新人ソーサラー
『冒険者になりました!』
ついにきた。
携帯電話に届いたメールのタイトル。開いた途端に飛び込んできた、可愛らしいアニメーション。
喜びの涙を流しながらジャンプする猫と、丸文字の『ありがとう』が画面いっぱいに踊っている。
別に、礼を言われるようなことは何もしていないが、彼女の性格がよく出ていた。猫のキャラクターであるのが意味深だったが、多分、ただの天然だろう。
シオンは画面を見つめ、しばらく考えてから、返信の文章を打ち始めた。
つい半月ほど前、偶然、冒険者センターで再会した元同級生・浅羽紅子が、とうとう冒険者になったのだ。
『おめでとう。よかったら、次に浅羽がセンターに行くときに、待ち合わせないか』
簡潔な返信を見た少女は、携帯電話を見て、しばらく固まった。
ぽかんと口を開けたまま、一文字、一文字、ゆっくりと、もう一度読み返す。
見間違いではない。
「……わわ」
思わず声に出してそう呟いた、紅子の頬がみるみる赤くなった。
学校帰りにそのままアルバイトに行き、家に帰ったら、センターから封書が届いていた。開封すると、それは冒険者の認可が下りたという通知と、正式な登録手続きのために、もう一度センターに来るようにという案内だった。
喜びのあまり、すぐにシオンにメールを送っていた。それから叔母に促されて風呂に入った。アルバイト先でしっかりまかないを食べたはずなのに、風呂から上がったらまたお腹が空いてきた。それで夜食をもらっていたら、携帯電話をチェックするのがすっかり遅くなった。
「こっこちゃん。なんなの、ご飯食べながらお行儀の悪い」
食事中、テーブルの上に置いていた携帯電話に、新着通知ランプが灯っていたことにようやく気付き、どうしても気になって電話を手に取った紅子を、キッチンで鍋を洗っていた叔母の茶和が咎めた。
「あ、ごめんなさい、叔母さん。あのね、友達からお返事もらってたみたいで……どうしても気になっちゃって」
「お友達となら、学校でお話しすればいいでしょ。まったく、そんなことのために、持たせてあげたんじゃないのよ」
茶和は眉間に皺を寄せ、ふうっとこれみよがしな溜息をつくと、また鍋を洗い出した。その背中を、ダイニングのテーブル越しに見ながら、紅子は言った。
「ごめんなさい。でも、学校のお友達じゃなくてね、冒険者のお友達なの。ほら、前にセンターで会ったってお話した、中一のとき一緒だった小野原くんだよ。小野原くん、いま冒険者やってるから、色々、相談に乗ってもらってて……」
「そう。じゃあ、こっこちゃんも冒険者になれたことだし、がんばってちょうだいね」
紅子の話を遮るように、茶和はまた大きく溜息をついた。
「……じゃないと、あなたったら毎日食べてばっかりで、うちはいま、家計も苦しいんだから。義兄さんったら、大したものも遺してくれなくて……」
そう言って、いらいらとしたようにガシャガシャと鍋を洗い出す。
「ああもう、こんなにボロの鍋、いやになるわ。こびりついて、とれやしないのよね」
「叔母さん、次のバイト代出たら、私、お鍋買ってくるよ」
「いいのよ。そこまでしみったれてないわよ。あなただってせっかく貯めたバイト代、杖買うのに使っちゃったんでしょ」
「でも、私もこれからきっと、お弁当とか作るのに使うし。ね、クル・クルーゼのお鍋買っちゃおうよ。最初は高いけど、長く使えるっていうし」
「いいのよ。こっこちゃんには、冒険者として頑張ってもらわないと。これから色々入り用なんでしょう。うちからはそんなに出せないもの。こっこちゃんもバカねえ。杖なんてうちの倉庫にいっぱいあるのに。義兄さんも遺すんなら、もっと良い魔具を残してくれたら、せめてお金になるのに。あんな二束三文のものばかり……」
背中を向けたまま、ブツブツと愚痴を呟く叔母の姿は、いつものことだ。紅子はそれでも一応用意してくれてある夕飯を、黙って頬張った。
昔は、こんなふうじゃなかった。
母親を亡くし、狂ったようにダンジョンに潜ってばかりの父と兄に代わって、いつも紅子の遊び相手になってくれたのが、叔母の茶和だった。
(ほら、こっこちゃんの好きなオムライス。ケチャップでトラタの顔、描いてあげようね)
トラタは昔飼っていた茶色い縞模様の猫で、茶和が飼っていた。大人しく頭の良い、忍耐強い猫で、ちょっと小野原くんと似てたなぁ、と思うのは、さすがに彼に失礼かもしれない。けれど、本当に賢い猫だった。茶和とトラタが、幼い紅子の遊び相手だった。
