初戦闘
道の無い斜面をシオンは獣のように駆け上がり、木々の間を擦り抜け、無造作に転がる岩を蹴って跳んだ。
はっきりと近くなってくる悲鳴が、助けを求める者の位置をシオンに教えた。
それから、ゴブリンの独特の奇声。
ゴブリンは笑う。本当に笑っているのかは知らないが、笑っているような顔をし、笑い声のような声を上げる。
嘲るように大きく笑うときは、高揚しているときだ。
奴らは、獲物をわざといたぶって、弱らせてから殺す。そのときいっそう笑う。
獣と違うのは、喰う以外の目的で生物を殺す。積極的に縄張りを離れ、集団で狩りをする。
その行為自体、彼らにとっては何の感情も無い、ただの習性なのかもしれないが、人から見れば残虐そのものだ。だからゴブリンはモンスターの中でも特に忌み嫌われる。邪悪な魔妖精と認識されている所以である。
高い知性を持ち、統率の取れた集団行動をすることから、かなりの社会性を持ったモンスターであると言われている。
本来外来種であり日本には存在していなかったが、繁殖力の高さと順応力の高さで、現在では北海道から沖縄まで日本全土に定着している。
コダマやワラシといった、それまで天敵の少なかった日本在来種の妖精は、ゴブリンによって住処を追われ、いまはほとんど姿を見ることは無い。
海外ではゴブリンの襲撃で村一つが壊滅したという話もあり、日本でも定期的な駆除が行われている。
攻撃的で、特に人間への敵対心が強い。相手が少数だと執拗に追いかけてくる。
警備のしっかりした登山道は比較的安全だが、立ち入り禁止の山に勝手に入る者が襲われる事件も多い。初心者冒険者にとっては天敵と言える。腕の良い冒険者でも、状況によって命を落とすことは珍しくない。
シオンは走りながらダガーを抜いた。
近づいてくる。人間の悲鳴と、喜ぶように騒ぐゴブリンの声が。知性が高いといっても所詮はモンスターだ。獲物を襲って興奮し、大騒ぎしている。これなら気付かれず至近距離まで行ける。
鬱蒼とした森の中で、背の低い茂みに身を隠し、シオンは息を整えた。
いたぶられ、痛みに悶える人間の声。聴き分けられる限りでは二人居る。声を出せない者もいるかもしれない。
襲われているのは登山客ではなく、多分、武装した者だ。
警戒心の強いゴブリンはほぼ必ず、三体以上で徒党を組み行動する。
ゴブリンは武装した集団の人間を襲うとき、より念を入れる。自分たちより少ない人数では決して襲わず、必ず倍以上の数で襲うのだ。
騒ぐ声だけでも、十体以上はいそうだ。
傷ついた者を守りながら戦うのは難しいが、これだけの一方的に襲われているのなら、一刻を争う。
シオンはわざと枝を揺らし、葉擦れの音を響かせながら、威嚇の唸り声を上げた。
全頭と呼ばれる獣頭のワーキャットより凄味で劣るが、ゴブリンの注意を向けるだけなら充分だ。
人間に対しては強気で襲ってくるゴブリンも、亜人には恐れをなす。シオンの姿は人間に近いので、見れば意気揚々と襲ってくるだろうが、今は草むらの奥に自分たちの苦手とする種族の存在を感じているだろう。
さきほどとうって変わって警戒した様子に変わる。人間のほうも怯えた声を上げた。新手の獣が来たと思ったようだ。
亜人嫌いのゴブリンは、唸り声を聴いただけで逃げることもあるのだが、人を襲っている最中で興奮している。群れの数も多い。
戦闘は避けられない。茂みの中で、シオンは両手でダガーを構えた。
全部、殺す。
シオンは飛び出し素早く距離を詰めると、一番近くに居た一体の喉を切り裂いた。
「ギャッ!」
と人間のような声を上げて、ゴブリンが喉から血を拭き零しながらよろめく。その顎を蹴り飛ばし、姿勢を低くする。
すぐに別の一体の許へ駆け、両手のダガーでそれぞれ喉と腹を突き、裂く。
倒れている人間が確認出来た。三人だ。全員足をやられているようだ。特に、胸と腹が裂けている者は、時間がかかると不味いかもしれない。
「た、助けかっ? おい、助けてくれっ!」
