イトコと石と杖
紅子は冒険者としての初めての仕事を、秩父での山菜採りに決めた。
当初彼女が受けるつもりだった大勢で集まって採取するタイプの仕事は、シオンが個人的に避けたかった。先日の引率が思った以上に疲れたからだ。こういった仕事を受けるのは何年やってもレベルの低い冒険者や、新人冒険者ばかりだ。何かあっても紅子一人くらいは守れるが、大勢と関わるのは当分いい。
別の依頼書に『一人以上、何人パーティーでも可』とあったので、そっちを選んだ。ソロでも受けられるが、一日に最低限の採取量が決まっているので、不慣れな少女が一人で一定量を採取するのは困難。二人でも少し大変だが、やれないことはないだろうと、この仕事を選んだ。
業務的なようでいて親切な受付嬢は、紅子一人で受けるなら止めただろうが、シオンが一緒に受けると言うと、にっこり笑って受理してくれた。
当日は、早朝の池袋駅で待ち合わせた。
そこから特急で一時間以上、更に山に登って下りる移動時間も考慮し、始発で出発する。
待ち合わせ場所に、駅近くの公園を指定した。
シオンは少し早く来て、紅子を待っていた。
装備はいつもと同じだ。魔糸製のジャージの上下。魔石のチョーカー。魔糸製のスカーフ。フィンガーレスグローブ。ミリタリーブーツ。ウェストバッグ。いつもなら駅で預けるザックの中に、武器の他には採取用グローブやナイフ、山菜を入れる袋を幾つかと、防寒着も入れている。今日はもちろん駅に預けず、背負って持っていくつもりだ。
ベンチに腰かけ、明るいとも暗いともつかない空の下で、シオンは小さな欠伸をついた。
土曜日の早朝は、東京からこんなに人が減るのかと思うくらい、人が少ない。
何のコンセプトなのか、様々なモンスターの石像が公園のいたるところに配置してあり、昼に見ると間抜けだが、まだ暗いうちに見ると中々不気味である。
公園内で家のようにくつろぐホームレスのほかに、同業者も見かけた。シオンのようなジャージ姿のワーキャット。揃いの装備を着たワーウルフたち。居るだけで威圧感のある大柄なリザードマンやミノタウロス。がっちりとアーマーを着込んだ筋骨逞しい人間。共通しているのは、いずれも大小さまざまなケースを手にしていること。それぞれ愛用の武器が入っているのだ。
いくつかのパーティーを眺めていたが、メンバーが揃うと、道の脇に並んで停まっている何台ものワゴンに吸い込まれるように乗り込んでいく。
ワゴンといっても、大柄な亜人専用車は、もはや小型のバスだ。
そういえば以前、鷲尾の車に乗ったときに初めて知ったのだが、リザードマン専用のシートには太い尾が収納出来るようなくぼみがあった。ハンドルの形も違うし、いたるところにリザードマンが運転しやすいように工夫されていた。
人間どころか亜人の知り合いも少ないシオンは、こういう他種族にとっては当たり前のことを知らない。
桜も、仕事の日には、よく仲間に車で迎えに来てもらっていた。
人間も亜人も関係なく、付き合いは広く浅くが彼女のモットーだった。
しばらく特定のパーティーを組まず、見かける仲間の顔ぶれも、仕事ごとに違っていた。中にはよく見る顔もあり、彼女に好意を持っていそうな者も居たが、彼女が他人にどうこうされる心配など、シオンはしたことが無い。電車で尻を触ってきた男の指をへし折って、逆に警察の世話になるような女だ。
ひとたび怒ると手が付けられず、やり方も暴力的かつ過剰だった。
反面で、弱いものには優しかった。向かってくる者にのみ容赦しないという行動理念も一貫していた。
その強さに恐れるより、むしろ惹かれる者もいたのは分かる。