作ってくれるご飯はいつも、紅子の好きなオムライス。卵もケチャップご飯もたっぷりで、紅子がそればかりせがむから、いつも同じものを作る羽目になった。それじゃ紅子が好き嫌いするようになるぞと、叔父に怒られていた。
優しかった叔母さんは、ここ最近、とっても辛そうだ。人が変わったように愚痴が多くなり、紅子に冷たい言葉を投げるようになった。最初は驚いたし、悲しかったが、だんだんと茶和が可哀相になってきた。
「また、あの人も透哉も遅いわね……こんなに遅くなるなら、なにかアルバイトでもしたらいいのに。それこそ、冒険者にでもなってほしいわ。なにが浅羽の魔道士よ。死んだ義姉さんや義兄さんと違って、ソーサラーの才能なんかありもしないじゃない……」
鍋を引っかくように洗うタワシの音を、いっそう大きく響かせながら、茶和はブツブツと繰り返す。呪詛のように。まるで茶和はすべてを恨んでいるようだ。
「……そう。こっこちゃんだけが頼りなのよ。お願いね。そのために、あなたを育ててあげてるのよ……」
茶和の言葉は、以前ほど胸に突き刺さらない。
きっと、彼女は疲れていて、心が壊れそうになっているのだ。
その負担の中に紅子の存在が含まれているのなら、少しでも軽くしなければ。同じように冷たくなった叔父も、両親から唯一庇ってくれる従兄の透哉も、紅子が冒険者になることで救われるのなら、そうしなければ。
それが、自分が魔力を持って生まれた意味なのだろう。
「うん。大丈夫だよ。叔母さん」
紅子はオムライスを頬張りながら、頷いた。
人が変わったようになってしまっても、叔母さんのオムライスはやっぱり美味しい。バイトでいつもまかないを食べてくるのに、紅子のためにちゃんと作ってくれているのだから。ずっと変わらない、優しい味だ。
「私、がんばるよ。がんばるから、待っててね」
茶和は答えず、もう汚れもすっかり落ちた鍋を、それでもとり憑かれたかのように、磨き続けていた。
部屋に戻った紅子は、慌ててシオンに返事をした。
すぐに返信しなかったから小野原くんは気を悪くしたかも……! と思い焦ったが、もちろんそんなことでシオンが腹を立てるわけもなく、メールを送るだけ送ると、紅子同様シャワーを浴びて食事をしに外に出て行っている。
そんなことを知るよしもない紅子は、急いで返信した。
『よろしくお願いします! 今週の土曜日に、朝一番で行くつもりなので、よろしくお願いします!』
と同じ言葉を二回言ってしまうほど、おかしな文面になっていたが、ひとまず送信したことで、ほっと息をついた。
寝巻き姿でベッドに寝転がり、つい何度もシオンからの返信を眺めた。
これは、また会ってくれるということだ。
会って、また、色々教えてくれるのかな。
でも、それでおしまいかなぁ……。
センターでばったり再会して以来、図々しいかも……と毎回緊張しながら送るメールに、彼は必ず返信してくれる。仕事の後であっても、きっと疲れていても、必ず返してくれる。
電話も何度かした。たいていは、紅子が世間話をしたり、冒険者の話を聞かせてもらう。
気付いたことは、シオンは冒険者の話になると、いつもより饒舌になるということだ。何も知らない紅子に、こと細かく教えてくれているというのもあるだろうが、他には何も興味のなさそうな彼が、仕事の話をするとき、少しだけ楽しそうだった。そういうときの彼は、同じ歳なのに、ずっと大人びて感じられた。
冒険者という仕事が、彼には向いてるんだろうなあと、紅子は思う。
中学校で最初のクラスで、出席番号が同じで、隣の席だった、亜人の男の子。
あんまり喋らなくて、勉強が少し苦手そうで、でも体育の授業では目立っていて、足がとても速かった。午後の授業中には片手で頬杖をついて、よくウトウトしていた。
薄い色の髪が、午後の日差しの中で透き通って見えた。ふんわりした髪の中から、幼いとき飼っていた猫と同じ柄の耳が、ぴょこんと突き出していた。
眠りながらでもその耳だけは、先生が使うチョークの音や、生徒がシャープペンを動かす音に、忙しく反応していた。でも当の本人は気持ち良さそうに寝ていたのが微笑ましく、その横顔をよく盗み見していた。
女子の友人たちには「いやあれ盗み見ってレベルじゃない。ガン見じゃん」とキツく突っ込まれたものだが、紅子にとってはひそやかな初恋の思い出だ。