這って逃げていた男が、シオンに向かって叫ぶ。
「襲われたんだっ……!」
見れば分かる。シオンは救助者に、いまは目をくれていない。
まずは、この場の敵を排除する。
気になるのは、離れたところで様子をうかがっているゴブリンが多いことだった。投石係だろう。いやに警戒心が強い集団だ。唸り声に反応し、咄嗟に茂みに隠れたものも数体いた。
近くにいたゴブリンが、人間から奪った剣を振り上げ、シオンに襲いかかってくる。シオンは地面を這うように接近し、左手のダガーを腹に突き入れた。
ゴブリンは人間から奪ったものを、器用に加工して使ったりもする。このゴブリンは板切れに紐を通し、前掛けをするように武装していたが、その板の継ぎ目にダガーの刃はするっと入った。素早く抜くと、黒っぽい血が噴き出した。
止まらない勢いのまま振り下ろされた剣をかわし、シオンは右手にしたダガーも、板と脇の間から通すように差し込んで、ゴブリンの心臓を貫いた。
離れたところから、シオンに向かって幾つもの石が放たれた。心臓を突き破ったままのダガーを手離すと、口から血を噴きながらもがくゴブリンの首を掴み、その体を盾にして、飛んできた石を防いだ。
ほとんど死体になったゴブリンを捨て、ダガーを抜くと、石を投げてきたうちの一体目がけて走る。
残ったゴブリンたちはなおも石を掴み、シオンに向かって投げた。それを交わしたところに、二体のゴブリンが横から突進してきた。
すぐに怖気づく狒々と違い、ゴブリンは好戦的だ。あっという間に数体をやられたことで、むしろいきり立った。殺気を剥き出しに、襲いかかってくる。
奴らが脅威となるのは、少々の知性の高さよりも、魔物としての本能を剥き出しにしたときだ。統率が取れているときよりもむしろ、数に任せて見境無く襲ってくるときが、一番厄介だ。
横から突っ込んできた一体の喉を片手で切り裂く。もう一体は木の盾を体の前に構え、素早いタックルを仕掛けてきた。これは避けるしかなく、シオンは後ろに跳び退く。が、すぐさま方向を変えて跳躍した。
突進を避けられたゴブリンは、喉を斬られたゴブリンにぶつかり、自分で仲間にとどめを刺してしまった。その頭より高く、シオンは跳んでいた。そのまま頭を底の厚いブーツで踏みつけ、ゴキリと骨の折れる音を鳴らし不自然に曲がった首筋を、更にダガーで掻き切った。
ゴブリンは痛みに強く、生命力が高い。たとえ数体に囲まれても焦った攻撃をせず、一体一体確実に仕留めていくのが、結局一番早い。
この間に、数体が殺到していた。囲まれてもシオンは冷静に攻撃を避け、武器を払い、反撃を加える。こうなるとシオンが疲れ切って動きを止めるのが先か、ゴブリンを殲滅するのが先か、それだけだ。
身体に迫る刃も石も爪も牙も、すべてを避けながら、ダガーを振るう。
シオン一人だけなら、こんな消耗戦になる前にさっさと逃げてしまう。が、これは救助だ。シオンがこの場を離れたら、奴らは手負いの者たちを殺してしまう。
「小野原くーん!」
戦いの場に間延びした声が響いた。
横目に伺うと、杖を前に構えた紅子がたったっと一定のリズムで走ってきた。息がそれほど切れていないのは、肉体強化して山道を走ってきたのだろう。
肉体強化魔法は、ごく短い時間に飛躍的に能力を上げるのと、長い時間安定した強化を与えるのでは、後者のほうが圧倒的に難しい。
しかも彼女は体力が低く、運動能力も高いとは言えない。
元より運動能力が高く、体術に長けていた桜のようなルーンファイターとは違う。元の能力が高ければそれだけ効果がある。紅子がこの短い時間で、足場の悪い山道をシオンのように駆け上がって来るには、それだけ強く、長く、魔法をかける必要がある。
代々続く魔道士の家系と言っていただけはある。
だが、まだゴブリンの数を減らしきれていない。さっきの大声で、ゴブリンたちは紅子の存在に気付いてしまっている。
「浅羽、来るな!」
ゴブリンの喉にダガーを食い込ませながら、シオンは叫んだ。