仕事に行く桜を見送るとき、遠くから視線を感じ、シオンがそちらを見ると、若い人間の男がじっと見ている。シオンと目が合うとすっと逸らし、整った顔立ちを硬くしかめた。桜は彼とよく組んでいた。時間にルーズな桜にいつも待たされているからか、拗ねているような顔をしていたかと思うと、桜がやって来るとぎこちなく笑った。その顔が急に少年っぽくなるので、シオンでさえ彼の恋心に気付いた。よく背中を叩かれてよろけていたが、まんざらでもなさそうだった。
桜の葬儀には何人もの仲間や知り合いがやってきたが、彼のことは見かけなかった。
あんな笑顔を見せるほど好きだった女性を亡くしたあの人も、未だに深い闇の底を這うような苦しみを味わい、生きているのだろうか。そうでなければ良いとシオンは思う。残されたものにも残りの人生はある。家族でないのなら、なおさら。
「小野原くん!」
早朝の公園に、元気な声が響いた。
考えごとをしていたシオンに、彼女の声は覚醒を促す呪文のようだった。
顔を上げると、公園の入り口からこちらに向かって少女が駆けてくる。
「わあ、早いね! ごめんなさい、待たせて!」
紅子は声と同じくらい元気良く、跳ねるように走っていたが、荷物が多く、重たそうだった。
ポニーテールがまさしく馬の尻尾のように揺れていた。桜がいつもしていた髪型だったので、さっきまで彼女のことを考えていたこともあり、シオンはひどく懐かしくなった。
「おはよう、小野原くん! 今日はよろしくお願いします!」
シオンの前にやって来て、ピタッと止まると、いつものようにぺこりと頭を下げ、挨拶をする。
「おはよう」
と挨拶を返したシオンは、まず彼女の格好を見て、言った。
「浅羽……その格好は?」
「え? ヘンかな?」
紅子が自分の姿を見やる。
いかにもこれからトレッキングをしようという格好である。
ウィンドブレーカーに、トレッキングパンツ。登山靴。大きなナップザックを背負い、大きなケースを抱えている。
これが以前買ったと言っていた装備だろうか。となると、今後もこの格好で採取をしたり、ダンジョンに潜ったりすることになる。
「ヘンじゃないけど……」
とシオンが言いかけたとき、別の声がかかった。
「こら、こっこ。静かに。朝から騒々しいだろう」
そう咎めたのは、静かだがよく通る声だった。
紅子の後ろから男が歩いてきていた。
「あ、ごめんなさい。お兄ちゃん」
振り返った紅子に、眉をしかめつつ向ける、男の表情は柔らかい。
シオンより随分年上だ。
シャツにセーター、スラックス、薄手のロングコートを羽織り、服装は地味だが、端整な顔立ちとその長身があいまって、モデルと言われても違和感は無い。しかし派手な雰囲気は無く、出勤中の会社員だと言われても、それはそれで納得する。
「ここまで、お兄ちゃんが車で送ってくれたの」
「お兄ちゃん……?」
「うん。一緒に住んでるお兄ちゃん。紹介するね」
たしかダンジョンで死んだはずじゃ……とシオンは怪訝な顔をしかけた。が、すぐに、彼女の言う『お兄ちゃん』が死んだ実兄ではなく、『一緒に住んでいるイトコのお兄ちゃん』のほうだと気付いた。
「私のイトコの透哉お兄ちゃんだよ。ごめんね、歩くの遅くて」
紅子の後ろを歩いてきた青年が、シオンを見てにこりと微笑む。
笑った顔が紅子によく似ていた。顔の造形そのものがというより、目尻の下がり方や、口角の上がり方など、ちょっとした仕草がいちいち彼女と同じなのだ。見たまま似ている部分もある。少し垂れ目気味なところや、深く濃い瞳の色だ。
そっくりでもないが、間違いなく血縁者だ。従兄妹同士でもけっこう似るもんだな、とシオンは感心した。
紅子とは対照的に、ゆっくりと歩きながら追いついて、青年は足を止めた。
「話は聞いてるよ。紅子がいつもお世話になってます。浅羽透哉です。よろしく、小野原くん」
「……あ、どうも。小野原です」
ぎこちない挨拶を返し、シオンは軽く頭を下げた。
「よく話を聞いてるよ。こっこは、中学のときから小野原くんの話ばっかり……」
「ぎゃー! だめー!」