二年になって、クラスが端と端に離れるという悲劇はあったが、たまに廊下で見かけると、嬉しくて声をかけた。「おはよう」とか「さよなら」とか、他愛も無い挨拶しか出来なかったが、シオンも紅子をちゃんと憶えてくれていて、返事をしてくれた。
ささやか過ぎる恋の思い出が、彼と再び出会って、また急に色鮮やかになったようだ。何だかこのごろ、毎日がとても楽しかった。冒険者になれるのか不安になりながら待つ日々も、彼にメールや電話をする口実になった。
でもこうして認可が下りてみると、実際楽しかったのは遠足の準備であって、遠足ではなかったことに気がついた。
もちろん、目的があるので、冒険者になれたことは嬉しいのだが。
「うー……」
うつ伏せになって枕に顔を埋めると、紅子は足をバタバタさせた。
言えない。
一緒にパーティー組んでほしいなんて、絶対言えない。
彼と一緒に冒険できたらいいのにな、と何度も思ったが、紅子はまだ駆け出しにすらなっていない。
かたや、シオンは紅子が出来ないような仕事を任されるほどの冒険者だ。
さすがに、自分からパーティーを組んでくださいとは頼めない。断られるのも辛いが、それ以前に、親切な彼を困らせてしまうだろう。
しかし、ソーサラーの戦闘力は、パーティーにいてこそ、その力を発揮する。というか、パーティーがいないと力を発揮できないのだ。
探索だけなら良いが、やはりそうは行かない。ダンジョンにはモンスターとの遭遇が付きものである。
冒険者協会のホームページで調べたところ、ソーサラーが戦闘中の怪我もしくは死亡した状況の第一位は、詠唱中だとあった。魔法は便利だが、それに伴う集中力と詠唱時間は、大き過ぎる弱点である。完全な無防備になるその時間、自分を守ってくれる仲間が必要だ。
だから、紅子はすぐにパーティーを見つけるつもりだった。
見つけなければ、ダンジョンに行けない。
そのために、冒険者になったのだから。
けれど、一緒に冒険する人って、どんな人がいいんだろう?
たとえ小野原くんじゃなくても、レベルの高い経験者は初心者の紅子となんて組んでくれないだろう。
初心者同士でパーティーを組んで、コツコツやるしかない。
どんな人がいるんだろう。
小野原くんみたいに優しい人も、いるのかな。
だからって、自分の目的のためだけに、パーティーを組むなんて、きっとダメだ。人のお仕事も手伝わなきゃ。でも、学校があるから、週末しか冒険できない。あまりのんびりも出来ないが、学校も辞めたくはなかった。
考えれば考えるほど、不安になってくる。
でも、がんばらなきゃ。
自分には目的があるのだから。
たまらない不安に陥りそうになるとき、紅子はそう自分を叱咤してきた。
そのとき、紅子の意識は、ふっと遠ざかる。
同時に、恐怖も不安も薄らぐ。安堵して、紅子はますます意識を手放す。
辛いことを、怖いことを忘れる。それは、とても心地好かった。
紅子は横たわったまま、虚ろな目を彷徨わせている。
手に握り締めた携帯電話のことも、そのディスプレイに浮かぶ好きな少年からの言葉も、彼のことも、すべてが遠くなっていく。シオンのことも、一緒に暮らす人たちのことも、友達も、学校も、思い出も、恋も、死んだ父と母と兄のことも――。
なんだか、波がやってきて、引いていくのに似ている。波は、砂浜ごとすべて飲み込み、奪い去ってしまう。痛みも、不安も、恐怖も。けれど、嫌なことと一緒に、他の大切なことまで全部、浚っていってしまう。だめ。声にならない。けれど、もう抗えない。だめ、だめ……。
怖いことと一緒に、何も無くなってしまった。そうしたら、また怖くなる。空っぽになっていく自分が。
早く、何かで埋めなくては。
大事な何かで。
魂が、生を渇望して、叫ぶのだ。必要だ。生きていくのに、それが必要だと。
生きていく理由が欲しい。それがないと、魂はいともたやすく器から解き放たれてしまう。
肉体とは、器だ。
魂は、命そのものだ。
器だけでは、生きられない。
魂だけでも、生きられない。
(そうだ、紅子。思い出せるかい?)
思い出す?
そう、思い出した。
大事なこと。
私には願いがある。
それを叶えたい。
魂が求める。
生きる意味を。
あった。
(紅子、お前も、浅羽の魔道士だ)
(浅羽の魔道士なら、必ず求めるものを、探しなさい)
生の意味を与えられた魂が、たちまち輝きを持つ。
器が満ちていくことに歓喜する。
強い願いに、紅子の肉体も心も、いっぱいになる。
(それは、迷宮で待っているよ)
(お前を、お前だけを、待っているから)
誰?