「わあっ! あれ、ゴブリンっ? 小野原くん、大丈夫っ?」
「オレは大丈夫だ!」
そう応えるシオンの顔の横に、剣が振り下ろされる。小さな動きでそれを避ける。あっちから見れば、シオンが大量のゴブリンに囲まれて、危険な状態にあるように見えるだろう。
「い、いっぱいいる! いま行くね!」
「ダメだって! 来るな!」
シオンは叫んだ。こちらが危ないと思ってか、慌てて駆けつけようとする紅子だが、彼女に敵の注意が向くほうが危ない。
だが、彼女の後ろから付き従うように、蒼兵衛もやって来ていた。
たしか彼の、サムライに書き換えられた元のクラスは、ルーンファイターだった。当然彼も肉体強化しているだろうが、紅子を追い抜かず、ペースを合わせている。
さっさとシオンが置いてきてしまった彼女の身を、代わりに護ってくれているのだ。
「小野原くーん、よけてね!」
紅子はそう言うと、かなり離れた位置で止まり、片手に掲げたピンクの杖を、後ろにすっと引いた。
何か魔法を唱えようとしている。
距離が離れると、当然威力も落ちる。コントロールも怪しくなる。出力不足やノーコンのソーサラーも多いので、ちょっと遠過ぎるんじゃ、とシオンは内心思ったが、ゴブリンの攻撃を捌きながら、いつでも避けられる位置を取った。
「いくよー! 燃えて!」
森の中にのん気な声が響き、杖を握った右手を、紅子がすっと前に突き出す。先端に付いたピンクの魔石が、放出される魔力の軌道を差し示すように、シオンを囲むゴブリンの集団に向いた。
シオンは横に跳んだ。次の瞬間、まるでピッチングマシーンから飛び出した豪速球のような炎の塊が、ゴブリンの群れに直撃していた。
それも、三発続けざまに。
避けて良かった。唖然としながら、心底シオンはそう思った。
正直、大した攻撃は来ないと思っていた。
三発の火球をほぼ同時に飛ばす魔法なんて、目にしたことが無い。しかも、あの詠唱時間の短さで。
シオンに殺到していたゴブリンたちはすべて炎に包まれ、直後に、紅子の悲鳴が響き渡った。
「ぎゃー! も、燃えてる!」
「そりゃ、燃やせば燃えるだろう」
蒼兵衛が冷静に返し、すでに抜いていた刀を、近くの草むらに突き入れた。
「ギャッ」
と甲高い声が上がる。蒼兵衛が刀を引くと、胸を貫かれたゴブリンが引っ張り出されるように姿を現した。
その体からずるりと刀を抜き、一振りで首を刎ねる。
「きゃあ!」
紅子が慌てて後ずさる。
血が噴き出したゴブリンの体が、とさっと倒れる。
迅かった。単純な突きだけで、彼の腕がかなりのものだと、シオンには判った。
刀を抜き、ゴブリンの胸を突く、そこまでの流れるような動き。そこに敵が居たと感じさせないほどに、ごく自然な動作だった。この喧騒の中でまるで殺気立てず、この剣士はそれを行った。
しかも小さなゴブリンとはいえ、片手の一撃で首を刎ね飛ばした。
紅子の魔法も、ゴブリンの戦力をほとんど削いでしまった。
戦況が一気に楽になった。
というか、ほぼ終わっている。
「小野原くん、逃げて、逃げて! まだ動いてる!」
遠くから紅子がきゃあきゃあと叫んでいる。
炎に巻かれ、黒焦げになりながら、ゴブリンの殆どは、完全に絶命はしてはいない。だが、その戦闘力は失われている。
のた打ち回って火を消そうとしている近くのゴブリンの首を、シオンはブーツで思いきり踏みつけ、絶命させた。
火に巻かれている他のゴブリンも、片っ端からその喉を掻き切り、踏みつけ、とどめを刺していく。逆上して襲ってきた者も、走って逃げようとした者も、残さず始末していく。
蒼兵衛に近い者は彼に任せた。
これから敵を斬るというときも、彼からはおよそ覇気というものが感じられない。団子に串を刺すくらいのことのように、刀で突く。
その太刀筋の迅さ、急所を突く的確さ。
シオンが知るうちで、一番強い剣士が桜だった。