いきなり紅子が絶叫を上げ、透哉の背中を拳でドンドンと叩く。その大声にシオンの耳がびくりと立ち、周囲も何人か何事かとこちらを見た。
「いてっ……こら、やめなさい、朝飯が飛び出る……」
「お兄ちゃん、なんでそんなに口が軽いの!」
顔を真っ赤にした紅子に、ドコドコドコと背中を殴られ、透哉がごふっと声を出した。わりと痛いらしい。
「やめなさい、人の背中でドラムロールするのは……お前、お兄ちゃんが小野原くんの前で口から異物出したら、後悔するぞ……」
「もー! どーしてヘンなことばっかり言うの! そういうのは家だけにして!」
「分かった、分かった」
透哉は紅子の腕を両腕をむんずと掴んだ。
「子供か、お前は。なんだその攻撃は。頼むから、そんなふうにモンスターに突っ込まないでくれよ。お前の葬式は出したくないぞ」
「突っ込まないもん。ちゃんと魔法練習してるし」
「どうだかな。こっこが冒険者なんて、向いてないと思うんだけどな。杖だってあんな魔石の……」
「ぎゃー! 言わないで!」
またも紅子が絶叫し、今度はシオンの耳だけじゃなく尻尾までぴんと立った。
「こら、早朝だって言っただろ? 静かにしないと。小野原くんも驚いてるじゃないか」
「あっ、ごめんなさい!」
はっと紅子が我に返り、シオンに謝る。
「ワーキャットは耳が良いから、あんまり騒ぐとご迷惑だよ。特に、仕事中は気をつけなさい」
「うう、そうでした……」
しゅんと紅子が肩を落とす。透哉は気を取り直し、シオンに微笑みかけた。
「すまないね、小野原くん。朝っぱらから煩い子で」
「いえ……」
「お兄ちゃんも煩いよ。よく喋るから」
ふいっと紅子が顔を背ける。
紅子の騒がしさにはシオンはとっくに慣れている。それより呆気に取られたのは、思っていたより仲睦まじい二人の様子だった。
驚くと同時に、安心した。
叔父の家というのが、彼女にとって息苦しい場なのではないかと心配していたのだ。だが、少なくともこの従兄とはそうではないらしい。背中をタコ殴りに出来るくらいには。
怒ったり拗ねたりしている紅子を初めて見た。透哉も彼女が可愛くてからかうのだろう。
こんなふうに甘えられる人間が傍にいるのなら、思っていたほど彼女は辛くないのかもしれない。
まだ恨みがましげに見ている紅子の頭を、透哉がぽんぽんと気安く撫でる。
「仕事が残っててね。これから休日出勤なんだけど、ついでに送ってきたんだ。何だかこの子は、大荷物持ってよろよろしていて、危なっかしいし」
「たしかに……」
透哉の言葉に、シオンも頷いた。
「えっ」
大きな荷物を背負った当の本人だけが、目を見開く。
ポリエステルのケースの中には、買ったばかりの杖が入っており、ショルダーベルトで右肩にひっかけている。
杖はともかく、重たそうなナップザックは、はりきり過ぎな気もする。日帰りの仕事だし、調べたら途中に登山客用の休憩所もあった。そこに水や食料も売っているだろう。
透哉が苦笑交じりに言う。
「そんなにはりきって用意しなくても、少し調べたらどうやら休憩所もあるっていうのに、頂上まで登る気かなこの子は……と思ったんだけどね」
「そうですね」
シオンも真顔で頷いた。
一人ぽかんと口を開ける紅子に、透哉が言った。
「そりゃそうだろう。行く前からそんな大荷物で。キャンプじゃあるまいし。採った山菜を持って帰るのだって大変なのに」
「え? まだ多いの? けっこう減らしたんだよ? お菓子もバナナも持って来てないし……」
「と言っても、その中はどうせ、ほとんどお弁当なんだろう?」
「ああ……」
透哉の言葉に、シオンは納得して頷いた。
「そ、その言い方はやめて!」
ひいい、と紅子が悲壮な声を上げた。
「それじゃ、バッグの中は全部お弁当で、私がただ食べることしか考えてないみたいに思われちゃう!」
「思ってねーよ」
とシオンが言うと、紅子はぱっと表情を明るくした。
「え、ほんと?」