ああ、そうだ。
私はそれが知りたいの。
(そう。だから)
だから、ダンジョンに行かなくちゃ。
(迷宮の奥で、彼らが待っているから)
そして、手に入れなければ。
(彼らから奪って、手に入れなさい)
心地好く響くその声は、全身をかけめぐる血液のように、頭のてっぺんから手足の先までも、身体という魂の器の隅々にまで広がり、染み渡る。
その心地好さに抗えず、魂ごとゆだねる。ただ受け入れ、まどろむ。
何度も反芻する。
そう。私には、それが必要だ。そうすれば。
(そうすれば、とっても楽になるよ)
懐かしい声。言葉。ううん。これは、言葉ではない。詠唱だ。
なにも怖くなくなる、魔法の呪文だ。
(そう。探しておいで、紅子)
(怖くなったら、いつでもこの魔法を思い出すといい)
(強く、なにも怖くなくなる、この魔法を)
器のすみずみにまで巣食う魔力の糸は、紅子の魂を少しも傷付けない。むしろとても楽なのだ。糸は繭になって、紅子の魂を守ってくれるから。身体だけが引っ張られるけど、心の痛みは捨てても良いのだ。心は閉ざしても、この糸があれば立ち上がれるから。紅子はただ人形のように、動けばよいのだから。
紅子はいつの間にか、ベッドの上で胎児のように丸まっていた。
その小さな唇が、淡く動く。
「うん……こっこは、だいじょうぶ……だから、まっててね……おにいちゃん……」
布団に埋もれた携帯電話に、シオンから新しくメールが来ていた。しかし、それに気付くこともなく、さきほどの叔母のようにブツブツと、呪文のように独り言を繰り返していた。
ポーン、と電子音が鳴る。
そのたびに、紅子は緊張した面持ちで、窓口を見た。
「まだだよ」
とシオンは声をかけた。紅子が、えへへ、と笑う。
「うう、ドキドキするなぁ」
今日は土曜日で、学校は休みらしい。
紅子はセーラー服ではなく、シオンが初めて見る私服姿だった。胸にロゴの入ったシンプルな白いTシャツに、フリルの付いたショートパンツを履いているので、近くに並んでいる中年の冒険者が思いきり生足を見ているが、当の本人は気にしていない。
黒いロングヘアーは、今日はアップにしていて、これもさっきから別のワーキャットの男が、剥き出しの白いうなじをじっと見ていた。この男の汗臭い空間の中で、若い女の匂いが芳しいという気持ちは、悲しいかな同じワーキャットとして分からなくもないのだが、シオンはとりあえず睨んでおいた。
シオンはいつも窓口に来るときと変わらない、Tシャツにジーンズ姿だ。近所をうろつくときはそれこそスウェットやハーフパンツなのが、せめてジーンズなのが彼なりのよそいきの格好である。
紅子は胸に手を当て、すーはーと深呼吸をしている。
「この前より緊張するよー……」
「書類提出して、必要なものを登録するだけだよ。もう認定はされてるんだから。浅羽、必要なもの、持ったか?」
肩にかけた大きなトートバッグを、紅子がばんと叩いた。
「う、うん! 送られてきた封筒と、書類は全部書いたし、身分証でしょ、叔父さんのサインも印鑑も貰ったし、お医者さんの診断書と……えっと、カード用の顔写真はここで撮ってもらえるんだよね?」
「ああ」
「私、写真苦手なんだよ……撮り直しとか、してくれないよね?」
「してくれない」
「うう……半目になっちゃうかも」
「目をつぶったときは、撮り直してくれるって聞いたことある」
「半目はダメかな……あ、そうだ。小野原くんのカードって、どんなの? 見てもいい?」
「いいけど」
ウェストポーチから、シオンは自分の冒険者カードを取り出した。改めてみるとボロい、と思った。擦れまくっている。
「わ、年季が入ってるね」
「そんなバカな……一年に一回、誕生日に更新だから、去年の九月には新しくなってるはずなんだけどな。まあ、持ち歩いてるから仕方無いか」
財布も携帯電話も家の鍵も冒険者カードも全部まとめて突っ込んでしまう、シオンの悪い癖だ。
「小野原くん、いいな……。ちゃんと撮れてる」
「オレ、写真っていつも同じ顔になるんだよ。正面向いてて真顔だって、よく家族に笑われてた」
「証明写真的には、アリだよ……いいなぁ……」
「そんなに苦手なのか」
はあ、と紅子が溜息をつく。
「これ、毎年誕生日に更新なんだ。年に一回って、けっこうマメにするんだね」
「ああ。じゃないと、一年の間に連絡取れなくなる奴、多いから」
「あ、そっか。更新に来ないってことは……」
そこまで言って、紅子はごくりと喉を鳴らした。