その反射神経と敏捷性で相手の攻撃を受け流し、カウンターからの豪快な一撃で叩き伏せる。人間の女である非力さを戦いの巧さでカバーしつつ、最後には敵の心ごと折るような、圧倒的な力で粉砕する。自分は強いのだと、見せ付けるような戦い方を好んだ。
蒼兵衛の戦い方は逆だ。動き自体が小さく静かで、とてもつまらなさそうに戦う。油断だらけのようにも見える。
襲ってきたゴブリンの攻撃をギリギリまで引き付け、最小限の動きでかわすと、まるで力が入っていないかのような動作で、喉か心臓か腹を必ず狙って突く。どこも致命傷になる箇所だ。この正確な一撃を、まるで何でも無いことのように行う。気合の声一つ発せずに。涼しい顔で。
すべて簡単に行っているようにさえ見えるが、長年凄まじい修練を積んだ剣士であることは間違いない。
「うわ、うわ」
次々と倒されていくゴブリンを見て、紅子はすっかり狼狽し、上ずった声を上げている。
火傷を負って黒い煙を上げるゴブリンが、ふらふらと紅子のほうに向かおうとするのを、シオンは追いついてダガーで掻き切った。死ぬ前に見開かれた目は、紅子を見ていた。まるで憎悪するように。
「ひっ」
杖を握り締めた紅子が、たまらず目を背ける。
ほとんどが紅子の魔法に焼かれ、行動不能になり、シオンと蒼兵衛でとどめを刺した。
最初の魔法はシオンの想像を超えていた。その攻撃が当たってから、紅子は錯乱していた。
誰もが通る道だ。
魔法を当てれば、敵がパタパタと勝手に倒れてくれるわけではなく、ゲームのように致命傷を与えれば、一瞬でその姿ごと消えてしまうわけではない。
放った攻撃が敵に当たれば、敵が死んだり傷を負うのは当たり前だ。一撃で絶命せず、死にきれず苦しんだり、手負いの状態で襲ってくることもある。無残な姿で死ぬまで蠢き、苦悶の声を上げもする。
シオンが紅子の許へ駆け寄ると、紅子は杖を握り締めたまま、震えていた。
「い、いっぱい殺しちゃった……」
紅子は戦闘の跡から目を背け、俯いている。奥歯が嚙み合わないのか、かたかたと小さく音をさせている。
「浅羽、ありがとう」
シオンは紅子の肩に、ぽんと手を置いた。その手に残った血が、彼女の肩を汚してしまった。
「……けど、まだ、戦闘中は目を逸らしたら駄目だ。これで終わりとは限らない。隠れてる奴が襲ってくるかもしれない」
紅子は答えず、小さくだけ頷いた。
その場には、黒く煤けたゴブリンの死体が、幾つも転がっている。
攻撃を当てれば敵が死ぬということを、分かっていなかったわけでは無い。
ただ、想像以上に、生々しい光景にショックを受けているのだ。
「でも、あの人たちは助かったよ。浅羽」
シオンはゴブリンに襲われ、倒れている人間たちに目を向けた。二人は意識があるようだが、一人は動いていない。すでに蒼兵衛が様子を見ている。
血と泥で汚れた手で触れることに、シオンは少し躊躇ったが、そのまま少女の小さな肩を擦った。
そうしていると、少しだけ彼女の震えが落ち着いてくる気がしたからだ。
「怪我人を下まで運ぶから、今はとりあえずついて来てくれ」
「あ……」
シオンの言葉に、紅子ははっとしたように、顔を上げ、急に駆け出した。
「わ、私、治せる! 治せます!」
再び杖をきつく握り締め、倒れた男の前に跪く。
かすかに意識はあるようで、時折小さく呻いているが、一目で危ない状態だと判る。細かい傷もあるが、腹が食い破られたように抉られ、右肩から腹にかけて、鋭い爪痕のような傷が袈裟懸けに走っていた。片腕も変な方向に曲がっている。
携帯電話を手にした蒼兵衛が、やって来た紅子を見た。
「君は、治癒もあるのか。いま、助けは呼んだが、かなりまずい。せめて血だけでも止められないか?」
「はい! やります!」
さっきまでの錯乱した様子から気を取り直したように、紅子は強く頷いた。
血まみれの男の胸に、紅子は自分の手をそっと当てた。それだけでも酷く痛むのか、男が苦悶の声を上げる。
「治ります。絶対、治しますから、少しだけ、我慢してください!」