「ああ。弁当が浅羽の熱量になるなら、それは必要なものだと思うし。オレは動きが制限されるから食わないけど、浅羽は思いっきり食ったらいいと思う」
「お、小野原くん……うう、ありがとう……なんかよけい辛いけど……食べてがんばる……」
真面目な顔で言うシオンに、紅子はどこか悲しげにうつむいた。
「魔力消費と熱量消費が関連づいているかというのは、はっきり分かってはいないんだけどね。あくまで一説であって……つまり紅子はただの食いしんぼうでげふッ」
いきなり不自然な声が上がったかと思ったら、紅子の肘が透哉の腹にめり込んでいた。
「お兄ちゃん、送ってくれてありがとう。もうお仕事行っていいよ」
シオンが初めて見る冷たい目を、紅子は腹を押さえる透哉に向けた。
「げふっ、なんて子だ……ごめんね、小野原くん。騒がしくて」
はは、と頭をかきながら、透哉はシオンに笑みを向けた。
もっともシオンには二人がじゃれ合う、本当の兄妹のように見え、微笑ましかった。
自分と桜も、血の繋がりは無くても、あんなふうにからかい合ったり一方的に殴られたりしながら、じゃれ合っていたから、懐かしさもあり、つい笑ってしまった。
それを見てか、透哉も脇腹を擦りつつ目を細めた。その傍らでは、紅子は従兄がまた変なことを言わないかと、睨んでいる。
「会えて良かったよ、小野原くん。聞いていた通りの子みたいだな。こっこの面倒をみてくれるなんて、なんて奇特な……いや、良い子なんだと思ってたけど、思ってた以上に損しそうな……いや、面倒見の良さそうなタイプで、安心したよ」
「いえ、オレのほうこそ、ちゃんとフォロー出来るか分からないけど、最善は尽くすんで」
真顔で返すシオンに、透哉は、はは、と笑った。
「……ああ、うん……ありがとう……」
口ごもりながら、ふと目を逸らし、独り言のように呟いた。
「なんて真っ直ぐな目だ……」
「そうですか?」
小声でも聴こえるシオンは真面目に答え、腰のバッグから携帯電話を取り出した。
「浅羽さん、いまケータイ持ってますか?」
「ん? ああ、あるけど」
「オレの番号教えときます。もし万が一、浅羽に何かあったらこの番号からかけるんで」
「そうだな。……じゃあ、僕のも教えておこうか」
コートのポケットから携帯電話を取り出し、番号を交換した。
「仕事中でも鳴らしてくれて構わないよ。サボる良い口実になるから。まあ、そんな電話はかかってこないことを祈るけど」
「オレも経験者だし、滅多なことは無いつもりだけど、でも、念のため」
「ああ、そうだね。よろしく頼むよ」
携帯電話を仕舞いながら、透哉はどこかほっとしたような表情を見せた。
「でも、良かった。本当は小野原くんの人となりを、見ておきたいと思ってね。ちょっと過保護かもしれないけど、ここまで来てしまって。でも安心して任せられそうだよ」
「努力します」
「こっこも、小野原くんの足ばかり引っ張らないように」
「う、努力するよ……」
シオンは変わらず、紅子は緊張した面持ちになる。
「――ところで、小野原くん」
「はい」
微笑む透哉の黒い目が、真っ直ぐシオンの目を射抜く。
ところどころ紅子に似た顔立ちは、彼女と同じく人目を惹く容姿なのだが、彼は不思議と目立たない。紅子ははっと振り返るような美少女なのに、彼の場合は美形であることがさほど目につかない。近寄りがたさもなく、少し会話しただけで人見知り気味なシオンでさえ、その気さくさがよく分かった。
「首に、何か着けてる? スカーフの下に」
トン、と自身の鎖骨辺りを、指で突いてみせる。驚いて見開いたシオンの金色の目に、透哉の黒い目がくっきりと映る。
「魔石だろう。それ、外さないほうがいいよ」
シオンはスカーフを巻いていて彼からは見えていないはずなのに、そこには魔石のチョーカーがある。
「誰かから贈られたものかな?」