言わなくていいことを言ったかな、とシオンは思ったが、いや、これから彼女もこの世界に入るのだ。変に隠し立てすることもない。
「……まあ、死んでる可能性が高いってことだな」
「うう……冒険者になれるのは嬉しいけど、やっぱり死ぬのは怖いね……」
それはそうだ。自分だって怖い。
安心させるように、シオンは小さく笑った。
「まあ、最初はそれなりの仕事を選んでやってみたらいい」
「う、うん……小野原くんにそう言ってもらったら、心強いね」
と言いながら、手にしたシオンのカードをまじまじと見る。
「レベル11かぁ……すごいなあ。この前より一つレベル上がったんだね」
「ああ、いや。いつの間にか上がってたみたいだな」
「九月がお誕生日なんだね。小野原くんは、乙女座だねー」
紅子はひそかにカードに書かれた日付を頭の中にインプットした。
「いや、それは知らないけど……それにオレの誕生日は、オレが拾われた日だから、ちょっと合ってないぞ。拾ったときでも、産まれたてくらいだったらしい。だから、せいぜい数日の違いだろうから、拾った日を誕生日にしたんだって、父さんは言ってたけど」
シオンの親もその群れも人間の味を覚えた獣墜ちとして討伐され、シオンの誕生日を知るものはいない。
「父さんの子供になった日を、新しく誕生日にしたんだって、言ってたな」
「小野原くんのお父さんって、すごく優しそう」
「ああ」
微笑む紅子に、シオンは素直に頷いた。
「そういや、星座は合ってるはずって言ってた気がする」
「あ、そうだね。小野原くんの誕生日、乙女座の終わりかけだから、数日違いくらいだったらそうだね」
「ふーん。そうなんだ。父さんもなんか、毎朝観てたな、朝のニュースの星占いみたいなの」
「あっ、私も毎日観てるよ。にこにこモーニングの星占いだよね! なんか観てから学校行かないと、落ち着かないんだよね」
「ああ、たしか、父さんもそれ観てたと思う」
「面白いんだよね、あれ。今日のラッキーアイテムが土瓶だったりするの。そう言われても、持ち歩けないよね」
「……テキトーなんじゃないか」
「ちなみに今日の私のラッキーアイテムは、ゴムぞうりだったんだけど、さすがに履けないよね」
「そりゃそうだろ……」
紅子の足許は、普通のスニーカーである。
「んー、でも、最初、小野原くんは獅子座っぽいかなと思ってたんだけど」
と紅子はシオンの顔……というより多分、耳を見ながら、言った。
それはまさかネコ科のイメージじゃないだろうな……、とシオンは内心思ったが、口にはしなかった。
「でも、言われてみたら、乙女座ぽいね。真面目な乙女座だね」
「はあ……そうかな」
返答に困って、シオンはとりあえず頷いた。
「男の子って占いの話好きじゃないよね」
「さあ……」
「私は獅子座なんだよー」
「え?」
「えっ、て何?」
「いや……それって、オレと浅羽が似てるってことか?」
これだけの人間と亜人がいて、星座によって性格が違うということ自体、シオンには嘘くさく感じるが、あえて星座占いに基づくなら同じ星座は似た者同士になるはずだ。
むうと紅子は顎に手を当て、顔をしかめた。
「言われてみればそうだね……。なんで獅子座っぽいと思ったのかな?」
それは多分、ネコ科だからだ。言わないが。
「でも、同じ獅子座でも、男子と女子でちょっと違うんだよ」
「あ、そう……」
紅子は話しやすいし、明るい彼女といるのは飽きない。が、初めて疲れる話題だった。
しかし、紅子の興味がふたたびカードに戻ったので、ほっとした。
「このカード、薄いのにすごく硬いんだね。あ、裏がすごく綺麗」
カードの裏面を見て、言う。
表は白がベースだが、裏面は電気の光に反射して、虹色の光沢を放っている。
「そこに、魔紋が登録されてんだよ」
「へえ」
カードの大きさに合わせた記憶用魔石を1ミリ以下の薄さでカットし、その上から、透き通ったシールが貼られている。
魔紋は人間と亜人なら誰しもが持っている。魔力保有量は関係無い。人間でいう指紋と同じで、誰一人として同じものを持つことは無い。オーラと呼ぶ者もおり、目に見えるものでは無いが、魔紋鑑定機を使い、その情報を記憶用魔石に保存することが出来る。
冒険者は登録の際、この魔紋を提出することが義務付けられている。魔紋は本人確認の証として、冒険者カードと協会に保管された登録票に記憶される。
「えと、魔紋も今日採るのかな?」
「そうだよ。写真と一緒に。すぐ終わる」
「ほんとに、大事なカードになるんだね。これが」