力強いその声に、蒼兵衛が驚いたような顔をした。
その言葉が、すでに、詠唱だったからだ。
地面をとめどなく濡らしていた血が止まり、再生が始まる。
「ヒーラーがいるのか? オ、オレも治してくれ……! 足が両方折れてんだよ……!」
遠くで這いつくばっている男が声を上げる。蒼兵衛は冷たく答えた。
「足が折れてるくらいで死ぬか。彼女の妨げになる。黙っていろ」
「そ、そいつはどうせ助からねえよ! 助けられる奴から助けるべきだろ! 頼むよ、ま、またアイツが来たら、逃げられねえよぉ……!」
しつこく喚く男にシオンが近づき、その喉許にダガーの刃を突きつけた。
「ヒッ」
「黙れよ。仲間の身が心配じゃないのか?」
息を呑む男の襟首を、シオンは掴んで引き寄せた。鼻をひくつかせ、人間の泥と汗と血の臭いの中に、混ざっている別の臭いを嗅ぎ分ける。生臭いゴブリンの臭い。それから、もう一つの生き物の臭い。……血の臭い。
「アンタら、ここで、何をしてた?」
「な、何だよ……べつに、何も……」
男たちの体中に、ゴブリンから受けた傷の他に、別の生き物から攻撃された形跡がある。大きな爪と牙で受けた傷。これが、男たちを戦闘不能にさせた。ゴブリンは手負いの人間共に後から群がってきたのだ。
あれだけ大勢のゴブリンがいやに警戒していた理由も分かる。先に男たちを襲ったものに対して、警戒していたのだ。
「言えないようなことをしてたのか?」
金色の目が、男を射殺すように見た。その顔がみるみる蒼褪めていく。
「こ、殺すのか……?」
少年とはいえ、大勢のゴブリンを屠っていった亜人に、男は獰猛な獣を見るように恐怖していた。
「お前の足はそのままだ。管理者に引き渡す」
「な……」
なおも声を上げようとした男は、ダガーの刃を薄皮に食い込まされ、黙った。
「もう喋るな。クソみてーな臭いさせやがって。イラつくんだよ」
そうシオンは吐き捨て、ウエストバッグから携帯用のロープを取り出すと、男の腕を後ろ手に拘束した。もう一人、まだ動けそうな男の様子も見る。両足を負傷していたが、命に関わる怪我は無さそうだ。こっちも腕を括って転がしておいた。喚いていたが、シオンが凄むと黙った。
紅子は死にかけている男を、魔法で癒していた。
左手で杖を掲げ、右手で男の体に触れる。魔道士が使う杖は、彼女たちの魔力を高めてくれる。
紅子の力も、さっきの戦闘で見せ付けられた。
しかし、これだけの傷だ。内臓を何箇所も損傷している。助からないかもしれない。
だが、シオンはまた想像もしていなかった光景を目にした。
「……治って、治って……がんばって、治って……」
それは、魔法というより、ただの祈りのようだった。
そのまるで『お願い』を繰り返すだけかのような詠唱に、男の体から血が止まり、損傷した部分が回復していく。
「治って、がんばって、生きてね……」
ヒーラーに治してもらったことは、シオンも何度かあるのに、それが魔法のように見えなかった。
彼女の祈りが天に届いて、奇跡が起こっているんじゃないだろうか。人じゃないものが、助けてくれているんじゃないか。そんなふうに思った。
いや、魔道士そのものが、人を超えているのか。
激しく損傷した身体を、活動可能な状態にまで蘇生出来る治療魔道士も居るとは聞くが、その存在は知る者にしか知られていない。
その能力だけで、多くの人に求められる。要人や資産家に驚くほどの厚遇で雇われている専属のヒーラーも居るという。
シオンも重傷を負ったとき、ヒーラーに世話になったことは何度かある。冒険者専門に開業しているヒーラーは紹介でしか看てくれないことが殆どだ。そもそもかなりの高額を取られるから、稼ぎの無い冒険者ではとても世話にはなれない。
もっとも一般的なレベルの魔道士が使う治癒魔法は、骨折が治せるほどなら充分腕が良い。血を止めてくれるだけでも重宝する。擦り傷を治せる程度なら絆創膏を持ち歩いたほうがマシと言われている。