言い当てられ、シオンは驚いた。答えなかったが、透哉の目はすべて見透かしているようだった。
紅子と同じ深い色の瞳は、夜の海のように静かに穏やかにシオンの姿を映している。似ているが、少しの違いにも気付いた。同じ暗い色でも、紅子の瞳は夜空だ。星を浮かべて煌めき、眠りを護る優しい夜の空。透哉の目はどこまでも深く、深くに飲まれていくような、底知れない海のようだ。
穏やかなのに、どこか厳しい。寂しいのに、温かい。
透哉の声が、ぬるい海水のように、するっとシオンの耳に入ってきた。
「石自体も良いものだけど、何より君と相性が良い。贈った人の想いが、そうしてるんだろうね。魔石というのはね、育つんだよ。だから、魔物が持っていても意味が無いんだ。魔物には心が無い。魔石は人の心を好むからね。人を真似ているのかもしれない。人の運命を辿り、人の手を渡り続け、人の心に寄り添ってきた魔石こそ、強い魔力を秘めているんだよ。その魔石も、君と一緒に育っていくだろう。だから大事にしたほうがいいよ。魔石は、歴史の中、人の中で育ってきた。価値のある宝石と勘違いしてやたらと掘りまくっても、最初から良いものなんて見つからない」
透哉の話を、シオンは半分も理解していなかったかもしれない。けれど、一言一句が、染み渡るように耳の奥に響いてくる。
魔道士の家系だと、紅子は言っていたが、彼もたしかにソーサラーなのだろうと、シオンは思った。
その強い瞳から、いつの間にか目が離せなくなる。紅子も、父の友人の人間魔道士もそうだった。目が強いのだ。目つきが悪いとか眼光が鋭いとかではない。惹きつけられる。もっと見ていたくなる。
「その魔石から、強くて、鋭くて、柔らかい力を感じないか? そういう人に贈られたんだろうね。お母さんかな? 君が強くて優しいのは、そんな人に育てられたからだろうね。石も君を好んでいるから、その人のように、君を強く護り、君の敵を鋭く見抜き、君の心を柔らかく包んでくれるだろう」
静かに通る声が、すんなりと耳から体の中にまで入ってくるようだ。
サクラ、とシオンは口の中で小さく呟いていた。それはまったく無意識だった。
透哉の言葉に、桜の心に触れたような気がした。彼が彼女に会わせてくれているような気さえした。夢でも幻でもいい。もう一度姉に逢いたい。もっと彼の声を聴いていたい。どんな言葉でも聴いていたい――……。
「小野原くん!」
ぱん、と手を打つ音が響き、はっとすると、紅子がシオンの前で、自身の手を打ち合わせたようだった。
「……浅羽?」
紅子を見ると、気まずげに肩を竦めた。
「ごめんなさい。お兄ちゃんは、こういうときは人が悪くって」
「え?」
目をしばたたかせるシオンに、紅子が申し訳なさげに言った。
「いま、小野原くんがどのくらい魔法にかかりやすいか、試してたんだよ。気付かなかった?」
そう言われても、シオンのほうは未だ理解が追いついていない。
「小野原くん、お兄ちゃんに魔法かけられてたよ?」
紅子がさらっと告げる。
「でも、詠唱なんて無かったけど」
「あったよ。小野原くんが聴いてたお兄ちゃんの話、あれは全部詠唱だよ」
絶句するシオンに、透哉が詫びた。
「いや、ごめんね。いま、少し引き込まれかけていただろう。個人差もあるけど、ワーキャットって精神抵抗力が低いから、さすがに良い魔石を付けてカバーしてるなあとは思ったんだけど、どのくらいのものか気になってね」
「お兄ちゃん、人に精神魔法かけるのは、軽犯罪だよ」
紅子が非難の目を向ける。
「そうだった。特に未成年にやったと知れたら、僕は会社をクビになってしまう。というわけで、示談にしてくれるとありがたい」
「……はあ」
とシオンは未だ狐につままれたような気分で、頷いた。
知らない間に魔法をかけられそうになっていたという自覚は、未だ薄い。