「ああ。失くさないようにな。失くしたら悪用される可能性があるし、すぐに紛失届と再発行手続きしなきゃいけない。それに加えて、ペナルティでしばらく活動出来なくなる」
「じゃあ、家で大事に保管しといたほうがいい?」
「まあ、別にいいけど……身分を証明出来るもんは、やっぱあったほうがいいぜ。それでなくても、ダンジョンとかうろうろしてる奴って、怪しいからな。そのための身分証だろ?」
「あ、そっか」
ふむふむと頷き、紅子はまたカードの表面を見た。
「あと、もう一つ気になったんだけど……。小野原くん、名前がカタカナだね。シオン、のとこ」
ね、と紅子が顔を上げ、首をちょこんと傾げた。
紅子はシオンの学生時代を知っているから、本名も知っている。
「あんまり深い意味は無いよ。書きやすいからってだけで」
本名は漢字で《小野原紫苑》と書くが、単に字数が多いので、昔からよくカタカナで表記していた。冒険者に登録するときもそうしたというだけだ。
「偽名はダメだけど、登録のときに名前をカタカナやひらがなにするのは、別にいいんだよ」
「そうなんだ。政治家の人みたい」
「オレは子供のころ、自分の名前がなかなか書けなくて。サクラが……オレの姉さんなんだけど、カタカナで書けばいいって言って、それからもずっとそうしてるってだけなんだけど。付けてくれた父さんには悪いけど……楽だから、つい」
父親が思い入れを持って付けてくれ、ありがたいとは思うのだが、子供時代、名前が書けず悪戦苦闘する弟を見て、桜があっさりと言った。
(親の思い入れ? そんなのいい、いい。子供にとっては書きやすいのが一番よ。字数多いし、大体男の子に花の名前を付けるってのはどうなのよ?)
それが、今日まで至っている。今の理由は、書くのが楽というだけだが。
(しかも紫苑ってなんか雑草っぽくない? しかも別名が、鬼の醜草って言うのよ。知ってた? 鬼なうえに、醜い草よ? 何考えて付けたの?)
この言葉は、余計だったと思う。優しい父はがっくりうなだれていた。
しかし思えば、この名前の誤解を招きかねない別名をうっかりシオンが知ったときに、変にかんぐって傷つかないように、という姉の配慮だったかもしれない。
父は本当にただロマンチックに、秋の花の名とだけ考えていたようだが。
(別に、鬼の醜草だって、悪い意味じゃないんだけどなぁ……。まあ、でも紫苑が書きやすいなら、カタカナでいいよ……)
ちょっと拗ねつつ、そう言ってくれた。
遠い日のことを思い出しながら、シオンはふと、最近会っていない父は元気だろうかと思った。何故だか、急激に懐かしくなった。
紅子と知り合ったからかもしれない。親しい人間が出来て、頻繁にやり取りをするようになって、人恋しさが蘇ったのだろう。不思議なものだ。独りで居るときのほうが、ひどく誰かに会いたいとは思わなかった。
桜の墓参りついでに、たまには実家に顔を出してみようかと、久々に考えた。
「そうなんだ。お姉さんは、サクラさんって言うんだね」
「ああ、前も言ったっけ。もう死んでしまったけど……元気な人だった。冒険者になってあっという間にどんどんレベル上げて。オレは二年くらいで11だけど、一年で20は過ぎてたんじゃないかな」
「えっ、すごい。そんなことってあるの?」
シオンのカードを握り締めたまま、紅子が目を丸くする。
「そのくらいすごかったんだ。こなしてくる仕事の量も質もさ。本当に、強い人だった。もちろん、例外中の例外だけど」
冒険者としての桜の話を、こうして他人に語ると、悲しくなるかと思ったら、むしろ誇らしかった。いつもモンスターのどす黒い血にまみれて帰ってきた姉は、そんな恐ろしい姿なのに美しく輝いていた。
「すごい冒険者さんだったんだね……」
紅子が、呆けたようにぽつりと言う。
「うん。ウソみたいだけどな。全然大げさじゃない。ほんとに、オレなんかとはレベルが全然違ってた。実際のレベルだけじゃなくて、技も心も比べものにならないくらい強くて。サクラのことは今でも憶えてる冒険者も、多いんじゃないかな」
「……そうなんだ。そんなに、強い人なら……」
紅子は夢見るような目で、そう呟いた。
「……出来るかも……」
「え?」
紅子の目を見て、シオンはぎくりとした。
また、あの目だ。
目の前にシオンがいるのに、少しも見ていない。瞳に映っていても、見えていない。見えていない。何か、違うものを見ている。
というか、魅せられているようだ。何かに。
でも、何に?
