、巻き方雑だな。水滴も拭ってないじゃないか」
受け取った衣服を、紅子が不器用にもたもたと巻き付けようとする。横から口出す蒼兵衛は、もっと不器用だった。
「人のこと言えない……」
紅子が睨む。ようやく巻きつけた後に、衣服の袖を、元気なほうの鬼熊が、引っ張ってじゃれてしまった。
「ああ、ダメだよ! これは治療で、遊びじゃないの」
「しょせんはけだものか」
「……貸せよ」
紅子も蒼兵衛も戦いには強いくせに、こんな簡単なことの手際は悪い。ついに見かねて、シオンは手伝った。
「しばらく二匹まとめて包んでおこう。天然の毛皮が一番温かいだろうから」
そう言い、ウェストバッグから包帯を取り出すと、傷ついた仔熊の体に巻きつけた。ついでに表面しか濡れていないスカーフも、水滴をぬぐって巻きつけた。
「あ、上手だね。小野原くん。手際いいね」
「普通だろ。ずっとソロだったし」
その上から、二枚の衣服で鬼熊の兄弟をぐるぐる巻きにする。ボールのようになった二頭の仔を見て、紅子が思わず呟いた。
「うう、可愛い……。モンスターでも、子供って可愛いね」
「……そうだな」
シオンは掠れた声で呟き、今度はポーションを取り出した。
「気休めだけど」
とプラスチックの封を開け、目覚めない仔熊の口を開かせると、その口の端に先端を押し込んで液体を流し込んだ。
「モンスターが飲んで大丈夫なの?」
「ただの栄養剤だから」
あとは紅子の言うように、体力に任せるしかないが、モンスターの生命力は恐るべきものだから、おそらく大丈夫だろう。
見ると、もう一頭がくっついている兄弟の顔を、懸命に舐めて、目覚めさせようとしている。
その光景は、モンスターでも、たしかに家族の姿に違いなかった。
そんな姿を見てもなお、殺すべきだなんて思えるほど、シオンも冷徹にはなりきれない。
助けて良かったとまで思わないが、たしかに、いますぐに殺す必要も無いのかもしれない。そう思った。
人が人を殺すこともあるように、モンスターが人を殺さないまま、ひっそりと一生を終えることも、たしかにあるのだろう。
子に罪は無い、という蒼兵衛の言葉に、少しだけ気が軽くなったような気もした。
「……あ、猫」
と紅子が呟き、視線を飛ばした。
同じ方向を見ると、二つの尾を持った魔猫の親子が、じっと様子を伺っている。
紅く透き通った角を持った鹿が、木々の間をすっと通り過ぎた。
「このあたりは、魔獣の森なんだな」
蒼兵衛が呟く。
「ここらの山々はゴブリンだらけだ。それを餌に、トロルやオーガといった外来妖精も増えてる。奴らは小さな魔獣の天敵だが、ここでは鬼熊のお陰でひそかに生き延びていたんだな」
「そっかぁ。魔素も濃いから、過ごしやすいのかな」
「私も、警備員の仕事も飽きたし、つまらんし、しばらくこの山でゴブリン駆除の仕事でもするかな。金にはならんが」
「いいんじゃないか。アンタ強いし」
「仕事……仕事と言えば……あーっ!」
紅子が大声を上げると、抱えていた仔熊も含め、全員の視線が集まった。
「あ」
とシオンも思い出して、声を上げた。
「わわわ忘れてた! わ、私の仕事!」
「君たちがやっていた山菜採りか。私は憶えていたぞ」
「蒼兵衛さんが憶えてたって仕方無いよ! どうしよう……間に合わないよ!」
紅子が頭を抱える。肩に垂れたポニーテールに、仔熊がじゃれつくように手を伸ばしていた。
「うーん……緊急事態だから、事情を話せば大丈夫じゃないかな。多分」
袖を捲くって時計を見て、シオンは諦めたように言った。