「わりと強めにかけようとしたんだけど、それほど効かなかったね。手を打っただけでキャンセルされてしまったし。その石があれば、ほぼ問題は無さそうだな。紅子から小野原くんがワーキャットだって聞いてたからね。特に若い子はかかりやすいし。すまないね、試すようなことをして」
「あ、いや……。別にいいですけど」
謝る透哉に、シオンは特に不快感も無かったが、見ると紅子はまだ少し怒ったような顔をしていた。
「炎を起こすとか、風を起こすとか、そんなのは道具を使えば誰でも出来る。いまは魔法銃や魔剣もどきでもそんなことが出来るようになった。でもね、ソーサラーっていうのは本来、こういうものなんだ。こっそり牙を隠して、人を貶めようという悪い奴もいるだろうから、気をつけたほうがいい。利用されるのはなにも、ソーサラーのほうだけじゃないからね」
最後には、透哉は神妙な顔つきになっていた。これは忠告だ。
スカーフ越しに魔石に触れ、その温かさを感じながら、シオンはようやく理解し始めた。透哉の言う魔法の恐ろしさを。
いままで魔法というと、ぶつぶつ詠唱して大きな声を張り上げて発動するものだと思っていた。あんなふうに静かにかけられるものなのか。
魂に直接響くような声と言葉だった。あれが詠唱だと、かけられていたシオン本人はまったく気付かなかったのに、紅子は分かっていて、手を叩くだけで打ち消した。
これが魔道士なのかと、何も無い所に光や炎を出すよりも、底知れなさを感じた。その言葉を持って、人の心をつかむことさえ出来るのだ。
今までは、ソーサラーのその力を利用しようとする輩が多いとばかり思っていた。そちら側の面でしか見ていなかったが、透哉からの忠告で、その逆もあるのだと気付いた。
「まあ、そう身構えることもない。魔法にかかりやすいっていうのは、悪いことばかりでもないしね」
そう言って、透哉は紅子によく似た笑みを見せた。
「さ、長話しをしてごめんね。僕もそろそろ行くから。二人とも気をつけて。こっこ、帰りも迎えに行くから。連絡しろよ」
「はぁい」
去って行く透哉に、紅子は小さく手を振った。
その後ろ姿を見送りながら、シオンはぽつりと呟いた。
「いい人っぽいな」
「うん。いい人なんだけどね。魔法に関しては、ちょっと厳しいの。だから、あんなことしちゃう。悪気は無いんだけど。私にも魔法について色々教えてくれたのは、透哉お兄ちゃんなの。自分はそんなに才能無いからって、冒険者にはならなかったけど。……でも、怒ってないの? 小野原くん」
「どうして?」
「だって、魔法かけられそうになったのに」
「悪意じゃなくて、心配してくれたからだろ? ちゃんとそう説明してくれたし」
「でも、軽犯罪だよ?」
紅子はじっとシオンを見て、うーん、と珍しく険しい顔をした。
「小野原くんに、魔石くれた人の気持ち、分かるな。精神魔法って、人を信用しやすい人ほど、かかりやすいんだよ。小野原くんのいいとこだけど、ソーサラーにはちょっとだけ気をつけてね」
「え」
「小野原くん、お人好しだから……」
よりによって紅子にそんな心配され、シオンはちょっと心外な気もした。
空がだいぶ白んできていた。
紅子が袖を捲り、腕時計を見る。
「あ、私たちもそろそろ行こうよ、小野原くん」
目的地に向かう特急は、始発に乗ったお陰で空いていた。
大柄な亜人や装備の多い冒険者のために、専用の車両があり、別料金を払って乗った。
向かい合わせに座り、まずシオンが訊きたかったのは、彼女の装備のことだ。会ったときに言いそびれていた。
「あのさ、浅羽。もしかして、装備を買ったって前に言ってたのは、これか?」
と、シオンは彼女の姿を見ながら、尋ねた。
「あ、うん? この格好? そうだよ」
ウィンドブレーカーに、トレッキングパンツ。足許は登山靴。
外からでは分からないが、通気性の良いインナーの上に、フリースを重ねている。春とはいえ山中はまだ冷える。