紅子の力は、こんなところで冒険者をやっているレベルじゃない。
間違いなく、数えるほどの者しか出来ないような治癒を行っている。
「治って、治って、治って……」
こんなに単純で、真っ直ぐな詠唱を、初めて聴いた。
詠唱には、二種類ある。
集中を高める準備詠唱と、練った魔法を放つときの、引き金となる発動詠唱。
準備詠唱は長くなりがちだ。威力の高い魔法ほど集中が必要となる。また魔力が弱いもの、扱いが下手な者も、長く集中が必要となる。
これは人によって異なる。詠唱の呪文は何でも良い。本人が集中し易ければそれで良いのだが、まったく関係の無い言葉で構成すると巧く集中出来ない。だから、透哉がまったく普通の会話のようにシオンに精神魔法を仕掛けたのは、彼が相当の実力者であることを意味する。
紅子の火球を生み出す魔法は、準備詠唱が酷く短かった。それだけ短い集中で、高威力の魔法を使う彼女も、実力者だ。
そして治癒魔法は、攻撃に使う魔法とはまた違う。
体そのものを癒すのではなく、失われゆく魔素を活性化させ、魂を繋ぎ留める。活性化した魔素と魂が、肉体を修復しようとする。急速な活性でまた失われていく魔素を、術者の魔力を通し魔素を注ぎ込むことで、補充していく。自分と異なる魔素を他人に流し込むのには、凄まじい集中が必要になる。
彼女はぶつぶつと祈りの言葉を紡ぎながら、その作業に没頭している。閉じた瞼にまで汗が浮かんで、流れた。それさえも彼女は気にせず、男の体に手のひらを当て、ただ魔力を流し込んでいる。
その、ただそれだけの行為の難しさは、ソーサラーでないと判らない。
だから、シオンは離れたところから、黙って見守った。
死にかけていた男の顔に生気が戻っていく。
その仲間が痛みも忘れたように、呆然と呟いた。
「う、嘘だろ……。ヒーラーってのは、こんなにすげえのか……」
違う、とシオンは内心で否定した。
紅子が凄いのだ。治療士を生業とする魔道士の中でも、これだけの能力がある者は、そう居ない。
やがて、紅子がふうっと息をつき、力が抜けたように肩を落とした。
その肩を蒼兵衛が支えた。
彼も紅子の力に、戸惑った様子だ。
「浅羽、大丈夫か?」
シオンが駆け寄ると、紅子はまたふう、と息を吐き出し、シオンを見上げた。
「うん。大丈夫だよ。魔力の量にはちょっと自信あるの」
「そうなのか……?」
頷くその顔は、小さく微笑んでいた。
傷の癒えた男はうっすらと目を開けていた。
「君、ロープを貸してくれ」
と蒼兵衛がシオンに言った。ロープを渡すと、目覚めた男の腕をすぐに縛り上げた。男はまだ意識が朦朧としているのか、抵抗しなかった。
「おい、大丈夫なのか? 死にかけてたのに」
「ここまで治れば大丈夫だろう。どうせ死んで元々だ。逃げられると困る」
蒼兵衛も彼らの素性に気付いているようだ。
「どういうこと?」
紅子が目をしばたたせる。蒼兵衛は蔑むような目を倒れている男に向け、それから言った。
「彼は、君に感謝しなければならないな。それほどの価値も無い命を、無償で救ってもらって」
辛辣な言葉に、紅子はますます困惑した顔をする。
「な、治したら、ダメだったんですか……?」
「そんなことは無い。生きて裁かれて、より暴かれる悪事もあるだろう」
シオンが紅子に告げる。
「コイツらは、密猟者だよ」
「密猟……?」
紅子の呟きに、蒼兵衛が説明する。
「この山の登山客は、決められた入り口からしか、山に入れない。山道の入り口の管理小屋で登山料を払い、名簿に記名する決まりになっている。そのとき、登山許可証と緊急時に鳴らす呼子笛を全員渡されている」
「笛? 私たち、貰ってないよ?」
「オレたちは仕事で来てる冒険者だから。登山料も別に払ってないし」
目を丸くする紅子に、シオンが答える。
「冒険者の面倒まで看ていられるか。タヌキが出ただけで鳴らされるときがあるのに……そのたびに走るんだぞこっちは」
嫌そうな顔で、蒼兵衛が言う。