「……倒せるかも……あれを……」
「あれって?」
シオンが尋ねると、紅子は、口を小さく動かした。
「……ドール」
「ドール? ……って、人形?」
紅子は返事をせず、小さく唇を開いたまま、ぼうっとしている。シオンは紅子の顔を覗き込み、彼女の黒い瞳を見つめた。
こんなに近づいて見ているのに、反応しない。シオンが顔を近づけてみても、瞳が少しも動かない。そんなことが、あるのだろうか。
怪訝に思っていると、紅子は何度かまばたきをして、急にぱっと目を見開いた。
「わっ! わわわっ! 近い!」
「え?」
気がついたらシオンの顔が、自分の顔のすぐ近くにあった紅子は、かあっと頬を赤らめた。
「ええっ? ななな、なにっ? なんで小野原くんが、ものすごく近くで私の顔をっ? なんで、なんでっ?」
「え、ちょっと、浅羽」
紅子が大声を出し慌てふためき出したので、シオンも驚いて耳と尻尾がピンと立ってしまった。
「あっ、私、またなんかヘンな臭いでもっ? まさか、昨日食べたレバニラが……?」
紅子は両手で頬を覆い、泣きそうな顔をした。
「あ、いや、そうじゃない」
周囲で順番待ちしている冒険者たちも、シオンたちのほうを見ていた。
「なんだ、なんだ? 痴話ゲンカかよ?」
「あ、オレこないだも見たぞ。あの子ら。ここでキスしようとしてた」
してねえよ。と言いたいが、変に発言して、よけい目立ちたくもない。
「オイ、ここは体育館裏じゃねーぞー」
聴きたくなくても、聴力の優れた耳に周囲のざわめきが集まってくる。しかも前と違って順番待ちをしている最中なので、この場から逃げるわけにもいかない。
「あわわわ……」
そして紅子は、まだ顔を赤らめ、動揺していた。
「浅羽。ちょっと落ち着け。お前、いま、ちょっとおかしかったんだよ」
「えっ、あ、そ、そうだよね! 大きな声出してごめんなさいっ!」
紅子は顔を真っ赤にしたまま、シオンに向かって、がばっと頭を下げた。
「私ってば、急に、おかしな声上げちゃって……! じ、自意識過剰だよね……っ!」
「いや、そういう意味じゃなくて、お前、なんか、急にぼうっとしてて……」
シオンはさっきの様子が気にかかるのだが、紅子の耳には入っておらず、今度は周囲までぺこぺこ頭を下げだした。
「皆さんも、お騒がせして、すみませんでしたっ! お仕事中に、すみませんでした!」
シオンも、好奇心丸出しの周囲も、窓口で仕事の話をしている者も、受付嬢も、つい動きを止めて紅子を見た。
「おい、浅羽……」
紅子は一度顔を上げると、声を上ずらせながらも、元気な声で言った。
「あ、あのっ、今日から冒険者になる、浅羽紅子と言います! ソーサラー志望です! 今後、こちらのセンターでお世話になりたいので、これから、よろしくお願いしますっ!」
そう告げ、またぺこりと頭を下げる。
一瞬、しんと静まり返ったセンター内に、ややあって、おおー、という歓声と、周囲から拍手が起こった。
シオンはついあっけに取られ、隣でぽかんとしていたが、これから起こるだろう事態を想像して、頭を抱えたくなった。
《――番号札、十一番でお待ちの方、どうぞ》
ポーン、と電子音が響き、番号が呼ばれる。
ずらりと並んだ窓口の端のほうで、十一番という数字が光る。
「浅羽の番じゃないか?」
壁に背中を預けたまま、シオンはそう促した。
「あ、うん。十一番だね!」
紅子は番号札を握り締め、シオンを見上げると、こくこくと頷く。
「では、がんばります!」
「いや、登録するだけだから。ちゃんと認定通ってるし。……オレも行こうか?」
「ひ、一人で大丈夫だから、待っててね! あとで、ご飯食べようね!」
「ああ。待ってる」
「い、行ってきます!」
「そんなに緊張しなくても、大丈夫だから」
「はい!」
こくこくと頷き、紅子は窓口に向かって行った。
「がんばれよー、紅子ちゃん!」
紅子とすれ違った猫頭のワーキャットが、気安く声をかける。あれは、さっき紅子のうなじを見つめていた奴だとシオンは気付いた。
何も分かっていない紅子はにこっと微笑んだ。
「はい! ありがとうございます!」
返事をするな、浅羽……とシオンは内心で思ったが、他にも男たちが次々と手を振ったり声をかけている。
「なんか分からないことあったら、いつでも訊けよー」