山菜採りに行く格好としては、間違っているわけでもないし、十六歳の少女にしては、真面目に考えてきたほうだ。
しかしどれも魔糸製ではない。今日限りながらいいが、今後もダンジョンに行く装備とすれば、心許無い。
多すぎる荷物については、透哉からも突っ込まれたので、もういいだろう。
「も、もしかして……私、間違っちゃった?」
不安そうに紅子が言った。
「いや、今日はいいんだけどな」
紅子が申し訳無さそうに目を伏せる。
「あの、杖買ったら、お金無くなっちゃって……ちょっとね、予算オーバーかなとは思ったの。でも、リサイクルショップの店員さんが、ソーサラーは後方支援だし、服なんて何でもいいから、まず杖に金をかけるべきだって……」
「それは……」
シオンは頭を抱えそうになった。極論というか、ただ売りつけるために言っただけだ。
彼女からのそんなメールを見たとき、不吉な予感がしたことをシオンは思い出した。やっぱり、とシオンは内心思った。
「お前も充分、人を信じやすいぞ」
「う。小野原くん、私がお人好しって言ったの、ちょっと根に持ってる?」
「別に……」
「杖買ったらお金無くなっちゃったから、服のほうは買える範囲で揃えたの……」
ばつの悪そうな顔で、紅子は呟いた。
「……ダメだったかな?」
「ダメってほどじゃないけど、出来たら、ダンジョンに行くときは魔糸製のほうがいい」
「そうだよね。でも、そういうのって高くて……」
彼女がせっせと稼ぐアルバイト代は、主に学費に回されている。僅かな小遣いをちょっとずつ貯めて、杖とその他の道具を買った。それが精一杯だったのだ。
せめて透哉に相談すれば良かったが、最近仕事が忙しそうだし、そもそも彼は冒険者ではない。それに、気軽に相談すると、金を無心しているみたいになってしまう気がした。きっと透哉は出してくれるだろうが、だから余計に駄目だ。
「杖選びが楽しくて……つい」
「そうか。今日は山菜採りに行くだけだから、モンスターが出るとは限らないけど、ダンジョンには出るから、服だっておざなりでいいわけじゃない」
「はい……」
しょんぼりと紅子がうなだれる。
「やっぱり、杖、高過ぎたかなぁ。でもね、キレイなんだよー」
横に立てかけてある杖カバーのファスナーを少し開けて、半分ほど取り出して見せた。
「これなんだけどね」
そのキレイな杖に、シオンは絶句した。
長さは一メートル以上はある。ヘッドの部分に大きな魔石と、小さな補助魔石が複数付いている。
デザイン自体はごく普通だと思うが、とにかく色がすごかった。
なにしろ、眩いほどピンク色だったのだ。
「すごい……」
「そうなの。すごい可愛いでしょう?」
思わず呟いたシオンに、ねっ、と紅子が同意を求めてくる。
ピンクの魔石に、持ち手の金属部分もピンクゴールドのような淡い光沢を放っている。材質はもちろんゴールドではなく、軽くて魔力を通しやすい何らかの金属が使われているのだろうが、ピンクというのは初めて見た。
いや、シオンが知らないだけで、女性冒険者にとってはピンクの杖もピンクの剣も普通なのかもしれない。
そういえば、桜もピンクが好きだった。さすがにピンクの剣やアーマーは装備していなかったが、小物はピンクが多かった。剥ぎ取ったモンスターの牙や爪がぎっしり詰め込まれたトートバッグもピンクだったりファンシーな柄が入っていた。ああいうところは姉の女らしさだったのかもしれないが、逆にシュールというか、怖過ぎた。
「小野原くん、どうしたの? なんだか、顔が青いけど?」
「いや……ちょっと、変なこと思い出して」
「ね、これ、可愛くないかなぁ?」
紅子が手にした杖を見やる。
単純に殴ったり斬りつけるものではない杖というものが、可愛さで選んでいいものなのか、シオンには判断に困る。これがナイフだとしたら、自分は格好良さでは絶対に選ばないが。
「持ったかんじも、しっくりくるんだけどなぁ」