「コイツらは笛で助けを呼ばなかった。登山客が襲われたなら、まず笛を鳴らすはずだからな。まあ、格好を見れば、どう見ても山好きの中年じゃないが」
三人の男たちは、装備はすでにボロボロになっているが、武装している。
「仕事で山に入る冒険者も、今日聞いているのは茸採りや山菜採りが何組かと、団体登山客の護衛だけだ。大仰な装備で来ている者はいないと、管理人に聞いている」
「えっと、てことは、この人たちは、無断で……?」
「そうだ。無断でこの山に侵入して、悪さをしていた。山菜泥棒なんて可愛いものじゃなさそうだな」
蒼兵衛は腕を縛られ、転がっている男に、目をやった。
紅子に命を救われた男は、薄く目を開いたまま、話を聴いているようだった。
「……し、死んでないのか、オレは……」
「そうだ。死んでも良かったが、良かったな。お前を助けたのはこの二人だ。いい大人が悪事の末に報いを受けたところを子供に救われて、さぞ心が洗われたことだろうな。清らかな気持ちのうちに、質問に答えてほしいんだが」
蒼兵衛は恐ろしく冷たい目で男を見下ろした。
「何を取りに来たのかな?」
その手が、指で刀の柄をずらし、輝く刀身がちらつく。
「……色々だ。野獣も野鳥も、金になるなら獲る……」
「お、おい。何言ってんだ」
と縛られてる男たちが止めようとしたが、倒れている男は、観念しているのか少しは感謝の念があるのか、語り出した。
「だが、もっと金になるのは、モンスターだ……紅角鹿や、月獺、双尾山猫とかな……角でも毛皮でも剥製でも、高値で買う奴は幾らでもいる……」
積極的に人間を襲わないモンスターばかりだ。地上ではもう姿を見ることも少なく、個体数が減少しているため、狩猟目的で攻撃したり殺したりすることは禁じられている。
「それで、今回はとうとう罰が当たったか。熊にでもやられたか」
「……前に、仲間がこの山で、銀熊を見たと……」
銀熊も数は少ないが、日本の山に生息する魔獣だ。
名前通り、銀色の毛を持った熊のモンスターで、凄まじく強い。だが個体数が少ないことと、山深くに住むため、人を襲うことは滅多に無い。
銀熊にやられたのなら、男が受けた大きな傷の理由も分かる。
「この山で、銀熊はもう何年も確認されていない。人を襲った記録もない。この山でモンスターの勝手な狩猟は禁止されている。毛皮や肝が目当てか。死ぬほどの価値があるかは分からんが」
「銀熊なら……こんなことにならず、仕留められた……アイツは、銀熊じゃなかった……」
「じゃあ、何が出た」
男の顔が、歪められた。言葉にするのもおぞましいというように。
「……鬼熊……」
蒼兵衛が僅かに眉をしかめる。シオンも表情を硬くした。
言った後、男は顔をぐしゃぐしゃにして泣き出した。その名を聞いただけで、他の男たちも震え上がっていた。
「え、何?」
と紅子が尋ねる。シオンが答えた。
「熊のモンスターだ。銀熊よりでかくて強い。昔はともかく、関東で見たって話は、今はほとんど聞かない。北海道の山奥とか……それでも、ほとんど見ないだろうな」
「えっと、大人しいの?」
「積極的に人は襲わない。ダンジョンにいる奴は別かもしれないけど。熊の魔獣ってのは木の実とか魚も喰うからな。今はどこの山にもバカみたいにゴブリンがいるから、わざわざ人里まで出て行くほど、食事に困ってないはずだ。それに地上に棲んでる大型の魔獣ってのは、酷く頭が良いんだ。昔、土地や山を開拓するときに、人や亜人にたくさん殺されたことを憶えてるらしい。だから、山の深いところにしか居ない」
そのぶん人間も亜人も多く死んだが、結局は人間が勝った。魔獣の住処は減り、その争いに貢献した亜人も、数を減らした。
シオンたちの先祖であるかつての亜人は、現代の亜人より過酷な生き方をしていた。開拓のためのモンスターとの戦いも、他国との戦争も、先頭に立つのはいつも頑強な亜人だった。
「地上には、奴らの領分もある。モンスターも自分の身を護るために戦うこともある。けど、鬼熊が本気でアンタら全員を殺そうとしたなら、こんな怪我じゃすまないはずだ」