「はい! お願いします!」
「今度は何曜日に来るの?」
「これから考えます!」
「もうパーティー組んでるの?」
「これから探します!」
彼女がセンターに初めてきたときとはうって変わって、手のひらを返したようにちやほやしだした。そのすべてに、紅子もにこにこと返している。
受付嬢を除く、いまセンターにいる者の、男女の比率、亜人と人間の比率、大人と若者の比率は、いずれも9:1から8:2というところだ。
そして、多くの亜人の男は、若い人間の女に対して、やはり苦手意識があるというか、偏見があるのだと、シオンは改めて知ってしまった。自分もそうだが、きっと若いころに刻まれたトラウマは、同性である男子より女子から与えられるほうが大きく、後々まで響く傷となって残るようだ。
それに最近は、気軽に冒険者を目指す人間の若者をけむたがる空気も、日に日に強くなっている。
そんな殺伐とした中で、自分からこの場に飛び込んできた感じの良さそうな少女への好感度は、一気に上がったらしい。しかも可愛い。多分、ここが大きい。
「紅子ちゃん、ソーサラーなんだって?」
犬頭の男が声をかける。紅子はこくりと頷き、にこやかに返す。
「はい、駆け出しですけど!」
すると今度は、垂れた兎耳の男が声をかける。
「最初は大変だけど、がんばってね~」
紅子が胸の前で、小さくガッツポーズをする。
「そうですよね、がんばります!」
窓口までの道のりが遠すぎるだろ……とシオンは呆れながら見ていたが、当の紅子はというと、にこやかに、さらっと流しているのが意外だった。
「通りまーす。通りまーす」
ぺこぺこ頭を下げながら、男たちの間をすり抜けていく。
案外しっかりしてるのかもな、と思いつつ、彼女の通ったあとには、堂々と足やら尻やらを眺めている男たちの姿が、シオンにはしっかり見えていた。特に、現役なのか? と疑いたくなるような人間の老人冒険者が、食い入るように見ていた。
こういうのは、種族も年齢も関係ないんだな、とシオンがうんざりし始め、やっぱり近くに居たほうが自分の精神のためにも良いと、歩き出そうとしたとき、アナウンスが響いた。
『――十一番の方、いらっしゃいますか?』
「あっ、います! います!」
紅子が慌てて手を上げ、呼ばれた窓口に向かう。
『ご迷惑をおかけしております。センター内はただいま、大変混雑しております』
冷静な女性の声が、マイク越しにぴしゃりと、うわつく男たちを諌めた。
『まだ番号を呼ばれていない方は、窓口に向かう方の邪魔にならないよう、道を開けて、端のほうでお待ちください』
聴き覚えのある声に、シオンが紅子の向かう窓口に目をやると、あのクールな受付嬢がシオンを見て、知的さを感じる眼鏡の奥の瞳を少し細めて見せた。その口許がかすかに微笑む。
ようやく紅子がゴールした。
「あ、あの。すみません。十一番で呼ばれた、浅羽紅子です! あの、冒険者になりたいんですけどっ……」
勢いあまってまた声が上ずっている紅子に、受付嬢が冷静な目を向ける。
あっ、と紅子が呟く。以前、自分を受け付けた女性だと、気付いたようだ。
「この前は、ありがとうございました!」
また、ぺこりと頭を下げる。そしてトートバッグをガサガサとあさり、書類一式を取り出した。
「私、今度こそ、冒険者になりに来ました! 認定、ちゃんともらえました!」
興奮のためか、声がだんだん大きくなってるぞ、浅羽……とシオンは遠くから突っ込んだ。
「はい。それは、おめでとうございます」
受付嬢はやはり事務的に答えているが、その表情は柔らかい。
緊張の面持ちの紅子の前で、淡々と書類に目を通していく。
そして顔を上げ、言った。
「ようこそ、新宿冒険者センターへ。そして、冒険者の世界へ。あなたのご活躍に、期待しております」
また温かい拍手が起こった。紅子が騒いだおかげで、今日居た者たちは彼女のことをすっかり憶えてしまった。亜人も人間も男も女も熟練者も新米も、その場にいる冒険者も受付嬢も皆、今日生まれた新人ソーサラーの少女を祝福している。紅子は感極まって、ありがとうございます、と連呼しながら、また頭を下げていた。
その光景をシオンは少し面食らって眺めていたが、こんなふうに冒険者になった奴は、きっとコイツが初めてだろう。そう思いながら、一緒に拍手した。