それはシオンも分かる。手に馴染むものが良いに決まっている。が、杖を持って振り回すわけじゃあるまいし、持った感触が魔法と関係あるのかは謎だ。
そんなのは、ソーサラーにしか分からないのだろう。
「……小野原くん、呆れてる?」
「いや」
呆れたというより戸惑っただけだが、顔に出ていたのだろうか。
落ち込んだのか、杖を握り締め、しばらく紅子は目を伏せていた。かと思うと、ふうとため息をついた。
「私、ちゃんと相談してから、装備買えば良かったね。叔父さんと叔母さんにも怒られたもの。杖も、ボラれてるって。こんな質の悪いクズ魔石で、そんなに高いわけないって……」
「魔石の質とかは、オレにはちょっと分からないけど」
やはりぼったくられていたのか。ソーサラーの家族が言うならそうなのだろう。
「透哉お兄ちゃんは、何だかんだ言ってもしっくりくるのが一番だって言ってくれたけど……私も値段にしてはいいかなって思ったんだけど……見る目無いのかなぁ……」
杖を眺め、紅子は指でちょんちょんと、ピンクの魔石に触れた。
「この魔石だって、可愛いと思わない?」
「か、かわいい?」
全然分からない。透哉もシオンの持つ魔石がシオンに合っているとか、まるで心でもあるかのような言い振りだった。
「たしかに、よくある人工の魔石だけど、光るものはあると思うの。やる気は感じられるもん。色も可愛いしね」
リサイクルショップで選んでいるとき、《女性魔道士におすすめ! 恋が叶う魔石》と値札に書いてあったのがまず目に留まったりもしたが、それは内緒である。
杖を買ったあとに、小野原くんとパーティーが組めた、とはしゃいで透哉に報告したのは間違いだったが。
「杖のことはオレにはよく分からないけど……浅羽がいいなら、いいんじゃないか? 気に入ってるんだろ?」
「え、いいかな?」
「いいと思う。というか、悩んだってもうどうしようもないと思うし」
という現実的な意見を、紅子は前向きに捉えたようだ。杖をぎゅっと抱きしめる。
「うん、そうだよね! 自分の見る目に自信無くしかけてたけど、私、この子を大事にするよ!」
「うん」
大体、初心者に見る目など無くて当たり前だ。
それにしても悪質な店だ。
安値で買えるイメージだが、実はリサイクルショップや骨董屋のほうが詐欺に遭う可能性が高い。
中古品に値段を付けずに並べ、商品説明をするふりをして、物に疎い初心者冒険者であれば、わざと高値で売りつける悪質な店もある。女子高校生なんて良いカモだ。
装備のことまであまり気にしていなかったが、買うときは一緒に行ってやると一声かけておけばよかったと、シオンは後悔した。
同じ杖を買うにしても、もっと安く買えたはずだ。余った金で、他の装備ももう少し良いものが買えて、結果的に彼女の身を護ることに繋がった。
なにより一生懸命働いて買ったのに、詐欺に遭ったことが可哀相だ。迂闊といえば迂闊だが、十六歳の少女からぼったくる輩に怒りも感じた。
ともかく、次に買い物に行くときは相談に乗ろうと、シオンは固く誓った。
しかし、ファイターの装備選択に比べれば、致命的なミスというほどでもない。
戦闘中、無防備なソーサラーを護るのは、他のメンバーの役目でもあるからだ。
「お前のことは、オレが護るよ」
「へっ?」
シオンの言葉に紅子は高い声を上げたが、電車の中であることを思い出し、慌てて口をつぐんだ。
杖をカバーごと抱きしめ、さっそく願いが叶ってるのかと思ったが、シオンはごく真面目な顔で言った。
「お前はソーサラーだし、オレはファイターだから。けど、自分で護れる部分は、これからちょっとでも強化していこう。必要なものは少しずつ買い揃えていけばいい」
「あ、う、うん! そ、そうだよね!」
パーティーとして当たり前の話をされていただけだと気付き、紅子は別の意味で顔を真っ赤にしつつ、あはは……と笑った。