シオンの言葉に、男は恐怖を思い出したように、歯を打ち鳴らしながら、ようやく答えた。
「仲間は、もっと居た……別の場所で襲われて……オレたちは、他の奴がやられてる間に、逃げてきた……」
「他に仲間が居たのか?」
「あ、あっという間に、二人やられた……あとは散り散りになって……逃げた奴が追いかけられてるときに……オレたちは近くの崖を飛び降りて、逃げた……夢中で逃げてるうちに、ゴブリンが集まってきて……」
「何故、襲われた?」
蒼兵衛が尋ねる。
「不用意に近づけば死ぬと、判らないわけじゃないだろう。それとも全員ド近眼で、銀熊と間違って攻撃したのか?」
男はそのときの恐怖を思い出してか、子供のようにぼろぼろと涙を零し続けている。
「わ、罠を……しかけてた。そこに、鬼熊の仔が、かかってた……仲間が、そいつを売ろうって……珍しい鬼熊の仔だ……鳴くから、殺した……死んでても、価値はあるって……」
シオンが紅子を見ると、彼女は自分が救った男の告白を、目を潤ませながら、黙って聴いていた。
「愚かとしか言いようが無いな。鬼熊の仔がいたら、親が近くにいるのは当たり前だ。まあ、禁じられている動物や小魔物の乱獲でしか稼げない腕と頭なら、無理も無いか」
蒼兵衛はすっと立ち上がり、醜悪なものを見るように、男を見下ろした。
「お前らみたいな奴が死ぬと、餓鬼になるんだろうな」
餓鬼は古来から、日本でもっとも低級で低俗とされるアンデッドだ。強欲な人間が死ぬと、生まれると言われる。
「だが、仕方無い。一応、私は生存者を探す。他の登山客のこともある」
そしてシオンと紅子を見て、言った。
「君たちは山を下りろ。彼らは放っておけばいい。助けは呼んである。その間にまたゴブリンに襲われて死んでも、まあそれも報いだ」
「おい、置いてくのかよ!」
縛られた男が、悲鳴のような声で叫ぶ。
「頼む、置いてかないでくれ! アイツが来る、アイツが……!」
しまいには、泣き叫んだ。
蒼兵衛は心を動かされた様子もなく、平然と答える。
「反省の時間も必要だろう。心配するな。じきに救助が来る。しかし……自分はいいから仲間を探してくれ、とは口が裂けても言えないのか、お前たちは。さすが矮小な犯罪に手を染めるだけはある。そもそも楽して儲けようというのが間違いだ。この私でさえ、まっとうに日雇い警備員をしているというのに……この柊魔刀流を正統に継承した十一代目柊蒼兵衛がだぞ……まったくなんて世の中だ……」
最後のほうはブツブツと愚痴っぽくなりながら呟く蒼兵衛に、シオンは尋ねた。
「まさか、鬼熊を倒しに行くつもりか?」
「場合によっては、嫌でもそうなるかもしれんが、仕方無い。これが私の受けた仕事だ。様子を見てくるくらいはしないとな」
鬼熊の体長は小さくとも三メートル以上、四メートルを超える超級の存在も確認されている。丸太のような腕は、一撃で人の首を吹き飛ばす力がある。
一体倒す場合でも、亜人の戦士や魔道士を含んだ討伐隊が組まれる。
「子供を殺されて、いきり立ってるぞ」
「だからだ。放っておけないだろう。……さて、どうしようか。一人、餌として持っていこうかな。危なくなったらそいつが襲われている間に、私だけ逃げよう。きっと仔を殺した連中のことは憶えているだろうな」
そう呟き、蒼兵衛は口許に笑みを浮かべ、縛られている男たちを見回した。
男たちはもう、声も無く震えている。
鬼熊に襲撃された恐怖が、男たちを一瞬にして老け込ませた。
ゴブリンにいたぶられる以上のショックだったのだろう。鬼熊と口にするだけで、これが悪事を繰り返していた人間かと思うほど、その顔は弱々しく、みすぼらしい。ただ怯え、涙を流している。
蒼兵衛は笑みを消し、またつまらなそうな顔で言った。
「どうした? モンスターは罠にかけても、自分たちが罠になるのは苦手か? まったく、我が侭な奴らだな」